2023年2月7日火曜日

【読書感想文】広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険 子どもに学ぶことばの秘密』 / エベレータ

ちいさい言語学者の冒険

子どもに学ぶことばの秘密

広瀬 友紀

内容(e-honより)
「これ食べたら死む?」どうして多くの子どもが同じような、大人だったらしない「間違い」をするのだろう?ことばを身につける最中の子どもが見せる数々の珍プレーは、私たちのアタマの中にあることばの秘密を知る絶好の手がかり。言語獲得の冒険に立ち向かう子どもは、ちいさい言語学者なのだ。かつてのあなたや私もそうだったように。


 子育て中の言語学者が、子どもの言語の発達を通して「我々はどのように日本語を習得していくのか」について書いた本。

 むずかしい用語は多くなく、身近なエピソードがふんだんに使われているので言語学への入門書としてはいいとおもう。単純におもしろかった。


 たとえばこんなの。

 「子ども語あるある」の同じく上位に、「とうもころし」(とうもろこし、『となりのトトロ』にも登場)、「さなか」(さかな)などがあります。シャワー機能のあるトイレに行くたびに「デビって何~?」(K太郎、至7歳現在)って連呼するのやめてほしい。そういえば弟が幼児のころ「あやめいけ(地名)」を「あめやいけ」と言っていたのも思い出します。
 これら「音が入れ替わる系」のエラー(「とうもろこし」の「ろ」と「こ」が入れ替わる、など)は音位転換と呼ばれています。入れ替わった結果、より発音しやすくなっているのだと解釈されています。

 あるある。「オジャマタクシ」が典型例だよね。うちの四歳児も、ずっと「おくすり(お薬)」のことを「おすくり」って言ってる。何度訂正しても直らない。あと「エベレータ(エレベーターのこと)」とか「テベリ(テレビのこと)」とか。

 これは子どもだけでなく、大人でもやってしまいがちだ。中には、音位転換されたほうが正しい表記になってしまったものもあるという。元々「あらたし」だったのが「あたらしい」になってしまったり、「したつづみ(舌鼓)」が「したづつみ」になってしまったり。「こづつみ(小包)」とかがあるからごっちゃになってしまったんだろうな。

 最近だとカタカナ語でよくあるよね。「シミュレーション」を「シュミレーション」と書いてしまったり、「コミュニケーション」を「コミニュケーション」としたり、「アニミズム」を「アミニズム」としたり。ちなみに「アニミズム」はめちゃくちゃ間違えられてて、検索すると「アミニズム」と同じぐらい使われてる。近い将来これも正解になるかもしれない。




 あと、子育てをしたことのある人ならかなりの割合が経験したことあるであろう「幼児、『死ぬ』を『死む』と言っちゃう問題」について。

 さて、マ行動詞であれナ行動詞であれ「飲んだ・読んだ・はさんだ・かんだ」あるいは「死んだ」というふうに、活用語尾が「ん」になることについては、たまたま形が共通しています。おそらく子どもは、「虫さん死んじゃったねえ」「あれ、死んでないよ」というようなやりとりを通して、「死んじゃった」は、「飲んじゃった・読んじゃった・はさんでない・かんでない」と同じ使い方をすることばなんだな、という類推を行っているのでしょう。そうして子どもは、ふだん多く触れている、いわば規則を熟知しているマ行動詞の活用形を「死ぬ」というナ行動詞にもあてはめているのだと推測できます。(「死む」でネット検索したら、同様の推理をされているママさんのブログもありました。大人の冒険仲間を発見した気分です。)

 以前にもこのブログで書いたことがあるけど、これはほんと幼児あるあるだとおもう。

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか




 濁音問題。

「か」に点々をつけたら? → 「が」

「さ」に点々をつけたら? → 「さ」

といった問いには答えられる幼児でも、「は」に点々をつけたら? という問いに答えるのはむずかしいそうだ。

 なぜなら、「『か』と『が』」「『さ』と『ざ』」「『た』と『だ』」は口内の形が同じでのどの震わせかた(無声音か有声音か)で音を出し分けているのに対し、「『は』と『ば』」は口内の形がまったく別物だから。

『ば』の口の形のまま無声音にした音は、『は』ではなく『ぱ』である。

 つまり、「たーだ」「さーざ」「かーが」の間に成立している対応関係が成り立っているのは、「ぱ(pa)」と「ば(ba)」の間のほうなんですね。日本語の音のシステムでは「は」「ぱ」「ば」が奇妙な三角関係をつくっているようですが、「ば(ba)」の本来のパートナーは「ぱ(pa)」と考えるべきです。じつは、大昔の日本語では、現在の「は」行音はpの音であったことがわかっています(ひよこが「ぴよぴよ」鳴くのも、ひかりが「ぴかり」と光るのもそれに関係ありそう)。その後、日本語のpの音は「ふぁ」みたいな音に変化していったらしく、室町時代に日本を訪れた宣教師による報告書では、現代の日本語なら「は」行で表されるべき音が、「ふぁ」の音に対応する文字で表記されています。そして最終的には今の「は」行音となり、現代日本語における三角関係に至るわけです。
 このように歴史的な音の変化により、ある言語の中にその言語特有の不規則な部分が生じてしまうことは珍しくありません。けれども、現代の日本語ではすでに「もともとそうなっている」わけなので、それをそのまま身につけて使えば何の不自由もありません。エンピツ(いっぽん、にほん、さんぼん)や子ぶた(いっぴき、にひき、さんびき)も自然に数えることができています。

 なるほどねえ。「『は』に点々をつけたら『ば』になる」というのはルールから逸脱した例外なのだ。大人は気づかないけど、日本語を学びはじめた幼児(あるいは外国人の日本語学習者)にとってはつまづきやすいポイントなんだね。




 ぼくにも子どもがふたりいるが、子どもの言語能力の発達スピードというのはものすごい。特に二~三歳児頃の成長はすさまじい。一年前まで「ごはん」「いや」みたいな単語しかしゃべれなかったのに、たった一年で「もうおなかいっぱいだからたべたくない。でもおやつはたべる」なんていっぱしの日本語を操れるようになるのだ。

 しかも、体系立てた学習をしているわけではなく、周囲の人たちが話すことばを聞いているだけなのに。

 もうひとつ例を見てみましょう。K太郎(6歳)がテレビで「去って行く」という表現を耳にして母親に聞きました。
 「ねえ、「さう」ってどういう意味?」
 彼は何を考えてこう言ったのでしょう?
 まず「去って行く」が「さって」と「いく」というふたつの動詞に分解できるという知識を動員。さらに「さって」ということばの意味を尋ねるために、終止形に直したほうがよいと判断。「買って―買う」「言って―言う」などから類推したのか、それが「さう」であると(過剰に)一般化。最後のところは大人から見れば間違っていますが(正解は「去う」じゃなくて「去る」)、それにしても、推論の過程を考えると、かなり高度なことをするようになったものです。

 もちろんこんなに順序立てて考えているわけではないが、意識下でこういう思考をくりひろげているのだ。ほんの数秒で。

 今、AIがどんどん進化していってすごいなあと感心するけど、ほとんどの子どもはそれよりも高精度で学習をしているわけだもんね。改めて、人間の脳ってすごいと感じる。


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2023年2月6日月曜日

【読書感想文】荻原 浩『海の見える理髪店』 / めちゃくちゃうまい人のビリヤードみたい

海の見える理髪店

荻原 浩

内容(e-honより)
店主の腕に惚れて、有名俳優や政財界の大物が通いつめたという伝説の理髪店。僕はある想いを胸に、予約をいれて海辺の店を訪れるが…「海の見える理髪店」。独自の美意識を押し付ける画家の母から逃れて十六年。弟に促され実家に戻った私が見た母は…「いつか来た道」。人生に訪れる喪失と向き合い、希望を見出す人々を描く全6編。父と息子、母と娘など、儚く愛おしい家族小説集。直木賞受賞作。


 自分の叶えられなかった夢を押しつけようとしてきたために喧嘩別れした母の病気を知る『いつか来た道』、夫婦喧嘩をして実家に帰った妻に謎のメールが届く『遠くから来た手紙』、父親の形見の時計を修理してもらううちに亡父の新たな一面を発見する『時のない時計』、娘を亡くした夫婦が代わりに成人式に出席しようとする『成人式』など、訳ありの家族の姿を描いた短篇集。

 読んだ感想は「お上手ですなあ(苦笑)」。

 感心するようなうまさではなく、はいはいうまいうまい、すごいね、という感じ。塾で習ってきた解法をこれみよがしに披露するクラスメイトを見たときの気持ちに似ている。「へえ、すごいねえ。よく予習してるねえ」


 狙いが透けて見えるというか。ああ、感動させようとしてるなあ、って感じなんだよね。戦死した祖父の手紙とか、亡父の形見の時計とか、死んだ子の思い出とか、出てくる小道具がいかにも。感動小説に「死んだ人の手紙」を出すって、もうほとんどコントでハリセンやタライを出すぐらいベタじゃない?




 表題作『海の見える理髪店』はわりとよかったけどね。特にラストの一文が決まっていて。

 ただ、これも決まりすぎていて、個人的には鼻についてしまった。そのシチュエーションでその一言はおしゃれすぎるやろ。

 贅沢なことをいうけど、小説って上手すぎるとおもしろくないんだよね。めちゃくちゃうまい人のビリヤードみたいでドキドキしない。

 ストーリーはいいけど、演出が不自然だったな。これを原作にして映画やドラマにしたらいい作品になりそうだけど。


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2023年2月3日金曜日

【読書感想文】奥田 英朗『ナオミとカナコ』 / 手に汗握るクライムサスペンス

ナオミとカナコ

奥田 英朗

内容(e-honより)
望まない職場で憂鬱な日々を送るOLの直美は、あるとき、親友の加奈子が夫・達郎から酷い暴力を受けていることを知った。その顔にドス黒い痣を見た直美は義憤に駆られ、達郎を排除する完全犯罪を夢想し始める。「いっそ、二人で殺そうか。あんたの旦那」。やがて計画は現実味を帯び、入念な準備とリハーサルの後、ついに決行の夜を迎えるが…。


この感想は一部ネタバレを含みます。


 百貨店勤務の直美は、学生時代からの親友・加奈子が夫からDVを受けていることを知る。自身の母親もDVを受けていた直美は、仕事で知り合った中国人社長、加奈子の夫に瓜二つの中国人不法滞在者、認知症の老婦人らを利用し、証拠を残さずに加奈子の夫を〝排除〟する計画を加奈子に持ちかける……。


 いやあ、手に汗握るクライムサスペンス小説だった。すばらしいエンタテインメント。

 犯罪小説としては、格別凝ったことはしていない。

 計画を思いつく → 殺す → 証拠が残らないように後始末をする → 追及をかわす → ばれそうになる → 逃げる

 あらすじを書いてしまうと、いたってシンプルだ。


 だが「はたしてうまく殺せるのか」「予期せぬ事態が起こって計画通りにいかないんじゃないか」「うまくごまかせるのか」「ばれそうになってからはうまく逃げられるのか」と、中盤以降はずっと緊張感が漂う。まるで、自分の犯罪がばれそうになるような気分だ。いやぼくには隠してる犯罪なんかないけどさ。マジでマジで。


 特に終盤の、徐々に捜査の手がせまってくるあたりや、追手から逃げるくだりは読むのをとめることができなかった。おかげで夜更かししちまったじゃないか!




 似た作品に、貴志祐介『青の炎』がある。

「自分の人生を守るためには殺すしかない」という状況に追い詰められた主人公が、綿密な計画を練り、殺人を決行する。

 うまくいったかに見えたが、些細なほろこびから疑いを持たれ、やがて捜査の手が伸びてくる……。

『青の炎』の結末がもの悲しくも「これしかない!」って感じだったので、『ナオミとカナコ』も同じような結末を迎えるのだとおもった。

 だが……。

 うーん、そうきたか。これはこれでアリだよなあ。倫理的には良くないのかもしれないけど、おもしろいもんなあ。こういう結末を許せない人もいるだろうけど、ぼくは嫌いじゃない。

 これはやっぱり男女の差かなあ。女主人公が『青の炎』の秀一くんみたいな結末を選ぶのは違和感をおぼえるし、男主人公が『ナオミとカナコ』みたいな道を選んだら読んでいてスッキリしない気がする。なんでだろうな。



 直美と加奈子は共謀して加奈子の夫を殺すのだが、「DV夫から逃れるため」という明確な目的があった加奈子とはちがい、直美のほうには殺人から得られるメリットがまるでない。

 直美をつき動かすのは、「親友がひどい目に遭っているのを許せない」という義憤だけだ。

 そんなことでほとんど会ったこともない人間を殺すかねえ、とおもうが、よくよく考えると案外そんなものなのかもしれない。いざとなったら損得よりも義憤のような感情のほうがずっと強いのかも。

 そういえば桐野夏生『OUT』でも、死体遺棄をおこなうのはまるで利害関係のない人物だった。

 意外と人間は、損得で動かない。



「殺されること」と「殺してしまうこと」はどっちがイヤだろうか?

 そうなってみないとわからないけど、もしかしたらぼくは「殺してしまうこと」のほうがイヤかもしれない。

「誰かに殺されそうになる悪夢」はまったく見たことがないが、「自分が何か悪いことをして捕まりそうになっておびえる悪夢」は何度も見たことがある。心のどこかに「殺してしまうこと」「逮捕されること」へのおびえがあるのだ。ずっと。

 殺されるのも怖いが、殺されたらそれでおしまいだ。その後はどうすることもできないし何も考えられない。でも殺すほうは、殺した後もずっと人生が続くのだ。悔やんだり、怯えたり、追われたり、糾弾されたりしながら。そっちのほうがおそろしい。



『OUT』を読んだときにもおもったが、完全犯罪(殺人)を成功させる上でいちばん大事なのは「死体が見つからないようにすること」だね。

 死体さえ見つからなければ、どんなに怪しくても殺人罪で起訴できない。そもそも大人が行方不明になっても警察はまともに捜査しない。

 そういえば推理小説でも「死体が見つからない事件」ってあんまりないよね。死体がなければ殺人事件にならないからね。アリバイだとかトリックとかより「死体を隠す」がいちばん大事なんだろうね。



 ものすごくおもしろい小説だった。おもしろくてページをスライドする手が止まらない(電子書籍で読んだので)という、近年あまりない読書体験だった。

 小説の登場人物に高い倫理観を求める人からしたら気にくわないだろうけど、そうじゃない人にはおすすめ。


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【読書感想】 貴志 祐介『青の炎』

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



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2023年2月2日木曜日

ツイートまとめ 2022年7月



適性検査

減税シンパ

カル中

服のセンス

誤解を招いた

ろくでもない

揚げ出し豆腐

言い方

政治と科学

デパート

できたて

鎮火

地獄

わんやんあぐだ

このボケ

ショートコント『アンパンマン』

自滅

国葬

2023年2月1日水曜日

【読書感想文】石神 賢介『57歳で婚活したらすごかった』 / ようやるわ

57歳で婚活したらすごかった

石神 賢介

内容(e-honより)
やっぱり結婚したい。57歳で強くそう思った著者は、婚活アプリ、結婚相談所、婚活パーティーを駆使した怒涛の婚活ライフに突入する。その目の前に現れたのは個性豊かな女性たちだった。「クソ老人」と罵倒してくる女性、セクシーな写真を次々送りつける女性、衝撃的な量の食事を奢らせる女性等々。リアルかつコミカルに中高年の婚活を徹底レポートする。切実な人のための超実用的「婚活次の一歩」攻略マニュアル付!


 三十代で離婚、その後婚活をするも成婚にはいたらなかった著者が、還暦手前にして再び結婚したい願望にとらわれ、再び婚活に挑戦したルポルタージュ。


 ぼくからすると「ようやるわ……」という気持ちだ。

 ぼくは十年ほど前に結婚したが、そのときは安堵感を味わった。「やれやれ、これでもう惚れたはれただのモテるモテないだのといった競争からおりることができる」と。

 世の中には恋愛が大好きな人もいるけど、ぼくはどちらかというと嫌いだ。そりゃあ楽しいこともあるけど、つらいことや恥ずかしいことやめんどくさいことのほうがずっと多い。さっさと一人のパートナーを見つけて、その人と長く付き合うほうがいい。そんなわけで、ぼくははじめてできた彼女と八年付き合い、その人と結婚した。そりゃあ目移りすることがないでもなかったけど、それより「めんどくさい」のほうが勝った。

 だから、57歳で婚活なんて聞くと「わざわざそんな試練に我が身を投じなくても……」と、極寒の山中で滝行をする修行僧を見るような目になってしまう。どう考えたって、得られるものより失うもののほうが大きそうだもん。




 婚活アプリで出会った女性の話。

 このメッセージを僕に送ってきたのは、婚活アプリで最初にマッチングしたマリナさんである。アプリに登録した夜に申し込んだ5人の女性のなかで一人だけレスポンスをくれた41歳の女性だ。銀行員で、離婚歴が一度ある。
 彼女にメッセージを送ったのは、顔が好みだったということ。そして、好きな映画が同じだった。(中略)映画の話題で3往復やり取りすると、「会いましょうよ」と言ってくれた。ビギナーズラックだと思った。
 待ち合わせは、表参道駅近く。青山通りから路地を一本入ったビルのカフェレストランだ。実物のマリナさんもきれいな女性だった。かつては地方のテレビ局でレポーターの仕事もしていたという。
 意気投合した、と僕は思った。というのも、LINEのIDを交換し、R&B系の来日アーティストのライヴを観る約束をして帰路に着いたからだ。しかし、僕の大きな勘違いだった。彼女は僕にいい印象を持たなかったのだ。
 約束したライヴの日程が近づき、LINEで連絡をしても、レスポンスがない。高価なチケットを用意していたこともあり、不安になった僕は2度、3度、連絡をした。すると、3度目でようやく、深夜に連絡が来た。
「しつこいです。もう連絡しないでください。無理です」
 しつこかったか? そうとも思えなかったけれど、嫌われたことは間違いない。小心者の僕は即撤退することにした。
「失礼しました。もう連絡はさしあげません」
 と送信して就寝した。
 翌朝起床すると「連絡すんなって書いてあんの読めないのかよ。老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」というメッセージが届いていたのだ。「失礼しました。もう連絡はさしあげません」というわびのLINEすら腹立たしかったらしい。ここまで言うということは、断りたいだけでなく、僕を痛めつけたいということだ。
 食事をしたときに、おそらく無意識のうちになにか僕に失言があったのだろうし、心当たりはない。気分を害するポイントは、世代によっても違いがあるものだ。

 LINEメッセージを一通送っただけで『クソ老人』……。

 まあ一方的な言い分しかわからないからね。ひょっとすると著者がめちゃくちゃ失礼なことを言ったのかもしれないけど。でも、それにしても「老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」ってなあ。

 もしかして、男性を罵ることで快楽を得るタイプの人なのかもしれない。だってほんとに嫌いな相手だったら、そんな長いメッセージを打つよりもブロックするんじゃないかなあ。そっちのほうがずっと早いもん。


 しかし、こんな目に遭っても(ほかにもいろいろひどい目に遭ってる)次々に相手を探せるなんて、著者はタフだ。ぼくだったら、意気投合したとおもった相手から「クソ老人!」と言われたら婚活を諦めて一年以上は落ち込んでしまうような気がする。

 就活でお断りメールを受け取るのですら全人格を否定されたようでけっこうな心的ダメージを食らったのだから、異性から「自分という人間」を次々にお断りされるのは、相当な心痛だろうな。でも、どんな痛みもそうであるように、やっぱり慣れていくんだろうな。慣れるというか麻痺するというか。




 結婚相談所のプロフィール写真について。

 女性の写真はみんな上品だ。しかし、目が慣れてくると、あれっ?と思った。なんとなく違和感を覚える。
 よく見ると、写真の多くは加工されていた。婚活アプリと同じ傾向が見られた。目鼻立ちがくっきり写るように陰影のあるメイクをしたり、しわが目立たないようにソフトフォーカスで撮影されていたり。おそらく画像上でも、頬をシャープにしたり、肌荒れをフラットにしたり、レタッチが施されているのだろう。
(中略)
「実際に会ったら、顔が違っていることもありますか?」
「七掛けくらいまではご容赦いただきたいと……」
 やはり写真は加工されているのだ。
 お見合いの場に別人のような女性が現れたら、チェンジはありですか?」
 またもや思ったことが口をついて出てしまう。
「いけません! 私どもはそういう種類のお店とは違いますので」
 電話の向こうは急に強い口調になった。
「そうですか……。ならば、写真をつくり込んでいるか、見破る方法はありますか?」
「それはご自身のスキルを磨いていただくしかないかと」
「スキルを磨く……」
「はい。あっ、一つポイントを申し上げましょう。モノクロ写真は加工されている前提で見てください」
 コジマさんはきっぱりと言った。


「いちばん写りのいい写真を選ぶ」ぐらいならわかるんだけど、レタッチソフトを使って加工する人の気持ちはわからんなあ。

 加工して実物よりよく見せた写真でお見合いにいたったとしても、どうせ顔を合わせるのだからばれてしまう。だったら会ったときにがっかりさせるより、素顔をさらしてそれでも申し込んでくれる人と出会ったほうがうまくいくんじゃないの? とおもってしまうんだけど。

 どうせすぐにばれるとわかっててもそれでもよく見せたいのが女性という生き物なのか、それともとにかく会うことまでこぎつけないと勝負にならないから五割増し加工でもしたほうが勝率が上がるのか。

 しかし美人局や営業職ならともかく、一生共に過ごしていこうというパートナーを見つけるための場なのに、だましあいから入るのは、なんかちがうんじゃないの? とおもってしまう。それで数十年つきあっていけるのかねえ。


 もうひとつ疑問におもうのが、「高級レストランじゃなきゃイヤ、男性のおごりでなきゃイヤ」って女性が多いらしいこと。

 この感覚、まったく理解できない。自分が食べるものに金かけないからってのもあるけど。

 そりゃあ一回こっきりの相手に食事をおごってもらうんなら高い飯のほうがいいけどさ。でも、結婚相手を選ぶわけでしょ? 贅沢な食事に惜しみなく金を使う男よりも、締めるとこはちゃんと締める経済観念のしっかりした男のほうがよくない? 浪費家と結婚しても苦労するのは自分だよ? 結婚相談所だったら会う前に相手の年収はわかってるわけだから、収入の割に高い店に連れていく男はやめといたほうがいいとおもうけどなあ。

 まあ今の中高年ってバブルを知ってる世代だったりするから「おごってもらってあたりまえ。安い食事に連れていく男は論外」って感覚が染みついちゃってるのかなあ。

 婚活をやってると、結婚後に円満な関係でいることよりも「婚活でちやほやされること」が目標になっちゃうのかもね。

 就活のときもいたよね。「いい会社に入って好ましい仕事をすること」じゃなくて「何社から内定をもらったか」がゴールになっちゃう人が。




 読んでいて感じたのは「この人たちほんとに結婚する気あんのかな?」ってこと。著者も、著者が会った女性たちも。

 この人もダメだった、あの人もダメだった、その人はそこが嫌だった、あの人とはあそこがあわなかった……。と、あれこれ理由をつけては見送っている(フラれてるケースもあるけど)。

 え? もししかして「世界のどこかにいるすべて私の理想通りの相手」を探してる?

 いねーよ! いたとしてもそいつはとっくに他の誰かと結婚してるよ!


 読んでいると、著者は結婚相手を探しているというより、なんとかして結婚しない理由を見つけようとしているようにしか見えない。

 理想通りじゃないのはあたりまえじゃない。まして「57歳で婚活する男」「57歳で婚活する男と会ってくれる女」なんだから、いろいろと問題があるのはあたりまえじゃない。容姿も良くて、高収入で、働き者で、性格が良い人がその市場にいるわけがない。そんなかんたんなこと、誰だってわかる。

 たぶん著者や、著者と会った女の人たちだってわかってる。他人になら「完璧な人なんていないんだからほどほどのところで手を打ったほうがいいよ」と言えるだろう。でも、こと自分のことになると、理想を追い求めてしまう。だから結婚できひんねんで。

 おもうに、婚活の仕組み自体が良くないんだろうね。何千人もの異性の写真やプロフィールを見て、何十人、何百人もの人に会って結婚を前提にした会話をする。そりゃあどうしたって目移りもするし、品定めする目になってしまう。「年収はあの人のほうが上だった」「顔は以前の人のほうが好みだった」「いちばん会話が弾んだのは彼だった」ってな感じで減点してしまうのだろう。


 つくづくおもうに、昔の「親が勧めてきた相手」や「上司の紹介」ってのはそれなりにいい制度だったんだろうな。それだと相手をあれこれ見比べることないから「わざわざ断るほどの理由もないし、まあいいか」ぐらいで手を打てる可能性も高かったのだろう。

『57歳で婚活したらすごかった』を読んでいると、婚活をすればするほど結婚から遠ざかっていくような気がする。だって〝過去の最高点〟がどんどん上がっていくんだもん。長く婚活していれば「もっといい人がいたのに、今さらこんなところで手を打ちたくない」って心境になるだろうし。

 仮に結婚したとしても、たくさんの人と結婚を前提にしたお付き合いをした後だと「やっぱりこの人じゃなくてあっちにしとけばよかったかなあ……」とおもうんじゃないかな。その点、ぼくなんかひとりの女性としかつきあったことないから、そんなふうに迷うこともない。あー、モテなくてよかった!(涙目でガッツポーズ)


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