2020年3月19日木曜日

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』

平成の通信簿

106のデータでみる30年

吉野 太喜

内容(e-honより)
平成元年。消費税が施行され、衛星放送が始まり、日経平均株価は史上最高値をつけた。それから三十年、日本はどれくらい変わったのか?家計、医療費、海外旅行、体格、様々なアングルからこの三十年間の推移を調査。平成日本のありのままを浮き彫りにする。

昨年、『FACTFULLNESS』という本を読んだ。
さまざまなデータを示して、「みんな悲観するけどほらじっさいは世界はこんなに良くなってるんだよ~」と紹介する本だ。
病気で死ぬ人は減った、戦争も減った、子どもは教育を受けられるようになった、豊かな暮らしができるようになった、と。

その本に載っているデータはもちろん本当で、世界が多くの人にとって生きやすい世の中になっていっているのはまちがいない。
でもその一方でぼくは「いや世界は良くなってるんだろうけど、でもぼくらが生きる日本についてはどうなのさ」ともおもった。

たとえば1989年(平成元年)の若者と2019年(令和元年)の若者、どっちが生きやすいんだろう?
もちろん物質的には2020年のほうが豊かだろう。スマホあるし。それだけで圧勝。写ルンですでは勝負にならない。
でも「将来に希望を持てるか」とか「周りと比べて自分は恵まれない境遇にあるとおもう人はどっちが多いか」とか「今の社会は自分にとっていい社会か」とか尋ねたときに、令和元年の若者からより前向きな答えを引きだせるだろうか。

世界は全体的によくなっている。それはまちがいない。
でも人が幸福を感じるのは絶対的な尺度よりもむしろ相対的な優位性による面が大きい。
日本人は、三十年前と比べて幸福になったのだろうか?



ということで『平成の通信簿』。
平成のはじまりと終わりで比べて、日本をとりまく状況がどう変わったのかをデータで示す。
「日本版・FACTFULLNESS」といった内容だ。

で、ぼくがもともと悲観的な見方をしていたからかもしれないけど、やっぱり残念なデータが目立つ。
 1989(平成元)年の日本の一人あたりGDP(名目)は、世界第4位であった。1988年の第2位からは少し下がったものの、米国やイギリス・フランス・ドイツを上回り、スイスや北欧諸国など、欧州のトップグループと同じ層にあった。
 では現在は、どうなっただろうか。一人あたりGDPの順位は、2000年の第2位をピークに低下をつづけ、2017年のランキングでは日本は25位となった。このランキングには、マカオ、アルバなど、国家ではない地域も含まれているので、これらの扱いによって順位の数字は微妙に異なりうるが、傾向は変わらない。現在の日本は、かつて首位を争った欧州のトップグループからは引き離され、イギリス・フランス・ドイツなど欧州の一軍グループからやや後れをとりつつある。そして、イタリア・スペインなど欧州の二軍グループや、韓国・台湾が後ろに迫っている。
 1989(平成元)年当時、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で、3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり、米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。
 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは、米国、中国に次ぐ世界第3位となり、世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。
 日本のGDPは、1989年から2017年の間に1.6倍に増えている。これだけを見ると、「失われた20年」とはいえ、なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界の中でみると、日本はこの3年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 世界全体のGDPは、この間に4.0倍になった。中国は26.1倍、インドは8.7倍、韓国は6.3倍、米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりも低いが、それでもドイツ3.0倍、フランス2・5倍、イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目である。ちなみに、日本よりも下位は、中央アフリカ(1.4倍)、ブルガリア(1.3倍)、リビア(1.1倍)、イラン(1.1倍)、コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク、アフガニスタン、あるいは北朝鮮など、このデータには含まれていない国もある(3-2)。
経済力だけでいえば「没落」の一言に尽きる。「凋落」でも「零落」でもいい。
もちろん他国が伸びたから、というのもある。日本は早い段階で成長しきっていたからのびしろが少ないのもある。
とはいえ。とはいえ。
「日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目」ってのはあまりに衝撃的なデータだ。
日本より下位の中央アフリカとかリビアとかコンゴ民主共和国って、クーデターや内戦があった国だからね。それらの国よりちょっとマシってのが日本の30年。
大きな自然災害があったとはいえ、戦争もないのにこの数字ってのは相当なもんですよ。
ちなみに高齢者人口が増えてるのは日本だけじゃないからね。同じくらい高齢化が進んでても経済成長してる国もあるからね。高齢化だけのせいにしちゃだめよ。

国の経済が伸びていないのだから、もちろん国民の暮らしは悪くなっている。
支出の内訳でいうと、家賃、インフラ代、家賃、交通費、医療費などの「生きていくために必要なお金」の額が増え、被服費、教育費、娯楽費、交際費などの「余裕のある暮らしをするためのお金」が減っているそうだ。
うーん、せちがらい。ほんとに貧しい国になってるんだなあ。

これを「失政」と呼ばずして何を失政と呼ぶって感じだけど、為政者が責任をとるどころか総括すらしないわけだから、日本の凋落は令和の世になっても止まらないだろうな。

せめて認識だけでも改めないとね。先進国という意識は捨てないと。
モンゴルとかポルトガルといっしょですよ、日本は。
はるか昔に世界の覇権を手に入れそうになった国。それだけ。今は見るかげもない小国のひとつ。

もっとも、個人的にはそれでいいとおもうんだけどね。
没落した中小国家のひとつとしてやっていくならそれなりに幸せにやっていける道はある。小国には小国の幸せがある。
そこでオリンピックだ万博だと身の丈にあわないことを言いださなきゃ、ね。
そういうのは先進国さんや成長中の国家さんに任せましょうよ。ねえ。



国債について知らなかったこと。
 国債には、建設国債と赤字国債(特例国債)がある。公共事業など後世に残る資産を作るために一時的に資金を借りるのが前者、単なる借金が後者である。ただし建設国債で作ったものが本当に資産になるかはわからないので、この区分はかなり恣意的なものである。とはいえ、昭和の日本には、後世のために何かを作る建設国債ならともかく、後世の負担にしかならない赤字国債を発行してはいけないという矜持が一応はあった。
 高度成長期はおおむね均衡財政を維持してきたが、70年代から低成長期に入ると悪化、1975(昭和62)年度、ついに赤字国債を発行するに至った。財政規律はいったん緩むと歯止めがかからない。国債残高はたちまち増加、当時OECDで最悪の水準にあったイタリアと肩を並べるに至った。これに危機感を持った当時の政府は、国鉄や電電公社の民営化など財政再建に取り組んだ。バブル景気の税収増加にも助けられ、1991(平成3)年度の赤字国債の発行額はゼロとなった。
ぼくなんか物心ついたときから日本が借金まみれだから、借金があるのがあたりまえだとおもっていた。国の財政ってそういうものなんだと。
でもそうじゃないんだね。
1975年までは赤字国債を発行していなかったし、1991年も赤字国債はゼロだった。
借金がないのが健全なのだ。そんなあたりまえのことを忘れていた。たぶんみんな忘れている。財務省の人間なんかもう完全に麻痺しちゃってるんだろう。
「借金があっても大丈夫ですよ」と主張するための言い訳は必死で探すけど、借金を返す方法なんて考えようともしていない。



いちばん悲しくなるのがこれ。
 数の少なくなった貴重な人材を、今の日本はどう育てているだろう。教育費の公費負担額の対GDP比をみると、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位、未加盟国を含む40カ国では39位である。トップの中米のコスタリカは、建国当初から教育熱心な国として知られ、教育費にGDPの6%を使うことを憲法に明記している。
 教育費を公私どちらが負担するかは、国によって異なる。欧州の大陸系の国は公費負担の比率が高く、英米系の国は公費負担の比率が低い。そして総額は、英米系のほうが多い。日本は公私の比率では英米系に属するが、私費負担はとくに高等教育で英米ほど多くなく、結果として総額が少なくなっている。私費負担を含む教育費の総額でみても、日本はGDP比で4.1%と、OECDの34カ国の平均5.0%を下回っている。
はああ。
教育費の公費負担分は、コスタリカはGDPの6.6%、アメリカと韓国は4.1%(先進国はだいたいその前後)、そして日本の公費負担分は2.9%……。

情けなくなってくるね。
貧しいのはしかたないにしても、未来に投資しなくなったらもう終わりじゃない。小泉純一郎が総理時代に「米百俵」とか言ってたけど、その話はどうなったの?

子どもに投資するどころか、老人が子どもから借金してる(そして返す気はない)のが日本の状況だからね。
つくづく憂鬱になる。


ほんとに平成ってまるまる日本没落の時代だったんだな。
何がつらいって、その没落が止まる傾向がまったくないことなんだよな。

他人事みたいに言ってるけど、責任の一端はぼくにもあるんだけどね。はぁ。選挙行ってるんだけどなあ。変わんねえなあ。

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2020年3月18日水曜日

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

何者

朝井 リョウ

内容(e-honより)
就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから―。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて…。直木賞受賞作。

もしも過去に戻れるとして、いちばん戻りたいのはいつ頃だろう。高校生のときがいちばん楽しかったし、でも何も考えていない小学生の頃も幸せだったし、結局うまくいかなかったあの子とのデートの日に戻って……。なかなか決められない。

でも「ぜったいに戻りたくない時期」は即決できる。
就活をしていた時期だ。

あの頃はほんとにつらかった。
こないだ、昔友人たちと会話をしていたBBS(ネット掲示板)を久しぶりに見てみた。そこには就活中のぼくがいた。ほんとうにイヤなやつだった。周囲全員を見下し、自分だけが特別な人間であるかのようにふるまい、攻撃的な言葉を隠すつもりもなくまきちらしていた。うげえ。とても見ていられなくなってBBSを閉じた。
「こんなやつとよく友だち付き合いをしてくれていたな」と友人たちに感謝をした(ほとんどは今でもときどき会う友人だ)。

ぼくは、高校までは友だちも多くて勉強もできて「おまえはおもしろいやつだな」とか「個性的だね」とか言われて(「個性的」は必ずしも褒め言葉ではなかったとおもうが)、難関と言われる大学にストレートで入って、ほんとに調子こいていた。
自分は周囲の人間とはまったく違う、いずれ世に広く名前を知られる存在だと本気で思い込んでいた。何も成し遂げていないのに。

で、そのぼくの出鼻がこっぴどくくじかれたのが就活だった。
就活をすると、ぼくは何者でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。誰もぼくを特別扱いしてくれない。
面接でがんがん落とされる。上っ面だけ調子のいいやつが次々に面接を突破しているのに、誰よりも誠実な自分は落とされる。

なんなんだ就活って。仕組みがまちがってるとしかおもえない。
毎日がめちゃくちゃ苦しかった。
だからまったく聞いたこともないような会社の社長から「君こそうちにくるべきすばらしい人材だ!」みたいなことを熱く語られて、すぐに飛びついた。社長の言葉に共感したから、というのを自分への言い訳にしていたがほんとは一日でも早く就活を終わらせたかっただけだった。

今にしておもうと、肥大化しきった自尊心を叩き潰してくれたという意味で就活はいい経験だったといえるかもしれない。
でもそれは十年以上たった今だから言えることで、やっぱり当時は毎日つらかったんだよ。



『何者』は読んでいてつらかった。
この小説には、周囲をうっすらと見下している人物が出てくる。
自尊心のかたまりみたいな人間で、何もしていないくせに自分だけは他と違うとおもいこんでいて、自分だけが繊細で物事を深く考えている人間だと思っていて、真正面から就職活動に取り組む同級生を見下し、かといって就職せずに世捨て人になるほどの覚悟もなく傷つかないような鎧をたくさん着込んでから就活に勤しむ。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。
二十一歳だったぼくそのものだ。

この登場人物はことあるごとに、社会の矛盾に対して一席ぶつ。それを周囲が感心して聞いている、と当人は思っている。「個性的だね」「いろいろ考えてるんだね」といったお茶を濁す言葉を、額面通りに受け取って。
でもじっさいは、自分が見下している周囲の人間から見下されている。理屈だけこねまわして自分が傷つかないように必死に逃げ回っているのだということを見透かされている。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。

たぶん世の中に何万人といるんだろう。
自分だけは他の就活生とは別の考え方で就活をしている、と思っている人間が。

『何者』は、そんなありきたりな人間を容赦なく切り捨てる。
 たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。
 俺は、自分で、自分のやりたいことをやる。就職はしない。舞台の上で生きる。
 ギンジの言葉が、頭の中で蘇る。就活をしないと決めた人特有の、自分だけが自分の道を選んで生きていますという自負。いま目の前にいる隆良の全身にも、そのようなものが漂っている。

「『企業から採用してもらうために自分を型にはめて偽りの仮面をかぶって就活するなんてダサい』という考えこそがダサい、と。
そうなのだ。
就活をしている人間は何も考えずに就活をしているわけではない。
「自分を偽って面接に臨むことが正解なのか」なんて考えをとっくに通過した結果として面接に臨んでいるのだ。
何も考えていないのは、それをばかにするぼくのほうだったのだ。

読んでいると過去の自分を殺したくなってくる。つらい。



これだけでもぼくにはグサグサと刺さったのに、後半の展開はすごかった。もう息ができないぐらい苦しかった。
「こういうイタいやついるよねー」って半分客観的に読んでいたら、「いやこれまさしくおまえの姿なんだよ!」って小説の内側から指をつきつけられた気分。
観察しているつもりになっていたら、いつのまにか観察される側になっている。

やめてくれえ。
これ以上傷口を広げないでくれえ。痛い痛い痛い痛い。

タイムマシンで過去に戻って就活をやっているぼくの姿を見せつけられているような。いちばん戻りたくない時期なのに。地獄だ。



この小説を貫くキーワードは「就活」と「SNS」だ。
ぼくが学生のときはSNSは誰もやってなかった。卒業ぐらいのタイミングでやっとmixiが広まった。FacebookもInstagramもtwitterもなかった。せいぜいさっきも書いたようなBBSぐらい。

SNSのある時代に学生生活を送らなくてよかった、とおもう。『何者』を読んで余計に。

だってSNSっていやおうなしに「何者でもない自分」を突きつけてくるツールだもん。
すごい人がすごいことを発信している。どうでもいいことをつぶやくだけで何千という「いいね!」をもらう人がいる一方で、自分の渾身のツイートには誰も反応しない。
すごく残酷だよね。

一方で、かんたんに自分をとりつくろうこともできる。だけど無理していることがみんなにばれている。ばれていることにも気づいている。でもやめられない。

ぼくはもう老いて「何者でもない自分」として生きていく覚悟をある程度身にまとったから(完全に捨てられたわけではない)なんとか耐えられるけど、「もうすぐ功成り名遂げるはずの自分」として生きていた学生時代だったらとても耐えられなかった。

でも逆にSNS慣れしてる若い人のほうがそういうくだらない「自己と世間の評価のギャップ」をあっさり乗りこえてたりするのかなあ。それはそれでちょっと寂しい話だなともおもう。
現実を見るのは大事だけど、現実ばかり見なきゃいけないのもつらいよなあ。



就活のときに味わった苦しさをもう一度味わわされた気分だ。
それどころじゃない。
苦しさを何倍にも増幅されて与えられたようだ。

めちゃくちゃひりひりする小説だった。
三十代の今だからなんとか耐えられたけど。
これを二十五歳ぐらいで読んでたら発狂して自傷行為に及んでいたかもしれないな。それぐらいの殺傷能力がぼくに対してはあった。

朝井リョウ氏のデビュー作『桐島、部活やめるってよ』は特に何の感情も揺さぶられなかったので油断してた。ぐわんぐわんと揺さぶられた。

就活が嫌いだったすべての人におすすめしたい。
いやーな気持ちになれること請け合い。

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2020年3月17日火曜日

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

ララピポ

奥田 英朗

内容(e-honより)
みんな、しあわせなのだろうか。「考えるだけ無駄か。どの道人生は続いていくのだ。明日も、あさっても」。対人恐怖症のフリーライター、NOと言えないカラオケボックス店員、AV・風俗専門のスカウトマン、デブ専裏DVD女優のテープリライター他、格差社会をも笑い飛ばす六人の、どうにもならない日常を活写する群像長篇。下流文学の白眉。

内容説明に「下流文学」とあるが、まさに下流文学。
登場人物がみんな社会の下層にいる人間ばかり。ただ貧しいだけじゃない。向上心がない、モラルにも欠けている、地道な努力は嫌い(風俗のスカウトマンだけは地道に努力してるけど)、でも他人への嫉妬心は強い、濡れ手で粟だけは夢見ている。
なかなかどうしようもない連中だ。

しかしそれがリアル。
清貧なんて嘘。貧しい出自で懸命に努力を積み重ねて成功を手にする、なんて例外中の例外。
貧しい環境にある人ほど明日が見えなくなってゆく。明日が見えないのに将来に向かっての努力なんてできるわけがない。
まともな方法で人生大逆転なんてできない。大博打を打つにも資本がいるのだ(金だけでなく時間とか教育とか人脈とか)。

貧困からの一発逆転手段といったら非合法なやりかただけ。
で、違法スレスレ(またはアウト)の方法に手を染める。
それはそれで成功を手にするのはむずかしい。まして非合法なやりかたで継続的な成功を収めるなどまず不可能だろう。
かくしてひとつの過ちをごまかすためにまた別の悪事に手を染め、あとはどんどん転落の一途……。

といったのが全篇に共通するおおまかな展開。
しかしじめじめせずに乾いたユーモアで包みながら物語は目まぐるしく動くので、読んでいて楽しい。
けっこう陰惨なエピソードもあるのだが(介護老人の死とか放火とか売春とか逮捕とか盗撮とか……。よく考えたら陰惨なやつばっかりじゃないか)、でもからっとした筆致のおかげで気が詰まらない。

最後は下流なりの小さな幸せをつかむ……みたいな展開にはなるのかとおもったら、そうはならずに、最後まで救いのない結末だった。個人的にはこのほうが好き。とってつけたような救済を与えたって嘘くさいしかえってみじめったらしいもん。とことん突き離してどん底に叩き落とすほうがいい。フィクションなんだし。

ストーリーはおもしろかったんだけど、性描写が多くて(全篇にある)電車の中で読みながら「これは窮屈な満員電車で読む本じゃなかったな」と後悔した。

性描写があるエンタテインメント小説というより、もはや明るく楽しいポルノ小説。



ちなみにタイトルの「ララピポ」とは「a lot of people」のことだそう。
たしかに早口で言うとそう聞こえる。
だからなんだって話だけど(この小説本編にもあんまり関係ない)、タイトルに使いたくなる気持ちはなんとなくわかるなー。

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2020年3月16日月曜日

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』

ネトゲ廃人

芦崎 治

内容(e-honより)
現実を捨て、虚構の人生に日夜のめり込む人たち。常時接続のPCやスマホが日用品と化した今、仮想世界で不特定多数と長時間遊べるネットゲーム人気は過熱する一方だ。その背後で、休職、鬱病、育児放棄など社会生活に支障をきたす「ネトゲ廃人」と呼ばれる人々を生んだ。リアルを喪失し、時間と金銭の際限ない浪費へ仕向けられたゲーム中毒者の実態に迫る衝撃のノンフィクション。
ノンフィクションというより、ネットゲーム中毒になった人たちへのインタビュー集。
あくまで実体験を積み重ねただけで、考察は少ない。第9章の『オンラインゲーム大国、韓国の憂鬱』だけがちょっとデータ多めだけど、それでも個別の事例や談話が中心だ。

なので読んでいても「ふーん、たいへんだなー」とおもうだけ。
対策とか治療法とかは何もない。
ゲーム雑誌の企画でおこなわれたインタビューらしいので、ゲーム会社への批判的な視点もない。
つくづく何もない本。
まるでクリアもゲームオーバーもなくだらだらと続いてゆくオンラインゲームのように。



ゲームにはまっている(いた)人たちの話を読んでおもうのは、ネットゲームにはまる人が社会でうまくやっていけなくなるというよりも、社会でうまくやっていけない人がネットゲームにはまるのだということ。

家庭に問題があったり、学校や職場で疎外感を味わっている人がネットゲームに居場所を求めたり。
ゲームは避難場所なのだ。


ぼくはあまりゲームに夢中になることはないのだが、いっときネット大喜利なるものにはまっていた。2004年~2012年ぐらいのことだ。
インターネット上で大喜利好きの人たちが集まって、お題に対してこれぞとおもう回答を出すという遊びだ。で、回答に対してみんなで投票をして、順位をつける。
たあいのない遊びだ。でもこれに夢中になった。ひとつのお題に対して何十個も回答を考えたり、一週間ずっと回答を考えつづけたり。ぼくは回答もしたし出題もしたし自分で大喜利サイトも運営したしブログで他人の回答について寸評したしときには熱く議論をしたりもした。
傍から見ていると、なんでそんなことに夢中になっているの、それやって何になるの、と言いたくなることだとおもう。
でも当時のぼくは夢中になっていた。ぼくだけでなく、ネット大喜利に没頭している人は何十人、何百人といた。

だからネットゲームにはまる人の気持ちもわかる。
ネット大喜利で自分の回答が何十人の中で一位を獲ったときの快感は、実生活ではなかなか味わえないものだ。自分の才能が認められた! という気になる。

当時ぼくは就職活動がうまくいかなかったり、新卒で入った会社をすぐ辞めたり、体調を崩して無職だったり、ようやくフリーターとしてバイトをはじめたりと、あまりうまくいっていない時期だった。だからこそ余計にネット大喜利の世界は居心地が良かった。唯一の認められる場という気さえした。


それでも実生活に悪影響が出るほどネット大喜利にはまっていた人はそう多くなかっただろう。それは、ネット大喜利を運営しているのもみんな素人だったからだ。
今はどうだか知らないけど、当時のネット大喜利は運営側もみんな趣味でやっていた。金儲けの要素はぜんぜんなかった。課金制度もないし、やめられなくなるような巧妙なイベントやアイテムも存在しなかった。もしあったら、ぼくなんかはもっともっとはまって抜けだせなくなっていたかもしれない。

ぼくはもうネット大喜利をやっていないけど、当時知り合った人とは今も交流があるし(ほぼオンラインでだけど)、ネット大喜利があったから人生の低迷期をそこそこ楽しく乗りこえることができたともおもっている。

ゲームも同じで、ゲームばかりして人と出会わなくなるのは、きっとゲーム以外に原因があるからなのだ。
それを「ゲームこそが悪の根源だ! ゲームは一日三時間まで!」と言うのは、「薬を飲んでいる人は薬を飲まない人に比べて体調が悪い傾向がある! 薬を飲むな!」と言うようなものだ。
ゲームにはまっている人からゲームを取り上げてもその時間を勉強に向けるようにはならないよ。他の場所に逃げるか、何もしなくなるだけだよ。



数々の「ゲーム廃人」が口をそろえて言っていることがある。
「ゲームばっかりやってきたぼくが言うのは変ですが……」
「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」
「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」
 そう断って、反省とも自戒ともとれる警鐘を鳴らした。
 彼らは異口同音にこう語った。
「自分が親だったら、子どもには、やらせない」
子どものときにはまっていたらヤバかった、幼い弟にはやらせないようにしていた、自分の子どもにはやらせたくない。
ゲームにどっぷりはまっている人でも(はまっている人だからこそ?)子どもにはゲーム漬けになってほしくないとおもっているようだ。

大人とちがって子どもは、行動の選択肢が多くない。学校に居場所がなければ家にいるしかない。家でやることといったらゲームぐらいしかない。
「稼がないと生きていけない」「このままじゃ留年/退学になる」といったきっかけも少ないので、親や学校が何もしなければ外に出る機会はない。
子どもの場合、大人以上にとことんまではまりやすいのだろう(そしてゲーム廃人になってそのまま戻ってこられない子どもも多いのだろう)。

またおそろしいのは「親がゲーム廃人になった子ども」の将来だ。
 ところで、両親が毎晩のようにパソコンの画面を見続けていれば、子どもに与える影響は少なくないだろう。子どもは小学三年の男の子と小学一年の男の子がいる。上の子は三歳の時にパソコンに触れた。

(中略)

「おやすみなさい……」
 午後八時になると、子どもは一言いって布団に入るようになった。
「何か理由はわからないけど、午後八時になると勝手に布団に入ってくれる。ロボット化されていくというのか。子どもがゲームに理解のある子なので、『ぼくたちは寝なきゃいけない』という気持ちがあったのかも。主人がいないときは、主人の代わりにプレイをお願いすると、操作もできる。ゲーム仲間には、『ご主人より、息子のほうがゲームはうまい』という人もいます。上の子だけですけど、チャットもできるし、やりたいときには、ゲームをやらせてあげている」と言う。
 長男はおとなしい、喋らない子に育った。
「ママは、ちょっと忙しいからね」
 片山百合がゲームを優先しているので甘えてこない。用でもない限り下の子と一緒に遊んでいる。
さすがにこのエピソードには背筋が冷たくなった。

いやいやいや……。
「子どもがゲームに理解のある子なので」じゃねえだろ……。
どう考えたってすでに子どもの発達に影響出てるだろ……。


親本は2009年刊行なので、「ネトゲ」とはスマホゲームではなくPCゲームのこと。
小中学生でもスマホで手軽にゲームをやるのがあたりまえの今はこのときよりももっと状況が悪くなっているんじゃないかな。

「ゲームが教育に悪い!」と安易な決めつけはしたくないけど(そしてゲームそのものではなくゲームにはまる原因をなんとかしないと意味がないとおもっているけど)、子どもがゲームに大量の時間を投下するのはどう考えたって良くない。

体系的なゲーム依存治療法が確立されていない今、「子どもをゲームから遠ざける」が最適な方法になっちゃうんだよなあ。
ほんとはゲーム業界こそがゲーム依存症の治療にお金と労力を割くべき(そっちのほうが長期的には得をする)だとおもうよ。

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2020年3月13日金曜日

【読書感想文】オスとメスの利害は対立する / ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』


人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

ジャレド=ダイアモンド(著)  長谷川 寿一(訳)

内容(e-honより)
人間は隠れてセックスを楽しみ、排卵は隠蔽され、一夫一婦制である―ヒトの性は動物と比べてじつは奇妙である。性のあり方はその社会のあり方を決定づけている。ハーレムをつくるゴリラや夫婦で子育てをする水鳥、乳汁を分泌するオスのヤギやコウモリなど動物の性の“常識”と対比させながら、人間の奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

原題は『Why is Sex Fun?』で直訳すると『セックスはなぜ楽しいか』なのだが(和訳版元々はこの題で出ている)、なぜか文庫化の際に『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』となんとも野暮ったいタイトルに改題している。

まあ原題だと学術書だということが伝わりにくいし大学の講義で扱いにくいので改題はいたしかたないのだけど……。
にしても『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』はちょっとつまんなすぎるなあ。



だれもが知っているように、人間は動物だ。哺乳類だ。
ところが人間は他の哺乳類、動物とはいろんな面で性行動が異なる。例外だらけなのだ。
 また一般的に社会生活をする哺乳動物は、群れのメンバーの見ている前で交尾を行なう。たとえば発情したメスのバーバリーマカクは群れのあらゆるオスと交尾を行なうが、他のオスに見られないように隠れたりはしない。こうしたおおっぴらな繁殖行動が多いなか、例外として最もよく知られているのはチンパンジーの性行動だ。大人のオスと発情したメスは群れを離れ、二匹だけで数日間を過ごす。研究者たちはこの行動を「コンソート行動」または「ハネムーン行動」と呼んでいる。ところが配偶者とコンソート関係を結び二匹だけで交尾を行なったメスが、同じ発情サイクル[通常一〇~一四日間つづく]のあいだに別のオスたちと、今度は群れのメンバーのいる前で交尾を行なうこともあるのだ。
 ほとんどの哺乳動物のメスはさまざまな目立つシグナルを発し、いまが繁殖サイクルのなかで受精可能な短い排卵時期であることをまわりに宣伝する。そのような宣伝のシグナルには、性器のまわりが鮮やかに赤くなるなど視覚的なものもあれば、強烈な匂いを発するなど嗅覚に訴えるものもある。また、鳴き声を上げるといった聴覚的なものや、大人のオスの前にかがみこみ、性器を見せるなど行動的なシグナルもある。メスが交尾を誘うのは受精の可能性のある数日だけで、それ以外の時期にはオスを刺激する性的シグナルを出きない。そのためオスのほうも普段はメスにまったく、あるいはほとんど性的な関心を示さない。それでもオスが性的関心から寄ってきた場合、メスはどんなオスであれ拒絶する。つまり動物にとって交尾は決して楽しむためのものではなく、繁殖という機能から切り離されることはほとんどないのだ。だがこの一般論にもやはり例外がある。ボノボ(ピグミーチンパンジー)やイルカなど少数の動物種は、明らかに繁殖以外のために交尾を行なうのである。
 最後に、大多数の野生哺乳動物にとって、閉経は正常な現象ではない。閉経とは、老年期に繁殖機能が完全に停止してしまうことで、それ以前の繁殖可能な期間にくらべるとはるかに短いにせよ、以後かなりのあいだ不妊の状態がつづく現象をさす。一方、野生動物の場合は、死ぬ瞬間まで受胎可能か、加齢とともに少しずつ繁殖能力が衰えるかのどちらかである。
人間だけが交尾を他の個体から隠れておこなう、人間だけが排卵時期以外でも交尾する、人間だけが閉経する(生殖機能がなくなってからも生き続ける)……。
(いくつかの例外はあるにせよ)ヒトだけが持つ特徴がいくつもある。

どれも、生物として一見不利になることばかりだ。
チャンスがあればどんどん交尾をしたほうが遺伝子を残せるし、受精のチャンスがないときにまで交尾をするのはエネルギーの無駄だ。閉経してしまったら子どもを産めないのだから死ぬ直前まで受胎できるほうがいい……。
いわれてみればそのとおりだ。

この人間の奇妙な習性の謎を解くのが『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』だ。
うん、わかりやすくていいタイトルだな(さっきと言ってることがちがうぞ)。



これら「人間の奇妙な性」が進化した理由を、ひとつひとつわかりやすく説明してくれる。さすがはジャレド=ダイアモンド。
ところでジャレド=ダイアモンドって『銃・病原菌・鉄』とか『危機と人類』が有名だから「へえ、文化人類学以外の本も書くのか」なんておもってたけど、本業が進化生物学者なんだってね。こっちが専門だったのかー。


たとえば閉経について。
閉経をするのは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができるから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすいんだと。

なるほどね。ヒト以外の動物だと知識や経験を伝達できないから、閉経後に長生きする理由がないけど、ヒトには言語があるから「おばあちゃんの知恵袋」が生存率を高めてくれたのだ。
しかしそれは文字が発達する以前の話であって、近代においてはおばあちゃんは若い人より有用な知識や仕事効率の上で劣っていることのほうが多いはず。
もしかするとあと何万年かしたら人間の女性は閉経しなくなるか、閉経と同時に寿命が尽きるように進化していくのかもしれないなあ。

現代は、高年齢女性が「なんのために生きるか」を見いだしにくい時代なんだろうな。
もちろん人間は子孫を残すためだけに生きてるわけじゃないけどさ。でもどれだけえらそうなことを言ってもぼくらは遺伝子の乗り物だから、遺伝子を運ぶ役に立てなくなったまま生きていくのはつらいはず。
更年期障害のつらさってそういうところから来ているのかもしれないね。



男と女の永遠のテーマ、結婚と浮気について。
 だれもがよく知っているように、男性と女性では婚外性交にたいして異なった態度をとるが、その生物学的基礎も子育てから得る遺伝的価値に性差があることに根差している。伝統的な人間社会では、子供には父親の世話が不可欠だったので、男性は既婚の女性と婚外性交し、その夫が、他人の子とは知らずに生まれた子供を育ててくれた場合に最も大きな利益を得た。男性と既婚女性が浮気をすることで、男性は子の数を増やせるが、女性は増やせない。この決定的な違いから男性と女性が婚外性交に走る動機も異なってくる。全世界のさまざまな社会を対象に行なわれた社会調査によると、男性は女性にくらべて、偶発的なセックスや短期間の肉体関係など、バラエティーに富んだ性行動にたいしてより強い興味を抱いていることがわかった。男性がそのような行動傾向を示すのももっともなことである。女性とは異なり、男性はこうした行動傾向を通じて、遺伝的成功を最大化できるからである。一方、女性が婚外性交にかかわる動機は、結婚生活に満足がいかないからという自己報告が多い。夫に不満な女性は新たな長期的関係を求める傾向があり、再婚を求めたり、現在の夫よりも財力のある男性や、よい遺伝子をもつ男性と長期的な婚外関係を求めたりするのである。
男と女は子を産むためのパートナーでありながら、その利害は必ずしも一致しない。ときには対立する。

男も女も、遺伝子を残すためだけでいえば「子どもをつくって世話はパートナーに押しつけて自分はさっさと浮気する」が最適解になる。
ところが妊娠・出産までに投じたコストが男と女ではまるでちがう。だから子どもの押し付けあいになればどうしたって女が不利になる(親権問題というと両者とも引き取りたがることが多いが、遺伝子の保存の観点でいえば押しつけるほうがいい)。
こういう事情があるから、男と女では結婚や浮気に対する最適な戦略が異なる。当然の話だ。人間だけでなく、有性生殖をする動物ならみんなそうだ。

なのに人間だけが「夫婦で同じ価値観を」という無茶を求めるから話がややこしくなる。


高校生のとき、家庭科のテストで「なぜ結婚してパートナー関係を結ぶのがよいか説明しなさい」という問いが出された。
ぼくは「今の日本では慣例的に一夫一妻制を布いているがそれが最良の選択肢ではない。種の保存や多様化のためには婚外交渉を積極的におこなうほうがよい」みたいなことを書いた。
そしたらおばちゃん教師から怒りのこもったコメントを書かれた。なんと書いてあったかは忘れたが、理屈ではなく「こんなものダメに決まってるでしょ! ダメだからダメ!」みたいな論調だった。

でもぼくが書いたことはまちがってなかったのだとこれを読んで改めておもう。
もちろん一夫一妻制にもメリットはあるが、それは普遍的に正しい制度ではなく、あくまで「近代の日本においては比較的マシ」程度だ。べつの制度のほうが良くなる時代がくるかもしれない。いや、もしかしたらもうすでに来ているかも。だって今、一夫一妻制の結果(それだけじゃないけど)人口構成がどんどんいびつな形になっているもん。

結婚して一対一の関係は結ぶけど、ときどきは浮気をする。そして浮気相手の子どもを作ることもある。浮気をするメリットは男のほうが大きいので、男が浮気をすることのほうが女よりも多い。
こっちのほうが生物として自然なことなのだ。

言っとくけどぼくは婚外恋愛を推奨してるわけじゃないよ。あくまで生物として自然という話ね。
人間だから生物としての自然さより社会的規範を優先させるべきという考えもわかる。
だけどそれは種の繁栄の観点では最適な方法ではない。
だから「性交渉は慎重に。決まったパートナーとだけ。浮気なんてもってのほか。パートナーの子どもを産んで育てましょう」というルールを守れば守るほど人口が減っていくのも自然なことなのかもしれない。

そういやフランスはシングルマザーへの保護を手厚くしたら少子化が少しだけ解消されたという話を聞いたことがあるなあ。
日本も本気で少子化対策をするなら、そろそろ「伝統的な家族観」という虚像を捨てさったほうがいいのかもしれない。ほどほどに浮気をして外に子どもを作る、こそが本当に伝統的な家族観なのだし。



なぜ授乳をするのがメスなのか、という話。
あたりまえでしょ、と言いたくなるかもしれないが出産はともかく授乳は必ずしもメスがやる必要がない(出産についてはメスの仕事というより、出産する側の性をメスと呼ぶという定義そのものの話だ)。

いくつかの動物ではメスではなくオスが子育てをする。だったらオスが授乳できたほうが都合がいい。
じっさい、乳を分泌できる人間の男も存在するそうだ。
 このように、ヒトがダヤクオオコウモリにつづくオスの乳汁分泌の第一候補となる条件はずらりと揃っている。実際にヒトの男性が自然淘汰を通して完全に乳汁分泌をするようになるには数百万年がかかるだろうが、われわれにはテクノロジーという強い味方があり、進化のプロセスを一気に縮めることができる。手による乳頭の刺激とホルモン注射を組み合わせれば、出産を待つ父親――彼の親としての確実性はDNA鑑定によって裏づけられている――の乳を出す潜在能力は、遺伝的な変化を待たずとも、すぐに発達するだろう。オスの乳汁分泌に秘められた利点は測りしれないほどある。それが可能になれば、いまは女性にしかもてない親子の感情的な絆が、父親にも得られるようになるだろう。実際、多くの男性が、授乳によってもたらされる母子の特殊な結びつきを羨ましく思っている。授乳が伝統的に女性の特権であることで、男性は疎外感を感じているのだ。
感じたよ、ぼくも。疎外感。

なるべく子育てに関わりたいとおもっていても、授乳だけはぜったいに代われない。
赤ちゃんって夜中に泣くから、そのたびに母乳をあげて眠らせる(粉ミルクでもいいけど、熱湯で溶かして、冷めるまで待って、飲みおわったら煮沸消毒して……って夜中にやんなきゃいけないの超めんどくさいんだよね)。
そうすると子どもは母親といっしょに寝ることになる。「今日はぼくが代わるよ」ってわけにはいかない。

長女が小さいときは、ぼくとお風呂に入って、ぼくと本を読んでも、寝るときになったら妻の布団に行ってしまう。
目を覚ましておかあさんがいなければ、いくらぼくがあやしても泣きやまない。妻がおっぱいを口にふくませるとぴたっと泣きやむ。
そのたびに「おっぱい、ずるい!」とおもったものだ。

ふたりめのときは「妻が次女にかかりっきりになるので、ぼくが長女の相手をする」と自然と役割分担できたのでよかったけど、ひとりめのときは疎外感を味わったなあ……。

だったら「安くてかんたんで安全で痛みのない手術を受けるだけで男性でも母乳を出せるようになりますよ!」となったら喜んで手を挙げるかというと、
「いや、それはもうちょっと考えてから……。世の父親の二割ぐらいが手術受けるようになったら、かな……」
と情けない返事をしてしまうんだろうけど。

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