2020年6月8日月曜日

【読書感想文】抜け出せない貧困生活 / ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した

潜入・最低賃金労働の現場

ジェームズ・ブラッドワース(著)  濱野大道(訳)

内容(e-honより)
英国で“最底辺”の労働にジャーナリストが自ら就き、体験を赤裸々に報告。働いたのはアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーのタクシー。私たちの何気ないワンクリックに翻弄される無力な労働者たちの現場から見えてきたのは、マルクスやオーウェルが予言した資本主義、管理社会の極地である。グローバル企業による「ギグ・エコノミー」という名の搾取、移民労働者への現地人の不満、持つ者と持たざる者との一層の格差拡大は、我が国でもすでに始まっている現実だ。
以前、吉野 太喜『平成の通信簿』を読んで(→感想)、
「日本ってほんと没落したんだなあ」
と感じた。
実感もあったし、データを見ても平均的な日本人の暮らしが貧しくなっている数字ばかり。
かつては世界ナンバー2の経済規模にまで昇りつめただけに、その凋落っぷりを情けなく感じた。

だが世界の覇権的ポジションから没落した国は日本だけでない。
ローマだって中国だってモンゴルだってポルトガルだって、かつては世界一といっていいほど栄華を極めた国だった(中国はまたトップに返り咲きそうではあるけど)。
しかしおごれる平家は久しからず。どこも栄枯盛衰をくりかえしてゆく。アメリカだって百年後も今のポジションに踏みとどまっていられるかあやしいものだ。

そんな没落国家の中でも、いちばん日本のお手本になりそうなのがイギリスだ。
20世紀半ばまでは世界トップクラスの大国でありながら、1960年代以降は相次ぐ経済政策の失敗により「英国病」「ヨーロッパの病人」などさんざんな扱いを受けた。
サッチャー以降、国全体の経済は少しマシになったが、失業者の増加、移民の増加、EU加盟そして離脱、それらによる国民間の分断など、人々の暮らしは以前より悪くなったかもしれない。

ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』にこんな記述があった。
 一方、米国の政治学者のゲイリー・フリーマンは、『The  Forum』に発表した論考「Immigration, Diversity,  and  Welfare  Chauvinism(移民、多様性、そして福祉排他主義)」の中で、「政府から生活保護を受けることに対して、白人労働者階級は〝福祉排他主義〟と呼ばれる現象に陥りやすい」と指摘している。「福祉排他主義」とは、一定のグループだけが国から福祉を受ける資格を与えられるべきだ、という考え方だ。顕著に見られるのは、「移民や外国人は排除されるべき」というスタンスだが、同様に、ある一定の社会的グループ(無職者や生活保護受給者)にターゲットが向けられる場合もある。
 こうした排他主義は、本来であれば福祉によって最も恩恵を受けるはずの層の人々が、なぜか再分配の政策を支持しないという皮肉な傾向に繋がってしまうという。「恩恵を受ける資格のない人々まで受けるから、再分配はよくない」という考え方である。
 本来は彼らの不満は再分配を求める声になって然るべきなのに、それが排外主義や生活保護バッシングなどに逸脱してしまい、自分たちを最も助けるはずの政策を支持しなくなる。白人の割合が高い労働者階級のコミュニティほど、この傾向が強いという。
伝統的なイギリス人(白人)たちが、自分たちの生活が悪くなったのは〇〇のせいだ(〇〇には移民や生活保護受給者が入る)とバッシングをおこない、富の再分配につながる政策を支持しない。本来ならその政策によって自分たちも恩恵を受けられるのに。
「自分が100円得しても移民が200円得するような政策はいやだ!」というわけだ。
かくして貧富の差はどんどん拡大し、労働者階級の暮らしはますます悪くなってゆく。

……まるで日本と同じだ。
リベラル派を目の敵にし、生活保護受給者やワーキングプアを非難し、消費税増税、高額所得税の減税、法人税優遇を掲げる政党を支持する。
それを金持ちがやるならわかる。金持ち優遇政策をとってくれたほうが得するもの。
ところが、決して裕福とはいえない層までもがすっとするために自分より貧しいものを叩く。
それが自分自身の首を絞めていることに気づかない。

どこの国も同じなんだなあ。
だからこそ、イギリスの姿から日本は学ぶことが多いはず。



著者は、ライターという素性を隠しながら(ときに明かしながら)、Amazonの倉庫、ホームレス、訪問介護の派遣会社、コールセンター、Uberのドライバーなどで働きながら貧困層の暮らしを体験してゆく。

少し前に日本でも横田増生氏というジャーナリストがユニクロで1年働いてその潜入ルポを発表して話題になった。
時期としては『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』よりも横田増生氏のユニクロ潜入ルポ発表のほうが早いので、もしかしたらジェームズ・ブラッドワース氏は横田増生氏のルポを知って真似たのかもしれない(そのあたりの記述はこの本にはなし)。

いわゆるワーキングプア(または失業者)の暮らしを身をもって味わい、厳しい状況に置かれた人々の声をありのまま記し、ときにデータも示しながら、その生活を描く。
たぶん、そこそこ裕福をしている人はまったく知らない、知ろうともしない生活だ。

Amazon潜入の章より。
 私たちピッカーには、通常の意味でのマネージャーはいなかった。あるいは、生身の人間のマネージャーはいないと表現したほうが妥当かもしれない。代わりに従業員は、自宅監禁の罪を言い渡された犯罪者のごとく、すべての動きを追跡できるハンドヘルド端末の携帯を義務づけられた。そして、十数人の従業員ごとにひとりいるライン・マネージャーが倉庫内のどこかにあるデスクに坐り、コンピューターの画面にさまざまな指示を打ち込んだ。これらの指示の多くはスピードアップをうながすもので、私たちが携帯する端末にリアルタイムで送られてきた――「いますぐビッカー・デスクに来てください」「ここ1時間のペースが落ちています。スピードアップしてください」。それぞれのピッカーは、商品を棚から集めてトートに入れる速さによって、最上位から最下位までランク付けされた。働きはじめた1週目、私は自分のピッキングの速さが下位10%に属していることを告げられた。それを知ったエージェントの担当者は、「スピードアップしなきゃダメです!」と私に忠告した。近い将来、人間がこの種のデバイスに24時間つながれるようになったとしても、なんら驚くことではない。
 クレアのある友人は、9カ月の契約期間の終わりに近づくにつれ、ブルーバッジ獲得への期待を膨らませていった。そのために、彼は身を粉にして働いた。本から台所用品まで、何十万もの商品をアマゾンの顧客のために棚から取り出した。ピッキングの目標基準をつねに上まわり、いつも時間どおりに出勤した。そしてなにより重要なことに、仕事のほぼすべての側面を支配する無数の細かいルールをなんとか破らずに切り抜けた。にもかかわらず、この勇ましい新たな経済――病は許しがたい罪だとみなされるダーウィン的弱肉強食の世界――は、唾を吐き捨てるように彼を解雇した。彼が犯した罪は、生意気にも風邪を引くということだった。彼はトランスラインの規則にしたがい、始業の1時間前に会社に電話し、マネージャーに風邪を引いたことを知らせた。しかし、そんなことにはなんの意味もなく、彼は派遣会社にクビを言い渡されたのだった。
 まさに非人道的な扱いだ。
人を人とも思わない、という言葉がしっくりくる。
Amazonのイギリス倉庫で働く労働者の多くは東欧からの移民などだという。過酷すぎる労働環境のせいでイギリス人はすぐにやめてしまうからだ。

これを読んで「Amazonはひどい会社だ!」と腹を立てるのはかんたんだ。
だが真の問題は、Amazonの労働環境が悪いことそのものより、それでもAmazonで働かざるをえない人たちがたくさんいるということだ。

他にいい仕事がたくさんあれば、誰もこんな労働環境で働かない。
Amazonだって首に縄をつけて労働者を集めてきているわけではない。みんな、自分の意志でAmazonに入り、自分の意志で働きつづけることを選んでいるのだ。

前にも書いたが、技術の発展によって「誰にでもできるかんたんな仕事」は減ってきている。

誰にでもできる仕事

そうはいっても誰もが「特別な知識や技能を要する仕事」ができるわけではない。
なのに今でも働かないと食っていけない。
働かなきゃいけない、働く意欲もある、なのに仕事がない。
だからどんなブラック企業でもやめるわけにはいかない。

Amazon一社の問題ではなく、もっと大きな問題だ。



「ブラック企業」という言葉がすっかり定着した。
昨今は「ブラック企業大賞」なんて不名誉な賞もある。
ブラック企業として名高い企業も多い。

しかし問題はその有名なブラック企業が、なんだかんだいってうまいこと商売を続けているということだ。うまいこといっているからこそ目立って批判されるのだ(つぶれたブラック企業はブラック企業大賞に選ばれない)。
アパレルU社も広告代理店D社もコンビニS社も儲かってる。入社希望者がまったくいなくなったという話も聞かない。
なんだかんだ言いながらブラック企業を利用する客も跡を絶たない(ぼくも利用する)。

結局、過酷な労働環境はその企業だけを批判してもなくならないのだ。
誰だって、自社の従業員をいじめたいわけではない(たぶん)。そっちのほうが得だから労働環境を厳しくするのだ。

だからブラック企業をなくすためには、システムで防ぐしかない。
法律や行政によって「ブラック企業だと損をする仕組み」をつくるしかない。
個人や企業の仕事ではなく、政治の仕事だ。

……なんだけど。
 同僚たちの多くは、政治に対してほぼなんの興味も示さなかった。「政府は税金を上げるのが大好きだ。いろいろと支出があるから仕方ないことさ」と、ある同僚が1週目に言った。「ぼくは政治の議論には参加しない。そんなの意味ないだろ?」とのちに彼は肩をすくめて言った。政治はほかの人々のためのものであり、私たちのような人間が属していない領域で起きていることだった。別の同僚は、現在のイギリスの首相は「あの国会議員の女の人だっけ?」と訊いてきた。国の政治に大きな関心を示せば、その人物は変わり者だと思われたにちがいない。政治とはこちらがただ受け取るべきものであり、実際に興味をもつべき対象ではなかった。政治的な決定はほかの人々が下すのが当然だと考えられ、彼らによって決められたあらゆる物事とともに同僚たちは議論をそのまま受け容れた。“彼ら”とは、政治家、税務署員、大家、6時のニュースの原稿を読み上げるアナウンサー、携帯電話の料金を請求してくる会社、地方議会や自警団の集まりに決まって姿を現わす時代遅れのお節介な人々のことを意味した。政治家とは、自らの利益だけを考える人々だった。もしそうではない政治家がいたとすれば、それは何かより不吉なものの兆候であり、狂信者の印だととらえられた。仕事を楽しいものにしようとするアドミラルの並々ならぬ努力は、会社を、“彼ら”の仲間ではなく“私たち”の仲間として描こうとする試みだった。
そうなんだよね。
いちばん政治によって救われるはずの人たちが、いちばん政治に無関心なんだよね。
いちばん労働法によって守られるはずの人たちが、いちばん労働法を知らなかったり。
いちばん労働組合によって守られるはずの人たちが、いちばん労働組合を毛嫌いしていたり。

貧しい人が自分自身の首を絞めているとしかおもえないようなことをする。
これが現実。



最近、日本でもよくウーバーイーツのバッグを背負った人をよく見るようになった。

ウーバー配車サービスヤウーバーイーツのような「単発の仕事を受けて個人事業主として働く人」のことをギグワーカーと呼ぶそうだ。

ぼくは、ああいう働き方もアリだとおもっていた。
たとえば売れない役者をやっている人は、決まった時間にシフトに入るバイトをやるのはむずかしい。だから空いた時間にお手軽にできるウーバーイーツをやる。
そういう自由な働き方はすごくいいんじゃない? とおもっていた。

この本を読むまでは。
 分別のある人間であれば、このような仕事を喜んで引き受けることはないはずだ。だからこそ、ウーバーはドライバーに長時間にわたって仕事を拒否することを許そうとしないのだろう。同社はドライバーたちに、乗車リクエストの80パーセントを受け容れなければ「アカウント・ステータス」を保持することができないと通知している。ドライバーが3回連続で乗車リクエストを拒否すると、自動的にアプリが停止する場合もある。なかには、2回連続で拒否しただけでアプリから強制ログアウトされた例もあった。「あなた自身が社長」という美辞麗句とは裏腹に、強制ログアウト後10分間はアプリにログインできないという事実は処罰のように感じられた。
ウーバーは
「好きなときに好きな時間だけ働く」
「誰もが社長。個人事業主として自由な働き方を」
と、耳当たりのいい言葉で労働者を集める。

だがその実態は、必ずしも自由ではない。
好きなときに好きなだけ働けるわけではない。そんな働き方をしていたら稼げないし、ウーバーから仕事がまわってこなくなる。
ウーバーは「命じられたらいつでも働いてくれる労働者」に優先的に仕事を回す。

だから実際のところ、そこそこ稼ごうとおもっている労働者にとってウーバーから与えられた仕事を断る権利はほとんどない。
会社に雇われているのと同じだ(会社員だってときどきは仕事を断ることができる)。
会社員とちがう点といえば、仕事がないときは給料がもらえないこと、車やガソリン代や保険などの経費を自分で負担しなければならないこと、ケガや病気で休んだら収入がゼロになること。つまり悪いことばかりだ。

まあそういうリスクも承知の上で「自由」な働き方を選んで本人が損をするなら自業自得と言えなくもない。

だが、労働者が事故や病気で働けなくなったとすると、不利益を被るのは彼だけではない。
社会全体にとっても大きな損失だ。
本来なら会社が与えるべき労災補償や給与を、国家が負担しなければならなくなる。

結局、ウーバーは国の社会保障制度にフリーライド(タダ乗り)しているわけだ。

いろんな国で、ウーバーを相手取った訴訟がおこなわれている。
そのほとんどは「ウーバーで働く労働者はウーバーと雇用関係にあるか」という点が争われている。
国によっては「ウーバーのドライバーはウーバーの従業員である」という判決が出たようだが、日本ではまだほとんど事例がないようだ。

ぼくがウーバーを利用するのは最高裁の判決が出てからにしよう。



貧富の差って、単なる財産だけの問題じゃない。
いろんな文化がちがう。

そこそこ豊かな暮らしをしている人からすると、
「金がないって言うけど、だったらなんでそんな生活してるの? そんな生活してたら貧乏になるのはあたりまえじゃん」
と言いたくなることも多い。
 最近、古いテレビが動かなくなると、息子は購入選択権付きレンタル店から新しいテレビを分割払いで買った。この種のレンタル店は、クレジットスコアの悪い人々にソファー、テレビ、オーディオ機器などを驚くほど高い金利で売って儲けを得ている。2016年には40万以上の世帯が購入選択権付きレンタル店を利用し、その数は2008年に比べて1.31倍に増えた。利用者の多くは目先の誘惑に屈していま欲しい商品を(一定の保証付きで)高金利で購入し、たいていあとになって後悔するのだった。
 テレビを見る以外ほとんど何もすることのないミスター・モーガンには、「ニュースとラグビー」が必要なのだと彼の妻は語った。息子が購入したテレビは、通常の店では150ポンドほどで売られる安物だった。しかし、購入選択権付きレンタル店から分割で買ったモーガン家の総支払額は、最終的に400ポンドほどになる予定だった。
ぼくも、かつて会社の先輩社員が
「車をローンで買っている。ローンを払い終わったら車を売って、その金でまたローンを組んで新しい車を買う」
と語っているのを聞いて「なんでローン組むの?」とおもった。
「貯金してから買ったほうがいいのに。ローンの利息払うのは無駄じゃん」とおもっていた。

でもそれは、ぼくがそこそこ豊かな家で生まれ育ったからだ。
ぼくは親に大学進学のお金も出してもらったし、就職後しばらくは実家に住まわせてもらっていた(一応家にお金は入れていたけど気持ち程度の額だった)。
もしも親に「通勤に必要な車買うからお金貸して」と泣きつけば、たぶん貸してくれただろう。

そういう人間にとって、「ローンを組んで住宅以外のものを買う」「消費者金融で金を借りる」「クレジットカードで分割払いをする」なんてのは理解の外にある行動だ(ぼくはいずれも経験がない)。
金をドブに捨てているとしかおもえない。

ここに深い断絶がある。
お金がないことは理解できても、こういうところはなかなか理解しあえない。

お金で苦労したことのない人は
「お金がないなら自炊して食費を浮かせたらいい」
「コンビニで買い物をせずに安いスーパーで買い物をしたほうがいい」
「漫画喫茶に住むより安いアパートを借りたほうが安い」
「パチンコや宝くじで儲かるわけがない」
「身体をこわしたらたいへんだから調子悪ければ早めに病院に行ったほうがいい」
「収入以上のお金を使わないようにしたほうがいい」
「会社の不当行為で不利益を被ったら弁護士に相談したらいい」
とおもう。
どれも正論だ。

でも、それができない人もいる。
「教わってこなかった」「そういう習慣がない」「初期投資をするだけの経済的余裕がない」などの理由で。

貧乏の問題は金がないだけじゃない。
金がないと、時間もなくなるし自己投資をする余裕もなくなるし気持ちの余裕もなくなる。

『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』の著書は、アマゾンの倉庫で肉体的にきつい労働をした後は酒やスナック菓子がほしくてたまらなかった、と書いている。
なんとなくわかる。
強いストレスがかかると、甘いものとか脂っこいものとかアルコールとかの誘惑に抗う力がなくなるのだ。


ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』にはこんなことが書いてあった。
 ストレス状態になると、人は目先の短期的な目標と結果しか目に入らなくなってしまいますが、自制心が発揮されれば、大局的に物事を考えることができます。ですから、ストレスとうまく付き合う方法を学ぶことは、意志力を向上させるために最も重要なことのひとつなのです。
酒やタバコやスナック菓子はやめたほうがいい、ドラッグなんてもってのほか、適度な運動と野菜やフルーツの摂取で健康でいられる、経済的にも健康的にもどっちがいいかは明らかだ。
そのとおり。そのとおりなんだけど、それを実践できるのは金銭的余裕があるからなんだよなあ。


生きていくのに困るほどお金に苦労したことがない、という人こそ読んだほうがいい本。


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2020年6月5日金曜日

思春期に幼児から少年に変わる


近所の男の子、Hくん。
人なつっこい子で、よく笑いながら「今日〇〇したんだ~」と話しかけてくれていた。機嫌がいいときはぼくの背中にとび乗ってきたりもしていた。
元気がありあまっていて、いつも走りまわっていた。

そんなHくんと公園で久しぶりに会った。
彼も小学二年生。
「おお、大きくなったなー」
と声をかけたが、軽く会釈をしただけで友だちと遊んでいる。

ありゃ。
久しぶりだからぼくのことを忘れちゃったかなーとおもって見ていたら、Hくんがこけて肘をすりむいた。
ウェットティッシュを持っていたので差しだして「ばい菌入るといけないから拭いとき」と言うと、Hくんは恥ずかしそうに
「ありがとうございます」
と言った。


あ、ありがとうございます……!?

あの、Hくんが!?
あの、すれちがいざまにいきなりパンチを食らわしてきていたHくんが!?
あの、まだ三歳だったうちの娘に出会い頭にいきなり「あげる」とひよこのぬいぐるみを渡してきたHくんが!?
あの、両手いっぱいにダンゴムシを抱えていたHくんが!?

あぁ……。
彼もいつのまにか幼児から少年になったんだなあ。
立派に成長しているのは喜ばしいはずのことなんだけど、正直、さびしい。

自分の子どもは早く礼儀正しくなってほしいけど、よその子はいつまでもむじゃきなままでいてほしい。
勝手な、そして決して叶わない望みだけど。


2020年6月4日木曜日

【読書感想文】歴史の教科書を読んでいるよう / 辻井 喬『茜色の空 哲人政治家・大平正芳の生涯』

茜色の空

哲人政治家・大平正芳の生涯

辻井 喬

内容(e-honより)
スマートとはいえない風貌に「鈍牛」「アーウー」と渾名された訥弁。だが遺した言葉は「環太平洋連帯」「文化の時代」「地域の自主性」等、21世紀の日本を見通していた。青年期から、大蔵官僚として戦後日本の復興に尽くした壮年期、総理大臣の座につくも権力闘争の波に翻弄され壮絶な最期を遂げるまでを描いた長篇小説。

少し前に読んだ中島 岳志『保守と立憲』にこんな記述があった。
 懐疑主義的な人間観に依拠する保守は、常にバランス感覚を重視します。私が尊敬する保守政治家・大平正芳は「政治に満点を求めてはいけない。六十点であればよい」と述べています。大平は、自己に対する懐疑の念を強く持っていた政治家でした。自分は間違えているかも知れない。自分が見落としている論点があるかもしれない。そう考えた大平は、「満点」をとってはいけないと、自己をいさめました。
「満点」をとるということは、「正しさ」を所有することになります。また、異なる他者の意見に耳を傾けるということも忌避します。大平は、可能な限り野党の意見を聞き、そこに正当性がある場合には、自分の考えに修正を加えながら合意形成を進めていきました。これが六十点主義を重んじたリベラル保守政治家の姿でした。
ほう、そんな謙虚な政治家がいたのか、しかも総理大臣だったのか、と軽い驚きがあった。
大平正芳氏はぼくが生まれる前(1980年)に逝去しているのでぼくは彼の政治家としての姿をまったく知らない。

どんな思想を持っていたのだろう、とおもってこの『茜色の空』を手に取ったのだが……。

つ、つまらん……!

だらだらと事実が並べてあるだけ。
〇〇年に〇〇で大平は〇〇と出会った。そこで〇〇について話し合った。その後〇〇が起こった。
ずっとこんな調子。
歴史の教科書を読んでいるようでぜんぜん頭に入ってこない。
時系列順に出来事を羅列していっているだけの、ただの記録。

取捨選択ができておらず、調べたことを全部同じ調子で書いている。
ロッキード事件で田中角栄が逮捕されたことと、大平氏が小料理屋の女将とどうでもいい会話を交わしたことが同じぐらいの分量で書かれている。
司馬遼太郎の悪いところだけをコピーしたようなつまらない文体だ。

誰だこの本を書いたのは、とおもったら著者の辻井喬というのは、どうやらセゾングループ代表だった堤清二氏のペンネームらしい。
あー……。どうりで……。
えらい人だったから誰も「うわーこんな長くてクソつまらない文章よく書けましたねー。書いてて眠くなりませんでした? 逆にすごいっすねー」と言ってくれたなかったんだね。気の毒に。



これだったらWikipediaの「大平正芳」の項を読んでいるほうがずっとおもしろかった。

香川県の裕福とはほど遠い農家の子として生まれ、学生時代にキリスト教と出会って洗礼を受け、大蔵省官僚を経て、池田隼人元首相に引っ張り上げられる形で政界入り。

朴訥な風貌や、演説の合間によく「アーウー」と入るところから「讃岐の鈍牛」の異名もとったが、実際は読書家、思想家であり政界きっての切れ者であり「哲人宰相」とも呼ばれる一方、ユーモアのセンスも持ちあわせていた。また首相にまで昇りつめたものの本人は権力争いを嫌った。

とまあ、今目立っている政治家たちとは真逆のような人物であったことがわかる。
なにしろ今の政治家ときたら舌鋒鋭く政敵を非難することだけに全精力を賭けていて思想は空っぽ、みたいな人物が多いもんね。あの人とかあの人とか。

 彼は久し振りに、迷った時に自分の頭を冷やし冷静にもう一度考え直す機会を持とうと、彼流に“定点観測”と名付けている方法を思い出した。そのひとつは郷里に帰って、昔からの知人に腹蔵のない意見を聴くことである。もうひとつは政界や、万年与党であることしか考えない経済人と違って、直接利害関係のない学者のような立場の人がどう考えているかを知る方法である。
首相になりながらも、決して独善的な人間にならぬよう、はっきりと物を言ってくれる人との話に耳を傾けていた。
このエピソードだけでも、あの総理と比べてどれだけ謙虚で思慮深い人柄だったかがわかる。

しかし「立派な人物だ」と感心するとともに、「この人政治家に向いてなかったのかもしれないな」ともおもう。
大平氏も、ときに密約の存在を知りながら隠すという国民に対する裏切り行為を看過したり、組織を守るために記者が陥れられるのを黙認したり、良心に反する行動をとって葛藤するところが描かれる。
総理になるも自民党の内紛に巻きこまれて退陣。就任したタイミングのせいもあるが、今伝わるほど大きな功績は残っていない。

有権者としてはまともな人間に政治家になってほしいけど、まともな人間が政治家として成功するのはむずかしいのかもしれない(大平さんは総理にまでなってるわけだから十分成功してるけどさ)。



この本は出来事をならべているだけなので大平正芳氏の思想にはほとんど触れることができないが、その数少ない「思想が読み取れる部分」について。
「今の僕の一番奥底の目標は、どうやったら政界全体の水準を上げて、そのことで世の中に民主主義を浸透させることができるか、ということなんだ。自分の責任で判断し行動を決めることができる大衆がいてこそ民主主義はいい制度になる。あの、自由主義者で大衆嫌いの吉田さんもそのことを考えていた。池田さんもそうだった」
 と正芳は故人の思い出を手繰り寄せながら、
「そんなことは実現不可能だ、夢のような理想論だという絶望感に落ち込んでしまう場合がある。しかし、主はニヒリストになることをわれわれにお許しにならない」
何度か書いているとおもうけど、ぼくは政治家は夢想家でいてほしいともおもってるんだよね。
現実主義もいいんだけどさ。でもその先にちゃんとビジョンを見ている人であってほしい。
たとえば「経済成長」ってのは大事だけど、それは手段のひとつであって目的ではないわけじゃない。
経済成長した先にどういった未来をつくるのか、そこにたどりつくための手段は経済成長しかないのか、ということを考えられる人に政を任せたいんだよね。

思想からっぽのあの人やあの人じゃなくてさ。

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2020年6月3日水曜日

脳ストレッチ


コロナ休校中の娘の小学校。
宿題で「ラジオ体操を毎日やること」とあったので、ぼくもいっしょにやる。
ラジオ体操なんていつ以来だろう。
ぼくの通っていた高校では“緑台体操”という独自の体操があってことあるごとにその体操をさせられたので、ラジオ体操をやる機会はまったくなかった。
今にしておもうがいったいあれはなんだったんだ。体操の動き自体はラジオ体操と似ていた。だったらラジオ体操でいいじゃないかとおもうのだが、ラジオ体操を嫌いな教師でもいたのだろうか。

話がそれたが、二十数年ぶりにラジオ体操をやっておもったのは、意外ときついなということ。
第一、第二を通してやるとけっこう息が上がる。
肩を上げるのがけっこうしんどい。
首を回すとごきごき鳴る。

ふだん使わない筋肉を使っているなあ、と感じる。
日常生活で、肘を肩の上まで上げたり、胸をおもいっきり反らせたり、胴体をめいっぱいねじったりすることないもんね。

凝り固まっていた身体がほぐれていくようで気持ちがいい。



緊急事態宣言が解除されて、約二ヶ月ぶりに会社に行った。
感じたのは、脳がほぐれていくような心地よさ。

リモートワークの間は、脳の狭い部分しか使っていなかった。
同じ場所で活動し、同じ人とだけ話し、同じような仕事をする。疲れたら同じような息抜きをする。
楽な生活ではあるが、どうも思考が固まる。

ぼくはふだん息抜きでこうしておもいついたことをブログにだらだら書くのだが、緊急事態宣言中はほとんど書かなかった。何もおもいつかなかったからだ。

会社に出勤するようになり、電車に乗ったり、歩いたり、階段を昇ったり、信号が変わるのを待ったり、道をふさぐように突っ立っているおばちゃんにぶつかりそうになったり、コンビニで店員の動きの悪さにいらだったリしているうちに、またくだらないことをあれこれ考えられるようになった。

脳もあちこち使わないと凝り固まるんだね。


2020年6月2日火曜日

【読書感想文】今じゃ書けない居酒屋談義 / 奥田 英朗『延長戦に入りました』

延長戦に入りました

奥田 英朗

内容(e-honより)
ボブスレーの二番目の選手は何をしているのかと物議を醸し、ボクシングではリングサイドで熱くなる客を注視。さらに、がに股を余儀なくされる女子スケート選手の心の葛藤を慮る、デリケートかつ不条理なスポーツ無責任観戦!読んで・笑って・観戦して、三倍楽しい猛毒エッセイ三十四篇。
書かれたのは著者が作家デビューする前ということで、1990年代の話が中心。
古いんだけど、ぼくからしたら最近はスポーツをほとんど観なくなったので古い話のほうがわかりやすい

とはいえ、この四半世紀で世の中の価値観はずいぶん変わった。
この本を2020年の感覚で読むと
「これは完全にセクハラだ」
「うわあこれは国際問題になりかねない」
「これがユーモアのつもりなのか。多様性を認められない人だなあ」
みたいな表現であふれかえっている。

昔の発言を今の価値観で断罪しようとはおもわないけど、「世の中の価値観って変わっていないようでけっこう変わってるんだなあ」と感じる。
昔は「冗談と言えば許されたこと」が今では「冗談でも言っちゃいけないこと」になってる。

社会全体としてみたらまちがいなくいいことだよね。
誰かが傷つくようなことは言っちゃだめですよ、ってなるのは。

でも「大きな声では言えないけど」という枕詞付きで“みんなうすうすおもってるけど大っぴらには言えないこと”を話すのは楽しい。
ぼくも友人同士ではよくやる。インターネットの網にはとても乗せられないような不謹慎な冗談を口にする。
『延長戦に入りました』は、そんな「酒の席のバカ話」として読むのが正しい。
男女平等とか多様性とかポリティカルコレクトネスとか考えずに読むと、すごく楽しい。



柔道の判定勝ちについて。
 こんなもの柔道以外なら絶対許されない。
 伝統の巨人・阪神戦。優勝を決める大一番。9回を終わって3対3の同点で決着つかず。いよいよ、旗の判定です。ホーム・プレート上に審判が並びました。さあ判定は! おおっと、赤が2本、白が1本。優勢勝ちで巨人の優勝が決まりました。
 場内騒然。御堂筋は大暴動になり、審判は大阪湾に浮かぶだろう。
 結局、日本人は物事を数量化することが苦手なのかもしれない。得点を競うゲームを何ひとつ生み出していないし、明確な採点も好まない。しかし、日本人同士ならよくても、それでは絶対に国際化はできないのである。
 国際社会の一員への道は険しい。柔道着のカラー化は仕方がないんじゃないの、なんて思ったりして。
たしかにいわれてみれば、日本生まれのスポーツで得点を競うゲームってないなあ。
相撲、柔道、剣道、空手、駅伝……。みんな得点は競わない。得点を競うのはゲートボールぐらいか。

相撲のルールはシンプルだけど、大相撲の番付はかなり恣意的なものだしね。番付上位になるほど、勝敗以外に「勝ちっぷり」とか「品格」とかが求められるし。

剣道なんかわかりやすそうで、知らない人からしたら「何それ?」みたいな決まりだらけだよね。
たとえば剣道試合・審判規則第12条にはこうある。
有効打突は、充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。
すごい。剣道やってない人間からしたら意味のわからないことだらけだ。
「充実した気勢」も「適正な姿勢」も「刃筋正しく」も「残心あるもの」も全部主観じゃん(だいたい竹刀に刃筋があんのかよ)。
これは規則じゃなくて心構えとか訓示とか志とかに属するものだろ。
これがルールとして成り立つなら六法全書も「悪いことをしたら適正な処分を下す」の一行で済んでしまう。

あいまいなものを白黒つけずに残しておく、ってのは日本的でぼく個人としてはけっこう好きだ。
法律なんかも条文で事細かに決めずに判例で決めるほうが使いやすいっていうしね。
ただ国際スポーツとしてやっていくには不向きなので、柔道の国際化・オリンピック競技化は失敗だったんじゃないかとおもうな。



バカ話にまぎれて、ときどき「たしかにそうかもしれない」と膝を打つような説もある。

「出席番号の早い人は短時間で心の準備を整えることに慣れているので野球のトップバッターに向いている」
とか
「背面跳びはクッションありきのプレーなので、じっさいに高い壁を跳びこえるようなときには自己ベストが低くてもベリーロール派の人のほうが信用できる」
とか。

1996年から高校野球の甲子園大会で女子マネージャーがベンチ入りできるようになったが、その件について。
 ところで、マスコミは今回のこの《女子マネのベンチ入り解禁》を、「男女平等」への一歩前進としてとらえたがっているようであるが、もちろんこんな馬鹿馬鹿しい大義名分を信じているお人好しはいないだろう。
 私が考えるに、これは「認知」と言った方がいいと思う。
 十代にしてすでに《尽くすタイプ》となってしまった少女たちを、教育の現場はどうとらえてよいのかわからないのである。ごく常識的に考えて、貴重な青春を、自分の目標に向かって突き進むのでなく、男子の練習のお手伝いに費やすというのは、理解しづらい価値観なのだ。
 ま、中には男子の中に入ってチヤホヤされたいという邪な考えの持ち主もいようが、大半のマネージャーたちは、
「できることなら男の子たちの、あの額の汗をワタシがぬぐってあげたい」
 という純粋な乙女心の発露から志願してきていることは間違いない。
 つまり、男女平等などといった概念からはほど遠いのだ。「銃後の守り」という言葉さえ頭に浮かぶ、きわめて儒教的で封建的な存在なのである。
 西洋のフェミニスト団体が視察に来たら、きっと「日本の女性はまだまだ虐げられている」と言い出すだろう。
 いや、ほら、彼女たちは自ら志願してやってるんだってば、と説明しても、恐らく「ならば情操教育に問題がある」とか言い出すだろう。
 おまけに男社会は、彼女たちの自立を促すどころか、これ幸いとばかりに便利に使っている。
 こうなったらベンチにでも入れて認知しないことには、女子マネという曖昧な存在を説明しきれない。彼女たちは重要な任務を与えられている、というポーズだけでもとらなければ、教育的にも言い訳がたたない。
 とまあ、これが私が理解するところの今回の経緯なのである。
これはもちろん根拠のない憶測なのだが、当たらずとも遠からずという感じがする。

少し前に、新聞に「毎日選手のためにおにぎりを大量に握ったりユニフォームを洗濯したりしてがんばっている女子マネージャー」みたいな記事が載って、その記事は彼女に好意的な文章で書かれていたのだが、「自己犠牲を美化するのは気持ち悪い」「男尊女卑が根底にある」「戦時中みたいだ」「女子学生に“おかあさん”の役割を担わせるな」みたいな批判的なコメントがネット上にあふれていた。

いや、それはちがうでしょ。
もちろん女子学生が強制的に連行されておにぎりを握らされたりユニフォームを洗濯させられたりしてたら大問題だ。
でも彼女は好きでやってるのだ。
「男子部員に献身的に尽くす私」が好きなのだ。タカラヅカに入れあげて贔屓のタカラジェンヌにせっせとプレゼントを貢いでいるファンといっしょだ。

それを「いやそんなのはおかしい。彼女は間違った思想を植えつけられている。教育が悪いのだ」と言うのは、「女は男に尽くすものだと教育しなければならない」というのと、根底にある考え方は同一だ。「価値観は一様であるべきでそれ以外は間違った考え方だ」という発想だ。
「結婚したら妻は夫の苗字を名乗らなければならない」というのも封建的な考えなら、「結婚したら夫婦は別々の姓を名乗らなくてはならない」というのもまた(今の日本においては)同じぐらい乱暴な考えだ。

高校生活の大半を野球部員に捧げる女子学生がいたっていいし、逆に女子に尽くす男子学生がいたっていい。

でも、「自分から見たら不合理としかおもえないこと」をする自由を許せない人はけっこう多い。

女子マネージャーのベンチ入りってのは、そういう人対策なのかもなあ。
ほんのちょっぴりだけ前線に引っ張り上げて「彼女たちも10番目の選手なんです。決して男子の後方支援に甘んじているわけではないですよ」と弁明するための。
嘘だって誰もが気づいているけど。


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