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2017年11月7日火曜日

満員電車における偉い人


満員電車って、先に乗ってたほうが偉いみたいな感覚ないですか? ぼくはあるんですけどね。

混んでる電車に乗りこむじゃないですか。すみませんすみません、混雑に加担してすみません、さしつかえなければほんのちょっとでいいんでスペース使わせてもらっていいですか。や、ありがとうございます。ぼくみたいな人間のために詰めていただいて恐縮至極。みたいな気分なんですよね。

で、次の駅に着いて何人か乗りこんでくるじゃないですか。そうすると後輩に対してはすごく厳しい目でみてしまうんですよね。
なんだよこんなに混んでるのに乗ってくんのかよ。空気読めよ。ほんとにそこまでして出かけないといけないのかよ、どうせ大した用事じゃないんだろ。六駅ぐらいだったら健康のために歩けよ。えっ後から来たくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。そこ、おしゃべりすんな。生まれてきてすみませんって顔しとけよ。みたいな心境なんですよね。

どうしてあんな気分になるんでしょうね。ふしぎですね。ぼくだけですかね。
はじめの一駅ぐらいは肩身狭く乗ってるんですけど、後輩ができたとたんに先輩風吹かしたくなるんですよね。
先に乗ろうが後に乗ろうが同じ距離乗ったら同じ運賃払ってるんですけどね。なのについつい後発組を差別してしまう。


部活で二年生が一年生にやたらと偉そうにするのも同じ感覚なんでしょうね。
年寄りが偉そうにしてるのも同じ理屈ですかね。日本列島という満員電車に先に乗っていたものとして、後から乗車してきた若者に憎しみを覚えてしまうのかもしれませんね。

もっといったらゴキブリも人類に対して同じ感情持ってるかもしれませんよね。
なんだよこんなに混んでるのに新しい種が誕生しやがって。空気読めよ。ほんとにそこまでして生きないといけないのかよ。どうせ大した人生じゃないんだろ。えっ新参者のくせにそんなにスペースとるの? もっと遠慮しろよ。

そういう意識があるから人間の居住空間にずかずか入りこんでくるのかもね、ゴキブリだちは。


2017年11月6日月曜日

進学か、就職か、それとも行司か


友人・花泥棒氏と話していて、野球の話からスポーツの審判の話になり、相撲の行司の話になった。
「相撲の行司ってどういう人がなるんでしょうね」


野球のアンパイアやサッカーのレフェリーになるのは、きっと野球やサッカーの選手だった人だろう。
いろんな事情で現役続行が困難になり、それでもなんらかの形で競技に関わりたいと思い、審判を志す。そんなケースが多いのではないだろうか。想像だけど。

でも相撲の行司はちがうような気がする。
見るからに力士とは別人種だ。部屋に入門して何年か稽古を積んだけどなかなか十両になれないので行司の道へ、みたいなコースではなさそうだ。元力士の体格ではないもの。

調べてみると、行司になるためには19歳までにテストを受けなければならないらしい。年齢制限があったのだ。
厳しいと言われている将棋の世界でも「23歳の誕生日までに初段に昇格できなければプロにはなれない」というルールだ。年齢制限だけでいうなら行司はもっと厳しい。
しかし行司が19歳までなんて知らなかった。ぼくが高校生のときの進路指導の先生は一言もそんなこと言ってくれなかった。
「おまえ進路どうすんだ。進学か、就職か、それとも行司か。進学したらもう行司にはなれないんだぞ」って教えてくれなかった。ひどい。こうして若者の可能性は潰えていくのだ。
行司になりたいと思っている高校生は早く進路を決めよう。時間いっぱい、待ったなしだ。

行司の人口は力士よりずっと少ない。相当な狭き門だ。
日本相撲協会の「行司一覧」によると、現在の行司の人数は44人らしい。
日本で44人。たぶん世界でも44人。少ない。超激レアカードだ。どれぐらい少ないかっていったら、たぶんプロの蛇使いが日本に44人ぐらいじゃないかな。それぐらいのめずらしさだ。合コンの相手が行司だったら自慢していい。恋の軍配も上がるはず。なんじゃそりゃ。

さらに調べていると、同じく日本相撲協会の「床山一覧」が目に留まった。

床山というのは力士の髷を結う職業の人だ。
これまた、どういう人がこの職に就くのか、素人には想像もつかない。
美容師専門学校に「床山コース」なんてのがあって、そこで指定の教育課程を修めた人が床山になるんだろうか。それとも宝塚音楽学校みたいに恐山床山学校みたいなのがあるんだろうか。
床山の人数は現在52名。これまた険しき門だ。

力士が四股名を持つように、床山にも床山ネーム(っていうか知らんけど)があるらしい。
相撲協会のHPには、こんな名前が並んでいる。

床蜂 (とこはち)
床松 (とこまつ)
床淀 (とこよど)
床鶴 (とこつる)
床弓 (とこゆみ)
床平 (とこひら)
……

圧巻の「床」一覧だ。

「床」ではじまる名前がずらり。50人ほどの床山がいるが、全員「床」がついている。
この一覧を見て、ぼくは『おそ松くん』を思いだした。おそ松、一松、チョロ松、カラ松、ジュウシ松……(あとひとり忘れた)。
兄弟で統一感のあるネーミングにしようとしてたら思いのほか子だくさんになって名付けに苦戦している親のようで、なんとなくおかしい。

しかし「床」ではじまる名前を50以上も考えなくてはならないのはたいへんだろう。
花泥棒氏は「和尚さんはたいへんだったでしょうね」と云っていた。
いきなり苗字を持つことを義務づけられた平民のように、みんな和尚さんに床山ネームをつけてもらいにいっていると想像するととてもユーモラスだ。
いやじっさい、和尚さんはたいへんだっただろう。「床藤はもう使ったっけ?」みたいになったりして。和尚さんなのかな。床山ネームをつけるのがうまい「床上手」みたいな職業の人がべつにいるのかな。

和尚さんも、はじめはその人のパーソナリティーにあった名前をつけていただろうけど、後半はネタ切れになってきて目に留まったものをつけたりしてそうだ。豆が落ちてたから床豆、とか。
「床鶏(とこけい)」という床山がいるが、これなんかは「おまえ昼飯何食った?」「ケンタッキーです」「じゃあ床鶏だ」みたいなやりとりがあったと想像される。


力士の髷がいちばん注目されるのは、なんといっても断髪式だろう。なくなる瞬間がいちばんスポットを浴びるというのも皮肉なものだ。
断髪式では感きわまって涙を流す元関取も多いが、床山はきっとそれ以上につらいだろう。
自分が丹精を込めて結った髷が、次々に切り落とされてゆくのだ。その心中たるや、想像するに余りある。

しかし力士が引退するときは断髪式というセレモニーがあるが、床山が引退するときはどうするのだろう。
引退試合ならぬ引退結いみたいなセレモニーがあるのだろうか。渾身の髷を結って最後はステージの真ん中に櫛をそっと置く、みたいな演出があるのかもしれない。


2017年11月5日日曜日

汚い手で選挙に勝つ方法


選挙に立候補したとするよね。小選挙区で。

出馬したのは自分ともう1人(以下Aとする)。

下馬評ではAがやや有利。

このとき、選挙事務所を構えて選挙運動をするよりも「対立候補者を増やす」って戦略のほうが有利なんじゃないかと思った。


どういうことかっていうと、人を雇って立候補させるわけ。自分と同じ選挙区に(これを泡沫候補B、泡沫候補Cとする)。

泡沫候補たちの公約は、対立候補であるAとまったく同じにする

つまり味方じゃなくて敵を増やすわけね。

Aとまったく同じ政策でAより若い泡沫候補B。Aとまったく同じ政策でAとは性別の異なる泡沫候補C。みたいな感じで。

浮遊票のうちAと考え方の近い人の票はA、B、Cに割れる。

結果、特定の支持者を持たない人からのAの獲得票が3分の1になり、自分にとって圧倒的に有利になる。


……って戦略を考えたんだけど、どうでしょう。

すごく汚い手口だけど、有効なんじゃないでしょうか。

もちろん泡沫候補Bと泡沫候補Cの分の供託金は没収される可能性が高いけど、金にものを言わせられる候補者ならこの戦略をとればだいぶ勝ち目が高くなりそうですよね。

もしかしてもうやってる候補者とか、過去にやった候補者とかいるのかな。

2017年10月30日月曜日

タンクトップジャージャー麺


北京にいたとき、ジャージャー麺屋さんに行った。

今はたぶん様変わりしているんだろうけど、15年前の北京ってほんとに田舎街で、小さな商店がたくさんあるばかりで、マクドナルドもスターバックスも市内有数の繁華街に数店舗あるぐらいだった。

飲食店も夫婦と子どもでやっているような零細店がほとんどで、だから友人から「有名なジャージャー麺屋さんがあるらしいよ」と聞いたときも、「どうせ隣近所の間で有名ってぐらいでしょ」と半信半疑だった。

店につくと、なるほど50席ぐらいはある大きな店で、しかもほぼ満席で、たしかに北京ではめずらしいぐらいの有名店といってよさそうだった。

ぼくがまず驚いたのは、店内にはいるなり店員たちが一斉に何事かを叫んだことだった。
おそらく「いらっしゃいませー!」的なことだと思う。

それでなぜ驚くのかと思われるかもしれないが、北京の店ではまず店員があいさつなどしなかったのだ(今はどうかしらない)。

釣銭を投げて渡す、隙あらば釣銭をごまかそうとする、何か質問すると「はぁ?」という挑発的な返答がかえってくる(これは中国語で「え?」ぐらいの意味なのだが、語調が強いのもあいまってとにかく威圧感がある)など、北京人の接客態度はとても感じがいいとはいえず、まあそれはそういう文化だからべつにいいんだけど、それに慣れきっていたのでいっせいに「いらっしゃいませー!」を言われて思わずひるんでしまったのだ。

はじめてブックオフに入ったとき以来の衝撃である。

威勢の良い接客、明るく清潔な店内。日本ではあたりまえの光景だが、北京では異様に思えた。


しかし、そのジャージャー麺屋さんにはもっと驚くべきことがあった。

ホールには15人ぐらいの店員がおり(50席程度の店にしては多すぎる)、しかもそれが全員18歳ぐらいの長身のイケメン男性であり、さらには彼らの服装が一様に真っ白なタンクトップだったことだ。

一瞬、目がくらくらした。
これはどういう状況なんだろうか。
この店の情報を仕入れてきた友人に目をやると、彼もまたタンクトップについてはまったく知らなかったらしく、困り笑いを浮かべながら目を泳がせている。

風俗店なのかも、と思った。
当時の北京では風俗店が目くらましのために美容院の看板を掲げていた。
そういえば中国は宦官制度を生んだ文化の国でもある。
これはそういう性癖の人向けのいやらしい店なのかもしれぬ。ノーパンしゃぶしゃぶならぬタンクトップジャージャー麺なのかもしれぬ。

しかし見たところ、他のテーブルではみなふつうにジャージャー麺をすすっているし、ジャニーズJr.のような店員の少年たちは威勢がよいだけでちゃんとオーダーをとっているし、おさわりをされたりタンクトップの隙間に人民元紙幣をはさまれたりもしていない。

というわけでなにがなんだかよくわからぬままにジャージャー麺をオーダーし、狐につままれたような気分のままさわやかなタンクトップ少年が運んできたジャージャー麺をすすった。


めちゃくちゃうまかった。
さすがは有名店、と思った。北京滞在中に食べた食事のなかでいちばんおいしかった。

しかし疑問は余計に増した。
味だけでも十分に勝負できるだろうに、なぜこんな安っぽい話題作りのようなことをしているのだろうか。
オーナーの趣味なのだろうか。


あれから15年。
あれ以来ぼくはジャージャー麺を好きになり、機会があればジャージャー麺を注文するが、いまだにあのときのジャージャー麺を超える味には出会っていない。

日本にもタンクトップの美少年たちがあふれるジャージャー麺屋さんが上陸してくれることをぼくは心待ちにしている。いやそういう意味じゃなくて。


2017年10月28日土曜日

つまらない本を読もう


とある人が「世の中にはつまらない本が多い。誰だっておもしろくない本は読みたくない。だから読書離れが進んでる」と書いていた。

本好きのひとりとして、いやそれはちがうぞと思った。


うーん、どう説明したらいいんだろう。

そりゃおもしろい本を読みたいんだけど。おもしろくない本は読みたくないんだけど。

でも、つまらない本があるからおもしろい本を読む喜びがあるわけで。

本好きならみんなそれを知ってると思うんだけど。



たとえば野球観戦。

いちばん見たい展開ってどんなんかな。

僅差のゲームで終盤の逆転により贔屓チームが勝利、みたいな展開だろうか。見ていて気持ちいいよね。

でも全部がそんな試合だったら野球を観る楽しみは大幅に減少してしまう。

勝ったり負けたり、ときにはつまらないエラーで贔屓チームが負けたり、序盤に大差のついてしまうワンサイドゲームがあったり、そういう試合があるからたまに起こる逆転サヨナラゲームが楽しい。

野球観戦にかぎらず、どんな趣味でも同じだと思う。

いいときだけでないからこそおもしろい。



「誰だっておもしろくない本は読みたくない」と書いた人は、ほとんど本を読まない人だと思う。

誰にとってもおもしろい本ばかりになったら、そのとき本は死ぬだろうな。


2017年10月25日水曜日

ズゾゾゾゾゾゾゾォ


少し前にこんなことを書いたんだけどさ。



身のまわりの機械製品を考えたとき、親しみを感じるものとそうでないものがあるな、と思った。

たとえば電気髭剃りには、あまり親しみがわかない。
長く使っていたら愛着は湧くけど、電気髭剃りに名前をつけて友人やペットのように接している人は、たぶんそう多くない。
「わたしは髭剃りをブラウンって名前で読んでます。こないだ壊れたときは庭に埋葬しました」ってあなた、あなたは少数派です。



ロボット掃除機に親しみを覚える人はけっこういる。
「うちのルンバちゃん」みたいな言い方をする人もいる。
ぼくの家にはロボット掃除機がないのでわからないけど、たぶんペットに近い感覚なんだと思う。イヌやネコとまではいかなくても、飼ってるザリガニに対して湧くぐらいの親しみは湧くんじゃないだろうか。


親しみが湧くかどうかは、使う頻度とはあまり関係がない。

ふつうの人がいちばん接する時間の長い電化製品はテレビだと思うが、テレビ自体をペットのようにかわいがっている人はちょっとアレな人だ。テレビのことを「テレビのジョン」って呼んでるあなたのことです。

最近はしゃべる家電も増えているが、それも親しみとはあまり関係ない。
うちの湯沸かし器は「ノコリヤク5フンで、オフロガワキマス」「オフロガ、ワキマシタ」としゃべるが、それに対して「おうおう、ういやつじゃ」とは思わない。返事もしない。昭和の関白亭主のように黙って風呂に入る用意をするだけだ。


たぶん、ポイントは「自走するかどうか」なのだと思う。
だから、アイボやC-3POのように犬や人の形をしている機械はもちろん、ロボット掃除機のように楕円形の機械に対しても親愛の情を持つのだろう。

だって想像してみてほしい。
もしもロボット掃除機が部屋の片隅からぴくりとも動かず、超強力な吸引力を発生させて「ズゾゾゾゾゾゾゾォーーーーー!!!」と部屋中のごみを一気に吸いこむ方式をとっていたとしたら。

怖くてしかたがない。


2017年10月24日火曜日

陽当たりの悪い部屋


学生時代、陽当たりの悪い部屋に住んだことがある。

窓のすぐ向こうには別のマンションが建っていて、昼でも薄暗かった。


不動産屋と内見に行ったときから「暗い部屋だな」と思ったが、家賃が安かったのでぼくはその部屋を選んだ。

暗ければ電灯をつければいい。

どうせ布団を干さないから陽当たりなんかどうでもいい。

その前に住んでいた部屋が最上階で陽当たり良好の部屋だったためにめちゃくちゃ暑かったので「むしろ陽が当たらないほうが涼しくていい」ぐらいに思っていた。



住んでみると、はたしてその部屋は陽当たりが悪かった。

一日中陽があたることがなかった。

しかし夏場は快適だった。

窓は2か所についていたので両方とも開けはなつと風が通りぬけ、涼しくて気持ちがよかった。


だがたいへんなのは冬場だった。

その部屋に住んではじめて知ったのだが、陽当たりの悪い部屋というのは外と中の温度差が大きいから結露がすごい。

朝起きると、窓にびっしりと露がついていた。窓につくだけでなく、床にまで落ちていた。

窓際に置いていた本が濡れてびちゃびちゃになっていた。

窓を雑巾で拭くと、バケツ半分ぐらいの水がとれた。たかだか10畳ぐらいの部屋で、どこにこれだけの水があったのかと驚いた。

それが毎日である。

風を通せば多少は改善するのかもしれないが、冬場に窓を開けはなして風を通すなんて寒いからしたくない。

ずっと部屋を閉めきって、朝になると窓を拭いて水を捨てて、湿っぽい部屋で過ごした。

洗濯物は部屋干しをしていたが、どれだけ干しても乾かなかった。

実家に帰ったときに母から「あんたの服、くさいで」と言われた。

湿っぽい部屋にいると気持ちも滅入ってくるし、体にもよくないのだろう、その年はよく風邪をひいた。関係あるのかわからないけど、肺に穴があく肺気胸という病気で入院もした。

失ってその大切さがはじめてわかるものはよくあるが、陽当たりもそのひとつだと痛感した。

ほんと陽当たりの悪い部屋に住んでると心の水蒸気まで凝固しちゃうよ。なんだよ心の水蒸気って。



2017年10月21日土曜日

大学に通うことと単3電池を買うことの違い


小田嶋 隆 『超・反知性主義入門』にこんな記述があった。

 いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。
 なんと、素敵な話ではないか。
 目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。
 大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。

最後の結論はべつにして、ぼくも「大学は実用的なものを学ぶ場じゃない」と思っている。


本屋で働いていたときに、外国語大学に通う学生バイトがいた。

「なんで外大選んだの?」と訊くと、

「オープンキャンパスに行ったんですよ。
 ××大学(総合大学)の文学部は、英語の理論とか文法とかが中心的だったんです。でも外大の授業は外国人の先生との会話が中心で、これなら実践的な英会話が身につくな、と思って外大を選びました」
と彼女は語っていた。

「だったら大学じゃなくて英会話スクール行けよ!」とぼくは心の中で思った(いい大人なので口には出さなかった)。



英会話を身につけたいなら英会話スクールのほうが早いし安い。

大学は実用的な道具を買うところじゃない。電器屋さんに単3電池2本を買いにいくのとはちがう。

単3電池を買うことで得られる効用は事前に予見できる。単3電池は誰に対しても同じはたらきをする。


しかし、映画館でまだ観たことのない映画を観るとか、大学で何かを学ぶということは、効用が事前に予見できない類のものだ。

ハラハラドキドキする2時間かもしれないし、退屈なだけの4年間かもしれない。

ある人にとってつまらない映画が、べつの人にとっては人生最良の1本になるかもしれない。



「いくらの資本を投下すればどれぐらいのリターンが得られるか」というマインドで行動していても、投下したものの100倍のリターンを得ることはできないだろう。

「これをやることで何にどう役に立つかわかりません。というか役に立つ可能性は低いです」
というプロジェクトは、ビジネスマンには受け入れられない。マネーの虎たちはお金を出してくれない(古いね)。

でもそういったプロジェクトが100倍の利益を生んでくれることがある。

教育とか芸術とか医療とか福祉とかインフラとかの分野は、ビジネスマインドとの相性が良くない。

ビジネス向きではないからこそ国が率先してお金を投じないといけないのに、今や国の中枢にまでビジネスマインドは入りこんでしまっている。

いくら投資したらどれぐらいのリターンがあるか、とそろばんをはじいている人ばかりだ。

たとえばオリンピックでも「限られた予算内でより多くのメダルを獲得する」という目標を立ててしまったがゆえに、柔道とか水泳とか体操とかの「比較的ローコストで多くのメダルを稼げる」競技ばかり日本は強くなった。

大学もまちがいなくそうなっていくはずだ。

「TOEICで高得点を取れる大学」とか「司法試験の合格率が高い大学」ばかりになっていって、できるかぎり低予算でTOEICの点数を買う「買い物上手な大学」ばかりになるのだろう。



こういう話は教育の世界にいる人はうんざりするぐらいしつこく言っているはずなのだが、それでも「コスパ」ばかり求めている人たちの耳には届かない。

今後日本の大学教育はどんどん没落していくばかりだ。

ぼくとしては、自分がビジネスとは無縁だった時代の最後に大学に通えたことを、ただ感謝するばかりだ(ぼくが大学4年生のとき、通っていた大学が国立大学法人になった)。

ぼくは「大学の4年間で何を学んだか?」と問われたら「いや、なんでしょうね……。なんかあるかな……」としか答えられないし、だからこそ大学に通って良かったと思う。

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2017年10月19日木曜日

距離のとりかた

 我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。

 春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
 ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。

 名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。

 何中学出身か。

 部活は何をやっているのか。

 誰と仲が良いのか。

 わかったことからどんどん書いてゆく。
 クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。


 そして。

 ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
 クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
 田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。

 おお。
 おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
 どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
 精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。

 あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
 自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
 おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
 親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。

 そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。


 まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
 よくあることさっ。

と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。

 誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。

2017年10月17日火曜日

正義は話をややこしくする


大学1年生のとき、サークルの同級生たちとしゃぶしゃぶを食べた。

ある程度食事も進んだとき、友人Hが言った。

「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」

その言葉はKという男に向けられたものだった。

Kが野菜をほとんど食べずに肉ばかり食べていたのを腹に据えかねて、Hが注意したのだ。

Kはべつに自己中心的な人間なわけではなく、ちょっと周囲の反応に無頓着なだけで、だから「肉を食べたい」という欲望そのままに肉ばかり食べていたのだ。

Kは温厚な人間だったので、少しひるんだ様子は見せたものの「ごめん、気を付けるわ」と言って特にいさかいにはいたらなかった。




さて。

ぼくは、Hの発した「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」という言葉にしびれていた。

「肉ばっかり食いやがって」という気持ちは、よくわかる。

Hが怒鳴る前からぼくもうっすらと「Kのやつ、肉ばっかり食ってるな」と思っていた。

だがぼくはそれを口には出さなかった。

それはぼくが「ええかっこしい」だったからだ。

「おれの食う分が少なくなるから肉ばっかり食うなよ」と口にするのはあさましいと思い、なんでもないようにふるまっていただけだ。

内心では、Hと同じように「肉ばっかり食うなよ」と思っていたにもかかわらず、細かい人間に思われたくないというプライドがじゃまをして、注意することができなかっただけだ。

あまりにも度を越したら注意したかもしれないが、だとしても「みんなの食う分がなくなるから控えてくれ」と言ったと思う。

「おれの食う分がなくなるだろうが」という物言いはぼくにはできなかっただろう。


だがHはきちんと自分の主張を明確にしたうえで、Kに対して要求をつきつけた。

そしてKは素直にその要求に従い、問題は解決した。




Kのように私益のために直截的な怒りをぶつけられるのは、ある種とても誠実な態度といってもいいのではないだろうか。


人は、公益のためなら相当強気になれる。

「地球環境を汚す二酸化炭素を大量に排出する企業はつぶれろ!」とか「こどもたちの健康を害する喫煙者は出ていけ!」とか、大義名分があれば過激な主張もできてしまう。

だが「おれの嫌いなデザインの服をつくっている企業はつぶれろ!」とか「あたしの飯がまずくなるから喫煙者は出ていけ!」なんてことを、顔や名前を出していう人はほとんどいない。

私利私欲のために強い主張をするのは気が引けるのだ。

それは、立場が強いものが弱いものに言うときでも同じである。

企業の経営者は「会社を大きくするためにみんなもっとがんばろう」とか「必死に働くことが自分のためになるのだ。若いときは休みを削ってでも働いたほうがいい」なんて偉そうなことを言うが、「おれの役員報酬を増やすためにみんなもっとがんばろう」とは言わない。

たぶん本心は後者だと思うのだが、どんな強欲な経営者でもそれを口に出すのは気恥ずかしいのだろう。

おそらく自分自身にも嘘をついて「社会のため」「会社の未来のため」といった、より公共性の高いものを持ちだしてくる。





こうした公共的な道徳を持ちだしてくる態度は、話をややこしくする。

たとえば騒音問題。

「おれがうるさく感じるからやめてくれ」と主張すれば、解決に持っていくことはさほど難しくないのではないだろうか。

「あなたは何デシベルまで許容できますか」と訊いて、だったら夜間は〇デシベル以下に抑えましょう、といった具体的な方策を立てることができる。

だが「みんな迷惑してるんですよ」とか「赤ちゃんが安心して眠れないじゃないですか」なんて公共的な道徳を持ちだしてくると、そうかんたんにはいかなくなる。

「みんなが許容できるデシベル数」は誰にもわからない。「うちはいいけど赤ちゃんのいるお隣はどうでしょう……」なんて言いだしたら、騒音をゼロにしないかぎりは「みんな」が騒音に悩まされる可能性はなくならない。

「世界中の貧しい人たち」だとか「未来を担うこどもたち」だとか「この地球に生きる動物たち」だとか、会ったこともないものを持ちだして主張をはじめると、その問題は永遠に解決されることがない。

だって彼らは実在してないんだもの。実在してないものが納得して許容する日は永遠に来ない。





だからぼくは、私的に怒る人でありたいと思う。

自分の怒りを、自分の要求を、自分のものとして伝える人でありたい。

誰かの怒りを代弁するして正義を主張するのは話をややこしくするだけだ。

「みんなが迷惑するから」ではなく「おれの食う分がなくなるから」肉の食いすぎを注意する人でありたいと思う。



2017年10月16日月曜日

テクニックではカバーできない衰え/阿刀田 高『脳みその研究』【読書感想】


『脳みその研究』

阿刀田 高

内容(e-honより)
昔から大ざっぱな性格の定雄は、人の名前を覚えるのが苦手だった。ところが定年を前に、急に記憶力がよくなり、却って不安を抱いてしまう。かわりに何か大事な能力を失っているのではないだろうか…。意表をつく表題作をはじめ、シチリアの夜を描く「海の中道」、母への憧れが生み出す「狐恋い」など珠玉の9篇。


「短篇の名手」を誰かひとり挙げるとするなら、ぼくなら阿刀田高を挙げる(星新一はショートショートの神様なので別格)。

奇抜なアイデア、スリリングな展開、無駄のない構成、スマートなオチ。どれをとっても一級品だ。

中高生のときは古本屋で阿刀田高の短篇集を買いあさり、50作以上あった短篇集のほぼすべてを所有していた。今でも実家にある。

阿刀田高の小説とはなんとなしにしばらく遠ざかっていたのだが10年ぶりぐらいに読んでみた。


あれ。つまんない。

いや、うまい。すごくうまいのだ。
無駄のない構成も、ほどよく散りばめられた教養知識も、テンポのよい文章も健在。
リズムよく読める。
さすがは短篇の名手。

でも、オチまで読んでがっかり。

ぜんぜん切れ味がない。読者の予想を裏切ってくれない。中にはだじゃれのオチもあって、そこまでの話運びがうまいだけに期待を裏切られたがっかり感も大きい。

短篇集だから一作ぐらいはあたりもあるだろうと思って最後まで読んだが、どれも期待外れだった。

最近の作品のレビューを読んでみると、どうやらこの作品にかぎらず衰えが目立つらしい。旧年からのファンたちの嘆きの声ばかりが並んでいる。



小説家にかぎらず、クリエイティブな仕事ってだいたい歳をとるごとに斬新な着想は衰えていく。

そのかわり経験を重ねてテクニックは上がっていくから、技巧を凝らすことで作品の完成度は高くなったりする。

阿刀田高にもそういう時期があって、たいしたことのないアイデアでも阿刀田高が巧みに味付けすることで一級品の仕上がりになっていて、これを他の作家が書いたらきっと凡作だったはずだ、さすがは短篇の名手だとうならされたものだ。

しかし名手のテクニックではカバーできないぐらいアイデアの枯渇が進行してしまったのだろう。

なんちゅうか、引退間近のスポーツ選手を見るような寂しさを感じるな……。



 その他の読書感想文はこちら



2017年10月15日日曜日

なんとなくずるやすみ


朝、4歳の娘が「しんどい……。ごはん食べたくない……」と言う。

ゼリーなら食べられそう? と訊くとこくんとうなずく。
保育園おやすみする? と訊くとこくんとうなずく。

しかし熱を測ると36.2度。
咳も出ていないし昨夜は元気に跳びはねていた。

これはもしかして……と思いながらも保育園に休みますと連絡を入れて、ぼくも会社を休むことにした。
しばらくはおとなしくえほんを読んでいたが、やがて暇をもてあましたらしく「どっか行こうよー」などと云う。
「お昼何食べたい?」と訊くと、「串カツ!」と云う。

おいおまえ、それもっとも病人食と遠いやつじゃないか。
ゼリーしか食べられなかったやつが食べたいっていう食べ物じゃないだろう。

串カツを食べに外に出ると、さっそく元気よく走りはじめた。
「しんどいんじゃなかったの?」と訊くと「しんどい……」と弱々しく応じるが、1分たつとすぐに設定を忘れてまた走りはじめる。

まちがいない。これは詐病というやつだ。
もっと平易な言葉で言うならば仮病。

そういや1年前にも同じようなことがあった。
まあいいか。1年に1回ぐらい、保育園をずるやすみしたくなる日もあるだろう。
うまく表現できないけど、4歳児なりにいろいろ抱えていらっしゃるんでしょう。
保育園に行きたくない理由が具体的にあるわけじゃないけど、ただなんとなく行きたくないこともあるんでしょう。

あえて指摘せず「病気でしんどい娘」という設定に乗っかってあげることにした。

おかげでぼくも仕事を休めた。
こんなことでもないと「体調不良でもないのに休む。何の用事もないのに休む」ってできないしね。いい機会だ。
ぼくも娘のずるやすみにつきあい、本を読んだり昼寝をしたりしてごろごろと過ごした。

翌日、娘は何事もなかったかのようにいつも通りに起きて元気よく保育園に行った。
子どもも大人も、たまには「何の理由もないけどなんとなく休む日」があってもいいと思う。

2017年10月14日土曜日

うまい炭水化物を食わせる店


ご飯が大好き なので、うまいご飯を食わせる店があったらいいのにと思う。

最高級の新米を、ちょうどいい火加減で炊いたご飯。

できたら釜で。直火で。高級炊飯器で炊いたほうがおいしいのかもしれないけど、気持ち的にはやっぱり釜のほうがうまそうだ。

つやつやでふっくらとした炊きたてのご飯。メニューはそれだけ。

ご飯だけの店。ザ・めしや。
いや、ザ・めしやはすでにあるか。



さすがに ご飯好きでも、ご飯だけではそんなに食べられないからご飯のお供もほしい。

海苔、納豆、岩海苔、ちりめんじゃこ、鮭フレーク、食べるラー油、生卵、塩、肉そぼろ、バター醤油(ご飯とめちゃくちゃあうからね)なんかを置いといてほしい。全部市販のやつでいい。

ご飯のお供は食べ放題。

ご飯は一杯五百円。おかわりは二百五十円。

ご飯もお供も原価は安いし、調理の手間はほとんどない。ご飯を炊くだけ。

あとは客がつくかどうかだけだけど、職場の近くにあったらぼくなら週三で通う。

ご飯一杯五百円は高いが、外食で一食五百円と思えば安い。

なんといっても毎日のように食べても飽きないのがご飯のいいところだ。


どうなんでしょう、うまい炭水化物を食わせる店。

商売的にはかなりうまみがあるんじゃないかと思う(ご飯だけに)。


2017年10月13日金曜日

kawaii清純派


海外では「kawaii」がエロい言葉として使われている、という話を聞いた。

インターネットのおかげで海外の人もかんたんに日本のポルノにアクセスできるようになり、ポルノで「かわいい」という言葉がよく用いられているのを見て「これはエロい意味にちがいない」と思われているらしい。

なるほど。おもしろい。


逆の例でいうなら、ソープとかデリバリーとかヘルスとかも、本来エロい意味のない言葉なのに、日本においては風俗業界隈で用いられることが多いために淫猥な響きを持つようになってしまった。
そういえば「風俗」だって本来はまったくエロい言葉じゃなかったよね。


ということは、今やアダルト産業でしかまずお目にかかれない「清純」なんて言葉も、海外の人にとっては正反対の意味を持つようになるかもしれないね(もしかしたらもうなっているかも)。

2017年10月12日木曜日

3人のおかあさんと男女の違い


娘(4)の日記。

読んでいただければわかるように(読めねー!)、おままごとが最近の流行りらしい。

4歳になって「今日、保育園で何をしたか」を説明できるようになったんだけど、「おままごとをした」と「おにんぎょうであそんだ」が多い。


おままごとは誰が何の役をやったの? と訊くと、
「M(自分)はバブーちゃん(赤ちゃん)、Rちゃんがおねえちゃんで、NちゃんとSちゃんとKちゃんがおかあさん」
とのことだった。

複雑な事情のありそうな家庭環境だ。

女の子ばかりなので、みんなおかあさんをやりたがって、おとうさんをやる子がいないらしい。

「男の子はおままごとしないの?」と訊くと、「Kくんだけはやってくれるけどほかの子はプラレールとか車とかであそぶ」のだそうだ。


保育園では特に男女の区別もなく育てていると思うのだが、自然と男女グループに分かれていくのはおもしろい。


そういえば、ぼくはレゴが好きなので娘ともよくレゴであそぶ。

ブロックで家や車をつくるのだが、興味深いのはその後で、娘はつくった家や車でおままごとをはじめる。

レゴの人形を持ってきて「こんにちはー。あそびにきましたよー」などと言いはじめる。

ぼくはレゴを組み立てたりばらしたりするほうが楽しいのだが、娘は組み立て作業よりもおままごとに興じている時間のほうが長いぐらいだ。

ぼくがこどものころは、友人と「レゴでつくった車をぶつけあって先に壊れたほうが負け」「レゴの人形の首をならべて首タワーをつくる」とかやっていたので、ずいぶんと遊びかたがちがうものだ。

レゴ人の首

3歳までは男も女も同じように走りまわるだけだったのだが、4歳くらいから別々の道を進みはじめるんだねえ。


2017年10月10日火曜日

四歳児だから流せる悔し涙


娘と 図書館に行ったら、保育園のおともだちのSちゃんと出会った。

いっしょにえほんを読むことになり、たどたどしく文字を読む子どもたち。

その様子を見ていたSちゃんのおかあさんが言った。

「わー、○○ちゃん(うちの娘)、もうカタカナ読めるんですかー。うちの子はまだひらがなも半分くらいしか読めないのに。すごいねー!」

読み書きぐらいはちゃんとできるようになってほしいと思ってぼくが毎日教えたので、うちの娘は文字を読むのは上手になった。
たぶん同い年の子の中では、かなりすらすら読めるほうだと思う。親ばかだけど。


その後もえほんを読んでいたのだが、Sちゃんの様子がおかしいことに気がついた。

さっきまではにこにこしながらえほんを見ていたのに、急にだまりこみ、ふくれっつらをしている。

明らかに不機嫌だ。

きっと、自分のおかあさんがよその子を褒めた(しかも自分ができないことを引き合いにだされて)ことに傷ついてしまったのだろう。

だがうちの娘はそんな様子を気にすることもなく、それどころかさっき褒められて調子づいたらしく、ますます元気よくカタカナを読みあげている。

さすが4歳児、まったく空気を読んでくれない。

ついにSちゃんは気持ちがいっぱいになってしまったらしく、目にじわりと涙を浮かべてしまった。




なにも 娘の自慢をしたくてこんなことを書いたわけではない(自慢したい気持ちもあるがそれはまたの機会に)。

自分が読めないカタカナを同い年の子が読めたこと。
それを自分のおかあさんが褒めたこと。
その悔しさをどう表現していいかわからないこと。
いろんな感情が混然一体となり涙となってあふれだしたSちゃんをなぐさめながら、なんて美しい涙なんだろうとぼくは感激したのだ。


4歳のときにカタカナが読めるかどうかなんて、大人からしたらどうでもいいことだ。

どうせあとちょっとしたらみんな読めるようになっているのだから。

周囲の目を惹く美貌を持って生まれたとか、4歳にして3ヶ国語を自在にあやつるとかならともかく、カタカナを読めるようになるのが半年かそこらちがったってこの先の人生には何の影響もない。 

それでもSちゃんはこらえきれずに涙を流すぐらい悔しさを感じた。

たぶん「おかあさんが褒めた」ことが小さな彼女のプライドをもっとも傷つけたのだと思う。

おかあさんは「そうはいっても自分の子がいちばん」と思ってるからこそよその子を褒めたのだが、幼い彼女にはそこが理解できなかったのかもしれない。


こんなにもひたむきな気持ちを持つことは、大人になったぼくにはもうできない。

劣等感や悔しさや嫉妬心を抱くことはあるが、自分の中でそれなりの理屈をつけてやりすごしてしまう。
「○○だからしょうがないよね」「でもぼくは□□があるし」「そもそもそこで勝負しようとは思わないし」
己を傷つけずに済む理屈は、三十数年も生きていればなんとでも見つけられる。

悔しさに対して涙がでるほどまっすぐ向きあうことがぼくにはできない。

4歳児が流した悔し涙は、逃げ方だけがうまくなったおじさんの心には深く刺さった。



数日後、Sちゃんのおかあさんと出会った。

「うちの子、あの日帰ってすぐにひらがなの勉強はじめたんですよ。以前買ったドリルにずっと手をつけてなかったのに。今日も朝からドリルやってました」

との報告を受けた。

ああ、いいなあ、とぼくは思った。

悔しさを克服するためにすぐ行動に移す。

すごくシンプルなことなんだけど、それって今しかできないことかもしれない。


2017年10月8日日曜日

文庫の巻末のお楽しみ


 文庫の巻末のお楽しみ


世に文庫好きは多いと思うが、あまり語られないのが巻末の宣伝ページだ。

本編があって、あとがきや解説があって、その後にあるやつ。

同じ出版社から刊行されているさまざまな文庫本を、3行ぐらいの解説とともに紹介しているページ。

ぼくはあれが大好きだ。正確にはなんていうのか知らないけど、とりあえず「巻末のお楽しみ」と呼ぶことにする。

昭和58年の今月の新刊




 巻末のお楽しみの効用


電車の中で思っていたより早く本を読み終えてしまうことがある。
今日読みおわるとおもっていなかったから、次に読む本を持ってきていない。

読む本がない。どうしよう。うわあああ(常に本が手放せない人間にとってはこれぐらいの緊急事態だ)。

こんなとき、巻末のお楽しみがあると助かる。
あの3行解説をじっくり読んで、紹介されている1冊ずつに対して「この本はどういう内容なのだろうか?」と沈思黙考すれば、けっこう時間がもつ。


広告としてもよくできている。

同じ著者の作品、同ジャンルの別の作家の作品、中には出版された時期が近いだけのまったくカテゴリ違いの本も紹介されたりしていて、それぞれおもしろい。
何十年も前の "今月の新刊" を見ると妙に感慨深いものがある。
鳴かず飛ばずだった本なのに「文壇を揺るがす問題作!」みたいな鳴り物入りで発表されていたのか、とか。
Amazonが「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とやるよりずっと前から、文庫業界では巻末のお楽しみという形でレコメンド広告(関連する商品をお薦めする広告)を出していたんだよね。


映画好きの中には、予告編を楽しみにしている人も多いだろう。
だが映画の予告編が残念なのは、本編の前にやっていることだ。あれによって観客は広告を観ることを強制されてしまう。もちろん広告主としては全員に観てもらったほうがいいんだろうが、それによって嫌われてしまっては元も子もない。
広告には「ご迷惑でなければ見てやってください」というたしなみがなくてはいけない。巻末のお楽しみには、ちゃんとつましさがある。




 文庫の終わりのシンフォニー


本編を読んで本の中身に引きこまれて、あとがきや解説を読んで「なるほど、そういう解釈もあるのか」と感じ入って、最後に巻末のお楽しみを読んでクールダウンする。

おもしろい本だと本の中に引きこまれすぎる。著者の意向か知らないけどたまにあとがきも解説もない文庫があって、そういう本だと読み終わった後に気持ちの整理がつかない。うまく現実世界に帰還できない。巻末のお楽しみがあればそういう事態を防げる。

海外から帰国したときって変な感じしない? 頭の中では日本に帰ってきたってわかってるんだけど、でも身体はまだ海外にいるようなふわふわした感じ。
でも、空港という日本でも海外でもないような場所をうろうろして土産物屋とか見ているうちにだんだん慣れてくる。少しずつ「ああ、日本に帰ってきたんだな」って日常を取り戻していく。身体の切り替えって時間がかかるんだよね。

巻末のお楽しみは、空港の土産物屋みたいなどこか異次元の時間を提供してくれる。



2017年10月7日土曜日

ノートとるなよ


学生時代、教師に言われて嫌だった言葉のひとつが「ノートとれよ」だった。

表立って反論したことはないけど、内心ではずっと反発していた。



ぼくは学生時代、ほとんどノートをとらなかった。

教師が「ノートとれ」と言う。そのとき黒板に書かれていることは、ほとんどが教科書や資料集に書いてあることだ。

だったら教科書を読めばいい。
教科書に載っていないことであれば教科書の余白にメモをとれば済むことだ。
わざわざノートにとる必要がない。


じっさい、授業中ずっと真剣にノートをとっているやつよりも、一切ノートをとっていなかったぼくのほうがずっと成績が良かったのだから、ノートの不要性が証明されたようなものではないか。

学生のとったノートのほうが、専門家がたくさん集まって作って検定を経ている教科書より理解しやすいなんてことがあるわけない。

ノートをとることは、「ちゃんと聞いてますよ」というアピールをして内申点を上げる以外には役に立たない。

だからぼくは「ノートはできないやつがとるものだ」と学生時代思っていた。そしてノートをとるできないやつはできないままだ、と。
大人になった今では、もっとそう思っている。



学校で「ノートをとれ」とでたらめな教育を受けたせいだろう、大人になっても手帳にメモをしている人がいる。

「10月31日の19時に〇〇で会食」ってな内容ならわかる。
それはメモにとっておいたほうがいい。

でも、たとえばぼくがExcel関数の使い方を教えたときに、その内容をメモにとるやつがいる。

あほちゃうか、と心の中で思う。相手によっては口に出して言う。

検索したら出てくるものをなんでメモるんだよ、と。

そんなものメモしてるひまあったら覚えろよ。覚えられないんだったら検索のしかたを覚えろよ。

メモをとれば記憶しなくてすむわけじゃない。
書いたことを役立たせるためには、「どのメモに書いてどこに保存したか」を覚えとかないといけない。
テストをするんだったらテスト前に全部のメモを見かえせばいいが、仕事ではそんなわけにはいかない。
「どのメモに書いたか」の記憶に少ない脳のメモリを使うぐらいだったら、メモの内容をおぼえたほうがずっと効率がいい。



すでに書いてあること、ちょっと調べればわかることをメモするのはまったくの無駄だ。

見返さないノートをとってる人は、すぐそのノートを破棄しなさい。

これすごく大事。

すごく大事なこと書いたから、ちゃんとノートとっとけよ。


2017年10月6日金曜日

新党ひかり


政治における「右」と「左」の表現って絶妙じゃないっすか?

右派と左派。右翼と左翼。

もともとはフランス議会で保守派が議長から見て右側にいたから言うようになったらしいんだけど、左右の表現には優劣がないのがいい。

もしも「上」と「下」だったら定着しなかっただろう。「下」にされたほうが「なんでおれたちが下なんだよ」って怒って。

「前」と「後」だったら前のほうがイメージいいし(「前進」「前向き」)、「表」と「裏」だったら裏のほうがイメージが悪い(「裏の顔」「裏切り」)。
昔は裏日本なんて言い方もあったけど廃れたしね。つくづくひどい表現だ。

「北」と「南」は、それ自体に優劣はないけど、「北上」「南下」みたいに上下と結びついてしまうのでふさわしくない。話はそれるけど南半球の国には「南上」「北下」みたいな言語があるのかな。

「西」と「東」も優劣はないけど、世界が東西陣営に分かれていた時代は特定のイメージが強すぎたから、国内政治に用いるとややこしかったにちがいない。



そう考えると、やはり「右」「左」は対立を表しつつも上下関係がなくてベストな表現って感じがする。

右と左ってどっちが上なのかよくわかんないもんね。

左大臣のほうが右大臣より官位は上らしいけど、「右に出るものはいない」という言葉を使うときは右のほうがいいとされている。どっちやねんと。それがいいんだろうね。



あとは「内」と「外」もアリかもしれない。

保守派が「内派」で革新派が「外派」。うん、けっこうしっくりくるね。



政治の世界が「光党」と「闇党」に分かれたらおもしろいだろうなあ。

それを機に、中二病的な政党が続々誕生。「火党」「水党」「土党」「風党」「電党」なんかが出現して。

光党内の火派寄り勢力が分裂して「炎党」をつくったり。

残った光党が電党と合併して「灯党」をつくったり。

政治部記者も見出しをつけるのが楽しくてしょうがないだろうね。「水党と土党の泥沼抗争」とか「風向き変わって火党鎮火」とかさ。



2017年10月4日水曜日

10ユーロをだましとられて怒る人、笑う人


新婚旅行でイタリアに行った。

コロッセオに行くと、入口の前に中世の鎧騎士みたいな恰好をしたおっさんが2人立っていて、陽気な笑顔で「チャオ!」と手を振ってきた。
コロッセオ運営会社に雇われているおっさんだろうか。
それとも個人的な趣味でやっているのだろうか。

おもしろいおっさんだと思い身振り手振りで「写真を撮ってもいいか」と訊くと、「撮れ撮れ」と言ってくる。
もう一方のおっさんが「カメラ貸しな」というジェスチャーをしてくる。
「カメラを盗まれるんじゃ………」と一瞬不安になるが、おっさんが満面の笑みを浮かべているので断れない。
カメラを渡すと、おっさんは早速カメラを構えて「そこに並べ」と指示を出してくる。
ぼくと妻はそれに従い、鎧騎士のおっさんを挟むようにして記念写真を撮った。

コロッセオを背景にして、鎧騎士のイタリア人おっさんと撮影。とてもいい写真が撮れた。
なんて気持ちのいいおっさんたちだろう。



「グラッツェ」と言ってカメラを返してもらおうとすると、おっさんが手のひらを差し出してきた。

ああ、そういうことね。そういう仕組みね。すぐに事情が呑みこめた。
このおっさんたちは鎧騎士の恰好をして、観光客相手から小金を巻きあげている商売の人なのだ。

日本の観光地にはまずこの手の人がいないので「イタリア人はサービス精神旺盛だなあ」とのんきに考えていたが、うっかりしていた。
ここは外国なのだということを改めて感じた。



そういうことならしかたがない。
楽しい写真を撮らせてもらったわけだからチップを支払うことはやぶさかではない。
ぼくは財布から1ユーロ硬貨を取りだして、おっさんに手渡した。日本円にして100円ちょっと。

するとおっさんは、ぼくと妻を指さしてイタリア語で何かしゃべる。
どうやら「2人いるんだから2人とも払ってよ」というようなことを言っているらしい。
「2人分払えってさ」と妻に伝えると、妻も財布を取りだして1ユーロをおっさんに渡した。

ところがおっさんたちはまだ納得しない。妻の財布を除きこみ、紙幣を指さす。
10ユーロ紙幣を渡せと言っているらしい。
いくらなんでも写真を1枚撮っただけで1,000円以上よこせというのは高すぎる。
ぼくは苦笑して「ノ、ノ、ノ」と伝えた。ついでに日本語で「10ユーロってあほか」とつけくわえた。

しかし内心では喜んでいる。
隙あらば観光客からぼったくろうとしてくる商売人とのやりとりが、ぼくはけっこう好きだ。

ところが妻は10ユーロ紙幣を財布から取りだすと、おっさんに手渡してしまった。



その場から離れて、ぼくは笑いながら妻に言った。
「はっはっは。10ユーロぼられてやんの」
妻は何も言わない。目を伏せたまま黙って歩いている。

「10ユーロはちょっと気前良すぎじゃない?」
からかうような口調で言うと、妻はきっとぼくをにらみつけた。
「ちょっと。外国人のおっさんにからまれて怖かったからお金渡したのに、なんで笑うのよ!」

その剣幕にびっくりしてしまった。
彼女が何に起こっているのか、ちっともわからなかった。

まず「怖かった」というのが理解できない。
ぼくだって暗がりの細い路地で外国人2人にからまれたらおしっこちびるぐらい怖いが、ここは昼日中の観光名所。
観光客でごった返していて近くには警備員もいる。
もめ事を起こして商売ができなくなって困るのはおっさんたちだ。
おっさんの要求を無視したって、危ない目に遭うことは万にひとつもないだろう。

しかもぼくらが金を払わなかったのならともかく、2ユーロも払っている。
こういうものに決まった値段はないが、おっさんの写真を1枚撮る料金の相場として考えれば安すぎることはないだろう。



なによりぼくが妻との間にギャップを感じたのは、この一件に関するとらえかただった。
しつこいおっさんに1,000円ちょっとのお金をぼられた出来事は、ぼくにとっては「旅先で起こった、ちょっとしたおもしろハプニング」だった。
むしろ高くない金で土産話のネタを買えてラッキー、ぐらいのものだ(お金を出したのは妻だが)。

だが妻は、怖い目に遭わされたことや余計なお金を払わされたことやぼくに笑われたことがショックだったらしく、その後もしばらくふさぎこんでいた。

新婚早々、そんな妻に対してぼくは少し不安を感じた。
「1,000円ぼられたぐらいで落ちこんでいて、この人は生きていくのがしんどくないのだろうか」と。

たぶん妻も、ぼくに対して不安を感じていたのではないだろうか。
「少しまちがえれば大事故につながっていたかもしれないのに、この人はへらへらしている。大丈夫だろうか」と。

それから5年。
ぼくと妻は、今のところそれなりにうまくやっている(当方が認識しているかぎりでは)。
ぼくは相変わらず人生をまじめに生きていないし、妻はぼくからしたら些細なことを真剣に悩んでいる。

いいかげんな父と生真面目な母を持った娘は苦労することもあるだろうが、それぞれの気質に腹を立てながらもおもしろさを感じてくれたらいいなと思う。

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