2023年7月20日木曜日

【読書感想文】マーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』 / なぜ自由を嫌う人がいるのか

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人はなぜ憎しみあうのか

「群れ」の生物学

マーク・W・モフェット(著) 小野木明恵(訳)

内容(e-honより)
人間社会は動物の群れや昆虫社会とどこが似ていて、どこが異なるのか?先史時代における狩猟採集民の生活から現代のフェイスブックでのコミュニケーションまで、人と人が交わることで生まれるコミュニティの成立背景について、フィールド生物学者がチンパンジーの群れやアリの巣の生態と比較しながら探索する。


 生物学者による、ヒトがどのように群れを築くのか、という話。邦題は『人はなぜ憎しみあうのか』だが、憎しみについての話はあまり出てこない(原題には憎しみのことは触れていない)。誰だこのタイトルつけたやつは。


 群れをつくる生物は数多くいるが、そのほとんどが血縁またはつがいの延長だ。ミツバチなんかは巨大な群れを形成するが、あれはすべて一匹の女王バチから生まれているので実は核家族だ。サルなんかは比較的大きめの群れをつくるが、それでも数十頭~数百頭。メンバー同士はみんな顔見知り。田舎の集落、といった規模だ。

 だが人間はもっと大きな集団をつくることができる。

 生命の歴史において、人がコーヒーショップにふらりと入っていく場面よりも驚くべきものはほとんどない。常連客たちが全然知らない人ばかりというときもある――それなのに何も起こらない。うまくふるまい、まったく面識のない人たちに出会ってもうろたえない。このことは、他の四本の指と向かい合わせになった親指や、直立姿勢、賢さとは別の、私たち人類という種がもつ独特な点を示している。社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない。チンパンジーなら、知らない個体に出くわせば、相手と戦うか、恐れおののいて逃げ出すだろう。チンパンジーであふれたカフェに入るなど考えられない。誰かとにらみ合いになっても、戦いの危険を冒さずに生き延びる可能性があるのは、若い雌だけだ――ただしセックスを受け入れたほうがもっとよい。ボノボでさえ、知らない個体のそばを無関心に通り過ぎたりしないだろう。しかし人間には、見知らぬ人たちに対処して、彼らのあいだをすいすいと通り抜ける才能がある。私たちは、コンサートや劇場、公園、市場などで他人に囲まれていても楽しく過ごす。幼稚園やサマーキャンプ、あるいは職場で、互いの存在に順応し、気に入った何名かと親しくなる。

 家族ではない、血のつながりもない、それどころか顔をあわせたことがない。そんな個体がすぐ近くにいても許容できるのは、群れをつくる脊椎動物の中ではヒトだけだと著者はいう。

 ほとんどの生物にとって、ほかの個体は「身内」か「敵」のどちらかだ。だがヒトは、そのどちらでもない個体を許容することができるのだ。

 改めて考えたら、満員電車なんて異常な光景だよなあ。周囲は知らない人だらけ。その人たちが、話すわけでもなく、かといってけんかをするでもなく、おしあいへしあいしながらも、まるで周囲の人間など存在しないかのようにふるまっている。あれは群れというより魚群、って感じだよなあ。

 そういや「社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない」って書いてるけど、魚に関してはこうした行動をとれるんじゃないだろうか? イワシの群れなんかお互いに顔を認識してるとはおもえないけどなあ。


 とにかく、知らないやつがすぐそばにいてもつかずはなれずでうまくやっていけるのは、ヒトやアルゼンチンアリなど、ごくごく例外的な存在だけなんだそうだ。

 アルゼンチンアリは、仲間を見分けるのににおいを使っている。ヒトがにおいの代わりに様々な指標を使って仲間を認識している。言語、信仰、物語、髪型、服装、アクセサリー、タトゥー……。

 人がすぐに制服やおそろいのハッピやTシャツをつくりたがるのも、アリと同じだ。



 人間は集団をつくる。だが人間は、集団には属したいが集団に埋没したくないという奇妙な習性をもっている。 

 人間の定住地で集団志向が生じ、内部での競争が減り、社会的な刺激が、扱いやすく達成感の得られるようなまとまりへと分割されたのだろう。心理学にある最適弁別性という概念が、これを説明するのに役に立つ。人は、包含と独自性という感覚のバランスが取れているときに自尊心が最も高くなる。つまり、自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたいのだ。大きな集団のメンバーであることは大切だが、それだけでは、特別でありたいという思いはかなえられない。このことが、もっと排他的な集団とのつながりをもつことで大勢の集まりから離れる動機になりうる。遊動的な狩猟採集民の社会は小さかったので、このような問題は起こらなかった。半族やスキンなど少数の集団は別として、誰でも、自分に変わった部分や、社会のなかでの個人的なつながりがあるだけで、数百名からなる社会のなかにいても自分は独自の存在だと感じられた。たとえば、職業やクラブに帰属することでちがいを表す必要がなかった。実際のところ、ちがいを表すことは歓迎されなかったかもしれない。しかし定社会が拡大するにつれ、自分を他と区別したいという気持ちがますます強くなっていった。ここで初めて、他の人たちについて知りたい内容が「あなたの仕事は何ですか?」になったのだ。

「自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたい」

 これはわかるなあ。「個性」は欲しいけど、でも「異常者」とはおもわれたくない。

 小さい集団では個性はいらない。個々の違いが十分目立つからだ。家族の中でことさらに奇抜な恰好をする人はいない。でも集団が数十人、数百人の規模になると、私は集団の中に埋もれてしまいそうになる。

 バンド社会で人口の上限値が低かったのは、人間の個性を表現することを抑制するような心理が働いていたからかもしれない。バランスを維持することが必須だったのだ。メンバーたちは、共同体意識を共有するくらいには互いに似ていて、それでいながら自分自身が独特であると思えるくらいにちがっていると感じる必要があった。第10章で、社会のなかのすべての人が数個のバンドのなかで暮らしているときには、自分を他者から区別したいという動機がほとんどなかったと説明した。だから、狩猟採集民のあいだで派閥が作られることがとても少なかったのだ。しかし、いったん人口が膨れ上がると、狩猟採集民も、もっと小さな集団として結びつくことで与えられるようなちがいをもちたいと望んだ。多様なアイデンティティを欲する心理が増大すると、派閥の出現が促進され、その結果、バンド間の対立が生じ、関係が断たれることになった。定社会では状況が異なり、最終的には人口が天文学的な値に達した。バンドに暮らす人々とはちがい、定住生活をする人々の大半は、社会的に容認され、ときには定住社会が機能するために必要とされるようなやりかたで、集団として結びつく機会を見つけた――仕事や職業別の団体、社交クラブ、社会的な階級や拡大された親戚関係のなかでのニッチにおいて。

 集団の数が数十から数百に増えると、集団が分裂したり、派閥が生まれたりして、小さな集団に属するようになる。

 ヒトは言語や信仰などのツールを開発することで大きな集団をつくれるようになったが、それでも動物は動物、やっぱり大きな集団は居心地が悪いのだ。



 ヒトが、社会とのつながりを求める力は、たぶんふだんぼくらが感じているよりもずっと強い。

人間の心は、自身が作り出した私たちと彼らとが対立する世界のなかで発達してきた。そしてその世界から出現した社会はつねに、その他のいかなる社会的な結びつき以上に、人々に意義や妥当性を授ける基準点となっている。このようなアイデンティティがなければ、人は、疎外され、根なし草となり漂流しているような感覚に陥る。これは心理学的に危険な状態だ。その適例が、母国とのつながりを失い、受け入れ国から冷たく拒絶された民族の人々が感じる寄る辺なさである。疎外されることは、宗教における狂信や原理主義よりも強い動機となる。多くのテロリストが、最初から宗教の信者であったのではなく、文化の主流から排除されてから信仰にすがるようになったことの背景にはこれがある。社会的なよりどころをもたない人にとって、信仰が隙間を埋めてくれ。カルト集団やギャングも同じである。社会ののけ者にブライドや帰属感と、さらには共通の目標や目的を授けることによって、社会を持続させるような属性のいくつかを勝手に奪い取っているのだ。

 海外に住む日本人が、日本についてあれこれ語っているのをときどき目にする。国外にいるのだから日本のことばっかり気にしなくても……とついつい考えてしまうけど、国外にいるからこそ日本のことが気になるのだろう。

 定年退職した人たちが、サークルや自治会などの形でどうでもいいことを口実に集まるのも、やはり「社会的なよりどころ」を求めてのことなんだろうな。

 べつにそれ自体はいいんだけど、問題は「社会的なよりどころを求めている人」はつけいる隙が大きいということ。非合法な組織や、カルト集団であっても、帰属感を与えてくれるのであればかんたんに飛びついてしまいかねない。


 人々は自身の自由を大切にするが、実際のところ、自由にたいして社会から課せられた制限は、自由そのものと同じくらい幸福にとって不可欠なものである。もしも人々が、自身にたいして開かれた選択肢に圧倒されたり、周囲にいる人々の行動に動揺したりするなら、自由であると感じることはない。それなら、私たちが自由ととらえているものには、つねにかなりの制約がかかっていることになる。しかし、制限を不当に厳しいものと感じるのはよそ者だけだ。こういう理由から、アメリカのように個人主義を推進する社会と、日本や中国のように集団主義的なアイデンティティを育む社会――共同体とそこから与えられる支援との一体感のほうにより大きな重点が置かれる――はどちらも等しく、社会から差し出される自由や幸福を享受することができる。社会が寛容であっても、もしも市民が、他者の安全地帯から外れた場所で行動する自由をもつなら(あるいはそうした自由をもって当然だと感じるなら)、それ女性がくるぶしを見せることであれ、LGBTQ団体が結婚の権利を主張することであれ、結束が弱まることになる。
 こうしたことが、今日の多くの社会を悩ませている弱点である。しかし、多様な民族がいることから、結束と自由の両方を追求することがいっそう複雑になっている。

「他人の自由に反対する人」っているじゃない。同性婚や夫婦別姓自由化に反対する人。

 ぼくは、ああいう人の存在がふしぎだったんだよね。「おまえが同性婚しろ!」って言われて抵抗するならわかるけど(ぼくも抵抗する)、「同性婚したい人はすればいい、しない人はしなくていい」に反対する理由なんてあるの? 選択肢が増えるだけだから誰も困らないのに?

……とおもってた。

 でも、このくだりを読んでほんのちょっとだけ理解できた。ぼくは自由(選択肢が増えること)はいいものだとおもっていたけど、世の中には自由が嫌いな人もいるのだと。

 自由と社会の結束の強さは両立しない。規律でがんじがらめの軍隊がばらばらになることはないが、「参加してもしなくてもいいよ。他人に強制せずにみんな好きに楽しもう」というサークルは容易に自然消滅する。

 だから所属する社会が変わることを容認したい人は、自由をおそれる。社会の結束が弱まれば、自分が「社会的なよりどころをもたない人」になってしまうかもしれないから。

 ふつうは家族や友人や地域コミュニティや職場や趣味のサークルなどいろんな組織に居場所を感じているものだが、どこにも居場所がなくて「我が国」にしか帰属意識を感じられない人にとっては、社会が自由になってつながりを弱めることはおそろしいことなんだろう。

 共感はしないけど、ほんのちょっとだけ理解はできた、気がする。


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