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2018年1月8日月曜日

氷漬けの落語


上方落語に『くっしゃみ講釈』という噺がある。


講釈師に恨みのある男が、講釈をじゃまするために胡椒をいぶしてくしゃみを起こさせる、と計画する。ところが元来忘れっぽいため八百屋で胡椒粉を買うことをすぐに忘れてしまう。そこで、のぞきからくりの演目『八百屋お七』の登場人物である「小姓(こしょう)の吉三」とひっかけて覚えようとする。ところが八百屋についたもののなかなか思いだせず、てんやわんや。胡椒がなかったので唐辛子を買って講釈場に乗りこみ、唐辛子をいぶして講釈のじゃまをすることに成功する。講釈師から「なにか故障がおありか(文句がおありか)」と問われ、「胡椒がなかったから唐辛子にした」と答える――。


というストーリーなのだが、まあ今聴くとわっかりにくい。
講談やのぞきからくりといった装置にもなじみがないし、八百屋で胡椒粉を買う人も今はまずいないだろうし、文句があるかという意味で「故障がおありか」という言い回しも今は使われない。
ぼくは小学生のときにカセットテープで桂枝雀の『くっしゃみ講釈』を聴いたことがあるが、当然のことながら途中でついていけなくなった。その後、解説書を読んでようやく理解できるようになった。

『くっしゃみ講釈』は筋自体はよくできた噺だし、笑いどころも多いし、噺家の見せ場も多い。きっと、長い時間をかけてちょっとずつ改変されて洗練されて今の噺になったんだと思う。
なのに、数十年前に今の形に落ち着いて、そこで止まってしまった。
こないだ寄席に行ったら『くっしゃみ講釈』がかかっていたが、やはりこの形だった。
前半の講談師にデートをじゃまされるくだりではかなり笑いが起きていたのに、中盤の八百屋で『八百屋お七』を一席打つあたりでは客席に退屈が広がり、サゲを言っても笑いが起きなかった。それはそうだろう、十分に噺の内容を知っている人にしか理解できないのだから。

『くっしゃみ講釈』は落語らしいドタバタもありながら、筋としては一本芯が通っていてよくできている。せっかくのいい噺が時代のせいで伝わらなくなってしまうのはもったいないな、と思う。

いくらでも改良の余地はあると思う。

もちろん、変えている人もいる。
『地獄八景亡者戯』という超大作落語は、元々「閻魔大王」と「大黄(漢方薬)」をかけた地口オチだったが、大黄という薬の名前が伝わらなくなったので、今はこのパターンで話す落語家は、たぶんいない。
いろんな噺家が、いろんな噺をちょっとずつ自分なりにアレンジしている。でも、そのほとんどが定着していない。だから2018年に披露されている『くっしゃみ講釈』でも、粗忽者が八百屋の店先で『八百屋お七』を唄い、講談師が「故障がおありか(文句がおありか)」と口にする。
すべてを新しくしろとは言わない。昔の人の暮らしを想像するのが落語の醍醐味のひとつだからだ。だから舞台が講釈場なのをパワポを使ったコンペ会場に変えろとは思わない。たぶんそっちのほうが早く古びるだろうし。
でも笑いどころが伝わらなくなっているのは、落語として致命的だと思う。笑いどころは「今のはこういう意味で、だからこれがおもしろいんですよ」と説明できないからだ(できるけどやったら笑えなくなる)。

古典落語って、どんどん改変していくものだと思うんだけど、その変化のスピードがどんどん遅くなっているように思う。昔のほうが改変されてたんじゃないだろうか。
変化のスピードが衰えたのは、しっかりと記録が残るようになったからじゃないだろうか。口承で受け継がれていた噺の内容が文字にして残るようになり、音声としても記録としても残るようになった。その結果、記録されたものが聖典になってしまい、改変が許されない雰囲気になっているんじゃないかと門外漢が勝手に想像する。

埋もれかけていた旧い噺を正確に記録したのは桂米朝らの功績だけど、その結果、古典落語は「古典」という氷漬けにされてしまったんじゃないだろうか。


2018年1月6日土曜日

年賀状2題


年賀状って昔はけっこう好きだったんです。11月くらいからネタを考えて、友人を笑わせようと渾身のボケを込めた年賀状を書いていた。
三十枚くらい書いていたと思う。

さすがに最近はそんなことをやる気力もなくなって、市販の年賀はがきに一言を添えるだけの年賀状を出している。
親戚も含めて十五枚ほどしか出していない。

めんどくさいな、と思う。
十二月二十日くらいから取りかかり、めんどくさいめんどくさいと思いながら書く。
だいたいみんなこんなもんだろう。

年賀状の付き合いしかない人も数人いる。
一年間に一度も会わなかったし翌年もたぶん会わないだろう。特に書くこともない。「今年こそ飲みましょう」なんて思ってもみないことを描く。
向こうからも送られてくるのでこっちからやめるのは気が引ける。たぶん向こうも同じように思ってるのだろう。やめるきっかけがないまま何年も続いている。

こんなの無駄だなと思ってたけど、いやそうでもないかなと思いなおした。

一年に一度も会わない人だからこそ年賀状のやりとりが必要なのだ。
会わない人とはメールもLINEもしない。「子どもが生まれました」なんて報告も、ふだん会わない人には「こんなことわざわざ報告されても困るかな……」と躊躇してしまう。
電話番号もメールアドレスも知っているから、連絡をとろうと思えばいつでもとれる。でもとらない。そしてたぶん永遠に途絶えてしまう。

だから会わない人のためにこそ年賀状はあるのかな、と思う。
もういっそ、十年ぐらい会ってなくてメールもしてなくて年賀状も出していない人に年賀状を出してやりたいな。
でも住所を知らないから出せないんだけど。



年賀状の枚数って年々減ってるわけじゃない。
もちろんメールとかLINEとかのせいってのもあると思うんだけど、そのうちのひとつに「住所がわからない」って要因もあると思うんだよね。

この人に年賀状出そうかな。でも住所知らないしな。でも訊くほどじゃないしな。訊いたら向こうも年賀状を出さざるをえなくなるし申し訳ないな。

みたいなことがある。
だからさ、年賀状がほしい人は郵便局に氏名・住所・メールアドレス・電話番号・LINE IDを登録しておく。
そうすると、住所がわからなくても「名前とメールアドレス」とか「名前と電話番号」とか「名前とLINE ID」とかでも年賀状を出せるようになる。

ってシステムにしたら年賀状の枚数はある程度増えると思うんですけどね。
どうでしょう郵便局さん。

2018年1月2日火曜日

こどもらしい自由な絵


四歳の娘とお絵かきをして遊ぶ。

「バズ・ライトイヤー(映画『トイ・ストーリー』に出てくるおもちゃ)が描きたい!」
というので、絵本に載っていたバズを見せて描かせてみる。


うーん、よくわからん……。
上のほうに顔らしきものがある、ということだけがかろうじてわかる。

なんで中央がこんなにすかすかなのか尋ねると、「白のクレヨンがないから白いところは描かなかった」とのことだ。
なるほど、大胆な省略だ。

そういわれると、目を凝らして想像力で補うと体や脚が見えてくる、ような気もする……。

しかしぼくが親だからそこまで補ってくれるのであって、注釈と見る人の大規模な補完によってしか成り立たない絵というのはずいぶん不親切だ。
何の事前情報もなしにこの絵を見て「バズ・ライトイヤーだね」と気づいてくれる人は、ほとんどいないだろう。


そこで「お父ちゃんならこうやって描くな。まず鉛筆で描いて、それからクレヨンで色を塗る」と言って、ぼくも描いてみた(お手本と言えるほどぼくも絵がうまくないけど……)。
それが下の画像の右の絵。
さらにそれと同じように娘が描いたのが左の絵。


どうでしょう。
ぐっとうまくなったと思いませんか。親ばかですかね。
何の説明もなしに左の絵を見たとき、十人中一人ぐらいは「バズ・ライトイヤーを描いたんだね」と理解してくれるのではないだろうか。
少なくとも「人型の何かを描いたんだな」ということは伝わると思う。


「こどもらしいのびのびした線」は失われてしまった。でもそれでいいと思っている。どうせいつか捨てなきゃいけないものだ。早めに捨てたらいい。

絵を「己の内面を表現する手段」ととらえる人がいる。趣味の絵ならそれでいいと思うけど、内面の表出としての絵を他人に理解してもらえるのはごくごくひとにぎりの人だけだ。
絵は、言葉や文字と同じく情報伝達手段として用いられることのほうが圧倒的に多い。

なのに、教育現場ではやたらと「こどもらしい絵」がもてはやされる。
一歳児が「ごはん、たべたい」としゃべったら「すごい!」と言われる。「こどもらしく『あー』とか『まーまー』とか言いなさい」と言われることはない。
小学生が上手な字を書いたら「字が上手ね」と褒められる。「こどもらしいのびのびした雑な字を書きなさい」と言われることはない。
なのに、絵に関しては「こどもらしい自由な絵」が求められる。ふしぎだ。


2017年12月31日日曜日

かっこいいおごりかた


人にご飯をおごるのってむずかしいよね。
たまに後輩におごることがあるんだけど、スマートにおごることができない。おしつけがましくなく、相手に気を遣わせないようにおごることができたらいいんだけど、どうやったらいいのかわからない。
「おごるよ」とストレートに言うのはなんだか照れくささがあって、「あっここはぼくがモゴモゴモゴ……」みたいな感じでなんとなく言葉を濁してしまう。

「知らない間にお会計を済ませている」みたいなのが理想だと思うけど、タイミングがよくわからない。
もうみんな食べ終わったかな? と思っても、追加注文をするかもしれないし。
さりとて「もう会計締めちゃっていい?」と訊くのはスマートじゃないし。
一度、ラストオーダー後にトイレに行くふりをして支払いを済ませたことがある。「よし、今日はスマートにできたぞ」と思った。
でもその後、店を出るときに後輩から「あれ? お会計は」と訊かれ、「もう済ませたよ」というのが気恥ずかしくて「まあそれはいいじゃないモゴモゴモゴ……」みたいな感じでそそくさと店を出たせいで、食い逃げみたいになってしまった。ダセえ。

体育会系から遠い人生を送ってきたし、女性との交際経験もあまりないから、おごりおごられってのに慣れてないのよね。





これはスマートだ、と思ったおごりかたを見たことがある。

大学生のとき、三学年上の先輩と食事に行った。
店を出るときに財布を出すと「いや、いいから」と言われた。
「じゃあ千円だけ……」というと、先輩が言った。

「あほか。おまえみたいなしょうもないやつに払わせられるか」

おお、かっこいい。
冗談にくるんでいるので恩着せがましさがまったくない。

さらにその後べつの先輩が「おれもしょうもないからおごってー」と言い、「いいや、おまえは立派なやつや。だから金を出せ」と返したところまで含めて、かっこよかった。


ぜひまねをしたいと思い、一度自分がおごるときに後輩に「おまえみたいなしょうもないやつに金を出させられるか!」と言ったところ、後輩が「あっ、はい、すみません……」と半分本気にとってしまい「あっ、うそうそ冗談」とあわてて取りつくろい、変なかんじになってしまった。
言う人のキャラクターもあるんだろうなあ。兄貴肌の先輩だったからかっこよかったんだけど、ぼくが言うとただの悪口になってしまう。
ということでその技は、それ以来使っていない。

2017年12月24日日曜日

阪神大震災の記憶


大した被害を受けていない人間の、阪神大震災の記憶。


 阪神・淡路大震災が起こったときぼくは小学六年生だった。
 大地震の起こる二ヶ月ほど前から、ぼくの住んでいる兵庫県川西市北部では頻繁に地震があった。震度2とか3くらいの小さな地震が何度も起こる。はじめは「怖いね」と言いあっていたが、多い時は一日に何度も起こるのでそのうち不感症になってしまった。授業中に地震があっても、先生が「おっ揺れたな」と言って五秒後に授業に戻る、そんな感じだった。一ヶ月に百回以上の地震があったらしいが、この地震があの大地震と関連があったのかどうかはいまだによくわかっていないようだ(→ 猪名川群発地震)。

 だから一九九五年の一月十七日の五時四十六分にマグニチュード7.3の地震が起こったときも「またか」ぐらいの感じだった。揺れで目が覚めたが、「今度のはちょっと大きいな」と思ってまた寝てしまった。ぼくの家族も同じだった。
 六時半くらいに母がぼくの部屋に飛びこんできた。「ちょっと、テレビ見てみ。たいへんなことになってるで!」
 リビングに行ってテレビをつけると、地震のニュースをやっていた。といってもあまり覚えていない。高速道路がぽっきり折れてバスがぶらさがっている映像をそのときに観たような記憶がするが、後から合成した捏造記憶かもしれない。
 そのときはおおごとだと思っていなかった。我が家は揺れたが本棚の本が倒れていたぐらいで、つまり被害はなかった。
 ニュースでも、朝の時点では本当に被害の大きかった地域の映像がまだ届いていなかったのだ。とにかく大きい地震が起こったということはわかったが、いつも通りに朝食を食べて家を出た。

 ふだんと同じように学校へ行き、ふだんとおなじように始業前に校庭で遊んでいると、校内放送のチャイムが鳴った。
「本日は地震の影響で休校になりました。みなさん、気をつけて帰宅してください」
 小学生たちはのんきなもので「ラッキー。休みだー!」と喜びながら帰った。
 帰ってすぐに公園に遊びに行った。母から「また地震があるかもしれんからやめといたら?」と言われたが、「公園におるのがいちばん安全やん」と返し、母が「それもそうやな」と納得したことを覚えている。

 ぼくらは気楽なものだったが、父はたいへんだったらしい。
 父は大阪ガスに勤めていた。地震の影響で広範囲にわたってガスが停止し、その対応に追われていた。父の所属は広報部だったので現場に行って復旧作業をすることはなかったが、情報収集やあちこちへの報告に追われてたいへんだったようだ。今のようにインターネットのない時代だ。
 父は数ヶ月の間ほとんど家に帰ってこず、たまに帰ってきても夜遅くに帰って翌朝早くに出ていくという生活をしていた。休日も出勤していたので、小学生だったぼくとは二ヶ月ぐらいほとんど顔を合わせなかった。
 地震の一ヶ月後ぐらいに大阪ガスの広報担当者として父が『ニュースステーション』に出て復旧状況を伝えたことがある。ぼくは「お父さんがテレビに出た!」と能天気に喜んでいた。

 ぼくの住んでいた地域でもガスが止まった。電気や水道は問題なかったが、ガスの復旧には時間がかかった。もしガス管が破損していると爆発などの大事故につながるため、すべてチェックをするまではガスを通せないためらしい。
 他の家も苦労したと思うが、我が家は特に苦労した。父が大阪ガスの社員だったため、家にあるのはガス製品ばかりだったからだ。
 暖房はガスファンヒーターとガスエアコンのみで、灯油ストーブも電気ストーブもなかった。炊飯器もガス式、オーブンレンジもガス、コンロも風呂ももちろんガス。ガスが止まったことで、我が家の暖房と調理器具はほぼ全滅状態だった。
 数日後に母が小さな電気ストーブとボンベ式のコンロを買ってきたので、とりあえず寒さ対策と調理はできるようになった。ボンベのコンロだけでは何品もつくることができないので、毎日鍋料理だった。小さなストーブではリビング全体を暖められないので、隣の六畳間にこたつやテレビを持ってきて、母と姉と狭い部屋でぎゅうぎゅうになって過ごした。

 風呂は沸かせないので、電気ポットで沸かしたお湯にタオルを浸し、体を拭くだけだった。週に一度くらい隣町の温泉に行ったり、都市ガスが通っておらずプロパンガスを使っている知人の家に風呂を借りに行ったりしていた。
「あんまり汗をかかない冬場でよかったわ」と母が言っていた。しかし今考えると夏なら水浴びもできたので、やはり冬にガスが止まるほうがつらいと思う。

 学校が休校になったのは一日だけで、翌日以降は平常運転だった。
 ガスが使えないので給食の調理はストップし、おかずがサバの味噌煮などの缶詰になった。おかず不足を補うためかプリンやヨーグルトなどのデザートが毎日つくようになり、ぼくらは「地震前よりこっちのほうがいいな」と喜んでいた。
 一度、プリンを皿の上に開けて "プッチンプリン" にして食べたら、担任の先生から「お湯が使えないから洗い物を減らすためにこういうメニューにしてるのにむやみに皿を汚すな」と注意された。洗い物のことまで考えていなかった、と素直に反省した。

 学校で、鉛筆とノートをもらったことがある。どこかの小学生が被災地へ寄附した物資らしい。なぜそれが、ほとんど被害のなかったぼくらの小学校にまわってきたのかわからない。地震で文房具を失った生徒など、この学校にはひとりもいないのに。
 もっと困っている子にあげたらいいのに、と思った。もっと困っている子は文房具どころではなかったのかもしれないが。

 地震で大きな被害を受けた人には申し訳ないが、正直に言って、小学生のぼくはふだんと違うイベントとして震災後の生活を楽しんでいた。ガスの止まった生活も、いつもと違う給食も、キャンプに来たときに感じるぐらいの不便さだった。
 ニュースを見て被災地の状況は知っていたが、身近に悲惨な目に遭った人がいなかったので、テレビの向こうの出来事として見ていた。義援金として小遣いからいくらか寄附をしたが、それも心から同情してのものではなく「やらないと怒られそうだから」やっていただけだった。
 テレビ番組が自粛ムードになり、おもしろい番組をやらなくなったのが残念だった。公共広告機構の「生水飲まんとってや」とイッセー尾形のゴミの分別のCMを飽きるほど見た。学校でもよく真似をした。
 ぼくの住んでいた兵庫県川西市での死者は一人だけだったらしい。「地震にびっくりして家から飛び出したおばあちゃんが転んで死んだんだって」という話を耳にしたが、真実かどうかは知らない。小学生のうわさ話だ。

 祖父母が兵庫県西宮市に住んでいた。西宮は震源地に近く、うちよりもずっと被害が大きかった。
 祖父母の住んでいるマンションは倒壊こそ免れたが大きな亀裂が入り、ガスだけでなく水道も止まった。ぼくも一度、水を汲みに行くのを手伝いに行った。西宮市内にある関西学院大学のキャンパスに給水車が停まり、そこでポリタンクに水を入れてもらって持って帰るのだ。
 だがおもしろいものではなく、次からは両親に「おばあちゃんたちを手伝いに行くよ」と言われても「友だちと遊ぶ約束があるから」と言って逃げだしていた。「いっつもおじいちゃんおばあちゃんにかわいがってもらってるくせに、困ってるときに助けに行かないなんて……」と強く怒られたが、「もう約束しちゃったから約束を破るわけにはいかない!」と言って自転車で家を飛びだした。ほんとは約束などしていなかったのに。
 なんと身勝手だったのだろう、休みの日ぐらい祖父母孝行しとけばよかった、と当時のことを思いだすと胸が痛む。

 そんな感じで地震から二カ月が経ち、ぼくは小学校を卒業した。小学校の卒業式は三月二十日。なぜ日付を覚えているのかというと地下鉄サリン事件のあった日だからだ。
 卒業式を終えて家に帰ってくるとサリン事件のニュースをやっていた。同じ県内で起こった地震ですら他人事だったぼくにとって、東京の地下鉄で宗教団体が起こした事件など遠い異国の出来事だった。

 三月になると父の仕事も少しは落ち着いたらしく、休みもとれるようになっていた。父は一日中寝ていた。何ヶ月ぶりかの休みなので、一気に疲れが出たのだろう。
 ガスも使えるようになり、ぼくらの周囲は地震以前と同じ状況に戻りつつあった。

 春休みに友人たちと甲子園球場に行った。開催があやぶまれていたセンバツ高校野球がなんとか開催されることになり、その観戦に行ったのだ。
 兵庫県代表が三校も出場し、しかも三校とも初戦を突破した。ぼくらが見にいったのは二回戦だったと思う。

 ぼくらが住んでいた川西市は兵庫県だが、西宮市の甲子園球場に行くには一度大阪に出てから阪神電車で行くのがいちばん早い。
 阪神電車は被害の大きかった尼崎市や西宮市を通る。電車の窓から大量のブルーシートが見えた。倒壊した家屋はある程度撤去されていたが、仮設住宅が立ち並んでおり、まだまだ復旧・復興とはほど遠い状況だった。鮮やかなブルーのシートが線路に沿ってずっとずっと続いていたのを覚えている。

 同じ車両の人たちは、みんな窓の外を見ていた。無言で外を見ていた。
 それまでわいわいと騒いでいたぼくらも言葉を失った。隣に立っているおばさんが涙ぐんでいた。
 同じ県内に住みながら、ぼくが阪神大震災を理解したのは、地震発生から二ヶ月以上たったそのときがはじめてだった。


2017年12月23日土曜日

イタリアンの天才店員


イタリアン料理店で天才店員に出会ったことがある。
といっても、シェフではなくウェイターだ。


会社の同僚たち四人と、さびれたイタリアンレストランに行ったときのこと。
ランチ千円とちょっと高めだったが、たまには贅沢するかと足を踏み入れた。

内装はなかなかしゃれた造りで、ランチメニューは
・三種類のオードブルから一品
・三種類のピザまたは二種類のパスタから一品
・肉料理または魚料理または野菜料理から一品
・五種類のドリンクから一品
を選ぶという、ボリュームたっぷりかつ自由度の高いメニューだった。
「これで千円は安いな」と、ぼくらはメニューを見ながら言いあった。

店員を呼ぶと、やってきたのは若い兄ちゃんだった。茶髪にピアス、ちゃらそうな男だ。やる気はなさそうだ。

ぼくらは口々に注文した。
「前菜はバーニャカウダ、マルゲリータのピザ、肉料理とアイスコーヒー」
「おれはね、コーンポタージュとペペロンチーノ。メインディッシュは魚料理で、飲み物はジンジャエール」
こんな感じで、五人分。

注文しながら、ぼくらは不安を感じていた。
なぜなら店員の兄ちゃんがまったくメモをとらないのだ。
一応「はい、はい」と言いながら聞いているが、メモをとるわけでもなく、ファミレスの店員が持っているようなでかい端末を操作するでもなく、ただ突っ立っている。

兄ちゃんは注文を復唱することもなく、厨房のほうへと立ち去っていった。

「あいつ大丈夫か。まったくメモとってなかったけど」
「いやどう考えても大丈夫じゃないだろ。メニュー、めちゃくちゃややこしいぞ」
「覚えられるわけないよな。もしかしてICレコーダーでも隠し持ってたのかな」
「ぜんぜんちがう料理が運ばれてきたりして」
「まあそれはそれでおもしろいんじゃない?」
ぼくらは不安を感じながら、料理の到着を待った。

料理が運ばれてきて、驚いた。
オードブル、ピザ、パスタ、メインディッシュ、ドリンク。
すべて注文した通りに運ばれてくる。タイミングも完璧。言った通りにアイスコーヒーとジンジャエールは食前、ホットコーヒーは食後に運ばれてくる。

「あの、すみません」
思わず料理を持ってきた店員の兄ちゃんを呼び止めてしまった。

「さっきぜんぜんメモをとってませんでしたけど、もしかして覚えてたんですか?」
「はい」
「録音してたとかじゃなくて?」
「いえ。覚えてました」
「めちゃくちゃ記憶力いいですね!」
「はあ、まあ」
相変わらず兄ちゃんはやる気なさそうだ。だが今やそのやる気のないたたずまいすら、逆に神秘的に感じる。

兄ちゃんが厨房に引っ込んだ後も、ぼくらはその話で持ちきりだった。
・三種類のオードブルから一品
・三種類のピザまたは二種類のパスタから一品
・肉料理または魚料理または野菜料理から一品
・五種類のドリンクから一品
この組み合わせ、それも五人分を覚えてしまうのだ。しかも一回聞いただけで。
世の中にはすごい人もいるもんだ。

こんな超人的な記憶力を持っているならレストランのウェイターよりもっと他の仕事についたほうがいいのに……。

と思ったけど、じゃあなんの仕事なら彼の才能を活かせるのかと考えると……。ううむ、よくわからん。
やっぱりウェイターが天職なのかもしれない。

2017年12月22日金曜日

おじさんじゃないもの


ぼくのおじさんはちょっと変わりもので、田舎で陶芸家をやっている。

四十歳くらいのときに縁もゆかりもない村に移住して、隣の家が五十メートルぐらい離れているという広い敷地に住んでいる。
そんな田舎だから人付き合いは濃厚らしいのだが、おじさんはやれ祭りだ町内会だ青年団だといった風習にいちいち反発していたらしい。

はじめは喧嘩になっていたそうだが、そのうち「あの人は変わりものだから」ということで周囲も近寄ってこなくなったらしく、「うるさいやつらがこなくなって快適だ」と言って喜んでいた。

偏屈な陶芸家、というと無口な人を想像するかもしれないが、ぜんぜんそんなことはない。
親しい人の前ではむしろ饒舌で、甥っ子であるぼくなどはずいぶんかわいがってもらった。
下品な冗談や役にも立たない知識をずいぶん教えてくれた。

たとえば、
「"一盗二卑三妾四妓五妻" っていう言葉があってね。相手をするのにいちばんいいのは盗んだ女、つまり人妻だね。次が卑、女中さんに手を付けるのが楽しいってことだね。今でいうメイドさんかな。その次の妾はわかるね、おメカケさん、愛人だ。妓っていうのはちょっと難しいね。これは商売女、つまり売春婦。そして最後が自分の妻だ。これは最悪とされている」
なんてことを、まるで塾講師のような口調で中学生のぼくに教えてくれたのはこのおじさんだ。
中学生に何教えてくれとんねん。すぐ覚えたけども。



大学生のとき、友人たちといっしょにおじさんの家に遊びにいった。
すごく広い家だから、家の庭にテントを張らせてもらい、毎晩酒を飲んで走りまわった。

おじさんは「女子大生ならよかったのに」と言いながらもぼくたちバカうるさい男子大学生を歓迎してくれて、陶芸を教えてくれたり、車であちこち連れていってくれたりした。

そんなおじさんの口癖が「おじさんじゃないもの」だ。

おじさんが渓谷に連れていってくれた。
高さ二メートルぐらいの岩があり、下にはそこそこ深い川が流れている。
おじさんは云う。「地元の子どもたちはあそこから飛びこむんだよ。君たちもやってごらんよ」
ぼくは怖気づいて尋ねる。「えっ、でもけっこうな高さがありますよね。失敗してケガする人とかいないんですか」
おじさんは笑って云う。「大丈夫だよ、失敗したってケガするのはおじさんじゃないもの

万事その調子で、あれやこれやとけしかけては
大丈夫、バレたって逮捕されるのはおじさんじゃないもの
平気平気。だめだったとしても困るのはおじさんじゃないもの
と笑うのだ。

なんでいいかげんな人なんだろう、と思っていた。



でもよくよく考えてみると、悩み相談やアドバイスなんて、結局みんな他人事だ。

だったら「若いんだから失敗を恐れずにやってみな。大丈夫、なんとかなる!」なんて無責任なことを云う人よりも「だめでも困るのはおじさんじゃないもの」とはっきり口にするおじさんのほうが、ずっと誠実なのかもしれない。


2017年12月21日木曜日

目をつぶったろう


小学五年生のとき。
休み時間に体育館周りのテラスでボールを転がして遊んでいたら、担任のヤスダ先生に見つかった。

ふつうの先生なら「ボール遊びは運動場でしなさい!」と叱るところだが、このヤスダ先生はすばらしい先生で、頭ごなしに叱りつけるということをしない人だった。

ぼくらがどんな遊びをしているか聞くと、
「なるほど。ほんまはテラスでボール遊びをしたらあかんけど、ここはあんまり人も通らんし、ボールを転がしてるだけやったら窓を割ることもないやろうな。危なくなさそうやから、目をつぶったろう」
と云った。
なんと理解のある先生だろう。

ところが、小学五年生の男子というのはヤスダ先生が思っているよりもバカだった。

数日後、別の教師に見つかって叱られたときに、ぼくらは
「でもヤスダ先生はやってもいいって言ったで!」
と言いかえした。

なんとバカなんだろう。ヤスダ先生は「ほんまはあかんけどおれは目をつぶる」と言ってくれたのに、ぼくらにはその心配りがまったく理解できず「やってもいいと言われた」と解釈してしまったのだ。

ぼくらを叱った教師からヤスダ先生に苦情が入り、ヤスダ先生が怒られたらしい。
後でぼくらを呼びだして「おまえらなあ……。目をつぶるってのは、やってもいいってこととはちゃうんやで……」とつぶやいたヤスダ先生の寂しそうな顔が忘れられない。

当時はそれでもなぜ怒られたのかよくわかっていなかったけど、今ならわかる。
ヤスダ先生、バカでごめんなさい。

2017年12月20日水曜日

銭湯と貧乏性



銭湯が好きでときどき行くのだけれど、毎回ちょっと損をした気分になる。

ぼくは長湯が苦手だ。時間を持て余してしまう。
「あー、やっぱり広い風呂は気持ちいいなー」と思って手足を伸ばすのだが、五分もすると「飽きてきたな」と思えてくる。

家の風呂だと本を読みながら一時間くらい浸かっていることもあるのだが、銭湯で本を読むのはなんとなく気が引ける。たぶんダメではないと思うんだけど、湯船に浸かりながら本を読んでいる人を見たことがないので、その勇気が持てない。
近所の銭湯には一応テレビがあるけど、画面がちっちゃいし、音は聞こえないし、観たい番組をやっているとはかぎらないしで、あまりテレビを見ようという気になれない。

風呂好きの友人にその話をすると「飽きてきたらサウナとか電気風呂とか水風呂なんかをローテーションしたらいいんだよ」と云われた。

でもぼくはサウナが嫌いだ。だって暑いもの。
ぶったおれそうになるし、全裸の男たちが狭いところでハァハァ言ってるのも快適じゃないし、なにより「外から鍵をかけたらたらどうしよう」と思うと一刻も早く外に出たくなる。

電気風呂も嫌いだ。痛いもの。
身体にいい、ということになっているがほんとうなのか。銭湯に対してこんなこと言いたくないけど、身体にいいというエビデンスはあるのか。それどころか心臓に悪そうだぞ。毎年多くの人の命を奪ってるんじゃないのか。

水風呂はけっこう好きだ。気持ちがいいから。
でも一分も入っていたら身体の芯から冷えるので、それ以上入っていられない。

ぼくの銭湯スケジュールは、
洗体・洗髪(五分) → ジェット風呂(五分) → 水風呂(一分) → ふつうの風呂(二分)
だいたいこんなもので、着替えの時間を入れても二十分くらいだ。

大きい風呂に入って気持ちよかったと思うんだけど、同時になんかもったいない気がする。
銭湯の入浴料というのは三十分入ろうが二時間入ろうが同じ値段なわけで、だったらもっと長湯をしたほうが得、と思ってしまう。サウナも電気風呂も料金の中には含まれているのに、それを利用しなかったから「元をとっていない」ような気になるのだ。我ながら貧乏くさい。

せめてもの元をとろうと、風呂から出た後には休憩スペースでゆっくりくつろぐ。
牛乳を飲み、本を読み、壁に貼ってある銭湯からのお便りやら周辺地図やらまでじっくり目を通し、べつに観たいわけでもないテレビを観て、気づいたら一時間くらい経っている。
二十分風呂に入り、六十分だらだらする。
おかげで身体はすっかり冷えており、銭湯からの帰り道には毎回己の貧乏性が嫌になる。


2017年12月17日日曜日

義父の扱いがひどい

義父の扱いがひどい。
友人の話だ。彼は結婚して、妻の両親と同居している。
そのお宅に招待され、共に食事をする機会があった。

食事の後、子どもたちとシールを貼って遊んでいると、友人が自分の娘に言った。「このシール、おじいちゃんのはげ頭に貼ってみ」

えっ、と声が出た。
娘のおじいちゃんって、つまり義理のお父さんだよね。そんな扱いでいいの?
友人の娘は、おもしろがっておじいちゃんにそっと近寄り、はげ頭にシールをぺたっと貼った。孫娘にいたずらをしかけられたおじいちゃんは笑いながら「こらっ」と叱り、叱られた孫娘はけたけた笑い、いたずらを指図した友人もげらげら笑っていた。

おいマジか。義父のはげをイジっていいのか。
いくら一緒に住んでいるからといって遠慮がなさすぎないか。

ぼくは義父に対してそんな扱いぜったいにできないぞ。実の父に対してでも無理だ。
ところが友人は義父のはげ頭で遊び、友人もお義父さんもいっしょになって笑っている。
なんつう距離の近さだ。感心をとおりこして恐ろしさすら感じた。

後に友人とふたりっきりになったときに「おまえ義理のお父さんに対してあんなことしていいのかよ」と訊くと、「いいのいいの、家族なんだから」と笑っていた。
いや家族でも越えちゃいけないラインがあると思うんだけど。


将来、ぼくの娘が結婚して夫を家に連れてきたとしたら。ぼくは「ぜんぜん遠慮しなくていいよ」と言うだろう。「自分の実家のようにくつろいでくれたらいいよ」と。
でも、その婿が「ぼくブロッコリー嫌いなんでお義父さんに食べてもらおっと」と言って勝手にぼくの皿にブロッコリーを乗せてきたら。自分の子どもをけしかけてぼくの頭にシールを貼らせたら……。
その場は笑って寛容なところを示す。
でもその後で娘を呼び「いくらなんでもあれはだめだろ」と間接的に注意すると思う。「たしかに遠慮するなって言ったけど、ふつうは遠慮するだろ」と。


後日、その友人と会ったとき、友人の娘が「今日はチビが来るんだよ」と言ってきた。
「チビ?」と訊くと、友人が「ああ、うちの親父のこと。背が低いからうちの家ではチビって呼んでるんだ」と教えてくれた。
おお……。義理のお父さんに対してひどい扱いをすると思ったけど、自分のお父さんへの扱いはもっとひどかった。
ということは「はげ頭にシールを貼らせる」ぐらいなら、彼にしたらぜんぜん遠慮してるほうなのかもしれないな。一応敬語は使ってるし。

世の中にはいろんな距離感の家族があるもんだ。

人工知能を大統領に


こんな記事を読んだ(『ニューズウィーク日本版 2017/12/19号』)。
 ロシアのプーチン大統領は12月6日、来年の大統領選への立候補を表明した。一方で、何万人もの国民が新たな未来派候補を支持している。人工知能(AI)搭載音声アシスタント「アリサ」だ。
 選挙運動サイトでは、アリサは感情より論理に忠実で、老化や疲れを知らないなど6つの点で人間に勝ると喧伝。現時点で4万2000人以上が賛同の署名をしている(正式な立候補には30万人の署名が必要)。
なんともすてきな話だ。
大統領なんて人工知能のほうがよっぽどうまくできると思っている人が少なくないのだろう。



今の人工知能にどこまで的確な判断を下せるかどうかはわからないが、某国の大統領や某国の総理大臣や某国の総書記なんかを見ていると、国のトップなんて「的確な判断なんか下さなくていい。いらんことさえしなければいい」ぐらいでいいのかもしれない。官僚が優秀なら誰がなっても大丈夫だろう。

2010年のサッカーワールドカップで勝敗を予想するタコが有名になったが、もしかしたら国のトップなんてタコでも務まるのかもしれない。法案を決める際はA案とB案の容器を並べてタコがどっちに入るか、で決めたほうが案外うまくいったりして。反対派の人もあきらめがつくしね。タコが決めたならしょうがないか、って。

まあ政治家の仕事って意思決定だけじゃないから、タコに政治家は務まらないだろう。タコに外交はできないからね。
でも人工知能なら外交もうまくやるかもしれない。あと十年したらわからない。2027年にはアメリカを代表する人工知能と日本を代表する人工知能がバーチャルゴルフをしているかもしれない。


政治は難しくても、サッカーの監督なんかはもうAIでも務まるんじゃないだろうか。
ビッグデータと試行錯誤をもとに判断すれば、あっという間に人間の監督よりいい成績を収められると思うんだよね。
どっかのチームでやってくれないかな。


2017年12月15日金曜日

キャバクラこわい



キャバクラがこわい。

って書くと「まんじゅうこわい」的なやつでほんとは好きなんでしょと思われるかもしれないけど、そういうんじゃなくてほんとにこわい。

キャバクラが嫌いな男性ってけっこういると思うんだけど、でもなぜかキャバクラ好きの人って「キャバクラが嫌いな男なんていない!」って思ってる。「連れてってやる!」と言われたことも一度や二度ではない。いやいや。なんで上からなんだよ。

とはいえ三回ほど行ったことがある。一度は「まあ食わず嫌いはよくないだろう」ということで、あとの二回は断りきれなくて。もちろん三回ともつまらなかった。
元来が人見知りだから、はじめて会った人と隣に座って長時間話さないといけないなんて苦痛以外のなにものでもない。年齢も職業も趣味嗜好も違うから共通の話題もないし。いや共通の話題とか探すからだめなのか。自分の好きなことを好きなだけしゃべっていい場なんだよな、キャバクラって。そのためにお金払ってるんだし(身銭を切って行ったことはないけど)。そうはいっても初対面の人に「会社にいるTってやつがほんとに嫌いでさあ……」なんて言ってもしょうがないしな、と思ってついつい「出身地はどこですか?」なんて話題の切りだし方をしてしまう。我ながらつまんねえなあと思い、ますますキャバクラという場が嫌になる。おお、怖い。

キャバクラには逃げ場がない。
パーティーなんかだと、親しく話せる人がぜんぜんいなくても「黙々と食事をする」という手がある。ぼくはカラオケが大の苦手だけど、どうしても断れなくてカラオケに行ったときは「ひたすら曲を探すふりをする」という手を使う。
キャバクラにはそういう逃げ道がない。「しゃべる」しかないのだ。

以前勤めていた会社で社長にキャバクラに連れていかれたとき、やはりキャバクラを苦手としている男がいた。ああ助かったと思い、彼の隣に移動し、男同士で話しはじめた。さして親しいわけでもなかったが、まったく知らない人と話すよりはまだ話題もある。
ところがキャバクラ嬢がぼくらの話に割りこんでくるのだ。男二人につきキャバクラ嬢が一人つく店だったので、自分も仲間に入ってこようとする。なんだこいつと思いながら一応話につきあったが、ぼくらがしていた「最近読んだミステリの本」の話題にはまったくついていけず、とんちんかんな相槌しか返ってこない。知らないんなら黙ってろよと思ったが、話をするのがキャバクラ嬢の仕事なので仕方ないのだろう。
知らない女に会話のじゃまをされるぼくらも不幸なら、まったく興味のない話に入っていかざるをえずおまけにあからさまに迷惑そうな顔をされるキャバクラ嬢も不幸。ぜんぜん楽しんでないぼくらのために金を払う社長も不幸。
なんだこれ。誰も得をしていないじゃないか。

あとキャバクラ嬢は、酒を勝手に注いでくる。これも嫌だ。自分が払うわけじゃないけど、嫌だ。
なぜならぼくは食事に関する脳の回路がぶっこわれているから、目の前に食べ物や飲み物があると口にせずにはいられない。腹いっぱいになっていても目の前に食べ物があれば口に運んでしまう。後で吐くぐらい食べる。
だから「そろそろ腹いっぱい/酔ってきたな」と思ったら食べ物や酒を自分の前に置かないようにするのだが、結婚式場とキャバクラではグラスが空くと勝手に注ぐやつがいる。
なんだそのシステム。わんこそばか。
今どき落語家のお弟子さんでもそこまでしないぞ。最近の落語家弟子事情は知らんけど。
自分の酒は自分のタイミングで飲ませろよ。入れられたら飲んじゃうだろ。話が途切れがちになるから、余計に酒が進む。

というわけで三回キャバクラに行ったときは三回ともべろべろになって、正直何を話したかよく覚えていない。
だから、もしかしたら後半は酔っぱらってめちゃくちゃ楽しくなって「いえーい! キャバクラさいこー!!」と叫んでいた可能性も、ないではない。


2017年12月14日木曜日

子育てでうれしかったこと


子育てに関して、最近うれしかったこと。

1.
保育園での面談のとき。

先生「〇〇ちゃん(娘)は恐竜が好きですよねー」

ぼく「そうなんですよ。百均で恐竜のおもちゃを買ったら思いのほか興味を持ったので、図鑑を買って一緒に読んだり、博物館に連れていったりしてたら、ぼくよりずっと詳しくなっちゃいましたね」

先生「そうやって子どもが何かに興味を示したときに次々に興味を満たす環境を用意してあげるのってすごくいいことですよ。すばらしいですね」

ぼく「ありがとうございます」

という話をした。
家に帰ってこのやりとりを思いかえしたら、うれしさがこみあげてきた。
そんなに大したこと言われてないのになんでこんなにうれしいんだろうと思ったら「そうか、褒められたからか」と気づいた。

子育てをしていると、いろんな人から褒め言葉を言ってもらえる。「おたくの〇〇ちゃんはもう××ができるなんてすごいですねー」とか「〇〇ちゃんはかしこいですよねー」とか。
もちろん、親としてはうれしい。
でも、子どもが褒められる機会は多くても、親が褒められることは意外と少ない。というよりほとんどない。公園で子どもと遊んでいると「いいパパですね」はときどき言ってもらえるが、やっていることといえば単に一緒になって遊んでいるだけなのでいまいち褒められ甲斐がない。

その点、「子どもが何かに興味を示したときに次々に興味を満たす環境を用意してあげるのってすごくいいことですよ。すばらしいですね」はうれしかった。
子育てには正解がないからこそ、育児のプロである保育士さんから「それはいいことですね」とお墨付きをもらったことは、すごく自信になった。

ビジネスの世界でも、出世をすると褒められる機会が少なくなるから偉い人を褒めるとすごく喜ばれる、という話を聞く。
親もあんまり褒められない。でも親だって褒めてほしい。

ぼくも、よその子どもだけでなく、その親もどんどん褒めていこうと思う。


2.
保育園に娘を送っていったときのこと。
他の子がぼくに「あっ、おじいちゃんだー」と言ってきた。
ぼくは「おじいちゃんちゃうわ! おっちゃんじゃ! 君こそおばあちゃんやろ!」と言いかえす。
その子はおもしろがって「おじいちゃん! おじいちゃん!」と言う。いつものやりとりだ。

ただ、その日は周りの子も一緒になって、ぼくに向かって「おじいちゃんだ!」と言いだした。
あっという間に十人ぐらいによる「おじいちゃん! おじいちゃん!」コールがはじまった。
これにつきあっていると仕事に遅れるので「おじいちゃんちゃうわー!」と言い残して保育園を出ていったのだが、去り際にぼくの娘が「うちのおとうちゃん、おもろいやろ」と自慢げに言う声が聞こえた。

背中で聞いたその言葉がすごくうれしかった。娘が父親を誇りに思ってくれたことが。

やったことといえば、四歳児たちにからかわれただけなんだけど。

2017年12月13日水曜日

みんなあくびが教えてくれた


 小学生のとき、担任の先生の説教中にあくびをしたら怒られた。
「怒られてるのにあくびをするんじゃない!」と。

 本を読んで知識だけはある嫌なガキだったので「あくびをするのは脳内に酸素をとりこんで活性化させるためで、集中しようとする意欲の表れですよ」という意味のことを言った。もっと怒られた。
 おかげで、怒られてるときに正論で返さないほうがいいということを学んだ。

「あくびをするのはたるんでる証拠」みたいな風潮には今でも与することができない。むしろ「あくびをするなんて、眠いのに俺の話を聴こうとしているんだな。感心感心」と褒めてほしいぐらいだ。


 前にいた会社では、毎朝十五分も朝礼をやっていて、まったく異なる部署の人たちのまったく自分に関係のない報告を延々と聞かされていた(そんな朝礼の最後に「効率的に行動せよ」みたいなことを言われるのがたまらなくおもしろかった。サイコー!)。
 どうでもいい話を聞かされるわけだから当然眠たくなる。しかし人が話しているときにあくびをするのは印象が悪い、ということを大人になったぼくは知っている。だからといって眠るのはもっとよくないことも。
 仕方なく、持っていた手帳に落書きをすることで時間をつぶしていた。"ごんべん"の漢字を思いつくかぎり書くとか、「〇ー〇ン」という条件を満たす単語(カーテン、ローソン、ピータンなど)を思いつくかぎり書くとか、手帳の後ろに載っている東京近郊の鉄道路線図を見てどこからどこへ行くのがいちばん乗換回数が多くなるか考えてみるとか、そんなことばかりやっていた。

 親しい同僚からは「おまえぜんぜん話を聴いてないな」と言われていた。あたりまえだ。
 ところがさほど親しくない同僚や上司からは「犬犬くんは熱心にメモをとってますね」と褒められることがあった。ばかか。他人の「今月目標〇件、達成〇件、見込〇件!」をメモするわけないだろ。でもぼくが神妙な顔をしながら遊ぶのがあまりに上手なので、まんまと騙されていたらしい。


 あのときあくびを叱ってくれた先生、見ていますか。
 おかげでぼくはこんなに立派なこずるい大人に育ちましたよ。


2017年12月12日火曜日

走れ読書人


"遅刻"に対して恐怖といっていいほどの感情を持っている。前世では大事な式典に遅刻して将軍様に粛清されたのかもしれない。

学生時代は授業がはじまる一時間以上前に学校に行っていた。野外観察同好会なのに運動部の朝練よりも早かった。
今でもはじめての場所に行くときはかなり早めに出発する。方向音痴なので三度目くらいの場所でもだいぶ早めにでかける。迷うことも勘定に入れてスケジュールを組む。最近はスマホのおかげで迷うことはほとんどなくなったが、それでも早めに出発する習慣は変わらない。
だからだいたい約束の二十分前ぐらいに目的地に到着する。二十分前というのは半端な時間で、トイレに行ったりして時間をつぶすには長すぎるし喫茶店を探してコーヒーを飲むには短すぎる。だいたい路上で本を読んで時間をつぶす。路上で本を読んでいる人を見たらぼくだと思ってもらってまずまちがいない。


路上で本を読むとおどろくほど集中できる。自宅で読むよりよっぽど没頭できる。路上には人や車や音が多いが、情報が多すぎるとかえってひとつのことに集中できるのかもしれない。
おかげでこないだあやうく遅刻しそうになった。本を読んでいるうちに気がついたら時間ぎりぎりになっていたのだ。
あわてて待ち合わせ場所まで走った。間一髪、すべりこみセーフ。しかし肩で息をしているぼくを見て、待ち合わせの相手は「こいつ遅刻しかけたな」と思ったにちがいない。
ちがうんです、ぼくは二十分前に来ていたんです。
路上で本を読んでいたと思ったらいきなり走りだした人がいたら、まずぼくだと思ってもらってまちがいない。

2017年12月10日日曜日

四人のおとうちゃん


ぼくには子どもがひとりいるが、ぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶ子は四人いる。隠し子ではない。

娘の保育園の友だちといっしょに遊んでいたら、娘がぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶので、その友だちもぼくのことを「おとうちゃん」と呼ぶようになった。
彼らは自分の父親のことを「パパ」と読んでいるので、ぼくのことを「おとうちゃん」と呼んでも呼び名はバッティングしない。だから抵抗なくよそのおじさんを「おとうちゃん」と呼ぶ。
(ぼくが子どもの頃は「パパ、ママ」派はほとんどいなかった。でも今の子どもたちは、ぼくが観測しているかぎりでは八割ぐらいは「パパ、ママ」派だ。時代は変わったなあ)

よその子から「おとうちゃん」と呼ばれるぐらいなつかれるのはちょっとうれしいけど、でも実のおとうちゃんに申し訳ない。だから「おっちゃんだよ」と訂正するのだけど、うちの娘が「おとうちゃん」と呼ぶのでつられて「おとうちゃん」になってしまう。そんなわけでぼくは四人の子どものおとうちゃんをやっている。



子どもを持つようになってわかったのは、世の中の人はあまり子どもと遊ぶのが好きじゃないんだなあ、ということ。
ぼくの父親はよく子どもと遊ぶ人だった。自分の子どもだけでなく、よその子とも遊んでいた。よく会っていた伯父さんもそういう人で、しょっちゅう家に子どもたちを招いて遊んでいた。
だから子どもを持つようになると「意外とみんな子どもと遊ばないのね」と思った。公園に行っても、子どもがひとりで遊んでいて親はおしゃべりしたりスマホを見たり、という光景をよく目にする。

子ども好きのおじさんに囲まれて育ったからか、ぼく自身は子どもと遊ぶ。自分の子はもちろん、よその子とも。
娘の友だちと遊んでいるうちに気づけば娘がほったらかしになっている、なんてこともある。子どもとどれだけ遊んでいても苦にならない。というより、よそのお父さんお母さんと話すのは気を遣うので、子どもと遊んでいるほうがずっと楽だ。

よその子と一緒に二時間くらい走りまわっていると「いいパパですね」なんて言われることがある。遊んでいるだけで褒められるのだからいい身分だ。いえーい。
でも、ちがうぞ、と思う。べつにいいパパじゃないぞ。まず「おとうちゃん」だし。

以前、こんなことを書いた。

 子どもがぼくのおしりをさわったら、おおげさに嫌がる。「きゃっ、やめてやめて!」と叫ぶ。
 これで子どもはイチコロだ。
 けたけたけたと笑い、もっと困らせようとぼくのおしりをさわろうとしてくる。
 あとは両手でおしりを押さえながら「やめてやめて!」と逃げればいい。猫じゃらしを振られたネコのように、子どもは逃げまどうおしりを追いかけずにはいられない。
 その後は走って逃げたり、ときどきわざと捕まったり、逆襲して子どものおしりを軽くたたいたりすればいい。
 あっというまに子どものテンションはマックスまで上がる。子どもの数が多ければ多いほど興奮の度合いは高まる。

ぼくが子どもと仲良くなる方法は「自分を相手と同じレベルに持っていく」だ。おしりをさわられたらおしりをさわりかえす、「あっかんべー」とされたら「おならプー」と言いかえす、かけっこをする前には「おっちゃんは子どもより速いからぜったいに負けへんで!」と宣言する。こういうことをすると、子どもは「この人はいっしょに遊んでくれる人だ」と認識するらしく、たちどころに心を開いてくれる。
つまり、"おとなげないふるまいをする"ことが、子どもと遊ぶときにぼくが心がけていることだ。かけっこで負けても「〇〇くん、足はやいなー」と褒めたりしない。「今のはスタートが早かった。ズルしたからもう一回!」とおとなげなく食いさがる。これこそが子どもと遊んでもらう秘訣だ。そう、遊んであげるのではなく遊んでもらうやり方なのだ。


だから「いいパパ」と言われると、それはちょっと違うんじゃないか? と思う。いいパパってのは、優しくて鷹揚な良き指導者なんじゃないだろうか。
ぼくがやってるのはむしろ、いい歳しておとなげない「困ったおじさん」だ。だからせいぜい「いいお友だちが見つかって良かったね」ぐらいのほうが身の丈にあっているお言葉だと思うんだよな。


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2017年12月5日火曜日

氷漬けになったまま終わる物語



四歳の娘とともに、今さらながら『アナと雪の女王』を観た。
あれだけ話題になっていた作品だがぼくが観るのははじめて、公開当時ゼロ歳だった娘ももちろん初鑑賞だ。

噂にたがわぬ良い作品だった。テンポの良い展開、映像の美しさ、わかりやすくもほどよく意外性のあるストーリー、心地いい音楽、上品なユーモアといかにもディズニー映画らしい魅力にあふれていた。


で、「この人は誰?」「今エルサはどうなってるの?」としきりに訊いてくる娘に対して「クリストフっていう氷を売っている人だよ」とか「今はひとりで氷のお城にいるよ」とか説明しながら観ていたのだが、終盤のアナとエルサがピンチに陥るシーン、ふと見ると娘の様子がおかしい。
「アナは凍っちゃったん?」と尋ねるその声は、完全に涙声。顔をのぞきこむと、泣いてこそいないものの目を真っ赤にして涙をいっぱいに浮かべている。


なんとひたむきな鑑賞姿勢だろう、とその姿に感動してしまった。

『アナと雪の女王』を観るのはぼくもはじめてだけど、こっちは「まあディズニー映画だからいろいろあってもみんな助かって誤解も解けて悪いやつは罰を受けて、最後はみんなで楽しく踊るんでしょ」という心持ちで観ている。エルサが捕まって牢屋に入れられるシーンも、アナが凍ってしまうシーンも「このままのはずはない」と思っている。これまでに観て、聴いて、読んだ数多くの物語の経験から知っている。

だが四歳児は己の中に蓄積した物語の量が圧倒的に少ないから、「この先どうなるか」という選択肢を限定せずに観ている。登場人物が「このままじゃ死んじゃう!」と言えば、物語慣れしている大人は「ということは助かる道があるのね。そして助かるのね」と読みとるが、四歳児は素直に「死んじゃうんだ」と思う。


もちろん最後はハッピーエンドになるが(ネタバレになるが、エルサが暗い牢屋に閉じ込められてアナが氷漬けになったまま終わらない)、最後まで観終わった娘はしばらく茫然自失だった。
もし自分が殺されそうになって間一髪で助け出されたら、こんな状態になるのではないだろうか。
四歳児がストーリーをどこまで理解できたかはわからない。だが、彼女は完全に物語の登場人物たちと同じ体験をして同じ気持ちを味わっていたのだ。

ドラえもんの道具に『絵本入りこみぐつ』という、絵本に入って登場人物と同じ体験ができる道具があるが、幼児はそんな道具を使わなくても同じことができている。
なんともうらやましい話だ。


2017年12月3日日曜日

葬式に遅刻してスニーカーで行った男


祖母の葬式に遅刻した。
大学生のときだ。

ぼくは関西在住、祖母は福井県の田舎に住んでいることもあり、顔を合わすのは子どものときでも一年に一度くらい、中学生になって親戚付きあいを疎ましく思うようになってからは三年に一度くらいしか会わなかった。
祖父母の家は田舎の農家だから絵にかいたような亭主関白の家庭で、ぼくたちが遊びにいっても祖母は常に台所にいて働いており、食事のときも常に忙しく立ちふるまっていてみんなの食事があらかた済んでから部屋の隅で自分の食事をとっていた。愛想のない人ではなかったが、遊んでもらったという記憶はない。孫が来たときでもそうなのだからずっと働きづめだったのだろう。

そんな祖母だから、あまり思い出がない。
唯一おぼえているのは、ぼくが中学生のときに祖母が家にやってきて、ぼくの姉に向かって「よう肥えたねえ」と言ったことだ。「大人っぽくなった」「女らしくなった」という意味で言った褒め言葉だったのだと思うが、思春期の姉には「デブ」と聞こえたらしく、翌日から食事制限をするようになった。田舎のおばあちゃんらしいエピソードだ。


あまり思い出がないからというわけではないが、ぼくは葬式に遅刻した。
原因は、二度寝。最悪のやつだ。
父から祖母が死んだという電話があり、翌日、下宿先の京都から特急に乗って福井に向かうことになっていた。起きたら出発予定時刻を一時間半も過ぎていた。
前日から行って通夜や葬儀の準備をしていた父に電話をした。
「ごめん、寝坊した」と告げると父は絶句した。「……」絵にかいたような絶句。母親が死んだときに息子から「寝坊したから葬式に遅れる」と告げられた中年男の感情は今でもうまく想像することができない。絶句するしかないのだろう。

「ともかく急いで来い。駅からはタクシーで来い」とだけ言われた。
あわてて喪服を着て家を出た。電車に乗ったところで、いつもの習慣でスニーカーを履いてきてしまったことに気がついた。大学生らしいかわいい失敗だ。しかし今さら取りに帰る時間も、革靴を買う時間もない。そのまま特急サンダーバードで福井へと向かった。
駅でタクシーを拾い、行き先を告げた。本当なら父親が駅まで迎えにくる手はずになっていたが、もう葬式がはじまっている時刻だ。故人の次男が葬式を抜けだすのは無理だろう。
祖母の家は最寄駅から車で四十五分の山中にある。父親が幼少の頃は牛を飼っており、冬の夜は凍えないように家の中に入れていたという。そんな昔話のような家の「ただ、広い」という唯一の長所を活かして家で葬儀をあげることになっていた。
タクシーで四十五分だから料金は一万円くらいだったか。大学生には痛かったが致し方ない。

ぼくが到着すると、葬儀は故人に最後のあいさつをするくだりだった。いよいよ大詰め。ぎりぎり間に合ったのだ。
あまり悲しくなかったが、泣きくずれている父親を見ていると「この人はお母さんをなくしたんだな」と思ってつらくなった。祖母が死んで悲しいというより「母親が死んで悲しい人の気持ちを想像して悲しい」だった。他人の悲しみを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな、とひとごとのように思った。

無事に葬儀が終わった。盛大に遅刻したうえに喪服にスニーカーでやってきたぼくは親戚一同から怒られるだろうなと覚悟していたのだが、ちっとも怒られないどころかおばちゃんたちから「たいへんだったねえ」「よく来てくれたねえ」と労われた。
終わるぎりぎりに現れた変な恰好のぼくを見て「忙しいのにとるものもとらず急いで駆けつけたおばあちゃん想いの孫」と解釈してくれたようだった。
ちがうんです、ただの寝坊です。しかも一度は起きたのに二度寝しちゃったんです。スニーカーなのはただばかなだけです。

父親は苦々しげにぼくを見ていたが、「でもまあ間に合ってよかった」とタクシー代として一万円をくれた。
ラッキーと思ったが、「でも母親を亡くした直後にばかな息子にお金を渡さなきゃいけないなんてこの人もつらいだろうな」と思うとひとごとのように嘆かわしくなった。父親の嘆かわしさを拝借しているのだ。人間の感情って複雑だな。

2017年11月29日水曜日

つくり笑いの教え方


つくり笑いがへただ。
ここはうそでも笑っといたほうがいいと頭ではわかっているのに、どうもうまく笑えない。


冗談というのは必ずしもおもしろくなくてもいい。場を和ますためにたいしておもしろくない冗談を言うことが必要なときもある。それは理解している。そして、おもしろくない冗談を言った人に対してはつくり笑いで返してやるのが人間関係をスムーズにする潤滑油であることも。
でもとっさに笑顔が出ない。ひと呼吸おいて「あっこれ笑ったほうがいい状況だ」と考えて、それからようやくひきつったように口の端を持ちあげる。せっかく和みかけた場が、ぼくのへたなつくり笑いのせいでまたぎくしゃくしてしまう(ように感じる)。

我ながら愛想がないなあと思う。でも世の中の人だってほとんどがはじめからできていたわけじゃないだろう。ひたすら慣れるしかないのだろうな。
体育会系の先輩のギャグを見せられたり、上司と酒を飲みにいって冗談を傾聴したり、そうしたことの積み重ねでつくり笑いはうまくなっていくのだろう。ずっとそういう場から逃げてきたぼくがうまくつくり笑いをできないのは当然のことなのだ。

中島みゆきの『ルージュ』という曲にこんな歌詞がある。
つくり笑いが うまくなりました
世渡りがうまくなった自分を悲観的にうたっている歌だ。ぼくも二十歳くらいのときはこの歌を聴いて「ああ世間ずれしてしまうって悲しいなあ」と思っていた。そしてそんな自分が好きだった。
でも三十を過ぎた今、「つくり笑いがうまくなるのって悲しいことじゃなくてむしろ喜ばしいことだ」と思う。
つくり笑いがうまいほうがぜったい得だし、周りを幸せにするし、自分自身もハッピーになる。

だからわが子に対して「つくり笑いが上手な人になってほしい」と望んでいる。
でもつくり笑いを上手にするのってどうやって教育したらいいんだろうね。
だじゃれを連発する父親になるとか? でも父親相手にはつくり笑いなんてしてくれないだろうしね。家庭でつくり笑いを教えるのは無理なのかな。


2017年11月28日火曜日

偏差値三十の靴


女の人は男の靴を見るっていうじゃない。
服は少々無理をしていいものを着れるけど、靴にはほんとの余裕が出るって。
だから男の価値は靴で決まるって。

やめてくれ。見ないでくれ。
自慢じゃないがぼくの靴はへろへろだ。たぶん歩き方がヘンなんだと思う。すぐに足の甲のところに線が入る。磨くことはないからすりきれて黒い靴が白っぽくなってる。靴ベラを使わずに足をつっこむからかかとのところがふにゃふにゃになってる。結び目もヘンだ。
偏差値三十の靴だ。ここからの第一志望合格は厳しそうだ。


まあ見るのは勝手だけどさ。でもそれを公言しないでくれ。「女は男の靴を見るのよ。だからいい靴履きなさい。毎日磨きなさい。靴にはそれはそれはきれいな女神さまがおるんやで」ってプレッシャーをかけるのはやめてくれ。そっと見るだけにしてくれ。

男は女の胸元を見るとき、こそっと見る。見ていないような顔をしてちらっと見る。ましてそれを公言したりしない。口が裂けても「女の価値は胸で決まる」なんて言ったりしない。
なのに女は「女子はけっこう男性の靴を見てるよ」と堂々と言っちゃう。セクハラだ。エッチ。

これ以上女性が男の靴についてとやかく言うのならぼくだって……いや、これ以上はほんとのセクハラになるのでやめとこう。