2019年3月19日火曜日

【読書感想文】盗人にも三分の理 / 斉藤 章佳『万引き依存症』

万引き依存症

斉藤 章佳

内容(e-honより)
被害総額1日約13億円!なぜ繰り返す?どうすれば止められる?自分や家族が、いつかなるかもしれない。依存症の専門家が解き明かす、万引き依存の実態。

万引き依存症クリニックのスタッフとして依存症治療プログラムに携わっている著者による、万引き依存症の解説。

万引き依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ、どんな人が万引き依存症になりやすいか、万引き依存症になるには家庭に問題があることが多いのでそっちを解決しないといけない……など。
 面白いことに、彼らが言うことはだいたい似通っています。一定のパターンがあるのです。次に挙げるのはクリニックに通院する人たちから聞いた認知の歪みのうち、何人もに共通するものをまとめたリストです。
  • どうせ買うつもりだったんだから、盗ってもいい・たくさん買っているんだから、ちょっとぐらいは盗っていいだろう
  • 私が万引きをするのは、ギャンブルをする夫のせいだ
  • レジが混んでいるから、お金を払わずに店を出よう
  • このお店は死角が多いレイアウトだから、盗ってしまう
  • お店の棚が、盗ってくださいと言わんばかりの配列だから万引きした
  • このお店は儲かっているのだから、少しぐらい盗っても許される
  • 今週は仕事でイヤなことがあったけどがんばったから、万引きしよう
  • 新商品や限定商品は買って使う前に試しておきたいから盗ってもいい
  • 今までたくさん買い物をしてお金を落としてきたから、今日ぐらいは盗んでもいい
  • もっとひどい万引きをやっている人もいるし、私が盗むぐらいはたいしたことない
  • 今月は出費が多かったから、盗むことで収支のバランスがとれるからいいだろう
  • ここのオーナーは、きっと私に万引きしてもらいたいに違いない
  • ここのGメンはぜんぜん見ていないから、少しぐらい盗んでもバレない
  • 私の人生、損ばかりだから盗っていい
  • バレたら、買い取ればいい
どれも被害店舗が聞けば卒倒しそうなほど、勝手な言い分ばかりです。彼らは心からそう思っているので、お店のバックヤードに連れていかれたとき、従業員を前にして大真面目に右のようなことを訴えます。
こんなことを主張する人間は、どう考えたってまともとはおもえない。たしかに治療が必要だとおもう。


ぼく自身は身近に万引き依存症の人がいないこともあって(知らないだけかもしれないが)「万引きをするやつなんてクズ」としかおもっていなかったが、この本を読んで万引き依存症への理解が深まった。

なるほどねえ、病気だから自分の意志だけじゃあどうにもならんもんなんだねえ……。

とおもいつつも、ぼくは言いたい。
「ふざけんな」

この本を読んだ後でも、「万引きをするやつなんてクズ」という気持ちに変わりはない。



この本には、万引き依存症はアルコール依存症やギャンブル依存症と同じ治療が必要な病気だと書かれている。

だがそこを一緒にしていいのか?
アルコールや公営ギャンブルはそれ自体が違法ではないので、ほどほどの距離をとってつきあう分には何の問題もない。
けれど万引きは規模の大小にかかわらず犯罪だ。しかも直接の被害者がいる。

アルコール依存症やギャンブル依存症の人には同情できる面もあるが、万引き依存症や痴漢依存症の人にはまったく同情できない(ちなみにこの著者は『男が痴漢になる理由』という本も書いている。未読)。

著者は万引き依存症の人に同情的だ。
支援プログラムをする立場からしたら当然かもしれない。
が、そのスタンスにどうも納得がいかない。

著者にも「たかが万引き」という意識があるんじゃないのか?

世の中にはストレスが溜まると通り魔をする人間がいる。見ず知らずの人をナイフで刺し、ときには命を奪う。
レイプ依存症としか言いようのない人間もいる。

そういう人間にも「通り魔依存症は病気なので刑罰より治療が必要だ」「レイプ依存症になるには家庭に問題があることが多いのでまずそっちを解決しないといけない」と言えるか?
通り魔に家族を殺された人がそんなたわごとを聞いたら、ふざけんなと激怒するだろう。

万引き依存症も同じだ。
著者の主張を聞いていると、まるで「彼らもある意味被害者なのです」と擁護しているようにおもえてしまう(そうは書いてないけどね。でもそう言われているようにおもえる)。
万引き依存症の人間は100%加害者だ。もう一度いう、100%加害者だ。

万引き依存症になる背景には、たしかに家族トラブルやストレスなどの他の原因があるのかもしれない。
だからといって罪が軽減されるわけではない。「手厚いサポート」をするとしてもそれはちゃんと刑を受けて罪を償った後の話だ。
「夫が横暴なので夫を刺してしまいました」ならまだ情状酌量の余地もあるかもしれないが「夫が横暴なので近所のスーパーで万引きしました」は、まともに取り合う理屈ではない(たとえ本人が本気でそう思いこんでいたとしても)。

「万引き依存症を放っておくと社会的コストが増すので治療させましょう」という主張には大いに納得できるけど、
「万引き依存症の人たちもまたさまざまな事情で苦しんでいるんです」には「知らんがな」としかおもわない。

被害店舗のことを考えたら「家庭に事情があるから」なんて弁護はとても口に出せないだろうに。



結局、万引きをくりかえす人間も、その治療をサポートする人にも「たかが万引きぐらい」という意識があるのだろう。

だから万引きは病気だから止められないと言いつつ、警察署に強盗に入ったりはしない。
ちゃんと「ここならバレない」「たかが万引き」「もし捕まっても万引きだったら刑罰も軽い」という計算がはたらいているのだ。

極端な話だけど、「万引き依存症だからどんなにやめようとおもっててもやっちゃうんです」と言っている人だって「盗みをはたらいたものは問答無用で腕を切り落とす刑に処す」だったらやらないとおもうんだよね。

刑罰が軽ければ病気だからやめられない、でも刑罰が重ければやらない。ずいぶん都合のよい病気でございますねえ、と嫌味のひとつも言いたくなる。



万引き依存症を止めるには、罪の厳罰化、万引きの通報コストを減らすことなどがいちばんだとおもう。

この本の巻末には、著者と万引きGメンの伊東ゆう氏との対談が掲載されている。正直いって、本文よりもこの対談のほうがよほど納得できた。
伊東ゆう氏は、万引きは加害側と被害側のバランスのとれていない犯罪だと語っている。

よほどの常習でないかぎりは起訴されない、精神病や認知症など他の症状があるとなおさら、起訴されても微罪、万引きを発見して捕まえるにもコストがかかる、捕まえて警察に通報すると現場検証などに数時間とられる。

これでは、数百円ぐらいのものを万引きされたぐらいだと「捕まえるより盗まれるほうがマシ」ということになってしまう。
しかし一件あたりの被害額は大きくなくても、積み重なれば大きな額になる。万引きが原因で倒産する店舗もある。万引き対策に費やすコストもばかにならない。

ぼくは書店で働いていたので、万引き対策のむずかしさはよく知っている。
毎日のように盗まれる。防ごうとおもえば人を増やすしかないが、そうすると人件費のほうが高くつく。

店側の負担をゼロに近づけた上で万引き犯をしょっぴけるようになるといいとつくづくおもう。
万引き依存症の人の気持ちに寄りそうサポートよりも「万引きが見つかったら盗んだものに関わらず50万円を店舗に払わせる法律」のほうが、万引きを減らすにはずっと有効だろう。

まあ万引きが減っても、万引きをくりかえしていたやつらは他の犯罪に向かうだけなんだろうけど。



ぼくがここに書いたようなことは、専門家である著者は当然わかっていることだろう。

万引き犯は身勝手な犯罪者で、万引きされた人のほうが百倍気の毒
そんなことは百も承知だろう。
自明なことだからわざわざ書かなかったのかもしれないけど、被害店舗の視点がほとんどないことにはやっぱり疑問を感じる。

加害者側の立場に立つことも必要だ、と主張しすぎているがために「めちゃくちゃ加害者寄りの本だな」とおもえてしまう。

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2019年3月18日月曜日

【読書感想文】アメリカ大統領も総理大臣も怒っている / 鷲田 清一・内田 樹『大人のいない国』

大人のいない国

鷲田 清一  内田 樹

内容(e-honより)
「こんな日本に誰がした」犯人捜しの語法でばかり社会を論じる人々、あらゆるものを費用対効果で考える消費者マインド、クレーマー体質…日本が幼児化を始めたターニング・ポイントはどこにあったのだろうか。知の巨人ふたりが、大人が消えつつある日本のいまを多層的に分析し、成熟への道しるべを示した瞠目の一冊。

哲学者で大阪大学の総長でもあった鷲田清一氏と、フランス文学者(というか思想家というか文筆家というか武道家というか)の内田樹氏の対談+二人がいろんなところに書いた文章の寄せ集め。
一応テーマは「大人のいない国」なのだが、あまりまとまりはない。ほとんど関係のない話も多い。

全体を貫く明確なテーマみたいなものはないんだけれど、まあそれでもいいじゃないか、という気もする。どんなことでも白か黒かではっきりさせようというのは"大人"の態度じゃない。

内田  相互依存ということをネガティヴな意味でとらえてますね。このあいだ、若い人に「折り合いをつけることの大切さ」を説いていたら、「それは妥協ということでしょう」と言われた。妥協したくないんだそうです。「妥協」と「和解」は違うよと言ったんですけれど、意味がわからないらしい。「交渉する」ということがいけないことだと思っている人がたくさんいますね。ストックフレーズ化した「正論」をべらべらしゃべることの達者な若者に、「ちょっとネゴしようよ」と言うと、「大人は汚い」とはねつけられる。自分たちだってもういい大人なのにね。彼らにしてみたら、自分は「正しい意見」を言っているのに、何が悲しくて「正しくない意見」と折り合わなきゃならないんだ、ということでしょうね。その理屈がわからない。「あなたがあなたの意見に固執している限り、あなたの意見はこの場では絶対に実現しないけれど、両方が折れたら、あなたの意見の四割くらいは実現するよ」と説明してみるんですけれど、どうもそれではいやらしい。自分の考えが部分的にでも実現することより、正論を言い続けて、話し合いが決裂することのほうがよいと思っている。
鷲田  何を恐れているんでしょうねえ。
内田  和解することと屈服することは違うのに。世の中には「操作する人間」と「される人間」の二種類しかいないと思っている。
鷲田さんと内田さんは「最近の日本には成熟した大人がいない」と嘆く。
こういう語り口は好きじゃない。「最近の日本は……」というだけで聞く気がなくなる。だったら成熟した市民がたくさんいた時代っていつのどこなんだ、何をもってそう断定できるんだ、と訊きたくなる(これはこの本の中で「日本人が劣化した」と主張する人に内田氏がぶつけるのとまったく同じ論理だ)。

まあそれはそれとして、白黒つけたい人が多いなあということはぼくも同感だ。
そんなに何もかもはっきりさせなくてもいいじゃないか、もっとあいまいでいいじゃないか、と。

政治を見ていてもそうだ。
まるで賛成か反対のどちらかしかないような言説が多い。
賛成だ、反対だ、だったら採決で決めよう。

政治ってそういうものじゃないでしょ。
多数決で決めるなら政治家いらない。今はインターネットでかんたんに投票できるんだから全部の法案を国民投票で決めればいい。

折り合わない意見をすりあわせてほどほどのところで調整をつけるのが政治だ。お互い納得いかないでしょうがこのへんで手を打ちましょう、と。


「水面下の交渉」が悪いものであるかのように言われるが、それもちがうとおもう。
水面下の交渉が良くないとされるのは報道機関の都合だ。自分たちの知らないところで物事が決まったら報道機関は商売あがったりだから非難するけど、それはきわめて健全なことだ。
ぼくらが家庭やサークルや仕事でルールを決めるときは投票なんかしない。話し合いや阿吽の呼吸で決める。家庭内で投票をしなきゃいけないとしたら、その時点でもうだいぶこじれてると考えていい。

国会で議題に上がる頃にはすでに事前の根回しによって大勢が決している、というのが本当の政治だとぼくはおもう。
国会で丁々発止の論戦、なんてのはパフォーマンスにすぎない。

社内の会議で「まだ何も決まっていません。さあ今からみんなで話し合って決めていきましょう!」と提案するのは、仕事ができないやつだ。
優秀な人間は会議がはじまる前に各方面にキーマンに話をつけて、大まかな道すじを作っておく。会議では最終的な確認と微調整だけ、ということが多い。これこそが政治だ。

「水面下での交渉」や「ほどほどのところでの調整」に長けた人を選ぶのが間接民主制における選挙だ
選挙は正しい人」を選ぶものではない。


本来、採決で決めるのは最終手段のはずなのに(そうじゃなかったら議会の意味がない)、どうもそれが唯一絶対の方法になっている気がしてならない。
「決をとるという行為は、一見個人の意思を尊重しているように思える。
 しかし!! 実は少数派の意志を抹殺する制度に他ならない!!」
ってトンパも言ってたじゃない(『HUNTER×HUNTER』より)。



この本の中では、「白黒はっきりつけないこと」「首尾一貫していないこと」「正解を決めないこと」の重要性がくりかえし語られている。
 今、結婚に際して多くの若者たちは「価値観が同一であること」を条件に揚げる。二人で愉快に遊び暮らすためにはそれでいいだろう。だが、それは親族の再生産にとっては無用の、ほとんど有害な条件であるということは言っておかなければならない。というのは、両親が同一の価値観、同一の規範意識を持っている完全に思想統制された家庭で育てられた子どもは、長じても教えられた価値観に整合する事象以外のすべてを「存在するはずのないもの」あるいは「存在してはならないもの」として意識から排除するようになるからである。
 スターリンや金正日の統治が非人間的であるのは彼らが「間違った社会理論」に基づいて社会を構築したからではない。「正しい唯一の社会理論」に基づいて社会を構築したからである。そこでは、公式の価値観に整合しないもの(例えば支配者に対する異議申し立て)は「存在しないもの」として無視されるか、「存在してはならないもの」として排除される。
上に引用した文章は内田さんのものだが、鷲田さんも「対立の外に身を置く」ことの重要性を説いている。


うちの娘(五歳)と話していると、物事をすごくシンプルに理解したいんだなあと感じる。
「絵本に出てくるこの人はいい人?」「あれは悪いことだよね」「この前は〇〇だと言ってたじゃない」と。

でも、フィクションの中ならともかく、現実はたいていそうシンプルではない。
いい人が悪いことをすることもあるし、その逆もある。良かれとおもってやったことが悪い結果を招くこともある。時と場合によって同じ人がまったく正反対のことを言うときもある。

五歳には「清濁併せ呑む」なんて芸当がないから、物事をなんとかシンプルに切り分けて理解しようとしているんだろう。

なんでも単純化してしまうのは五歳だけじゃない。大人にも多い。
議論になるような出来事は、清濁併せもっている。戦争も原発も自衛隊も死刑も増税も医療も介護も、みんなメリットデメリットがある。

自宅の前に原発つくるって話なら原発稼働に反対するし、毎日停電が起きますよって言われたら原発稼働停止はちょっと待ってよっておもう。
それで「さあ原発稼働に賛成ですか、反対ですか、どっちか一方に決めてください」といわれても困ってしまう。
明確に割り切れるものならそもそも議論にならない。「タバコのポイ捨て、あなたは賛成ですか? 反対ですか?」と訊かないでしょ。

ゼロか百かしかないのはきわめて幼稚で、大人のふるまいじゃない。
だから新聞社やテレビ局はまず「現政権を支持しますか? その理由を次の中から選んでください」っていう単純な世論調査をやめたらいいとおもう。
あれで明らかになるのは子どもの意見だけだから。



子どもと大人のいちばんの違いは、自分の感情をいかにコントロールできるかという点だとぼくはおもう。

以下、内田さんの文章。
 だけど、ものすごく怒っている人がいると、その人にはきっと怒るだけの確かな根拠があるんだろうと思ってしまう。だから、とりあえず自分は黙っても、その人の言い分を聞こうということになる。
 なぜ怒っている人間の言うことをとりあえず聞くかというと、怒っている人間というのは集団にとってのリスク・ファクターだからです。
 怒り狂って我を忘れている人間というのは、とんでもない行動をする恐れがある。公共の福利を損なうような行為を怒りにまかせてしてしまう可能性がある。だから、ものすごく怒っている人間がいた場合は、とりあえずその人の怒りを鎮めるということが集団での最優先課題になる。誰かが怒り出したら、とりあえずほかの仕事はストップして、その人の怒りを鎮めることに優先的に資源を分配しようということになる。考えてみれば当然なんです。でも、みんなそれに味をしめてしまった。とにかくはげしく怒ってみせれば、みんなが自分を気づかってくれる。そういうふうにみんなが思い出した。だから、「誰がいちばん怒っているか」競争になってしまった。政治家だけじゃないです、テレビのコメンテーターとか、新聞の論説委員でも、「切れた」人の発言がとりあえず傾聴される。みんな怒りを政治的に利用しようとしているから怒りの連鎖が止らない。
これねえ。なんとかならんもんか。
怒りをあらわにするって、いちばん子どもっぽいふるまいじゃないですか。

うちの幼児なんか、毎日めちゃくちゃ怒ってますよ。

風呂に入れと言われたら「今入ろうとしてたのに!」と怒り、脱いだ服を洗濯カゴまで持って行けと言われたら「わかってる!」と怒り、そろそろ帰ろうと言われたら「いやだ!」と怒り、腹が減っては怒り、眠くなっては怒り、「眠いんだから早く寝ようね」と言われては「眠くない!」と怒っている。

ふつうの口調で言えばいいのに、全部怒る。怒ることで話を聞いてもらおうとする。
だからぼくも妻も、娘が怒っているときは放置する。無視して他の話をする。
「怒ることで他人をコントロール」しようとしても無駄だと教えるために。他人に要求を伝えたいのなら、むしろ落ち着いた語り口を採用しなければならない。

なのに、政治家や記者など「立派な立場」とされるポジションにある人が子どものように怒っている。
それも「私を侮辱するのか!」とかしょうもない理由で。それって幼児の「わかってるのに言わんといて!」と同じレベルだよ。
失礼な態度をとられたら、より慇懃に接するのが大人のふるまいだろうに。

ぼくが前いた会社の社長もこういう人だった。
どうでもいいことでスイッチが入っていきなりキレる人。
そうすると周囲の人は「あの人はやっかいものだから慎重に扱おう」と接する。それを本人は「大事に扱われている」と勘違いしちゃうんだろうなあ。爆弾を慎重に扱うのは爆弾に敬意を持っているからじゃないのに。


ぼくは、すぐ怒る人のことをばかだとおもっている。知性的な人間はそうそう怒らない。ほんとうに怒っているときこそそれを表に出さない。

成熟した大人の数は昔も今も少なかったんだろうけど、昔はまだ「怒りをあらわにするやつはばかだ」という認識が知識層の間にはあったんじゃないかな。
だからこそ「バカヤロー解散」なんてのが名前として残っているんだろう。総理大臣なのに感情的になったぜ、あいつばかだぜ、ってことでああいう名前をつけたんじゃないのか。

だけど今はえらい人がすぐ怒る。
アメリカ大統領も総理大臣も怒っている。「戦略的に怒ったふりをしてみせる」とかじゃなく、ただ怒りをあらわにしている。

こういう非知性的なふるまいが許容されているのはよくない。
ばかなことをしている人は、ちゃんとばかにしなければいけない。

感情のおもむくままに怒っている人はスーパーの床にころがって駄々をこねている幼児といっしょなのだから、ちゃんと言ってあげないといけない。
「そんなこという子はうちの子じゃありません!」

2019年3月16日土曜日

差別主義者判定テスト


先日、住んでいる市からアンケートが届いた。
ランダムに選ばれた人に送っているのだと書かれていた。
多くの人の中からぼくが選ばれた、というのがなんとなくうれしい。御礼ということでボールペンも同封されている。

アンケートに回答していると「なるほど。今回のメインテーマはLGBTなのだな」と気づいた。
「死にたいと思ったことはありますか?」とか「世帯年収は?」といった設問もあるが、LGBTについて問われている設問がやたらと多い。
なるほど、これからどんどん改革をしないといけないホットなテーマなので、それにあたって意識調査をしているわけだな。

ぼくはリベラル派を自称している。
自分自身は異性愛者だが、LGBTの人たちにも住みやすい世の中になればいいと思う。

 同性間での婚姻を認めることについて …… 賛成

 同性カップルについてどう思いますか …… ぜんぜんイヤじゃないよ

 職場の人や友人がトランスジェンダーだったらどうですか …… ぜんぜんいいじゃない。ぼくは差別しないよ!

ってな感じで答えていたのだが、「自分の子どもが同性愛者だったらどう思いますか?」という設問ではたとペンが止まった。

むむむ。それは……イヤ……かもしれない。
いや、正直に言おう。イヤだ。



同性婚に反対する人は、頭の固い古い人間だとばかにしていた。
「同性愛者は生産性が低い」とか「同性愛者ばかりになったら国が滅びる」とかいう政治家を、「現代の感覚にアジャストできない老人」とあざ笑っていた。
自分はちがう、性嗜好や性同一性障害で人を差別したりしないと思っていた。

しかし自分の子どもがそうだったら、と思うとやっぱりイヤだ。
イヤといっても矯正できるものではないので結局は受け入れるしかないのだが、とはいえ心から「そのままでぜんぜんいいよ」と言えるかというと自信がない。
将来娘が女同士で結婚したいといってきたら心からおめでとうと言えるだろうか。わだかまりはないだろうか。「やっぱり男の人じゃだめなの?」と訊いてしまわないだろうか。

自分はリベラルだ、差別意識はない、と思っていても結局は他人事としてとらえているからなんだろう。
いざ自分のすぐ近くのこととして直面すると、「どんな人でも受け入れるよ!」と広げていた手をおろしてしまいそうになる。

自分の娘が結婚相手として連れてきた人が同性だったら、障害者だったら、被差別部落地域に住んでいたら、重い病気を抱えていたら、生活保護受給者だったら。
そうでないときと同じスピードで「おめでとう!」と言えるだろうか。
「差別するわけじゃないけど他の道を選んだほうが苦労しなくていいんじゃない?」とおためごかしに言ってしまわないだろうか。
自信がない。

アンケートのたったひとつの設問が、ぼくの中にあった差別意識を鮮明に暴きだした。

2019年3月15日金曜日

【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』

もっと言ってはいけない

橘 玲

内容(e-honより)
この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!
博識の人のとりとめのないおしゃべりを聞いているという感じ。
話のひとつひとつはすごくおもしろい。
でも全体として見ると少し散漫。
「いろんな本のおもしろいところを紹介するブックガイド」として読んだらすごくいい本だとおもう。


「知能は遺伝子によってある程度決まる。人種によって知能は(平均で見ると)違う」
というのが全体を通しての主張なのだが、そのあたりのことは前作『言ってはいけない』にも十分書いてあったので、『言ってはいけない』を読んだ人にとってはさして驚きはない。
まあそりゃ人種によってばらつきはあるだろうね。肌の色だって身長だってちがうんだから、知能だけが同じなはずがない。

ただ「日本人(を含む東アジア人)は知能が高い傾向にある」ってのは事実でも、「日本人はみんな優秀」は事実ではない
でも、そこをごっちゃにしてしまう人は決して少なくない(これこそが日本人みんなが知能が高いわけではないことの証左だ)。

だから、橘さんの言っていることは間違いではないんだけど「すごく誤解を招きやすいこと」を言っている。
橘さん自身は自分の発言が誤解を招くこともわかってて言ってるんだろうけど、あえて誤解の招きやすいことを言う手法にはちょっと疑問も感じてしまう。

読解力がなくて誤解したほうが悪いんだけど、「読解力の低い人が誤解するであろうこと」を強い口調で語るのもどうなんだろう。
ガソリンを撒いておいて「悪いのは火をつけたやつでしょ。火をつけるやつがいなければ火事にはなりませんよ」と言うようなもので。

まあこの人の場合はずっとそういう露悪的な立ち位置で商売しているわけだし、それがおもしろいんだけどさ。



『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。――音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。
 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ――という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす〝自称〟リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。
このへんの話はすごくおもしろかった。

ふうむ。
「人間はみんな生まれたときは同じ能力を持っている」という主張は一見平等なように見えるけど、「あなたが成功しなかったのはあなたやあなたの親に責任がある」という"完全自己責任論"にもつながりやすい。

「どんな親から生まれたかによってあなたが成功するかどうかはある程度決まっている」というのは残酷なようで、「だったら成功する確率が低い人には手厚いサポートを」という議論につながる。
身体の弱い人に対するサポートがあるように、生まれつき知能の低い人もサポートするわけだ。

「誰でもやればできるさ」は、誰にでもチャンスを認めているようで、じつはかなり残酷な主張だ。それって「できないのはやらなかったから」の裏返しなのだから。

仮にぼくが小さいときから血の出るような努力をしてきたとしても、100メートル9秒台で走れなかっただろう。
それを桐生祥秀選手に「おれは努力したおかげで9.98秒で走れた。おまえが走れなかったのは努力が足りなかったからだ」と言われたらたまったものではない。

しかし教育の場ではわりと日常的にこういう論旨がまかりとおっている。
才能の無い分野で努力するよりは、早めに見切りをつけて自分にあった道を探したほうがいい。
そして残酷なようだけど「どんな分野にも才能のない人」が存在することは認めなければならない。
「人間誰しもどこかしら優れたところはあるんだ」というきれいごとは耳あたりがいいけれど、それこそが人を苦しめる。



本筋とはあんまり関係がないけれど、「人類水生生活説」はなるほどとおもった。
 海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。だとしたら人類も、過去に水生生活をしていたのではないか。
 このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。
 人類が二足歩行に移行したのは、四つ足で水のなかに入っていくよりも、直立したほうが水深の深いところで息ができるからだ(それに、水の浮力が上半身を支えてくれるから倒れない)。鼻が高く、鼻の穴が下向きなのも、水にもぐるときに都合がいいからだ。体毛がないのはそのほうが水中で動きやすいからで、皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。
そういや手塚治虫のなんかの漫画でも似たようなことが描いてあったなあ。
人間は身体的に弱いから、水辺に棲んで敵が来たときは水中に逃げるしかなかった。水中では二足歩行のほうが暮らしやすい。浮力があるし、顔を水上に出さなくてはいけない。赤ちゃんがおぼれないようにするためには手でだっこしなくてはならない。こうして手が発達して、道具を生みだせるようになり……。

これはあくまでひとつの説なので正しいかどうかはわからないけど、納得のいく説ではある。
風呂に入ると気持ちいいのも、水のなかで暮らしていたときの記憶があるからかも……。



人類が(他の哺乳類よりも)攻撃的でない理由、の仮説。
 なぜ人類は、身体的な強さが権力と直結しないように進化したのだろうか。
 ボームの慧眼は、石槍は獲物を倒したり外敵と戦うときのためだけに役立つのではないと気づいたことだ。いまならオモチャにしか思えないかもしれないが、打製石器は人類の歴史では大量破壊兵器に匹敵するイノベーションだった。ひとたびそれを手にすれば、ひ弱な人間も集団でマンモスをしとめることができる。だとすれば、共同体のなかのひ弱なメンバーが身体の大きなボスを殺すのはもっとかんたんだったはずだ。
 こうして旧石器時代の人類は、共同体の全員が大量破壊兵器(打製石器)を保有し、「いつでも好きな時に気に入らない相手を殺すことができる」社会で生き延びなければならなくなった。
だから人類は平等な社会を築くようになったし、徒党を組むために言語や高い知能が必要になった……と続く。
自己中心的な人間や暴力的な人間は殺されたり、排斥されたりして、そうした遺伝子は淘汰された、という考え方だ。

核抑止論とか、アメリカ人が好きな「銃があるからこそ平和が保たれる」みたいな話だね。
逆説的だけど、強力な武器があるからこそ平和的にふるまわなくてはならない。

しかしこれが正しいとしても、平和的な社会というのは裏返せば暴力的な人が得をする社会だ。
周囲がみんな争いを好まず、自分だけが戦闘的であれば、反撃に遭うことなく他人の資源を奪うことができるわけだから。詐欺師にとって「みんながお人好しの世の中」が暮らしやすい世の中であるように。
だから、平和的な社会になったとしても攻撃的な人は一定数存在する。

ということで「平均的に見ると平和と平等を愛する人類」なのかもしれないけど、それは「人類はみんな平和と平等を愛する」とイコールではないんだよねえ。



さまざまな言説をものすごいスピードでどんどん紹介してくのは、刺激的でおもしろい。圧倒的な読書量、そしてわかりやすくかみくだいて説明する力。これだけのことができる人はそう多くない。
全盛期の立花隆氏のようだ。

ただ、橘さんが自分の見解や仮説を述べるあたりは、ちょっと暴走しすぎかなあと眉に唾をつけたくなることが多い。話としてはおもしろいんだけど、話半分に聞いておかないと。
おもしろすぎるので警戒が必要な本、だよなあ。

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2019年3月14日木曜日

SNSでバズるのひええ


はじめて、Twitterでバズるということを経験した。

ツイートから5日経過した時点で、13,000回以上リツイートされ、40,000近い「いいね」がついている。
インプレッション(表示された回数)は180万回を超えている。
ひええ。テレビの不人気な深夜番組だと視聴率1%を切るというから、それよりも見られているわけだ。

人気アカウントの持ち主からしたらめずらしいことじゃないのかもしれないけど、ぼくのツイートなんてふだんは「いいね」が3個ついたら多いぐらいなので、もうすっかりびびってしまった。

はじめは「おっ、なかなか好評だな」とうれしかったんだけど、そのうち通知が止まらなくなり、1秒ごとにリツイートや「いいね」がどんどん増えていくのを見ていると、胃が痛くなってきた。
自分の言葉が自分の身体を離れてひとり歩きしているという感覚。

今回はたまたま毒にも薬にもならぬ内容だったからよかったけど、ぼくは不謹慎なこととか特定の団体批判とか政治色の強いことなんかも書いているので、もしもそういうツイートがここまで拡散していたらと思うとぞっとする。



バズったことで、いろんな発見があった。

まず、けっこうフォロワーが増えること。1日で100人ぐらい増えた。ありがたい。

Twitterから流れてブログ記事を読んでくれる人も増えた。
ぼくは、Twitterをブログの更新告知ツールと位置づけているので、これがいちばんうれしい。

あとツイートに対していろんなコメントがつくのが愉しい。
これが賛否両論だったら精神的に耐えられなかっただろうけど、今回は内容が内容だけにほとんどが肯定的なコメントで助かった。

なんかいろんな人がいろんな解釈をしてくれる。
  • 他人に迷惑をかけないならやってみろ、ってことですね
  • やりたいならやればいいが責任は自分で持てよ、ってことか
  • 実は背中を押してくれる優しいアドバイス
とか。

ぼくが伝えたかったことは 「ぼくのおじさん、こんなおもろい人やでー」 ぐらいだったので(悪口みたいに聞こえたらイヤなので最後にフォローをつけたした)、自分の何気ないつぶやきがいろんな意味に解釈されていくのはおもしろい。
文章から何を読みとるかは読み手の自由だしね。

いちばんおもしろかった反応はこれ(知らない人だけど勝手に引用)。

たしかになあ。
「挑戦してみろよ。自己責任で」だとずいぶん冷たい印象になるよなあ。言ってることは同じなのに。



ちなみにこのツイートに出てくるおじさん、実在する。
以前にこのおじさんのことを書いた記事がこちら。

おじさんじゃないもの


この記事は数十人に読まれただけだったけど(それでもすごくありがたいことなんだけど)、ほとんど同じ内容なのにTwitterだと100万人に見てもらえるんだなー。