2019年9月13日金曜日

スパイおじさんの任務


ぼくはスパイをしている。

こないだ姪(九歳)から
「おっちゃんは何のお仕事してんの?」
と訊かれたので
「ここだけの話だけど……スパイやで」
と小声で答えたのだ。

「嘘やろ?」
 「ほんまやで。でも誰にも言うたらあかんで」
「ぜったい嘘や」
 「なんで嘘やとおもうん?」
「だってぜんぜんスパイっぽくないもん」
 「それがいいねん。黒いスーツでサングラスかけてたりしたらすぐ怪しまれるやん。スパイは人に知られたらあかんから、目立ったらあかんねん」
「じゃあスパイでどんなことをしてんの?」
 「それは家族にも言われへん。スパイの任務は極秘やから」
「誰に雇われてんの?」
 「それも言われへん。依頼人の素性は口が裂けても明かすわけにはいかん。それがスパイの掟なんや」
「……もうええわ」

九歳児にあきれられてしまった。
だがそれでいい。
姪から「いいかげんなおじさん」と思われることこそが、ぼくのほんとの任務なのだから。



子どもの正常な発達において、「いいかげんなおじさん」の存在は欠かせない。

大人なら誰でも知っていることだが、世の中の大人の99%はいいかげんだ。
嘘をつくし、ものを知らないし、見栄を張るし、いばるし、やっかむし、すぐ怠ける。
もちろんぼくもそんな大人のひとりだ。

だが子どもはそんなことを知らない。
大人は絶対的に正しい存在だと勘違いしている。
なんでも知っているし、正しいおこないしかしないし、将来のために今を犠牲にできるし、感情をコントロールできるとおもっている。
だから、そうでない大人(つまり大半の大人)に接したときに怒りを感じる。

「おかあさんは私には厳しいのに妹には甘い!」
「〇〇ちゃんも悪いことをしてたのに先生は私だけ叱った!」
と。

大人からしたらあたりまえの話だ。
他人の行動をぜんぶチェックするなんて不可能だし、かわいい子はひいきしたくなるし、虫の居所が悪ければちょっとしたことで声を荒らげるし、めんどくさければ適当にお茶を濁す。
あたりまえだ。

あなたはまちがっていると子どもから指摘されたら、こう答えるしかない。
「そっすね。そのとおりっす。すんませーん(鼻ホジホジ)」

大人がいいかげんであることの是非を議論しても意味がない。
だって大人がいいかげんなのは厳然たる事実だし、どっちみちそれは変えられないし、憤りを感じている子どもだってそのうちいいかげんな大人になるんだし。

だから大人が子どもにしてあげられることは、
「大人はちゃんとしてないんだよ」
と教えてやることだ。



大人がいいかげんであることを教えるためには、いいかげんな大人と接するのがいちばんてっとりばやい。

けれど、その役目を実行するのは親や教師であってはいけない。

親や教師には、子どもを指導する、教育する、躾ける、といった役目がある。
指導する者がいいかげんな大人であってはならない。

もちろんじっさいには親も教師もいいかげんな大人なわけだが、子どもの前では隠さなくてはならない。
立派な大人のふりをしなくてはならない。
鼻をほじりながら「鼻をほじってはいけません!」と叱っても効果がないからだ。

だから親や教師には、「自分のことを棚に上げる」ことが求められる。
だめなところを見せるのは親や教師以外の大人の仕事なのだ。


だが現代社会において、子どもが親や教師以外の大人と接する機会はあまりに少ない。
そこで、おじさんの出番だ。

内田樹氏はレヴィ=ストロースの論を下敷きに、こう書いている。
だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。
( 内田樹の研究室『親族の基本構造』 )


おじ(レヴィ=ストロースに言わせれば母方の伯叔父)は、ちゃらんぽらんでなければならない。
ばかな大人、だめな大人、いいかげんな大人でなくてはならない。

ありがたいことにも、ぼくの伯父はそういう人だった。
ほらばかり吹いて、卑猥な言葉を口にし、役に立たないことばかり教えてくれる、立派な伯父さん。

おじさんじゃないもの

だからぼくは、姪の前ではちゃんと「ちゃらんぽらんなおじさん」をやるようにしている。
ほらを吹くし、いらぬ世話を焼くし、子どもをからかうし、子ども相手にむきになるし、ごはんをこぼすし、大きな音を立てておならをするし、やりかけたことはすぐに投げだすし、約束は破るし、昼間っからごろごろするようにしている。
それが叔父としての務めだからだ。


だからおじさんがスパイだというのもまったくの嘘ではない。

「子どもに正体を気づかれないように、ちゃらんぽらんなおじさんを演じる」という重大な任務を背負っているのだから。

まったく、おじさんも楽じゃないぜ。


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北杜夫というヘンなおじさん



2019年9月12日木曜日

【読書感想文】力こそが正義なのかよ / 福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

ウイグル人に何が起きているのか

民族迫害の起源と現在

福島 香織

内容(e-honより)
中国共産党に忠実で、清く正しい人々。ゴミ一つ落ちておらず、スリもいない完璧な町。だが、この地のウイグル人たちをよく観察してみると、何かがおかしい。若い男性は相対的に少なく、老人たちに笑顔が見られない。観光客に接する女性たちの表情は妙に硬い。いまSF小説の世界にも似た暗黒社会が、日本と海を隔てた隣国の果てにあることを誰が想像しただろうか。さらに共産党による弾圧の魔手は、いまや在日ウイグル人にまで及んでいるという。現地ルポとウイグル人へのインタビューから浮かび上がる「21世紀最悪の監獄社会」の異様な全貌。

まずはウイグルについて。
ウイグル族は、中央アジア(今のカザフスタン・ウズベキスタン・キルギス)などに住む民族。中国西部にも多く住んでおり、主に新疆ウイグル自治区という場所に住んでいる。

で、この本の「ウイグル」は新疆ウイグル自治区のことを指す。
一応国際的には中国の一部ではあるが、中国の多数派である漢民族とは人種も言葉も宗教も違うわけで、実質は半独立国家としてやってきた。
ところが、2014年のウルムチ駅爆発事件(習近平国家主席の暗殺未遂事件。犯人の中にウイグル人がいたとされる)をきっかけに、ウイグル自治区への締め付けが強化。
ウイグル人である、イスラム教徒であるというだけの理由で中国共産党から様々な迫害を受けるようになった……というのをまず前提として知っておいてもらいたい。

中国の自治区といえば、ちょうど北京オリンピックのタイミングでチベット自治区への弾圧がわりと話題になった。今はすっかりニュースにならなくなったが、新奇性がなくなったから報道されなくなっただけで今も弾圧は続いているのだろう。

今は香港のデモがニュースになっているが、こちらもそのうち世界の関心が失われていくだろう。中国はそれを待っているのかもしれない。



ウイグル人が弾圧されていることはちらっと聞いていたが、詳しいことはまるで知らなった。
『ウイグル人に何が起きているのか』に書かれていることはぼくの想像よりもずっとひどい現実だった。
 尋問のあとは、洗脳だった。いわゆる「再教育施設」に収容され、獣のように鎖でつながれた状態で3カ月を過ごした。小さな採光窓があるだけの12㎡ほどの狭い部屋に、約50人が詰め込まれた。弁護士、教師といった知識人もいれば、15歳の少年も80歳の老人もいた。カザフ人やウズベク人、キルギス人もいたが、ほとんどがウイグル人。食事もトイレも就寝も“再教育”も、その狭く不衛生な部屋で行われた。午前3時半に叩き起こされ、深夜零時過ぎまで、再教育という名の洗脳が行われる。早朝から1時間半にわたって革命歌を歌わされ、食事前には「党に感謝、国家に感謝、習近平主席に感謝」と大声でいわされた。
 さらに、被収容者同士の批判や自己批判を強要される批判大会。「ウイグル人に生まれてすみません。ムスリムで不幸です」と反省させられ、「私の人生があるのは党のおかげ」「何から何まで党に与えられました」と繰り返す。
「『私はカザフ人でもウイグル人でもありません、党の下僕です』。そう何度も唱えさせられるのです。声が小さかったり、決められたスローガンを暗唱できなかったり、革命歌を間違えると真っ暗な独房に24時間入れられたり、鉄の拷問椅子に24時間鎖でつながれるなどの罰を受けました」と当時の恐怖を訴える。
 さらに、得体の知れない薬物を飲むように強要された。オムルは実験薬だと思い、飲むふりだけをして捨てた。飲んだ者は、ひどい下痢をしたり昏倒したりした。食事に豚肉を混ぜられることもあった。食べないと拷問を受けた。そうした生活が8カ月続いた。115kgあったオムルの体重は60kgにまで減っていた。
「同じ部屋に収容されていた人のなかから毎週5、6人が呼び出されて、二度と戻ってきませんでした。代わりに新しい人たちが入ってきます。出て行った人たちはどうなったのか」
仮に囚人や捕虜に対する扱いだったとしても、非人道的と言われるレベルだ。

ましてや、罪のない人に対する「再教育」なのだから、到底許されるような話ではない。
(「115kgあったオムルの体重は60kgにまで減っていた」だけは、数字だけ見ると健康的でいいじゃないかとおもってしまった。すまぬ)

欧米のジャーナリストらもこういう現実を指摘しているが、中国国内ではなかなか信じてもらえないらしい。
信じたくない気持ちもわかる。いくらなんでも自分の国はここまでひどいことはしないだろう、と思いたくなる気持ちは。

ぼくもショックだった。
これが北朝鮮の話だとかアフリカの独裁軍事国家とかの話であれば、「まあ世界にはそんなひどい国もあるだろう」とすんなり受け入れていたとおもう。

しかし、中国のような大国が、もうすぐ世界一の経済大国になろうかという国が、国連の常任理事国が、まさかこんなひどいことをするなんて。


大躍進政策の惨状だとか文化大革命だとか天安門事件での非道なおこないは知っていたが、ぼくにとっては歴史上の出来事だった。
ドイツのナチスやカンボジアのポル・ポトと同じような「過ぎ去った時代の話」だった。

しかしよく考えたら、ナチス政権やポル・ポト政権と中国共産党には大きな違いがある。
ナチスやポル・ポトは政権崩壊したのに対して、中国共産党は今もずっと政権を握ったままだということだ。根っこのところはそんなに変わっていないのかもしれない。



 中国当局がテロに関与している要注意国家としてリストアップしている26カ国、エジプトやサウジアラビア、ケニアなど中東、アフリカのイスラム圏に留学している学生が、まず呼び戻された。中国当局は、海外でウイグル人たちがより深いイスラム教に染まることを警戒したのだという。帰国した学生たちは身柄を拘束され、再教育施設に放り込まれ、なかには逮捕され、犯罪者として投獄された者もいた。
 危険を察知して帰国しなかった学生に対しては、たとえばエジプトでは、中国当局の要請を受けて当局が留学生たちを拘束した。エジプト当局は2017年7月の段階で、少なくとも200人のウイグル人留学生の身柄を拘束し、中国に強制送還した。留学生たちに対する身柄拘束の理由は告げられなかったという。
 一部のイスラム国家政府は中国経済に依存しており、中国当局の強い要請に逆らえない事情があった。こうして2018年までにエジプトだけでも3000人、全世界でおよそ8000人のウイグル人留学生が帰国させられた。帰国後の消息はほとんど不明という。再教育施設か刑務所に入っているか、あるいは死亡させられているか。日本にいるウイグル人留学生の状況については後述するが、少なくとも10人が学業半ばで帰国させられている。
国内にいる少数民族を弾圧するだけではなく(それもひどいが)、国外にいる人まで半ば強制的に呼び戻して身柄を拘束するというのだからおそろしい。

いい仕事があるとだましたり、戻らないと家族がどうなってもしらないぞと脅したり、その国に対して経済的な圧力をかけたりして、あの手この手で連れ戻そうとする。
なにもそこまでしなくてもとおもうが、内情が外国に知れ渡ることを恐れているのだろう。

「再教育施設」に入れられたウイグル人は、人体実験をさせられたり、強制的に臓器を摘出されているのではないかと言われているそうだ(はっきりした証拠こそないものの、異常に高い臓器移植件数などを見るかぎりはそうとしかおもえない)。
ひええ。ヤクザじゃん。いやいまどきヤクザでもここまでしないだろう。


さっきも書いたが、なによりおそろしいのはこれをやっている中国が世界ナンバーワンの経済大国になろうとしていることだ。
やっていることは東アジアのならず者国家とされている北朝鮮よりひどいじゃないのか、とおもえる。
けれどそれが(表面上は)大きな問題にならないのは、北朝鮮より軍事力があって経済的影響力も大きいからだ。
中国から経済援助を受けている国は中国共産党に逆らえない。日本外務省も、ウイグル問題については見て見ぬふりを決めこんでいる。
アメリカは批判しているが、それも人道的に許せないからというよりは、米中関係が冷えこんでいるから中国の力をそぐための「カード」として使っている面が大きそうだ。
今後の米中関係の変化によっては、あっさり無視されることになるかもしれない。
(日本の拉致被害者問題が政治的なカードとして使われているだけだから、日朝や米朝の関係によってすぐに引っこめられるのと同じように)

結局力があるからやりたい放題できる、力のない国は何も言えない、という現実をウイグル問題ははっきり映しだしている。
国際社会も結局は力の強いものが勝つのかよ、力こそが正義なのかよ、と悲しくなる。

まあ中国だけじゃないよね。
アメリカ軍によるアブグレイブ刑務所での捕虜虐待だって、あれをやってたのが小国だったならまちがいなく政権がふっとんでるはず。でもアメリカだからなあなあで許されたわけで。
現実って悲しいなあ。



そういえば、少し前に「もしも日本が島国でなかったらどうなってただろう」とブログに書いている人がいた。

もしも日本が島国じゃなかったら、もしも中国と地続きだったなら、今の日本は独立国家ではなく「中華人民共和国の日本自治区」だったかもしれない(邪馬台国はそれに近い扱いだったわけだし)。
そう考えるとウイグル問題はぜんぜん他人事じゃないよ。
いや海があるからって安心できない。「日本自治区」になって迫害される日が来ないともかぎらないよ、ほんとに。


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2019年9月11日水曜日

【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~

井上 夢人

内容(e-honより)
二人が出会って多くの傑作ミステリーが生まれた。そして十八年後、二人は別れた―。大人気作家・岡嶋二人がどのようにして誕生し、二十八冊の本を世に出していったのか。エピソードもふんだんに盛り込んで、徳さんと著者の喜びから苦悩までを丹念に描いた、渾身の自伝的エッセイ。

井上夢人という名前よりも「岡嶋二人の片割れ」といったほうが通りが良いかもしれない。
コンビ解散から二十年たった今でも。

岡嶋二人は、井上夢人(当時の名は井上泉)と徳山諄一によるコンビ作家のペンネーム。1982年にミステリ小説の権威である江戸川乱歩賞を受賞してデビュー、二十作以上のミステリ小説を世に送りだし、1989年にコンビ解散。

コンビ作家というと海外だとエラリー・クイーンが有名だが、日本の小説界ではめずらしい。
ぼくは岡嶋二人の他に知らない。逆に栗本薫/中島梓のような一人二役の作家はけっこういるけどね。

漫画や絵本だとストーリー担当・作画担当のように役割分担をしやすいのでさほどめずらしくないが、小説だとそこまではっきりと役割がわかれないからね。
岡嶋二人の場合は「アイデアと執筆担当(井上)」と「アイデア担当(徳山)」と、はじめから偏ったバランスのコンビだったので、いずれ破綻をきたすことは必然だったのかもしれない。
けれど、それにしては長くもったほうなんじゃないだろうか(乱歩賞初挑戦から解散までで考えると十二年)。
「徳さん、面白くないよ、これ」
 ちゃんとした原稿ではなかったにもかかわらず、一度書いてしまうと、僕はもうこの作品にあきてしまったのだ。
 驚異的だったのは、この時の徳山の対応だった。「セシア誘拐事件」にうんざりしてしまったと僕が言うと、彼はしばらくの沈黙の後、こう言ったのだ。
「じゃあ、何かほかのヤツを考えよう」
 そして実際、徳山は数日後に新しいアイデアを持ち出してきた──。その時点では僕も気づいていなかったが、この徳山の対応こそ、岡嶋二人を成立させた最も重要な要因だったのである。
 仕事を進めるとき、徳山は常に選択権を僕に預けた。作品が面白いか否か、俎上に載せられたアイデアを使うか否か、話し合ってきたものを原稿に落とすか否か──そういった最終的な判断は、すべて僕が下すという雰囲気が出来上がっていた。後になって、何度か彼は口に出して言ったこともある。
「いや、そういうのはイズミに任せたほうがいいんだ。そのほうが正解だと思うよ」

(中略)

 前の言葉に続けて、徳山はこう言った。
「どっちでもいい、ってのが正直なところなんだよ。このアイデアでもいいし、別のヤツでもいい。とにかく、面白い話が作れればそれでいいんだ。イズミがつまらないと言ってるのに、それを無理に進めようとは思わない。それよりも、別のものを探してくるほうがいい。(中略)どうしてもこれじゃなきゃ、ってのは、僕にはないんだ」
 この徳山の姿勢は、最後まで変わらなかった。これが岡嶋二人を成り立たせていたのだと、僕は思う。
これを読むと、徳山諄一という人物はずいぶん大物だとおもう。
二人して一生懸命築きあげてきたものを、片方が飽きてしまったからといって壊そうとする。
そこですぐに「じゃあ、何かほかのヤツを考えよう」と言えるだろうか。ぼくなら言えない。「ふざけるなよ!」と喧嘩になるとおもう。

けれど徳山氏はあっさり折れる。自分の意見を表には出さずに。
しかも徳山氏は井上氏より七歳年上なのだ。
よほどの大人物なのか、それともこだわりがないだけなのか。

この姿勢こそが、岡嶋二人がうまくいった秘訣であり、同時に解散の原因でもあったと井上氏は書いている。


このくだりを読んで、ユウキロック『芸人迷子』という本を思いだした。
人気漫才コンビ・ハリガネロックの結成から解散までをつづった自伝小説だ。
この本の中で、ユウキロックさんは「相方である大上が自分から動いてくれることをずっと期待していた」とくりかえし書いている。
ネタを考えるのも自分、演出も自分、コンビとして次に何をするかを決めるのも自分。何を言っても相方は逆らわない。黙って自分についてきてくれる。
だがユウキロックさんにとってはそれが不満だった。ときには意見がぶつかりながらも切磋琢磨しあう関係でいたい。
結局、大上さんは「相方に従う」という姿勢を変えることはなく、ハリガネロックは解散した……。


岡嶋二人というコンビも、ハリガネロックに似た関係だったのだろう。
一方がイニシアティブをとってもう一方がついてきてくれるからこそうまくいき、そういう関係だったからこそ一方の不満が高まれば溝は深まっていくばかり。

井上さんも「徳さんはぼくの意見に反論してこない」ことを再三不満点としてあげている。
ずいぶん勝手な話だ。でも、その気持ちもわかる。
こっちは「意見をぶつけあいたい。ときには衝突してもいいから」とおもい、でも相手は「喧嘩になるのはイヤだから折れる」。
どちらの気持ちもよくわかる。

よく漫才師は夫婦に例えられるけど、コンビ作家も夫婦みたいなものなのだろう。
特に、江戸川乱歩賞受賞~コンビ解散を描いた『衰の部』を読むと、離婚してゆく夫婦の顛末を読んでいるような気になる。

お互いに意見をぶつけあうことで喧嘩しながらもやっていく夫婦もあれば、喧嘩がこじれて別れてしまう夫婦もある。
一方が相手に従うことで波風を立てずにやっていける夫婦もあれば、一方が我慢しすぎたせいで耐えられなくなって離婚してしまう夫婦もいる。

どちらが正解ということもない。
けれど別れてしまう。一度はうまくいった二人なのに。
悲しい。
失恋の経緯を読んでいるような気分になった。



ぼくは中高生のとき、岡嶋二人の本を読んだ。十冊は読んだとおもう。
ぜんぶ古本屋で買ったものだけど(なにしろぼくが岡嶋二人を知ったときには解散してから何年も経っていたのだから)。

正直、岡嶋二人作品のことはなにひとつおぼえていない。
競馬を題材にしたものがあったな、とか、孤島での誘拐だか殺人だかの話があったような、とかその程度。
でも何作も読んでいるわけだから、おもしろくなかったわけではないはずだ。
ミステリ小説なんてそれでいい。そのときおもしろければいいのだ。

岡嶋二人作品は安定して高い水準にあった。二人で話しあって作られたのだから、一人で作るものよりも精緻なものになっただろう。
ただし、後々まで記憶に残るような派手さや粗っぽさはなかった。それもまた共作の過程で削りとられてしまったのかもしれない。
岡嶋二人作品はディズニー作品に似ている。あっと驚く意外性はないが、はずれもない。何を読むか迷ったときにとりあえず手に取っておいてまちがいはない。

その「平均点以上の佳作」を生みだし続けるためにどれほどの苦労があったのか。
この本を読むまでは、まったく想像しなかった。

『くたばれ巨象』を第二十三回江戸川乱歩賞に投じた後、第二十五回、第二十七回、第二十八回と応募を繰り返したが、作品を重ねるに従って、僕たちの技術は確実に向上した。応募した作品を読み返してみると、それがよくわかる。
 さらに、それらの作品をひねくり回している間に副産物として生まれたアイデアは、未使用のまま僕たちのメモや頭の中にストックされていった。そのストックは、プロとしてデビューした後に僕たちが書いた小説の基本的なアイデアとして、かなりの量を賄ってくれたのである。
 だから、この年から乱歩賞を受賞する一九八二年までの五年間で、僕たちは岡嶋二人のほとんどすべてを作り上げてしまったと言っていい。岡嶋二人の黄金期は、この五年間だったのだ。そして実質上、乱歩賞を受賞すると同時に、その黄金期は終わった。
 お読みいただいているものの副題に、僕は『岡嶋二人盛衰記』と付した。そこには、そういった意味を含めている。盛衰記の「盛」は乱歩賞受賞までであり、「衰」はデビュー以降のことである。岡嶋二人という作家は、デビューと同時に、そのクライマックスを終えたのだ。
はじめにこのくだりを読んだとき、「何をおおげさな」とおもった。
いくらなんでも、二十作以上の作品を世に出した人気ミステリ作家が(しかもそのうち何作かは権威ある賞も受賞している)、「デビューと同時に、そのクライマックスを終えたのだ」だなんてまさか。

けれど、最後まで読んだ今ならわかる。
この言葉は、少なくとも井上夢人氏にとっては本心なのだと。

乱歩賞を受賞するためにコンビを結成し、小説を書いたことすらない状態から試行錯誤をくりかえして乱歩賞を受賞、そしてデビュー後は時間的制約のせいで思うような形での共作ができなくなった岡嶋二人にとっては、まさに受賞した瞬間がピークだったのだろう。

『おかしな二人』には井上氏側の言い分しか書かれていないが、部外者として読んでいると「まあ解散にいたったのはどっちにも問題があったからなんだろうな」とおもう。

けれど、最大の原因は締め切りに追われていたことなんじゃないだろうか。
時間がなかったから、デビュー前のようにお互いが納得のいくまで話しあうという作り方ができなくなった。
もしも「年に一作だけ小説を発表していればいい」という状況だったなら、岡嶋二人は今でもコンスタントにレベルの高いミステリ小説を発表しているコンビ作家だったんじゃないかとおもう。

そうおもうと、二人の破局に至る経緯がますますもって悲しく感じる。
もしも岡嶋二人が今でも活動していたなら、今頃コンビ作家はもっと増えていたかもしれないなあ。


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2019年9月10日火曜日

ポプラ社への愛憎


突然だが、ぼくはポプラ社の本を買わないことにしている。

出来レースで水嶋ヒロに新人賞をとらせて以来、まったく信用していないからだ(これについて語りだすと長くなるのでここでは書かない)。
だから、ちょっと気になる本があっても「ポプラ社」の文字があればぜったいに買わないことにしている。
『KAGEROU』の件で「金になるなら読者の信頼を裏切ってもいい」というあからさまな態度を見せてくれた出版社なので、こちらも信用しないことにしている。

だからポプラ社の文芸書は一切買わないのだが、児童書分野においてはポプラ社はいい本をたくさん出している。
ぼく自身、小学生時代に『ズッコケ三人組』シリーズを読んで読書の喜びを知った人間なので、その点については悔しいけれど認めざるをえない。


六歳になる娘も、やはり『かいけつゾロリ』や『おしりたんてい』シリーズが好きだ。
ぼくとしてはポプラ社にお金を落としたくないが、だからといって娘の読書の楽しみを奪おうとまではおもわない。憎しみの連鎖を子孫の代まで受け継いではいけない。

なので、娘がほしがれば(しぶしぶではあるが)ポプラ社の本も買う。
図鑑などはいろんな出版社が出しているので「こっちのほうがいいよ!」と言って他の出版社のものを買うが、読み物となるとそうはいかない。
『おしりたんてい』や『かいけつゾロリ』や『おばけのアッチ・コッチ・ソッチ』シリーズを買ってやる。


で、おもうのだが、やっぱりこの出版社は好きになれない。
根底に「だましてやろう」という姿勢を感じる。
長期的にファンになってもらうことよりも目先の利益を追い求めているように感じる。

特にひどいのは、『かいけつゾロリ』を前後編に分けるようになったことだ。
いや、分けること自体はべつにいい。

『かいけつゾロリのなぞのおたから大さくせん(前編・後編)』とか
『かいけつゾロリのだ・だ・だ・だいぼうけん!(前編・後編)』とか。
これはべつになんともおもわない。ただストーリーが長いだけだ。

だが、最近は前後編であることを隠して刊行するようになった。

たとえば『かいけつゾロリ なぞのスパイとチョコレート』は物語の途中で終わる。なぞは解かれないまま。
そして『かいけつゾロリ なぞのスパイと100本のバラ』へと続く。

『かいけつゾロリのまほうのランプ〜ッ』も同じく、登場人物がランプの中に閉じこめられたまま唐突に終わってしまい、『かいけつゾロリの大まじんをさがせ!!』につながる。

同じ手法は、
『かいけつゾロリのかいていたんけん』と『かいけつゾロリのちていたんけん』、
『かいけつゾロリ ロボット大さくせん』と『かいけつゾロリ うちゅう大さくせん』でも用いられている。
(めっちゃ読んでるやん!)

『かいけつゾロリ なぞのスパイ(前編)』『かいけつゾロリ なぞのスパイ(後編)』というタイトルにすればいいのに、わざわざわかりづらいタイトルをつける。

なぜ前後編であることを隠して発売するのか。
たぶんこういうことだろう。

ゾロリシリーズは基本的に半年に一冊新刊が出る。
だがタイトルに「前編」がついていると売上が落ちる。「まだ完結しないのか。だったら後編が出たらあわせて買おう」あるいは「長いのはイヤだから一巻で完結するものを買おう」となる客が多いから。

そこで前後編のうちの前編であることを隠す。
タイトルに「前編」という文字を書かない。
当然ながら客は、物語が途中で唐突に終わることを知らずに買う。しかたがないので半年後に後編も買う。

これはぼくの想像だが、かなり真相に近いはずだとおもっている。

そりゃあ売上は上がるだろう。一時的には。
でも前後編であることを知らずに前編だけ読んだ子どもはどうおもうか。消化不良になる。「おもしろかったー!」とはならない。
うちの娘もまんまとだまされて「えっ、もう終わり……?」と戸惑っていた。

「早く続きが読みたいなー。どうなるんだろうなー!」と想像して心待ちにしてくれる子どももいるだろうが、読書に裏切られた気持ちになる子もいる。
こういう、書き手と読み手の信頼関係をぶっこわすようなことをする出版社なのだ、ポプラ社は。

現在子どもたちの間で大人気の『おしりたんてい』は今のところここまでえげつないことはやっていないが、最近刊行された『おしりたんてい ラッキーキャットはだれのてに!』では一部の謎が未消化になったまま終わってしまった。
これが作者の意図するものであればいいのだが、出版社側からの要請でこうなったのであれば、いずれ『かいけつゾロリ』のように読者をだまして目先の売上を稼ぐ手口をとるんじゃないかと心配でならない。


あっ、本屋でやってるおしりたんていなぞときイベントはすごくいいイベントだとおもうよ!
無料で参加できるのにクオリティ高いよね。
娘の友だち連れて全部参加してるよ! みんなすごく楽しんでるよ!

こういう、長期的なファンを獲得する方向にもっと力を入れてほしいとつくづくおもう。


2019年9月9日月曜日

外国語スキルの価値


親戚の子(小学六年生)が、英語の塾に行きだしたそうだ。なんでも自分から英語を学びたいと言いだしたそうだ。

「へー。えらいな」というと、
「将来外国に住んでみたいから」という。

感心だ、とおもう。
ぼくの子どもの頃よりいろんなことを考えているんだろう。

ただ水を差すようで悪いけど、と前置きしてから

「外国に住むというのはいい選択だとおもう。これから先、日本が若い人に暮らしやすい国になっていくことはまずないだろうから。他の国は他の国でそれぞれ暮らしにくさがあるだろうけど、選択肢を多く持っておくに越したことはない。選べるということは大きなアドバンテージになるからね。

 外国に旅行したいから英語を勉強する、というのであれば何の異論もない。けれど外国に住みたいから英語を勉強する、というのは努力の方向が少しずれているようにおもう。
 外国で仕事をしようとおもったら、むしろ英語以外を勉強しなくちゃならない。アメリカに英語が達者な人は掃いて捨てるほどいるが、数学が達者な人はそう多くない。希少なスキルのほうが高く売れるのだから。もちろんそのスキルが求められていることが前提だけど。
 日本で働いている外国人のことをみるといい。大きな会社とかだと、たくさんの外国人が働いている。彼らは決して安くない給料をもらっている。ただ、彼らの中には日本語をまったく話せない人もおおぜいいる。彼らは日本語を話せないけど他のスキルを持っているから高い給料をもらっているんだ。
 逆に、日本語が話せるだけの外国人が日本でどんな仕事に就けるか考えてみよう。かんたんなアルバイトで最低賃金に近い時給をもらえればラッキー、というとこだろう。
 通訳ができるぐらい外国語に長けていますとかの域に達していれば話はべつだけど、そこまでいくのは至難の業だ。はっきりいって小学六年生で英語の塾に通いだすのでは遅すぎる。幼少期に海外で数年暮らしてた、ぐらいでも厳しいだろう。

 それに、これから先、機械翻訳の性能はどんどん向上していく。おそらく君が大人になる頃には日常会話レベルだと機械翻訳でまったく困らないぐらいになっている。ということは、英会話ができることの価値は今後下がっていく一方だ。『そろばんを使うのがうまい』とか『字がきれい』とかと同じような能力になるだろうね。ないよりはあったほうがいいけど、それでお金を稼ぐのは相当むずかしいスキルになる、ということだ。

 英語を学ぶことが無駄だとは言わない。英語学習によって身につくのは英語能力だけではないからね。
 ただ、英語を話せることは海外に移住する上ではあまり重要でないことは知っておいたほうがいい。英語以上に他の勉強をするほうがずっと近道になるとおもうよ」


……と言いたかったんだけど、そんなこと言ってもほとんど伝わらないどころか疎まれるだけだろうなとおもったので何も言いませんでした。おしまい。