2025年10月8日水曜日

【読書感想文】藤原 てい『流れる星は生きている』 / 身勝手だから生きられた

流れる星は生きている

藤原 てい

内容(e-honより)
一九四五年、終戦。そのときを満州(現中国東北部)でむかえた著者は、三人の子をかかえ、日本までのはるかな道のりを歩みだす。かつて百万人が体験した満州引き揚げをひとりの女性の目からえがいた戦後の大ベストセラー。新装版にて待望の復刊!

 満洲で終戦を迎えた著者。夫はシベリアでの強制労働に連れていかれ、乳児を含む三人の子を連れて日本への帰国をめざす。その険しい道のりをつづった体験記(一部に創作も含まれるそうだ)。

 ちなみに夫は作家の新田次郎氏で、連れて帰った次男の正彦は数学者の藤原正彦氏だそうだ。



 ほとんどただの日記なので、そこが欠点(文章がうまくなくて読みづらい、説明不足、記憶に基づいて書いているのであやふや)でもあり、長所(生々しい、赤裸々)でもある。

 ほんと、ぜんぜんわからないんだよね。著者は今何をしているのか、どこに向かっているのか、なんでこんなことをしているのか、突然出てきたこの人は誰なのか。「自分にだけわかればいい」という文章だ。

 でもまあなまじっか技巧を凝らした文章を書かれるよりは、日記のような文章のほうが真に迫って感じられていいかもしれない。




 満洲からソ連統治下の北朝鮮に入り、そこから南下し、38度線を越えてアメリカ統治下の南部朝鮮へと逃れる。ひたすら歩き、靴をなくしても歩き、山を越え、橋のない川を渡る。それだけでもたいへんなのに、7歳から0歳までの3人の子を連れて、である。

 道が坂になった。二歩のぼっては、一歩すべる。正彦が、「ひいっ! ひいっ!」と泣く声が風にちぎれて飛んでゆく。わたしは正彦のしりを力いっぱいたたきながら、よろける正広をどなりつけて、のぼっていった。
 やっと、坂をのぼりきったころ、ほのかに明るさがさしてきて、夜は明けてきた。わたしののぼってきた道は、一間ぐらいのはばの道で、両がわは見わたすかぎりのはげ山であった。はげ山といっても木がないだけで、草は道の両がわにおいしげっていた。わたしが道をまちがえずにここまできたのは、いくらか道がひくくなっていたからだった。わたしは、じぶんのすがたを見てびっくりした。それよりふたりの子どものすがたは、ひどかった。赤土のどろを頭からかぶって、上着もズボンもひと晩のうちに赤土の壁のようによごれていた。かろうじて、目だけが光って、もう泣く涙はないのか、つんのめり、つんのめりして前へ進んでいった。正彦はひと晩の難行のために両方のくつをなくしていた。そして赤土の手で目をこするから前が見えなくなる。
「おかあちゃん、見えないよう。」
 と泣く。
「ばか!」
 わたしは思いきって前に突きとばしてやると、まだ起きあがる元気はあった。よろよろと赤土のどろの中から立ちあがって、あきらめたように一歩二歩前に進んでついにたおれてしまう。起きられないと見て、わたしは正彦の左手を引っぱりあげて、引きずって前へ前へと前進した。ズボンの膝から下をずるずるどろの中に引きずりながら。それでもまだ立とう、立とうとする意志があるらしく、いくらか引きずる手がかるくなるときがあった。
 正広はわたしの悲壮な努力を見て、そう泣かなかった。だまってついてきた。おくれそうになるとわたしに、
「ばか、そこで死んでしまいたいか。」
 と、どなられて、苦しそうな目を、わたしにむけていた。

 ばたばたと人が死んでいく中で(約100万人の引き揚げ者のうち約24万人以上が命を落としたそうだ)、4人とも日本に生きて還ってこられたのは奇跡に近いだろう。はっきりいって「0歳児を置いていく」選択をしても誰も責められない状況だとおもう。それでも3人とも連れていったのだからとんでもない根性だ。




 興味深いのは、生きるか死ぬかの状況における人間関係だ。

「極限状態では他人のことなんかかまっていられない」でも「極限状態では助け合う」でもない。

 自分もギリギリなのに他人を助ける人もいれば、余裕があっても他人を見捨てる人間もいる。別の日本人からものを盗む日本人もいる。

「わたしたちの貧乏な団は、とても高い金をだして、案内人をやとえないから、どこかの団といっしょに行動したほうが、よいだろうと思います。」
 みな賛成した。そして宮本団に申しこんでみようということにして、さらに引き揚げの道中のことも相談した。病人は新田さんひとり、足手まといになる幼児はだれとだれをだれとだれが責任もってつれて逃げるということも、とりきめた。わたしは正彦をせおい、咲子は東田さんがせおい、荷物は佐藤さんがたすけてくれる。正広はひとりで歩かせるといったように、話はすっかりまとまった。
 宮本団の副団長のかっぱおやじは、わたしの申し出に対して明らかにいやな顔をした。
「あなた方のような貧乏団といっしょじゃ、こっちがめいわくしますよ。」
 わたしはくやしさをこらえて、
「ただ、あなたたちのあとを、犬のようについていくだけだから、かまわないでしょう。」
「それはかってですよ。」
「じゃ、あなたの団の出発するとき、知らせてくれませんか。」
 かっぱおやじはこれに返事をしなかった。

 この後、“かっぱおやじ”たちは著者の団には教えずにこっそり出発する。その後も“かっぱおやじ”は何度も著者と遭遇してそのたびに著者に悪態をついたりするのだが、“かっぱおやじ”が悪人かというとそうでもなく同じ団のメンバーに対しては面倒見のいいおやじとして描かれている。

 あたりまえのことなのかもしれないが、生きるか死ぬかの極限状態であっても人間の本質なんてそんなに変わらないのだろう。いい人もいれば悪い人もいる。ある人には冷酷な人が別の人には親切だったりもする。根っからの善人も生まれもっての悪人もいない。

 それに著者自身、なかなか身勝手だしね。500円しか持っていない人に300円貸してくれとせがんで、断られたらあんたはひどい人だとなじるんだぜ。そういう人だから“かっぱおやじ”に冷たくされたんじゃねえの、という気もする。生きるのに必死だからというのもわかるけど、周囲だってみんな余裕ないわけだし。

 まあでも、これぐらい身勝手じゃないと子ども三人抱えて生きて日本に帰ってくることはできなかっただろうね。


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2025年10月7日火曜日

【読書感想文】片野 ゆか『ゼロ! 熊本市動物愛護センター10年の闘い』 / 人間のすばらしい部分とクズな部分

ゼロ!

熊本市動物愛護センター10年の闘い

片野 ゆか

内容(e-honより)
飼い主に見捨てられ、行き場をなくした犬や猫が、保健所で悲惨な死をむかえる―。ペットブームにひそむ現状を「しかたがない」で終わらせず、「殺処分ゼロ」を目標に立ち上がった熊本市動物愛護センター。無責任な飼い主に対する職員たちの奮闘が始まった。決して夢物語ではないことを十年がかりで証明した、彼ら独自の取り組みとは?“闘う公務員”たちを追う、リアルストーリー。

 熊本市動物管理センター(後に熊本市動物愛護センターに名称変更)が動物の殺処分ゼロを目指して取り組んだ活動を記載したルポ。

 同センターでは、2000年には1002頭の犬を保護・引き取りし、そのうち693頭が殺処分されていた。2009年には保護・引き取りが453頭、殺処分は1頭。「殺処分ゼロ」でこそないが、以前の数字と比べれば飛躍的な成果だ。

 そこには、職員、ボランティア、協力団体による絶え間ない努力があった。




 保健所では保護犬や保護猫を殺処分するわけだが、当然ながら職員だって殺したくて殺しているわけではない。それが職務だから、そして処分しないといけない理由があるからこそやむなく処分している。

 そんなあたりまえのことすら想像ができない人がいる。

「所長、お電話が入っとるのですが」
 職員のひとりがデスク越しに声をかけてきた。市民からの問い合わせで、どうしても所長に話したいことがあるという。淵邉が電話をひきついだとたん、ヒステリックな声が耳をつらぬいた。 「殺処分を今すぐやめなさい!」
 声の主は名乗ることもなく怒鳴り続けた。
 あまりの剣幕に口を挟む暇もない。淵邉は受話器を握りながら、センターの仕事のほとんどは苦情処理だと、異動前に耳にしたことを思い出した。気持ちを落ち着けて応対を試みるものの、何が苦情の原因になっているのか、いっこうに見えてこない。相手は「今すぐやめろ」を連呼するばかりだった。
 それでも役所としては、何かしら説明をしなければならない。行政でやっていることは法律で定められていることで、そしてこの施設が抱える現状をあわせて説明した。だがそれはかえって火に油を注ぐ結果になってしまった。 「努力が足りんのよ。ドイツは絶対に動物を殺さんの知っとっと? 行政はもう少し勉強したらよか!」
 相手はしゃべればしゃべるほどヒートアップした。日本の動物愛護のお粗末さには我慢がならない。もっと欧米を見習え。話はいつのまにか熊本市のことだけではおさまらなくなっていた。
 殺処分をやめろと言われて、「はい、わかりました」と返事ができればどんなにいいか。そう思いながら淵邉は、相手が話し疲れるまで三十分以上も受話器を手ばなすことができないのだった。
 こうした電話は多いのだろうか。とりついだ職員に訊ねると、声の主は県内で動物愛護団体を主宰する女性で、数か月ごとに電話をかけてくる常連だという。ほかにも名乗らないが、あきらかにリピーターと思われる者が数名いるようだ。やれやれ、こんな電話がこれからも度々あるのか。そう考えると淵邉は、もはやため息しか出てこなかった。

 ただでさえ精神的負担の大きい仕事なのに、こんなアホの相手もしなくちゃならないなんて大変だ……。

 人里に下りてきたクマを銃殺した役所に文句を言う連中と同程度のアホだ。自分で全野良犬とクマを飼えばいいのに。

 こういう犬以下の知能の市民がひとりふたりではなく、野良犬を保護していると「犬殺し」などという言葉をぶつけられることも少なくないという。

 こんなクレームの相手をすればするほど、職員が犬や猫のために使える時間が減ることがわからないのだろうか。わからないんだろうな。




 殺処分ゼロを目指し、職員や協力団体の人たちはあらゆる手を尽くす。

 譲渡会の開催、不妊手術の実施、市民への啓蒙活動、飼育環境の整備(保護している動物が健康できれいになるほど引き取られる率も高まる)。

 そして、安易に引き取りを求めてくる市民に対する説得。これは骨が折れるだろうなあ……。なにしろ「もう飼えなくなったから保健所で引き取ってくれ」って言ってくるやつなんだもん。そんな人間に比べたら、犬や猫のほうがずっと意思疎通ができるとおもうわ。


 ぼくの実家でも犬を飼っていた。一匹は野良犬だったのを保護。もう一匹は動物保護団体からもらってきたものだ。もちろん毎日散歩に連れていき、遊んでやり、毎年予防接種をし、具合が悪ければ病院にも連れていき、最期は歩けなくなっても家族みんなで世話をした。

 そういう家で育ったから「もう飼えないから引き取ってほしい」と保健所にペットを連れていく神経が理解できない。家族内の大人が全員突然死した、ぐらいの事情でもないかぎりは「もう飼えない」なんてことにはならないだろうとおもう。転勤とかで連れていけないような人は飼っちゃいけない。

 もっといえばペットショップで犬を買うやつは動物好きじゃないとおもっている。動物が好きなら保健所の犬猫がゼロになってから買えよ。「他の動物が殺されてもいいから見た目がいいやつを買いたい」という意思があるんならべつにいいけど。

 ほんとにもう飼えないとおもうのならせめて自分で殺せよな。その覚悟もないやつの「もう飼えない」なんて嘘だろ。


 失礼を承知で言うけど、ぼくは保健所では働きたくない。誰かがやらなくちゃいけない仕事だということはわかってる上で言うけど。すごく身勝手だけど。

 もちろん犬や猫を殺処分するのもイヤだが、それ以上に嫌なのが「アホのしりぬぐいをする仕事」だということだ。最期まで面倒を見る覚悟も想像力もないようなアホのしりぬぐいを押しつけられる仕事だとおもうと、とてもがんばる気にならない。やればやるほどアホがよりアホになるだけじゃないか、とおもってしまう。




 自分がぜったいにやりたくないとおもう仕事だからこそ、そこに従事していて、かつ状況を改善している人たちをすごいとおもう。

 こんなこと言うとあれだけど、愛護センターの職員は公務員なんだから、殺処分件数を減らしたところで給与がすごく増えるわけじゃないとおもうんだよね。だったら前例を踏襲して任期をまっとうすればいいか、って考えるのが多数派だとおもう。そりゃあ殺処分を減らせるなら減らしたいけど、そのために(給与すえおきで)自分の負担が増えてもいいかって言われると、うーん、二の足を踏んでしまう。

 それでも熊本市動物愛護センターの職員やその協力者たちは、負担が増えることもわかった上で、殺処分を減らすために改革をおこなう険しい道を選んだ。すごいなあ。


 高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』を読んだときにもおもったんだけど、地方自治体の職員って「とにかく前例踏襲主義で与えられた仕事をやる」ってイメージだけど(実際そういう人も多いけど)、行動力のある人にとってはかなり自由に改革をおこなうことのできる仕事なんだろう。もちろん公務員といってもいろんな種類があるわけだけど。

「さほど採算を気にしなくていい」という公務員の特権を、私腹を肥やすことに使う政治家や公務員もいれば、世のため人のために使う人もいる。




 さて、職員やボランティアのたゆまぬ努力によって殺処分を減らした熊本市だったが、2009年を境にまた殺処分が増加に転じる。

 その理由がなんともやるせない。

 新年度になってから、不自然な捨て犬や捨て猫が増えていた。この道路を挟んでこちら側は熊本市、反対側の緑地帯は隣接市の管轄だ。確信は持てないが、捨てた人間の作意が感じられた。
 熊本市内で遺棄された動物が見つかれば、かならずこの動物愛護センターに保護される。ここなら殺処分される心配はないし、さらに新しい飼い主を見つけてもらうこともできる。つまり飼い主としては罪の意識に苦しむこともないし、自分の手をわずらわせることもなく面倒事から解放される。職員にとって腹立たしいのは、そんな飼い主の意図が透けて見えることだった。無責任な人間は、どこまでも無責任なのだ。
 どんな業界も有名になるほどメリットとデメリットが生じるが、それは動物愛護の世界も例外ではない。
 日本には団体やグループ、個人で、動物愛護活動を続ける多くの人がいる。インターネットを通じて保護や譲渡情報の発信、活動報告をおこなっていて、地道な活動を長く続けるうちに名前が知られるようになり、多くの賛同者を集めるケースも多い。しかし、いずれも簡単に所在地がわからないよう注意を払っている。活動場所が広く知られると、心ない飼い主の格好のターゲットになってしまうからだ。

 愛護センターなどの取り組みが広く知られるようになったことは、活動の協力者や引き取りたいという人を増やす一方、「熊本市になら捨ててもなんとかしてくれる」と考える心ない人間をも生むこととなる。

 うーん……。クズってやつはとことんクズだなあ……。殺処分の多い市ではなく殺処分の少ない市に犬猫を捨てることで、良心の呵責から逃れようとするなんて。捨てるなら捨てるで、「自分は犬猫の命を捨てたひどい人間だ」という意識を背負って生きろよな!


 いいルポルタージュだったが、人間のすばらしい部分と人間のどうしようもないクズさの両方を存分に見せつけられて、その両極端の間でなんだか船酔いしたような気分になってしまった。


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2025年10月3日金曜日

【読書感想文】荻原 浩『神様からひと言』 / すべてがほどよい

神様からひと言

荻原 浩

内容(e-honより)
大手広告代理店を辞め、「珠川食品」に再就職した佐倉凉平。入社早々、販売会議でトラブルを起こし、リストラ要員収容所と恐れられる「お客様相談室」へ異動となった。クレーム処理に奔走する凉平。実は、プライベートでも半年前に女に逃げられていた。ハードな日々を生きる彼の奮闘を、神様は見てくれているやいなや…。サラリーマンに元気をくれる傑作長編小説。

 2002年刊行。

 社内政治に明け暮れる会社のやり方になじめずトラブルを起こしたことがきっかけで閑職にまわされた主人公。そこは社内の問題児だらけのひどい部署だったが、徐々に仕事のおもしろさを感じられるようになり、仕事に励んでいたら周囲からも認められるようになり、最後は不正をしていたやつらを成敗してめでたしめでたし……とサラリーマン小説のお手本のようなお話。

 正直、似たような話を何度も読んだことがある。古くは源氏鶏太(昭和のサラリーマン小説の第一人者)から連綿と続く王道パターンだ。

 最近は女性作家、女性主人公が多いよね。この手の“ザ・お仕事小説”。ほどほどに業界知識も散りばめられていて、適度なユーモアがあって、それなりの爽快感もあって、すべてが“ほどよい”。

 豚の生姜焼き定食みたいなもの。どこで食べてもいつ食べてもそこそこおいしい。安心感がある。


 ただやっぱり感覚が古いというか、いや20年以上前の小説を今読んで古いというのもおかしいんだけど、でも今の感覚で読むと「会社に属しすぎ」とおもってしまう。嫌な職場なら辞めればいいじゃん、とおもっちゃうんだよねえ。当時の会社員の大半は「会社を辞めてはいけない」がまず前提にあって、そこから考えてるんだよなあ。




 ぼくも大人なので、納得いかないとおもいながら謝罪をしたことも幾度かあるけど、何度やっても慣れない。ついつい顔に出ちゃうんだよね、「なんで俺が」感が。

 そこで謝罪のプロのセリフ。

「まぁ、そうだな、他人がやったことで自分には無関係なんて顔で謝ると反感を買うし。といって全部自分の責任って顔するのもしらじらしいし。先方と一緒になって悪口を言ったりするのはもってのほか。身内をかばうのも禁物。適度な距離感が大切だな。そう、俺はね、こうしてるのよ」
 篠崎はひとさし指を突き立て、それをひたいに押し当てた。
「誰かを頭の中で思い浮かべるといいんだ。代わりに謝らなくちゃしょうがない人間。腹は立つけど自分が謝ってやらなくちゃならない人間。そういうやつが何かやらかした時のことを想像して、代わりにドロをかぶるつもりになってみる。たとえそれがどろどろの泥でもさ。たとえば自分の親父が酔って物を壊した店に謝りに行くとか、喧嘩して怪我させた相手に詫びを入れるとか、借金こさえて雲隠れしてるのを取り立て屋にいい訳するとか。謝罪の言葉のあとに、心の中だけでそういう人間の名前をつけくわえると、案外、すんなり謝れるんだよ。本当にすいません――うちの馬鹿親父が――てな感じでさ」
 ずいぶんリアルな譬え話だった。

 なるほどね。ぼくだったら自分の子どもかな。子どもがよその人に迷惑をかけたとおもえば、自分が悪くなくてもすんなり謝れる。これは使えるテクニックかもしれない。

 ただ問題は、自分が部下の代わりに頭下げるような状況ならともかく、上司の代わりに謝らなくちゃいけないような場面で「子どもの代わりに謝ってるんだ」とおもえるかってことだよな……。


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令和に読むアラレちゃん

 小学6年生の長女が1年生の次女に「誕生日何がほしい?」と訊いた。次女は少し考えてから「『アラレちゃん』のマンガ」と答えた。

 なんでアラレちゃん知ってるの? と訊くと、学童保育に1冊だけ単行本があるのだという。

 なるほど。『アラレちゃん』はぼくも子どもの頃にテレビアニメの再放送を観ていた。低学年でも楽しめそうなギャグマンガだ。


 数日後、長女が本屋に『アラレちゃん』を買いに行った。

「買えた?」

「ううん、なかった」

「えっ、○○書店でしょ? あそこは漫画がかなり充実してるけどなあ。店員さんに訊いてみた?」

「店員さんには訊いてないけど、検索機があったから調べてみた。でもヒットしなかった」

「そうかー。前に行ったときにあったような気がしたけどな」


 その翌週。ぼくと長女がその書店に行ったときに探してみると、『ドラゴンボール』の隣にちゃんと『アラレちゃん』が全巻置いてある。

 なんだ置いてあるじゃないか、検索にヒットしなかったとか言ってたのに。

 だがすぐに長女が『アラレちゃん』を見つけられなかった理由がわかった。


 そうだった。『アラレちゃん』のタイトルは『アラレちゃん』じゃなかった! 『Dr.スランプ』だった。テレビアニメ版では『Dr.スランプ アラレちゃん』だが、漫画版のタイトルは『Dr.スランプ』だけだ。

 そりゃあ検索で引っかからないわけだ。これはむずかしい。入手難度G(グリードアイランドと同等)レベルだ。


 というわけで、長女は無事に『Dr.スランプ』を買うことができ、次女にプレゼントした。1巻から5巻まで。

 次女はむさぼるように読んで、2日で5巻を読んでしまった。おもしろかったらしく、さっそく「んちゃ!」などと言っている。


 ぼくも読んでみた。

 なるほど、これは子どもにとってはおもしろいだろうな。

 奥付を見ると1巻が刊行されたのは1980年だった。今から45年前。でもぜんぜん古くない(今では通用しなくなったネタも多いが)。絵が古びていないし、デフォルメがうまいので読みやすい。テンポもいい。今のギャグマンガよりもテンポがいいぐらいだ。

 残念なのはフォント。すべてのセリフが細めのフォントで書かれている。ボケセリフとか強めのツッコミとかも全部細めのフォント。なんかすごく白々しい。今のマンガだったら太字にしたり手書きにしたりするところだ。フォントって大事なんだなあ。

 あと驚いたのは、ほとんどルビがないこと。ふりがながふってあるのは、中学以上で習うであろう漢字ぐらい。

 ということは小学高学年ぐらいが想定読者だったのだろうか。でも内容的にはウンコとかパンツとかそんなレベルだしなあ。

 でも1年生の次女もふつうに読んでいる。たぶん読めない漢字もいっぱいあるだろうけど、だいたいで読んでいる。そういえばぼくも子どもの頃、習っていない漢字を読めることで大人から驚かれた。あれもマンガから得られたものだった。

 漢字は表意文字だが表音文字の要素も持つ(たとえば「鉱」という字を知らなくても「広」を「コウ」と読むことを知っていれば「コウ」と読める)ので、初歩的な知識があればそこそこ読めてしまうのだ。読めなくても文脈から推測してだいたいの意味を察することはできる。小説だと文章しか手掛かりがないがマンガだと前後の文章+絵がヒントになっているのでより読解しやすい。ダイナマイトを手にしている絵の横で「やめろー爆発するぞー」と書いてあれば、「爆発」の漢字を知らなくても「ばくはつ」にたどりつくのは難しくない。

 最近の子ども向けマンガはほぼすべての漢字にルビが振ってあるが、もうちょっとルビが少ないほうが勉強になっていいのかもしれないな。


『Dr.スランプ』を読んでいちばんおもしろかったのが、本編ではなく、間に挟まれていたおまけマンガ。

 鳥山明氏がどんな感じで仕事をしていたのかが描かれているのだが、愛知県の実家に住んでいたため

「まずラフ原稿を描き、コピーを取って空港に行く。航空便でコピーを編集部に郵送。するとその夜編集者(あの有名なマシリト氏)から電話がかかってきて、修正の指示がある。それを踏まえて修正し、アシスタントに手伝ってもらってペン入れをし、再び空港に行って航空便で送る」

というやり方をとっていたそうだ。

 そうかー。メールはおろかFAXもなかった時代、遠方の人に急いで絵を見てもらおうとおもったら空港に行かないといけなかったのか……。これを毎週やっていたなんてたいへんだ。


 しかしこのやり方だと、修正は一回しかできないだろう。それ以上だと週刊誌連載には間に合わない。たった一回の修正(それも電話での指示)だけであの完成度の高い漫画を毎週仕上げていたのがすごい。

 とはいえ漫画家の立場だったら何度も修正を命じられるよりも、一回だけの修正と決まってるほうがやりやすいかもしれない。あらゆることに言えるけど、チェックが増えるとミスは増える。

 修正が少ないと自由に描けるし。極端なことをいえば、編集部からの修正の指示をまったく無視して原稿を完成させたとしても、よほどのことがない限り編集部としてはその原稿を掲載するしかなかっただろう。

『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』のあのいきあたりばったりなおもしろさ(読者には先の展開が読めない。なぜなら作者にもわかっていないから)は、鳥山明氏が愛知県に住んでいたからこそ生まれたものなのかもしれない。



2025年9月30日火曜日

【読書感想文】藤井 一至『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』 / 土は生命

土と生命の46億年史

土と進化の謎に迫る

藤井 一至

内容(e-honより)
現代の科学技術をもってしても作れない二つのもの、「生命」と「土」。その生命は、じつは土がなければ地球上に誕生しなかった可能性があるという。そして土は、動植物の進化と絶滅、人類の繁栄、文明の栄枯盛衰にまで大きく関わってきた。それなのに我々は、土のことをほとんど知らない。無知ゆえに、人類は繁栄と破滅のリスクをあわせ持つこととなった。そもそも、土とはなにか。どうすれば土を作れるのか。危機的な未来は回避できるのか。土の成り立ちから地球史を辿ると、その答えが見えてくる。

 どうやって地球上に土ができたのか、土は菌・ウイルス・植物・動物とどう関わっているのか、人類の科学進歩によって土はどのような影響を受けているのか、そして土と共存していくためにはどうすればいいのか。

 タイトルの通り、土と生命の関わりについての46億年史をぎゅっと濃縮した本。すごく密度が濃い。おもしろかった。大地讃頌を歌いたくなる。




 まず文章がおもしろい。文章のおもしろさはこの手の本にとってすごく大事なことだ。専門家が素人に向けて書いた本って、書き手と読み手の知識の差が大きいから、往々にしてついていけなくなるんだよね。そんなとき、文章がおもしろければ、内容がいまいちわからなくてもとりあえず読む気にはなる。なんとか振り落とされずに済む。なんとか食らいついていけば、ちょっとずつわかるようになってくる。

 学校のグラウンドでキラキラと光って見えるのは砂粒であり、石英という造岩鉱物の結晶が日光を反射している。甲子園の黒土(火山灰土壌)もキラキラして見えるが、それはひたむきに白球を追う高校球児のまぶしさによるものではなく、園芸会社が混合した石英砂と火山灰(主に火山ガラス)の結晶が光を反射するためだ。手に取ってみるとどれも砂粒にすぎず、水晶玉のような輝きはない。球児のユニフォームを汚す黒土からは、縄文時代の人々の火入れによって残された炭が見つかることもある。炭の主成分は炭素だが同じ炭素からなるダイヤモンドのような輝きも経済価値もない。高校球児はそんな甲子園の土に特別な価値を見いだす。

「砂の中の石英砂と火山灰の結晶は光を反射する。土に含まれる炭素はダイヤモンドと同じ元素から成るが光を反射しない」だとぜんぜんおもしろくないけど、こう書いてくれるとがぜん興味が湧く。

 ひとりでも多くの人に土に興味を持ってもらおう! という著者の熱意がひしひしと伝わってくる。その想い、しかと受け取ったぜ! 土に関する記述も全部ではないけどなんとなく理解できたぜ!


 地学の話って鉱物の名前とか元素の名前がいっぱい出てくるのでかなりとっつきづらいんだけど、この本では少しでもイメージしやすいように、身近なものを使って説明してくれる。

 花崗岩+炭酸水=砂+粘土+ケイ素+塩(ナトリウム)
 
 この式は、何を意味しているのか。具体的な物にあてはめてみたい。愛知県には、織田氏の拠点となった濃尾平野、徳川氏の拠点となった豊橋平野の背後に花崗岩質の山がある。
 戦国大名の斎藤道三が押しのけた守護大名・土岐氏の名をいただく土岐花崗岩だ。花崗岩が風化すると、石英砂、長石、雲母の微粒子に分解し、重い砂は木曽川に運ばれ、まず山のふもと(扇状地)に堆積する。これが細長い大根(守口大根)を生む砂質土壌となる。
 長石が風化してできるカオリナイト粘土(白粉、ファンデーションの主成分)は水の力で運ばれて、かつて名古屋を含む下流域に広がっていた巨大湖(東海湖)に堆積した。それが陶器(瀬戸焼)に使われる粘土層となる。岩石から放出されたカリウムとケイ素は田んぼでイネに吸収され、米を育む。河口域・海へと流れこんだナトリウムは食塩となり、ケイ素は珪藻(植物プランクトン)の材料となってウナギ(椎魚のシラスウナギ)を育む。あわせると、名古屋名物のうな丼になる。
 山の恵み、海の恵みをもたらす山の神、海の神への感謝の思いを新たにする一方で、この反応武は一つ重要なことを教えてくれている。山の恵み、海の恵みは、岩石の風化速度に制限されているということだ。生命は土や海の栄養分の存在量よりも、その循環量によって支えられている。土や海に資源が無尽蔵にあれば気にならないが、循環量を超えて資源を利用すればやがては枯渇する。家計で収入と支出のバランスがとれていないと貯金が目減りし、やがて生活を維持できなくなるのと似ている。循環量を超えて地球は持続的に生物を養うことはできない。この原則に抗う地球史上唯一の生物が人類である。

 いい文章だなあ。理想的な教科書だ。この文章を読むだけで、我々の生活がどれだけ地層に依存しているかがよくわかる。土地ごとに名物があるけど、名物それぞれに自然環境要因があるんだねえ。大地を誉めよ頌えよ土を。




 土とは、鉱物が細かくなったものにくわえて、動植物の糞や死骸が分解されたもの(腐植)が混ざったものをいうのだそうだ。生物がいなければ土はできない。でも陸上生物は土がなければ生きていけない。鶏が先か卵が先か、みたいな話だ。生物が先か土が先か。

 うーん、おもしろいミステリだ。このスケールのでかい謎を、この本では見事に解き明かしてくれる。

 生物が次々に進化しているのと同じように、土もどんどん変化しているのだ。土が変化することで植物や動物が入れ替わり、動植物の行動が変わることでさらに土も変化する。このダイナミックな動きを紹介してくれるのだが、わくわくするほどおもしろい。


 ヒトは山に登るなどして、少し酸素濃度が低下するだけで高山病になるが、大気中のガス成分は地球史を通して大きく変動してきた。まず、酸性だった太古の海が中和されたことで、海には大量の二酸化炭素が溶けこめるようになった。今や海は地球最大の炭素貯蔵庫だ。次に陸上に進出した植物が炭素を固定し、土壌中に腐植として炭素を貯めこむ。土壌には、大気中の二酸化炭素ガスの約2倍、植物体中の約3倍の炭素が貯蔵されている。産業革命以前の地球では、大気中の酸素や二酸化炭素の濃度は火山、大気と海、そして植物と土のあいだの物質の循環によって決まっていた。大気組成はこれらの微妙なバランスに依存し、植物が光合成しすぎると大気中の二酸化炭素が減少してしまうし、微生物が土の有機物を分解しすぎると二酸化炭素が増加してしまう。
 これが杞憂ではないことは歴史が証明している。石炭紀には、リグニンの合成によって分解されにくくなった倒木や落ち葉が未分解のまま泥炭土として堆積し、石炭として化石化したこと大気中の二酸化炭素濃度が急減した。微生物による有機物の分解を上回るスピードで植物が光成をしたことで酸素濃度が上昇し、『風の谷のナウシカ』の世界のように節足動物は巨大化した。酸素濃度が高ければ、巨大化しても体中に酸素が行きわたる。しかし、やがてキノコの分解能力が高まると酸素濃度は低下し、巨大節足動物たちは姿を消した。

 土が変われば空気中の酸素が増え、節足動物が巨大化する。土が変わればまた別の生物たちが台頭する。『風の谷のナウシカ』で「土から離れて生きられないのよ」という台詞があるが、まさにその通り。土が変わったからあんな世界になったのだ。



 正直に言って、この本の内容をすべて理解できたわけではない。むずかしいので流し読みしたところもある。

 それでもおもしろい。文章がいいので断片的に読んでもおもしろいし、だいたいの流れを追っているだけでも地球のダイナミズムを感じられる。読めば読むほど、土と生命の違いってなんだろうという気になってくる。ほとんど生命と変わらないよな。

 実際、土の機能は、人間の脳や人工知能の自己学習機能と似ている。知性の源であるヒトの大脳は100億個以上の神経細胞それぞれが数万個のシナプスでつながることでネットワークを形成し、協働することで思考が可能になる。大さじ1杯の土に住む100億個の細菌もまたすみかと資源(エサ)を共有し、相互作用することで、有機物分解を通した物質循環、食料生産が可能になる。大脳を司る100億個の神経細胞の相互作用と大さじ1杯の土の相互作用。多様な細胞があたかも知性を持つように臨機応変に機能する超高度な知性を、私は脳と100億個の細菌の土しか知らない。


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