2021年3月24日水曜日

【読書感想文】人生に必要な何もしない期間 / 工藤 啓 西田 亮介『無業社会』

無業社会

働くことができない若者たちの未来

工藤 啓  西田 亮介

内容(e-honより)
15~39歳で、学校に通わず、仕事もしていない「若年無業者」2333人のデータから見える本当の姿とは。現場を知るNPO代表と気鋭の社会学者によるミクロとマクロ双方の現状認識と衝撃の未来予測、いま打つべき方策を解き明かす!


 データとインタビューを通して、仕事に就いていない若者(といっても30代まで含む)の状況についてまとめた本。2014年刊行なので少し内容が古いが。



 ぼく自身、かつては無業の若者だった。新卒で就職した会社をすぐに辞めた。
 一応表向きの理由は「体調不良」ということにしていた(実際、微熱が続いた)が、じっさいは「働きたくなかった」が最大の理由だった。

 学生時代、愚かにも「なにかしらの分野でぼくの才能が世に認められて若くしてクリエイティブな仕事につく」とおもっていたので(もちろん何の行動も起こさないまま)、就活自体がすごくイヤだった。
 けれど大学院進学をする気はなかったので就活をしないわけにもいかない。親の金で四年生大学を出て「フリーターでもやるわ」というわけにもいかず、嫌々就活をした。そんな態度が透けて見えたのだろう、コミュニケーションが得意でなかったこともあり、受けた会社はことごとく不採用だった(というよりえり好みをしてそもそもあまりエントリーしなかった)。
 自慢じゃないが、いや自慢だが、かなりの高学歴なのにことごとく落とされたのだから(実際書類では落とされたことはほぼなかった)よっぽど面接がひどかったのだろう。

「才能あふれる自分」という自己イメージと、「就活市場でまったく評価されない自分」のギャップに苦しみ、最初に内定をもらった会社にとびついた。今おもうとその会社に行きたかったわけではなく、就活を終わらせたかっただけだった。

 そんなわけで、入社した会社でうまくいくわけもなく。おまけにその会社はかなりのブラック企業で、日付が変わるまでの残業があたりまえ、給与も事前に聞いていた条件とちがい、社長はパワハラ体質。なにもかもがいやになって、体調が悪くなったのを「いい口実ができた」とばかりに退職した。


 それから一年ばかりは実家で何もせずに過ごした。ほんとに何もしなかった。
 月一ぐらいで通院はしていたが、それほど体調が悪いわけでもなかったので、同じく無職の友人とサッカーをしたり、プールで泳いだり、朝からマラソンをしたり、体調不良を理由に無職になったくせにやたら健康的な日々を送っていた。

 はじめは「体調不良!? 大丈夫? ゆっくり休んで治しなさい」と心配していた両親も、息子が頻繁に遊びに行っているのを見て、「もう働けるでしょ」とプレッシャーをかけてくる。
 仕方なく書店でバイトをはじめ、一年ぐらいして「正社員にならないか」と声をかけられた。「まあだめだったらまたフリーターか無職に戻ればいいや」と正社員になり、それから二回転職はしたが十数年間なんとか正社員として働いている。運よく無職を脱出したわけだ。
 ほんとうに運がよかった。あのときバイトをしていなかったら、あのとき正社員採用の声をかけてもらえなかったら、今も無職(またはフリーター)だったかもしれない。自分の意思というより、なりゆきで無職を脱出しただけだ。


 今にしておもうと「就職なんてもっと気軽に考えればいいのに」とか「だめだったらすぐ転職すればいい。さほどブラックじゃない会社なんていくらでもある」とか「会社との相性なんて入ってみないとわからないんだから、すぐ辞めたっていい」とか「『新卒で少なくとも三年は続けないと次がない』とかあれ完全にウソだから」とかわかるんだけど、当時は就職って一世一代の大勝負だったんだよなあ。まだ終身雇用制というフィクションがぎりぎり信じられていた時代だったし。

 無職だった期間はたしかに何も生まなかったけど、あれはたしかにぼくにとっては必要な期間だった。あのときのぼくは、どの会社に入社していたとしても、きっとすぐに辞めていただろう。
 そこそこ経済的に恵まれた実家を持ち、自分の能力を過信していたぼくが働けるようになるには、「無職のつらさ」を一定期間味わう必要があったのだ



 若い人が無職でいることは、損だ。
 当人や家族にとってはもちろん、国全体にとっても。
 ずっと仕事をせずに将来生活保護を受けるのと、働いて毎年税金を納めてくれるのでは、国家の財政にとって、ひとりにつき数億円の違いがある。
 ということは、無職でいる若者を職場復帰させるためなら一人につき一億円かけても(長期的には)損じゃないということだ。どんどん税金を使って救済したほうがいい。

「働け。やる気になればなんでもできる。選ばなければ仕事なんていくらでもある」と口を出して金を出さないのは馬鹿のやることだ。言う側がすっきりするだけだ。
 「無職期間の長い人を○年以上雇用した会社には五百万円の助成金をあげます」とかやったほうがいい。安いもんだ。(そうすると助成金欲しさのブラック企業が数年雇ってその後はひどい扱いをして切り捨てたりするだろうからそんな単純な話ではないだろうが)

 ところが、政府の就業支援は貧弱だ。まるで目先の収支しか考えていないかのように。
 就業支援は、「個人の責任」「家族の支援」に依存している部分が大きい。自助、共助が好きで公助が嫌いなこの国らしい。

 日本は、家族を最小単位として捉え、個人の状況は個人のものとしてみることが少ない。欧州の支援者に聞くと、若者が困窮している状況にあれば、親がどれほど経済的に恵まれていても、若者は必要な支援を受けることができるという。家庭の所得や親子間の関係性に左右されない支援の枠組みが整っている。
 彼の事例を見る限りにおいて、私たち個人がどのような状態になっても最低限の住環境が保証されるセーフティネットが張られていないことそのものが社会的なリスクではないだろうか。

 最近も生活保護受給にあたり、親戚の経済状況を確認するかどうかが話題になっていたが、大人の生活を考えるのに「実家にお金があるか」なんてまったく考える必要がないよね。みんながみんな実家に頼れるわけじゃないし。

 働けない若者を支援するのは、国のためにもなるんだからどんどん支援したらいい。


 この本の筆者の一人でもある、NPO法人育て上げネットの理事長、工藤啓は、「日本の公的機関には、青年や若者を専門に担当する部署がなかった」と指摘してきた。
 社会経済的状況の変化のなかで、半ば場当たり的に、支援対象を拡充してきたものの、日本の場合、長く日本型経営のような珍しい大量採用の習慣に支えられたこともあって、若年世代は失業率も低く、主要な弱者として認識しにくい存在であった。
 そのため、顕著な支援対象として認知されておらず、支援に特化した担当課も存在しなかったのだ。
 若年無業に関する言説が顕著に増加したのは、2000年代以後のことである。非正規雇用の増加や「ひきこもり」や「ニート」という言葉をメディアで目にする機会も増えていった。また経済状況の低迷の煽りを受けて、若年世代の失業率や非正規雇用率もじわりと上昇するようになった。2010年代に入って、若年世代の非正規雇用率は3割を超えるようになっている。

 さすがに昔ほどではないが、やっぱり今でも「働かないのは甘え。仕事なんて選ばなければいくらでもある」論が幅を利かせてるもんね。そりゃあ「命や精神を削る仕事でも、ギリギリ食っていけるぐらいの収入しかない仕事でもいいから働きたい」ってんなら仕事はあるけどさ。それって「その気になれば土でも石でも食える」ってのと同じぐらいの暴論だよね。
 いい暮らしをするために働くのに、働くためにいい暮らしを捨ててどうすんだよ。


 ぼくは無職として過ごした時間があったおかげで、今はそれなりに働いて子育てもして、人並みに暮らしている。無職だった時間はぼくにとって必要な時間だった。

 赤ちゃんの時期は何も生みださないし周囲の手も煩わせるけど、赤ちゃんの時期をすっとばしていきなり大人になれるわけじゃない。大きくなるために必要な期間だ。
 同じように、ある人たちにとっては「何もしない期間」も人生において必ず必要な期間だという認識が広まってくれればいいな。

 運よく何もしない期間を経ずに社会人になれた人にはなかなか理解されないんだけど。


【関連記事】

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

【読書感想文】人々を救う選択肢 / 石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』



 その他の読書感想文はこちら


2021年3月22日月曜日

【読書感想文】女王の分身の術 / 松浦 健二『シロアリ ~女王様、その手がありましたか!~』

シロアリ

女王様、その手がありましたか!

松浦 健二

内容(e-honより)
ここにはもうひとつの世界がある―ベニヤ板の下のシロアリワールドに魅入られた少年は、長じてその謎に挑む。同性カップルで子づくり?水中で1週間!?次々と明らかになる仰天の生態。そして体力と知力を尽くして突き止めた、したたかな女王の「奥の手」とは…。“かわいすぎる”イラストとともに送る、ため息の出るような自然の驚異。


 アリはおもしろい。
 ぼくは子どものときアリを飼っていた。学研の『科学』の付録のアリの巣観察キットで。

こんなやつ

 アリはどれだけ見ても飽きない。
 知れば知るほど驚きに満ちている。『クレイジージャーニー』のアリマスター・島田拓氏の回も、『香川照之の昆虫すごいぜ!』のアリ回もおもしろかった。

 農業もするし、畜産もする。分業もすれば同種内で助け合い、さらには他の生物とも助け合う。こんなに社会性の高い動物は、ヒトを除けばアリ(次いでハチ)ぐらいのものだ。

 で、アリの本を探していたがちょうどいいのがなく、『シロアリ』という本が見つかったので買ってみた。
 そして知った。シロアリはアリとはまったく別の昆虫だということを……。

 アリはハチに近いが、シロアリはアリよりもゴキブリに近い生き物なんだそうだ。名前に「アリ」とはついているが、アリとはぜんぜん関係ないんだそうだ。知らなかった……。どっちも群れて暮らしているから、土に巣をつくるのががアリで木に巣をつくるのがシロアリかとおもっていたよ……。



 シロアリの生態はこの本を読むまでほとんど知らなかった。「家の木材を食ってしまう害虫」という認識しかなかった。たぶんみんなそうだろう。

 だがこの本を読むと、シロアリはアリに負けず劣らずすごい生き物だ。じつに高度な社会を築いている。

 たとえば。
 繁殖期になるとオスとメスのカップルができるわけだが、オス同士、メス同士のペアもできあがるらしい。

 べつに同性愛傾向があるわけではなく(中にはそういうのもいるのかもしれないが)、二匹で並んでいると敵に捕食されにくいためらしい。

なんと、メス同士のタンデムができると、あたかも異性のカップルができあがったかのように、直ちに朽ち木に潜り込み、共同で巣づくりを始めたのだ。さらに、単独のメスはオスを求めて歩き続けるが、どうしてもオスが見つからない場合は、一匹で巣づくりを開始した。そして、全く予期していなかったことだが、オスの存在しない二匹のメスのペア(以下では「二雌ペア」とよぶ)やメス一匹だけ(以下「単独雌」)の巣でも卵が産まれ、その卵から正常に幼虫が孵化して発育したのだ。

 さらに驚くことに、メス同士のペアでも卵を産み、ちゃんとその卵から幼虫が孵化するというのだ。事前にオスと出会って受精していたわけでもない。いったいなぜ?

 その答えはこの本を読んでいただくとして、メス同士でも産卵・繁殖ができる理由を読むと「なんとよくできたシステムか」と感心する。
 いろんなケースに備えて、生き残り、子孫を残すための戦略をたくさん持っている。



 アリやハチは女王がいてオスの王はいないが、シロアリは王と女王がいる。
 オスの王は長く生き、オス王が死ぬとコロニーは死滅する。アリやハチの巣の寿命=女王の寿命なのと対象的だ。

 一方、シロアリの女王は王よりも早く死に、女王が死ぬと別のシロアリが女王(二次女王)になる。二次女王は通常数十匹、多いコロニーだと数百匹の二次女王が存在するそうだ。

 一匹の王に対して数百匹の女王! すごいハーレムだ! ……とおもいきや、そういうわけでもないらしい。

 遺伝子解析の結果が示したことは、私の予想の範囲をはるかに超えたものであった。二次女王たちは創設王の遺伝子を全くもっていなかった、つまり創設王の娘ではなかった。何と彼女らは、創設女王が単為生殖で産んだ娘たち、すなわち創設女王の分身だったのだ! 先ほど、ヤマトシロアリは自然界で最大のハーレムを形成すると説明したが、王様を取り巻く大勢の美女たちは、遺伝的にはただ一匹の妻と同じだったのだ。ハーレムと聞くと、男にとっては何だかパラダイスのような響きがあるのだが、こちらはどうも悪夢のようだ。夫婦げんかをしても、妻の分身が六〇〇人もいたのでは、勝てる気がしない。正直、一人でも難しいが。

 初代の女王(創設女王)は、単為生殖(交尾をせずに産卵する)によって女王を殖やせる。二次女王は創設女王のクローン……ではなく、分身のような存在だ。創設女王と遺伝子が半分一緒なので。
 わかりやすく説明すると、『ドラゴンボール』の天津飯が四身の拳によって四人になったけど戦闘力も四分の一になったようなものだ。うん、余計わかりにくいな。

 ちなみに二次女王は、産卵のペースが落ちるとワーカー(働きシロアリ)に食べられて、子どもたちの栄養になるそうだ。
 だが自身のコピーを作成して、常に若い状態で卵をどんどん産むので、食べられても生き残っていると言えるかもしれない。ピッコロ大魔王が死ぬ間際に卵を産んだのと同じだ。なんでもドラゴンボールで例えるな。


 シロアリの遺伝子を残すための戦略はほんとに優れている。
「種を残す」という生き物最大の目的からすると、人間なんかよりシロアリのほうがよっぽど高等な生物だ。まちがいなく、人類が絶滅した後もシロアリは生き残るだろうな。


【関連記事】

読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』

【読書感想文】人間は協力する生き物である / 市橋 伯一『協力と裏切りの生命進化史』



 その他の読書感想文はこちら


2021年3月19日金曜日

【読書感想文】あなたの動きは私の動き / マルコ・イアコボーニ『ミラーニューロンの発見』

ミラーニューロンの発見

「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学

マルコ・イアコボーニ(著)  塩原 通緒(訳)

内容(e-honより)
「生物学におけるDNAの発見に匹敵する」と称されるミラーニューロンは、サルで発見された、他者の行動を見たときにも自分が行動しているかのような反応を示す脳神経細胞。この細胞はヒトにおいて、他者が感じることへの共感能力や自己意識形成といった、じつに重要な側面を制御しているという。ミラーニューロン研究の第一人者自らが、驚くべき脳撮像実験などの詳細を紹介しつつ、その意義を解説する。


 ミラーニューロンを知っているだろうか。ものまね細胞とも呼ばれ、他人の行動を観察しているときに、まるで自分がその行動をとっているかのように活性化する脳細胞だ。

 ごはんを食べるとき、脳の中の食事に関する部位が活発に働く。これは当然だ。
 だが、テレビの出演者がごはんを食べるシーンを見ているときにも、脳の中では同じ部位が活発に働く。自分は食べていないのに。

 同様に、殴られた人を見たときは痛みを感じ、重いものを抱えている人を見たときは筋肉が緊張する。

 観察を通して、我々は他人の行動を追体験しているのだ(ちなみに見るだけでなく、聴くことによっても同様のことが起こる)。
 これはヒトだけでなく、高等なサルなど一部の動物でも起こる。
 この追体験を引き起こしているのがミラーニューロンであり、ミラーニューロンによって我々は学習をしたり他人の感情を想像したりできるのだ。

人が精密把持でカップをつかむのを見れば、私の精密把持ミラーニューロンは発火する。これまでのところ、私は把持行動をシミュレートしているだけだ。しかし、その背景が飲むことを想起させるなら、ほかのミラーニューロンの発火もそのあとに続く。それらが私の「論理的に関係する」ミラーニューロンで、この場合ではカップを口元に運ぶ行動をコードするミラーニューロンである。この一連のミラーニューロンを活性化させることにより、私の脳は他人の意図をシミュレートすることができるのである。ガレーゼの言葉を借りるなら、「他人がもう一人の自分になるようなもの」だ。あるいはメルロ=ポンティの言葉を借りるなら、「他人の意図が私の身体に住みつき、私の意図が他人の身体に住みつくようなもの」である。ミラーニューロンの助けによって、私たちは他人の意図を自分の脳内で再現できる。そして他人の心理状態を深いところまで理解できるのである。

 我々は、他人の気持ちをある程度理解できる。「今怒ってるな」とか「機嫌いいな」とか。それは、ミラーニューロンによって他人の行動を追体験しているからだ。

 



「誰かと会話をする」
「誰かに向かって話をする。相手はじっと聞いていて、自分だけが話す」
というふたつのシチュエーションを考えてみる。
 どっちがやりづらいかと訊かれると、多くの人は後者のほうだと答える。「対話」よりも「スピーチ」のほうがしんどいのだ。

 でもよく考えてみれば、一人語りのほうが負担は小さいようにおもえる。
 一人語りならどういう構成で話すか事前に計画が立てられるが、対話だとどういう方向に話が転がっていくか予測しづらい。また話のペースも、一人で語るときのほうがコントロールしやすいはずだ。

少なくともあと二つの大きな要因から、一人語りは容易だと言える。第一の要因は、発言の様式に関係している。たいてい一人語りをする場合は構造の整った完全な文章になるけれども、会話の発言はほぼ例外なく断片的で、足りない情報を聞き手が推測して補わなくてはならない。そして第二に、会話においては話し手と聞き手の役割交換が矢継ぎ早に行なわれる。これはきわめて負担の大きい認知作業である。

 ロボットなら、「一方的に話す」ほうが圧倒的にかんたんだ。対話は高度な技術を要する。

 にもかかわらず、人間は一方的なスピーチよりも対話のほうを得意とする。
 それもまたミラーニューロンによって、相手の「話す」動作を自分でも経験しているからだ。
 相手が行動を起こさなければ相手の感情が読めず、不安になるのだ。




 ミラーニューロンが行動を助けているというより、我々はミラーニューロンによって動かされている。

じつのところは擬態が先で、それが認識を補助するという考えである。その仕組みは、こんなふうではないかと推察できる。まず、ミラーニューロンが当人に考えさせる間もなく自動的に他人の表情のシミュレーション(本書でときどき使っている言葉で言うなら「脳内模倣」)を行なわせる。このシミュレーションの過程には、擬態される表情の意図的かつ明白な認識は必要とされない。これと同時に、ミラーニューロンは大脳辺縁系に位置する感情中枢に信号を送る。このミラーニューロンからの信号によって誘発された大脳辺縁系の神経活動が、観察された表情と関わりのある感情を私たちに感じさせる。微笑んだ表情なら喜びを、眉をひそめた表情なら悲しみを、といった具合である。これらの感情を自分の内側で覚えたあとで、初めて私たちはそれを明白に認識できる。歯のあいだに鉛筆をくわえることを求められた被験者は、この鉛筆をくわえるという行動に必要とされる運動活動によって、観察した顔を擬態するはずのミラーニューロンの運動活動を妨げられる。したがって、その後に起こるはずだった感情の明白な認識へとつながる神経活性化のカスケードも、途絶えさせられてしまうのである。

 笑っている人を見ると楽しくなる。つられて笑顔になってしまう。

 我々は「笑顔を見ると自分も楽しくなる。だから笑顔になる」と理解する。だがじっさいには順番が逆で、「笑顔を見ると自分も笑顔になる。だから楽しくなる」なのだ。模倣が先で感情は後からついてくるのだ。

 だから「鉛筆を歯でくわえる」ことによって表情の模倣が封じられてしまうと、相手の感情が読めなくなる。

 自閉症の治療もミラーニューロンがカギを握っているという。
 自閉症はミラーニューロンの機能が他の子よりも低い。「他者の真似をする」能力が低いのだ。そこで、セラピストが自閉症児の行動を模倣したり、逆に模倣させたりすると、自閉症の子は他者との関わり方を身につけるようになるのだそうだ。


 ぼくには七歳と二歳の娘がいるが、彼女たちを見ると「人間って真似によって成長するんだな」と気づかされる。

 二歳児の言語能力の発達はすさまじい。毎日新しい言葉をおぼえる。昨日は使わなかった言葉を使うようになっている。
 だが、言葉の意味を理解して使っていない。周囲の人が話す言葉を真似しているだけだ。真似して意味もわからず使っているうちに、
「この言葉はこの状況にふさわしい」
「ここでこれを言ってもおもうような反応が得られなかった」
という経験を通して、言葉の意味を理解してゆくのだ。たぶん。

 七歳の娘もそうだ。自転車に乗れるようになったのも、さかあがりができるようになったのも、一輪車に乗れるようになったのも、きっかけは真似だ。他の子がやっているのを見て、真似をして、乗れるようになった。
 自転車に乗っている人を一度も見たことがない子は、どれだけ「これにまたがって足でここをまわすように動かせば速く走れるよ」と言ってもきっと乗れるようにはならないだろう(というか乗ろうとすらしないだろう)。

 模倣がなければ成長はない。



 共感や学習に役立つミラーニューロンだが、いいことばかりでもない。負の面もある。

 たとえばアルコール依存症の人が、他人が飲酒しているのを見るとミラーニューロンによって自分も飲んだような気持ちになり、かんたんにまたアルコールに手を出してしまう。

 研究室の設定状況の中で子供を使って行なわれる、調整された実験の結果ほど明白で決定的なものはないだろう。そして実際に、メディア暴力への頻繁な接触は模倣暴力に強い影響を及ぼしていた。一般に、この種の実験は子供に短い映像を見せるかたちで行なわれる。暴力的な映像と、そうでない映像を見せるのである。その後、子供が別の子供といっしょに遊んでいるところや、倒しても自動的に起き上がる空気で膨らませた等身大の「ボボ人形」などを相手にしているところを観察する。すると、これらの実験でたいてい観察される一貫した点が見つかる。暴力的な短篇映像を見た子供は、暴力的でない映像を見た子供に比べ、その後に攻撃的な行動を人間に対しても物体に対しても見せることが多くなるのである。このメディア上の暴力による模倣暴力への影響は、未就学児にも思春期の子供にも、男児にも女児にも、生来の性質が攻撃的な子供にもそうでない子供にも、そして人種にも関わりなく、一貫して観察されている。この結果はかなり説得力のあるものだ。

 暴力映像に触れる機会が多い子ほど、暴力的な行動をとった(しかもその傾向は継続した)。

 これはあくまで実験室での結果であって、「だから暴力的な映像やゲームが暴力を助長する」とは断言できない。だが「相関がある可能性はすごく高い」とは言える。

 暴力的なゲームをしても暴力をふるわない子もいるし、ゲームに関係なく暴力を振るう子もいる。「元々暴力的な子が暴力映像を好む」という逆相関もあるだろう。
 しかし、全体的な傾向としてはやはり暴力映像が暴力行動につながりやすいといえそうだ。

 でも、規制にはつながりにくいんだよね。
「暴力的な映像やゲーム」は多くの人が求めているから一部の人にとって金になるが、暴力反対は(直接的には)金にならないから。社会全体として見れば暴力が減れば大きなコストカットになるんだけど。
 暴力映像によって金儲けをしてる人は、「どうやら暴力を促す傾向があるみたい」では納得してくれないから。

 でもある程度は規制したほうがいいんだろうな。
 表現の自由もあるから「暴力映像を全面禁止しろ!」とは言わない。ぼくはどちらかといえば規制反対派だ。刺激的な映像を観たいときもあるし。暴力表現を伴うニュースを報じないことがいいともおもわない。

 だけど「暴力映像は暴力を誘発しやすい」という認識は常に持っておく必要はあるよね。作り手も、受け手も。
 それを承知で作るのと、「それでも伝えなければならないことがある」という覚悟で作るのはぜんぜんちがうよ。


「暴力映像を観たからといって暴力的になるわけじゃない! 人間はそんなに単純じゃない!」
と言いたくなる気持ちはわかる。

 だが、残念なことに人間は単純なのだ。目にしたものを無意識に真似してしまうのだ。無意識だから止めるのがすごく難しい。

「気の持ちよう」「意志あるところに道は通ず」なんていうけど、人間の意思ってそんなに自由じゃないんだよね。環境や身体によって左右される部分が大きい。つまり、自分ではどうにもならない。


 このミラーニューロン、知れば知るほどおもしろい。

「意思はどこまで自由なのか」とか

「他者の行動を自分も(脳内で)体験しているのなら、自己と他者の間に境界線を引けるのだろうか」

とか、いろいろ考えてしまうね。


【関連記事】

【読書感想文】アヘン戦争時の中国みたいな日本 / 岡田 尊司『インターネット・ゲーム依存症』

【読書感想文】ネコが働かないのにはワケがある / 池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』



 その他の読書感想文はこちら


2021年3月18日木曜日

【読書感想文】監視国家になるのは中国だけじゃない / 梶谷 懐 高口 康太『幸福な監視国家・中国』

幸福な監視国家・中国

梶谷 懐  高口 康太

内容(e-honより)
習近平体制下で、政府・大企業が全人民の個人情報・行動記録を手中に収め、AI・アルゴリズムによって統治する「究極の独裁国家」への道をひた走っているかに見える中国。新疆ウイグル問題から香港デモまで、果たしていま、何が起きているのか!?気鋭の経済学者とジャーナリストが多角的に掘り下げる!

 中国で国家による監視体制が強化されているという話を聞いたことがあるだろう。

 いたるところに監視カメラが置かれ、借金の返済歴や税金の滞納歴などによって各人の信用スコアが計算され、信用スコアが高い人は様々な恩恵を受けられる一方、国家(=中国共産党)から目をつけられた人は不利益を被る。

 ぼくも以前、テレビで「信用スコア」の特集を見たことがある。多くの市民は「いい制度です」と褒める(本心か、それとも政府批判をおそれているのかはわからないが)一方、制度によって不利益を被っている人は悪しざまに批判していた。

 テレビを観ていたぼくは「とんでもないディストピアじゃん。まるでオーウェルの『一九八四年』だ」とおもった。今考えると、その番組自体がそう思わせるような作りになっていた。
「ほら、中国ってヤバいでしょ。党の監視と相互監視で息詰まる監視社会なんですよ。日本は自由でよかったよね」という構成だった。


『幸福な監視国家・中国』は、実際に現地入りして中国の監視システム・信用スコアシステムについて紹介している。
「ほら中国は人権無視のひどい国でしょ」というスタンスではなく、メリット・デメリットを併記して、冷静に制度の功罪を観察している。

 栄成市の信用スコアは基準点が1000点。違反を起こせば減点、よいことをすれば加点されます。1000点はB級という位置づけですが、違反によって信用スコアが下がるとC級に転落します。そうすると、暖房補助金や交通費補助金など各種の申請ができなくなるという制限がかかります。逆に高得点だと、融資が受けやすくなる、金利が下がるなどの特典があります。道徳的信用スコアが高い住民にこれまで累計で1億5000万元(約24億円)が融資されたそうです。また個人だけではなく、企業を対象とした信用スコアもあり、AAA級という最高評価を得た企業16社に2億2000万元(約35億円)が融資されました。
 こう聞くと息苦しいようにも思いますが、その一方で「市民のための」サービスが極めて充実しています。ビーチはシャワーやロッカーの利用料が無料。市内各所の駐車場も無料です。バスはすべてGPSで位置を特定されているため、バス停には次のバスが到着する正確な時間がスクリーンに表示されています。きわめつけは市民サービスセンターです。前述のとおり、中国では証明書取得のために走り回らなければならないのが庶民の恨みのタネですが、栄成市では市民サービスセンターにすべての部局の出先機関が集中しているため、すべての手続きが一回出向くだけで終わります。電子政府化による各部局間の連携も緊密です。
 しかも「栄成市の公務員はともかく態度がいいんです。悪い態度を取ったらすぐに市民に通報されて、公務員の信用履歴が傷つくことになるんです」とガイドは言います。つまり、栄成市は公共サービスが充実し、行政手続きも楽になった。その一方で息苦しさを覚えるような監視社会でもあるわけです。電子政府化の徹底により市民の利便性を向上させることと、どこか息苦しい監視社会であることは一体のものとして存在しています。

 もっとも栄成市の信用スコアは設計されたものの(少なくともこの本の執筆時点では)ほとんど運用されておらず、ほとんどの市民が1000点のまま増えも減りもしていないそうだけど。

 読んでいると、信用スコアも意外と悪くないんだなという気になる。

 ふだんは意識しないけど、社会には「他人が信用できないから支払わなければならないコスト」がたくさんある。

 各種セキュリティシステム、万引き防止ゲート、ローンや借入金の審査、契約書の作成、日報の作成……。
「盗まれないように」「ずるされないように」「逃げられないように」「騙されないように」「サボらないように」といった目的で、いろんなコストを負担している。それらの費用は仕事は全員で負担することになるため、「一部の悪いやつのためにみんながちょっとずつ損をする」システムになっている。
 悪いやつがいなければ警察も警備員もいらないし、書かなくてはならない書類もずっと少なくて済むし、生産性の低い(被害を減らすだけの)仕事も削れる。

 でも現実に世の中には悪いやつがいる。なぜ悪いことをするのかというと、悪いことをすることに比べて受ける罰がずっと小さい(と当人はおもっている)からだ。

 もしも「盗みをはたらいたら片腕を切り落とされる」だったら窃盗はずっと少なくなるだろう(ただし万引きがばれたら店員を殺してでも逃げる、になりかねないけど)。

 そこまで極端じゃなくても「駐車違反をしたらその記録が一生残って就職も結婚も不利になる」であれば、駐車違反はぐっと少なくなるに違いない。

 そして駐車違反が激減すれば駐車監視員も必要なくなるし、有料駐車場は儲かるし、事故は減るし、車は走りやすくなるし、(元々駐車違反をしない)善良な市民にとっていいことづくめだ。


 性善説に立てばいろんなコストを抑えられる。これはまちがいない。
 功利主義の「最大多数の最大幸福」という立場に立てば、(国家あるいは国民同士の)監視を強めていく方向に進む。中国だけでなく、欧米も日本も近い将来そういう方向に進んでいくだろうと著者は指摘する。それは国家が推進するというより、国民自身が「監視される」ことを選ぶだろう、と。市民にとっては得られる利益のほうが多いから。

 ぼくもそうおもう。
 人間は監視したいんだよね。よく田舎は相互に監視しあっていて全部隣近所に筒抜けになるというけど、それは人間が監視が好きだから。都会人だって、できることなら監視したい。近所に怪しい人が引っ越してきたとかの情報は入手したい。ただキャパシティ的にできないからこれまでやってこなかっただけで。

 ところがテクノロジーの発達によって、広範囲かつ多くの人を監視できるようになった。
 ということは、これからはどの国も監視社会になる。中国こえーとか言ってる場合じゃない。




 中国の状況を読んでいると、「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とおもえてくる。

「中国の消費者はプライバシーが保護されるという前提において、企業に個人データの利用を許し、それと引き換えに便利なサービスを得ることに積極的だ」
 検索サイト最大手百度の創業者である李彦宏が、2018年3月に開催された中国発展ハイレベルフォーラムで行った講演の一節です。個人データを提供することで、多くの便利なサービスが使える。考えてみれば、私たちもグーグルやフェイスブックに多くの情報を提供することで優れたサービスを享受していますが、中国ではさらに多くの情報を渡し、さらに多くの利便性を得るという形で、より積極的な取引が行われているのです。
 情報の提供はたんに便利なサービスを使えるようになるだけではありません。企業は料金だけではなく、データというもう1つの「報酬」を得ているため、低価格でサービスを提供することができます。もしデータ取得を厳しく制限してしまえば、それは同時にサービスが使いづらくなり、かつ料金も上がるということにつながります。プライバシーを守ることと、便利さや安さをどうバランスするかという判断を、私たちは求められているということです。

 ぼくもGoogleやAmazonといったサービスには、積極的といってもいいほど自分の情報を提供している。なぜなら、情報を提供したほうが使い勝手がよくなるからだ。リスクもあるが、メリットの方が大きいと判断している。


 だが、監視社会・相互監視社会も悪くないとおもえるのは、ぼくが日本人・男性・会社員という〝マジョリティ〟の立場に属しているからだ

 この本には中国共産党からウイグル族への弾圧についても書かれている。
 よく知られているとおり、中国共産党は新疆ウイグル自治区に対して激しい弾圧を加えている。ウイグル人である、イスラム教徒であるというだけの理由で拘束・拷問・洗脳などがおこなわれている(さらに中国は経済大国なので日本政府含め諸外国は強く非難しない)。

「ウイグル族は犯罪率が高い」などのレッテルを貼り、それを根拠として監視の対象とする、自由を奪うことが正当化されているのだそうだ。抵抗すれば逮捕され、「やはりあいつらは犯罪率が高い」という主張は強化される。

 映画『マイノリティ・リポート』で描かれた「将来犯罪をするやつは先に逮捕する」という未来がすでに現実化しつつあるのだ。

 新疆ウイグル自治区や香港での弾圧を見ていると、監視カメラが市民の安全確保のためだけに使われるわけではないのは明らかだ。

 ぼくが少数民族の人間や外国人であれば、すみずみまで監視カメラがゆきとどいた社会はきっとおそろしいものだろう。少なくとも気軽に「相互監視社会・信用スコア社会も意外と悪くないな」とは言えないだろう。




 これから監視社会になるのは、たぶん止められない。
 だから最大の問題点は誰が監視するのか、誰がルールを作るかだ。

 ルールを作る人間は、まちがいなく自分が有利になるルールを作る。政府も警察も司法も身内には甘い。
「警察がカメラで監視」にすると、警察にとって都合のよい運用をされることが目に見えている。

 だから監視社会にするのなら、おもいきって
「監視カメラの映像はリアルタイムで誰にでも見られるにする」
ぐらいにしなきゃだめだ。

 それはそれで悪いこともあるだろうけど、一部機関の恣意的な監視よりはずっとマシだ。




 ところでこの本、経済学者である梶谷氏とジャーナリストである高口氏による共著なのだが、ふたりの執筆スタンスや文体がまったく違う。
 現地の人の声を中心に「中国の現状」を紹介する高口氏に対して、梶谷氏の文章は倫理学や行動経済学の話が中心だ。

 個人的には高口氏のパートはおもしろかったが梶谷氏パートは難解で眠くなった(寝る前にこの本を読んでいたので入眠にはちょうどよかったが)。

 まったく別の本って感じだったな。


【関連記事】

【読書感想文】力こそが正義なのかよ / 福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

【読書感想文】闘う相手はそっちなのか / 小川 善照『香港デモ戦記』



 その他の読書感想文はこちら


2021年3月17日水曜日

【読書感想文】運動に巻きこまないでくれ / 大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』

1984 フクシマに生まれて

大野 更紗 開沼 博

内容(e-honより)
難病体験を綴ったエッセイ『困ってるひと』が大好評を博した大野更紗。福島の原発を通して、中央と地方の関係に切り込んだ『「フクシマ」論』が高く評価された開沼博。同じ1984年に福島で生まれた注目の若手論客二人が、「3.11」「原発」「難病」「オウム」などを切り口に、六人の職者と語り合う!


 共に1984年生まれで福島県出身の社会学者二人による対談、およびゲストを招いての鼎談。


 おもしろい話題もあったけど、全体としてぼくは「とっつきづらさ」を感じた。
 このとっつきづらさはどこから来るのだろうと考えたんだけど、「社会学者の言葉」を使って語りあってるからなんだとおもう。特に開沼氏。
「周縁的な存在」とか「硬直化した既存の知の枠組み」とか。
 べつにわざわざ小難しい言葉を使おうとしているわけじゃなくて、社会学者同士のやりとりの中ではふつうに使ってる言語なんだろうけどさ。
 でもそれってギョーカイ用語とかギャル語と同じで、部外者に語りかけるための言葉じゃないんだよね。多くの人に手にとってもらう文庫に載せるのにふさわしい言葉じゃない。

 だからこの本全体に漂うのは「多くの人に語りかける」ではなく、「おれたちの話をおまえらにも聞かせてやる」というトーン。本人が意図してるかどうかは知らないけどさ。


 鼎談のパートは「社会学の外の人」としゃべってるからちゃんと共通語でしゃべってるんだけど、それ以外の文章はまったくなじみのない方言を聞かされているようで、読んでいる側としてはすごく居心地が悪かった。




 鼎談では、日本ALS協会理事である川口有美子氏を招いての『難病でも生きてていいんだ!』と、ドキュメンタリー映画監督である森達也氏の『この国の人たちは、もっと自分に絶望したほうがいい』がおもしろかった。

 川口有美子氏の話。

 ALSは自分で予後を選べる病気と言われています。生きるか死ぬか決めなければならない時、インフォームド・コンセント(患者が治療法などを医師からきちんと説明されたうえで同意すること)が必要になります。そこで、「呼吸器をつければ二十年生きられる。つけなかったら死ぬ。二十年自力では何もできないけれど生きるか、それが嫌だったら死ぬか、どちらを選びますか? ただ二十年生きるほうを選んだら、家族は二十四時間在宅介護をしなければならず、子どもは介護に縛られ結婚も就職もできません。その他にもこれだけ家族に迷惑をかけます」という話をされます。これでも医師の中立的な説明とされる。でも、こんなんじゃ、呼吸器をつけたいとはなかなか言えませんよ。どうやれば生きていけるかという説明ができる医師は少ない。残念なことに。

 ぼくは尊厳死賛成派だったけど、これを読んで考え方が変わった。
 たしかに「家族に迷惑をかけながら二十年生きますか?」と言われたら「それでも生きます」とは言いづらいだろう。でも、その選択が正しかったかどうかは、生きてみないとわからないんだよなあ。


 ある日突然目が見えなくなったら絶望するだろう。どうやって生きていけばいいんだろうと途方に暮れる。今までの生活をすべて手放す必要があるのだから。その段階で「尊厳死しますか?」とささやかれたら、うなずいてしまう人も多いだろう。

 でも、世の中には目の見えない人がいっぱいいるわけで、その人たちが日々絶望しながら生きているかというと、そんなことはない。目が見えなくたって仕事も娯楽も生きがいもたくさんある。

 絶望を感じるとしたら、それは「目が見えないことに対する絶望」ではなく「これまで手にしていたものを失う絶望」で、ない状態に慣れてしまえばなんとかやっていける。たぶん。
 四十年間ひとつの会社で正社員として働いていた人がある日派遣社員になったらすごく不安だろうけど、ずっと無職だった人が派遣社員になるのは好転だ。
 怖いのは「(ないという)状態」ではなく「(失う)という変化」なのだ。

 だから「だんだん身体が動かなくなって自力で呼吸することもできなくなります」って言われたらめちゃくちゃ怖い。すでにALSになっている人には失礼だけど、そんな状態になっても生きている意味ってなんなの? とぼくはおもってしまう。

 だけど、失ってしまえば意外と平気なのかもしれない。だいたい五体満足なら生きていることに明確な意味があるのかというと、そんなこともないしね。

 よくよく考えてみれば、ぼくらは生まれたときから「余命百年の不治の病」に冒されている。難病や余命わずかだから生きる価値がないのなら、そもそも全人類が生きる価値がないことになる。

 難病を抱えた生活をよくわからないからこわいんだろうね。身近に難病の人がいて、病気になってもそこそこ楽しくやっているということを見知っていたら、自分が病気になったときもだいぶ恐怖がやわらぐかもしれない。

 自分が尊厳死すべきかどうか、適切な判断を下せる人なんていないよね。きっと。
 自分は理性的な存在だとおもってるけど、理性なんてかんたんに揺らぐものだから。




 森達也氏の話。

 ただ、僕はドキュメンタリーの大切な役目の一つに、人とは少し違う視点を提供することがあると思っています。そういう意味では、3・11直後のみんなが被災者に寄りそうという流れの中で、あえて違うところから被災地の現状を見てみようという思いはあったかもしれません。ただし視点を提供しようというモチベーションよりも、自分が見たいとの思いのほうが強い。とことんエゴイスティックです。社会のためなど口が裂けても言えない。

 森達也氏の映画を観たことがないのだけれど、「オウム真理教信者がごくふつうの生活を送っているところ」「震災の被災地に行って被災した人に怒られるところ」など、ニュース映像ではまず見られないシーンを収めているんだそうだ。

 たしかに、オウム報道も震災報道も一色に染まったもんな。
「オウムは悪いことをする、我々とはまったくべつの常識を持ったやつら」
「今こそ日本がひとつに。助け合おう」
みたいなトーンに染まって、それ以外の意見はまったく許されない空気になった。

 そこで「いやオウムの信者だって大半はただ救いを求めただけの善良な市民ですよ」とか「チリやインドネシアで地震が起きたってみんなすぐ忘れるんだから、東北の地震だって忘れてもいいよね。俺には関係ないし」なんて口にしようものなら袋叩きにされる〝空気〟が支配していた。

 最近だと、新型コロナウイルスによる第一回の緊急事態宣言のときもそうだった。
「自粛しましょう。出歩くやつは私刑!」
みたいな空気に染まった。まったく科学的根拠のない意見が幅を利かせて、「ほんとにそれ効果あるの?」「スーパーとかまで閉める必要ある?」なんてことは大声で言えない雰囲気だった。ぼくもそれにまんまと乗っかっていたからえらそうなことはいえないんだけど。

 そういうときに、「オウム信者も我々と同じようにふつうに飯食って寝てるんだよ」「被災者だって辛抱強く耐え忍んでるだけじゃなくてイライラしたり愚痴を吐いたり利己的な行動をとったりするんだよ」と映像を通して伝える森達也氏のような人は貴重だ(くりかえし書くが映像は観たことない)。

 山本七平『「空気」の研究』には〝空気〟を打ち破るために「水を差す」ことの重要性が説かれていた。

 国中が一色に染まっているときってたいてい悪いことが進行中だからね。東日本大震災の復興ムードだってまんまと増税に利用されたし。




 冒頭に「とっつきづらさ」を感じたと書いたけど、最後まで読んでどっと疲れた。
 この疲れはあれだ、就活のときに味わったやつだ。
 キラキラしたビジョンに向かってまっすぐ走る行動的な人たちのお話ばっかり聞かされたときに感じる疲れだ。

 この本に出てくる人はみんな社会に対して問題意識を持っていて、活動的で、それ自体はたいへんけっこうなんだけど、
「さあみんないっしょに走ろうよ!」
という感じがたいへん煙ったい。

「どうやって私たちの運動に多くの人を巻きこむか」ってしゃべってるんだけど、世の中には巻きこまれたくない人がいるんだよ。「みんなを巻きこまなきゃ!」という考えこそが周囲を遠ざけている、なんてこういう人たちにとっては想像の埒外なんだろうね。きっと。


【関連記事】

法よりも強い「空気」/山本 七平『「空気」の研究』【読書感想】

【読書感想文】小学生レベルの感想文+優れた解説文/NHKスペシャル取材班『老後破産』



 その他の読書感想文はこちら