2021年9月8日水曜日

【読書感想文】伊藤 計劃『ハーモニー』

ハーモニー

伊藤 計劃

内容(e-honより)
21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。第30回日本SF大賞受賞、「ベストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門受賞作。


『虐殺器官』がめっぽうおもしろかったので読んでみた。

 ……これはあれだな。ぼくが読み方をまちがえたな。
 寝る前に布団の中で毎日ちょっとずつ読んでたんだけど、そうやって読む小説じゃなかった。まとまった時間をつくって一気に読まなきゃいけないやつだった。


『ハーモニー』はかなり難解な小説だった。

『虐殺器官』のほうは、ただ単純に暗殺集団に属す主人公の描写がおもしろくて、わくわくするストーリー展開を追ってるうちに壮大なSF的仕掛けが浮かびあがってくるという小説だった。

 だが『ハーモニー』のほうは、あまり動きはない。
 仲間といっしょに自殺未遂をしたり、同時多発事件があったり、主人公が命を狙われたりする。これだけ書くと波瀾万丈な小説みたいな気がするが、実際はそんなことはない。概ね静かな小説だ。説明や思索や回想が物語の大半を占めている。

 あとこれはいいところでもあるんだけど、直接的な説明が少ない。「今こうなってるんですよ。これが課題ですよ。だからこれをするためにここに向かってるんですよ」という説明がない。そこがおしゃれなんだけど、集中して読まないと「今この人はどこで何のためにこの人と会ってるの?」となってしまう。就寝前に読むもんじゃなかった。




『ハーモニー』は、健康を司る〝生府〟が人々の健康を管理する社会を舞台にしている。

 一度、わたしのぜんぜん知らない料理らしきものが延々と映し出されているメディアチャンネルを見かけたことがある。あれは何、と父に訊くと、ああ、あれは二分間憎悪、って言うんだ、と父は答えた。ああいう、脂肪過多、コレステロール過剰、塩分過多──健康に良くない、リソース意識に欠けた食事を摂っていた最後の世代が、ああいう画面を見つめながら、俺はあれを食べてはいけない、あれを口にするのは社会的存在として最低だ、リソース意識の欠如だ、公共的身体の損耗だって自己暗示をかけるんだよ。

 これは明らかな『一九八四年』へのオマージュだが、恐怖ではなく健康によって支配された世の中だ。
 これをディストピアと見る人もいるだろうが、ユートピアとおもう人のほうが多数派なんじゃないだろうか(二分間憎悪はやりすぎだが)。不健康になる自由よりも、誰もが健康でいる社会を望む人のほうが多いはず。


 だがその世の中で同時多発自殺が起こり、さらには「殺さなければ殺される」という予告が全人類につきつけられる。

「わたしたちは新しい世界をつくります。
 そのためにはまず、それができる人を選ばねばなりません。
 これから一週間以内に、誰かひとり以上を殺してください。
 手段は何でもかまいません。
 自分自身のためならば、他者などどうでもいいということを証明してください。
 いちばん大切なのは自分の命だという感情を、解放してください。
 それができない人には、死んでもらいます。
 先程も言いましたが、それをわたしたちが実行できる力があることは、この前の事件でわかったと思います。
 もしあなたが、他の誰かの命を奪うことを躊躇したら。
 たとえ自分が助かるためですら躊躇したとするなら。
 そのときには、わたしたちは容赦なくあなたを殺します。
 自分で自分の命を奪うように仕向けます。
 繰り返しますが、わたしたちにはボタン一個でそれができるのです。
 まだ信じない人のために、もうすぐそれを実証する映像をお見せします。
 おそらくは一瞬しか映りません。
 目をこらして、見逃さないようにしてください」

 はたして予告は本当なのか、本当なら誰が何のためにおこなったものなのか、どういう手段を用いるのか、そして結果は……。

 この予告がおこなわれるのが本の中盤なのだが、このへんからやっと物語が動きだす。それまではプロローグみたいなもの。プロローグなげえ。

 そこからは物語も動きだすし、いろんな謎が解けていくのでやっとおもしろくなる。
 安易な「主人公が世界を救う」系の結末にならないのもいい。


 感心したのが、ずっとHTML構文のように書かれている文章。

 〈uncomfortable〉テキスト〈/uncomfortable〉みたいな感じで。

 なんだよこれじゃまくせえ、HTMLおぼえてばかりの中学生かよ、とおもって読んでいたのだが、最後の最後で謎が解けた。なるほど、そういうことね。こういう仕掛けはおもしろい。




 よくできてるSF小説だなとはおもうけど、SF好きがSF好きのために書いた小説みたいだなー。そこまでSFファンでない者からすると、ちょっとついていけない。
 そう、「難しいことやるからがんばってついてこいよ!」って感じなんだよね。SF予備校の上級クラスの授業。
 いやこっちはそこまでの意気込みがあるわけじゃないんすよ。


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2021年9月7日火曜日

【読書感想文】ライアン・ノース『ゼロからつくる科学文明 ~タイムトラベラーのためのサバイバルガイド~』

ゼロからつくる科学文明

タイムトラベラーのためのサバイバルガイド

ライアン・ノース(著)  吉田 三知世(訳)

内容(e-honより)
残念です。私たちは紀元前XXXXXX年にいて、タイムマシンFC3000は、完全に故障してしまいました。でも、肩を落とすことはありません!必要なものは、このガイドに全て載っています。荒野に農業をスタートさせ、初めて電気の明かりを灯し、最初の飛行機で青空を飛び、みずから交響曲を作曲して、文明を、あなたの手に取り戻しましょう!本書は、皆様にあらゆるモノの発明方法をご紹介する科学本です。


 ええと、どういう本か説明するのがちょっとややこしい。
 著者の説明を信じるなら「マニュアル(取扱説明書)」ということになる。
 タイムマシンで過去にいったもののタイムマシンが壊れた人のための「新たに文明を再構築するためのマニュアル」だそうだ。
 ちなみにこの本は著者が書いたものではなく、タイムマシンを発明した世界線の人が書いたものを著者が偶然見つけたもの、ということらしい。
 うん。めんどくさいね。しゃらくさいね。

 まあ要するに、「人類が今まで発明したあらゆるもの(はさすがに言いすぎだが主要なもの)をゼロから発明するにはどうしたらいいか」を説明する本だ。

 飲料水を確保するには、農業をやるには、ウマやヒツジを家畜化するには、鉄を精製するには、紙をつくるには……と、とにかくありとあらゆる発見・発明・技術が詰め込まれている。いや、詰め込まれすぎている。

 そう、詰め込みすぎなのだ。

 ほんと、後半は読むのが苦痛だった。無駄に長いんだよね。紙の本で573ページもある。そしてつまらない記述が多い。
「心肺蘇生法をやるときに歌うべき1分間に100拍のテンポの曲のリスト」とか「有名な曲の楽譜」とか「三角関数表」とか、無駄にページ数を引き延ばそうとしているとしかおもえない。なんだそれ。
 しかも説明が長いわりに図解が少ない(図で説明したほうがはるかにわかりやすい事柄でも)。

 前半の「見つけたものが食べられるかどうかの見分け方」「役に立つ動植物」「さまざまな道具を作る方法」なんかはサバイバル術としておもしろいけど、後半は、哲学、音楽、コンピュータなど、サバイバルからは遠く離れてしまっている。
 まだ「とにかく生き延びる」に絞っていればなあ。

 この本のピークは最初だった。




 一冊の本として見たときはまとまりがなくて冗長なんだけど、断片的にはけっこうおもしろい(ところもある)。

 書くことの背後にある考え方──目に見えない音を目に見える形に変えて保存しよう──は至ってシンプルですが、じつのところ書き言葉の発明は、人類にとって極めて困難でした。あまりに困難で、人類史全体でたった2度しか起こっていません。

 ・エジプトとシュメールで紀元前3200年ごろ
 ・メソアメリカで紀元前900年から紀元前600年のあいだ

この2回です。
 書き言葉は、ほかの場所でも出現します。たとえば紀元前1200年の中国ですが、これはエジプト人に中国人が感化されたからです。同様に、エジプトとシュメールの書き言葉はほぼ同じころ登場し、見た目はまったく異なるものの、両者には多くの共通点があります。これらの文明のいずれかが書き言葉を発明し、おそらく、それがいかに有用な発明かを見て、もう一方がそのアイデアをまねたのでしょう。

「言葉を文字にする」なんて現代人からしたらあたりまえの話なんだけど、人類は長い間それをおもいつかなかった。
 5万年ほど前に話し言葉は誕生していたのに、文字が発明されたのは5000年ほど前。長い間人類は書き言葉を持たなかった。
 それは「思いついたことを、同じ時代・同じ場所にいる人にしか届けられなかった」ということでもある。
 もしかしたら数万年前の人類は、めちゃくちゃおもしろい物語とかすばらしい音楽とか現代人より優れた技術を持っていたかもしれない。でも時代を超えてそれを伝える手段を持っていなかったがために、廃れてしまった。なんともったいない。

 もしも現代人が5万年前に行って「話していることを粘土とか板とか石とかに記しておけば、知り合い以外にも伝えられるよ」とだけ教えれば、数万年分のアドバンテージを得られることになる。初期から文字を持っていれば、科学は今よりずっとずっと進歩していることだろう。




 様々な発見・発明の歴史を見ていると、昔の中国ってすごかったんだなあとおもわされる。
 羅針盤・火薬・紙・印刷の四大発明が有名だが、絹、ニワトリの家畜化、低温殺菌技術、麹の利用、製塩、サングラス、舵、傘、車輪など、実に多くのものが中国で発明されている。

 とはいえ近代の歴史を見ると、中国は決して世界のトップを走ってきた国ではない(最近またトップに返り咲こうとしているが)。
 なぜ最も科学技術が発展していた中国が、ヨーロッパ諸国に抜かれ、水を開けられたのか。
 そのヒントとなるのが印刷だ。

 活字は、西暦1040年ごろの中国に存在しましたが、本当に軌道に乗ったのは、数世紀のちにヨーロッパにこの技術が到達してからのことでした。それは、もうひとつの画期的発明、アルファベットのおかげです。中国の表記法は、表音的な言語のように、音を表す限られた数の文字を使うのではなく、意味を表す膨大な数の文字を使うので、一冊の本に60,000種以上の異なる文字が使われています。どちらの文字体系にも長所と短所がありますが、活字を使う際の中国の文字体系の短所は深刻です。60,000種類の文字よりも、26種類の文字のほうが、保管し分類するのは、はるかに安価で簡単です。

 中国が製紙+印刷技術のおかげで、知識を広く伝達することができた。だがその恩恵をこうむったのは、活字にしにくい漢字を使う中国ではなく、26種しかないアルファベットを使うヨーロッパのほうだった。結果、ヨーロッパで産業革命が起こり、優れた科学技術を持っていた中国はヨーロッパ諸国に追い抜かれてしまった。
 中国が生んだ製紙と印刷が中国を(相対的に)衰退させたなんて、なんとも皮肉な話だ。

 もちろん他の要因もあるんだろうが、これはおもしろい話だ。




 テレビドラマにもなった『JIN-仁-』という漫画があった(読んだことないけど)。
 脳外科医が江戸時代にタイムスリップし、その医療技術を活かして多くの人の命を救うという話だそうだ(読んだことないのでまちがってたらスマン)。

 医師だから別の時代に行っても活躍できた……とおもいきや、特別な医療技術を持たない我々でも十分命を救える可能性はある。

・地球上で最も猛威を振るった伝染病は冬に起こりました。なぜでしょう? それは、死んだ人の衣服を着てしまう可能性が冬に最も高かったからです。衣服にシラミがたかっているひとりの人間が、町全体に疫病を広げる源になる可能性がありました。死んだ人の衣服は、熱湯で煮沸した後でない限り、絶対に身に着けないでください。病気で死んだ人のものならなおさらです。
 あなたが食べたい食物は、ほかの植物や動物もそれを食べはじめると、やがては、あなたが食べたくない食物になってしまいます。このプロセスは「腐る」、「傷む」、あるいは「ご飯が台無しになる」と呼ばれ、暮らしのなかの自然な出来事なのですが、食欲が削がれますし、有毒でもあります。そんなプロセス、できる限り遅らせたいですよね。ここに、あなたの秘密兵器をお教えしましょう。「地球上のすべての生き物は──食物を傷めてしまう微生物も含めて──、生存のために水が必要です。また、その水があったとしても、大部分の生き物は特定の温度と特定の酸性度の範囲内でなければ生き残れません」。このことに気づかれたなら──そして、私たちが今お話ししたので、あなたはこれに気づいたわけです──、ほかの生物から食物を自分で守り、保存することは可能だと納得されるでしょう。それにはこの、水、温度、酸性度というパラメータのいずれかひとつかふたつを極端な値にして、食物の上では生物が生きられないようにすればいいのです。それに、ひとつの保存手段だけを使い続ける必要はありません。食物を、乾燥させて塩漬けにしたり、燻製にして冷凍したり、ピクルス漬けにして缶詰にしたりしていいのです。そうすると、一層美味しくなることもありますし!

 我々は医師ではないけど、ほとんどの病気が細菌やウイルスによって引き起こされることを知っている。
 そしてそれらの多くが「汚い手で触らない」「きれいな水で手を洗う」「乾燥させる」などのごくごくかんたんな方法で防げることも。
(特に新型コロナウイルス流行以降の人間はよく知っている)

「食事前に手洗いうがい」「傷口は流水で洗う、汚い手で触らない」といったことを伝えるだけでも、多くの命を救えるはず。

 ぼくやあなたも過去に行けば名医になれるのだ(言うことを信じてもらえればだけど)。




 ということで、パーツパーツで見ればおもしろいところも多い本だった。

 だが一冊の本として見れば、とにかくまとまりがない。
 はあ疲れた。百科事典を読破したような気分だぜ。


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2021年9月6日月曜日

【読書感想文】乾 くるみ『物件探偵』

物件探偵

乾 くるみ

内容(e-honより)
高利回りのマンションを手に入れたはずが、オーナー生活はなぜか4ヵ月で終了。新幹線の座席が残された部屋、HDDから覚えのない録画が流れたり、バルコニーに鳩の死骸を見つけたり。全て何者かの嫌がらせなのか?格安、駅近、など好条件にも危険が。事故物件をチェックしただけでは見抜けない「謎」を宅地建物取引を極める不動尊子が解明。物件×人を巡る極上ミステリー6話。

 不動産物件をめぐるミステリ短篇集。

 お買い得とおもわれた投資用物件だが購入したとたん借り手が退去、全室入居済みとしかおもえないマンションが空室ありとして売りに出されている、事故物件を購入したら謎の女性がやってきた……。
 など、日常のちょっとした謎系ミステリ。真相も詐欺やご近所トラブル程度の話で現実にもありそう(ありえない話もあるけど)。

 不動産×ミステリという着想はおもしろい。
 ミステリの世界で不動産というと「××の館」みたいな奇想天外な建物で起こった殺人事件みたいな話が定番だが(古いか?)、ほんとにありそうな物件を題材にしたミステリというのはありそうでなかったかもしれない。
 業界用語の解説もあり、不動産の勉強にもなる。

 ただ中古分譲マンションしか扱っていないのが個人的には気に入らない。
 なぜならぼくは不動産を購入したことがない(そして購入したいという気もあまりない)から。
 ぼくにとって不動産屋といえばもっぱら賃貸のほうなんだよな。


 テーマはおもしろいんだけど、小説としておもしろいかというと、うーん……。

 決してつまらなかったわけじゃないんだけどね。ミステリとしての粗もないし。

 最大の問題は、意外性がないこと。
「宅地建物取引業法にはこんな意外な抜け穴があったのか!」
「この間取りを使ってこんな大胆な犯行ができるのか!」
みたいな驚きがないんだよね。
 まあそれをやると、それこそ××館の殺人になってしまうんだろうけど。


 あと個人的には探偵役が魅力的じゃなかった。
「物件の声が聞こえる」女性が探偵役なんだけど、好きじゃない。探偵役に超常的な能力を持たせちゃうと、ミステリとしての説得力がなくなるんだよな。
 超能力使って犯罪を見破ったら、それもうミステリじゃなくてSFだもん。
 西澤保彦作品みたいに、SF+ミステリがメインテーマであるならいいんだけどさ。

 乾くるみ作品は『リピート』や『セブン』がパズル的なおもしろさにあふれていたから期待したんだけど、これはそこまでじゃなかったな。


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2021年9月3日金曜日

ワクチン日記

 新型コロナウイルスワクチン。

 二ヶ月ぐらい前に接種券は届いていたものの「どうせまだ予約できないだろ」と悠長にかまえていたら、気づけば周囲に接種済みの人が増えている。えっ、もうふつうに予約できるんだ。

 で、はじめてちゃんとワクチン接種について調べる。
 市がやってるやつと府がやってるやつと国がやってるやつがある。で、それぞれ予約サイトが異なる。めんどくせえ。一本化して適当に割り振ってくれ。

 何度か予約を試みるも、いつ見ても満席。
 こうなるとちょっと不安になってくる。みんなが予約できてるのにぼくだけできていないような気がする。しかも明日にも感染するような気になってくる。一日でも早く接種したい! という気になってくるからふしぎだ。
 なんともおもっていなかった女友だちが、彼氏ができたと聞いたとたんになんだか急にいい女に見えてくるような感覚。

 そんなこんなで何度も挑戦していたらぽっかり予約が空いている日があった。9月3日。やった、金曜日だ。これなら発熱しても翌日ゆっくり休める。しかも月末は仕事の休みをとりやすい。好都合だ。
 よしっ、予約!
 はあよかった。

 胸をなでおろして予約票を見ていると、「2回目の接種は4週間後の同じ曜日となります」とある。
 9月3日のちょうど4週間後というと……げっ、10月1日。月初じゃねえか。業務が多くて月の中でいちばん休みをとりづらい日。
 あわてて別の日を探す。空いている日があったので予定変更。そっか、2回目の接種のことも考えてスケジュール組まなきゃならんのか。


 ということで市の集団接種会場へ。

 会場はインテックス大阪。大阪の咲州ってとこ。
 ほとんど行ったことなかったけど、この世の終わりみたいなところだね。

Google ストリートビューより
Googleストリートビューより

 真ん中に見えるでかい建物が大阪府咲洲庁舎(旧称大阪ワールドトレードセンタービルディング)。この、なんもない荒地にそびえたつ55階建ての建造物。
「周囲が発展することを想定して建てたのに見事大失敗」だということが素人目にもわかる。

 五輪招致失敗だとかバブル崩壊による目論見外れとか運営団体の経営破綻とか、要するに大阪の悪いところの縮図のような建物だ。
 ちなみに地盤がやわらかい(海に近い)ところにばか高いビルを建てたせいで地震でめちゃめちゃ揺れるそうだ。

 咲洲庁舎だけでなくこのへん一帯がアンバランス。でっかい建物がいっぱいあるのに静まりかえっている。道にぜんぜん人がいない。飲食店もコンビニもまったくない。
 市民のニーズを完全に無視してつくられた結果見捨てられた街、という感じだ。


 まあ咲州の開発失敗はさておき、インテックス大阪へ。

 入口で消毒、検温。受付で問診表などを提出。
 予約票はちらっと見られただけ。ちゃんとチェックしていない。ぼくは予約の時間帯より十五分ほど早く会場に着いてしまったのだけど、何も言われなかった。
 まあ厳密に入場制限するより、どうせみんないつかは打つんだから時間がずれててもどんどんさばいちゃったほうがいいということなんだろうな。いい判断だ。

 これなら予約なしで行っても接種してもらえそうだなーとおもう(実行しても私は責任はとりません)。
 受付横にウォーターサーバーがあってご自由にお飲みくださいと書いてあるが、受付はあわただしいので誰も飲んでいない。まあマスク外すのもあれだし。

 会場のスタッフは妙に慣れている。
 イベント運営会社のスタッフが担当しているとどこかで聞いた。コロナでいろんなイベントがなくなっているからええこっちゃ。
 だがウレタンマスクをしているスタッフもいる。ウレタンマスクは効果薄いってあれだけ言われてるのに、ワクチン接種会場のスタッフのウレタンマスクを許しちゃうんだ。
 会場内は涼しいんだし、せめてスタッフに対しては不織布マスク義務付けてほしいなあ。

 ぼくに接種してくれたのはやたら陽気な歯科医。
「どう? 緊張してる? はっはっはー!」
って感じ。
 性分なのかわざと明るくふるまってるのかわからないけど、こういうところで明るくしてくれるのはいいことだ。病院とかだとあんまり朗らかにできないけどね。

 無事に接種終了。ぜんぜん痛くない。
 経過観察のため15分待てと言われ待機。ウォーターサーバーはない。ここに置いてくれよ!

 

 帰宅してふつうに過ごしているうちにどんどん注射されたほうの腕がしびれてきた。
 すぐ反応が出るんじゃなくてじわじわくるのかー。
 翌朝になるとさらにしびれている。腕を上げるのがつらい。甲子園で150球投げた次の日みたいだ。投げたことないけど。

 だが二歳児は平気で「だっこー」とか「おんぶしてー。そのまま手を洗う―」とか甘えてくる。
 いつもはおかあさんに甘えることが多いくせにこんなときにかぎって「おとうさんがいい!」と駄々をこねる。ええい。かわいこまったやつめ。



2021年9月1日水曜日

【読書感想文】小田嶋 隆『友だちリクエストの返事が来ない午後』

友だちリクエストの返事が来ない午後

小田嶋 隆

内容(e-honより)
人と人とがたやすくつながってしまう時代、はたして友だちとは何だろうか?永遠のテーマを名コラムニストが徹底的に考え抜きました!

 携帯電話やSNSにより、いつでも手軽につながれるようになった時代の〝友だち〟について考察した本。

 昔は、今ほど友だちの価値が重くなかったと小田嶋さんは書く(小田嶋さんの主観だけどね)。

 私が学生だった時代は「ぼっち」が基本であり、単独行動者であることがキャンパスを歩く大学生のデフォルト設定だった。私自身、昼飯はほぼ一人で食べていた。時間割によっては、一日中誰とも口をきかないままで帰って来る日もあった。それもそのはず、われわれの時代には、携帯電話が無かった。だから、特定のたまり場を持っていない学生は、キャンパス内で偶然知り合いに出くわさない限りは、「ぼっち」を余儀なくされた。(中略)
 とはいえ、誰もが多かれ少なかれ「ぼっち」であった私たちの時代の「ぼっち」は、現代のキャンパスを歩く「ぼっち」ほど孤立的ではなかった。
 わかりにくいいい方だったかもしれない。具体的な言葉でいい直す。つまり、誰もがつながれないでいた時代の「ぼっち」と違って、全員が携帯電話やラインを通じて常時ゆるやかにつながっていることが前提となっている現在の状況での「ぼっち」は、状況として「誰からも電話がかかってこない」本格的な村八分状況を意味しているわけで、だからこそ、「ぼっち」であることは、単なる暫定的な単独行状況ではなく、全面的な孤立ないしは村八分の恥辱として受けとめられているわけなのだ。
 私は、本書を「ぼっち」の人間の立場で書こうと思っている。


 ぼくは「大学生が携帯電話を持つようになった最初の世代」だ。ぼくの中学生時代は、大人も含めて携帯電話を持っている人はほとんどいなかった。高校一年生のとき、ポケベルを持っている生徒は半数よりやや少ないぐらい、PHS(携帯電話の簡易版みたいなやつ)を持っている生徒はクラスにひとりいたかどうか。
 だが高校一年生のときは「携帯電話を持っているのはクラスにひとりいるかどうか」だったのが、大学一年生では逆に「携帯電話を持っていないのはクラスにひとりいるかどうか」に変わっていた。その三年間で急速に社会が「携帯電話を持つ世の中」へと移行したのだ。


 そういう時代を生きてきたので「携帯電話のなかった時代」も知っているわけだが、小田嶋氏のこの文章には賛同できない。

 携帯電話によるコミュニケーションが一般的でなかった時代(つまりぼくの中高生時代)でも、やはり単独行よりも複数人で行動してるやつのほうが〝上〟という雰囲気はあった。
 まあそれは当人のキャラクターによるところも大きく、たとえばユーモアセンスがあったり運動神経がよかったりして周囲から一目置かれているようなやつの「ぼっち」は〝孤高〟という感じがして、何をやっても人より劣るやつの「ぼっち」は見下されていたわけだけど。
 それでも始終ひとりでいるよりも友だちに囲まれてるほうがいいよね、という感覚はほとんどの人が共通して持っていた。そこは古今東西いっしょだとおもう。


 だから携帯電話やSNSの普及と「ぼっち」の扱いの変化はあまり関係ないんじゃないか、というのがぼくの意見だ。

 むしろ今のほうが「ぼっち」が〝全面的な孤立ないしは村八分の恥辱〟と受け取られにくくなったんじゃないかな。
 だって今はキャンパスでひとりで歩いてる人が、数万人のチャンネル登録数を抱えるYouTuberだったり、世界中の人から注目されるインフルエンサーだったりする可能性があるわけでしょ。
「あいつはひとりで行動してるからさみしいやつだな」ってのはむしろ古い時代の価値観なんじゃないだろうか。まあ今の若い人の価値観なんて知らんけど。




 友だちとはガキのものだと小田嶋氏は喝破する。

 飯干晃一の言う「男の理念型」という言葉もほとんど同じ内容を指している。すなわち、「力」を崇拝し、「徒党」を好み、「身内」と「敵」を過剰に峻別し、「縄張り」に敏感な「ガキ」の「仲間意識」から一生涯外に出ない人間たちを、飯干は「男」および「ヤクザ」と呼んだわけで、別の言葉で言えば、男であることと、子どもであることと、ヤクザであることは、三位一体の鼎足を為す形で、完全に一致している。
 それゆえ、われわれは、子どもっぽく振る舞うか、悪ぶるかしないと「友情の芝居」を貫徹することができない。自然な、ありのままの大人の男であることと、誰かの友だちであることを両立させるのは、やってみるとわかるがひどくむずかしいものなのだ。なんと皮肉ななりゆきではないか。

 なるほど。言われてみれば、「男の友情」と「大人の付き合い」とは相反するものだ。
 ぼくも古くからの友人と話すことがあるが、話すことといえばウンコチンチンみたいな低レベルの話だ。仕事の悩みとか親の介護の話だとかを旧友に話す気にはならない。それは、中年になった今でも友人との関係が「ガキの仲間」であるからだ。

 そして「ワル」と「ガキ」が非常に近い存在であることも、まったくもってその通りだ。
 なわばりを張るとか、力で脅すとか、実利よりも面子を重視するとか、任侠の世界とガキの世界はよく似ている。
 そういや小学生のときは「この公園はうちの学校の校区なのに○○小のやつらが来てるぞ」みたいなことを気にしてたなあ。そうか、ヤクザのやっていることってあれの延長だったのか。


 仕事で知り合った人や娘の友人のお父さんと仲良くすることもある。酒を飲んだり、(子どもを含めてだけど)いっしょに遊んだりもする。
 でもその人たちのことを「友だち」とは呼べない。「親しい人」だ。なぜなら大人の付き合いだから。個人的には「忌憚なく悪口を言い合える関係」こそが友だちなのだが、仕事や子どもを媒介にして知り合った人とはそれはできない。親しくなることはできても友だちにはなれない。




 小田嶋氏は元アルコール依存症患者である。このままだと確実に死ぬと宣告されて完全に足を洗ったそうだが。

 酒をやめたのを機に、飲み友だちとの縁も完全に切れたのだという。

 ある年齢に達した男たちが、アルコール依存というわけでもないのに、どうしても酒場に通わずにおれないのは、たぶん、友だちがいないからだ。
「友だちだから飲むんじゃないのか?」
 違う。酒なら誰とだって飲める。たとえば、犬が相手でも、酒ならなんとか飲める。かなり嫌いな奴でも、酒を飲みながらだったら話ができる。ところがブツがコーヒーになるとそうはいかない。話の噛み合わない奴が相手だと、3分ともたない。
 というわけで、結論。
 コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ。
 ワイングラスの向こう側で笑っているあいつは友だちではない。
 たぶん、生前葬の列席者みたいなものだ。

 そうか。仲がいいから飲むのではなく、仲がよくないから飲むのか。
 そうだよな。大学の飲み会にしても職場の飲み会にしても、そこまで気心の知れない相手とめちゃくちゃ盛りあがることはある。それは酒があるから。
 酒は人間関係の潤滑油とはよくいったもので、潤滑油がないとギスギスする関係だからこそ潤滑油がいるのだ。元々スムーズにまわるのであれば潤滑油はいらない。

 ぼくはいっときは毎週のように誰かと酒を飲んでいたが、今ではほとんど飲まない。月に一度ぐらいになり、コロナ以後は三ヶ月に一度になった。
 なぜなら「無理して付きあわないといけない関係」をどんどん断ち切ってきたから。コロナのおかげもあるけど。
 家族とか旧い友人とかと話すときは酒はいらない。無理してテンションを上げる必要がないからだ。

 コロナ禍によって飲酒量が減った人は多いとおもう。
 それは単に感染拡大の場である飲み会が減ったからだけではなく、「緊張を強いられる相手と長時間過ごす場」が減ったからだろう。

 小田嶋さんは「コーヒーで3時間話せる相手を友だちと呼ぶ」と書いているが、ぼくの定義では「同じ空間にいて5分沈黙が続いても平気な相手を友だちと呼ぶ」だ。


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