娘が水泳教室に通いはじめた。
水泳教室の間ただ待っているのもひまなので、ぼくも横のレーンで泳ぐことにした。
これまでもときどき泳ぎにきていたが、根気がないので長続きしなかった。娘と一緒ならサボれないのでちょうどいい。
水泳教室の時間は一時間。
初回は、その間に900メートル泳いだ。へとへとに疲れた。
その次の週は1050メートル、その次は1150メートル……と順調に泳ぐ距離を伸ばしていき、9回目となった前回は1600メートル泳ぐことができた。
回を重ねるごとに自己記録が更新されていくのが楽しい。
何をするにしても、ぐんぐん上達していく段階、知識が増えていく段階は楽しい。
しかしぼくは知っている。この楽しさはそろそろ終わるということを。
ジムに通っている知人が「筋肉が落ちることが恐ろしくて、二日以上ジムを休むことができない」と言っていた。
そうなのだ、ある段階を過ぎると「新しく得るのが楽しい」から「今あるものを失うのが怖い」になってしまうのだ。
ぼくは寝る前に柔軟体操をしている。十三歳のときからやっていて、三十代になった今でも脚を百八十度開脚することができる。
もはや習慣になっていて、やらないと気持ち悪くて寝られない。どんなに疲れていても、泥酔していても、柔軟体操だけはやらないと気持ちが悪い。
はじめのうちは自分の身体が日に日に柔らかくなることが楽しかったけど、今は何の楽しみもない。やらないと苦痛だからやっている。ニコチン中毒者が義務的にタバコを吸うのと同じように。
歳をとると、「やると成長すること」が減り「やらないと失うこと」が増えていく。
柔軟体操も、歯みがきも、筋トレも、ニュースを見ることもそうだ。人によっては、ゲームだったり、料理をつくることだったり、子どもを塾に通わせることだったりするだろう。
もちろん本を読むことは楽しいが、それ以上に義務だ。本を読むのをやめて知識のインプットが止まることが恐ろしくてたまらない。だから、どんなにおもしろい本でも読みかえすことはほとんどない。そんな時間があったら新しい本を読まなくてはならない。
日々のトレーニングは自信になる。
筋トレをしている人は「筋トレをすると自信がつく。ポジティブに生きられるようになる」と言う。
ぼくは筋トレをしないがその言葉には納得する。読書がぼくにとっての筋トレだからだ。
毎日本を読んで、新しい知識をとりいれる。
それが心の平穏を保つことに役立つ。腹の立つヤツに出会っても「でもぼくはこいつよりたくさんの本を読んでるしな」と思える。失敗をしても「いやいやでも多くの本を読んできたから大丈夫だ」と思えば落ち込まない。
得た知識が役に立つかどうかはどうでもいい。重要なのは「本を読んで新たなことを知った」という事実だからだ。
自信のためには練習の中身は重要でない。一日千回素振りをするような、見当はずれの努力でもかまわない。自信を植えつけるために必要なのは、効率の良い一日十回の素振りではなく「千回やった」という事実なのだ。
ぼくたちを動かしているものは「やりたいこと」でも「やらなきゃいけないこと」でもなく、「やらないと失うこと」なんだろう。
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