『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉
美味礼賛』
桂 米朝
桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第八巻。
シリーズ最終巻ということで、「美味礼賛」というテーマこそあるものの、実質はいろんな噺の寄せ集め。
『鴻池の犬』『馬の田楽』なんかは、食べ物が主題じゃないしね。『鍋墨大根』『焼き塩』なんか食べるシーンすら出てこないし。『テレスコ』にいたっては食べ物かどうかすらわからないからね。
『桂米朝コレクション』シリーズ全八巻を読んだけど、これはほんとに価値のある本だね。噺を正確に収録しているのはもちろん、時代を映したマクラや米朝さんがどんな点に注意しながら演じているかというメモも残されていて、百年経っても価値を減じない(それどころか時代が立つほど価値が増す)史料になるのはまちがいない。
時代の変化とともにわかりづらくなった点を補足してくれているのもありがたい。
今は記録メディアが発達したのでDVDやYouTubeで正確に落語を残せるようになった。でも「わかりづらいけど解説をすると野暮になるのであえてそのままやる」とか「こういうやりかたもあったが今はこうしている」といった"演じなかったもの" は記録されない。
『桂米朝コレクション』は、そういう「名人の心遣い」の片鱗が見える、すばらしいシリーズだ。
饅頭こわい
若い衆が集まって、好きなものや怖いものの話をしている。中にひとり「饅頭がこわい」という男がいて、他の連中はそいつを怖がらせてやろうと饅頭を買い集めてくる……。
とても有名な噺なので説明する必要もないだろう。
ぼくが小学校のときにはじめて買ってもらった落語のカセットテープが桂米朝さんの『饅頭こわい』で、この噺と『だくだく』でぼくは落語に魅せられた。
この噺の魅力は「饅頭こわい」のくだりではなく、前半のばか話にあるとぼくは思っている。「どんぶり鉢」「おぼろ月夜」もいいし、特に「狐の恩返し」と「おやっさんが体験した怪談話」は、緊迫感のある展開とくだらない結末の落差が大きくて大好きだ。落語入門には最高の噺だね。
鹿政談
奈良の鹿は神の使いとされ、うっかり殺してしまおうものなら死罪となった時代の噺。
奈良の三条で豆腐屋を営む六兵衛という年寄りが、犬がきらず(=おから)を食べていると思い木片を投げたところ、当たりどころが悪かったのか死んでしまう。さらによく見ると犬ではなく鹿だった。
奉行所に連れていかれた六兵衛。しかしお奉行である根岸肥前守の「これは鹿ではなく犬だ」という寛大な判決によって許される……。
善男善女しか出てこないめずらしい噺。だからだろう、笑いどころは少ない。やっぱり強欲なやつや小ずるいやつが出てきたほうがおもしろい。
心優しいお奉行様の名裁き……ということなんだけど、しかしいくら正直なじいさんを助けるためとはいえ、事実をねじまげて、しかも部下たちに圧力をかけて忖度をさせているわけで、これって裁判官としてあかんのちゃうの? と法治国家に住む人間としては疑問を持ってしまう。悪法もまた法だろ、と。
『帯久』のときも思ったけど、お奉行様やりすぎじゃないですかね。
今でも奈良の鹿は天然記念物に指定されているが、昔はもっと厳しく保護されていたらしく、鹿を殺すと斬首されたり、子どもであっても生き埋めにされたり(三作石子詰め)したと言われている。
田楽喰い
若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がない。そこで酒瓶を割ってしまったことにして兄貴の家にある酒を呑ませてもらう作戦を立てる。なかなか計画通りにいかないもののなんとか酒を呑ませてもらえることに。兄貴が「"ん"のつく言葉を言ったやつは、"ん"の数だけ田楽を食っていい」というゲームを発案し……。
落語における「企み」というのはだいたい成功しないものだけど、これはめずらしく(多少つまづくものの)思いどおりにいく。あれ、うまくいっちゃうのか、と拍子抜け。兄貴にばれて怒られるけど呑ませてもらえる、という展開のほうが納得がいくな。
後半の『ん』まわしゲームは、古今東西のようなパーティーゲームの元祖という感じだね。
鴻池の犬
ある商家の前に捨てられていた三匹の犬。丁稚がかわいがって育てていると、そのうちの一匹をもらいたいという人がやってくる。聞けば、誰もが知る大金持ちである鴻池善右衛門の息子がかわいがっていた犬が死んでしまったので、そっくりな犬をもらいたいとのこと。
鴻池家にもらわれた犬は身体も大きくなり、あたり一帯の犬社会を牛耳るボスになる。そこに現れた病気でひょろひょろの犬。話を聞いてみると、鴻池の犬の弟だったということがわかる……。
前半は商家の人々のやりとりが丁寧に描かれるのだが、後半はうってかわって犬社会の話になり、犬同士の会話から成る落語になるというナンセンスな展開。
犬が出てくる落語には『犬の目』『元犬』などがあるが、それらは野良犬。ペットとしての犬が出てくるのはめずらしい。江戸時代には、犬を飼うという習慣は(少なくとも庶民には)ほとんどなかったんだろう。
後半は急に漫画的になるのであまり好きじゃないけど、犬をあげたお礼が大層すぎるという理由で番頭さんが小言をいうシーンは商人のプライドが感じられて好き。
鯉舟
磯七という髪結い(出張床屋)が若旦那のお供で鯉釣りに出かける。舟の上で大騒ぎする磯七だが、見事大きな鯉を釣りあげる。しかし鯉を裁こうとどたばたしているうちに鯉が逃げてしまい……。
髪結いが出てくるめずらしい落語。床屋兼幇間(太鼓持ち)みたいな存在だったのかな。逃げた鯉が戻ってきてしゃべる、というばかばかしいサゲはけっこう好き。落語って「え? 今ので終わり?」みたいな唐突な終わり方をすることがよくあるけど、この噺みたいに「はいこれがサゲ!」ってわかりやすいほうが好き。
京の茶漬
京都ではお客が帰るときには「せっかくですからお茶漬けでも……」と声を掛ける習慣がある。辞退するのが礼儀だが、ある物好きな男が一度「京の茶漬け」を食べてみたいと思い、そのためだけにわざわざ京都の知り合いの家を訪ねる。主人は留守で、嫁さんを相手に話しこむ。帰ろうとした男に「ちょっとお茶漬けでも」と声をかける嫁さん、「さよか、えらいすんまへんなあ」と座りなおす男。
ところがご飯がほとんど残っていない。なんとかして残りご飯をかき集めてお茶漬けを出した嫁さんだが、男はなんとかしてお代わりをもらおうとして……。
落語の京都人は嫌味でせこい人物として描かれることが多いが、この噺に出てくる京都人の嫁さんはぜんぜん嫌味なところもなく、たまたまご飯が残っていないところに妙な客人が来て困惑させられてかわいそう。
子どものときに『今日の茶漬け』を聞いてもいまひとつぴんと来なかったが、これは高度な心理戦だから子どもには理解しにくいよなあ。「なんとかして『お代わりでもどうですか』と言わせようとする客」と「その意図に気づいていながらわざと気づかないふりをする嫁さん」という、なんとも繊細なせめぎあい。
大笑いする類の噺ではないが、意地悪い視点ににやにやさせられる。
近眼の煮売屋(ちかめのにうりや)
ある男がごちそうを並べて酒を呑んでいる。やってきた友人がこんなごちそうどうしたんだと尋ねると、煮売屋の近眼の親父を突きとばして盗ってきたんだと冗談で返す。ところが友人はそれを真に受けてしまい、煮売屋に行って親父を突きとばして帰ってくる……。
ずいぶんひどい噺だ。いきなり突きとばされる煮売屋、かわいそう。
総菜屋兼居酒屋のような店だそうだ。『東の旅』の『煮売屋』にも出てくるね。
きずし、このわた、イカの木の芽和え、サワラの照り焼き、焼き豆腐……。ずいぶんうまそうなもの食ってるなあ。
鍋墨大根
振り売り(移動販売)の八百屋、長屋のおかみさんにうまく値切られて安く大根を買われてしまう。悔しいので指定されたのとは別の細い大根を持っていくと「これじゃない。さっき鍋の底の墨を大根につけておいたからわかる」と言われ、その手口に感心する。
八百屋が向いていないので駕籠屋に転身。すると、ちょっと目を離したすきに乗せた客が関取に入れ替わっており、「しもた。さいぜんの客に、鍋墨塗っといたらよかった」……。
小噺のような短い噺。
駕籠の中身が入れ替わっているというくだりは、『住吉駕籠』の後半によく似ている。でも『住吉駕籠』の「こっそり二人で乗っている」というシチュエーションのほうがビジュアル的におもしろいなあ。
焼き塩
商家の女中さんのところに故郷から手紙が届くが、文字が読めないので通りかかった侍に読んでもらう。すると侍が涙を流しはじめたので、「故郷の親の容態が悪いと以前から聞いていたのでこれは悪い便りにちがいない」と女中さんも涙を流す。侍と女中がいっしょに泣いているのを見た塩売りの親父、身分違いの恋がうまくいかなかったのだろうと勘違いしてもらい泣き。しかし侍は文字が読めずに人前で恥をかいたので悔し涙を流していただけだったとわかり……。
これも小噺のような短さ。
枕の「『司』という字を魚屋に訊いたら『同という字を二枚におろして、骨付きのほうや』という答えが返ってきた」とか、字が読めない父親が子どもに字を訊かれてへりくつをこねるところのほうが本編よりおもしろいな。
小咄・たけのこ
隣家の筍が、塀のこちら側に生えてきた。それを見た侍、使いを隣にやって「ご当家のたけのこが手前どもの庭へ入ってきたので召し捕って手討ちにいたす」と伝えさせる。すると隣家の主人は「お手討ちはやむをえませんが遺骸はこちらへお下げ渡しを」と返す……。
短い噺だが大仰な言い回しがおもしろい。落語に登場する侍はいばりくさっていたり、堅物だったりするけど、こういうユーモアを解する侍ってめずらしいな。
「塀を越えて生えてきたタケノコを取って食べてもいいか」ってよく法律の教科書に出てくるよね。たしかタケノコはオッケーで柿はだめだったはず。
馬の田楽
つながれている馬の前で子どもたちが遊んでいる。ひとりの子どもが度胸試しで馬の尾の毛をまとめて引っぱったところ、驚いた馬が走って逃げてしまった。
馬方が現れ、馬がいなくなっていることに気づいてあわてて追いかける。いろんな人に馬がどこに行ったか尋ねるが誰も協力的でなく……。
まだ馬が街中にいた時代の噺。子どもたちが「馬の腹の下をくぐれるか」「馬の尾の毛を抜けるか」と度胸試しをするシーンが出てくる。
そういやぼくも小学生のころ、「走っている車にどれぐらい近づけるか」「走っている車にさわれるか」という度胸試しをしていたのを思いだした。今考えるととんでもない遊びだけど、昔から男子のばかさは変わらないんだねえ。
ためし酒
尾張屋の旦那が、近江屋の旦那に一升入るという大きな杯を見せる。近江屋の旦那が「うちの下男の権助ならその杯で五杯の酒を呑める」と言いだし、尾張屋は「いくらなんでもそんなに呑めるわけがない」と言う。有馬旅行の旅費を賭けて五升の酒が飲めるか試すことに。
連れてこられた権助は「ちょっと考えさせとくなはれ」とどこかに行ってしまうが、しばらくして戻ってきて酒を呑みはじめる。つらそうにしながらも五升を飲み干した権助。尾張屋が「さっきおまえはどこかへ行っていたが酒を呑めるようになる薬でも飲みに行っていたのか」と尋ねると……。
なんと、元はイギリスのジョークらしい。初代快楽亭ブラック(イギリス人。『美味しんぼ』に出てくる落語家のモデル)がイギリスから持ちこんだ小噺を落語に仕立て直したのだとか。輸入品とは思えないほどどこをとっても見事な落語になっている。
寄合酒
若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がないのでそれぞれ一品ずつ持ち寄ろうという話になる。酒屋を騙して入れさせた酒、犬から奪いとった鯛、乾物屋が気づかないうちに持ってきた棒鱈と数の子、子どもを脅かして持ってきた鰹節、丁稚から盗んできた味噌と根深(ネギ)など、ろくでもない方法ではあるがごちそうが集まる。
ところが慣れない男たちが料理をするものだから、鯛を犬にやってしまったり、火をつけるのに失敗したり、数の子を焚いてしまったり、酒をひとりで飲み干してしまったり、鰹節でとった出汁を捨ててしまったりと失敗ばかり……。
導入は『田楽喰い』とほぼ一緒だが(『寄合酒』→『田楽喰い』という流れでひとつの噺としてかけられることもあるという)、こちらのほうがわかりやすくておもしろい。
悪知恵をはたらかしていろんな食材を集めるところ、せっかく集めた食べ物をすべて台無しにしてしまうくだりなど、笑いが途絶えることがない。
ここまで笑いどころの多い落語もそう多くないね。
ひとり酒盛
引越してきた男、手伝いにきてくれた友人に「何もしなくていい」と言いながら、あれこれと仕事をさせる。ようやく落ち着いて酒でも飲もうかとなっても、なんだかんだと言いながら自分ひとりで飲んでばかり。ついに堪忍袋の緒が切れた友人が家を飛び出していく……。
この噺は、九割ほどはひとり語りで進んでいく。落語は基本的に会話の芸だが、これはほとんど「ひとり芝居」だ。それでもうまい人がやると他の人物の姿が見える。桂米朝さんの『ひとり酒盛』を聴いたことがあるが、ちゃんと友だちの存在が感じられた。
ここまでやるのならもうぜんぶひとりの台詞にしてしまったほうがおもしろいんじゃないかなと思う(容易にできるだろう)。
禍は下
網打ち(魚捕り)に行くと言って丁稚の定吉を連れて出かけた商家の旦那。向かった先はお妾さんの家。お妾さんの家に泊まることにした旦那は、定吉に「羽織と袴を持って帰って、途中の魚屋で買った魚をお土産として渡すように」と命じる。
ところが定吉が買って帰ったのはめざしとちりめんじゃことかまぼこ。お内儀さんに「こんな魚が捕れるわけがない」と言われるが、なんとかごまかす。ところが袴の畳み方がきれいだったためにお妾さんの家に行っていたことがばれ……。
「禍(わざわい)は下より起こる」ということわざがあるそうだ。わざわいは下々のことの過失から起きる、という意味だそうだ。あんまり納得のできないことわざだな。小さい過ちは現場のミスかもしれないけど、大きなわざわいはトップの方針の過ち、というケースが多いと思うんだけど。
めざしとちりめんじゃことかまぼこを買って「網にかかった魚です」というところはわかりやすくてよくできたギャグだ。
流れも自然でおもしろいし、知っている人に見つからないように提灯の家紋を隠す、魚捕りやお妾さんの家に行くのに羽織袴を着ている、なんて昔の風俗もちりばめられていて、いい噺だ。
テレスコ
肥前(長崎)で変わった魚が捕れた。めずらしい魚なので、誰もその名前を知らない。代官所が「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出すと、仁助という漁師が現れて「これはテレスコという魚です」と言うので十両を渡した。
後日、代官がその魚を天日干しにしたところ、元の姿とは似ても似つかぬ形になった。そこで「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出したところ、また仁助がやってきて「これはステレンキョウです」と言う。
同じ魚なのに違う名前で呼ぶとは代官所をだまして金をとるため、不届き千万ということであろうと仁助は捕まえられ、死罪を宣告される。最期に女房・子供に会いたいという仁助の願いが聞き入れられ、仁助が助かるように火物断ち(火の通った食べ物を断つこと)をして神仏にお祈りしているという女房がやってくる。そこで仁助は「子どもにイカの干したのをスルメと言わすな」と言い、それを聞いた代官が干せば名前が変わることもあると気づいて仁助は無罪放免……。
ずいぶん妙なタイトルだと思ったら、なるほどこういう噺ね。『ちりとてちん』と同じような趣向だね。
元は「イカの干したのをスルメと言わすな」でサゲていたのだが、それではわかりにくいということでこの形に変わったのだそうだ。「スルメと言わすな」のほうがスマートだけど、やっぱりその後の無罪放免となるところまでやったほうが断然いいね。「スルメと言わすな」で終わったら、仁助が打ち首になるかどうかわからなくてもやもやするから。
馬の尾
魚釣りにいこうとする男が、テグスにするために馬の尾の毛を抜く。それを見ていた友人が血相を変えて「馬の尾を抜くなんてなんてことをするんだ!」と騒ぎだした。不安になった男が「馬の尾を抜くとどうなるんだ」と尋ねるが、友人はとんでもないことをしたなと騒ぐばかり。酒や肴をごちそうしてなんとか聞きだそうとするが、友人はなかなか教えてくれず……。
特に何も起こらず、しかも聴いている人には早めに結末がわかってしまう。
個人的には、最後まで真相がわからず後味の悪さを残したほうがおもしろいと思う。落語っぽくはなくなるけど。
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