2020年9月10日木曜日

【読書感想文】人間っぽいキキ / 角野 栄子『魔女の宅急便』

魔女の宅急便

角野 栄子

内容(e-honより)
お母さんは魔女、お父さんは普通の人、そのあいだに生まれた一人娘のキキ。魔女の世界には、13歳になるとひとり立ちをする決まりがありました。満月の夜、黒猫のジジを相棒にほうきで空に飛びたったキキは、不安と期待に胸ふくらませ、コリコという海辺の町で「魔女の宅急便」屋さんを開きます。落ち込んだり励まされたりしながら、町にとけこみ、健やかに成長していく少女の様子を描いた不朽の名作、待望の文庫化!

みんなご存じ『魔女の宅急便』、の原作本。

もう映画のほうが何度も観た(いつも金曜ロードショーだが)ので、どうしても映画版と比較してしまう。

「あっ、ここは映画といっしょ」「ここは映画にはないエピソードだな」と。
ほんとは逆なんだけど。


毎晩寝る前に子どもに図書館で借りた本を読みきかせているので、年間三百冊ほどの児童書を読む。
それを数年続けているので、ここ数年に読んだ児童書は千冊を超える。

中には、大人が読んでもけっこうおもしろい作品もある。まったくおもしろくない作品もある(そういう本はたいてい子どももつまらなそうに聴いている)。

多作で、しかもぼくが読んでもおもしろい作品を書くのは、斉藤洋氏、そして角野栄子氏だ。

両氏の作品は、ファンタジー要素と現実感がバランスよく配合され、キャラクターが活き活きと描かれ、メリハリのあるストーリーが展開され、そこはかとないユーモアが漂っている。

角野栄子作品にははずれがない。
ぼくが子どものころから読んでいたおばけのアッチコッチソッチシリーズ、シップ船長シリーズ、アイウエ動物園シリーズなど、みんなおもしろい。

『魔女の宅急便』も……もちろんおもしろかった。



映画との違いを書く(『魔女の宅急便』原作小説は全六巻あるが、ぼくが読んだのは一巻だけなので一巻との違い)。

映画よりもファンタジー強め

映画は、魔女が空を飛べること、ジジがしゃべること以外はだいたい現実に即していた。
小説版は、もっと奇想天外な話が多い。
序盤こそ「おしゃぶりを届ける」「鳥かごとぬいぐるみを届ける」という映画でおなじみのエピソードだが、中盤からは「船がつける腹巻きを届ける」「新年を知らせる鐘の音を届ける」「春を知らせる音楽を届ける」など、運ぶものが意外なものに変わってくる(音そのものを運ぶわけじゃないけど)。

このあたりのエピソードはほんとにおもしろい。こっちこそが「魔女の宅急便ならでは」という感じがする。おしゃぶりとかぬいぐるみはべつに魔女じゃなくていいもんね。

キキが人間っぽい

映画のキキはものすごくいい子だ。
というより、いい子であろうとしている。

多少感情の浮き沈みはあるものの、誰にも嫌われないように、誰にも迷惑をかけまいと必死に耐えている。
オソノさんにもトンボにも絵描きのおねえさんにも全力では甘えられない。
キキが素直に感情を吐露できる相手はジジだけ。そのジジですら、後半はコミュニケーションできなくなってしまう。

観ていてたいへん息苦しい。

小説版のキキはもっと人間っぽい(魔女だけど)。嫌みも言うし、嫌なやつにはいじわるをしたりもする。
かえって安心する。

映画は教科書的だった

映画後半で描かれていた、ニシンのパイを届ける、ジジの言葉が理解できなくなる、宙づりになったトンボをキキが助ける、などのエピソードは原作小説(の一巻)にまったく出てこない。

とんぼ(小説版ではひらがな表記)はキキの友人ではあるものの、出番は二回ほど。あまりかかわりはない(続刊ではキキと結婚するらしいが)。

小説版を読んだ上で映画版について思いかえしてみると、あれはずいぶん教科書的なストーリーだったな、とおもう。

善意や努力が報われないことを学ぶ、それによって自信を失って魔法が使えなくなる、「必要とされる」ことを通して再び魔法が使えるようになる……。

はっきりと因果関係があり、わかりやすく成長が描かれる。

教科書の題材にするにはいいけど、はっきりいってつまらない。物語はもっと理不尽でいい。


高校の現代文の教科書に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が載っていた。
授業で、国語教師があれこれ解説してくれた。

カムパネルラはこのとき死んでいるのです、カムパネルラだけ切符を持っていないのは死んでいるからです、このシーンも死への暗示です……。

それを聞いてぼくはおもった。

つまんね。

いや、解釈するのはいい。解釈は自由だ。

だが「これが唯一の正解です。これ以外の解釈は間違いです」といった感じで解説されたことで、あの幻想的な物語が台無しになったような気がした。

べつにいいじゃん。銀河鉄道の旅とカンパネルラの死はなんの関係もなくたってさ。


小説版『魔女の宅急便』は、映画版よりももっともっと自由に解釈ができる。

わかりやすい意図も因果関係もない。
出来事のひとつひとつにいちいち意味があるわけじゃない。

ただ出来事があるだけ。
ただキキが飛ぶだけ。
ただ運ぶだけ。

それが楽しい。
童心にかえって楽しめた。

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2020年9月9日水曜日

【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』

京大変人講座

常識を飛び越えると、何かが見えてくる

酒井 敏 ほか

内容(e-honより)
常識を飛び越えると、何かが見えてくる。京大の「常識」は世間の「非常識」。まじめに考えると、人間も生物も地球も、どこかおかしい。だから、楽しい。

こんなタイトルだが、「変人」が出てくるわけではない。

「変でもいい」「普通とちがうからこそいいこともある」といったテーマで、様々な分野の研究者が知見を披露している本だ。


以前、大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本を読んだ。
これも、大阪大学のいろんな分野の研究者がワンテーマについて語るという本だが、正直いっておもしろくなかった。

なぜなら、ほとんどの研究者が「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」というお題から早々に逃げ、むりやりドーナツにからめて得意分野に逃げこんでいただから。


だが『京大変人講座』のほうはどの項もおもしろかった。
たぶんお題が「変でもいい」というゆる~いテーマだったからだろう。

だから
「人間が今生きているのは我々の祖先が“酸素があっても生きられる”という(当時としては)変な生き物だったからだ」
「不便なことには不便であるがゆえの価値がある」
といった、それぞれの得意分野を思う存分語れる。

どの人の話もおもしろい。



山内裕氏によるサービス経営学の話より。

 実は、サービスにおいて、提供者側が客を満足させようとすると、かえって客は満足しなくなるというパラドクス(逆説)が起こります。「満足させよう」とするサービス側の気持ちが透けてみえてしまうと、客は満足しないのです。同じように、相手を笑わせよう、信頼させようとすればするほど、客の気持ちは逆の方向へ向かってしまいます。
 これを「弁証法」と呼びます。
 もし鮨屋のおやじが、お客さんに笑顔で接し、喜ばせようとし、心を配って、満足させようとがんばったら、むしろ、提供者である鮨屋のおやじは客から「この人は私を喜ばせようとする意図を持っている」と受け止められます。
 そこに生まれるのは、上下関係です
 提供者は従属する側――要するに立場が弱くなってしまいます。さらにいえば、自分に従属する人からのサービスは、価値が低く感じられてしまうものです。
 提供者側が満足させようとサービスすると、その満足はお客にとって意味がなくなってしまう。これは、サービスにおいて必ず発生する問題です。
 その点、鮨屋のおやじは、職人として「自分のために仕事をしているんだ。客のことなんか関係ねえよ」という姿勢を貫くからこそ、客がその価値をありがたく認める図式ができあがっているのです。
 さて、カジュアルなレストランやファストフード店であっても、お客を拒否するサービスを展開していることはすでに述べたとおりですが、一方で、サービスが高級になればなるほど、闘いの局面が増していくという現実もあります。
 なぜなら、高級になればなるほど、いわゆる「サービス」と呼ばれるものが提供されなくなっていくからです。減っていくのは「笑顔」であったり、「情報」であったり、「迅速さ」であったりします。
 意外な感じがしますね?
 もちろん、高級なサービスにまったく笑顔がないわけではありません。しかし、プロフェッショナルであるほど表情はキリリと引き締まり、むやみやたらと笑顔を向けたりはしない傾向があります。頼りがいや信頼感は高まる一方、親しみやすさという要素は確実に減っていきます。 また、情報量も確実に減ります。カジュアルなレストランのメニューには、「季節のおすすめ」の紹介があったり、「定番!」というアピールがあったり、料理の解説や写真が添えられていて、にぎやかです。
 一方、高級なフレンチレストランで出てくるメニューには、料理名が並んでいるだけで、解説も何もありません。選択肢もそれほどない。とにかく情報量が少ないのです。

たしかになあ。
言われてみれば、高級店のほうがサービスが簡素であることが多い(高級なサービスを利用したことはあんまりないけど)。
ファミレスとかスーパーとかコンビニのほうが過剰に笑顔やあいさつを振りまく。

そしてたぶん、「ここの店員は礼儀がなっとらん!」みたいな説教をする客が多いのも、安い店のほう。

「高い店のほうがより多くのサービスを求められる」とおもってしまいがちだけど、じつは逆なのだ。


そういや仕事をしていても、こっちが下手に出たらとことんつけあがって無理難題をふっかけられるとか、もう断られてもいいやとおもって強気に出たら案外それが通ったりすることとかある。

色恋沙汰でも同じかもしれない。
こっちからぐいぐい「重いもの持ってあげるよ」「車で送ってあげるよ」「なんかほしいものない?」みたいな男より、「べつにどっちでもいいけど」みたいな男のほうがモテたりする(顔面の美醜はおいといて)。

『ハッピーマニア』シゲタカヨコも「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」って言ってたけど、仕事も恋愛も尽くしすぎたらダメなんだな。



川上浩司氏のシステム工学の話もおもしろかった。

便利すぎるものはかえって不便、という禅問答のような話。
川上さんは、あえて不便なものをつくり、不便さの便利を見いだそうとしているそうだ。

*カスれるナビ
 正確で詳細な情報をリアルタイムで表示してくれるカーナビ。これは便利すぎるのではないかということで、不便さをとり入れてみたのが「カスれるナビ」。
 このナビは、通った道がしだいにかすれていきます。道を間違って戻ろうとしても、ちょっと消えているのです。何度か同じところを通るとかすれがどんどんひどくなり、三度も通るとその周辺はほぼ真っ白で見えなくなります。

 この「カスれるナビ」で実験をしてみました。あるグループにはカスれるナビを渡し、別のグループにはカスれない普通のナビを渡して、一人ずつ町歩きをしてもらったのです。戻ってきたら、実際に通った場所の写真と、通っていない場所の写真を見せて、本当にあった景色なら○、そうでないなら×と答えてもらいました。
 すると、カスれるナビを手にして町歩きをしたグループのほうが、有意に正しく解答したという結果になりました。私の仮説ですが、「いつも手元に正しい情報がある」という状況があるとき、人は深層心理で「この情報を頭に入れる必要はない」と判断するのではないでしょうか。

更科 功『絶滅の人類史』によれば、人類の脳は昔よりも小さくなっているのだそうだ。

一説によれば、文字が発明されたことで外部に記録できるようになり、大きな脳を必要としなくなったからだとか。

それが事実だとすると、今後はもっともっと脳が縮んでいくだろう。

スマホがあれば計算もしなくていい、スケジュールもスマホで管理するからおぼえる必要なし、地図もおぼえなくたってスマホで地図検索、わからないことはすぐにスマホで調べられる、漢字も書けなくていい、外国語も自動翻訳。
便利だが、脳はどんどん必要なくなる。

これからは、ちょっと不便なサービスが流行るかもしれないな。



ぼくもはるか昔に京大に通っていたが、その頃に比べると京大の校風であった「自由」は失われているように感じる。

といっても中にいるわけではないので、タテ看規制とか寮の建て替えの件とかのニュースを見るかぎり。

ぼくが学生の頃は校舎内にバーがあったり、地下教室に学生が集って酒盛りをしたり、一夜にして謎の建造物ができていたり、無法地帯なところがあって、大学側も半ばそれを黙認していた。

「単位はやるから授業は出なくていい」と公言する教授がいたり、入学式で「授業に出ていい成績をとるのは二流。一流は授業なんか出ない」と煽ってくる教授がいたりと、「ふつうから外れてるほうがえらい」みたいな気風があった(ごく一部だけどね)。


でも国全体の方針として大学にも「カネになる研究をする」「学生を使いやすい会社員にする」ことが求められるようになり、漏れ聞こえてくる話では京大もその例外ではないらしい。

京大も含め、日本の大学の競争力はどんどん低下している。
「選択と集中」は明らかに失敗だった。
「当たり馬券だけを買えばいいじゃん」というやりかたは通用しないのだ。


だから「変でもいい」「役に立たなくてもいい」「ふつうはやらないことをやる」という、この姿勢は大事だ。

『京大変人講座』は今後もシリーズとして刊行されていくらしい(すでに二冊目が出版されている)。
ぜひとも長く続けて、京大の「変」を取り戻してほしい。

「そんなもん研究しても社会に出たら役に立たん」と言うやつには、
「社会に出たら役に立たんから大学で研究するんじゃないか!」と言い返してやってほしい。

ま、大学時代は労働法というおもいっきり実学を専攻していたぼくが言うのもなんですけど……。

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2020年9月8日火曜日

【読書感想文】失って光り輝く人 / こだま『いまだ、おしまいの地』


いまだ、おしまいの地

こだま

内容(e-honより)
集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……“おしまいの地"で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまの日々の生活と共に切り取ったエッセイ集。

こだまさんの第二エッセイ集。

前作『ここは、おしまいの地』は達観や悟りのようなものが随所に感じられた。
どんな逆境におかれても、立ち向かうでもなく、くじけるでもなく、ただ黙って受け入れてゆく。苦境に置かれた自分を、他人事のように笑い飛ばしてしまう。

そんな柳のような強さを感じたものだ。


ところが、今作『いまだ、おしまいの地』を読んで心配になった。
〝おしまいの地〟での不遇な生活をどこか他人事のように楽しんでいたような乾いたユーモアが今作ではあまり感じられない。

まるで必死に「自分は大丈夫」と自らに言い聞かせているようだ。
その姿は、達観とはほど遠い。


仏教には「執着(しゅうじゃく)」という言葉がある。
物事にとらわれ、心がそこから離れられない状態。執着はすべての苦しみの原因とされる。
『ここは、おしまいの地』では執着から解き放たれているかのように見えるこだまさんが、『いまだ、おしまいの地』では執着にふりまわされている。

小説やエッセイが評価されて他者から期待されるようになったことで、一度は手放した執着をまた取り戻したのかもしれない。


なんだかずいぶん思い詰めているようあ……。
大丈夫か、このままだとどこかで破綻するんじゃないか、この人近いうちに失踪するんじゃないか……。

と心配しながら読んでいたのだが、2020年に入って世間がコロナ禍で騒ぎだしたあたりのエッセイから急におもしろくなった。
活き活きとしているのが伝わってくる。

そうか、この人はいろんなものを手にして期待をかけられているときより、失ったときにこそ光り輝く人なのだ。
自粛期間でいろんなものを失ったことで、かえって強くなったのかもしれない。

どうか今後も失ったものを笑いとばしてほしい、と無責任におもう。

こだまさんの失踪記も読んでみたいけどな……。
(あと諸々の事情でむずかしいのかもしれないけど、けんちゃんの話をまとめて読みたい)



やはり印象的なのは、詐欺に遭った顛末。

SNSで知り合ったメルヘン氏(仮名)にだましとられた数十万円を取り戻すべく、メルヘン氏の実家に乗りこむシーン。

 メルヘンは、しばらく前に母親と喧嘩して家を出て行ったきりだという。母親は私とそれほど歳が変わらないように見えたが、父親は高齢だった。ふたりとも状況を理解するのに精一杯で、心が追いついていなかった。「両親は他界した」という息子の一文をどんな思いで読んだのだろう。 
 正直に言うと、両親に会う直前まではどこかわくわくしていた。詐欺師の実家に押し掛けるなんて一生に一度の経験だから。 
 だけど、これはドラマでも探偵ごっこなんかでもない。チェーンの隙間から戸惑う母親の顔が見えた瞬間、冷水を浴びせられたように目が覚めた。私の薄っぺらい「善意」が人を刺している現場を目の当たりにした。私がメルヘンを突き放していれば、ここまで被害額は膨らまず、両親を悲しませずに済んだのだ。自分が損して終わるだけならよかった。シェパードの散歩みたいに「阿呆だなあ」と笑えるラインは、とっくに越えてしまっていたのだ。

大金をだましとられた被害者なのに、加害者やその家族の心境をおもいやり、自らの行動を責める。

まちがいなく善人の行動なんだけど、たいへん残念なことにこの世は善人が生きやすいようにはできていない。


少し前に、こんな光景を見た。

雨に打たれているホームレスのおっちゃんに傘をさしかけてあげる子。

おじさんもさしかけられた傘に気づいて
「えっ、あっ、ありがとう。でもええよ。大丈夫やから。やさしいな」
と驚いていた。

なんて心優しい子なんだろう。
道徳的には大正解だ。

でも。
世渡り的には不正解だ。たぶん。

もし自分の娘が同じことをやっていたら
「君がやったことはすばらしい。その優しい心はずっと持ちつづけてほしい。でもそれはそれとして、知らないおじさんに近づいて万が一あぶない目にあったらいけないから、今後はやめてほしい。あのおじさんを救うのは政治や行政の仕事だから」
と言ってしまうとおもう。

我ながら小ずるいオトナだなあとおもうけど。


小ずるい人間のほうがうまくやっていけて、ホームレスや詐欺の加害者に心から同情してしまう優しい人のほうが生きづらい。

まったく嫌な世の中だ。
そんな世の中にしている原因の一端はぼくのようなオトナにあるんだけど。


しかし詐欺をやる人って、ちゃんとだまされやすい人を選んでるんだなあ。
かんたんにだまされてくれる人、だまされたと気づいても「自分にも落ち度はあった」と感じてくれる人を狙ってるんだな。

「詐欺をするようなやつは家族親戚もろとも地獄の底まで追いかけてケツの毛までむしってやる」と考えてるぼくのような人間のところには来てくれないんだもん。

さすがはプロの仕事だ、と変なところで感心してしまった。



なつかしい、ネット大喜利のこと。

 対戦者を募集している人がいたので適当にハンドルネームをつけて入室してみた。すると、さっそく一問目のお題が表示される。「ボケ」の投稿まで数日あった。空っぽだった頭の中に突如降りてきた大喜利のお題。その瞬間から、夕飯の買い出しに行くときも、味噌汁の出汁を漉しているときも、バスタブを洗っているときも、眠りに就く前の布団の中でも大喜利のことばかり考えるようになった。生活自体は何も変わらないのに脳内がめまぐるしく動き、満たされていた。
 制限時間ぎりぎりまで考え、指先を震わせながら投稿。あとは、どちらが面白いか他の参加者が投票する仕組みだ。結果が出るまで落ち着かなかった。何かを楽しみにそわそわ待つなんて、いつ以来だろう。もう結果が出たか。まだか。数分おきにサイトを覗いた。
 私は初めての対戦に勝っていた。「面白い」とコメントまで付いていた。実生活でそんな褒め言葉をもらったことはなかった。そうか、ネットならば、文章ならば、私も人を笑わせることができるのかもしれない。それは大きな発見だった。

 一口に大喜利といっても様々なサイトがあった。数百人が一斉に投稿して面白さの順位を競うもの、イベント形式の勝ち抜き戦、数人でボケを相談し合うチーム戦。私はすぐその世界にのめり込み、いくつもの大喜利サイトに登録して渡り歩くようになった。何年も続けるうちに自然とネット上の大喜利仲間が増えていった。

ぼくも同時期にネット大喜利にはまっていた。
こだまさんがブログで開催した大喜利に参加したこともある。
こだまさんが、ぼくが主催した大喜利イベントに参加してくれたこともある。

当時ぼくは大喜利を「趣味」だとおもっていたが、今にしておもうと「逃避場所」だった。

就活がうまくいかず、やっと就職したものの一ヶ月でやめ、実家で一年引きこもり、フリーターになって先の見えない暮らしをしていた。
ぼくがネット大喜利にはまっていたのはそういう時期だった。

夜遅くまでチャットをしたり、肌身離さずメモ帳を持ち歩いて大喜利の回答を考えたり、夢の中で回答をおもいついたときは飛び起きてメモをとったり(翌朝見るとぜんぜんおもしろくないんだこれが)、ときには大喜利のことで他の人と喧嘩をしたりもした。

人生の関心事の八割ぐらいを一円にもならないネット大喜利に捧げていたのだから、今おもうと狂っている。

でも当時は自分が異常だとはおもわなかった。なぜなら、同じように大喜利ばかりやっている人が他にもたくさんいたから。
もしかしたらあの人たちも狂っていたのかもしれない(まっとうな生活を送りながらたしなんでいた人もいっぱいいたとおもうが)。

こだまさんの追想を読んで、ああネット大喜利に居場所を求めていたのはぼくだけじゃなかったんだとちょっと安心した。


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2020年9月7日月曜日

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』

サル学の現在

立花 隆

内容(e-honより)
立花隆が霊長類学の権威たちと徹底的に対話し、それを立花流にわかりやすく構成している。立花隆にかかると政治から先端技術、生物学までこれほど面白く感じられるのはなぜなのだろうか。

文庫版の刊行が1996年なのでぜんぜん「現在」ではないのだが。

立花隆氏がサルの研究者たちから(当時の)最先端の知見を聞きだした本。

専門の研究者にとっては古い内容なんだろうけど、サルの専門家でないぼくにとっては新鮮でおもしろい。

たとえば
「ニホンザルは群れを作り、ボスザルを頂点としたヒエラルキーがある。厳然たる順位があり、ボスから順番に食べ物を食べていく」
なんて話を聞いたことがあるけど、あれは動物園のサル山のような人工的につくりだした群れだけで起きる現象なんだそうだ。
自然界のサルはもっとゆるやかなつながりで生きているんだとか。

なるほどねえ。そういうところもヒトと似てるね。
ふだん我々は友人やご近所さんとの間には「どちらが上」とか順位をつけずに暮らしている。
ところが会社とか学校とか軍隊とかの閉鎖的な環境では、すぐに順位をつけたがる。

もしかしたらヒトやサルにかぎらず、閉鎖的な環境に置いたらほとんどの哺乳類が順位をつけるのかもしれない。


研究内容には古さを感じないが、立花隆氏が堂々と女性研究者へセクハラ質問をしているとこには時代を感じる。

女性研究者に「フィールドワークをしているときトイレどうしてんの?」とか「サルの交尾を観察してたら妙な気持ちになってこない?」とか訊いてんの。
男性研究者には訊いてないんだから完全にセクハラだよね。
子育てしながらフィールドワークしている女性を「お転婆」と称したり。
時代だなあ。



「サル学」とひとくくりにしているが、紹介されている研究者のアプローチは様々だ。
野外に出てサルを観察している研究者だけでなく、サルの脳を調べたり、化石を調べたり、分子化学の面からサルとヒトの違いをさぐったり。

サルはおもしろい。

やっぱり他の動物とはちがう。
人間ではないが人間に近い。だからおもしろい。
赤ちゃんの行動が見ていて飽きないのにも似ている。


サルを研究することは、ヒトを知るためのとっかかりになる。

ヒトについて調べたい。できることならいろんな実験をしたい。
効果不明の薬を飲ませたり、脳に電極をつっこんだり、どんな影響が及ぶかわからない手術を施したりしたい。

でも人道的な理由でそれはできない。


サルの研究者には、純粋にサルに興味がある「サル屋」と、ヒトについて知りたくてそのためにサルを研究している「ヒト屋」がいるのだそうだ。

しかし、結局サルとヒトは同じではない。
『サル学の現在』を読んで、「サルをいくら研究しても永遠にヒトのことはわからないな」とおもった。

たしかにサルとヒトには似た部分もあるけど、それだけだ。
探せばヒトとゴキブリの間にも共通点はいくつも見つかるけど、ゴキブリをいくら研究してもヒトのことはわからない。
サルも同じだ。
サルはサル。ヒトはヒト。



「男と女の間の友情は成立するか」というのはよく語られるテーマだが、意外にもニホンザルの世界ではオスとメスの友情が成立しているらしい。

 ニホンザルには交尾期と非交尾期があって、その生活は全く違う。交尾期は、地方によってかなり違うが、おおむね、一〇月から四月くらいまでである。
 交尾期のあいだは、オスはメスの尻を追いかけて暮らす。しかし、交尾期をすぎるとオスもメスもたちまち性的関心を失い、性的活動は全く見られなくなる。非交尾期のあいだは、オスはオス、メスはメスの世界に閉じこもっているものとかつては考えられていた。しかしそのあいだに、特定のオスとメスのあいだに親和的関係がうまれ、しかも、その親和的関係にあるオスとメスは、次の交尾期にセックスを避けるという現象が発見されたのである。特定のオスとメスのあいだに、なぜそのような関係がうまれるのか、またなぜ彼らはセックスを避けるのか。

交尾期以外でも特定のオスとメスが仲良くする、しかもそのオスメスは交尾期になっても交尾を避ける。

友情成立してんじゃん……!

えらいなあ、ニホンザルは。
ヒトのオスよりよっぽど抑制きいてるね。

まあ特定のパートナーを持たずに乱交的な関係を築いているからこそ逆に「あえてこいつとはセックスを避けよう」という選択ができるのかもしれないけど。



ぼくも動物園にいるとサル山の前に三十分以上いるぐらいだから、サルを観察するおもしろさはよくわかる。

しぐさが人間的なので(というか人間がサル的なのかもしれないが)どうしても情念たっぷりのストーリーを感じてしまうんだよね。

それは研究者でも同じらしい。
たとえばこんな描写。
(「ミノ63」は63年生まれのミノという名前の個体、「ミノ63・69」はミノ63が69年に生んだ子、「ミノ63・69・74」はその子で74年生まれ)

「ミノの家系というのは、何というか気性の激しい血筋なんですね。七五年に、ミノが娘のミノ63に順位を逆転された話をしましたね。そのときすぐ、それに続いてミノ63とその娘、つまりミノの孫娘のミノ63・69との争いが始まりましてね、噛み合ったまま崖をころがり落ちていったんです。それはちょうど、ぼくが嵐山に入って研究を始めたばかりのときのことで、こんなこともあるのかと、びっくり仰天しました。
 そのとき、一時的には、孫娘が勝ったんですよ。しかし、それも三〇分間くらいでしたかね、形勢が逆転して、結局孫娘は腕を噛み裂かれて敗北しました。しかし、それから二年後に、ミノ63・69が母親のミノ63にリターンマッチを挑み、ついに噛み倒して池の中に落として溺死させてしまうんですよ。ミノ63・69の娘のミノ63・69・74が今のメスガシラですね。こういう栄枯盛衰の流れをたどっていくと、もうまるで平家物語ですよ」

ものすごくドラマチック。
でもこれはサルだから「まるで平家物語」と感じるわけで、クワガタムシだったらここまでのドラマ性を感じないよね、きっと。




ゴリラの音声コミュニケーションについて。
――そういう音声によるコミュニケーションが、いろいろあるんですか。
「ありますよ。たとえばウファファファーン』と馬のいななきに似た声は、<クエスチョン・バーク>といって、″お前に聞きたいことがある。″″お前は何をやってるんだ″を意味します。これをやってみると、必ず相手はこちらをふり向きます。それから、<チャックル・ヴォーカリゼーション>といって、″ボコボコボコ″とあぶくがわいてくるような音は、遊びたいときの誘いの声ですね。ぼくは一○種類ぐらいまねができますよ」
――そういう音声は、人間がまねをしても通じるんですか。
「完全に通じます。かなり発音がへたでも通じます。お前の発音はひどいなという顔でこちらを見ますが、通じることは通じます。これはゴリラのすごいところですね。ニホンザルの音声コミュニケーションもいろいろ知られていますが、いくらじょうずにまねしても、サルはめったに返事してくれません」
なんと。

ゴリラ同士が音声でコミュニケーションをとるだけでなく、ヒトが発した音声をゴリラが理解してくれるのだ。

ヒトとゴリラで会話できるんだ……。

人間の中には「おまえは何をやってるんだ」と訊いてんのに「何をやろうが私の勝手でしょう」みたいなずれた返事をする人もいるから、もしかしたら一部の人間よりゴリラのほうがよっぽど正確に意思疎通できるのかもしれない。



サルの行動を見ていても飽きないように、サルの話もすごくおもしろい。
読んでいて飽きない。

ただ、インタビューである立花氏自身がサルに肩入れしすぎているように見える。

―― ニホンザルにも、ケンカの仲裁行動がありますよね。
「あれは、ボスザルあるいは優位のサルが劣位のサルのケンカを止めるんですね。劣位のサルが優位のサルのケンカを止めに入るということは、絶対ありません。劣位のサルでも、ケンカしているどちらかに加勢するということはある。だいたい強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける。チンパンジーになると、単純に強弱を見るだけでなく、自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする。いずれにしても、自分の利益のために行動している。ケンカを止めること、それ自体を目的として、劣位の者が仲裁行動を起こすというのは、ゴリラ以外ありません」
―― これは、ずいぶん人間的な行動ですね。他のサルは自分の利害と無関係なところで起きているケンカは放っておくのに、ゴリラは自分と直接関係がなくても、身を挺して社会の平和を守ろうとする。かなり高級な精神作用ですね。

必要以上に「人間性」を感じている。この姿勢は好きじゃない。

文学ならこれでいいけど、サイエンスで「身を挺して社会の平和を守ろうとする」とか「高級な精神作用」なんて言っちゃダメだ。

勝手に人間の価値観をゴリラに押しつけちゃいかんよ。
ゴリラにはゴリラの計算があるんだろうから。


だいたい人間なんて、ニホンザルみたいに「強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける」タイプや、チンパンジーみたいに「自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする」タイプがほとんどで、「身を挺して社会の平和を守ろうとする」ような人間はほとんどいないじゃん。

だからゴリラの行動はぜんぜん人間的じゃないよ。人間はそんなにえらくないもん。



あと読んでいて気になったのは、どうも立花氏は「ヒトは生物の進化の頂点」と思いこんでいるフシがあるんだよなあ。

「ヒトこそが生物の理想形で、サルはヒトへのなりそこない」
「サルはどうやったらヒトに近づくか」
みたいな意識がインタビューの節々から感じられる。


はっきり言って古い。考え方が。

ヒトはサルの頂点ではなく単なる一種族だ。

他のサルが進化してヒトになったわけではない。
現生人類は(今のところ)進化の頂点だけど、チンパンジーだって進化の頂点だし、ナメクジだって進化の頂点にいる。

生物として見たとき、ヒトは他の動物より優れているわけではない。
肉体的にはサルの中でも弱いほうだし、脳の大きさでもネアンデルタール人に負けている。

ヒトはたまたま今の地球環境では繁栄できているだけで、強いわけでも優れているわけでもない。

……ってのが今の常識なんだけど、立花氏は「適者生存」を理解していないんじゃないか。

だから必要以上にサルに「人間性」を感じて持ちあげてしまうんだろう。


生物が繁栄するために必要なのは、強いことでも賢いことでもなく、環境に適していること。

立花氏だって偉大な業績を残した人だけど、それは時代や環境にうまく適応できていたからで、あと数十年生まれてくるのがおそかったらセクハラで表舞台から消えていたかもしれないしね。


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2020年9月4日金曜日

【読書感想文】めずらしく成功した夢のコラボ / 森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』

四畳半タイムマシンブルース

森見 登美彦 (著)  上田 誠 (企画・原案)

内容(e-honより)
炎熱地獄と化した真夏の京都で、学生アパートに唯一のエアコンが動かなくなった。妖怪のごとき悪友・小津が昨夜リモコンを水没させたのだ。残りの夏をどうやって過ごせというのか?「私」がひそかに想いを寄せるクールビューティ・明石さんと対策を協議しているとき、なんともモッサリした風貌の男子学生が現れた。なんと彼は25年後の未来からタイムマシンに乗ってやってきたという。そのとき「私」に天才的なひらめきが訪れた。このタイムマシンで昨日に戻って、壊れる前のリモコンを持ってくればいい!小津たちが昨日の世界を勝手気ままに改変するのを目の当たりにした「私」は、世界消滅の危機を予感する。『四畳半神話大系』と『サマータイムマシン・ブルース』が悪魔合体?小説家と劇作家の熱いコラボレーションが実現!

おもしろ!

森見登美彦の小説『四畳半神話大系』も映画『サマータイムマシン・ブルース』も大好きな作品だ。
どちらも伏線回収が見事で、見終わった直後にまた見返したくなる作品だ(じっさいどちらも二回ずつ見た)。

そんな二作品が夢のコラボ!

奇しくもぼくは数年前、『四畳半神話大系』の感想文で『サマータイムマシーン・ブルース』について書いている。

「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマータイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

ちゃあんとこの二作品の共通点に気づいていたのだ。
えらいぞぼく! いよっ先見の明!


だがこのコラボ作品の存在を知り、おもしろそうと期待すると同時に一抹の不安もおぼえた。

世の中にある「夢のコラボ」はたいていおもしろくないからだ。
両方が遠慮してどっちつかずの無難な内容になったり、片方の持ち味が損なわれてしまったり。へたすると両方の持ち味が失われて「もうこれ誰も得してないじゃん……」になったり。

そんなわけでおそるおそる読んでみた『四畳半タイムマシンブルース』だが、ぼくのつまらぬ心配は杞憂だった。
ちゃんとおもしろい。

両方の良さがちゃんと発揮されている。



オリジナルである舞台版は観たことがないので知らないが、映画『サマータイムマシン・ブルース』はまちがいなくおもしろい作品だ。だが、欠点がある。

それは「前半がとにかくつまらない」ということだ。

大学生の退屈な生活がだらだらと描かれる。
何も起こらない。みんな覇気がない。
伝わってくるのは夏のけだるい空気だけ。観ているこちらまでぐんにゃりしてくる。
おまけにわけのわからないことがちょこちょこ起こる。大きな事件というほどではないのだが、ちっちゃな不可解が積みあげられていくのでもやもやだけが残る。

だがこれは「必要不可欠な伏線」だ。
ただ退屈だった前半が、タイムマシンの登場によって一気に様変わりするところは大きなカタルシスを与えてくれる。
あのつまらないシーンもあのくだらない会話もあの理解不能な行動もぜんぶこういう意味があったのか! と、世界が一変する。

『カメラを止めるな!』に近いものがある。
伏線がつまらないからこそ回収段階がスカッとするんだけど、でも世の中には伏線段階すらおもしろい作品もあるからなあ。


しかし『四畳半タイムマシンブルース』では、その「前半がとにかくつまらない」が解消されている……ようにぼくにはおもえた。
まあこれは『四畳半神話大系』を読んで、「私」、明石さん、小津、樋口師匠、城ヶ崎氏、羽貫さん、相島……といった面々のキャラクターを知っているからでもある。
おなじみのメンバーがどたばたとやっているので「必要不可欠なつまらない前半」もそこまで退屈なものではない。

だからこの小説を読む前に、できたら『四畳半神話大系』だけでも読んでおいたほうがいい。そっちのほうがだんぜん楽しめるはず。

映画版だと、登場人物のキャラクターや関係性が所見でわかりにくかったので、おなじみのメンバーが動き回っているのは助かる。

キャラクターは『四畳半』だが、物語は『サマータイムマシン・ブルース』のストーリーを忠実になぞっている。

つくづくおもうのは「いい脚本だなあ」ということ。
ほんとによくできている。
タイムトラベルというむずかしいテーマを扱いながらも矛盾がない。それでいてやっていることは「クーラーのリモコンを過去や未来に運んでるだけ」なので、ばかばかしさとのギャップがおもしろい。

映画版だとそのストーリーの良さをじっくり味わうひまがなかったんだけど、小説だとじっくり噛みしめることができた。
舞台版は観たことないけど、もしかしたら小説や漫画のほうがマッチしているストーリーなのかもしれない。



ストーリーはちゃんと『サマータイムマシン・ブルース』でありながら、ところどころに『四畳半』をにおわせてくれるファンサービスがあるのもうれしい。あ

「それは君がまだ自分の可能性を試していないからなんだよね。もしもうちの大学へ入学することになったら、新歓の時期に時計台下へ行ってみるといい。そこではありとあらゆるサークルが新入生を迎えようとして待ってますから。無限の未来への扉が開かれている。学生時代を有意義に過ごしたいならサークルに入りなさい。傍観者みたいに外から眺めていたって未来は切り拓けない」
「でも僕、とくに興味のあるサークルなんてないんですけど」
「興味なくてもいいから入りなさい」
 相島氏は眼鏡を光らせてビシャリと言った。
「さもないと君は不毛きわまる四年間を過ごすことになる。たとえばこんな四畳半アパートの一室にひとりで籠もっているとしよう。こんなところにどんな可能性がある? ここには恋も冒険もない。なーんにもない。昨日は今日と同じで、今日は明日と同じ。まるで味のしないハンペンのような毎日ですよ。それで生きていると言えますか?」

下鴨幽水荘がかつて沼だったとか、後付けにしてはよくできたエピソード。

あと『サマータイムマシン・ブルース』では失恋を予感させるオチになっていたのに対し、『四畳半タイムマシンブルースは恋愛成就を予感させる(というかほぼ断定している)のも、個人的には好き。

こういうばかばかしいお話にはとってつけでもいいからハッピーエンドあったほうが収まりがいいとおもうんだよね。

オリジナルの「たぶん無理だけどまだあきらめんぞ!」という印象のラストの台詞も好きだけどね。


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