2020年3月16日月曜日

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』

ネトゲ廃人

芦崎 治

内容(e-honより)
現実を捨て、虚構の人生に日夜のめり込む人たち。常時接続のPCやスマホが日用品と化した今、仮想世界で不特定多数と長時間遊べるネットゲーム人気は過熱する一方だ。その背後で、休職、鬱病、育児放棄など社会生活に支障をきたす「ネトゲ廃人」と呼ばれる人々を生んだ。リアルを喪失し、時間と金銭の際限ない浪費へ仕向けられたゲーム中毒者の実態に迫る衝撃のノンフィクション。
ノンフィクションというより、ネットゲーム中毒になった人たちへのインタビュー集。
あくまで実体験を積み重ねただけで、考察は少ない。第9章の『オンラインゲーム大国、韓国の憂鬱』だけがちょっとデータ多めだけど、それでも個別の事例や談話が中心だ。

なので読んでいても「ふーん、たいへんだなー」とおもうだけ。
対策とか治療法とかは何もない。
ゲーム雑誌の企画でおこなわれたインタビューらしいので、ゲーム会社への批判的な視点もない。
つくづく何もない本。
まるでクリアもゲームオーバーもなくだらだらと続いてゆくオンラインゲームのように。



ゲームにはまっている(いた)人たちの話を読んでおもうのは、ネットゲームにはまる人が社会でうまくやっていけなくなるというよりも、社会でうまくやっていけない人がネットゲームにはまるのだということ。

家庭に問題があったり、学校や職場で疎外感を味わっている人がネットゲームに居場所を求めたり。
ゲームは避難場所なのだ。


ぼくはあまりゲームに夢中になることはないのだが、いっときネット大喜利なるものにはまっていた。2004年~2012年ぐらいのことだ。
インターネット上で大喜利好きの人たちが集まって、お題に対してこれぞとおもう回答を出すという遊びだ。で、回答に対してみんなで投票をして、順位をつける。
たあいのない遊びだ。でもこれに夢中になった。ひとつのお題に対して何十個も回答を考えたり、一週間ずっと回答を考えつづけたり。ぼくは回答もしたし出題もしたし自分で大喜利サイトも運営したしブログで他人の回答について寸評したしときには熱く議論をしたりもした。
傍から見ていると、なんでそんなことに夢中になっているの、それやって何になるの、と言いたくなることだとおもう。
でも当時のぼくは夢中になっていた。ぼくだけでなく、ネット大喜利に没頭している人は何十人、何百人といた。

だからネットゲームにはまる人の気持ちもわかる。
ネット大喜利で自分の回答が何十人の中で一位を獲ったときの快感は、実生活ではなかなか味わえないものだ。自分の才能が認められた! という気になる。

当時ぼくは就職活動がうまくいかなかったり、新卒で入った会社をすぐ辞めたり、体調を崩して無職だったり、ようやくフリーターとしてバイトをはじめたりと、あまりうまくいっていない時期だった。だからこそ余計にネット大喜利の世界は居心地が良かった。唯一の認められる場という気さえした。


それでも実生活に悪影響が出るほどネット大喜利にはまっていた人はそう多くなかっただろう。それは、ネット大喜利を運営しているのもみんな素人だったからだ。
今はどうだか知らないけど、当時のネット大喜利は運営側もみんな趣味でやっていた。金儲けの要素はぜんぜんなかった。課金制度もないし、やめられなくなるような巧妙なイベントやアイテムも存在しなかった。もしあったら、ぼくなんかはもっともっとはまって抜けだせなくなっていたかもしれない。

ぼくはもうネット大喜利をやっていないけど、当時知り合った人とは今も交流があるし(ほぼオンラインでだけど)、ネット大喜利があったから人生の低迷期をそこそこ楽しく乗りこえることができたともおもっている。

ゲームも同じで、ゲームばかりして人と出会わなくなるのは、きっとゲーム以外に原因があるからなのだ。
それを「ゲームこそが悪の根源だ! ゲームは一日三時間まで!」と言うのは、「薬を飲んでいる人は薬を飲まない人に比べて体調が悪い傾向がある! 薬を飲むな!」と言うようなものだ。
ゲームにはまっている人からゲームを取り上げてもその時間を勉強に向けるようにはならないよ。他の場所に逃げるか、何もしなくなるだけだよ。



数々の「ゲーム廃人」が口をそろえて言っていることがある。
「ゲームばっかりやってきたぼくが言うのは変ですが……」
「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」
「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」
 そう断って、反省とも自戒ともとれる警鐘を鳴らした。
 彼らは異口同音にこう語った。
「自分が親だったら、子どもには、やらせない」
子どものときにはまっていたらヤバかった、幼い弟にはやらせないようにしていた、自分の子どもにはやらせたくない。
ゲームにどっぷりはまっている人でも(はまっている人だからこそ?)子どもにはゲーム漬けになってほしくないとおもっているようだ。

大人とちがって子どもは、行動の選択肢が多くない。学校に居場所がなければ家にいるしかない。家でやることといったらゲームぐらいしかない。
「稼がないと生きていけない」「このままじゃ留年/退学になる」といったきっかけも少ないので、親や学校が何もしなければ外に出る機会はない。
子どもの場合、大人以上にとことんまではまりやすいのだろう(そしてゲーム廃人になってそのまま戻ってこられない子どもも多いのだろう)。

またおそろしいのは「親がゲーム廃人になった子ども」の将来だ。
 ところで、両親が毎晩のようにパソコンの画面を見続けていれば、子どもに与える影響は少なくないだろう。子どもは小学三年の男の子と小学一年の男の子がいる。上の子は三歳の時にパソコンに触れた。

(中略)

「おやすみなさい……」
 午後八時になると、子どもは一言いって布団に入るようになった。
「何か理由はわからないけど、午後八時になると勝手に布団に入ってくれる。ロボット化されていくというのか。子どもがゲームに理解のある子なので、『ぼくたちは寝なきゃいけない』という気持ちがあったのかも。主人がいないときは、主人の代わりにプレイをお願いすると、操作もできる。ゲーム仲間には、『ご主人より、息子のほうがゲームはうまい』という人もいます。上の子だけですけど、チャットもできるし、やりたいときには、ゲームをやらせてあげている」と言う。
 長男はおとなしい、喋らない子に育った。
「ママは、ちょっと忙しいからね」
 片山百合がゲームを優先しているので甘えてこない。用でもない限り下の子と一緒に遊んでいる。
さすがにこのエピソードには背筋が冷たくなった。

いやいやいや……。
「子どもがゲームに理解のある子なので」じゃねえだろ……。
どう考えたってすでに子どもの発達に影響出てるだろ……。


親本は2009年刊行なので、「ネトゲ」とはスマホゲームではなくPCゲームのこと。
小中学生でもスマホで手軽にゲームをやるのがあたりまえの今はこのときよりももっと状況が悪くなっているんじゃないかな。

「ゲームが教育に悪い!」と安易な決めつけはしたくないけど(そしてゲームそのものではなくゲームにはまる原因をなんとかしないと意味がないとおもっているけど)、子どもがゲームに大量の時間を投下するのはどう考えたって良くない。

体系的なゲーム依存治療法が確立されていない今、「子どもをゲームから遠ざける」が最適な方法になっちゃうんだよなあ。
ほんとはゲーム業界こそがゲーム依存症の治療にお金と労力を割くべき(そっちのほうが長期的には得をする)だとおもうよ。

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2020年3月13日金曜日

【読書感想文】オスとメスの利害は対立する / ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』


人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

ジャレド=ダイアモンド(著)  長谷川 寿一(訳)

内容(e-honより)
人間は隠れてセックスを楽しみ、排卵は隠蔽され、一夫一婦制である―ヒトの性は動物と比べてじつは奇妙である。性のあり方はその社会のあり方を決定づけている。ハーレムをつくるゴリラや夫婦で子育てをする水鳥、乳汁を分泌するオスのヤギやコウモリなど動物の性の“常識”と対比させながら、人間の奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

原題は『Why is Sex Fun?』で直訳すると『セックスはなぜ楽しいか』なのだが(和訳版元々はこの題で出ている)、なぜか文庫化の際に『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』となんとも野暮ったいタイトルに改題している。

まあ原題だと学術書だということが伝わりにくいし大学の講義で扱いにくいので改題はいたしかたないのだけど……。
にしても『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』はちょっとつまんなすぎるなあ。



だれもが知っているように、人間は動物だ。哺乳類だ。
ところが人間は他の哺乳類、動物とはいろんな面で性行動が異なる。例外だらけなのだ。
 また一般的に社会生活をする哺乳動物は、群れのメンバーの見ている前で交尾を行なう。たとえば発情したメスのバーバリーマカクは群れのあらゆるオスと交尾を行なうが、他のオスに見られないように隠れたりはしない。こうしたおおっぴらな繁殖行動が多いなか、例外として最もよく知られているのはチンパンジーの性行動だ。大人のオスと発情したメスは群れを離れ、二匹だけで数日間を過ごす。研究者たちはこの行動を「コンソート行動」または「ハネムーン行動」と呼んでいる。ところが配偶者とコンソート関係を結び二匹だけで交尾を行なったメスが、同じ発情サイクル[通常一〇~一四日間つづく]のあいだに別のオスたちと、今度は群れのメンバーのいる前で交尾を行なうこともあるのだ。
 ほとんどの哺乳動物のメスはさまざまな目立つシグナルを発し、いまが繁殖サイクルのなかで受精可能な短い排卵時期であることをまわりに宣伝する。そのような宣伝のシグナルには、性器のまわりが鮮やかに赤くなるなど視覚的なものもあれば、強烈な匂いを発するなど嗅覚に訴えるものもある。また、鳴き声を上げるといった聴覚的なものや、大人のオスの前にかがみこみ、性器を見せるなど行動的なシグナルもある。メスが交尾を誘うのは受精の可能性のある数日だけで、それ以外の時期にはオスを刺激する性的シグナルを出きない。そのためオスのほうも普段はメスにまったく、あるいはほとんど性的な関心を示さない。それでもオスが性的関心から寄ってきた場合、メスはどんなオスであれ拒絶する。つまり動物にとって交尾は決して楽しむためのものではなく、繁殖という機能から切り離されることはほとんどないのだ。だがこの一般論にもやはり例外がある。ボノボ(ピグミーチンパンジー)やイルカなど少数の動物種は、明らかに繁殖以外のために交尾を行なうのである。
 最後に、大多数の野生哺乳動物にとって、閉経は正常な現象ではない。閉経とは、老年期に繁殖機能が完全に停止してしまうことで、それ以前の繁殖可能な期間にくらべるとはるかに短いにせよ、以後かなりのあいだ不妊の状態がつづく現象をさす。一方、野生動物の場合は、死ぬ瞬間まで受胎可能か、加齢とともに少しずつ繁殖能力が衰えるかのどちらかである。
人間だけが交尾を他の個体から隠れておこなう、人間だけが排卵時期以外でも交尾する、人間だけが閉経する(生殖機能がなくなってからも生き続ける)……。
(いくつかの例外はあるにせよ)ヒトだけが持つ特徴がいくつもある。

どれも、生物として一見不利になることばかりだ。
チャンスがあればどんどん交尾をしたほうが遺伝子を残せるし、受精のチャンスがないときにまで交尾をするのはエネルギーの無駄だ。閉経してしまったら子どもを産めないのだから死ぬ直前まで受胎できるほうがいい……。
いわれてみればそのとおりだ。

この人間の奇妙な習性の謎を解くのが『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』だ。
うん、わかりやすくていいタイトルだな(さっきと言ってることがちがうぞ)。



これら「人間の奇妙な性」が進化した理由を、ひとつひとつわかりやすく説明してくれる。さすがはジャレド=ダイアモンド。
ところでジャレド=ダイアモンドって『銃・病原菌・鉄』とか『危機と人類』が有名だから「へえ、文化人類学以外の本も書くのか」なんておもってたけど、本業が進化生物学者なんだってね。こっちが専門だったのかー。


たとえば閉経について。
閉経をするのは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができるから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすいんだと。

なるほどね。ヒト以外の動物だと知識や経験を伝達できないから、閉経後に長生きする理由がないけど、ヒトには言語があるから「おばあちゃんの知恵袋」が生存率を高めてくれたのだ。
しかしそれは文字が発達する以前の話であって、近代においてはおばあちゃんは若い人より有用な知識や仕事効率の上で劣っていることのほうが多いはず。
もしかするとあと何万年かしたら人間の女性は閉経しなくなるか、閉経と同時に寿命が尽きるように進化していくのかもしれないなあ。

現代は、高年齢女性が「なんのために生きるか」を見いだしにくい時代なんだろうな。
もちろん人間は子孫を残すためだけに生きてるわけじゃないけどさ。でもどれだけえらそうなことを言ってもぼくらは遺伝子の乗り物だから、遺伝子を運ぶ役に立てなくなったまま生きていくのはつらいはず。
更年期障害のつらさってそういうところから来ているのかもしれないね。



男と女の永遠のテーマ、結婚と浮気について。
 だれもがよく知っているように、男性と女性では婚外性交にたいして異なった態度をとるが、その生物学的基礎も子育てから得る遺伝的価値に性差があることに根差している。伝統的な人間社会では、子供には父親の世話が不可欠だったので、男性は既婚の女性と婚外性交し、その夫が、他人の子とは知らずに生まれた子供を育ててくれた場合に最も大きな利益を得た。男性と既婚女性が浮気をすることで、男性は子の数を増やせるが、女性は増やせない。この決定的な違いから男性と女性が婚外性交に走る動機も異なってくる。全世界のさまざまな社会を対象に行なわれた社会調査によると、男性は女性にくらべて、偶発的なセックスや短期間の肉体関係など、バラエティーに富んだ性行動にたいしてより強い興味を抱いていることがわかった。男性がそのような行動傾向を示すのももっともなことである。女性とは異なり、男性はこうした行動傾向を通じて、遺伝的成功を最大化できるからである。一方、女性が婚外性交にかかわる動機は、結婚生活に満足がいかないからという自己報告が多い。夫に不満な女性は新たな長期的関係を求める傾向があり、再婚を求めたり、現在の夫よりも財力のある男性や、よい遺伝子をもつ男性と長期的な婚外関係を求めたりするのである。
男と女は子を産むためのパートナーでありながら、その利害は必ずしも一致しない。ときには対立する。

男も女も、遺伝子を残すためだけでいえば「子どもをつくって世話はパートナーに押しつけて自分はさっさと浮気する」が最適解になる。
ところが妊娠・出産までに投じたコストが男と女ではまるでちがう。だから子どもの押し付けあいになればどうしたって女が不利になる(親権問題というと両者とも引き取りたがることが多いが、遺伝子の保存の観点でいえば押しつけるほうがいい)。
こういう事情があるから、男と女では結婚や浮気に対する最適な戦略が異なる。当然の話だ。人間だけでなく、有性生殖をする動物ならみんなそうだ。

なのに人間だけが「夫婦で同じ価値観を」という無茶を求めるから話がややこしくなる。


高校生のとき、家庭科のテストで「なぜ結婚してパートナー関係を結ぶのがよいか説明しなさい」という問いが出された。
ぼくは「今の日本では慣例的に一夫一妻制を布いているがそれが最良の選択肢ではない。種の保存や多様化のためには婚外交渉を積極的におこなうほうがよい」みたいなことを書いた。
そしたらおばちゃん教師から怒りのこもったコメントを書かれた。なんと書いてあったかは忘れたが、理屈ではなく「こんなものダメに決まってるでしょ! ダメだからダメ!」みたいな論調だった。

でもぼくが書いたことはまちがってなかったのだとこれを読んで改めておもう。
もちろん一夫一妻制にもメリットはあるが、それは普遍的に正しい制度ではなく、あくまで「近代の日本においては比較的マシ」程度だ。べつの制度のほうが良くなる時代がくるかもしれない。いや、もしかしたらもうすでに来ているかも。だって今、一夫一妻制の結果(それだけじゃないけど)人口構成がどんどんいびつな形になっているもん。

結婚して一対一の関係は結ぶけど、ときどきは浮気をする。そして浮気相手の子どもを作ることもある。浮気をするメリットは男のほうが大きいので、男が浮気をすることのほうが女よりも多い。
こっちのほうが生物として自然なことなのだ。

言っとくけどぼくは婚外恋愛を推奨してるわけじゃないよ。あくまで生物として自然という話ね。
人間だから生物としての自然さより社会的規範を優先させるべきという考えもわかる。
だけどそれは種の繁栄の観点では最適な方法ではない。
だから「性交渉は慎重に。決まったパートナーとだけ。浮気なんてもってのほか。パートナーの子どもを産んで育てましょう」というルールを守れば守るほど人口が減っていくのも自然なことなのかもしれない。

そういやフランスはシングルマザーへの保護を手厚くしたら少子化が少しだけ解消されたという話を聞いたことがあるなあ。
日本も本気で少子化対策をするなら、そろそろ「伝統的な家族観」という虚像を捨てさったほうがいいのかもしれない。ほどほどに浮気をして外に子どもを作る、こそが本当に伝統的な家族観なのだし。



なぜ授乳をするのがメスなのか、という話。
あたりまえでしょ、と言いたくなるかもしれないが出産はともかく授乳は必ずしもメスがやる必要がない(出産についてはメスの仕事というより、出産する側の性をメスと呼ぶという定義そのものの話だ)。

いくつかの動物ではメスではなくオスが子育てをする。だったらオスが授乳できたほうが都合がいい。
じっさい、乳を分泌できる人間の男も存在するそうだ。
 このように、ヒトがダヤクオオコウモリにつづくオスの乳汁分泌の第一候補となる条件はずらりと揃っている。実際にヒトの男性が自然淘汰を通して完全に乳汁分泌をするようになるには数百万年がかかるだろうが、われわれにはテクノロジーという強い味方があり、進化のプロセスを一気に縮めることができる。手による乳頭の刺激とホルモン注射を組み合わせれば、出産を待つ父親――彼の親としての確実性はDNA鑑定によって裏づけられている――の乳を出す潜在能力は、遺伝的な変化を待たずとも、すぐに発達するだろう。オスの乳汁分泌に秘められた利点は測りしれないほどある。それが可能になれば、いまは女性にしかもてない親子の感情的な絆が、父親にも得られるようになるだろう。実際、多くの男性が、授乳によってもたらされる母子の特殊な結びつきを羨ましく思っている。授乳が伝統的に女性の特権であることで、男性は疎外感を感じているのだ。
感じたよ、ぼくも。疎外感。

なるべく子育てに関わりたいとおもっていても、授乳だけはぜったいに代われない。
赤ちゃんって夜中に泣くから、そのたびに母乳をあげて眠らせる(粉ミルクでもいいけど、熱湯で溶かして、冷めるまで待って、飲みおわったら煮沸消毒して……って夜中にやんなきゃいけないの超めんどくさいんだよね)。
そうすると子どもは母親といっしょに寝ることになる。「今日はぼくが代わるよ」ってわけにはいかない。

長女が小さいときは、ぼくとお風呂に入って、ぼくと本を読んでも、寝るときになったら妻の布団に行ってしまう。
目を覚ましておかあさんがいなければ、いくらぼくがあやしても泣きやまない。妻がおっぱいを口にふくませるとぴたっと泣きやむ。
そのたびに「おっぱい、ずるい!」とおもったものだ。

ふたりめのときは「妻が次女にかかりっきりになるので、ぼくが長女の相手をする」と自然と役割分担できたのでよかったけど、ひとりめのときは疎外感を味わったなあ……。

だったら「安くてかんたんで安全で痛みのない手術を受けるだけで男性でも母乳を出せるようになりますよ!」となったら喜んで手を挙げるかというと、
「いや、それはもうちょっと考えてから……。世の父親の二割ぐらいが手術受けるようになったら、かな……」
と情けない返事をしてしまうんだろうけど。

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2020年3月12日木曜日

【読書感想文】「清潔な夫婦」はぼくの理想 / 村田 沙耶香『殺人出産』

殺人出産

村田 沙耶香

内容(e-honより)
今から百年前、殺人は悪だった。10人産んだら、1人殺せる。命を奪う者が命を造る「殺人出産システム」で人口を保つ日本。会社員の育子には十代で「産み人」となった姉がいた。蝉の声が響く夏、姉の10人目の出産が迫る。未来に命を繋ぐのは彼女の殺意。昨日の常識は、ある日、突然変化する。表題作他三篇。

『殺人出産』

殺人が合法的な制度になった時代の物語。
 もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。
 昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすることと、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。
 偶発的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。
 殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺してもいい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。
 殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。
 日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。
 当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人工子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。
 死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師は言った。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。死をもって死を成敗するなんて、本当に野蛮な時代もあったものです、命を奪ったものは、命を産みだす刑に処される。こちらのほうがずっと知的であり、生命の流れとしても自然なことなのです、と教師は言い、授業を締めくくった。
設定はおもしろい。
でも説得力に欠ける。ぼくは入っていけなかった。

いまぼくらが暮らす世界とはまったくべつの世界のお話、であればすんなり受け入れられたとおもうんだけどな。
でも『殺人出産』の舞台は近未来の日本。現実と地続きになっている。
ってことは今の「人殺しはだめ」から「出産のために人を殺すのはすばらしいことだ」に至るまでの間に大きな社会的な葛藤があったはず。
そこを丁寧に書く必要があるのに、この小説ではたった数行の説明で済ませている。いちばん書かなきゃいけないところを、教師の口上という形をとることで読者への説得から逃げている。ずるい。

説得できないのはしかたない。もともと無理があるんだもの。
物語の本筋はここじゃないこともわかる。何十ページも割いて説明したら冗長になるだけかもしれない。
でも、だったらいっそ説明するなとおもう。稚拙な言い訳を並べたてるから「それはおかしくないですか」と言いたくなるのだ。いっそ説明せずに「こうなってるんです」でいい。

藤子・F・不二雄氏のSF短篇に『気楽に殺ろうよ』という作品がある。
設定は『殺人出産』によく似ている(言うまでもないが『気楽に殺ろうよ』のほうが四十年以上早い)。子どもをひとりつくれば一人殺していい、という世界の話だ。
『気楽に殺ろうよ』は基本的に説明がない。「なんかしらんけどこうなってました」で済ませている。氏の短篇にはこういう価値観が倒錯した世界を描いた作品が多いが、だいたいそうだ。
藤子・F・不二雄氏は知っていたのだろう。へたな説明をくだくだ並べるぐらいなら説明しないほうがおもしろいと。

SFとして読むには設定が雑で、ファンタジーにしては理屈っぽく、エンタテインメントとしては意外性がない、なんとも半端な読後感だった。



『トリプル』

この本の中でいちばん好きな作品だった。キモくて。
三人で性的な関係を結ぶことがマジョリティとなった世界。男一女二の場合もあるし、女一男二だったり、男三や女三という関係もある。
で、三人でやるセックスの描写があるのだがとにかく気持ち悪い。うげえ。ほぼスカトロじゃん。

でもその「気持ち悪い」という感覚が、トリプルの人がカップルのセックスに対して抱く感情であり、ヘテロセクシャル(異性愛者)が同性愛者のセックスに対して抱く感情と同質のものであると気づかされる。

ぼくはヘテロだが「LGBT? けっこうじゃないか。誰もが自らの性嗜好に対して自由であるべきだよ」なんておもっている。でも同時に、同性同士のセックスはキモイともおもっている。
どれだけ口では偉そうなことを言っていても、理屈と本能的な快不快ってぜんぜんちがうものなのだ。
結局人間は差別とは無縁ではいられないんだろうなあと気づかされた作品だった。



『清潔な結婚』

これはいちばん共感できたな。
性生活を排除した夫婦の話。うん、わかるわかる。

そうなんだよ。夫婦って恋人と家族を両立させなきゃならないんだけど、それってすごくしんどいんだよね。
それが苦にならない人もいるんだろうけど、ぼくにとってはけっこう負担が大きい。
ぼくは結婚して九年だけど、もうすっかりセックスレスだ。というか九年中八年半はセックスレスだ。でも仲はいいほうだとおもう。

だってぼくにとって妻は家族であり、子どもたちのおかあさんであり、経済的パートナーであり、愚痴をこぼしあえる仲間であり、くだらない話題で盛りあがる友人であり、ときには利害が対立する交渉相手だ。
そんな人といちゃいちゃしたいとおもわない。
夫婦間の性交渉を続けている人はすごいなあとすなおに感心する。
うちは子どもをつくるときは「そろそろ子どもつくるか。よしっ!」ってな感じで一念発起してがんばった。情動に動かされて、みたいな感じではぜんぜんない。むしろ本能が拒むのを理性で押さえつけて事に及んだ。

だから『清潔な結婚』で描かれる、性的な関係を完全に切りはなした「兄妹のような夫婦」はぼくの理想かもしれない(それぞれ家庭の外に恋人がいる、という点には共感できないけど。めんどくさそうだもん)。

家族としての最適なパートナーと理想の恋人はまったく別、というのは心から共感する。つくづくそうだよなあ。
恋愛結婚という制度自体が人類に向いてないのかもしれない。自由恋愛の延長に結婚があるのなんて長い人類の歴史の中でもごくごく限られた時代・社会の話だもんなあ。



『余命』

短篇というよりショートショートぐらいの長さ。
とはいえ何も起こらない。医療の発達によって自然死や事故死がなくなった世界で、人々は自分で死ぬ時を選ぶようになった、という説明だけの小説。

どれも設定はおもしろいんだけどなあ。頭でっかち尻すぼみ、という印象。
話を膨らませたりディティールをつきつめたりするのが得意でないのかなあ。

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2020年3月11日水曜日

【読書感想文】売春は悪ではないのでは / 杉坂 圭介『飛田で生きる』

飛田で生きる

遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白

杉坂 圭介

内容(e-honより)
現在、160軒がひしめく大阪・飛田新地。そこで2軒を経営する人物が初めて当事者として内情を語る。ワケあり美女たちの素顔、涙なしに語れぬ常連客の悲哀、アットホームな小部屋の中、タレントばりの美貌の日本人美女たちはどこから来たのか、呼び込みの年配女性の素性、経営者の企業努力、街の自治会の厳格ルール、15分1万1000円のカラクリ、元遊郭の賃料と空き状況、新参経営者の参画等、人間ドラマから数字的なディテールまでを網羅する。
飛田新地を知っているだろうか。
大阪市にある遊郭だ。知らない人はこの令和の時代に遊郭なんて、とおもうかもしれないが、ほんとうに遊郭なのだ。
ぼくも一度友人に連れられて冷やかしたことがある(店には入ってないよ)。和風の建物が立ち並び、通りに面した座敷がオープンになっている。そこに着物姿のお姐さんが座り、派手な照明を浴びている。横にはおばちゃんが座っていて「にいちゃん、どうや」と客を引いている……。
もうどこをとっても遊郭、純度百パーセントの遊郭なのだ。
(ただし一応名目は料亭という扱い。料亭でお客さんと従業員が恋に落ちてコトに及んでしまう……という設定になっているそうだ。たった十五分で。もちろん警察も売春だとわかっているが目をつぶっているのが実情)

ぼくが飛田で見たお姐さんは、めちゃめちゃ綺麗だった。化粧や照明の力も大きいのだろうが、テレビタレントよりも美しかった。ぼくが生まれてから見た中でいちばんの美女だったかもしれない。こんな綺麗な人が売春を……とものすごくどきどきした。

もうまるっきりの異世界で、同じ日本とはおもえなかった。中国に行ったときに売春宿の外観を見たことがあるが(なぜか床屋が売春宿だった)、それよりももっとつくりものっぽくてとても現実とはおもえなかった。

飛田で目にした光景は、冷やかしただけなのにかなり衝撃的だった。
ちなみに友人から「ぜったいに写真を撮ったりしたらあかんで。あやしいそぶりがあると怖い人がとんでくるらしいで」と脅されていたのでそういう意味でもどきどきした。

日本にもこんな世界が残っているんだなあと夢でも見たような感覚にとらわれたものだった。


そんな異世界・飛田だが、今のぼくにとってはまったくの別世界というわけでもなくなった。
今ぼくが住んでいる場所が飛田のすぐ近くなのだ。区は違うし飛田新地は壁で覆われているので通り抜けることもないが、行こうとおもえば徒歩十五分もかからずに行けるぐらいの距離。
うちの家は再開発された地区なので新しいマンションが並んでいるのだが、なぜか飛田新地と小学校の校区が一緒なのだ。なぜ。区もちがうのに。
で、娘が小学校に入るにあたり相当悩んだ。同級生に飛田の子がいるってどうなの。低学年のときはよくても六年生になったらいろんなことがわかるでしょ。そもそも飛田に住んでるのってどういう人なの。保護者同士のまともな付き合いができるの。
差別意識丸出しだが、事実そうおもったのだからしかたない。ぼくもふだんはリベラル派を気取っているが、やはり自分の子のことになると「出自や門戸で人間の本質は決まらないから気にしない!」とは言い切れない。決まらなくても大いに影響は受けるもの。

で、(飛田だけじゃなくて他にもいろいろ理由はあったけど)他の小学校に行かせることにした。別の校区でも希望を出せば行ける制度があったので。

そう、なんだかんだいってもぼくは差別主義者なのだ。
自らの本性をつきつけられた出来事だった。



そんなわけでちょっと自己嫌悪にもなっていたので、「飛田のことを知らねば! 同じ差別をするのでも知らずに差別するより知った上で差別したほうがまだマシなんじゃないか!」と『飛田で生きる』を読んだ。

いやあ、いい本だ。骨太。
文章を書きなれていない人の本なので朴訥とした語り口なのだが、それがかえってわかりやすくていい。題材に力があるので余計な技巧はいらない。

まったく別業種から、ひょんなことから料亭(売春宿)経営をすることになった人の体験談。
経営者として十年、その後は女の子のスカウトをやっているそうで、飛田の裏側を存分に知っている。飛田のことってこれまでは口にするのもタブーみたいなところがあったので、ものすごく貴重な体験談だ。

で、わかったのは、飛田新地は意外なほどちゃんとした世界だということ。
「でも、暴力団がバックについているんでしょ?」
「そんなのまったくない。飛田を管理しているのは、飛田新地料理組合。組合の人は普通の人たちで、暴力団との関わりはいっさいない。逆に徹底的に排除してる。考えてみ、もし飛田が暴力団の資金源になっとったら、大阪府警がほっとくわけあらへん」
「でも店の奥で怖い人が待機してるって聞きますよ」
「そんなん、おらんわ。でもわざわざ『おらん』と言う必要もない。なせならそのほうが都合がいいからや。裏に怖い人がおる、と思われているほうがお客さんの行儀がええから。確かに、写真を撮ったり女の子に悪さする客を叱る親方や、街を見回りする組合の人のなかには迫力ある人おるから、そう思われても仕方ないんやけどな」
暴力団は徹底的に排除、組合が定めた営業時間はきちんと守る、組合内での女の子の引き抜きは禁止、料金も基本的に一律。とにかくきっちりしている。余計なトラブルを起こさないように厳しく管理している。
組合は地域の清掃活動などにも取り組んでいるらしい。
他の風俗街はおろか、ふつうの繁華街でもこんなに厳しくルールを守っているところはないだろう。

逆にいえば、それだけマズいことをしているということでもあるんだけど。
「売春」という非合法なことで生業を立てているがゆえに、その他の点で府警や近隣住民から苦情を寄せられないよう細心の注意を払っているんだろう。

女の子のスカウトについても、ぜったいにトラブルにならないように配慮しているらしい。
デメリットなども説明した上で、本人の同意をもらってから働いてもらう。辞めたいと言ってきた女の子がいたら無理な引き留めはしない。
万が一女の子が「無理やり働かされた」なんて警察に駆けこんだりしたら飛田新地全体が取り壊しなんてことになりかねないので、そのへんは十分配慮しているそうだ。
 開業前、私は柴田さんに紹介してもらいスカウト歴一五年という四十代の男性に会いました。女の子を他業種から引き抜く方法を教えてもらおうと思ったのです。その人から教わったのは、次のようなことです。

 ■街頭で女の子に声をかけるのは警察、暴力団に目を付けられるので避ける
 ■縄張りを荒らすと暴力団に拉致・監禁されることもあるから極力目立たないこと
 ■ねらい目は、消費者金融のATMから出てきた子
 ■ハローワークから出てきた子もいいが、最近は不況のあおりで就職活動中の学生も含まれるので注意すること

 喫茶店で話を聞いた後、その人には必ずキャバクラに連れて行かれおごらされました。授業料ということなのでしょう。初めはその親切心に感謝し喜んでキャバクラをおごっていたのですが、二回、三回と授業を重ねていくうちに、はたと気づいた。彼は私にはばれないようにこっそりスカウト活動をしていたのです。
「そうかあ、自分なかなか大変な生い立ちやなあ」
「一重がいや? 十分かわいいやん。二重にしたいの? それいくらかかるん?」
「そらその彼氏はひどいなあ。毎日パチンコ通いかあ。それあんたが出してあげてるんやろ? いくらここで働いてもお金足らんやん」
 言葉巧みに彼女たちの悩みを聞きだし、連絡先を教える。
「なんか力になれるかもしれんから、困ったときは連絡してな」
 この時点では、自分が飛田のスカウトであることはいっさい言いません。あくまで困ったときには助けてあげられるということを伝えて、向こうからの連絡を待ちます。連絡が来たら二人で会い、相手の悩みをさらに聞き込み巧みに飛田で働くよう仕向けていくのです。その後聞いたところによると、私がおごったキャバクラで彼は二人ほど女の子を飛田に送り込んだようです。
風俗のスカウトなんていうと、虚言をあやつって半ば騙して強引に……みたいなイメージがあったけど、(少なくとも著者の周辺では)ないみたい。
やはりそもそもが非合法なビジネスで成り立っているので、その他の点は極力クリーンにしようとしているのだろう。

嘘をついて連れてきて後々トラブルになるほうが長期的に損するので、だったら最初から正直に……ということらしい。

 飛田にくる子の約九割は派手好きな子であると書きましたが、ごくまれに、国家資格を取りたい、自分で店を持ちたいなどの夢を持ってくる子もいます。そういう子たちは明確な目標があるぶん意志も強く、まじめに働いて稼ぐだけ稼ぎ、辞めるときはスパッと辞めていきます。
 いちばん多いのは看護師を目指す子です。彼女たちは専門学校に通う学費と日々の生活費を稼ぎながら勉強もしなくてはなりません。いくら稼がなくてはならないといっても、ハンバーガーショップで週六日もバイトしていたら今度は勉強ができなくなります。しかも時給も安い。七〇〇~八〇〇円くらいの時給では八時間働いても一日六〇〇〇円程度ですが、飛田なら一五分で稼げる額です。
 だから彼女たちはみんなこう言います。
「一日一本で十分ですから。あとは勉強の時間にあてさせてください」
 まじめに毎日働いてくれるのはありがたい。しかし一本で終わってしまっては困ります。
「もう少し上がってくれんか。もしくは週一日でいいから、六本やってくれん?」
「わたし、あとはもういいです」
 そう言うと待機部屋で勉強するのです。実際に看護師の国家資格をとって、今も病院で働いている子がいます。
こういうのを読むと、飛田新地は今の社会に必要なものなんだろうなとおもう。

もちろんこんなケースはごく一部で、大半の女の子はブランド品やホスト通いに使うのだとしても。
でも、飛田で働くにはそれぞれワケがある。ブランド品やホスト通いが原因のこともあるけど、親がつくった借金だったり学費だったり家族の生活費だったり。
原因はどうであれ、若い女性がまっとうな仕事で何百万円も貯めることなど、まず不可能だ。
一度貧困にはまると抜けだすことはほぼ不可能だ。
そういう人にとっての貧困からの脱出手段が風俗。その中でも(比較的)危険が少なく、短期間で高額のお金を稼ぐチャンスがあるのが飛田なのだ。

売春はけしからんというのはかんたんだけど、今の日本の生活保護制度や奨学金制度では救えない女性たちを売春宿が救っているのもまた事実。
読めば読むほど「なんで売春っていけないことなんだ? 双方同意でやって、男は満足して女は助けられるんなら何も悪いことないのでは?」という気になる。
批判するやつはこの社会から貧困をなくしてから言えよなー。

といいながらも、こういう世界と自分が積極的に関わりたいかというとやっぱり「まあそれはぼくや家族とは関係のない世界でやってくれ」と彼我の間に線を引いてしまうのもまた事実で……。

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ペーソスライブ@西成区・萩之茶屋

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



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2020年3月10日火曜日

【読書感想文】成功者の没落を楽しめる本 / 荒木 博行『世界「倒産」図鑑』


世界「倒産」図鑑

波乱万丈25社でわかる失敗の理由

荒木 博行

内容(e-honより)
「倒産」は教訓と知恵の宝庫である。なぜ一時代を築いた企業は破綻に至ったのか。日米欧の25事例を徹底分析!

仕事で弁護士とつきあっている。その人は法人破産の案件を担当しているのだが、「もうどうしようもなくなってから駆けこんでくるんだよね」と語っていた。

金もなくなり、信用もなくなり、人も離れ、万策尽きてから弁護士に相談に来るのだという。
そうなると弁護士としてはどうすることもできない。破産しかないが、弁護士としてはそのサポートすらできない。なぜなら弁護士費用を一切払えないから(破産したら無一文になるから弁護士費用は前金でもらうしかない。だがその数十万円すら払えない)。

「あと半年早く相談してくれたら、負債を整理するなり、経営者個人の財産だけは守るなり、打てる手があったのに……」
というケースが多いそうだ。

傍から見ていると「もっとなんとかできる方法はいっぱいあったのに」とおもうけど、渦中にいる人間にとってはどうすることもできない。
それが倒産だ。



『世界「倒産」図鑑』は、そごうやNOVAといった比較的最近倒産した日本の企業から、ゼネラルモーターズ、コダックといった海外の老舗企業まで、25社の倒産に至った経緯とそこから導きだされる教訓をまとめた本。

25社の紹介ということで、それぞれの説明はあっさり。
倒産に至るまでには様々な要因があったのだろうが、ひとつかふたつぐらいの要点にまとめて説明している。

これがおもしろい。
正直に言おう。
下世話な楽しさだ。
うまくいって調子こいてた企業が、調子に乗りすぎたためにみるみるうちに転落してゆく。こんなおもしろいことはない。うひゃひゃひゃひゃ。この手の話、みんな大好きでしょ?

著者のまえがきには「決して興味本位でおもしろがるわけじゃなく、過去の失敗例から教訓を導きだして二の轍を踏まないように気を付けてもらうためにこの本を書いた」とあるが、そんなものは建前にすぎない。
成功者の没落が見たいんだよ、みんな。



たとえばそごう。1830年創業、戦後に次々新店舗を開業して勢力を急拡大したものの、その急成長戦略がバブル崩壊で裏目に出て2000年に民事再生法を申請した。
 そごうがここまで急激に拡大できた背景には、「地価」という要素がありました。そごうは出店予定地周辺をあらかじめ買い占め、出店で地価を上げることで資産を増やします。こうして担保力をつけて黒字化した独立法人が、新しい店舗(独立法人)の債務保証をしながら銀行から資金調達し、そしてまた新たな店舗を作っていく、というサイクルを作っていきました。
 例えば、千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形です。地価が上がっていれば、担保によって銀行から新たな資金を調達することができ、そうして新しい店舗を広げていったのです。
 しかし、このサイクルはいくつかの重大な問題を孕んでいます。
 1つ目は、そごうの独立法人同士が支え合う複雑な形になっていたため、経営の内情がブラックボックスになること。これに水島社長のカリスマ性が合わさって、誰もグループ全体の経営状況を把握できない状況になりました。資金の貸し手である銀行も、そして当の水島社長ですら、正確な全体像を把握していなかったと言われています。各社ともに独立法人であったために、人的交流もなく、数字の基準もバラバラな状態が放置されていました。恐ろしい規模のどんぶり勘定が許されてしまっていたのです。
 そしてもう1つは言うまでもなく、地価が下がった時は全てが逆回転する、ということです。担保価値が低下して銀行が資金提供を止め、資金回収に回る時、この拡大サイクルは一気に「崩壊サイクル」へと転じます。
「地価」を担保にどんどん支店を作り、そのおかげで上がった「地価」を元にさらなる出店……というサイクルをくりかえしてきたため、地価が下がるとすべてがシナリオ通りにいかなくなる。

今の我々から見ると「そんな無茶な」と言いたくなるようなシナリオだけど、でも地価が上昇している局面ではそごうの戦略は正しかったんだよね。
バブル期までは大半の日本人が「土地の値段は上がりつづける」という認識を持っていたそうだし、たぶんそごうにはどうすることもできなかった。
仮に社長がタイムテレビで未来を見ることができて「地価の上昇が止まるだろうからここらでブレーキを踏もう」って言いだしたとしても、一度動きだしたサイクルはなかなか止められない。そごうの破綻は避けられないシナリオだったんじゃないだろうか。

もちろん「拡大サイクル」をやっていなければ破綻はなかっただろうけど、でもそうすると成功もなかっただろうしなあ。



フィルム写真で世界を席巻したもののデジタル化の波に乗り遅れて倒産したコダックについて。
 もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかも知れませんが、私たちは後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしょうし、彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかも知れません。
 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークスホルダーが多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このような技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。
いろんな倒産のケースを見ていると、たしかに倒産の近しい原因としては失敗や慢心や見通しの甘さや組織の機能不全があるのだけれど、それらがなかったらその企業たちは数十年先も業績好調だったかと言われれば首をかしげてしまう。

たとえばコダックは誰がトップに立っていたとしてもカメラのデジタル化で大打撃を受けたことはまちがいない。
富士フイルムのようにフィルムを捨てて化学工業メーカーとして生まれ変わった例もあるけど、そんなの例外中の例外で、まったく別の業種に乗りだして成功した例よりも失敗した例のほうが圧倒的に多い。

この本には
「うまくいっているときも慢心するな。今の技術や手法は必ず時代遅れになる」
「時代の先を読んで次の手を打ちつづけること」
「常に社内の風通しを良くして、でも決定はスピーディーに」
といった教訓が挙げられている。
それは正論ごもっともなんだけど、それらをすべて実践しつづけられる企業なんか世界中どこにもないでしょ。

AppleやAmazonやアルファベット(Google)だって、今はうまくいっているからその手法がもてはやされてるだけで、彼らのやっていることって強引かつ無茶なやり方だからいったん歯車が狂ったらだめになるのも速いはず。

企業たるもの、倒産するのがあたりまえなのだ。
「できるだけ長く健康に生きる方法」はあっても「不老不死になる方法」はないのと同じで、遅いか早いかの違いはあっても倒産は避けられないのが企業の運命だとおもうなあ。



いくつものケースを見ていて気付くのは、ブレイクスルーを果たすのはその業界のトップ企業ではないのだということ。

コダックがデジタルカメラを生みだせなかったように、トイザラスがオンラインでの販路を拡げられなかったように、トップ企業には業界の仕組みを変えることができない。なぜなら、業界の仕組みが変われば自社の優位性を捨てることになるから。

ネット通販よりもっと便利な販売方法ができて(それがどんなものか想像もつかないけど)「ネット通販なんてもう古いぜ!」となったとき、たぶんAmazonや楽天はそこに力を入れることができない。
今、書店が「地方から書店文化が消えていいんですか?」と消費者にとって何の利益ももたらさないわけのわからぬ理屈を並べながら消えていこうとしているように、Amazonや楽天もネット通販にしがみついて消えてゆくだろう。

車の自動運転技術を実用化するのは自動車メーカーではないはずだ(じっさいGoogleらが開発しているしね)。
オンライン時代の報道を牽引するのは新聞社やテレビ局ではない。

業界の人間には既存の仕組みを壊せないのだ。大手であればあるほど。

新聞社だって「紙の新聞をやめてオンラインに専念してはどうか」とはおもいついてたはずなんだよね。かなり早い段階で。
でも、それをするには、全国各地の販売店をつぶして、印刷所をつぶして、既存の広告枠を全部なくして、記者の数も減らさなければいけない。しがらみでがんじがらめになっている新聞社にはできない。

新聞社や書店だけでなく、銀行も自動車メーカーも電機メーカーもそうやってつぶれてゆく。
自らが生まれ変わることはできずに外からやってきた黒船に押しつぶされる。かつて自分たちがそうやって旧いビジネスを叩きつぶしてきたように。
 しかし、歴史というものは皮肉なものです。1893年に創業したシアーズは、通信販売という流通革命を起こし、アメリカ全土に品物を行き渡らせてアメリカ人の生活をより豊かなものにしてきました。それから100年経った1993年、シアーズは祖業の通信販売から撤退するのですが、その翌年の1994年、まるでシアーズの遺志を継いだかのように、アマゾンが新たな通信販売モデルを立ち上げます。そして、シアーズはやがてそのアマゾンに引導を渡されるのです。

そして。
企業だけでなく、国家も同じだとおもう。
有史以来、いろんな国が生まれては消えていった。同一の政治体制が五百年続いたことなんてほとんどない。百年続けば国家としては十分長命なほうだ。
あらゆる組織は、外圧以外では大きく変われない。そして大きな外圧を受けたらたいていはぶっ壊れる。

日本という国も、そのうち滅びる。
現在すでに「過去の成功にしがみついて時代の変化についていけない」という危険な局面に陥っているように見える。

明治維新で近代国家となった大日本帝国が太平洋戦争でこてんぱんにやられて国家システムが瓦解するまでが七十余年。
そして終戦から現在までが七十五年。
もしかすると「日本の倒産」もそろそろかもな……。


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