小学生のとき、見知らぬおじさんから100円をもらったことがある。
ぼくは友人たちと、おもちゃ屋の店先にあるゲーム機で遊んでいた。
1回10円でコンピュータとじゃんけんができ、勝てば何枚かのメダルが出てくる。メダルは10円玉と同じように次回以降のゲームに使えるけど、ただそれだけ。メダルを何枚集めても現金や景品と交換できるわけではない。
今考えると何がおもしろいのかさっぱりわからないゲームだが、ぼくらは少ないおこづかいを握りしめておもちゃ屋に通っていた。
つまり、ぼくらはばかだったのだ。
その日もぼくらはゲーム機の前で、最後は必ず負けることに決まっているじゃんけんに夢中になっていた。
ときは夕刻。あたりは暗くなってきてそろそろ帰ろうかという頃である。
ゲーム機に向かっているぼくらを見つめている人影に気がついた。
当時のぼくらの父親よりも年上に見えたから五十歳くらいだろうか。スーツを着ていたが、ぱりっとはしていなかった。どちらかといえばかっこわるい感じのおじさんである。おそらく仕事帰りだったのだろう。
おじさんははじめ、遠くからゲームをやっている少年らを見ていたが、次第に近づいてきてにこにこしながらぼくらに話しかけはじめた。
どういうルールなのかとか、メダルはよく出るのかとか。
ぼくらはなれなれしいおじさんを警戒して互いに顔を見合わせながら、それでもおじさんの質問には愛想なく「はあ」とか「ううん」とか答えていた。
おじさんは、ぼくらがメダルを獲得すると「いいぞ!」と喜んだ。
獲得枚数が少なかったときは、膝に手をついて「あー惜しい!」と悔しがった。
いい大人がこんなくだらないゲームに一喜一憂するなんて(じゃんけんゲームのくだらなさにはぼくらもけっこう気づいていた)このおじさんは頭がヘンな人なんじゃないだろうかとぼくらはちょっと薄気味悪さを感じていた。
やがてぼくらのポケットの硬貨はすべてゲーム機の中に吸い込まれた。
ぼくらはばかだったから全財産を使い果たすまで機械との不毛なじゃんけんをやめないのだった。
誰かが「もう金ないわ。帰ろうか」と言った。
金はなくなったし、あたりはすっかり夕闇につつまれてしまったし、変なおじさんは見ているしで、それ以上ゲーム機の前にいる理由はなにひとつなかった。
そのとき、おじさんはおもむろにポケットをまさぐり皮のくたびれた財布からぴかぴかの百円玉を取り出してぼくらにさし出した。
「これでもうちょっとやってみ」
ぼくらは戸惑った。当然のことだ。
なにも学校で教わった「知らない人からものをもらってはいけません」という言葉を信じたからではない。
なぜおじさんがぼくらに百円をくれるのかがわからなかったからだ。
身なりからして、彼がお金が余って困っている大富豪ではないことはまちがいなかった。百円といえばまあまあの高額だ(当時のぼくらにとっては)。
それを見ず知らずのばかな子どもたちにくれてやる心境がどうにも理解できなかった(自分たちがばかだという自覚は当時はなかったが)。
まったく理解できない状況に当惑したが、目の前のぴかぴかの百円玉は魅力的だった。
ぼくらは考えることをやめて素直に「ありがとうございます。やったあ」と手を伸ばした。
「やったな」
「すげーラッキー」
と言いながら、またゲーム機に向かった。
ひょっとしたら、このおじさんはほんとが自分がじゃんけんゲームをやりたいのかもしれないとぼくは思った。
だけどいい大人がおもちゃ屋の前でゲームに興じる姿を誰かに見られたら恥ずかしいから、代わりにぼくらにやらせているのではないだろうか。
それならわかる。自分がマリオをやらなくても、他人がプレイしているのを見るだけでもまあまあ楽しい。
おじさんはにこにこしながらぼくらのじゃんけんを見ていたが、まだ百円を使いきらないうちに「じゃあ」と言い残して姿を消してしまった。
ぼくらは「なんだったんだろうなあの人」と言いながらゲームの続きをした。
やがて奇跡ともいえるメダル50枚を当てて(ぼくの記憶では50枚当たったことは後にも先にもなかった)、ぼくらは興奮しながら「あの100円のおかげやで。あのおじさんにも見せてあげたかったなあ」と言い合った。
その瞬間のぼくらにとっておじさんは、ほとんど神様だった。
今ならわかる。
あのおじさんが見ず知らずの小学生に100円をくれたわけを。
おじさんがほんとはじゃんけんゲームをやりたかったわけではないことを。
なぜなら、今のぼくも同じことを思うから。
本屋で、財布をのぞきこみながら本を買おうかどうか苦悩している小学生を見たとき。
「おじさんが買ってあげようか」
と言いたくなる。
夏のくそ熱い中、帽子もかぶらずに走り回っている小学生を見たとき。
「ほら、これでジュースでも飲め」
と100円玉を何枚か手渡したくなる。
あの頃、自動販売機のジュースを飲めるということは1年に何度もない大イベントだった。
100円以上もするジュースなどおごってもらえた日には、とびあがって喜んだものだ(比喩ではなくほんとにとびあがった)。
今、何かを手に入れてそんなに喜ぶことができるだろうか。
宝くじで100万円当たったとしても、110円のジュースをおごってもらった子どもの喜びにはかなわない(そのころ自販機の缶ジュースは110円だった)。
昔の何百倍もの金を稼ぐようになったが、金の価値は何万分の一になってしまった。
100円玉を手にしただけで、何を買おうか何でも買えるぞとわくわくした。
今、100万円あっても同じ気持ちを味わうことは決してできない。
ぼくらに100円をくれたおじさんは、その喜びのほんのひとかけらをもう一度味わってみたかったのだろう。
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