2016年9月2日金曜日

【ふまじめな考察】大会のはじまり

競技としての柔道はつまらない!

時間稼ぎに終始したり、相手から逃げるためにわざと場外に出ようとしたり。

いまいち真剣みが感じられない。
それも戦術といえば戦術なんでしょうけど、相手から逃げまどう格闘技はやっぱり見ていて興ざめ。

あたしはもっと単純な力と力のぶつかりあいが観たい。

かけひきを駆使して勝った選手に対して、素直に称賛の拍手を送れないもの。



考えたんだけど、

・時間制があること、場外に出ると仕切り直しになること。これが逃げるという選択肢を生んでいる。

・判定勝ちはもちろん、一本ですら審判の判断に委ねられるので、見ていてすっきりしない。どうしても判定に疑惑がつきまとう。


ってことが、競技としての柔道がつまらない要因なんだと思う。

そこで提案なんだけど、

・時間無制限

・場外に出たら負け

・倒れて10秒間立ち上がれなければ一本負け


ってルールにしたらどうかな?

これなら勝敗も明快だから、戦う側にも見ている側にもしこりを残さない。



これなら純粋に強い人が勝つはず。

よしっ、もう階級制もなくしちゃおう。
体重に関係なく、とにかく強い人がぶつかりあうの。

これで優勝したら、天下に並ぶものはないぐらい強いって堂々と言えるよね。

だから名前も『天下一武道会』に変えちゃおう!


2016年9月1日木曜日

【エッセイ】違法駐輪に国境なし

本屋で働いていたときのこと。

店に駐輪場があった。
よくそこに自転車を放置して、どこかへ出かける人がいた。

あるとき、開店前に三十歳くらいの白人男性が自転車で駐輪場にやってきた。
自転車を置いてバス停へと歩いていこうとしたので、呼び止めて注意をした。

「すみません。ここに自転車を置いていかないでくださいね」

 「ドウシテデスカ」

「ここはお店を利用する方のための駐輪場なんで」

 「アーハイハイ。ワタシ、コノ店ヨク利用シテマスヨ」

「えーっと。そうかもしれないですけど、今はまだ開店前ですよね。店を利用する時間だけ、駐輪場を使ってもいいんです」

するとその男性、突然顔を赤らめて

「ドウシテデスカ! ドウシテワタシダケニ言ウデスカ! 他ノ人モ停メテルジャナイデスカ! コノ人モコノ人モコノ人モ!」


その言葉を聞いて、ぼくはちょっとうれしくなった。

よく「みんなやってるからオレも」というような思考が日本人的だと言われているけど、なんだ外人もけっこう長いものには巻かれてんじゃないか。

2016年8月30日火曜日

【ふまじめな考察】勝者の論理


そうだのう。

昔もいじめはあったが、わりとみんなあっけらかんとしていたなあ。
ガキ大将が堂々とぶん殴ってたから、いじめられた側も根に持ったりしなかった。
わしもいっぱい殴ったし、同じくらいいっぱい殴られた。
みんなそこから社会のありようを学んだりしていたもんだ。
殴るほうもちゃんと加減をしていたんだ。

でも今のいじめは、ほら、インターネットを使ったりして陰湿だろ?
外で遊ばなくなったことや、教師が体罰をしなくなったことが原因なんだろうな。


それから、昔の戦争は、今みたいに陰湿じゃなかった。
剣や銃で正々堂々と闘ったから、殺されたほうも恨んで幽霊になったりせずにあっけらかんとしていたものだ。
イギリスやアメリカみたいなガキ大将が力でねじ伏せる戦争をしてたからな。
みんなそこから国際社会のありようを学んだものだ。

でも最近はインターネットを使って情報収集をしたり、コンピュータを使って遠くから空爆したりして、やり方が陰険だろう?
だから兵士が帰国後に精神病になったりするんだ。

昔はちゃんと残党狩りをしたり敗戦国に無茶な講和条約を押しつけて力を削いだりしたから、復讐の連鎖なんてものも生まれなかった。
今は敗戦国を民主化しようとしたりするから、テロが生まれたりするんだ。
それも、子どもが外で遊ばなくなったことや体罰がなくなったことが原因なんだ。

昔の戦争はからっとしててよかったなあ。

2016年8月29日月曜日

【エッセイ】ぼくがヒーローじゃない理由


たとえばぼくが空を飛べるとして。
一撃で敵を倒す必殺のパンチをもっていたとして。
頭を切られても何のダメージも受けないぐらい頑強だったとして。
自分の頭がおいしいアンパンの味だったとして。
食べられた後は、工場長的な人が代わりの頭部を補修してくれるとして。

目の前におなかがすいた人がいたら、アンパンマンのように
「さあぼくの顔をお食べよ」
と微笑みながら言えるのか?

って考えてみたわけです。


うーん……。
無理だろうな……。

たとえノーリスクだとしても、できることなら自分の顔面は食べさせたくない。
痛みがなくても、なんか嫌だ。

相手のおなかのすきぐあいによるかもしれない。

「おなかすいたよー! えーん、えーん!」
ぐらいだったら、まちがいなく食べさせない。
「そうは言ってもまだ我慢できるよね?」
「つばとか飲み込んだらちょっとは気がまぎれない?」
「市役所とかに相談に行ってみた? 意外と公的なサービスって充実してるよ?」
と、口頭だけで解決をはかると思う。

スジャータが思わず乳粥を飲ませてしまったほどガリガリに痩せていた断食中の釈迦(手塚治虫『ブッダ』参照)。
あれぐらいになってはじめて、自分の顔面を食べさせることを検討する(あくまで検討ね)。

でも、もし食べさせるとしても、せいぜい眉毛とか、唇の皮とかだと思う。
頭からかじられたら「おいこら! ショートケーキでもイチゴは後半だろ!」って怒る。

だから、肉体的な理由だけじゃなく、精神的にも、ぼくはヒーローにはなれないなと思う。

あっ、でも相手がとびきり美人な女性だったら話は別ね。

それだったら、彼女がお昼過ぎに
「あーちょっと小腹がすいたなー」
って言ってただけで、すぐに
「ぼくの顔をお食べよ!」
って言う。

「どこからでも食べていいよ!」
って言う。

「あっ、でも耳だけは最後まで残しておいてよ。きみがぼくの顔を咀嚼する音を聴いていたいから」
って言う。

痛みもなく、美女の整った歯によって噛み砕かれてゆくワタクシの顔。
おお。ぞくぞくする。

これってヒーローの素質ですかね?

2016年8月28日日曜日

【読書感想文】福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』

福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』


内容(「BOOK」データベースより)
生きているとはどういうことか―謎を解くカギはジグソーパズルにある!?分子生物学がたどりついた地平を平易に明かし、目に映る景色をガラリと変える。

分子生物学研究者による科学エッセイ。
数十万部発行という科学書としては異例のヒットとなった新書ですが、読んでみたがどうしてそんなに売れたのかがふしぎでしかたがない。

<続きを読む>


2016年8月27日土曜日

【エッセイ】一休さんの水あめを食べた話

中学生のとき。
旅先のみやげ物屋で、「一休さんの水あめ」という商品を見つけました。
瓶にはアニメ版一休さんのイラスト。
すごくチープなデザインがかえって魅力的で、思わず買ってしまいました。

300円くらいだったと思います。
当時おこづかいとして月に1,500円もらっていましたから、月収の2割。
まあまあの額です。


一休さんの水あめといえば、もちろんあの有名な話に由来するものでしょう。

ある日、和尚さんが水あめを手に入れた。
坊主たちに分け与えるのは惜しいと思い、「これは毒だから食べてはいけないよ」と嘘をついて独り占めしようとした。

それが嘘だと見抜いた一休さんたちは、和尚さんの留守中に水あめを食べてしまう。

全部食べてしまってから、和尚さんが帰ってきたら怒られる、と青ざめる坊主たち。
そこで一休さんは一計を案じ、和尚さんが大事にしている壺を叩き割ってしまう。
水あめを食べた上に壺まで割ったらただじゃすまないとあわてふためく坊主たち。しかし一休さんは「あわてない、あわてない」とすずしい顔。

帰ってきた和尚さんは、大事な壺が割れているのでびっくり。
そこに一休さんがやってきてこう云った。
「うっかり、和尚さんが大事にしている壺を割ってしまいました。
 とても弁償できるものではありません。
 そこで死をもって償おうと、この毒をなめたのですがちっとも死ねません。
 もっとなめれば死ねるかと思い大量に口にしたのですが、全部食べても、悔しいかな死ねません」

これには和尚さんも返す言葉もなく、むむむとうなるばかり......。

たしかこんなお話でした。
「このはし渡るべからず」「屏風の虎を捕まえろ」に次ぐ、一休さん界で三番目に有名な話(たぶん)です。

ところでみなさん。
水あめを食べたことがありますか?

ある、という方は少数派だと思います。
ぼくの周りの人に訊いてみましたが、食べたことないという人ばかりです。
Wikipediaには
昭和40年代頃まで盛んに行われていた街頭紙芝居には水飴が付き物で、子供たちが水飴を割り箸で攪拌して遊びながら、おやつとして食べていた。
とありますから、今の60歳以上はわりとよく食べていたのかもしれませんが、今ではまず目にすることのないおやつです。



ぼくが月収の2割もの大金をはたいてまで買ったのは、そんな水あめを食べてみたかったからです。

なにしろ、『一休さん』によれば、厳しい戒律を守って生きる徳のある僧侶(和尚さん)ですら独り占めしたくなるほどの食べ物なのです。

なにしろ、『一休さん』によれば、一休ひきいる小坊主たちが、師の大事な壺を割ってまでして食べようとしたほどの食べ物なのです。


おいしくないはずがありません。


和尚さんは、「これは毒だから食べてはいけないよ」と嘘をつきました。

山本 健治『現代語 地獄めぐり』(三五館)によれば、人を正しい道に導くべき立場にある僧侶が私腹を肥やすために妄言(ウソ)を口にすると、大叫喚第十六地獄【受無辺苦処】に落とされ、炎を吹き出す鋭い金属の口と歯を持った地獄の魚によって頭から噛み砕かれ、さらに腹の中で燃えさかる炎によって焼かれて苦しむという責めを味わうことになるそうです。

それだけのリスクを承知の上で、和尚さんは「これは毒だから......」と云ったのです。
どれほどおいしいのでしょう。


また、一休さんたちは水あめをなめる瞬間、こう考えたのではないでしょうか。
「和尚さんは『これは毒だ』と言った。私たちに食べさせないための嘘に違いない。でも万が一、ほんとに毒だったらどうしよう......」
一休さんは賢明な少年ですから、当然こんな思いが頭をよぎったはずです。

ふつうだったら、それだけで思いとどまるのに十分です。
知人から「この瓶の中身は毒だから絶対に食べたらだめだよ」と真顔で言われたら、たぶん冗談だろうと思ったとしても、万が一を考えて手はつけないでしょう。
ぼくだったらぜったいに食べません。

それでも一休さんは食べずにはいられなかった。
どれほどおいしいのでしょう。



......というようなことを考えて、ぼくは期待で胸をいっぱいにして水あめを口にしたのです。


え? おいしかったかって?

それは秘密です。
ぜひみなさんも一度食べてみてください。

そうすると、昭和40年頃までは食べられていたのに今では誰も食べない理由がよくわかると思います。


【エッセイ】草食動物のとがったやつ

角が生えている動物は草食動物だけだと聞いた(一部の恐竜をのぞく)。
角は防御用のもので、攻撃には向かないからだそうだ。

なるほど。ということは鬼は草食動物か……。

たしかに『桃太郎』にしても『一寸法師』にしても『こぶとりじいさん』にしても、鬼の方から積極的に攻撃を仕掛けたりはしてないな。
攻撃してきた人間から身を守るために戦っているだけで。

金銀財宝を奪ったっていうのも、すみかを追われたイノシシやサルがたまに野に下りてきて畑を荒らす程度のもんなんだろうな……。

2016年8月24日水曜日

【読書感想文】川上 徹也 『1行バカ売れ 』

川上 徹也 『1行バカ売れ 』


内容(「BOOK」データベースより) 大ヒットや大行列は、たった1行の言葉から生まれることがある。様々なヒット事例を分析しながら、人とお金が集まるキャッチコピーの法則や型を紹介。「結果につながる」言葉の書き方をコピーライターの著者が伝授する。

コピーライターによる「ヒットを生みだす」コピーの作り方。
著者の体験談がつまらなかったり前著の宣伝が多かったりするのはちょっとアレですが、紹介されているエピソードはおもしろかったです。
有名なエピソードも多いのでしょう、コピーの本をほとんど読んだことのないぼくでも、耳にしたことのあるものがいくつかありました。

ぼくも広告の仕事をしているので、目を惹く文章を作ることには日々頭を悩ませています。
この本ではいくつものセオリーが紹介されていますが、やはりいちばん効果があるのは「常識の逆を言う」という手法です 。

北海道北見市にある「北の大地の水族館」が来場者数を大きく増やしたコピー。

 それは、この地方の水族館の最大の弱点を売りにした1行でアピールしたからです。
 その1行とは、
 世界初! 凍る水槽
 でした。
 土地柄、野外に水槽をつくると、冬は水面が完全に凍ってしまいます。それは水族館にとって最大の弱点であるはずでした。しかし、それを逆手にとって、凍った水面の下で活動する魚たちの様子を観察できるようにしたのです。北海道の自然河川そのままに。
 凍った水面の下で魚がどんな風に活動しているか観察したくありませんか? 多くの人は興味をそそられて、真冬のその時期にわざわざ「凍る水槽」を見に来たのです。

たしかにこれは見にいきたくなりますよね。
弱点を、たった1行でひっくりかえしてアピールポイントに変えてしまう。
これぞ名コピー!

実際にはコピーだけではなく、水槽の改修などいろんな対策のおかげで効果を挙げたのでしょうが、これが「氷の下の魚が見られる水族館」とかだったらそこまでお客さんも詰めかけなかったでしょうね。


もうひとつ、弱点を見事に長所に変えたとされる名コピーの例。
アメリカのハインツというケチャップメーカーの話です。

 当時のケチャップはビンづめです。ハインツのケチャップは水分が少なかったので、なかなか出てこないという欠点がありました。ビンを逆さまにして底をたたく必要があったのです。それに比べると、他社のケチャップは水分が多いので簡単に出てきます。使用者のストレスは大きく違いました。他社はハインツの弱点をついてきたのです。
 これに対抗するには、ケチャップの成分を出てきやすい液状に変えるしかありません。しかしそれではハインツらしさがなくなる。ハインツはその戦略をとりませんでした。 たった1行のコンセプトで消費者の価値観をひっくり返したのです。
 それは、
 ハインツのケチャップは、
 おいしさが濃いからビンからなかなか出てこない。
 でした。

このコピーによってハインツのケチャップは売上を大きく伸ばしたそうなのですが、人々がこの広告を見てハインツのケチャップを買ったのは「おいしさが濃いから」だけじゃないと思うんですよね。

不自由さを楽しむ気持ち、というものが人間にはあります。
ぼくの知人は、古い車に乗っていて、「これパワーウインドウじゃないんだよね」とうれしそうに手動で窓を開けたりしています。


ぼくはMacのコンピュータを使っています。
今でこそMacユーザーもめずらしくなくなりましたが、10年くらい前はまだMacはマイナーで、なにかと不便でした。
Windowsユーザーから送られたファイルが開けなかったり、IEじゃないと正常に表示されないサイトがあったりと。
でもそんな不便さがかえって愛おしかったところもあったんですよね。

もー不便だなー、と言いながらも、それがまた「Macの特別な感じ」を引き立たせていたのです。

そういうのってなかなか狙って生みだせる価値ではないんですが、だからこそ成功すると効果ははかりしれないですよね。



この本はコピーの本ですが、コピーにかぎらず「ものを売る方法」のヒントがたくさん転がっています。

スタンダードブックストアが一躍有名になったキャッチコピーや、ブラックサンダーがバレンタインデーに成功させたエピソードなんかは、コピーというよりマーケティング戦略の話です(詳しくは読んでみてください)。



最後に、いちばん印象に残ったエピソードをご紹介。
ジャパネットたかたがボイスレコーダーを販売したとき、高田社長は通販番組でこんな話をしたそうです。

「お母さんがまだ会社で働いてるあいだにお子さんは学校から帰ってきますね。お母さんがいなくてちょっとさびしい。
 でもボイスレコーダーにこんなメッセージが吹き込まれていたらどうでしょう?
 〇〇ちゃん、お帰りなさい。お母さん、まだ会社だけど、おやつは冷蔵庫に入っているからね。宿題は早めにちゃんとやってね。
 ……どうですか?
 こんなお母さんの声を聞いたら、お子さんは喜びます。さびしさも少しやわらぎます」

 自分が働くお母さんの立場になって聞いてみると「なるほどそんな使い方があるんだ」と改めて思ったのではないでしょうか?
 実際、この放送は大反響を呼び、ボイスレコーダーはバカ売れしました。
 通常、このような商品を売る場合は、録音時間や音のクリア度など機能やスペックを訴えることが普通です。しかし、お客さんは機能やスペックではなく「その商品を買ったら、自分の生活にどんないいことがあるか」に興味があったのですね。
 現在、ジャパネットたかたでは、このボイスレコーダーをシニア向けに売っています。
 物忘れが多くなった人に向けて、用事をレコーダーに吹き込んでおけば「忘れるというトラブル」を防ぐことができますよ、という提案です。
 この新しい提案によってボイスレコーダーは、今まで需要がなかったシニア層からの注文が殺到したと言います。

このエピソードを聞いてぼくは、有名な「未開国に靴を売りにいった営業マン」の話を思い出しました。
「だめです、この国では誰も靴を履いていません」と売ることを諦めた営業マンと、「やりました、この国ではまだ誰も靴を履いていません!」と喜んだ営業マンの話です。

ジャパネットたかたの発想はまさに後者。
「お母さんやお年寄りはまだボイスレコーダーをほとんど使っていません!」という考えですよね。


宣伝によって、それまで需要のなかったところに需要を生みだす。

こんなにマーケティング担当者冥利に尽きることはないですよねー。



2016年8月23日火曜日

【エッセイ】過去最高の熱闘甲子園


高校野球が好きなのでここ20年ぐらい『熱闘甲子園』を見ているが、今年は良かった。

高校野球の世界では″10年に1人の逸材″と呼ばれる選手が2年に1人くらい現れるのだが、大げさな表現ではなく本当に10年に一度の熱闘甲子園だった。
(ついでに言うと走攻守そろったリードオフマンが甲子園に出るとすぐに″イチロー2世″と呼ばれる。ホームランバッターは″清原2世″と命名されるのも定番だったが、清原がああなった今となってはもう呼ばれることはあるまい)


10~5年ほど前の『熱闘甲子園』は最低の時代だった。特にキャスターである長島三奈が取材をするようになってからは地獄だった

どんな試合展開だったのか、どんなプレーが生まれたのか、どういった戦術がとられたのか。
高校野球ファンが知りたいのはそこなのに、長島が取材する内容ときたら「この選手は誰と仲がいいか」「この選手の家族はどんな人か」といった愚にもつかないことばかりだった。

長島三奈は、高校球児の青春が好きなだけで高校野球自体に興味がないのだ。
いきおい、放映されるVTRは野球に対してまったく敬意が感じられない仕上がりになっていた。

特にうんざりしたのは、故人を使って安易に感動を誘おうとするVTR。
まだチームメイトが亡くなったとか監督が死んだとかならわかる。チームに対する影響も大きいだろう。彼らの死を抜きにはチームは語れないにちがいない。

でも「ある選手のお父さんが数年前に亡くなった」なんてのは、本人にとっては大きな出来事でも、そのチームにとってはほとんど関係のない話だ。

ひどいのになると「2年前に亡くなったおじいちゃんに捧げる勝利!」なんていってて、そこまでいくと感動どころか失笑しか出なかった。
高校生にもなったらおじいちゃんもいい歳だからわりと死ぬだろうよ。
部員全員の両親祖父母が健在、なんてチームのほうが少ないと思うぜ。

たぶん熱闘甲子園のスタッフが、むりやりネタをつくるために、選手たちに「身内に亡くなった人いないっすかね?」って聞いてたんでしょうね。
死人で商売する、墓場泥棒みたいなやり口だった。


そんなわけでぼくは、欠かさず観ていた熱闘甲子園から遠ざかるようになった。
高校野球自体は変わらず好きで毎年1度は甲子園まで足を運んでいるが、熱闘甲子園はときどきしか観ない番組になっていった。

しかし数年前に工藤公康がキャスターを務めるようになって、徐々に番組の内容は良くなっていった。
安易な感動狙いは相変わらずだったが、プロ野球解説者も務めていた工藤氏による解説はさすが着眼点が鋭くゲームの内容に深く切り込む内容が増えた。

そして 2014年をもってようやく憎き長島三奈が退いた(ぼくはまだ許してないぜ。だいたいなんであいつがキャスターやってたんだ。七光りなんだろうけど、長嶋茂雄だって長嶋一茂だって高校時代は甲子園に出てないから無関係じゃないか)。
そして古田敦也がメインキャスターとなり、『熱闘甲子園』は十数年ぶりに甲子園をメイン舞台にした番組に戻る

番組の内容は格段におもしろくなった。

そうなんです。
べつに選手の宿泊先に押しかけて取材をしなくたって、ただ試合を丁寧に放送するだけでいい番組はできるんです。
どれだけ練習したかも、身内がいつ死んだかも関係ない。
甲子園での試合にこそドラマがあり、感動があるのです。

作曲家の苦労を知らなくたって、いい歌は胸を打つ。
役者の人柄を知らなくたって、芝居を観て人は感動する。

これだよ。
20年ほど前の『熱闘甲子園』はこうだった。
甲子園での試合の様子を丹念に、ありのままに伝えていた。

『熱闘甲子園』は甦った。高校球児の活躍をきちんと伝える番組になった。
だが2015年は、最後の最後で
高校球児たちが未来への願いを込めた紙飛行機を飛ばす
という、くそダサい演出をやらかして、すべてを台無しにした。
(気になる人はぜひYouTubeで「熱闘甲子園 2015 エンディング」で検索してほしい。ほんとダサいから。そして、明らかに高校球児の書いた文字じゃないから)

2016年の熱闘甲子園は、最後まで野球を中心にした番組だった。
ほんとに良かった!

(褒め称える記事のはずなのに、悪口のほうがずっと多いな……)

2016年8月21日日曜日

【おもいつき】感動の大安売り


「感動をありがとう」
最近よく耳にする言葉ですね。

しかし感動を用いたあいさつはこれだけではありません。

ここでは、感動あいさつの事例を紹介しましょう。

日本選手が金メダル!
感動をありがとう!

喜んでもらえてうれしいです。
感動をどういたしまして!

日本選手の金メダル獲得まで残りわずか!
感動をいただきます!

みっともない負けかたをしてしまってお恥ずかしい。
感動をごめんなさい……。

よくがんばったな。
感動をおつかれさん!

まだ勝負はついていませんが、わたくし、早くも胸が熱くなってきました。
感動をお先に失礼します!

見事リベンジ達成! 2大会ぶりの金メダルです。
感動よおかえり!

さあいよいよ日本中が待ちのぞんだ決勝戦です。
感動へようこそ! 感動へおこしやす! めんそ~れ感動!

なんだよ不甲斐ない戦いしやがって!
おととい感動しやがれ!

オリンピックもいよいよ閉会です。
それではみなさん、また感動する日まで~!


2016年8月19日金曜日

【考察】一(マイナス)を聞いて十(プラス)を知る

「思うんだけどね。
 読解力が高い人って、人の話を集中して聴くのが苦手な傾向がある気がする。自分で読んだり考えたりして答えを導きだせるから、話を聴く必要がないんだろうね」

 「なるほど。読解力と聴く力は反比例するってことか」

「いや、反比例はしない。読解力もなくて人の話も聴かないやつもいるから」


2016年8月18日木曜日

【読書感想文】『ネオ寄生獣』

 

 内容紹介(Amazonより)

田宮良子が生み、泉新一に託した子どものその後を描いた萩尾望都『由良の門を』。砂漠の戦場での寄生生物同士の激しいバトル! 皆川亮二『PERFECT SOLDIER』。まさかの『アゴゲン』とのコラボ、平本アキラ『アゴなしゲンとオレは寄生獣』など『寄生獣』への想いに満ちた12編の傑作が集結! 他の著者・遠藤浩輝、真島ヒロ、PEACH-PIT、植芝理一、熊倉隆敏、太田モアレ、瀧波ユカリ、竹谷隆之、韮沢靖。

岩明均の傑作漫画『寄生獣』のトリビュート漫画集。

いやあ、おもしろかった。
ぼくが『寄生獣』をはじめて読んだのは20年ほど前ですが、その後もくりかえし読んだので細かいところまでよく覚えています。
奇抜な設定、綿密に練られたストーリー、丁寧な伏線、泉新一、ミギー、田宮良子、後藤といった魅力的なキャラクター 、力が勝敗を分けるわけではない戦いなど、「こんなに完璧な漫画があるのか」と感心したことを覚えています。
強いて欠点を挙げるならあまり絵がうまくないことですが、絵がうまくないこともストーリーに貢献していて(ネタバレになるので伏せますが、広川が××だということにほとんどの読者が気づかなかったのは絵がうまくないおかげでしょう)、絵の拙さまで魅力に変わっています。

『寄生獣』の特にすばらしいところは、ちょうどいいところでスパッと完結しているところ。
やろうと思えば、ミギーを復活させることも新たな敵を出すこともできただろうに、そこまでした引き伸ばさなかったからこそ今でも『寄生獣』は名作だとの評価を受けているのでしょう(「○○編までは名作だった」と呼ばれている漫画がどれだけ多いことか)。

終盤に最高潮が来ているので、読み終わったあとに満足するとともに「もっと読みたい」という気になりました。
そしてそう思ったのはぼくだけではないようです。
多くの表現者も同じように感じたらしく、それがこのトリビュート『ネオ寄生獣』を生みだしたのでしょう。

『寄生獣』の世界や登場人物を使って、いろんな創作者の方々が独自のストーリーを展開しています。


ぼくがいちばん楽しめたのは、太田モアレ『今夜もEat It』。
上品なユーモアもハートフルでスリリングなストーリー展開も一級品で、「この人の『寄生獣』をもっと読みたい!」と思いました。

さらに絵柄をオリジナルに寄せていたり(岩明作品の人物って考え事をするときこんな口するよね!)、別の岩明均作品の登場人物が顔を出したりと、ほんとに『寄生獣』を敬愛する感じが伝わってきて、これぞトリビュート!って言いたくなる、完成度の高い小編でした。


ついでおもしろかったのは竹谷隆之『ババ後悔す』。
造形作家だそうで、海洋堂でフィギュア作ったりしてた人らしいですね。
造形もさることながら、「もし○○に寄生したら」というアイデアもすばらしい。
ま、田舎だったらこうなるよなあ。


熊倉隆敏『変わりもの』はショート・ショートのような不気味な後味の作品。
『今夜もEat It』といい、寄生獣といえば“健康”なのがおもしろい。
寄生生物にとっての最大の関心事が宿主の健康なのは、あたりまえといえばあたりまえなんだけど。


PEACH-PIT『教えて!田宮良子先生』もおもしろかったんだけど、これはトリビュートというよりはもはや同人誌……。


ひどかったのは平本アキラ『アゴなしゲンとオレは寄生獣』。
いやあ、これはひどい。
笑いましたけど。

もう、原作のキャラをむちゃくちゃにしてます(しかもあの人かよ……)。
でも、原作の台詞を忠実にパロったりして(忠実にパロったり、って変な表現だけど)、『寄生獣』に対する愛も存分に感じました。

ぼくは清水ミチコの、対象に対する悪意と愛情の両方を感じるものまねが好きなんだけど、なんとなくそれを思い出しました。


『ネオ寄生獣』、『寄生獣』ファンなら少なくともどれか一篇は楽しめる作品集だと思います。

でも全部気に入るのは難しいだろうな……。



2016年8月16日火曜日

【写真エッセイ】科学で守る甲子園



甲子園で高校野球観戦。


21世紀ももう16年目だっていうのに!

これだけ国防費に予算を使ってるのに!

なのに甲子園のカメラを日射熱から守る技術がまだゴザってどういうことなんですか、総理っ!

【エッセイ】五山送り火のええとこ

京都人は遠回しなものの言い方をする。
「ぶぶ漬け食べていきなはれ」は有名だが、他にもいろいろある。

「おたくのお嬢ちゃん、ピアノ上手にならはりましたなあ」
は、
「ピアノうるさいですよ」
の意味。

「若い人は何を着ても似合わはりますなあ」
は、
「若いから場にふさわしい服も知らないのね」
の意味だそうだ。



学生時代、京都に住んでいた。
京都市内の中でも中心部、いわゆる“洛内”という場所だ(ちなみに京都人にとって中心部とは、市役所や繁華街がある場所ではない。御所に近い場所が中心部だ)。

ぼくの住んでいたアパートは大文字山のすぐ近くにあって、アパートの通路からは「大」の文字がよく見えた。

毎年8月16日は五山送り火。
大文字山の「大」の字には煌々と火が灯る。俗にいう大文字焼きだ。

友人が、一緒に大文字焼きを見ようぜとぼくの家にやってきた。
だがアパートの通路で見るのも興に欠ける。
いい場所はないかと探すと、アパートの屋上からだと大文字が真っ正面に見えることがわかった。
屋上へ通じるフェンスにはカギがかかっていたが、何でも許されると思っている学生のこと、フェンスをよじのぼって屋上に上がった。

上がってみるとじつによく見える。
人もいないし快適だ。
これは愉快愉快とビールを飲みながら大文字山に灯る送り火を眺めていると、アパートの大家さんがやってきた。

大家さんは70歳くらいのおばあちゃんで、いたって柔和な人柄だった。
ぼくらが勝手にフェンスを乗り越えて屋上で酒を飲んでいるのを見ても
「あらー、ええとこ見つけはったねえ」と微笑むだけだった。
ぼくらも
「そうでしょう。ここ穴場ですよ」
とへらへらしていた。


……という話をつい最近、知り合いの京都人にしたところ、

「『あらー、ええとこ見つけはったねえ』っていうの、それたぶん京都人特有のイヤミですよ」

と云われた。

あーそうかー。
よくよく考えたらそうかもしれーん!

でも当時はまったく通じなかったよ!

田舎者だと馬鹿にされてたんだろうなあ……。

2016年8月13日土曜日

【読書感想文】貴志 祐介 『新世界より』

内容(「BOOK」データベースより)
1000年後の日本。豊かな自然に抱かれた集落、神栖66町には純粋無垢な子どもたちの歓声が響く。周囲を注連縄で囲まれたこの町には、外から穢れが侵入することはない。「神の力」を得るに至った人類が手にした平和。念動力の技を磨く子どもたちは野心と希望に燃えていた…隠された先史文明の一端を知るまでは。

いやあ、とんでもなくスケールの大きい小説でした。
これだけの話をたった一人の人間が書いたということに驚かされる。
これを実写映画化しようとしたら、『スター・ウォーズ』7部作ぐらいの予算と上映時間が必要になるだろうね。

緻密に考えられた世界観、魅力的な新生物、次から次にピンチに陥る怒濤の展開、そして巧みに仕掛けられた伏線。
どれをとっても一級品。

単行本で前後編あわせて1,000ページを超えるボリュームでありながら、ページをめくる手が止まらなくなり、一気に読んでしまった。
小説の世界にどっぷり浸かりたいときにおすすめ。

でも逆にいうと、どっぷり浸かりながら読まないと、ついていけなくなっておもしろみを感じられないかもしれない。
登場人物は特に多いわけじゃないけど、1,000年後の日本、超能力者が支配する世界を描いたSFなので新しい概念が次々に登場する。
呪力、攻撃抑制、愧死機構、悪鬼、業魔など。
これらの概念はちょっとややこしい上に少しずつしか明らかにならないので、前半は少しもどかしい。

その分、徐々に世界の謎が明らかになっていく瞬間には、カタルシスを感じる。
未知の分野を勉強するときって、はじめはぜんぜん理解できなくって苦痛なんだけど、ある瞬間から急に全体像が見渡せるようになって爽快感を味わえるじゃない。ちょうどあんな感じ。
「そうか、世界はこうなってたのか!」

勉強が嫌いな人ってこの悦びを知らない人が多いから、勉強嫌いな人にはこの小説はしんどいかもね。


あとホラー出身の作家だけあって恐ろしいストーリー展開やグロテスクな描写も多い。後味もすごく悪い。
ぼくは後味の悪い小説が好きなのでおもしろかったけどね。
特にラストの薄気味悪さは後を引いたな。バケネズミが実は×××だったというのは、まったく想像もしなかったし、言われてみればなるほど!という感じで、見事に騙された。
読み終わってから寝たら見事に悪夢を見たからね。それぐらいイヤなラスト。
SFとしてもミステリとしてもサスペンスとしてもホラーとしてもよくできた小説だ。


ストーリーの本筋についてはネタバレにならないように書くのは難しいのでこれ以上触れないとして、
『新世界より』の魅力のひとつは、架空の動物たちの存在。
珍奇な生物たち(バケネズミ、ミノシロモドキ、トラバサミ、不浄猫、フクロウシ......)のどれも魅力的なのですが、ぼくが特に感心したのはカヤノスヅクリというヘビ。

 カヤノスヅクリの戦略は、托卵を行う鳥の習性を巧みに利用するものだった。
 托卵というのは、自ら巣を作って雛を育てる手間を省き、ほかの種類の鳥の巣に自分の卵を産み付け、育てさせることである。托卵された卵はすばやく孵化して、元からあった卵をすべて巣の外に放り出してしまう。生きるためとはいえ、あまりにも冷酷な仕打ちだと思う。アフリカ大陸に棲息する蜜教(ミツオシエ)にいたっては、嘴に付いた棘によって、宿主の雛を刺し殺すようなことまでするらしい。
(中略)
 カヤノスヅクリは、鳥の巣を模倣したものを造り、大きさから模様まで本物の卵とそっくりな偽卵を並べておいて、騙されて托卵する鳥を待つ。あとは、定期的に自分の作った巣を巡回すれば、新鮮な卵の貢ぎ物が見つかるというわけだ。

さらに、卵を食べにくる他のヘビを殺すため、毒や鋭い突起を仕込んだ偽卵を仕込むこともあるというしたたかさ。
あまりにも合理的な生存戦略なので、本当にいるのではないかと検索してしまったほど(だって自然界の生き物ってほんとに合理的なんだもの)。

いやほんと、1,000年後はないにしても、数万年後にはこんな生物も誕生してるんじゃないかな。検証しようがないけど。
願わくば、バケネズミだけは誕生していませんように......。



 その他の読書感想文はこちら



2016年8月12日金曜日

【おもいつき】ぼくらとオリーブの染色体

「人間の染色体は23対、他に23対の染色体を持つ生物はオリーブぐらいしかいないらしいよ」

 「オリーブってポパイの恋人の?」

「あれは人間だろ。植物のオリーブだよ」

 「へえ。じゃあチンパンジーなんかよりオリーブのほうが人間に近いってこと?」

「うーん……。染色体の数だけならそうだけど……」

 「つまり腕が折れたときはオリーブの木で接ぎ木をしたら腕とくっつくってこと?」

「そんなことはない」

 「つまり血が足りないときはオリーブオイルで輸血できるってこと?」

「そんなこともない」

 「あのさあ。ほんとのこと言うとね」

「うん?」

 「おれ、染色体って何かわかってないんだよね」

「だろうね!」

2016年8月9日火曜日

【エッセイ】許すまじ巨悪

そろそろ国が本腰を入れて、「ふたりが出会えた奇跡」という歌詞を取り締まらなければならないと思う。



あまりに安易。

いったいどれほどの曲に使われているのだろうと思って調べてみた。
(歌詞検索サービス 歌ネットhttp://www.uta-net.com/)



「出会えた奇跡」の検索結果230件
「出逢えた奇跡」の検索結果は130件
「出会った奇跡」は34件
「出逢った奇跡」は22件
「出会えたこの奇跡」は15件
「出逢えたこの奇跡」は13件


手垢にまみれてクソみたいな色になってクソみたいな臭いを放っているこの表現。
「奇蹟」や「キセキ」も含めたらもっと多い。

これだけ氾濫してたらもう奇跡でもなんでもないよ!

2016年8月7日日曜日

【知識】わかりにくい野球規則の話

わかりにくい野球のルール。


1.野球規則 3.03
同一イニングで投手が他の守備位置についたら、投手以外の他の守備位置につくことはできない。
また、同一イニングに2度投手として登板した際は、他の守備位置につくことができない。

× ピッチャー → ファースト → ライト 
○ ピッチャー → ファースト → ピッチャー
× ピッチャー → ファースト → ピッチャー → ファースト
ってことですね。(同一イニングの話)

昔、阪神が同一イニングで遠山→葛西→遠山→葛西っていう継投をしてたけど、葛西が2回目に出てきたときには遠山はベンチに退かなくてはならないわけです。
時間短縮のための措置でしょうかね。


2.第3アウトの置き換え

1死満塁。
打球は外野へのライナー。ヒットと思った走者は一斉に走るが、センターの好捕でバッターアウト。
3人の走者はそれぞれ次の塁に到達していたので、センターからセカンドへとボールが送られ、飛び出していた2塁ランナーがアウト。
この場合、攻撃側に1点入ってしまうのだそうです。
2塁ランナーがアウトになるより早く3塁ランナーがホームインしていたから、というのがその理由。

得点を防ぐためには、3塁に送球するか、審判に対して「3塁走者が飛び出していた」とアピールして、3塁走者をアウトにしなければなりません(このアピールプレイによって第3アウトが2塁走者から3塁走者に置き換わる)。
アピールする前に守備側の選手が全員ベンチに引き上げて(正確にはファウルラインの外に出て)いたら得点が記録されちゃうとのこと。
高校野球センバツ大会でも起こった事例です。


3.見逃し振り逃げ
見逃しでも「振り逃げ」はできるのだとか。
振ってないじゃん、と思うかもしれませんが野球規則には「振り逃げ」という言葉は出てきません。
「第3ストライクの投球を捕手が正規に捕球しなかった場合は打者が走者になる」としか書かれていません。
というわけで、見逃し三振でも振り逃げは可能。

でもこれをやろうと思ったらストライクボールをキャッチャーが大きく逸らさないといけないわけで。
プロ野球や、甲子園に出るレベルのキャッチャーだとまずありえないプレーですよね(プロ野球では過去に1度だけ起こったそうです)。

2016年8月5日金曜日

【エッセイ】そんなパーティー出たことないけど

「世の中には10種類の人間がいる。
 二進数を理解できる人間と、そうでない人間だ」

ってのは、簡潔でウィットにとんでいる、よくできたジョークなんだけど、文章にしないと伝わらないのが残念だよなあ。

パーティーで披露できないじゃないか。

2016年8月3日水曜日

【エッセイ】ハゲ・ハラスメント

「女に対して『太ったね』は、口が裂けても言っちゃだめ」
と女性から云われました。


男の立場からすると、べつに悪気はないんだけどな(あることもあるけど)。
男どうしだと「おうひさしぶり。おまえ太ったなー!」と挨拶代わりに言ったりするし。


しかし何を気にするかは人それぞれ。
言うなというのであれば、ぐっとこらえて、心のなかでこいつ太ったなーと思って、にやにやするだけにとどめておくことにしましょう(あんまりとどまってないな)。


その代わりといってはなんですが。


女性のみなさん、男に向かって「ハゲ」と言うのだけは、やめてください。

女が思っている50倍、男は「ハゲ」という言葉に傷つきます。
すべての男は、自分がハゲることに怯えています。
「おれは死ぬことなんて恐れちゃいないぜ」なんてうそぶく男ですら、ハゲることは恐れています。
死よりも怖いもの、それがハゲるということなのです。


薄毛の人はもちろん気にしています。

ふさふさの人も、近い将来ハゲだすんじゃないかとびくびくしています。

まして、現在進行形でハゲが進る人の心配たるや、いわずもがなです。

毛が1本でも残っているかぎり、毛髪問題に関して心休まる日は訪れません。
(もしかすると完全にハゲきった人ですら、また生えてこないかと気にかけているかもしれません)


男は女ほど占いを気にしませんが、自分がハゲるかどうかを占うことにかけては、たいへん関心があります。
やれ家系にどれだけハゲがいるかだとか、やれ頭皮が硬いのはあぶないとか、やれどのシャンプーは抜け毛を抑えるだとか。

それぐらい気にしていることですから、どうか女性のみなさんは、口が裂けても、男性に向かってハゲたとか抜けたとか薄くなったとか減ったとかスッキリしたとか軽量化に成功したとか言わないようにお願い申し上げます。



最後に、なぞかけをひとつ。


ハゲとかけまして

政党のメンバーとときます。


そのこころは、


抜けたり後退(交代)したりしますが、結局は不毛です。


2016年8月1日月曜日

わたしの周囲の3人中3人が待ち望んだ金メダル

わたくしは、
日本人の父と日本人の母を持ち、
日本人としての戸籍を有し、
日本に生まれ、日本に育ち、日本に暮らす、
れっきとした日本人です。


そのわたくしですが、
今回のリオデジャネイロ・オリンピックにおける日本人選手の活躍には一切関心がありませんので、
日本人選手を一切応援せず、オリンピックも一切観戦しないことをここに宣言いたします。

ですから。

テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、Webサイト他あらゆる報道機関のみなさん、今回のオリンピック報道に関して、

「日本中が待ち望んだ金メダル」

「日本中に感動を与えた」

といった虚偽にまみれた言葉を使わないようお願い申しあげます。



その代わり、

「日本中の少なくともひとりを除く多数が待ち望んだ金メダル」

「おれが個人的に想定する非実在日本人全員に感動を与えたプレー」

といった正確な表現を用いていただくよう要請する次第であります。


わたくしがオリンピックに無関心なばかりにご不便おかけして恐縮ですが、正確な報道のため、ご協力よろしくお願い申し上げます。

2016年7月31日日曜日

【エッセイ】候補だけならなんとでも言える

自宅の郵便受けに入っていた夏祭りのポスター。


総合司会の松原美穂って人に
「お嫁さんにしたい女優No.1候補の癒し系歌手」
ってキャッチコピーがついてるんだけど、

女優なんだか歌手なんだかわかんないし、

No.1候補って、つまり何者でもないってことだし、

検索してみたらこの人39歳で、
39歳をお嫁さんにしたい人がそんなに多いわけがない のか疑問だし、

わけわからんキャッチコピーつけられてかわいそうだな。


……と思ってたら、
この人のブログで

「総合司会は私、お嫁さんにしたい女優No.1候補の癒し系歌手、松原美穂が務めさせていただきます。」

って自分で書いてた……。


そんなのを名乗っていいのなら、これからはぼくも、

「抱かれたいイケメン俳優No.1候補の引きこもり系サラリーマン」

を自称することにしよう!

2016年7月30日土曜日

【考察】ぶったおれるほどのヒット

ゲームやアニメって、批判されたり犯罪に利用されたりするようになってはじめて大ヒット、って気がする。


買ったばかりのドラクエをカツアゲする不良とか。

ビックリマンシールだけ集めてチョコを捨てる子どもとか。

子どもたちがクレヨンしんちゃんの真似をして大人たちが眉をひそめたこととか。


そういうのが報道されるようになって、社会的に広く受け入れられるんだよね。


だからポケモンGOがヒットしたのも、アメリカでポケモンGOにまつわる事故や事件が頻発した、というニュースがあったからだと思う。

そもそもポケモンが大人にも広く知られるようになったきっかけも、いわゆる“ポケモンショック”で子どもたちがぶったおれたことだったしなあ。



2016年7月29日金曜日

【エッセイ】ほんとにあった、たどたどしい話

ほんとにいるんですねえ。
いやいや、いると聞いてはいたんですが。
目の当たりにしたのははじめてでした。

百貨店で、幼稚園児くらいの子がおもちゃを買ってほしいと、お母さんにせがんでいました。

するとそのお母さんが、
「そうね、ええっと、おくとーばー、のーべんばー、でぃっせんばー……。でぃっせんばーになったら買ってあげる!」

はじめはぼくも、ふざけてるんだろうなあ、と思っていました。
でもその後もお母さんは一生懸命しゃべっていました。

「でぃっせんばーになったらプレゼント、プレゼント・ふぉー・ゆー。わかる? あんだーすだんど?」


出たー、本物だ!
これが本物の、とにかく英語(っぽい言葉)でしゃべることが子どもの英語習得に有効だと本気で信じてる母親だー!

日本語混じりのたどたどしい英語。
もう完全にルー大柴。
聞いてるこっちが恥ずかしい。

ですがお母さん。
安心してください。

あなたのその努力はきっと実ることでしょう。
あなたのお子さんは、きっと将来は流暢なルー語をしゃべれるようになることでしょう。

ちなみに、早期教育が外国語の習得に有効だという説もありますが、教育科学的にはまったく証明されておらず、否定的な研究結果のほうが多いみたいですよ。


……と声をかけようかと思いましたが、やめときました。

だって昔から言うでしょう、「言わぬがフラワー」ってね。

2016年7月28日木曜日

【エッセイ】褒めて伸ばす教育の功罪


3歳の娘と遊んでると、しょっちゅう痛い目に遭うんですよね。

ほら、こどもって手かげんも距離のとりかたも知らないから。

だから油断してると、すぐにみぞおちにパンチ入れられたり、飛び蹴りをくらったり、目つぶしをされたり、ジャーマン・スープレックスをくらわされたりするんですよね。最後のはウソですけど。


ものすごく痛いこともあるんだけど、向こうに悪気はないわけだし、こども相手に怒るのもおとなげないなと思って、ぐっとこらえるわけです。

でも、謝罪のできない子にはなってほしくないので、落ち着いたトーンで語りかけるようにしてたんです。
「お父ちゃんはすごく痛かったから、ごめんって言おうね」
って。

で、こどもがちゃんと「ごめんなさい」と言ったときは、 「わー、ちゃんとごめんなさいって言えたねー! えらいねー!」
と大げさなぐらい褒めてやるようにしてたんです。


ああこれぞ褒めて伸ばす教育だ。
見たか尾木ママ、ぼくは今、いい父親をしているぞとひとり悦に入っていたんです。

が。

子育てってうまくいかないものですね。

根気強く教えこんだおかげで、ぼくが痛がるととっさに「ごめん」と言える子になったんですよ。

でも、その後に必ず「ごめんって言えた!」とアピールしてくる子になったんです。

「ちゃんとごめんって言えたねー! えらいねー!」
と褒めすぎたんでしょうね……。


ぼくのあごに頭突きを決めた後、悶絶するぼくに向かって
「ごめーん。ごめんって言えた!」
と間髪を入れずにうれしそうに声をかけてくる娘。
3歳児とはいえ、そして我が子とはいえ、正直、イラっとします。


そして、我が子の将来が心配です。

政治家になったものの、公金の不適切な使い込みが明らかになって記者会見を開くことになったわが娘。

「心よりお詫び申し上げます……」
と深く頭を下げた後に、

「1、2、3……。ヨシっ、ちゃんと謝罪できた!」

と言わないかと、お父ちゃんは心配です。


2016年7月26日火曜日

【読書感想文】ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』

内容(「BOOK」データベースより)
ぼくの飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。家にあるいくつものドアのどれかひとつが、夏に通じていると固く信じているのだ。1970年12月3日、かくいうぼくも、夏への扉を探していた。最愛の恋人に裏切られ、生命から二番目に大切な発明までだましとられたぼくの心は、12月の空同様に凍てついていたのだ。そんな時、「冷凍睡眠保険」のネオンサインにひきよせられて…永遠の名作。

SF史に残る不朽の名作として語られる作品。
今さら読んでみましたが、いやあ美しい小説でした。

「美しい」といっても描写が巧みだとか純愛が描かれているとかではなく(猫に対する純愛は描かれているけど)、ストーリーに無駄も不足もない、疾走感を保ったまま最後まで一気に読ませてくれる小説だということです。
あまりにうまくいきすぎる、ご都合主義的なところもありますが。


SFとしては、今読むとちょっと物足りないところがあります。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や『サマー・タイムマシン・ブルース』のようなよくできたタイムマシンものを知っている人間からすると、「え? もうひとひねりないの?」と思ってしまいます。

というのは、『夏への扉』があまりにいろんな作品に影響を与えすぎたからでしょう。
現代のタイムトラベルものは直接的にであれ間接的にであれほぼすべて『夏への扉』の影響を受けているといってもよいのではないでしょうか。


『夏への扉』が出版されたのが1957年なので、60年近くも前のこと。
この作品中で描かれる<未来>が、西暦2000年のことですしね。
しかし、ちっとも古びていません。
 逆に、よく言い当てているなと感心しました。
 たとえばこんな描写。

 しかし、最近そういったオフィスでは、製図工の見習いなど置かず、たいてい、一種の半自動的な製図機を用いて仕事の能率をあげていた。癪にさわる機械ができたものだと思ったが、その製図機の写真を見たとき、ぼくはなにかはっとした。この製図機なら、機会さえ与えられれば、二十分とかからずに、操作法をマスターしてみせるぞと思った。というのはほかでもない ─ ─ その製図機は、三十年前のある日、ぼくが考えついた製図機のアイデアに、じつによく似ていたからである。製図者が椅子にすわってキイを押すだけで、イーゼルの上の任意の箇所に、直線なり曲線なりを描き出すことができるところなど、まるで、ぼくのアイデアを模倣したとしか思えないほどなのだ。

 文化女中器は(もちろん、これはのちにぼくが改良を加え完成したセミ・ロボット型でなく、市販第一号時代のである)どんな床でも、二十四時間、人間の手をわずらわせずに掃除する能力を持っていた。そしておよそ世の中には、掃除しなくてよい床など、あるはずがないのだ。
 文化女中器は、一種の記憶装置の働きで、時に応じてあるいは掃き、あるいは拭き、あるいは真空掃除器とおなじように塵埃を吸収し、場合によっては磨くこともする。そして、空気銃のB・B弾以上の大きさのものがあれば、これを拾いあげて上部に備えつけた受け皿の中に置き、あとで、彼らよりいくらか頭のよい人間様に、捨ててよいかどうかを判断してもらうこともできるのだ。こうして、文化女中器は一日二十四時間、静かに汚れを求めて歩く。曲がり角であろうとどこだろうと、塵ひとつ見落とさず、すでにきれいになっている床は素通りして、一刻も休まず汚れた床を求めてまわるのだ。もし部屋に人がいる場合には、しつけの行き届いたメイドよろしく、主婦にスイッチをひねって、掃除してもいいよといわれないかぎりは、決して部屋に入ってこない。動力が切れるころになると、自動的に所定の置場へ出かけていって、動力をチャージする─ ─ ただしこれも、永久動力につけ替える以前のことである。

それぞれ、CADオペレーターやルンバに驚くほどよく似ていますよね。
1957年(まだ日本でカラーテレビの放送が始まる前ですよ!)に書かれたものとしては、ものすごく正確な予言だと思いませんか。

さらに感心するのは、作中に登場するこうした機械にハードウェア・ソフトウェアの概念が取り入れられていることです。
すべての部品を1台の機械に入れてしまうのではなく、マシン自体には最低限の機能だけ持たせておいて、部品を取り替えることで、バージョンアップも修理もかんたんになるという発想。


わくわくさせてくれるストーリーもさることながら、60年前の想像力がふんだんに表現されている細部の描写もおもしろい本です。

あと猫が活躍するという、めずらしい小説でもあります。
犬とちがって、猫ってあまり活躍するような生き物じゃありませんからねー。


2016年7月23日土曜日

【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』

角田光代・穂村弘 『異性』

内容(「BOOK」データベースより)
好きだから許せる?それとも、好きだけど許せない?男と女は互いにひかれあいながら、どうしてわかりあえないのか。「恋愛カースト制度の呪縛」「主電源オフ系男女」「錯覚と致命傷」など、カクちゃん&ほむほむが、男と女についてとことん考えてみた、話題の恋愛考察エッセイ。

歌人・穂村弘と小説家・角田光代が、それぞれ男と女の立場から恋愛についてつづったエッセイ。
交互に連載していたらしいので、お互いの書いたものにコメントしつつ「いや私はこう思うよ」「ぼくはこう思うんだけどあなたはどう?」といったやりとりも見られる。

往復書簡のような形が新鮮。
この形式を考案したのは編集者かな。内容にもあってるし、すばらしい発明。
書いている人たちも楽しかったんじゃないかな。

学生時代に好きな女の子と交換日記のやりとりをしていたんだけど、そのときの愉しさを思い出した。


えー内容だけど、ぼくは穂村弘さんのエッセイが大好きなので穂村パートは楽しく読めた。でもふだんのエッセイより腰が引けているというか、マトモなことを書いているのが残念。
妄想が暴走して、読んでいる側がなんだそりゃもうついていけねえ、ってなるのが穂村弘さんのエッセイのおもしろさだ。
でもこの連載では、半分は角田さんに語りかけるように書いているので、あまりにとっぴなことは書かれていない。
女同士の会話って「意見」とか「思いつき」よりも「共感」のほうが重視されることが多いけど、まさにそんな会話を聞いてるみたい。
「あーあるある」って話に終始しているのがもったいなかったなあ。もっと勝手な”決めつけ”を読みたかった。

角田パートのほうは、うーん......。
ぼくが男性だからなのかもしれないけど、共感もできないし、かといって「この感情をそんなふうにとらえるのか!」っていうような切れ味もなく、穂村パートへの前振りになってしまっているような感じ。

角田「男ってこうだよね」
穂村「いや、それはそうじゃなくて、こうなんだよ」
角田「なるほど、そうだったのか!」
ってな流れが多かったなあ。

ぼくが穂村弘びいきになっているだけかもしれないけど。



いちばん大きくうなずいたのはこんな話(穂村パート)。

 思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。
 その証拠に、お洒落やマナーの本を書いたり教えたりいている人自信が特に恰好よいわけではない、ってことはよくある。その人たちは、確かに知識もセンスもあるんだろう。お金も時間もかけているんだろう。でも、そんなもの何にもなくたって、恰好いい人は遥かに恰好いい。もともと輝いている彼らは、何故自分が恰好いいのか、その理由を深く考えたこともなさそうだ。逆に云うと、だから、その種の本を書くことはできないだろう。
 高校生の私は、「恰好よくなるための本」を何冊も熟読した。でも、くすんだ存在感は変わらない。無駄無駄無駄。だって、主電源が落ちてるんだから。

そうそう!

これ、ずっと思ってた。
マナーにうるさい人ってなんか卑しいし、ファッションについてあれこれ語る人って微妙にかっこよくない(「すごく」じゃなくて「なんか」「微妙に」だめなんだよね)。

たぶん、王室に生まれ育った人ってマナーに無頓着だと思うんだよね。
その人にとってはそれが自然に身に付いているもので、意識するようなことではないから。

同じように、自然にかっこいい人(顔立ちがいいとかじゃなくて身のこなしが優雅だとか内面の魅力があふれているような人)は、お洒落についてあれこれ語らない。
うるさいのはむしろ、自分を実物以上に良く見せようと必死な″おしゃれ成金″の人たち。

ちょっと高級めのスーツ屋なんかに行くと、店員がみんな「なんか惜しい」。
いいスーツを着こなしているし髪型もキマっているのに、どうもかっこよくない。
素敵だな、と思えるような店員を見たことがない。
「ほら、ばっちりキマっているおれってかっこいいでしょ」ってな心持ちが透けて見えてしまう。

そうかあ、あの人たちはみんな″主電源″が落ちていたのかあ。

2016年7月21日木曜日

【エッセイ】レッサーパンダの悲哀


レッサーパンダは、かわいい。

これは異論の余地がない。

つぶらな瞳、平安貴族みたいなちょっと変な眉、寄り目なところ、ちょろりと出た舌、豊かな表情、ずんぐりむっくりした胴体、ぼてっとしたしっぽ、どこをとってもかわいい。

どんなへそまがりな人が見たって、かわいい。

しかも、体長は約50センチ、体重は3~4kg。
これはちょうど人間の赤ちゃんと同じくらいだ。
おまけによちよち歩きで歩く。

もう、人間にかわいがられるために神が創ったとしか思えない。



なのに。

なのに。


レッサーパンダは不遇の扱いを受けている。

かつて、日本では「パンダ」といえばレッサーパンダのことを指したらしい。
ところが、ジャイアントパンダがやってきて、そいつがすっかり人気者になったために、「パンダ=ジャイアントパンダ」になってしまった。
ぬいぐるみやキャラクターも、ジャイアントパンダのほうが圧倒的に多い。


それだけではない。

それまで「パンダ」だった動物は、大熊猫の登場により、「LESSER(小さいほう、劣ったほう)」という不名誉な冠称をつけられて呼ばれることになった。

彼の心中の悔しさたるやいかに。

せめて、「レッドパンダ」とかにしてやれよ……。



中学生のとき、同級生にスガくんがふたりいた。
一方のスガくんは体格が良くてけんかも強かった。
もうひとりのスガくんは、学年でいちばん背が低く、そのせいもあってみんなから低く見られていた。

みんな、背の低い大きいほうのスガくんのことを「小スガ」と呼んでいた。小さいほうのスガだからコスガなのだ。

じゃあ大きいほうは「大スガ」かというと、そんなことはない。
彼は単に「スガさん」と呼ばれていた。

今思うと、「小スガ」は残酷な呼び方だったと思う。
ごめんよ小スガ。



世界史で出てきた「小ピピン」。
新約聖書に出てくる「小ヤコブ」。

彼らも、かわいそうだ。
歴史に名を残すはたらきをしたのに、「小」がついているせいで、どうしても小物感が拭えない。

しかも彼らはべつに小さかったわけではないのだ。
近い時代に同名の人物が歴史に名を残していたため、区別するために後から生まれたほうが「小ピピン」「小ヤコブ」と呼ばれているのだ。

もっと他にあっただろう。
「新ピピン」とか「続ヤコブ」とかさあ。

彼らならきっと、レッサーパンダの悲哀を深く理解できるんだろうなあ。




2016年7月20日水曜日

【読書感想文】荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

内容(「BOOK」データベースより)
人口わずか三百人。主な産物はカンピョウ、ヘラチョンペ、オロロ豆。超過疎化にあえぐ日本の秘境・大牛郡牛穴村が、村の起死回生を賭けて立ち上がった!ところが手を組んだ相手は倒産寸前のプロダクション、ユニバーサル広告社。この最弱タッグによる、やぶれかぶれの村おこし大作戦『牛穴村 新発売キャンペーン』が、今始まる―。第十回小説すばる新人賞受賞、ユーモア小説の傑作。

ぼくは、創作物を見て笑うことはあまりありません。
テレビやマンガでも「ふふっ」ぐらいの笑いが出たらいいほう。
文章ではせいぜいにやにやするぐらい。

それも、今までに笑わされた文章といえば、東海林さだおのエッセイとか、原田宗典のエッセイとか、土屋賢二のエッセイとか、穂村弘のエッセイとか、岸本佐知子のエッセイとか、要するにエッセイでしか笑ったことがありません。
今まで、いろんな小説を読んできましたが、小説で笑ったことってほぼありません。
子どもの頃に読んだ、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』くらいでしょうか。
特に「爆笑必至」みたいな煽り文句の書かれた小説がおもしろかったためしがありません。

笑いってアドリブ性に大きく依存していると思うんですが、小説だとそれがまったく期待できないからでしょうかね。
ユーモア小説とか言われるほど、作者の狙いが透けて見える分、笑えなくなってしまうんんでしょうね。


なので、内容紹介に「ユーモア小説の傑作」と書かれている『オロロ畑でつかまえて』も、(笑いに関しては)まったく期待せずに読みました。

案の定、笑いませんでした。
特に前半の、ド田舎ぐあいを大げさに描いて笑いをとりにいくところは、40年前の笑いのとりかたじゃないかと思ってうすら寒くなりました。

でも中盤からは、笑いに関してはどうでもよくなりました。
ストーリーがおもしろかったからです。

伏線を丁寧に回収して、登場人物それぞれのエピソードをしかるべきところに着地させる手法は見事です。
これがデビュー作だということで、荒っぽさも目立ちましたが(青年団の人々は最後まで誰が誰だかわからなかったぜ)、荻原浩の、ストーリーテラーとしての才能は十分に感じることができました。


この人は脚本家としての才能のほうがあるんじゃないかとふと思いました。
『オロロ畑でつかまえて』も、 映像化したほうが映えるんじゃないかなあ。


2016年7月19日火曜日

【読書感想文】桐野夏生 『東京島』

桐野夏生 『東京島』

内容(「BOOK」データベースより)
清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。救出の見込みは依然なく、夫・隆も喪った。だが、たったひとりの女には違いない。求められ争われ、清子は女王の悦びに震える―。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世紀。谷崎潤一郎賞受賞作。

アナタハンの女王事件をモデルにした小説。
実際にあった事件を下地にしているとはいえかなりショッキングな設定。
とはいえ設定を存分に活かしたサバイバルゲーム的な物語ではない。
Amazonでも低評価のレビューが多かったんだけど、低評価をつけた人の多くはサバイバルストーリー(『インシテミル』『バトル・ロワイヤル』みたいなやつね)のつもりで読んだんじゃないかな。


桐野夏生の作品を読んだことのある人なら予想できるだろうけど、みんなが力を合わせて生還をめざす冒険小説でもなければ、知恵と勇気で悪を倒すバトルもない。
なんとか人を出しぬこう、自分だけが助かろうとする人たちしか出てこない小説だ。
シチュエーション的にも、展開的にも、ゴールディングの『蠅の王』を思い出させる内容だった。


『東京島』は、「この後どうなるんだろう。はたして助かるんだろうか?」とはらはらしながら読むものではない。
「こいつらほんとクズだな」と楽しみながら読む小説。そして、それを楽しんでいるクズ(=自分)と向き合いながら読む小説。
クズにおすすめしたい小説。もちろんぼくは楽しめました!

善人は桐野夏生を読んでないで『十五少年漂流記』でも読んでやがれ!


展開も一筋縄ではいかない。
アナタハンの女王事件を知っていたので、たった一人の女をめぐって男たちが争う話だと思っていたのですが、それは前半まで。
中盤から、主人公である清子は男たちから求められなくなるばかりか、疎まれ、憎まれ、無視されるようになる。

ああ、この感じ、わかるなあ。

ぼくが学生時代入っていたサークルもそんな感じだった。
男の比率が極端に高かったから、たまに新入生の女性がやってくると、一部のメンバーはあからさまに近寄っていき(そして水面下で激しい争いをくりひろげ)、かと思うと一部のメンバーはそんな状況に嫌気がさして、「もういっそ女がいないほうがいいのに」とぼやいたりしていた。

当時はまだ「サークルクラッシャー」という言葉はなかったけど、いつの時代も、そしてどんな環境でも、人間がやることって変わらないのかもしれないねえ。


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【読書感想文】 桐野 夏生 『グロテスク』



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2016年7月17日日曜日

【考察】寿司の大学デビュー

堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』  によれば、寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代のことで、それまでは「一個、二個」と数えていたらしい。

誰が「一貫」言い出したのかもしれないが、きっと寿司を格調高い食べ物として扱おうという魂胆があったのだろう。
おにぎりやサンドウィッチみたいな軽食と一緒にすんなよ、なんたってSushiはジャパニーズソウルフードなんだからな。という浅ましい優越感があったのかもしれない。
1990年代とはそういう時代だった(そのころぼくは小学生だったので適当に言ってます)。


しかしそのもくろみは成功し、今ではすっかり寿司は「一貫、二貫」の食べ物になってしまった。
「貫」は寿司だけに使われる特別な数えかただ。
いや、「百貫デブ」という言葉もあったな。
訂正。「貫」は寿司とデブだけに使われる特別な数えかただ。

寿司業界のほうでも恥じるわけでもなく、うちじゃあもう三百年前から「一貫、二貫」よ、べらぼうめいという顔をして寿司を握っている。


こういうやつ、いたなあ。
大学に入ったとたんに付け焼き刃のおしゃれをして、おれって昔から遊び人だったんだぜみたいな態度をとるやつ。

高校までは異性としゃべることすらほとんどなかったくせに、「いやあ地元に彼女を残してきたから寂しいぜ」みたいな嘘をついちゃうやつ。

そういうやつってすぐにボロが出るんだけどね。


だから寿司!
おまえももう背伸びをするのはやめて、「一個、二個」の頃のおまえに戻れって!
見ているこっちのほうがつらくなるから!

2016年7月15日金曜日

【エッセイ】さいごはグー!

古代オリンピックの五種競技。

競走をして、跳躍をして、円盤投げをして、やり投げをする。

で、最後に成績上位の2人で決着をつけるんだけど、それがレスリング+ボクシングみたいな格闘技で勝敗を決めたのだとか。


走ったり跳んだり投げたりやってきて、結局最後はなぐりあいかよ!


……まあわかりやすくていいですよね。
結局はけんかが強いやつが勝つっていうのは、自然の摂理にかなってるような気もする。



近代オリンピックでも取り入れてみたらどうでしょう。

42.195km走った後に、1位と2位がなぐりあいとか。

ショートとフリーのプログラムを滑り終えた後に、キム・ヨナと浅田真央がなぐりあいとか。

見てるほうからしたらすごく盛りあがる。


ただ、やるのは絶対にイヤだ。
入試が英語・数学・国語・日本史・物理・なぐりあいの6教科とかじゃなくて、ほんとに良かった。


2016年7月14日木曜日

【エッセイ】フードコートにまつわる怖い話

怖い話を一席。

ほんとに背筋が凍るぐらい怖い話なので、ホラーが苦手な人と、フードコートによく行く人は読まないほうがいいです。


先日、某大型ショッピングモールのフードコートを通りがかりました。
食事どきではなかったので客数はさほど多くなく、学生がぺちゃくちゃとおしゃべりをしているだけでした。

フードコートの端には手洗い場があり、布巾が置いてあります。
きれい好きな人はこの布巾を水でぬらし、テーブルを拭いてから食事をするのでしょう。


そこにひとりのおじさんが立っておりました。
頭はボサボサでしばらく洗った様子はなく、日焼けと垢でまっ黒な顔をした、まあ要するにおうちを持たないタイプのおじさんです。

私は、見るともなしにおじさんの様子を眺めておりました。

おじさんはフードコートの布巾を手に取ると、水で濡らし、よく絞りました。

そして、その布巾で、自分のお腹や腋をごしごしと洗いはじめましたのです


全身の血の気が引くとはこのことです。

すぐに周りを見渡しました。しかし他の客はおしゃべりに夢中で無住居型のおじさんには目もくれません。
おじさんの行為に気がついたのはぼくだけのようでした。

眼前で起こったことがいまだ現実のこととは思えません。
しかしぼくはたしかに見たのです。少なくとも1ヶ月は風呂に入っていないであろうおじさんが、共用の布巾を使って身を清めるところを。


ぼくはそのまま立ち去ったので、その後の顛末は知りません。

もし、おじさんが身体を拭いた布巾を持ち去ったのであれば、まあいいでしょう(それも良くないことではありますが)。


しかし、もし。

ぼくは想像してしまうのです。
おじさんが身体をていねいにこすった布巾を、元あったところに戻し、そうとは知らない誰かがその布巾でテーブルを……!

きゃー!!!




どうです、ほんとに背筋が凍りついたでしょう……?

だから読まないほうがいいといったのに!

ちなみにわたしは、あれ以来、そのフードコートを利用したことはありません。



2016年7月12日火曜日

【エッセイ】 リア銃。


電車の中で、大学生ぐらいの男女グループが

「ほんとあいつリア充だよなー」

「リア充爆発しろ!」

と、楽しそうにキャッキャッ言っていた。


「リア充」とか「リア充爆発しろ!」とかって、男女グループで楽しく談笑したりできない人たちが、自尊心を守るために生み出した武器のはず。

その武器を、どう見ても「リア充」側に属する人たちが使って、非「リア充」の人たちを傷つけている。


この感じ、何かに似ている。

……ああ、あれだ。

アメリカ人の銃に対する考え方だ。

銃規制反対派が「銃は善良な市民が身を守るために必要なものだ!」と主張して、その身を守るための銃によって多数の善良な市民が殺されているやつと一緒だ。

2016年7月11日月曜日

【読書感想文】施川ユウキ 『バーナード嬢曰く。』

施川ユウキ 『バーナード嬢曰く。1巻』

内容紹介 (Amazonより)
読むとなんだか読書欲が高まる“名著礼賛”ギャグ! 本を読まずに読んだコトにしたいグータラ読書家“バーナード嬢”と、読書好きな友人たちが図書室で過ごすブンガクな日々──。 『聖書』『平家物語』『銃・病原菌・鉄』『夏への扉』『舟を編む』『フェルマーの最終定理』……古今東西あらゆる本への愛と、「読書家あるある」に満ちた“名著礼賛”ギャグがここに誕生!!

ありとあらゆるものがマンガの題材になっている時代なのに、ありそうでなかった読書マンガ。

『名作小説をマンガにしてみました』とかはよくあるけど、「読書」について真っ正面から取り扱ったマンガは他に知らない。
読書もマンガも好きな人っていっぱいいると思うのにな。
ぼくもその一人だし。
読書ってのはものすごく内的な行為なのでマンガにしにくいのかもしれないね。動きもないし。


『バーナード嬢曰く。』は、内容紹介に「読むとなんだか読書欲が高まる」とあるとおり、本が読みたくなるマンガ。
熱を込めて「この本おもしろいよ!」って薦めているわけでもないのに。


本屋に行くと、「涙が止まらない感動巨編」って帯とか、「書店員が選んだ泣ける本No.1」みたいな安っぽいPOPが立ち並んでいるけど、ああいうのって本好きからするとへどが出るよね(書店でへどを出すと迷惑なんでこらえるけど)。

あれって本を読まない人、本の選び方を知らない人のためのものなんだよね。
本好きはあんなもので本を買わない。
ごく淡々としたあらすじだけで十分。何千冊も読んでいれば、自然と五十文字くらいのあらすじだけでおもしろい本を見抜けるようになる(はずれることも多々あるけど)。

たいていの文庫の巻末についている『他の文庫を紹介するコーナー』の魅力は、文庫好きなら誰もが知っているはず。



そんな『他の文庫を紹介するコーナー』みたいなおもしろさが詰まっているのが、『バーナード嬢曰く。』

あっさりした本の紹介と、軽めのギャグ。
まさに文庫目録のような軽妙さが心地いい。

このマンガで紹介されている本を読みたくなって、思わずマクニールの『世界史』とハインラインの『夏への扉』を購入してしまった(なにしろkindleで読んでいるので、あっという間に買えちゃうのだ。Amazonこわい)。


紹介されている本は、いわゆる『文学』だけかと思っていたら、ノンフィクション、ビジネス書、絵本、ケータイ小説など多岐にわたっている。
作者の好みが反映されているんだろう、SFにやけに比重が置かれているが。



このマンガのおもしろさのひとつは「読書家の本に対する姿勢」への言及。

読書家って、話題になっている本に対して素直な態度をとれないよね。
たとえば芥川賞をとった又吉直樹の『火花』。
本を好きな人ほど、あの本の扱いに困ってるんじゃない?

やっぱり「しょせんはタレント本でしょ」という気持ちもどっかにあるから、手放しでほめることはできない。
かといって全面的に否定するのも、芥川賞の歴史を軽んじてるようだし、そんじょそこらのにわか芥川賞ファンと一緒にされそうでイヤ。

結局、
「新人としてはスケールの大きい作品だが細かい点で粗も目立った。次回作に期待したい」
なんて、変に大上段にかまえた選考委員みたいなコメントをしてしまったりする。

あるいは、斜に構えて「おれは話題作とか読まないんだよね」みたいなスタンスをとってしまう(誰もおまえの読書傾向になんか興味ないっての)。
ぼくは完全に後者のタイプ。

そういう、本好きのひねくれたところをうまくギャグにしている。
特にSFファンからしたら「あるある!」なネタもたくさん。



ところで『読書好きがどういう評価をくだしていいか悩む作家 ダントツの第1位』である、村上春樹の名前がこの本には出てこない。

読書について語るなら村上春樹ははずせないだろう、あんなに評価の分かれる作家はいないんだから!


......と思っていたら、2巻では満を持して村上春樹に言及しているらしい。

いかん、2巻も買ってしまいそうだ。さすが「読むとなんだか本が買いたくなる」マンガ!


2016年7月10日日曜日

【思いつき】数字を使わずにね

「デジタルだと微妙な違いを表現できない」 みたいなことを云う人に訊きたいんだけど。 おまえは0.99と0.98の違いを、アナログ的に表現できるの?

2016年7月9日土曜日

【読書感想文】 エド・レジス 『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』

エド・レジス『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』

内容(「BOOK」データベースより) 人体冷凍保存、民間宇宙ロケット、スペース・コロニー、ナノテクノロジー、「心」の転送、人工生命、太陽の分解計画、星のリサイクル、反重力生成装置、タイム・マシンなどをめぐる、世紀末の「驚くべき物語アメージング・ストーリーズ」。

「最先端科学のさらに先をいく理論」の本。
「今の科学では実現不可能だけど、将来的にも不可能だとは立証されていないこと」に挑戦する科学者たちを紹介している。

サイエンス2割、伝記2割、SFが6割という感じ。
1993年に書かれた本だけど、内容はまったく古びていない。
なぜならこの本で予想されている未来は、まだぜんぜん実現していないから。

たとえば......。
 たとえばもしDNAサイズで、機械的驚異のミニロボットのような複雑な機械を作れたらどうだろう? そのミニロボット(ドレクスラー)は、物質の分子一個一個、あるいは原子一個一個をあつかえるほど小さいものにする。そしてこのアセンブラーを内蔵のプログラムで操れるとしたら、実にめざましいことがやってのけられるにちがいない。彼らは原子を並べて積み重ね、化学的に可能な限りの構造を作り、こっちの思いどおりの物質を合成してくれるだろう。また構造上安定した形なら、どんな形にでも物質の分子を置くことができるから、人間が築きたいと思っているものは何でも作れるはずだ。そもそも彼らにできないことなどあるだろうか?
作り方はこう。
小さなロボットを作る。
そのロボットには「自分と同じ動きをする、自分より小さなロボットを作る」というプログラムを組んでおく。
すると、ロボットがひとまわり小さなロボットを数体作り、そのロボットがもっと小さなロボットを数体作り……となって、ナノサイズの動きを制御できるロボットが大量にできあがる。

このロボットは分子単位の操作ができる。鉄を金にすることはできないが(原子が違うから)、炭素をダイヤモンドにすることは可能かもしれない(同じ炭素原子からできているから)。

分子を並び替えることによって、牛がいなくても牛肉がつくれる。
金属の分子を並び替えることによって車も宇宙船もつくれてしまう。
そうなると、生産のための労働は不要になる。

このナノロボットを使えば細胞レベルで治療ができるから、ガンもあっという間に治せる。
それどころではない。
人間を冷凍保存して、数万年後に解凍する。解凍時に破損した細胞はナノロボットで治せるから、未来旅行もできてしまうのだ。

おお。
バラ色の未来。
しかもこれってそう遠くない未来にできそうなことだよね。
ひょっとすると百年後には実用化してるんじゃないかっていう気もする(『不死テクノロジー』によると、もう未来での復活を信じて冷凍されている人はたくさんいるんだって。復活した人はまだいないみたいだけど)。

星新一ファンのぼくからすると「冷凍保存して未来の世界に生まれ変わったら、そこは現代よりもずっと退屈な世の中だった」というシナリオしかイメージできないけど……。



ただ、この本で描かれる未来の技術は、こんなもんじゃない。
SFだとしても「ありえない」ぐらいの未来を、本気で信じている人がいる。

「宇宙へ出ていって、コロニー(居住空間)をつくる」方法を模索している人たちの話。
 オニールの描く植民地は「宇宙基地(スペース・ステーション)」ではなく、どちらかといえば「小さな世界」なのだ。つまりミニ地球だと思えばよい。ただ違うところは、巨大な岩である地球の外側の地表に住む代わりに、人工居住地の内側に住むところだ。とはいってもこの人工地球は、現在の地球と同じぐらい安楽にできているのである。人工重力からはじめ、住宅地、学校、病院、公園、湖、小川、農場、高層建築、船、橋にいたるまで、人が要りそうなものは何でござれ、すべて備わっている。山脈だって全体がすっぽり入ることだって考えられる。あたかもマンハッタン島全部にアディロンダック山脈 [ニューヨーク州北東部にあり、アパラチア山脈の一部をなす] の一部を足してクルクル丸め、両端にふたをした円筒のようなものである。そしてその円筒は、月と地球とのあいだを、安定した軌道にのってフワフワと漂っているのだ。
なんて壮大なスケールの空想……。
「99.9999%失敗するだろ」としか思えない無謀な試み。
でも、その「0.0001%」に挑戦してきた人がいるからこそ、今、人類が宇宙に進出できてるわけだしね。
ライト兄弟が有人飛行に成功するまでは、「人間を乗せて空を飛ぶなんて理論上不可能だ」と科学者にすら思われていたそうだ。
そう考えると、宇宙コロニーもありえないことではないのかも。ひょっとするとあと百年くらいで形になっているのかもしれないね。



それにしても感心するのは、この本に出てくる科学者たちの、科学への全幅の信頼と、底抜けのポジティブさ。
 だが考えてみれば、これはひょんな意味合いで利にかなっているのである。なぜならこの地球自体に重大な欠点があることを疑う者があるだろうか? そもそも地球と言う天体は、定期的に火山の噴火、地震、津波、洪水、疫病、ペストなど、ありとあらゆる天災に悩まされているではないか。これにひきかえ人工居住地なら、そのようなやっかいな問題はいっさいない。そういうものはすべて設計上しめだしてしまうことができるからだ。もう母なる自然なんぞという気紛れなものに、翻弄される心配はない。スペース・コロニー(宇宙植民地)の環境自体が隅の隅まで念入りに計画され、コントロールされるからには、ある意味で自然というものはなくなってしまうわけだ。汚ない煙を吐く工場もなく、スモッグもなく排気ガスもなく、大気を汚すものは居住地域にはいっさい入れないのだから、産業汚染などは過去のものである。それは地上の天国、いやそれに近いものになるはずなのだ。
「地球環境を守って住みよい地球にしよう」と皆が話しているときに、
「じゃあ地球なんて捨てて別の居住地を作っちゃえばいいじゃん!」という発想。
発想の次元がちがいますよね。
もう楽観的というか、傲慢というか......。

彼らからすると、地球は「ただ偶然に固まっただけの欠陥品」で、「現在のバージョンの太陽系はエネルギー効率が悪い」。

ぼくみたいな常識にとらわれたつまんない考えしかできない人間からすると、ただもう呆然とするばかり。
太陽を分子加速器の巨大なリングのなかに入れて絞りあげ、太陽を分解して必要なエネルギーを取りだそう、なんてアイデアが出てくるに及んでは、もう完全についていけない……。

そんな中、ぼくが「これはもうすぐ実現するんじゃないかと思ったのは、「心の転送」というアイデア。

人間の情報、思想、記憶なんてものはすべて情報だから、これらすべて読み取り、情報記憶装置に移すというもの。
人間の脳内のデータをすべてコンピュータに移植するってことだね。
こうすれば移動(転送)も容易なので、宇宙旅行もかんたん。死ぬこともないし、万が一のデータが消失してしまうという事態に備えてバックアップをとっておくこともできる。
 理論的にはコンピュータの中にいたところで、今まで古い肉体の中でしたのとまったく同じ経験ができるはずなのである。ただ一つ違うのは、今や君は現実そのものの代わりに、現実のシミュレーションを経験しているところだ。もっと正確には、現実のシミュレーションではあるが、異なった種類のシミュレーションを経験しているのだというべきかもしれない。なぜならモラヴィックの考えでは、君の元の体が与えてくれたのもシミュレーションにすぎなかったからだ。脳が感覚器官から伝わってきたデータを統合して作った精神構成概念も、やっぱりシミュレーションなのである。
これができれば、もう宇宙コロニーも必要なくなるよね。
一ヶ所にいながらにして何でもできちゃうんだから。

これはひょっとするとあと十年くらいでできちゃうんじゃないかな。
脳内で起こっていることを解析する研究はどんどん進められていってるし、データを保存するサーバーは今でもあるし。

いや、ひょっとするともう実現してるかも。
たとえば火星や金星には(我々が思うところの)生命体は存在しないけれど、たとえばただの電気信号だけの存在となって思考したりコミュニケーションをとったりしているやつらがいるとか……。

2016年7月5日火曜日

【エッセイ】手のひらに ほくろができたら 病院へ(不健康川柳)

手のひらにほくろができた。

「足の裏にほくろができたら要注意」と聞いたことがある。
悪性のガンだった場合、歩くたびにそれが刺激され、どんどんガンが進行してしまうのだとか。


じゃあ手のひらはどうなんだろう。
足の裏ほどではないが、手のひらだって刺激の多い部位だ。
病院に行ったほうがいいのだろうか。
でも「たかがほくろで……w」と、医者に鼻で笑われそうな気がする。


こわくなってきたのでインターネットさんに訊いてみる。

「手のひら に ほくろ が できた が 大丈夫か いや 大丈夫でしょうか」
と入力して検索。


すると、占いのサイトばかりが出てきた。

求めていた情報とはちがう。
健康関連のサイトを見たかったのに。

が、ひとまず安心する。

占いをする余裕があるということは、健康でいられるということだもんな。
ガンで余命半年の人は、自分の将来を占ってもらったりしないもんな。たぶん。


せっかくなので占いのサイトを見てみる。
ほくろがひとつできただけでも、その位置によっていろいろ意味が変わるらしい。

たしかに、東シナ海に小島がひとつできただけでも、それが日本領海内にできたのか、中国領海内なのか、公海なのかで大きくアジア情勢が変わるもんな。
そういう話じゃないか。


ほくろができたのは手のひらのなかでも、手首に近い位置。
この位置のほくろは、「運動機能の低下」をあらわしていると書いてあった。

さらには「内臓の不調かも。病院に行ったほうがいい」とまで書いてあった。

なんだよー!

結局病院案件かよー!


2016年7月2日土曜日

【エッセイ】あたしが超能力者を嫌いな3つの理由


あたしは超能力者の連中が大嫌いだ。
心の底から毛嫌いしているといってもいい。


あたしが超能力者に対して嫌悪感を抱いているのには、3つの理由がある。
これを読めば、きっとあなたも、この怒りを理解してくれるだろうう。


1. すぐに心を読む


超能力者の連中ときたら、すぐにこちら脳内にアクセスしてきて、考えていることをのぞきみようとしてくる。

超能力者のやつらは、気づかれてないと思っているんでしょうね。
でもいっておきますよ。非超能力者からしたらバレバレですから!

すごくやらしい顔をして見てくるから、「あっ今こいつ心を読もうとしているな」ということがまるわかり。

こないだも電車のなかで、ちらちらこっちの心をうかがってるやつがいたの。
読まれないようにガードかけてやったら、あわてて「読んでませんよー」みたいな顔で目をそらしてやんの。
バカみたい。

好きでもない人に心をのぞかれるのはセクハラでしかない。
ほんと気持ちが悪い。
痴漢と、心を読んでくる超能力者は、社会の害悪でしかないですからっ!

ついでに言うと、直接心の中に話しかけてくるやつも、びっくりするからやめてっ!



2. マナーが悪い


超能力者のせいで何度危ない目にあったことか。

たとえば、念力っていうの? 離れてる場所にある物を動かすやつ。

地面に落ちていたタバコの吸い殻が急に浮き上がって、そのまますーっと灰皿まで飛んでいく。

あれ、超能力者からしたら善行のつもりなんでしょうね。
「ポイ捨てされた吸い殻拾ってる俺かっけー」ってな気分なんでしょう。

でも、周りからしたらびっくりするし、危ない。
火がついたままだったらどうすんのよって思う。
念力が狂って子どもに当たったらどうすんのよって思う。

ポイ捨てと念力、ほんと嫌い。

たまに、へたなくせに念力使うやついるでしょ。
そういうやつにかぎって、手で動かせばいいようなものを念力で動かしたりするのよね。

制御できてないのか知らないけど、オーラっていうの?あれがこっちまで飛んでくることがあって、あぶなっかしくてしょうがない。
飛び散ったオーラのせいで何度あたしのスプーンを曲げられたことか。




3. 己の超能力をやたらと自慢してくる



何度か超能力者と合コンしたことがあるんだけど、あいつらってほんと鼻持ちならないのよね。
なにかというと非超能力者を下に見てくる。

超能力者の何がイヤって、素直じゃないとこ。

「まあ一応サイコキネシスとテレポートぐらいならできますけど......」
とかいうでしょ。

なにが「まあ一応」よ。
自慢に思ってることがミエミエですから!

まだ素直に自慢してくるほうがマシ。

なんでか知らないけど、超能力者って絶対に「おれ苦労してるんだぜ」ってのをアピってくるでしょ。

ここで、あたし的『超能力者がよく言うセリフ ベスト3』を発表します!


第3位
「空なんか飛んだって疲れるだけでいいことなんかひとつもないよー」


第2位
「未来なんかお予知できないほうが幸せだったなって思うんだよなー。
 非超能力者は未来に対してわくわくできてうらやましいわ」


第1位
「非超能力者のほうが何倍も努力してるからね。尊敬するわー」


「あー、あるある」って思ったでしょ。
超能力者ってすぐこういうこと言うでしょ。

自虐のつもりかもしれないですけど、非超能力者からしたら自慢でしかないですよー!
せっかく心が読めるんだから、その発言がうざがられてることに気づいてくださーい!



2016年6月29日水曜日

【エッセイ】へばぶー

へばぶー。

うちの娘が生後9ヶ月で、まだ人間の言葉をしゃべれなかったときのこと。

「だー」とか「ばー」とかの音を発するだけで、電子レンジとかの音の鳴る機械とあまり変わりませんでした(いや電子レンジの音には「あたため完了」という意味があるのでレンジのほうが高性能ですね)。


あるとき、娘がお母さんのほうを向いて、「まーまー」と言いました。

これはオール子育て世代が必ず一度は経験するあるあるネタだと思いますが、当然ながらうちでも
「まあこの子はもう『ママ』といったわ!天才ね!」
とゲロが出るぐらい陳腐なリアクションをしました。


すると、娘はくるりと振りかえってぼくの顔をまじまじと見つめ
「へばぶー。」
と言ったのです。



その日からです。

妻がぼくのことを「へばぶー」と呼ぶようになったのは。
  
  
「へばぶー、洗濯物ほしといてー!」

自宅で言われるならまだしも、

「へばぶー、お金払っといて!」

外出先で云われることもあります。
もともと二銭五厘くらいしかなかった夫の威厳が、さらに値下がりしております。


まるで、うちの家にいそうろうさせてもらっている「へばぶー」という名の変な怪獣みたいな扱いです。
珍獣へばぶーと子どものふれあいを題材にえほんが1冊書けそうです。


あれから2年ほどたちましたが、いまだに我が家でのぼくの扱いは「へばぶー」です。
もう娘ははっきりと「おとうさん」としゃべれるのですが、ときどきお母さんの真似をして「へばぶー」と言います。


このままだと娘がいずれ結婚するときに、
「おかあさん、へばぶー、今までほんとうに……」
みたいな手紙を読んで、いちばん泣けるくだりが台無しになりそうです。


どうすればよいのでしょうか。
へばぶー、困ってます。



2016年6月28日火曜日

【エッセイ】悲惨な歴史を語り継ぐ

ぼくが中学生のころは、携帯電話なんて誰も持っていなかった。
中学生はもちろん、大人でもほとんど持っていない時代だった。

だから同級生の女の子の家に電話をかけるのはほんとに緊張した。

電話をかけると、たいていはその子のお母さんが出る。
「○○子さんいますか」
というのがまず恥ずかしかった。

ふだんは苗字で呼んでいるものだから、『女子を下の名前で呼ぶ』ということだけで恥ずかしくてたまらなかった。

「ごめんね、○○子は今お風呂に入ってて......」
と言われたりすると、さらに恥ずかしくなった。
 同級生のあの子が今お風呂に......と思うと、あらぬ想像をして顔が真っ赤になった。

たまに、お父さんが電話に出ることもあった。
さすがに「うちの娘にどのような用かね」と詰問されるようなことはなかったが、それでもびくびくした。

思わず何も言わずに受話器を置いてしまったこともあった(発信者の番号が相手に表示されない時代だったからこそできたことだ)。


たった一本の電話をするだけですごく緊張した。
携帯電話のように「今何してるー?」ぐらいの軽いノリで電話をかけられるような時代じゃなかった。
無理矢理にでも用事を作って、電話をしていた。

もしあのとき携帯電話があれば、ぼくでも女の子と気軽に電話やLINEのやりとりができただろう。
そうすれば、ひょっとすると彼女ができて、それはそれは楽しい学生生活を送ることができたんじゃないだろうか。

あれは携帯電話がないゆえの悲劇だった。
そして、今の若い人たちは、あたりまえのように携帯電話とともに学生生活を送っている。
携帯電話のない学生生活を送った世代は、三十代中盤のぼくの世代が最後だろう。



ぼくが九十歳くらいまで長生きしたら。
語り部として、携帯電話がなかったことの悲惨さを若い人たちに伝えていかなければならない。
各地の中学校をまわって、講演をしなければならない。
それが、学生時代に彼女のいなかったぼくに課せられた使命なのだと思う。



2016年6月27日月曜日

【読書感想文】テランス・ディックス 『とびきり陽気なヨーロッパ史』

テランス・ディックス『とびきり陽気なヨーロッパ史』

内容紹介(裏表紙より)
この1冊でヨーロッパがわかる!......かな?
EUも結成されたことだし、ここらでお隣の国々のことを知っておこう、と各々にヘンで面白い歴史をわかりやすくまとめたわけだけど、そこは皮肉なイギリス人のこと、一筋縄じゃいきません。ユーモアたっぷりにコキおろしながら、思いやりもほの見えたり。過激なイラストがこれまた、笑えます。

イギリス人ノンフィクションライターが書いたヨーロッパ史。
原著が出版されたのが1991年。
ベルリンの壁崩壊が1989年、欧州連合条約(EUの成立を定めた条約)が調印されたのが1992年なので、まさに「今からEUをつくってヨーロッパがひとつになるんだ!」という時期に書かれた本です。

なので全体的に「ヨーロッパもいろいろあったけど、これからはひとつになって仲良くなっていこうね!」というテイストで書かれています。

25年後たって、EUがバラバラになろうとしている(しかも当のイギリスがまっさきに離脱することになった)この時期に読むと、もの悲しくなってしまいます。
「この頃は希望に満ちあふれていたのにどこでどうまちがってしまったんだろう......」と、離婚前夜に結婚式の写真を見ているような気分になります。まだ離婚したことないけど。


中立公平な立場から書いているわけではなく、「イギリス人から見たヨーロッパ史」なので、かえって新鮮でおもしろいです。
(紹介されているのはEU発足時加盟国のうち、自国イギリスを除いた12国です)
イギリス人からはヨーロッパってこう見えるんだ、と(あくまで、いちイギリス人の意見んですけど)。
イギリスとの長い確執を持つアイルランドにたっぷりページを割いている一方で、ドイツはここ3世紀くらいの歴史しか語られていなかったり(それまでドイツという国がなかったのでしかたないところもありますが)。


日本人がヨーロッパを語るとしたら、長い歴史を持つギリシャやイタリア(ローマ帝国)か、大国であるイギリスやフランスからはじめると思うのですが、第1章がベルギー、第2章がデンマークというのもおもしろい。
でもよく読むと、ベルギーやデンマークというのは実にヨーロッパらしい歴史を持っている国なのです。
ずっと周囲の国との争いに翻弄され、第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領され、冷戦時は米ソ対立に巻き込まれるという、気の毒な歴史。

ヨーロッパの中央にあるがゆえにこんな運命をたどってしまうのですね。
ヨーロッパの国々は地続きでいろんな外国に旅行できていいなあ、とのんきなことを考えていたのですが、とんでもない。
かんたんに攻めこまれるということですからね。
島国である日本の何倍も、防衛戦略も外交も難しいんでしょう。


逆にいうと、こうしたベルギーやデンマーク、それからオランダやルクセンブルクのような小国がしょっちゅう攻めこまれたという歴史があったからこそ、数多の苦難を乗り越えてヨーロッパ連合が誕生したんでしょうね。
連合を組まないと大国には太刀打ちできないですもんね(その中にあってEUに加盟せずに孤高を貫くスイスも、それはそれですごいですけど)。


ぼくは学生時代に世界史をちゃんと勉強していなかったのですが、今ちゃんと歴史をひもといてみると、ヨーロッパ史ってほんと血みどろの歴史ですよね。
常にどこかで血が流れてるんじゃないかって思うぐらい。
冷戦後やっと「さほど緊張が走っていない平和なヨーロッパ」が訪れましたが、それ以前は千数百年前のローマ帝国時代にまでさかのぼらないと、平和な時代ってないですもんね。

最後に、この本に出てくる、役に立つ法則を紹介します。

 ここで独裁者と世界征服を企てる人のために二つの重要な法則をご紹介しよう。

  一、イギリスをただちに侵略せよ。決してあと回しにするな。
  二、どんなことがあろうとも、決してロシアを侵略するな。


ナポレオンとヒトラーはこの法則を破って身の破滅を招いています。
どうかみなさんもご参考にしてください。


2016年6月24日金曜日

【読書感想文】 ジョージ・フリードマン『続・100年予測』

『続・100年予測』

ジョージ・フリードマン

内容(「BOOK」データベースより)
金融危機以降、国家間のパワーバランスは劇的に変化したか?アメリカとイランがついに和解?日本は軍事力を強化するか?地政 学が導く世界の行く末とは…。「影のCIA」の異名をもつ情報機関ストラトフォーを率いる著者の『100年予測』は、クリミア危機を的中させ話題沸騰!続 篇の本書では2010年代を軸に、より具体的な未来を描く。3・11後の日本に寄せた特別エッセイ収録。

はじめにことわっておかないといけないのが、タイトルが大嘘だということ。

よく売れた『100年予測』の次に書かれた本なので『続』というタイトルにしたんだろうけど、ぜんぜん続編じゃない。
『100年予測』とはほとんど関係がないし、この本では今後10年間のことしかふれられていない。
ちなみに原題は『THE NEXT DECADE(次の10年)』。
また単行本では『激動予測:「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』という内容を正確に言い表すタイトルだったので、文庫化するときにわざわざひどい題をつけたようだ。

これはハヤカワ書店が金儲けのことしか考えなかったせいだろう。

さらにハヤカワ書店はこりずに、この次に書かれた本を『新・100年予測』として出版したそうだ。
その本は未読だけが(もう買う気もない)、聞いたところでは予測ですらなく、過去の話がほとんどだとか。
ちょっとひどすぎるね。
タイトルも作品の一部だから、あまりにでたらめな邦題はつけないでいただきたい。こういうことやってると読者を失うよ。


とまあ、タイトルは最低ですが、本の内容はいいものでした。
ただ『100年予測』があまりにおもしろかったので、それと比べるとちょっと期待はずれかな。

ジョージ・フリードマンはアメリカの地政学者。
地政学とは聞き慣れない学問かもしれないが、地形から政治や軍事をとらえる学問。

『100年予測』にはこんな言葉が出てきた。

われわれはいつの時代にどの場所に暮らすかによって、行動を厳しく制約される。そしてわれわれが実際に取る行動は、思いがけない結果を招くのである。

歴史を動かすのは、個人の仕事ではなく地理だという考え方だね。
ジョージ・フリードマンによれば、アメリカが世界の覇権を握ったのも、ソ連が崩壊したのも、地形が決めたこと。

歴史ドラマが好きな人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。
坂本龍馬やナポレオンがいてもいなくても(長期的視野で見ると)大差なかった、ということになるとドラマ性がなくなっちゃうもんね。
地政学の考え方を認めたがらない人が少なくないことも、理解はできる。


でも、たとえば1962年に起こった「キューバ危機」。
キューバへの核弾頭配置をめぐってあわや第三次世界大戦が起こるのではないかという一触即発の事態になった事件。
これはまちがいなく、キューバの位置がアメリカの大西洋進出を妨げる絶妙な位置に存在しているからこそ起こった事件だった。
ぜんぜん違う場所にあったら、キューバのような小国が原因で世界大戦が起こりかけることはありえない。

そういえば第一次世界大戦勃発のきっかけも、オーストリアの皇太子が暗殺されたことだった。
オーストリアも大国ではないが、地理的に重要なポジションを占めていたがゆえに世界大戦につながったんだろうね。


2009年に日本語訳が出版された『100年予測』によれば、今後100年で日本はトルコと組んでアメリカと敵対し、21世紀後半にはメキシコが台頭してアメリカと衝突するという予測が書かれていた。
にわかには信じられないことだけど、根拠を読めば「なるほど、ありえなくもないな」と思わされる(根拠が気になる方はぜひ読んで)。

一方、『THE NEXT DECADE』(邦題がひどいので原題で書く)には奇抜な予想は書かれていない。
どうすればアメリカの国益を最大化できるかという視点に基づいて、世界各地でのアメリカの振る舞い方が示されている。

フリードマンによれば、アメリカがとるべき戦略はシンプル。

一.世界や諸地域で可能なかぎり勢力均衡を図ることで、それぞれの勢力を疲弊させ、アメリカから脅威をそらす

二.新たな同盟関係を利用して、対決や紛争の負担を主に他国に担わせ、その見返りに経済的利益や軍事技術をとおして、また必要とあれば軍事介入を約束して、他国を支援する

三.軍事介入は、勢力均衡が崩れ、同盟国が問題に対処できなくなったときにのみ、最後の手段として用いる

要するに、各地域で巨大勢力が生まれないように互いに争わせ、アメリカ自身は手を汚さないようにしましょう、というスタイルだね。言い方は悪いけど。

でも実際このとおりだとおもう。
この考え方を知っていれば、東アジアに対するアメリカのスタンスがよく理解できる。

アメリカにすれば、日本と中国と韓国は互いに憎みあっているぐらいの状態が望ましい。
中国と敵対しているかぎり、日本がアメリカにたてつくようなことはまちがってもないだろうからね。逆に、日中が仲良くなればアメリカにとって経済的にも軍事的にもたいへんな脅威になる。
だからドンパチやらない程度に仲が悪くなっていてほしい。

アメリカは日本の味方もしないし韓国の肩も持たない。
北朝鮮がアメリカに攻撃をしかけてくるのは困るけど、北朝鮮が日本や韓国と険悪な状況にあるのは好ましい。
アメリカにとっていちばん困るのは、日本と中国と韓国(と北朝鮮)が結託して、東アジア連合を作られること。

……ってな具合に、地政学がわかると世界情勢がよくわかるし、将来の予想も立てやすくなる。

「物理的な位置が国家間の関わり方を決める」というのが地政学の考え方だけど、これって国家の話だけじゃないよね。

個人の行動や人間関係も、地理によって大きく影響を受ける。

学生時代、ぜんぜん意識していなかった異性なのに、席替えで隣の席になったとたんに急に気になって……なんて経験、ない?
小学生のときによく遊んだのは家が近い子だったんじゃない?
これは大人になってもそんなに変わらない。
職場の席が近いとか、帰る方向が一緒とか、案外そういうことで交友関係って決まってくる。

ぼくらは地理の影響を受けずには生きられない。

また、この本は組織について学ぶための教科書にもなる。
組織を効率よくコントロールしようと思ったらアメリカがとっている戦略(できるかぎり自らは介入せずにキーパーソン同士をほどよく敵対させてパワーバランスを保つ)が有効かもしれない……。

国際情勢だけでなく、いろんなことがらが読みとけるようになれる(かもしれない)本だね。


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2016年6月22日水曜日

【エッセイ】あまちゃん帝王学

知人の六十代男性から聞いた話。

彼が高校生のとき、修学旅行で東北に行った。
そこに海女さんがいた。『あまちゃん』の舞台の地である。

そこでは、修学旅行生たちが海に向けて野球ボールを投げ、海女さんが泳いでとってくるというショー(?)がおこなわれていたのだそうだ。


えええっ。

なんというサービスだ。じぇじぇじぇ。

要は、犬の訓練でやる「とってこい」である。

「あれが修学旅行でいちばん印象に残っている思い出だなあ」と六十代男性は平然と語っていたが、そりゃ印象に残るだろう。

学生がおもしろ半分に投げたボールを追いかけて、中年の海女さんが冷たい海に飛び込む。
じつにものがなしく、そして奇妙に官能的な光景だ。

そうゆうのはオットセイとか長良川の鵜とかにやらせることだろう。



今だったら絶対に許されない。
いや、四十数年前でも道徳的にどうなんだ。
そういうショーがあることもさることながら、それを修学旅行でやらせる学校もすごい。
ときに他人に厳しく接することも大切だという教育なのか。


団塊の世代はお店の従業員に対して横柄な態度をとる人が多いが、それはこうした帝王学(?)の成果なのかもしれない。



2016年6月21日火曜日

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

清水潔 『殺人犯はそこにいる』


内容(「BOOK」データベースより)5人の少女が姿を消した。群馬と栃木の県境、半径10キロという狭いエリアで。同一犯による連続事件ではないのか?なぜ「足利事件」だけが“解決済み”なのか? 執念の取材は前代未聞の「冤罪事件」と野放しの「真犯人」、そして司法の闇を炙り出す―。新潮ドキュメント賞、日本推理作家協会賞受賞。日本中に衝撃を与え、「調査報道のバイブル」と絶賛された事件ノンフィクション。


横山秀夫氏や(かつての)宮部みゆき氏のような社会派ミステリが好きなのだが、この本のような優れたノンフィクションを読むと、「事実は小説よりも……」という月並みな感想しか出てこない。
どんなすごい小説も、やはり事実には適わない。

なにしろ、一介の記者が、連続誘拐殺人事件の犯人として服役していた人物の無実を証明し、裁判をひっくり返し、警察と検察の嘘を暴き、さらには真犯人まで見つけてしまうのだから。
それも大手新聞の記者などではなく、週刊誌の記者が。

こんな筋のミステリ小説を書いたら「警察よりも新聞記者よりも先に、週刊記者が真実にたどりつくなんてありえない」と言われてしまいそうだ。それぐらいすごいことをしてるし、それぐらい警察や新聞記者がダメだったということでもある。


エンタテイメントよりもおもしろく、ホラーよりも恐ろしい。
なにしろ真犯人はほぼわかっているのにまだ捕まっていないのだから。

ひさびさに「読みながら全身の血が震える」という感覚を味わった。
全ジャーナリスト、全捜査関係者に読んでほしい。
というか財布に1,744円以上入っている人は全員買って読んでほしい。


読んでいると、警察はもちろん、警察の発表をそのまま垂れ流していた報道機関に対してもむかむかとしてくる。
無実の人間を糾弾しておいて、冤罪だったことが明らかになるとたちまち手のひらを返して自分は何も悪くないとばかりに警察叩きに終始するマスコミ。

「足利事件」の冤罪報道はぼくもよく覚えているが、「無実の人を犯人扱いしたことをお詫びします」と伝えていたテレビ局はぼくの知っているかぎり1社もなかった(さすがに新聞は申し訳程度の反省記事を書いていましたが)。

ただその一件をもって「マスゴミ」などと断罪する資格は、ぼくのような傍観者にはない。無罪報道がなければぼくもまた「あいつが犯人か」と思いこんでいたのだから。


こうした冤罪事件は今後も起こる。百パーセント正しい制度というものはない以上、必ず過ちは起こる。
そうなったら警察は身内を守るために嘘をつくだろうし、マスコミは警察の発表をそのまま報道してしまうだろう。

それを防ぐことはできない。
組織が自らの不利益になる行動することなんてありえない。
ある程度の分別のある大人なら、自浄作用なんて期待するだけ無駄だということをわかっている。
だったら、どういうシステムを構築すれば被害を最小限にできるかに知恵を絞ったほうがいい。

ぼくは、事件の大小に関わらず、刑事事件の容疑者の氏名を公開することをやめればいいいと思う。
実名報道にどういう意味があるんだろう。
「先日起こった殺人事件の容疑者が身柄を拘束されました」だけでいいのでは。
顔写真とか氏名とか年齢とか職業とか中学校の文集とかを日本中に公開する必要ってどこにあるんだろう。
「公権力の暴走するときのチェックになる」という考えもあるが、実名報道したって公権力は暴走するし。

「おれは犯人のツラをおがんで溜飲をさげたいぜ」という人だっているだろう。
「犯罪者は、悪いことをしたという過去を一生引きずっていけばいいんだ。社会更正なんてしなくていいんだよ」という人だっているだろう。
でもそれは今の日本の法律に則した考え方ではない。刑法では罰金刑や懲役刑、あるいは死刑が定められているけど、それ以上の社会的制裁を課すことは定めていない。

インターネット出現以前であればよほどの大事件をのぞけば犯人の名前なんてすぐに人々の記憶からは消えていたけど、名前を検索すればすぐに何年も前の事件が明らかになる現代においてはより社会的制裁の影響は大きくなっている。
「1年間刑務所に入るより犯罪者として自分の名前がインターネットに残りつづけるほううがキツい」と思う人のほうが多いだろう。ぼくもそう思う。
刑法で定められているよりも大きな罰を与える(私刑をする)権利が報道機関にあるのだろうか。

「そうはいってもわたしは犯人の卒業文集が読みたいわ。ざまあみろと思って胸がすっとするから」という人は、それを人前でも言えるだろうか。
たいていの人は言えない。それは「心の醜さをうつしだした願望」だから。
そういう気持ちはぼくにもある(人一倍強いぐらいだ)が、そういうどす黒い欲望と刑罰は切り離して考えなければいけない
刑法は、復讐心や野次馬根性を満たすためにあるわけではないのだから。

まして [容疑者] の段階で大きく氏名を報じるなんて言語道断だ。
容疑者が犯人でなかった場合の補償なんか誰にもできないのに。

それに氏名が公開されないほうが再犯率が下がるんじゃないかな。社会復帰してまともな職につきやすくなるんだから。


というわけでぼくが「こうだったらいいのに」と思う、犯人の実名報道に関するルールは以下の通り。

・未成年にかぎらず、すべての事件の容疑者の実名は捜査関係者、司法関係者、保護観察官、保護司以外には公表しない。

・裁判で死刑または無期懲役が確定した場合にのみ、氏名を一般にも公表する(事件が重大であるためと、加害者が社会復帰する可能性がほぼないため)。

・政治家の収賄など、市民の代表として選ばれたものがその立場を利用して犯した罪に関しては、以降の選挙に反省を活かすために例外的に公開する(ただしこれも刑が確定してから)。

・上記の規則を破ったものに対しては、刑事罰は課さないが、「醜い野次馬根性を満たすために規定を守らなかったもの」として氏名を公開する!

いかがでしょう?


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2016年6月20日月曜日

【思いつき】ひび割れた未来

こうして誰もが携帯電話を持ち歩く世の中を、昔の人は想像しただろうか。 

  .....想像しただろうな。


 手にした携帯電話で調べればたいていのことはすぐにわかる世の中を、昔の人は想像しただろううか。

   ......想像した人もいただろうな。


その携帯電話の液晶画面が割れてるのにそのまま使いつづける世の中を、昔の人は、

   想像しなかったにちがいない!


2016年6月19日日曜日

【エッセイ】かっこいい消費期限切れ

職場にあった、ちょっと古くなったお茶を捨てようかと女性社員が話していたので、

「こんぐらい大丈夫でしょ!」

とかっこつけて自信満々に飲み干して、そしたら帰宅してから嘔吐して、でも翌日休んだら
「やっぱりあのお茶が……」
ってことになってものすごく恥ずかしいので、無理して出勤するわたくし。


てゆうか古いお茶を飲むことのどこが「かっこつける」ことになるのか、教えてくれ昨日の自分よ。

2016年6月17日金曜日

【エッセイ】この餃子のタレ、届け!

どうして歌詞は己を実物よりよく見せようとするんだろ、ってあたしは思う。

「一生君を愛しつづけるよ」
「つらいことがあってもがんばればいつか報われるさ」
みたいなのが完全に嘘ではないんだろと思う。
たしかに本気でそう思っている部分もあるんだろね。

だけどそれだけではないよね。
あたしたちはもっとくだらないことを考えてる。
餃子を買ったときについてくるタレがかなりの確率で手につくんだけど、タレ袋の形状はもっと改良の余地があるんじゃないかとか。

作詞をする人はそういうことを伝えたいと思わないんだろうか。己の内面に対して誠実であろうと思わないんだろうか。梶井基次郎のように内に秘めたる感情を有り体に吐露しようと思わないんだろうか。

あたしは「この思い、餃子のタレメーカーに届け!」といつも思ってるんだけど。
そういう真実の歌詞をみんなつくってほしい。



でも。
いくら歌詞に真実味があってほしいとはいえ、「いい女とやりてえぜ」みたいなのはつまらない。
文学性がないんだもの。

「言われてみたらたしかにそんな思いが自分の中にもあるー!」
と言いたくなるような、心のせまい隙間に指をつっこんで溜まったほこりを掻きだすような歌詞が聴きたい。



あたしがこれまでに「これこそ真実の歌詞だ!」と思ったのは、二度だけだ。


一度は斉藤和義『君の顔が好きだ』を聴いたとき。

「君の顔が好きだ 君の髪が好きだ 朝も昼も夜も切なさに酔って胸痛めてる自分もいい」

なんて素直な歌詞なんだろうと思った。
ちょうどあたしも切なさに酔って胸痛めてたから。そんな自分に恋していたから。


もう一曲はユニコーンの『大迷惑』。

「お金なんかはちょっとでいいのだー!」

それまでのストーリー性のある歌詞が、ラストのこの咆哮に見事に結集される様は、ドラマチックですらあった。
オーケストラの演奏とあわさって、壮大な物語に感じられた。

なんという真実味。
お金なんていらないよといえば嘘になるし、金が欲しいというのは本当だけどそれがすべてではない。
そう、お金なんかはちょっとでいいのだ。

ぜひ、声に出したい日本語として国語の教科書に載せてもらいたい。

(この曲が発表されたのがバブルまっただなかの1989年だというのがまたすごい)



2016年6月16日木曜日

【エッセイ】梅干しをスパイクで

おにぎりは楽しい。

こないだおにぎりを作って公園にもっていった。
食べるときわくわくした。

あれ。
おにぎりってこんなに楽しかったっけ。
ときどきコンビニでおにぎりを買うけど、そのときはなんとも思わないのに。

ちょっと考えて、その理由がわかった。
ぼくが作ったおにぎりの具材は、鮭フレークと昆布と食べるラー油。
無造作にバッグに入れたので、食べるときにはどれがどれだかわからなくなった。
それが楽しかった。

中身がわからないからわくわくしたのだ。



ぼくは小学生のときサッカーチームに入っていた。
週末には練習や試合があって、そのたびに母がおにぎりをにぎってくれた。

毎週のことだから、食べるほうも飽きるし、にぎるほうも飽きる。
母はさまざまな具材をおにぎりに入れてくれた。

もちろんあたりはずれがあって、タラコははずれ、鮭はあたり、牛肉を炒めたものが大当たりだった。
ぼくは梅干しに対して嫌いを通りこして憎悪の感情を抱いているのだが、母はぼくの梅干し嫌いを克服させようとして、一年に一度くらいこっそり梅干しをしのばせていた。
もちろんこれは大はずれ。
ぼくは梅干しを吐き出して、「もぉー、梅干し入れるなって言ってるじゃんかよぉ......」泣きながら文句を言って、吐き出した梅干しの上から砂をかけてスパイクで踏んづけたものだ(今思うと因果関係が逆で、ぼくが梅干しを憎むようになったのはこのときの体験が原因だったかもしれない)。



とにかく、たまに泣きべそをかくことがあったとはいえ、何が入っているかわからないおにぎりを食べるのは楽しかった。
自分がつくったものでもどきどきするのだから、誰かに作ってもらったおにぎりを食べるときの緊張感はなおさらだ。

コンビニでもお総菜屋さんでもおにぎりは売っているが、残念ながら具材は一目瞭然だ。
食べるときには「ああこれはシーチキンマヨネーズだな」と認識してから食べることになる。
これではおにぎりの楽しさは半減だ。

そこで提案なのだが、コンビニで、中身がわからないおにぎりを売るというのはどうだろうか。
これだけでだいぶおにぎりが楽しくなる。

鮭だろうか。
梅干しかもしれない。
ひょっとするとふつうなら240円くらいするもある和牛ステーキおにぎりかもしれない。
廃棄する予定だったからあげくんんかもしれない。ただの塩むすびかもしれない。

おにぎりという華やかさのない食材に一気に緊張感が生まれると思う。

2016年6月14日火曜日

【エッセイ】おにぎりの誤用


独壇場とか的を得るとか、本来の意味で用いられない言葉は多い。
日本語の誤用。
でも誤用されているのは日本語だけじゃない。

おにぎりも誤用されている。

正確にいうと、おにぎりの海苔。


コンビニでおにぎりを買うと、ごはんと海苔の間にビニールがはさまれていて、それを抜き取ってから食べることになっている。
海苔はぱりぱり。

あれはあるべき海苔の状態ではない。
海苔を誤用している。

本来、おにぎりの海苔というのはしっけているものです。


思いかえしてください。
幼いころ、遠足のお弁当に入っていたおにぎりを。

海苔がぱりぱりでしたか?

冬場の唇みたいに乾燥していましたか?

ちがいますよね。
そんなことないですよね。

ごはんの水分をたっぷりと吸って、じっとりと湿っていましたよね。

そうです。
あれが正しいおにぎりの姿です。

そもそも二、三十年前は冷蔵庫も小さかったから、ほとんどの家庭で海苔は冷蔵庫に入れていなかった。
小さい缶に入って冷暗所で保管されていた。
だからおにぎりに巻きつける前からじゃっかんしっけていた。

それにおにぎりを作る機会なんて、お弁当を持っていくときに作るか、余ってしまったごはんを置いておくためにおにぎりにしておくか、それぐらいでした。
いずれにせよ「今すぐは食べない」という状況でにぎるものでした。

だからしっけていてあたりまえ。
乾燥していたら逆に不自然。

もし殺人現場のマンションにおにぎりが置いてあって、そのおにぎりの海苔が乾燥していたら、「犯人はまだ遠くに行ってないはずだ!」ってなりますよ。
ひょっとしたら、まだバスルームあたりに殺人犯がひそんでる可能性もありますからね。怖いですね。海苔の乾燥したおにぎりは。


海苔の乾燥したおにぎりなんて、コンビニのおにぎりだけなんです。

じゃあなぜコンビニのおにぎりは、わざわざあんなビニールをはさんでまで、海苔をしっけないようにしているのか。

ここからはぼくの推測なんですが、あのコンビニおにぎりを開発した人間は、おにぎりと寿司をごっちゃにしていたんじゃないでしょうか。

寿司の海苔は乾燥しています。

あたりまえです。
寿司は鮮度が命です。
おにぎりみたいに長時間置いてから食べたりしない。
たった今にぎりましたよ、という鮮度の証明のために寿司の海苔は乾燥している必要があります。
ウニやイクラの軍艦巻の海苔が、水分をたっぷりと吸ってべちゃべちゃになっていたら食べる気がしませんからね。

これがおにぎりの海苔の誤用です。
擅と壇の字をごっちゃにして独擅場を独壇場と書いてしまうように、
的を射ると当を得るをごっちゃにして的を得ると言ってしまうように、
おにぎりと寿司の用途をごっちゃにして、おにぎりの海苔を乾燥させてしまったのです。

これは断じて許されるべきことではありません。

なぜなら、不器用なぼくがコンビニのおにぎりを食べると、海苔が乾燥しているせいで、破れた海苔がばらばらに飛び散って、周囲から「だらしないやつ」と思われてしまうという個人的な理由があるからです!