2021年2月3日水曜日

【読書感想文】人々を救う選択肢 / 石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』

「山奥ニート」やってます。

石井 あらた

内容(e-honより)
#家賃0円、#リモートひきこもり、#限界集落。嫌なことはせず1万8000円(月額)で暮らす方法。「なるべく働かずに生きていく」を実現したニートがつづる5年目の記録。


 和歌山県の山奥で、廃校になった小学校の分校に住んでいるニートたちがいるそうだ。その中のひとりである著者が書いた、「山奥ニート」の生活。

 おもしろかった。
 ぼくもかつてニートだった(この呼び方は好きじゃないので「無職」を自称していたが)ので、著者の気持ちもよくわかるし、あこがれも感じる。

 朝食とも昼食ともつかない食事を終えると、ギターを弾いたり、鶏を散歩させたり、洗機を回したり、なんとなくで日中を過ごしてしまう。
 畑に行って水をやったり、家の改修工事をしたりする人もいる。別に強制ではないので、それだって単に暇つぶしにやっているだけだ。
 日が傾くと、誰かが晩ごはんを作り始める。
 当番は決まっていない。作りたい人が、全員分作る。
 全員が料理したくないという夜もある。そういうときは各自で食事をとるが、数ヶ月に一度あるかどうかだ。
 晩ごはんが完成すると、グルーブチャットで報せを送る。
 食事の時間も決まっていない。
 ゲームに夢中で、深夜になるまで部屋から出てこない人もいる。
 晩ごはんを食べにリビングに来た人は、そのまま酒を飲んだり、一緒に映画を見たり、ボードゲームで遊んだり、好きにする。
 話したくない気分の人は、自分の部屋に帰る。
 そんなだから、同じ屋根の下に住んでいながら、何日も顔を合わせないこともある。
(中略)
 見ようによってはこの上なく堕落した生活。
 でも競争相手もいなければ、管理する者もいないユートピア。

 無職時代、「山奥ニート」という道があることを知っていたら、ずいぶん救われただろう。いざとなれば山奥ニートとして生きていけばいい、とおもうことで。

 だが、じっさいに自分が山奥ニートとして生きていく道を選んだかというと、答えはたぶんノーだ。
 いろんなリスクを考えてしまうから。病気になったらどうしよう。歳をとってからも山奥ニートを続けていけるのだろうか。災害でここに住めなくなったときは。やっぱり子どもはほしいし、子どもができてもニートでいられるだろうか。
 そんなことを考えると、「いろいろ不満もあるけど定職に就いているほうが楽」とおもえるんだよね。

 まあ、これはぼく個人の話で。ぼくはサラリーマン家庭に育って、親戚も会社員と公務員だらけだったので、余計にリスクに臆病になってしまうんだとおもう。


 まあじっさい、無職とサラリーマンの両方を経験した今となっては、サラリーマンのほうが圧倒的に楽なんだよね。就職活動と慣れるまでの間はしんどいけど、慣れてしまえばぜんぜん楽。
 無収入になったらどうしようとか、ずっとこのままではいけないよなとか、周りの友人はちゃんと働いてるな、とか思い悩んでいるほうがずっとしんどい。

 著者は、山奥ニートの暮らしを「ユートピア」と書いている。著者からしたら実感なんだろう。
 でもぼくが同じ境遇になったら、「ユートピア」とは感じられないだろうな。吟遊詩人よりもそこそこの暮らしを保証されている奴隷の方がぼくにとっては楽なのだ。


 この本には、「山奥ニートをやっていたけど今はサラリーマンになった人」が出てくる。
 彼は「ダメだったらまた山奥ニートに戻ればいいや」という気持ちでサラリーマンになったら案外続けられたのだそうだ。彼の気持ちがよくわかる。
 山奥ニートにならなくてもいい。ただ、山奥ニートという選択肢を持っているだけでずいぶん楽になる。



 

 1ヶ月1万8000円。
 これさえあれば、この山奥で生きていける。
 僕らは月にこの1人1万8000円を徴収して、それを食費、光熱費、通信費、その他すべてに充てている。
 生きるだけだったら、これ以外のお金は要らない。
 実際、僕はこの徴収のときくらいしか財布を使わないから、毎回どこに置いたか忘れかけていて焦る。
 ただ現実には、この日本という国で暮らしていくには保険料や税金などかかるから、これよりはもう少し必要になる。
 でも、収入が少なければ、保険料も税金もそれほどかからない。
 僕の年収は約30万円。
 だから、所得税はかからないし、健康保険も月に1500円程度。かなり痛い出費だけど、なんとか年金も健康保険も納められてる。

 都会だと、生きていけるだけで金がかかる。最低限の家に住んで、最低限のものを食べても十万円近くかかる。月に十万円稼ぐのはけっこうたいへんだ。安定して稼げる仕事に就かなくてはならない。

 でも山奥ならもっと安く生きていける。山奥ニートたちの家賃はタダだし、ものをくれる人もいるし、料理もまとめてやっているので生きるのに必要なお金は月1万8000円。
 これぐらいなら定職についていけなくてもなんとかなる。月に二日働けば稼げる額だ。

 こういう暮らし、すごくあこがれたなあ。少なく稼いで少なく使う暮らし。
 ぼくもほんとはそうしたいんだけどな(理想を言うと少なく働いて多く稼ぎたい)。ただ親や妻からの期待や心配を考えると、「仕事するほうが楽」ってなっちゃうんだよね。常識に逆らえるほどの根性がぼくにはないからさ。



 

「山奥ニート」の暮らしに目くじらを立てる人も、世の中にはいるとおもう。
 おれたちの税金で楽しやがって、若いんだから額に汗して働け、今はよくても歳とってから苦労するぞ、って人が。

 でも、ぼくはこういう暮らし方があってもいいとおもう。

「その日」から少し経ってから、僕は福島へボランティアへ行った。
 津波が運んできた泥が詰まったドプの掃除をした。
 ボランティアの寝床を用意してくれたNPOの人に、仕事は何をしているの、と開かれた。
 僕がニートだと答えると、その人はやっぱりねと言った。しかし、馬鹿にした感じは一切なかった。
 やっばりとはどういうことか聞いたら、ボランティアに来る若い人の多くはニートやひきこもりだからだと教えてくれた。
 ニートやひきこもりの人は、大きな力を溜め込んでいる。でもそれを活かせる機会がない。でもこういう非常時では、それが何より助かる」
 そんな風に言っていた。
 確かに、毎日の仕事に追われるサラリーマンはボランティアなんてなかなか来られないだろう。
 働かないアリは、非常事態のための予備の労働力だという話がある。常にすべてのアリが全力で働いていたら、予期せぬ出来事が起きたときに、対応することができなくなる。不測の事態にいつでも対応可能な、暇なアリがいることによって、群れの生存率が上がるらしい。
 アリとヒトを一緒にしていいのかわからないけど、もしかしたらニートも群れのために必要な存在なのかもしれない。

 こんなふうに直接的に人の役に立つこともあるだろうし、そもそも山奥ニートには「いるだけで他の人を救う」という効果もあるとおもう。

 過重労働で自殺したくなったときに「山奥ニートやればいいや」とおもえれば、死なずに済むかもしれない。
「いざとなったら山奥ニート」という気持ちで起業して、大成功するかもしれない。

「この国のどこかで働けるけど働かずに楽しく生きている人がいる」とおもうだけで、生きていくのがずいぶん楽になる。

「七十歳までフルタイムで仕事をしつづけて生きていく」という狭く険しい吊り橋を渡らなくてはいけない。足を踏み外しそうでこわい。でも、ふと下を見たらネットがあって、そのネットの上で山奥ニートたちが楽しくゲームをしている。それだけで救われる。

 本当の〝一億総活躍社会〟ってこういうことだとおもうんだけどね。全員がフルタイムで働かなくちゃいけない世の中じゃなくて、正社員でも派遣社員でもパートでも専業主婦でもフリーターでもニートでもフーテンでも、自分にあった働き方をしながらそこそこ楽しく生きていける社会。


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どブラック



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2021年2月2日火曜日

反抗期は親の問題

 子育てをしていて、自分の変化に怖くなる瞬間がある。

 うちの子は七歳と二歳。
 生意気盛りではあるが、まだまだ立場は親のほうが上だ。圧倒的に。
 えらそうにするつもりはないし子どもの意見も尊重したいとはおもっているが、それでも意見が衝突すれば最後は親の意見が通ることになる。

 子どもが「おかしちょうだい」と言い、親が「ごはんの前だからダメ」と言う。不満そうにはするが、最後は必ず親の意見が通る。「みかんで我慢しなさい」ぐらいの妥協をすることはあるが、そのへんの采配は親次第だ。
 子ども側には要求を伝える権利はあるが決定権はない。教師と生徒、社長と平社員のような関係だ。

 そういう関係を続けていると、親はついつい独善的になってしまう。
 冷静に考えると「子どもの言い分もわかるな」とか「自分が前に言ったことと矛盾してたな」とおもうことでも、ついつい貫き通してしまう。
 ああ、言いすぎたな、こっちにも落ち度はあったな、と反省したりもするが先に子どものほうが「ごめんね」と謝ってくる。そうなると「うん、まあ、わかってくれたらいいんだよ」と変に鷹揚な感じを見せてしまう。60:40でこっちのほうが悪いのに「こっちにも10%ぐらいは非があった」みたいな態度をとってしまう。
 大喧嘩をしても最後は子どもが謝るし、その一分後にはケロッとして「おとうさんおんぶしてー」と甘えてくる。だからついついこっちも「おとうさんはえらい」という態度をとってしまう。

 これはよくない。
 このままだと、巷に跋扈している「えらそうなおっさん」になってしまう。

 じっさい、えらそうにするのは快感だ。子どもを叱って、子どもが謝罪をしたときは気持ちがいい。いいことをした、という気になる。
 もしかしたら麻薬を吸ったときと同じ物質が脳内に出ているかもしれない。麻薬吸ったことないからわからんけど。


 今は子どもの立場が弱いので、ぼくが不機嫌にふるまっても、理不尽な叱り方をしても、「ごめんね」と謝ってくる。
 どんなに社長が理不尽なことを言ってきても、(生命とか法律とかに触れないかぎり)最後は平社員が折れるしかないのと同じだ。

 でも、子どもが成長して自我が強くなれば、激しくぶつかることになる。
 いわゆる反抗期だ。
 反抗期なんて名前がついているので子ども側の問題のような気がするが、じつは親側の問題じゃないだろうか。「親がえらそうにしていたら、いつの間にか子どもが強くなって立ち向かってくるようになった」のが反抗期の実態じゃないのか。
 親が「子どもは自分の言うことを聞くもの」「意見が衝突しても最後は子どもが折れる」という意識のままでいるから衝突するのでは。

「会社の後輩に対してえらそうにしていたら、後輩が出世して自分よりも上の役職になってしまい、にもかかわらず昔と同じようにえらそうな口を叩いたら冷遇された」みたいな話だ。どう考えても悪いのは「状況が変わったのに昔と同じ力関係だとおもっている先輩社員」のほうだが、古くからの認識を改めることはなかなかむずかしい。


「自分の上司になったかつての後輩にえらそうな口を聞いてしまうおっちゃん」にならない方法はかんたんだ。
 はじめからえらそうにしなければいい。後輩であっても年下であっても部下であっても敬意を払った接し方をすればいい。

 だからぼくは娘を「さん」付けで呼ぶ。これは今に始まったことではなく、生まれたときから。
 娘はぼくとは別の人間だ。いつかは必ず親元を離れてゆく。人生の先輩としてアドバイスぐらいはするけど、最終的に道を選ぶのは娘でなくてはならない。子どもの人生はおれのもの、とおもってはいけない。
 だからぼくは戒めとして、娘を「さん」付けで呼ぶことを自らに課した。呼び捨てや「ちゃん」付けでは、目下の者として扱ってしまうから。

 娘への「さん」付けは今も続いている。だがそれでも、ついついえらそうにふるまってしまう。親だから子どもにあれこれ教える立場にあるのは当然だが、だからといって親のほうが子どもよりえらいわけではない。そのことをついつい忘れてしまう。

 だからときどきこうして立ち止まって自分に言い聞かせる。娘はおまえのものじゃないぞ。いつか追い抜かれる存在だぞ、と。



2021年2月1日月曜日

【読書感想文】こういうの書いとけばイヤなんでしょ / 真梨 幸子『初恋さがし』

初恋さがし

真梨 幸子

内容(e-honより)
所長も調査員も全員が女性、「ミツコ調査事務所」の目玉企画は「初恋の人、探します」。青春の甘酸っぱい記憶がつまった初めての恋のこと、調べてみたいとは思いませんか?もし、勇気がおありなら―。あなたは、「初恋」のことを、思い出すのが怖くなる!他人の不幸は甘い蜜、という思いを、心のどこかに隠しているあなたに贈る、イヤミス極地点。


「三大イヤミスの女王」なる言葉があるそうだ。女王が三人もいるのかよ、というツッコミはおいといて、湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子の三人だそうだ。
 三者とも作品を読んだことがある。沼田まほかる氏の『彼女がその名を知らない鳥たち』はたしかにおもしろかった。湊かなえ作品は『告白』はおもしろかったが、それ以降は好きになれない。真梨幸子氏の【殺人鬼フジコの衝動』は粗削りだったがふしぎな魅力があった。続編の『インタビュー・イン・セル』は理解できなかったが。

 個人的に、嫌なミステリは好きだが、「イヤミス」をうたい文句にした作品は好きではない。書きたいものを書いたら嫌な味わいになった、著者のおもうおもしろさを追及したら嫌な結末になった。そういう作品が好きなのだ。「イヤミスを書こうとして書いた」作品はつまらない。出版社が「イヤミス」として売る作品はほぼ例外なくつまらない。




『初恋さがし』も「イヤミス」をうたっているだけあって、出来はよろしくなかった。

 たしかに登場人物はほとんどがイヤな人間だ。でもすごくうすっぺらい。「自分より目立つ女がいるから嫉妬して引きずりおろす」とか「いい暮らしをしたいから金持ちを騙す」とか、とにかくわかりやすい。五十年前の少女漫画に出てくる悪役みたいな人物造形だ(五十年前の少女漫画に詳しいわけじゃないが)。

 ザ・悪人みたいな感じなんだよね。だから読んでいて怖くない。吉本新喜劇にカラフルなスーツを着たヤクザが出てくるのを見てもぜんぜん怖くないのと同じ。
「自分も一歩まちがえればこうなるかも」「いつもにこやかな隣人も一枚皮をむけばこんな人かも」みたいな薄気味悪さがない。「悪人」という記号にすぎない。

 こういうの書いとけばイヤなんでしょ、って感じがぷんぷんしたな。




 ストーリー展開は悪くなかったとおもう。
 中盤はけっこう引きこまれた。「えっ、この人が中盤で死んじゃうの?」という驚きもあった。

 しかしその期待も中盤まで。驚きの真相も意外な真犯人もなく、むしろ「えっ、こんなに期待をもたせておいてその意外性のないオチ?」と逆に驚くぐらい。

 やはり「イヤミス」をうたった本には手を出さないほうがいいな、うん。


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2021年1月29日金曜日

【読書感想文】「定番」は定番の言葉じゃなかった / 小林 信彦『現代「死語」ノート』

現代「死語」ノート
現代「死語」ノートⅡ

小林 信彦 

内容(e-honより)
「太陽族」「黄色いダイヤ」「私は嘘は申しません」「あたり前田のクラッカー」「ナウ」…。時代の姿をもっともよく映し出すのは、誰もが口にし、やがて消えて行った流行語である。「もはや戦後ではない」とされた一九五六年から二十年にわたるキイワードを紹介する、同時代観察エッセー。


 戦後の流行語の中から、使われなくなった「死語」を拾い集めて著者(昭和7年生まれ)の解説をつけたエッセイ。

 死語というのはおもしろい。生き残っている言葉よりも確実にその時代を映している。

 たとえば1961年(昭和36年)の流行語。

 <女子学生亡国論>
 早大の国文学科に暉峻康隆という教授がいた。
 マスコミにも登場するいわゆる<名物教授>だったが、この人が「私大の文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校」と発言した。
 それじたいはどうということもないが、慶大教授でテレビタレントでもある池田弥三郎という人がいて、「女子学生亡校論」をとなえ、この二つが混じって<女子学生亡国論>になったといわれる。<亡国>とは<国をほろぼす>という意味だから、現在だったら冗談ではすまされない。

 すごい。著者は「それじたいはどうということもないが」と書いている部分も相当まずい(このへんの感覚が昭和7年生まれか)。
 今こんな発言したら退職に追いこまれるかもしれない。

 しかし今では「文学部は女子学生だらけ」なんてあたりまえすぎて誰も言わない。それだけ女性が高等教育を受けることがあたりまえになったということだ。




 1986年(昭和61年)の流行語。

〈定番〉
 ファッション用語で、流行に左右されぬ、常に人気のある商品のこと。商品番号が一定していることから出た言葉で、この年、各女性誌で広まった。
 現在ではファッション以外の世界でも用いられる。だから、死語ではないのだが、発生が珍しいので触れてみた。

 えっ。
「定番」ってそんなに最近の言葉だったの。驚いた。
 もっとも言葉としてはもっと古くからあったのかもしれないが、流行語として選ばれるぐらいだから1986年以前はあまり使われなかったのだろう。

 1986年まで「定番」が一般に使われていなかったのは、それまでは「定番」がなかったからではなく、逆に「定番」があたりまえだったからだろう。
 服は長く着るのがあたりまえ。流行を追って毎年のように買い替えるなんて考えられない。すべてが定番。だからあえて「定番」を使う必要がなかった。
 ところがバブル期(1986年といえばちょうどバブルがはじまった頃だ)から、ファッションは消耗品になった。だから「流行り物」ではないという意味の「定番」という言葉が生まれた。携帯電話が生まれたことで「固定電話」という言葉が生まれたように。

 こういうところにもバブルの片鱗が見てとれる。




 言葉には時代の空気が濃厚に反映されている。

 昭和三十年代は流行語も景気がいい。明るく楽しい言葉が多い。
 だが高度経済成長期ぐらいから暗い言葉が増えはじめる。公害、過労死など高度経済成長のひずみが目に付くようになったのだろう。冷戦の影響も大きいはず。

  1995年(平成7年)の流行語(死語)。

〈ジャパン・パッシング〉
 経済的に強い日本を叩く、いわゆる〈ジャパン・バッシング〉の時代は終り、安全神話の崩れた無力な日本を諸外国は黙殺しようとしている、とテレビで多くの評論家が語った。
 日本を〈パスする〉――これが〈ジャパン・パッシング〉だと言われたが……。

 bashing(非難)ではなくpassingね。「無視」みたいなニュアンスだろうね。
 バブル期に日本は叩かれていたが、今おもうと叩かれていたうちがハナ。すっかり歯牙にもかけられない国になってしまった。




 流行語・死語の移りかわりを見ていると、流行の担い手がだんだん若くなっているように感じる。戦後の流行語は大人の言葉が多い。政治経済用語だったり、小説や映画のフレーズだったり。
 次第に子ども向けテレビ番組や中高生発信の流行語が増えてくる。大人たちが文化の先導者でなくなってゆく。

 くだらない流行語が増えてゆくのだが、あながち悪いこととも言いきれない。社会が抱える深刻な問題が小さくなったからこそ、テレビやアニメの言葉の重みが相対的に増したのだろう。
 歴代流行語大賞(ユーキャン)を見ていると、ここ最近の流行語なんてテレビ・スポーツの言葉ばかり。ほんとにバカみたいだけど、2020年はほとんどコロナ関連だったことをおもうと(2021年もたぶんそうだろう)今となっては懐かしい。またバカな言葉が流行語になる時代になってほしい。


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2021年1月28日木曜日

だらしない人


 自分でいうのもなんだが、ちゃんとしている人間だ。

 まあ部屋は汚いし、服はよれよれになっても穴が開くまで着つづけるし、風呂では適当に身体を洗ってすぐ湯船に飛びこんでしまうし、食べ物はよくこぼしてしまうし、だらしないところを挙げればきりがないんだけど、人に迷惑をかけないようにはしている。こぼしたものは拾うし。

 約束の時間に遅れるとか、人に金を借りるとか、できもしない約束をするとか、そういうことはしない。
 だらしないのは「他人に迷惑をかけない範囲で」だけだ。家族にはちょっと迷惑をかけるけど。

 これはもう性分だ。
 だらしない人がだらしなくするのが楽であるように、きっちりするほうが楽なのだ。心労が少なくて。

「遅くとも約束の時刻の五分前には着くように」とおもって出発するから、たいてい十五分くらい前に着いてしまう。
 たいていカードで支払いをするのに「何かあったときのため」とおもって財布には常に二万円は入っている。残金が一万円を切るとすごく不安になる。
「急に結婚祝いが必要になったときのために」とおもって新札の一万円札を常に数枚置いている。いらないのに。なぜなら結婚祝いを急に渡さなきゃいけないような状況はまずこないから。


 一方、世の中にはすごくだらしない人がいる。

「給料日前だから金がないんですよ。今月使いすぎちゃって」とか
「ごちそうさま。あっ、お金ないや。貸してもらっていいですか。この後ATMでおろして返すんで」とか言える人。
 すごい。ごはんを食べた後でお金がないことに気づけるなんて。それ、ぼくもお金をギリギリしか持ってなかったらどうするつもりだったんだ。

 あるいは、十五分も遅刻してきてるのに「ごめんごめん」と言っただけで泰然としてる人。ぼくだったら土下座するぐらい謝る局面なのに。

 ちょっとうらやましい。

 ひとつには、だらしない人のほうが楽しく生きているように見えること。余計な心配とか抱えていなさそうに見える。

 もうひとつは、そういう人ってたいていみんなから愛されるキャラクターであること。
 まあこれはあたりまえの話で「もうあいつはしょうがねえな」って許せるキャラクターだからこそ、だらしない行為を続けられるのだ。
 だらしないから愛されるのか、愛されるからだらしなくなるのかわからないが、とにかくだらしない人は憎めない。

「不愛想で、時間にルーズな人」とか「他人の欠点をねちねちと責めてきて、方々から借金してる人」とかいないでしょ。
 いや、いるんだろうけど、そういう人からはみんな離れてゆくから目につかない。

 だから、ぼくらの身の周りにいる〝だらしない人〟は、たいてい気のいい人だ。
 時間に遅れても、持ち合わせがなくても、「もう、しょうがねえなあ」で許されちゃう人。愛嬌のある人。
 うらやましい。


 ぼくのように愛嬌のない人間は、なるべく周囲に迷惑をかけないようにきっちりと生きるしかないのだ。