2020年5月8日金曜日

【読書感想文】警察は日本有数の悪の組織 / 稲葉 圭昭『恥さらし』

恥さらし

北海道警 悪徳刑事の告白

稲葉 圭昭

内容(e-honより)
二〇〇〇年春、函館新港に運ばれてきた覚醒剤。その量百三十キロ、末端価格にして約四十億円。“密輸”を手引きしたのは北海道警察銃器対策課と函館税関であり、「銃対のエース」ともてはやされた刑事だった。腐敗した組織にあって、覚醒剤に溺れ、破滅を迎えた男が、九年の服役を経てすべてを告白する―。

いやあ、すごい。
元北海道警刑事の告白。

ヤクザと交際し、ヤクザから拳銃を入手し、拳銃や覚醒剤の密輸までおこなう。

なにより驚くのは、私利私益のためにやっていたのではなく、北海道警という組織のためにやっていたということだ。
 発砲事件が起きると、まずは暴力団関係者や現役のヤクザから情報を収集します。どの組織がどういう原因で発砲事件に及んだのか、実行したのは誰なのか、事件の全体像を把握して落としどころを探ります。それは大抵、発砲事件を起こした暴力団から使用した拳銃を押収し、被疑者一名を出頭させるというものでした。発砲した側の暴力団幹部に電話で連絡をします。
「来週、ちゃんと道具(拳銃)を用意しておいてくれ」
 こう言うと、指定した日に、逮捕される組員が一人、拳銃を携えて待っていました。ときにはヤクザのほうから私に電話してくることもありました。
「(抗争で使った拳銃は)どうしたらいいですか?」
「今回は事務所に置いとけ。今度の火曜日に行くから」
 その日に事務所に行けば、約束どおり、拳銃と逮捕される暴力団組員が事務所にいる。現行犯逮捕するだけですから、こんなに手のかからない捜査はありません。
 なぜ、ヤクザが素直に拳銃と被疑者を警察に引き渡すのか。そのカラクリはこうです。
 発砲事件が起こったにもかかわらず、使用された拳銃を押収することができなければ、警察は本腰を入れて拳銃捜査を行わざるを得ません。使用された銃を押収するため、ヤクザの関係先を片っ端から捜索していくことになる。警察を本気にさせるのは、ヤクザにとってもいいわけがありませんし、警察にとっても大変手間のかかる捜査になります。お互いが疲弊するのを避けるために、事前に落としどころを探るというわけです。拳銃を押収し、被疑者を逮捕することができれば、警察の面目は保たれますし、ヤクザにとっても組織を守ることができます。一般の人からは、警察と暴力団との癒着との批判を受けざるを得ないのが、当時の実態でした。暴力団抗争での拳銃摘発では警察、暴力団とも、互いに合理的に事を進めていたのです。
 暴力団抗争が頻発した昭和六十年(一九八五年)前後は、バブルの絶頂に向かって日本が狂乱していく時代でもありました。実業家のなかには警察庁のキャリアOBを身内に抱え、その威光とカネを使って、現役の警察官に睨みを利かせる人物も出てきました。私も、そんなバブル紳士の要請を受けて、ボディーガードとしてヤクザを紹介したことがありました。
 現役時代に暴力団対策に従事していた元警視監が、ある実業家に伴われて札幌に来ました。その実業家はすすきのに料亭やクラブを出店することを目論んでいたのですが、事業の展開に際して、ボディーガードとなる地元のヤクザを探していたのです。私は中央署の上司と一緒に、まずその元警視監に会い、その実業家を紹介されました。見るからにカネを持っていそうなその男は、私にこう言いました。
「誰か、札幌で私の身辺警護をしてくれるようなヤクザはいないか?」
「私の知り合いのヤクザを紹介します」
「よし、じゃあ、これを渡しておけ」
 バブル紳士が私に手渡した現金は一〇〇〇万円。私はヤクザにそのカネを渡して、その男のボディーガードにつけました。それだけではなく、男の経営する企業からは毎月五〇〇万円程度の用心棒代がそのヤクザに支払われました。
 ヤクザのシノギを警察官が斡旋する――。こうした行為は警察官にとってあるまじき行為です。今でも大問題になるでしょう。しかし、当時はこのようなことが、警察庁のキャリアOBが関与して行われていたのです。そればかりか、私の上司もこの実業家から一〇〇〇万円もの現金を当たり前のように受け取っていました。私はヤクザと付き合うことが仕事だと思っていましたし、ヤクザから情報を得るためには、シノギを紹介して信頼してもらうことも有効だと考えていました。カネを媒介にして、実業家と警察とヤクザが結びつく。カネが湯水のごとく溢れていたバブル経済の印象深いひとコマです。
「警察と暴力団は持ちつ持たれつ」という話はこれまでにも聞いたことがあったが、これは癒着なんてもんじゃない。もはや共犯者だ。



まだ、「真犯人を捕まえるために暴力団と一時的に手を組む」とか「十人を逮捕するために一人を見逃す」とかなら理解できる。
厳密にいえばだめだけど、きれいごとだけじゃ世の中うまくいかないからまあしょうがないよね、とおもえる。

だがこの本の中で書かれている警察と暴力団のつながりは、そんなものじゃない。
(「エス」とは暴力団の中にいて警察に通じているスパイの隠語)
 岩下は平成八年の「警察庁登録五〇号事件」の捜査に協力したエスです。このとき私は、岩下とともに暴力団員に扮して関東のヤクザから拳銃を数丁購入しました。この経験から岩下は、警察の捜査という形をとれば拳銃でも覚醒剤でも安全に手に入れられるのではないかと考えたのです。のどから手が出るほど欲しがっている拳銃を餌にすれば、道警の銃対課は話に乗ってくる。岩下はそういう絵を描いたのでしょう。平成十一年初夏、私にこう言って話を持ちかけてきました。
「拳銃を大量に密輸させるから、親父たちがパクるというのはどうだろう? その代わりといってはなんだが、シャブを入れたい。協力してくれないか?」
 岩下はこう言うと、関東のあるヤクザを私に紹介しました。そのヤクザは香港に覚醒剤密輸ルートを確立していて、いつでも覚醒剤を調達できる男でした。私はそのヤクザに会った上で、岩下の提案を聞きました。彼の話は、銃対課にとっては魅力的なものでした。
「まず香港から薬物を三回、北海道に密輸する。道警は税関に根回しして、これを見逃してほしい。四回目に拳銃を二〇〇丁密輸して、俺の知っている中国人に荷受けさせる。そこを親父たち銃対課が、ガサをかけてパクるんだ」
 二〇〇丁もの拳銃を挙げた上に、さらに中国人の身柄も付いてくる。これが実現すれば道警銃対課は、大きな実績が認められ、巨額の予算を手にすることができるでしょう。私はこの話を聞いたとき、本当にこのように大掛かりな捜査が実現できるのか、半信半疑でした。拳銃を押収するためとはいえ、大量の薬物密輸を手引きするのですから、たんなる違法行為といってもいいでしょう。私は疑念を抱きながらも、前原忠之指導官と大塚課長補佐に報告しました。そして当時の銃対課長、山崎孝次が決断したのです。
「よし、やろう」
ヤクザの側から拳銃と覚醒剤の密輸に協力してくれと警察に持ちかけ、警察は拳銃押収のノルマを達成するために話に乗る。
めちゃくちゃだ。
もはや、消防士が実績をつくるために放火するようなものだ。

この本を読むかぎり、こういう行為はわりと頻繁におこなわれていたらしい。著者は北海道警の刑事だったので北海道警のことしか書かれていないが、ノルマは全国の警察に課されているはずなのでどこも似たり寄ったりなのだろう。
警察組織というのはとんでもない犯罪組織なのだ。

もちろんこの本はひとりの刑事が書いたものなので、すべてが真実かどうかはわからない。
だが著者は自分にとって都合の悪いことも洗いざらい書いているし、また実刑を受けて刑期を終えているのでいまさら自分をよく見せるメリットも薄い。おそらくほとんどが事実なんだろう。


なにがおそろしいって、著者はすべてを暴露しているにもかかわらず北海道警は組織的な犯行だったことをまったく認めていないこと。
当然ながら誰も責任をとっていない。著者といっしょに犯罪に手を染めながらその後も北海道警で順調に出世した人もいるそうだ。

まったく認めていない、誰も責任をとっていないということは、組織の体質はたぶん変わっていないんだろう。
暴力団対策法ができたから昔ほどではなくなったんだろうけど、「犯罪を摘発するために犯罪をさせる」というやり方は今もまかりとおっているんだろう。
 警察組織のなかでは、真面目に捜査すればするほど、違法捜査に手を染めていくこともあります。そして、警察にいる限りは、まともな人間に戻ることはできません。違法捜査を犯しても、それが実績となるのなら黙認されてしまう。良心の呵責に苛まれ、上司に相談しても、誰も取り合ってはくれないでしょう。そして組織は問題が発覚してから、全力で事態を隠蔽しようと図ります。警察組織はそんなどうしようもない仕組みになっているのです。まともな人間に戻るには警察を辞めるしかない。これが私の実感です。
警察って日本有数の悪の組織なんだなあ……。
こんな極悪集団が今も闊歩しているとおもうとおそろしくなった。


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2020年5月7日木曜日

【読書感想文】超弩級のSF小説 / 劉 慈欣『三体』

三体

劉 慈欣(著) 立原 透耶(監修)
大森 望 , 光吉 さくら , ワン チャイ(訳)

内容(e-honより)
物理学者の父を文化大革命で惨殺され、人類に絶望した中国人エリート科学者・葉文潔(イエ・ウェンジエ)。失意の日々を過ごす彼女は、ある日、巨大パラボラアンテナを備える謎めいた軍事基地にスカウトされる。そこでは、人類の運命を左右するかもしれないプロジェクトが、極秘裏に進行していた。数十年後。ナノテク素材の研究者・汪森(ワン・ミャオ)は、ある会議に招集され、世界的な科学者が次々に自殺している事実を告げられる。その陰に見え隠れする学術団体“科学フロンティア”への潜入を引き受けた彼を、科学的にありえない怪現象“ゴースト・カウントダウン”が襲う。そして汪森が入り込む、三つの太陽を持つ異星を舞台にしたVRゲーム『三体』の驚くべき真実とは?本書に始まる“三体”三部作は、本国版が合計2100万部、英訳版が100万部以上の売上を記録。翻訳書として、またアジア圏の作品として初のヒューゴー賞長篇部門に輝いた、現代中国最大のヒット作。

いやあ、すごいすごいという評判は聞いていたが、噂に違わぬスケールの大きさだった。

正直、中盤は退屈だったんだけどね。
突然、主人公が『三体』というゲームをはじめてそのゲーム世界が描写される。なんなんだこれは、いったい何を読まされているんだ、という感じ。
しかし『三体』の背景、そしてゲーム開発の目的がわかってくるとめちゃくちゃおもしろくなってきた。

ネタバレなしに感想を書くのはむずかしいのでここからネタバレ書きます。






『三体』とは、物理学の「三体問題」に由来している。
作中の注釈ではこうある。
質量が同じ、もしくはほぼ同程度の三つの物体が、たがいの引力を受けながらどのように運動するかという、古典物理学の代表的な間題。天体運動を研究する過程で自然とクローズアップされ、十六世紀以降、おおぜいの科学者たちがこの問題に注目してきた。オイラー、ラグランジュ、およびもっと近年の(コンピュータの助けを借りて研究してきた)科学者は、それぞれ、三体問題のある特定のケースについて、特殊解を見出してきた。後年、フィンランドのカール・ド・スンドマンが、収束する無限級数のかたちで三体問題の一般解が存在することを証明したが、この無限級数は収束がきわめて遅いため、実用上は役に立たない。
要するに「宇宙空間で、同じぐらいの質量の物体が近くに三つあったら、どういう動きをするかは基本的に誰にも予想できない」ってことね(例外的に予想できる場合もあるけど)。

で、この小説に出てくるゲーム『三体』の舞台は、まさに三つの太陽を持った星。
太陽が不規則に動くので地球のように規則正しく朝晩や四季が訪れることはなく、長期間にわたって極寒の冬や夜が続いたり、灼熱によって焼かれたりする。
太陽の動きが比較的安定しているときは(恒期)文明が発展するが、自然環境が厳しくなれば(乱期)あっという間に文明は滅ぶ(ただしこの星の住民は活動停止状態になることで乱気を生き延びることができる)。

……ってことが読み進めるうちに徐々にわかってくる。
ここがミステリのようでわくわくする。
ネタバレしておいてなんだけど、これは知らずに読むほうがぜったいにおもしろいとおもう。

さらにこれは単なるゲームの世界ではなく、現実にこういう星があり、ゲームはそれをシミュレーションしたものだということがわかる。
誰がこのゲームを作ったのか、なんのために作ったのか……ということも終盤になって明らかになる。

中盤までに散りばめられていた謎めいた設定が、終盤で一気に収束するところはほんとうに圧巻。
読んでいて「おお! そういうことか」と声が出た。



『三体』世界のスケールが途方もなく大きいので圧倒されるが、設定だけでなく物語としてもおもしろい。

文化大革命に翻弄される女性研究者・葉文潔の人生も魅力的だし、不良警察官の史強もかっこいい。
巨大な船から乗員を一瞬で殺してデータを奪う作戦のところなんか、これだけで二時間映画になりそうなダイナミックさ。

ほんと、ひとつひとつのエピソードが重厚なんだよな。

たとえば、『三体』世界で機械ではなく人間を使ってコンピュータをつくるシーン。
(ここに出てくるフォン・ノイマンとは実在のフォン・ノイマンではなく三体というゲームのキャラクター)
 フォン・ノイマンは三角陣を組んでいる三名の兵士に向き直る。「では、次の回路をつくろう。きみ、出力くん。〈入力1〉と〈入力2〉のうち、片方でも黒旗を上げていたら、きみは黒旗を上げてくれ。この組み合わせは、黒黒、白黒、黒白の三通りだ。残りのひとつ、つまり白白の場合、きみは白旗を上げろ。わかったか? よし、きみはとても賢いね。ゲート回路の正確な実行の要だ。うまくやってくれよ。皇帝陛下も褒美をくださるだろう! よしやるぞ。上げろ! よし、もう一度上げろ! もう一度! うん、正しく実行されている。陛下、この回路を論理和門(ORゲート)といいます」
 次にフォン・ノイマンはまた三名の兵士を使って否定論理積門(NANDゲート)、否定論理和門(NORゲート)、排他的論理和門(XORゲート)、否定排他的論理和門(XNORゲート)、三状態論理門(トライステート・ゲート)をつくった。そして最後に、二名だけを使って、もっとも単純な論理否定門(NOTゲート)をつくった。この場合、<出力〉は、<入力>が上げた旗と反対の旗を上げる。
 フォン・ノイマンは皇帝に深々と頭を下げた。「陛下、いますべてのゲート回路の実演が終わりました。簡単なことだと思われませんか? どのような兵士でも、三名で一時間ほどの訓練を行えば覚えられます」
「覚えることは、ほかにはなにもないんだな?」
「ありません。このようなゲート回路を一千万組つくり、さらにこれらの回路を組み合わせることによって、ひとつのシステムを構築します。システムは必要な演算を行って、太陽運行を予測する微分方程式を計算するのです。このシステムをわれわれは、ええっと、なんだっけ……」
「コンピュータ」汪然が言った。
「そうそう」フォン・ノイマンは注森に親指を立てて見せた。「コンピュータと呼んでいます。うん、この名前はいい響きだ。すべてのシステムが実際には膨大なひとつのコンピュータで、それは有史以来もっとも複雑な機械なのです!」
これを組み合わせて兵士たちで複雑な演算が可能なコンピュータを作ってしまうのだ。
たしかに理論上は可能だけど……。
いやあ、なんて壮大なほら話だ。これぞSF小説。

こんな途方もないエピソードが次々に出てくるのだ。
十冊の本を読み終わったぐらいの充実感があった。



もちろん作品自体もすごいのだが、作品の背景にも驚かされる。

まず中国人、それも中国に住んでいる人が書いた作品だということ。
文化大革命を批判的に書いたりしていて、こういうことが許されるのか! とびっくりした。
中国から外国に渡った人が書くのならわかるんだけど。
中国という国は、ぼくがおもっているよりもずっと民主的な国になっているのかもしれない。これは認識をアップデートしなければ。

また、中国国内で発表されたのが2006年、単行本の出版は2008年なのに、SF小説界の最高峰ともいわれるヒューゴー賞を受賞したのが2015年だということ。
中国の作品だから世界的な評価が遅れたのだろうが、それにしたって21世紀になってもこんなに評価が遅れてやってくる作品はめずらしい。



ハードカバーで448ページという重量級の小説だけど、中盤からは一気に読めた。
SF小説と歴史小説と天文学ノンフィクションとハードボイルド小説とミステリ小説をいっぺんに読んだような気分。
ずっと頭を使いながら読まなきゃいけないので疲れたけどおもしろかったなあ。

だが、これは三部作の第一部。第二部『黒暗森林』はこの1.5倍、第三部『死神永生』は2倍ぐらいの分量があるという驚愕の事実を訳者あとがきで知ってびびっている。
うーん、続編もまちがいなくおもしろいんだろうけど、気力がもつだろうか……。

第二部の日本語訳は2020年6月発売だそうです。


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2020年5月1日金曜日

ゆきずりの野球友だち

娘(六歳)とその友だちと公園で遊んだときのこと。

娘の友だちのお兄ちゃん・Kくん(九歳)も公園で遊んでいた。友だちと野球をやっている。

しばらくして、Kくんとその友だちがやってきた。
 「いっしょにドッチボールしよう」
「いいよ。ええっと、そっちの子はなんて名前?」
 「名前? 知らない」
「え!?」

友だちの名前を知らない? ずっといっしょに野球やってたのに???

「えっ、なんで知らないの」
 「だってさっき会ったばっかだもん」
「同じ小学校じゃないの?」
 「ううん。はじめて会った。あいつがどこの小学校かも知らないよ」
「それでいっしょに野球やってたの?」
 「そう」
「それにしても、名前とか小学校とか聞こうとおもわない?」
 「べつに」

えええ。
すげえ。
見ず知らずの人と出会ってすぐに野球をやれるのが。
それで名前も所属も気にしないのが。
そのくせ「あいつ」呼ばわりできるのが。

男子小学生ってこんなだったっけ。
ゆきずりの女と一夜を共にできるプレイボーイぐらいすげえ。


2020年4月30日木曜日

【読書感想文】電通はなぜダサくなったのか / 本間 龍『電通巨大利権』

電通巨大利権

東京五輪で搾取される国民

本間 龍

内容(e-honより)
五輪エンブレム盗作騒動、ネット広告費不正請求、東大卒女性社員の過労自殺。不祥事続出のブラック広告代理店・電通は、それでも巨大利権を掌握し、肥大化が止まらない…。洗脳広告支配から脱出せよ!巨大イベントで大儲けの仕組み。東京五輪ボランティアに参加してはいけない理由がわかる。

広告界のガリバーと呼ばれる株式会社電通。
(ちなみに前にも書いたけど、ガリバーは巨人じゃなくてふつうのサイズの人間だからね。ガリバーは巨人じゃない
 つまり14年度当時は「電通は売上高2兆3千億円」と発表していたのに、現在は「14年の国内売上高は1兆8千億円」となっているのだ。これなどは、敢えて国内売上高を少なく見せるためのギミックのようにも見える。というのも、あまりにも巨大になりすぎた電通は、独占禁止法に抵触する可能性があるからだ。
 独占禁止法は必ずしもその業界におけるシェアが50%を超えたら適用される訳ではないが、公正取引委員会は過去にも広告業界の寡占化を問題にしてきた(第6章)。電通は自社発表で「国内総広告費におけるシェアは25%」としているが、第三者が検証した数字ではない。
 要するに、あまりに巨大になりすぎた電通は、国内では売り上げの伸びよりも、独禁法抵触回避を最優先にしなければならなくなっているのではないか。なぜなら、企業の宿命である売り上げを追求していけば、電通の売り上げは早晩日本の総広告費の5割を超えてしまう可能性があるからだ。
ふつうの企業は売上を伸ばすことに全力を傾けるものだが、電通の場合は既に売上が大きすぎて独禁法に引っかかるスレスレ(見方によっちゃあもうアウト)なので、売上が増えすぎないように注意しなければならないのだ。すげえ。



と、日本のメディアに対してとんでもなく大きな影響を持っている企業でありながら、電通そのものが話題になることはそう多くない。
電通の商売相手はメディアであり広告出稿したい企業なので、一般消費者と直接かかわることはほとんどない。だから電通を宣伝するテレビCMもやらないし電通の社員も基本的に表に出てこない。

ところがここ数年、電通が話題になることが増えてきた。
女性社員の過労自殺に代表される不祥事が相次いだためでもあるが、それ以上にネットが普及して誰でも情報を発信できるようになったことがある。

インターネットがあたりまえになる前は、情報を発信できる人はかぎられていた。
テレビやラジオの出演者、新聞や雑誌の記者など。
だがテレビもラジオも新聞も雑誌も、そのほとんどが広告の収益によって成り立っている。そしてその広告を出稿するのが電通なのだ。つまりメディアにとっては、直接のお客様なのだ(もちろんその先にはスポンサーがいるわけだけど、直接取引をするのは広告代理店)。

だから昔なら電通にとって都合の悪いニュースがあっても、新聞もテレビも大きく報じなかった。それは電通が圧力をかけるというより、むしろメディア側が勝手に忖度した部分が大きかっただろう。
誰だって、自分たちにお金を払ってくれる人の悪口は大声で言いにくい。

だがインターネットの普及によって潮目が変わってきた。
電通の客でない人が情報を発信できるようになったのだ。
女性社員の自殺もそうだが、最近特にその傾向が強くなったのはオリンピックについてだ。

かつて、オリンピックについてネガティブなことを言う人はメディアにはいなかった。
テレビも雑誌も新聞もオリンピックに利益を得ていたし、なによりオリンピックは電通様が仕切っている興行だったのだ。悪く言えるはずがない。
昔は芝居や相撲などのイベントは地元のヤクザが仕切っていたという。興行主はヤクザに金を渡し、その代わりにトラブルを未然に防いでもらう。トラブルがあったらヤクザに出てきてもらって解決してもらう。そんな持ちつ持たれつの関係があった。
オリンピックと電通の関係もそれに似ている。

だがインターネット、SNSの普及で電通をおそれずにものを言える人が増えた。おかしいことはおかしいと言える人が。
オリンピックなんてしょせんスポーツのイベントなのにどうして巨額の税金をつぎこまなきゃいけないの、招致のときに言ってた話が嘘ばっかりなのにどうして許されるの、当初の予算を大幅にオーバーしてもどうして誰も責任を取らずに税金で補填してもらえるの、東京開催なのにどうして国のお金でやるの、復興五輪とか言ってたけど具体的にどう復興につながるの、どうして役員は高給もらってるのにボランティアはタダ働きなの、ボランティアが熱中症で死んでも誰も責任とらなさそうだけど自己責任になるの、ていうか承知のときに集まって浮かれてたメンバー森喜朗以外いったいどこ行ったの。

こういう声が広がりやすくなった。
この本の著者である本間龍氏も積極的に問題を発信している。
というか言えなかった今までが異常だったんだけど(そしてテレビや新聞は今もまだその異常な世界に浸ってるんだけど)。

ぼくはオリンピックは好きじゃないけど、やる分には勝手にやったらいい。
「日本がひとつに」みたいな気持ち悪いスローガンや、税金を湯水のように使うことさえやめてくれればどうぞご自由に、という感じだ。
でもその「嫌なところ」がまさに電通的なところなのだ。



この本では電通が大きくなりすぎたことの問題点を、メディアとの関係性、政党や政府との癒着、スポーツイベントの商業化など様々な点から論じている。

ただ誤解してはいけないのは、決して電通が邪悪な企業ではないということだ。
もちろん過労死事件やネット広告費不正請求問題に関してはめちゃくちゃ悪いことをしていたわけだが、似たようなことをやっている会社はごまんとある(だからって電通が許されるわけではないけど)。
電通で働いている人だって、大半はいい人なんだろう。ぼくもひとり知り合いにいるけどいい人だし。
みんな一生懸命に仕事をしているだけだ。

過労死事件も不正請求事件も、誰かひとりの責任に押しつけられる問題ではないだろうし、数人が防ごうとしても止められなかった問題だろう。

最大の問題は、電通という会社が大きくなりすぎたこと、力を持ちすぎたことなのだとおもう。
もう誰にもコントロールできない巨大な組織になってしまい、暴走しても誰も止められなくなっているのだ。東京オリンピックだってもう完全に暴走して誰にも手が付けられなくなってるし。


だが、電通の力は今後弱くなってくるんじゃないかとおもう。
あくまで今と比べると、の話だけど。
 インターネットはテレビを中心とした4媒体以外でここ数十年、唯一売り上げが拡大してきた(16年度広告費は1兆3100億円)新興メディアで、電通の統制が同じく唯一及ばない領域である。統制云々というよりも管理者がいないというべきで、新規参入が容易で、日々新しい技術が生まれている。
 だがこの領域は他メディアに比べて収益率が低く、4媒体からの高収益に慣れた電通にとって「労多くして旨みの少ない領域」に映った。そのため電通社内では、ネット領域への出資を拡大すべきか否かで激論が交わされていた。亡くなった高橋さんの所属していたデジタル担当部署の人員が15年になって半分に削減されたのも、収益が低いと判断されたからである。
 この「管理者なき新興メディア」への中途半端な対応が16年9月末に露見したネット業務不正請求事件を発生させ、さらにその悪影響が高橋さんの自殺を生んだ。そしてその事実が1年後にSNSによって拡散し、電通のブランドまで破壊するに至った。電通は自社が軽視してきたインターネットメディアによって、とてつもなく大きな傷を負ったのだ。
ぼくはWeb広告の仕事をしているが、たしかに電通にとってうまみは少ないだろうなとおもう。
理由のひとつはGoogle、Yahoo!、Facebook、Twitter、Amazon、楽天などのプラットフォーム企業が広告のルールを決める支配者になっていること。テレビCMや雑誌広告のように電通がゲームマスターになることができない。

そしてWeb広告は電通のような巨大代理店であろうとぼくがいるような小さな代理店だろうとまったく同じ条件で広告出稿できること。
たとえばリスティング広告と呼ばれるGoogle、Yahoo!の検索結果に表示される広告であれば、電通が1クリック100円で出した広告よりも無名の個人が101円で出した広告のほうが上位に表示されるのだ(実際は価格以外の条件もいろいろあるけど)。
テレビCMのような「お得意さんだから」「電通さんだから」といった融通が利かないのだ。

さらにWeb広告はテレビCMや新聞広告よりも明確に成果が数字で出る。いくら予算をかけたら何人が広告を見て何人が行動を起こしたかが計測できてしまう。
イメージとノリでやってきた会社は(電通がみんなそうとは言わないけれど)苦しいだろう。

また、Web広告を出稿したところでWebに出回る情報をコントロールすることはできない。
なぜならWeb上では既存メディアと違い、広告費をもらわなくても情報発信ができるからだ。
もちろんインフルエンサーに広告費を渡せばその人の発言をある程度コントロールできるだろうが、すべてを抑えることはいくら電通でも現実的に不可能だ。数社を抑えればほぼ全部網羅できるテレビ局や新聞社とはわけがちがう。


……というわけで電通という会社がWeb広告全体に占める影響は(他メディアと比べて)すごく小さい。
Web広告は今後もまだまだ拡大する。新聞やテレビが衰退していくのと対照的に。
ということは、電通の影響力は今後どんどん弱まっていくだろう。

それに。
電通って「かっこいい」から「ダサい」会社になりつつあるんじゃないかな。ダークなイメージがつきすぎて。
皮肉なことに、旧来のメディアで力を発揮すればするほど古臭いイメージが濃くなる。

広告会社にとって、「ダサい」イメージがつくのって致命的だとおもうんだよね。
この本の中で著者は独占禁止法を根拠に「電通解体」を掲げているけど、もしかしたらそんなことしなくても衰退していくんじゃないかとぼくはおもっている。それも急激に。


とはいえ、テレビCMを発注するような役職にいる人はおじいちゃんが多いだろうから、高齢者向けメディアに高齢者向け広告を出稿する高齢者向け代理店としての地位は確固たるものを保つかもしれないけど。


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2020年4月28日火曜日

【読書感想文】上のおもいつきで死ぬのは下っ端 / 新田 次郎『八甲田山死の彷徨』

八甲田山死の彷徨

新田 次郎

内容(e-honより)
愚かだ。断罪するのはたやすい。だが、男たちは懸命に自然と闘ったのだ。 日露戦争前夜、厳寒の八甲田山中で過酷な人体実験が強いられた。神田大尉が率いる青森5聯隊は雪中で進退を協議しているとき、大隊長が突然”前進”の命令を下し、指揮系統の混乱から、ついには199名の死者を出す。小数精鋭の徳島大尉が率いる弘前31聯隊は210余キロ、11日にわたる全行程を完全に踏破する。2隊を対比して、自然との戦いを迫真の筆で描いた人間ドラマ。

1902年にじっさいにあった 八甲田雪中行軍遭難事件(Wikipedia)を題材にした小説。
小説なので登場人物は仮名だし随所に創作も混じっているが、大まかな話は史実通り。

しかし「八甲田山死の行軍」という言葉は聞いたことがあったが、そこから想像されるものよりずっとひどい出来事だった。
二つの聯隊が真冬の八甲田山(青森県)を行軍。うちひとつの聯隊はなんとか助かったが(とはいえ隊員の多くが凍傷を負っている)が、もうひとつの聯隊は遭難して210名中199名が死亡というとんでもない大事故になっているのだ。

天災と交通事故以外で200人が一度に死ぬなんて日本で他に例のない事故なんじゃないか?

しかもこれ、どうしても雪山を歩く必要があったわけではないのだ。
訓練、それも事前によく計画されたものではなく上官のおもいつきではじまったものなのだ。
「八甲田山は、青森と弘前の中間にある、青森の歩兵第五聯隊にしても、弘前の歩兵第三十一聯隊にしても、雪中行軍をやるとすれば、まことに手頃の山である」
 友田少将は二人の隊長に向って厳粛な面持で言ってから、突然末席に坐っている徳島大尉と神田大尉の方に向き直り、やや語気をやわらげて言った。
「徳島大尉も、神田大尉も雪中行軍についてはなかなかの権威者だそうだな」
 聯隊長と大隊長を飛び越えて、旅団長からの直接の言葉であったから、徳島大尉と神田大尉は椅子をうしろにはねとばすような勢いで立上ると、まず徳島大尉が、
「はっ、雪のことも、寒さのことも知っているといえるほど詳しくは知りません、権威などとはとんでもないことであります」
 と答え、続いて神田大尉は、
「平地における雪中行軍はやったことがございますが、山岳雪中行軍の経験はございません」
 と答えた。
「冬の八甲田山を歩いて見たいと思わないかな」
 旅団長友田少将が二人に向けたその再度の質問はいささか、度を外れたものであった。だいたい、旅団長が、聯隊長、大隊長をさし置いて中隊長に話しかけたのが異例だったのに、八甲田山を歩いて見たいかと問うたのは、旅団長自らが、二人の大尉に直接命令したのも同然であった。
「はっ、歩いて見たいと思います」
 二人は同時に答えた。答えた瞬間、二人はその責任の重大さに硬直した。
上官のおもいつき、おまけに命令ではなく忖度からはじまっている。

「冬の八甲田山を歩いて見たいと思わないかな」
なんちゅうひどい質問だ。
そんなもん、歩きたくないに決まってる。
しかし軍隊でずっと階級が上の上官から「やりたいか」と言われて、「危険なのでやめておきます」と言えるだろうか(言える人間はたぶん隊長になれない)。

この忖度が空前絶後の大惨事を生んだのだ。
軍隊や官僚組織で部下を殺すには、上司の命令すらいらない。
「あの人はおれの友だちだから国有地を安く売却してもらえたら助かるそうだ」だけで十分なのだ。



記録的な悪天候、準備不足、物資不足、経験不足、情報不足、指揮官の判断ミスなど悪条件の重なった青森5聯隊の姿はただただ悲惨だ。
 下士卒の眉毛には水がついていた。手に凍傷を受けた者はもっとも悲惨であった。尿をしたくともズボンの釦をはずすことができないし、またそのあとで釦をかけることができなかった。尿意を催すと、手の利く者を頼んで釦の着脱をして貰わねばならなかった。下士卒の多くは手足に凍傷を負っていた。
 尿意に負けて、釦をひき千切るようにして用を果したあとで、その部分から寒気が入りこんで死を急ぐ原因を作った者もいた。
 釦をはずすことができずに、そのまま尿を洩らした者もいた。尿はたちまち凍り、下腹部を冷やし、行進不能になった。
 下士卒の多くは夢遊病者のように歩いていた。無意識に前の者に従って行き、前の者が立止るとその者も立止った。疲労と睡眠不足と寒気とが彼等を睡魔の俘虜にしたのであった。彼等は歩きながら眠っていて、突然枯木のように雪の中に倒れた。二度と起き上れなかった。落伍者ではなく、疲労凍死であった。前を歩いて行く兵がばったり倒れると、その次を歩いている兵がそれに誘われたように倒れた。
 突然奇声を発して、雪の中をあばれ廻った末に雪の中に頭を突込んで、そのまま永遠の眠りに入る者もいた。
 雪の中に坐りこんで、げらげら笑い出す者もいた。なんともわけのわからぬ奇声を発しながら、軍服を脱いで裸になる者もいた。
この部分は創作ではなく、生存者の談話に基づくものらしい。地獄だ。
じっさいの戦争でもここまで悲惨な体験をしたものはほとんどいなかったんじゃないだろうか。

これは完全に人災だ。
「お話し中でありますが……」
 将校の作戦会議の輪を更に取巻くようにできていた下士官の輪の中から長身の下士官が進み出て、山田少佐に向って挙手の礼をすると、
「ただいま永野医官殿は進軍は不可能だと言われましたが、不可能を可能とするのが日本の軍隊ではないでしょうか、われわれ下士官は予定どおり田代へ向って進軍することを望んでおります」
 その発言と同時に下士官の輪がざわめいた。そうだ、そのとおりだという声がした。更に、二、三名の下士官が進み出る気配を示した。
 山田少佐は、容易ならぬ状態と見て取ると、突然軍刀を抜き、吹雪に向って、
「前進!」
 と怒鳴った。
 それはまことに異様な風景であった。作戦会議を開きながら、会議を途中で投げ出して、独断で前進を宣言したようなものであった。紛糾をおそれて先手を取ったといえばそのようにも見えるけれども、なにか、一部の下士官に突き上げられて、指揮官としての責任を見失ってしまったような光景であった。前進という号令もおかしいし、軍刀を抜いたあたりもこけおどかしに見えた。神田大尉は顔色を変えた。永野軍医は、はっきりと怒りを顔に現わした。だがすべては終った。結論が出たのである。前進の命令が発せられたのであった。
精神主義が幅を利かせ、経験のある地元民間人の声を軽視し、乏しい情報に基づいて判断を下す。そしてなにより、過去の失敗を認めない。
日本的な悪いところが全部出ている。

こうしてバカなトップのせいで未曽有の被害が起こったわけだが、なんともやるせないことに、この5聯隊、上官の生存率は20%近くだったのに対し、その下の階級である下士官の生存率は約8%、さらにいちばん下の兵卒は約3%に過ぎなかったそうだ。

無謀な作戦のせいで下っ端は命を落とし、現場責任者は責任を感じて自決を選んだ。だが現場に行かなかった上官は誰ひとり責任をとっていない。

これが現実なのだ。

新型コロナウイルスの感染拡大という世界の危機に陥っている今、また同じことがくりかえされようとしている(もしくはもう起こっている)。
はあ。やりきれない。

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