2024年8月31日土曜日

【読書感想文】ブレイディみかこ『他者の靴を履く』 / 他者に共感しないことも大事な能力

他者の靴を履く

アナーキック・エンパシーのすすめ

ブレイディみかこ

内容(e-honより)
「自分が生きやすい」社会に必要なものとは?感情的な共感の「シンパシー」ではなく、意見の異なる相手を理解する知的能力の「エンパシー」。この概念を心理学、社会学、哲学など様々な学術的分野の研究から繙く。うまく活用するために、自治・自立し相互扶助を行うアナキズムを提唱。新しい思想の地平に立つ刺激的な一冊。


「エンパシー」について語った本。

「エンパシー」とは何か。日本語では「共感」と訳されることがある。一方、「シンパシー」もまた「共感」と訳される。

 だが英語ではエンパシーとシンパシーは異なる意味を持つ言葉である(ただネイティブでも混用する人はいるそうだ)。

 英文は、日本語に訳したときに文法的な語順が反対になるので、エンパシーの意味の記述を英文で読んだときには、最初に来る言葉は「the ability(能力)」だ。
  他方、シンパシーの意味のほうでは「the feeling(感情)」「showing(示すこと)」「the act(行為)」「friendship(友情)」「understanding(理解)」といった名詞が英文の最初に来る。
 つまり、エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。

 エンパシーもシンパシーもどちらも「他社の気持ちになって考える」に近い意味なのだが、エンパシーのほうは能力で、シンパシーのほうは感情、つまり自然に湧いてくるものだ。

 かわいそうな人を見て我がことのように胸を痛める、これはほとんどの人が共通しておこなうことだろう。程度の差こそあれ。

 だが「憎い人間の心情を察して、あいつにもやむにやまれぬ事情があるんだろうなと考える」は誰にでもできることではない。成熟していない人間にはできない。

 この「(半ば意識的に)他者の内面を洞察する能力」がエンパシーだ。著者はこれを「他者の靴を履く」と表現している。他者そのものになることはできないけど、他者の靴を履くことでその事情を想像してみよう、ということだ。



 といって、エンパシーはすばらしいものですよ、みんなもっとエンパシーを持っていきましょうね! ……という心もおつむもハッピーな本ではない。


 子どものころから「相手の気持ちになって考えなさい」とはよく言われるが、相手の気持ちに立ったからといって人にやさしくできるとはかぎらない。

 そもそも、我々は往々にして「相手の気持ち」を見誤るのだ。

 いくら相手の気持ちになろうとしても、己を捨てることなんてできない。

「あいつはつらそうだけど、俺だったらこれぐらいの状況ならぜんぜん耐えられる。だからあいつは大したことないのにつらそうなふりをしているんだな」なんて発想に至ることもよくある。これだって相手の気持ちになって考えた結果だ。

 人々の表情を見せてどんな感情かをあてるテストをおこなったところ、人間よりもAIのほうが正答率が高かったそうだ。

 さらにエンパシーとシンパシーの対象の定義を見ても両者の違いは明らかだ。エンパシーのほうには「他者」にかかる言葉、つまり制限や条件がない。しかし、シンパシーのほうは、かわいそうな人だったり、問題を抱える人だったり、考えや理念に支持や同意できる人とか、同じような意見や関心を持っている人とかいう制約がついている。つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。
 しかし、考えてみれば、AIのほうが生身の人間よりも他者の感情を正確に認識できるのは不思議なことではない。わたしたちが他者に対するエンパシーを働かせようとするとき、自分自身の経験や思想の問題を完全に取り去ることは難しい。人間である以上、どうしても「自分がその立場ならこう感じるに違いない」という「マイ価値観」に立脚したものになりがちで、開かれたフラットな考察にはならないことが多いからだ。これは自己を対象に投射したエンパシーは本物ではないと前世紀半ばの心理学者たちが言ったことでもある。
 他方、AIには生身の人間としての人生経験や思想はないので、「マイ価値観」や「自分だったら」に目を曇らされず、ニュートラルに他者の感情を読むことができる。AIのエンパシーには「こんな汚い靴は履きたくない」という先入観もない。つまり、エンパシーのカテゴリー分けで言うところのコグニティヴ・エンパシー(認知的エンパシー。感情的にならずに理性的に他者の立場に立って想像してみる)という分野では、人間よりもAIのほうが能力的に上なのだ。

 人間は視覚的情報に「自分だったらこうおもう」という価値を付与してしまうのでまちがえる。

 「自分だったらどう感じるだろう?」と想像することはできても、想像はどこまでいっても想像でしかない。


 そのへんの「想像のまちがい」をぼくがよく感じるのは、街頭演説や政治デモだ。

 街頭演説やデモ行進を見るとぼくはたいてい「うっせえな」とおもう。政治に興味がないわけではない。人一倍あるほうだとおもう。それでも往来で自分の主張を大きな音で垂れ流している人に感じるのは「うっせえな」だ。比較的同意できる主張であってもやっぱり「うっせえな」だ。

 そう感じているのはぼくだけではあるまい。街頭演説やデモ行進などは「基本的に嫌い」が多数派だとおもう。

 じゃあ大きな音で自分の主張を垂れ流している人は、想像力がないのだろうか。他人のことをまったく考えていないのだろうか。

 そんなこともないだろう。主張はちがえど、みんなそれぞれより良い世の中にしたいと考えているから政治活動をしているのだ。自分さえよければ他はどうでもいいとおもっている人は、政治に熱心にならないだろう。

 じゃあ他人を思いやれる人がなぜ街頭演説やデモ行進などの“迷惑行為”をするのかというと、他人の気持ちを想像はしているが、その想像がまちがっているからだとおもう。

 自分は日本の未来を憂いている、政治を変えることが重要だとおもっている、大きな音で他人の主張を聞かされることは迷惑かもしれないがその迷惑を上回るだけの利点があるとおもっている、だからもし自分が「街頭演説を聞かされる側」だったとしたら許す、だから許してもらえるはず。こう考えているのだろう。

 他者の気持ちを想像することはできるが、その想像がまちがっていることはよくある



「人の立場に立って考えてみましょう」というお説教にはうさんくさを感じる。

 それって、人の気持ちを勝手に想像してるだけじゃないの? へたしたら何も考えないほうがマシじゃない?


 よく見るのは、恵まれない出自だったのに努力と才能と運に恵まれて成功を収めた人が、弱者にやさしくなるどころか、もともと裕福だった人以上に厳しくなること。

 あれってまさに「人の立場に立って考えている」からこそだよね。

 おれは不利な環境からがんばって成功を収めたんだ、おれがあいつの立場なら努力してそこから抜け出してる、やればできる、すなわちできないやつはやらなかったやつだ! という思考。


 よく言われることだけど、人は自分が通ってきた道に厳しいんだよね。子育てについて口やかましく非難するのは四十代~五十代ぐらいが多い、とか。

 あと自分が心がけていることをないがしろにしている人が許せない、とか。たとえばこんな経験がないだろうか。

 レジに並ぶときに、少し前から財布を取りだしてお金も取り出しすぐに支払えるようにしておく。するとひとり前に並んでいた老人が「〇〇円です」と言われてからようやく財布を取りだしゆっくりお金をさがしはじめる。「あらかじめ用意しとけよ!」と腹が立つ。

 ぼくはしょっちゅうある。これは「相手の立場に立って考えているからこそ許せない」だよね。



 もちろんエンパシーにはいい面もある。必ずしも悪いことではない。

 ぼくが言いたいのは「他者の立場に立つのはいいことと悪いことが同じぐらいある」ということ。だから「人の立場に立って考えましょう」はただの怠慢だとおもう。ぼくがそのお説教を垂れる側の立場に立って考えたら。


 他に、エンパシーを強く感じることの悪い面は「自分自身がしんどい」ということだ。

 あそこに貧しい人がいる、そこにも身体の不自由な人がいる、あの人は家を失った、この子はひどい家庭環境にある、世界の遠く離れた国では戦争で子どもたちが死んでいる……。

 世の中は不幸であふれているから、いちいち他者のために己の胸を痛めていたら身が持たない。マザーテレサはえらいかもしれないけど、みんながマザーテレサだったら人類はあっというまに絶滅するだろう。

 エンパシーを感じすぎれば、罪悪感をおぼえる。そんなに不幸でない自分が悪いことをしているような気分になる。

 つまり、わたしたちはguiltから解放されたいのだ。エンパシーの能力が高い人ほどguiltは強い。遠くの見知らぬ人々の靴まで履こうとするともう先進国の人間は罪の意識を感じるしかないからだ。そんな社会では、できればエンパシーのことは忘れたい。そんなものはないほうが楽に生きられるからだ。しかし、災害時にはエンパシーが罪の意識を伴わないものになる。それは互いを生き延びさせるポジティヴな力になるからだ。guiltの意味をオックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズのサイトで見ると、こう書かれていた。
 
  自分は何か間違ったことをしたと知っていること、または思うことによって生ずるアンハッピーな感情
 
 このシンプルな定義を読むと気づく。罪悪感とか罪の意識とか言うとひどくヘヴィだが、guiltとは大前提としてアンハッピーな感情なのである。
 「助けなかった」というアンハッピーな気分に曇らされずに人生をハッピーに送りたいという欲望が人を利他的にさせるのだと考えれば、むべなるかなという気持ちになってくる。利他的であることと利己的であることは、相反するどころか、手に手を取って進むのだ。
 「迷惑をかけたくない」という日本独自のコンセプトは、一見、他者を慮っているようで、そうでもないのだろう。人を煩わせたくないという感覚は、ここに書かれている通り、人にも煩わされたくないという心理の裏返しだからだ。

 言われてみれば、ぼくは半ば意識的、半ば無意識的にエンパシーから逃げようとしている。

 悲劇的なニュースはあまり見ない(ただし凄惨な事件を扱った小説を読むことはけっこうある。フィクションなら被害者にエンパシーを感じなくて済むからね)。難民の支援をしている国連UNHCR協会に毎月寄附をしているが、会報はほとんど読んでいない。つらくなるだけだし、恵まれた環境にいるのに月数千円の寄附をしただけでいいことをした気になっている自分の罪深さをつきつけられるから。

 エンパシーを感じるのはしんどいのだ。

 ぼくは極力他人にお願いをすることはない。べつに自分を厳しく律しているわけではなく、なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでねという自分勝手な思いがあるからだ。

 そういう生き方ができるのも、今のところぼくがまあまあ健康で、それなりに経済的に余裕がある、社会的「強者」の側でいるからだ。

 だがどんな人でも永遠に強者でいることはできない。老い、不健康になる。事故や天災で財産を失うことだってある。そんなとき、ぼくは他人に頼ることができるだろうか。

 エンパシーを感じないようにして生きてきたかつての自分自身の「なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでね」という呪いから逃れることができるだろうか。



 他者に対してエンパシーを感じやすい人には、他者に従属しやすくなってしまうという一面もあるそうだ。

 そう考えると、エンパシーは個人を組織に従属させるツールにもなる。人間は常に一人の他者の靴しか履けず、複数の他者の靴をいっせいに履くことはできないという「エンパシーのスポットライト効果」を指摘したのはポール・ブルームだったが、逆にたった一人の靴を大勢の人間が履くことは可能だ。これを利用し、トップに立つ一人の人間に組織を象徴させれば、大人数の組織でも構成員の忠誠心を獲得することができ、政治的システムが出来上がって行く。トップが亡くなると構成員とのエンパシーによる忠誠を引き出す役割は、二代目、三代目のトップへと引き継がれる。だとすれば、どれほどAIが進化して人間よりも適切な判断を下すことができるようになったとしても、企業のトップに据えることはできないだろう。人間がAIの靴を履くことができるようになるまでは無理だ(もちろん、そうなる日が来ないとは誰にも言えない)。

 自信たっぷりな強烈なカリスマを前にすると、その人物にエンパシーを感じてしまう。それがよい方向に転ぶこともあるが、ブラック企業の経営者や、某元アメリカ大統領のような〝自身たっぷりの悪〟がほとんど信仰の対象になってしまうということもありうる。


 結局、エンパシーはそれ自体が善でも悪でもなく、使い方によって善にも悪にもなるんだよね。

「世間で叩かれる人にエンパシーを抱いて事情を理解しようとする」人もいれば、「被害者に過度の共感をおぼえてしまい炎上に参加する」みたいなケースもある。

「他者の気持ちになって考える」ことは重要な能力だけど、同時に「他者の気持ちにならずにいる」こともまた大事な能力だよね。


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2024年8月27日火曜日

【読書感想文】上原正詩『イノベーションの世界地図 ~スタートアップ、ベンチャーキャピタル、都市が描く未来~』 / イノベーションを駆け足で紹介

イノベーションの世界地図

スタートアップ、ベンチャーキャピタル、都市が描く未来

上原正詩

内容(e-honより)
世界は急速に変化している。米中対立、インドの台頭、日本の衰退などの地政学的変化に加え、生成AIやブロックチェーンなどの新技術が台頭している。本書では、イノベーションの新潮流をスタートアップ、ベンチャーキャピタル、都市の生態系に焦点を当てて分析する。評価額が巨額に上るユニコーン企業や、ユニコーンに投資するベンチャーキャピタルの動向を調査し、未来の技術トレンドやイノベーションを生み出しそうな都市の生態系を見ていきたい。イノベーション都市の有無が、今後の国家競争力の鍵になるだろう。


 ユニコーン企業を中心に、今勢いのある(そしてこれから大きくなる可能性の高い)企業やその事業を紹介する本。

 ユニコーン企業とは、創業10年以内、評価額10億ドル以上の未上場企業。若くて勢いのある会社ってことだね。ちなみに世界のユニコーン企業はアメリカ、中国に集中しており、その他、インド、シンガポール、イスラエルなどやはり勢いのある国に多い。日本には十社もない。


 鮮度が大事なテーマということで、本の内容には深みがない。情報は多いが、あちこちから拾い集めてきた内容をつぎはぎした感じで、独自の解釈や著者の見解といったものは皆無。雑誌記事のよう。

 説明もとにかくわかりづらくて、これ著者も理解せずに書いてるんだろうなーってのが伝わってくる。

 誰かが書いたものを読んで、自分の中で消化しきれないままとりあえず形だけ要約した文章、って感じ。


 さらに誤字も多い。数字の間違いがいくつもあり、「売却」を「買却」、「欲しがる」を「裕しがる」など、どうやったらそんな誤字が生まれるの? というミスも多い。変換してそうなることはないだろ。「欲しがる」が「裕しがる」になるのは、他の本でスキャンした内容をOCRソフトで文字起こしして貼り付けたのかな。

 どんな四流出版社が出してるのかとおもったら、ちゃんとした出版社(技術評論社)だった。どうした技術評論社。



 TikTokを運営しているバイトダンス(中国企業)のアメリカ展開について。

 米中対立が先鋭化する中、バイトダンスが摩擦の矢面に立つことにもなりました。対米外国投資委員会(CFIUS、シフィウス)が、バイトダンスによる米ミュージカリー買収の調査を開始したことが2019年11月に明らかになったのです。CFIUSは外国企業による米国企業の買収を国家安全保障の観点から審議する、米財務省が管轄する組織です。当時のトランプ政権のポンペオ国務長官も「ティックトック」がスマホから個人情報を抜き取って、中国共産党に提供している懸念があると表明。2020年7月には「ティックトック」など中国系SNSの使用禁止を検討していることを明らかにしました。トランプ大統領も7月、大統領令や国際緊急経済権限法(IEEPA、アイーパ)などを使って、「ティックトック」の使用禁止を検討している旨を記者団に語りました。
 実は再選に向けてトランプ大統領がオクラホマ州タルサで2020年6月に開催した集会で空席が目立つという「事件」がありました。CNNなどの報道によれば、反トランプの若者がティックトックを通じて、偽の参加登録を呼びかけて実際には参加しなかったためだったようです。トランプ陣営の公式アプリに、ティックトックのユーザーが大量の書き込みをしてネガティブキャンペーンを展開しました。おもしろ動画の中国系アプリが、SNSとして影響力を持ち始めたことにトランプ政権内で警戒心が高まったようです。

 トランプ陣営の集会を邪魔した連中がTikTokで妨害を呼び掛けていたため、TikTokの米国内での使用禁止が検討……。これ自体が嘘かまことかはわからないが、勢いのある企業というのはとかく政治の影響を受けるものらしい。中国国内でGoogleやFacebookを使えないのは有名な話だし、その意趣返しもあって、アメリカでは中国産のサービスが制限されたりする。EUもよくGAFAと対立しているし、新しい技術やサービスは政治の影響を受けやすい(逆にアラブの春のように政治に影響を与えることも)。

 そう考えると、日本国内ではWebサービスが政治にふりまわされる影響が少ない。アメリカ産のツールも、中国産のツールも、たいていのものは使用できる。これはいいことなのか悪いことなのか。一ユーザーとしては便利でいいかもしれないが、国益という面ではマイナスも多そうだ。




 テスラ(自動車)、スペースX(ロケット)、そしてTwitterの買収で知られるイーロン・マスク氏だが、それだけでなく鉄道の分野にも食指を伸ばしているそうだ。

  マスク氏はモビリティの分野でマルチな活躍をしています。EV、ロケットにとどまらず、高速「鉄道」の分野でも新しいアイデアを出しています。真空状態にしたチューブ(トンネル)の中を電動の車両が高速で移動する交通システム「ハイバーループ」を2013年に提案しました。サンフランシスコとロサンゼルスの間(約560キロメートル)を最大時速1220キロメートルで走行して35分で結ぶという構想です。JR東海が「リニア中央新幹線」として2027年に品川一名古屋間の開設を目指しているリニアモーターカーは時速500キロメートルです。ハイパーループは空気抵抗を極力小さくできるためリニアの倍以上の速度が出る計算です。初期の構想「ハイパーループ・アルファ計画」の作成にはテスラとスペースXの技術者が関わりました。カリフォルニア州政府はサンフランシスコとロサンゼルス間に高速鉄道を建設する計画ですが、所要時間は2時間半で建設費は約700億ドル。マスクの構想の推計コストはその10分の1の70億ドル前後です。
 マスク氏はハイパーループなどを通す地下トンネルの建設に注力し、2016年にザ・ボーリングカンパニー(ロサンゼルス)を設立しました。評価額57億ドルのユニコーンです。同社は直径4メートルほどのトンネルを掘るサービスを提供しています。通常の掘削装置で掘るトンネルの半分ほどの大きさで、穴を小さくすることで掘削コストを3〜4分の1にできるとしています。スペースXとボーリング・カンパニーは2019年まで毎年、ハイパーループの走行車両「ポッド」の開発コンペティションを学生向けに開催するなど、啓蒙活動もしてきました。ハイパーループの縮少版で、テスラの電気自動車のような「ポッド」を走らせる「ループ」の実現に取り組んでいます。ラスベガスでプロジェクトを進めています。地下に張り巡らされたトンネルの中を無人のテスラが走って人を運ぶ・・・。個人輸送の地下鉄のようなシステムが出現するかもしれません。

 リニアの倍以上のスピード! 小型飛行機が300km/hぐらいだから、それよりずっと早い鉄道だ。

 地下にはりめぐらされたトンネルの中を無人の乗り物が移動する。手塚治虫とか星新一の描いた未来の世界だなあ。




 なぜ日本にはユニコーン企業が少ないのか。人口や経済規模でアメリカ・中国に負けているのはしかたないが、2024年時点で、世界に1,200社以上あるのに日本は6社だけというのはあまりに少ない。

 その理由として、起業家が少ないとか、ベンチャーへの投資額が少ないとかも挙げられているが、それ以外にも大きな原因は「移民の少なさ」だと著者は指摘する。

 シンクタンクの米国政策財団(NFAP)によれば、アメリカのユニコーン(582社、2022年5月時点)の55%が移民によって創業されました。国際連合によればアメリカの移民の人口比率は2020年で15%です。55%はそれを大きく上回っています。最も多かった出身国はインドで全体の11%を占めました。生鮮食料品デリバリーのインスタカート創業者アプールバ・メータ氏はインドで生まれ、カナダのウォータールー大学を出ています。最先端のAI系スタートアップ(フォーブスAI50のアメリカ企業)に限ると実に65%が移民の創業者です。独自の大規模言語モデル(LLM)を開発するユニコーンのデータブリックス(サンフランシスコ)は、アリゴディシCEOがイラン、マテイ・ザハリアCTOがルーマニアの出身です。世界中の若者がアメリカにAIを学びに来て、そこで起業しています。
 アメリカだけでなく世界の主要イノベーション・ハブでも外国人起業家の存在が際立っています。シンガポールではユニコーンの7割が中国やインドなど外国人によって設立されました。ロンドンのユニコーンの創業者も約半分が外国人でした。国際金融都市のシンガポール、ロンドンには多くの外国人が為替や債券、デリバティブ取引の仕事でやって来ます。バイオテクノロジーの分野でも移民の活躍が目立ちます。mRNAを使ったコロナワクチンの開発で一躍有名になったドイツのビオンテックの創業夫妻はトルコ系です。モデルナもレバノン生まれのアルメニア人、ヌーバー・アフェヤン氏が創業を主導しており、移民なくしてコロナワクチンは開発できなかったでしょう。

 海外から学びに来る人は優秀であることが多い上に、複数の社会を知っているので、社会のニーズや足りないものにも気づきやすいという。まったく新しいことをしなくても「他の国で流行っているものを、なじみやすい形に変えて持ってくる」だけでもイノベーションになるかもしれない。

 それに、移民を受け入れるということは、新しい価値観を受け入れるということでもある。いまだ外国人に対する拒否反応の強い日本で、イノベーションが起こりにくいのも当然かもしれないね。


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2024年8月23日金曜日

小ネタ23 (早口言葉 / ウナギ / テツandトモの無駄づかい)


早口言葉

スモモも酢の物のモモもモモのうち


ウナギ

 水産庁が、ウナギの稚魚を安価に生産する技術を発表した、というニュースを見た。

 生物を“生産”ってどういうことだろ? という技術はさておき、ある本で読んだクロサイ保護の方法をおもいだした。

 アフリカで、密漁によって数が減ったクロサイを保護するためにクロサイ猟を認めた、という事例がある。保護するために猟をするってどういうこと? とおもうかもしれない。だが、これはちゃんと効果のある保護方法なのだ。

 クロサイ保護には近隣住民の協力が欠かせないが、サイは人間にとって役に立たないので、研究機関や自然保護団体の人以外は、保護しようという動機を持たない。ところがクロサイ猟を政府が公式に認めて「お金を払えばクロサイを狩ってもいいですよ」ということになれば、クロサイは金儲けのための資源になる。なにしろクロサイが増えるほど手に入る狩猟代が増えるのだから。

「金儲けの道具」にすることで保護しようとする動機が生まれるのだ。倫理的には微妙な気持ちになるが、現実的には効果のある手法だ。

 ウナギも同じで、ウナギがおいしいからこそ、人々が金と労力を使って増やそうとするわけだ。もしもウナギがぜんぜんおいしくなかったら、積極的に増やそうとする人はずっと少なかっただろう。

「金儲けの道具」になるせいで減少したのなら、増やすことが「金儲けの道具」になるようにすればいい。


テツandトモの無駄づかい

 テレビCMで、テツandトモが出てきてお墓の宣伝をはじめた。ぼんやり見ていたのだが、最後まで見て驚いた。なんとテツandトモが歌わないし踊らないのだ。

 ふつうに「お墓が安く買えます!」としゃべるだけだ。

 テツandトモを使ってお墓のCMをつくってくださいと言われたら、百人中九十九人は「お墓がこんなに安く買えるのなんでだろう~♪(なんでだろう~♪)」みたいなことを言わせようとするだろう。

 それなのに、ふつうにしゃべらせるだけ。すごい。最高の無駄づかい。


2024年8月20日火曜日

【読書感想文】ダニー・ドーリング『Slowdown 減速する素晴らしき世界』 / 肝心なところは主観

Slowdown

減速する素晴らしき世界

ダニー・ドーリング(著)  遠藤真美(訳)

内容(e-honより)
オックスフォード大学の地理学者が膨大なデータとファクトで明らかにした「加速時代の終焉」と「世界の安定化」。人口、経済、技術革新、債務…あらゆるものがすでに減速している。直感に反する現実と人類の未来。

 人口、経済規模、イノベーションなど世界のあらゆるものがスローダウンしている……という主張。

 ぱっと見た感じで誤解しそうだが、スローダウンとは「ゆっくり減っていく」ことではない。「増えるスピードが落ちていく」ことだ。


 ま、そりゃそうだろうな、というのが正直な感想だ。著者はいろんな数字を持ってきて、めずらしいグラフ(縦軸が規模、横軸が変化率)を描いて説明しているが、そんなことしなくても、いろんなものが減速することは直観的にわかる。

 たとえばスマホの普及。はじめは一部の人だけが持ち、やがて爆発的にシェアは広がっていく。1万人の人が持っていたのが、一定の期間で10万人になり(10倍)、200万人(20倍)になり、1億人(50倍)になり……と増えていく。が、その後も50倍以上のペースで増えていくかというと、そんなはずはない。世界人口が80億人ぐらいなのに、ずっと同じペースで増えていくはずがない。

 べつに数字や図を使って説明されなくても、「永遠に爆発的に増えつづけるものなんてない」ことぐらい、わかりきったことだ。


 だから知りたいのは、この現象がスローダウンするかどうか、ではなく、いつどういう形でスローダウンするのか、なのだが、著者が説明しているモデルでは過去の変化を説明することはできても未来を予測することはできない。あたりまえだけどさ。

 あたりまえのことを手を変え品を変え長々と説明している本、という印象だった。



 そしていろんなデータを駆使して語っているわりに、肝心なところでは単なる願望が目立つ。

 ある国の人口が増えて、世界で暮らす人の数が増えると、デフレーションに陥るのを避けるために、もっと多のお金をつくりださなければいけない。しかし多くの国で、ここ何十年も、新しくつくられたお金の大半は、すでにお金をいちばん持っている少数の人のところにいっている。そうしてそのお金が他の人に貸し出される。借りたお金を投資して、債務の返済額を上回る利益を得られれば、彼らもまた、お金持ちになれる。ところがその利益は、たいていは何かを買うために借金をする人たちの犠牲の上に成り立っている。この循環がいつまでも続くことはないし、どこかの時点でかならず崩れる。巨額の債務はずっとそこにあったように見えるかもしれないが、努力して莫大な富を築いた者が報われるのは当たり前だとされるのは、物事が加速している時代か、裕福な教会や国王に動産を納めるのは宗教的義務や市民としての義務だと国民が信じ込まされているときだけである。

 貧富の差は縮む、と語っているが、本当だろうか。そりゃあいつまでも拡大するはずはいのだが、だからといって縮むと言い切れる根拠はどこにも記されてないんだよね。

 放っておいたら、格差は拡大する一方じゃないかな。経済の仕組み上持てる者はどんどん富むので、持たざる者がいくら願っても差が縮むことはない。かといって金持ちが自ら「格差を小さくしてすべての人に平等にチャンスを」とおもうはずもないので、格差を小さくするかどうかは法や税によってどれだけ規制するかにかかっている。

 実際、日本でも高所得者に高い税率が課せられていた時代は貧富の差が小さくて、高所得や資産への税率が下がるにつれて格差は大きくなっている。「どれだけ規制するかで決まる」という(そこだけとってみれば)わりと単純な話だ。

 だから「このままいけばいつかは加速が止まって格差が縮むよ」という著者の主張にはうなずけない。



 テクノロジーの進化もスローダウンしているという話。

 成人の中で最も若い層であるY世代の生活は、最近のコホートの時代と比べて、テクノロジーの変化がすでにぐっと減っている。新しいインターネットは生まれていないし、新しい動力源も、新しい移動形態も、ありがたいことに(私たちが知るかぎり)新しい戦争兵器もつくられていない。ところが、技術革新は不可欠だという考えが頭から離れないせいで、テクノロジーがスローダウンしているという単純な事実をほとんど受け入れれない。しかし、過去10年間に発売された新しい製品の大半は、表面的な部分をいじくりまわしているにすぎない。世界中の社会が豊かになっているため、生活の質が少しずつ変化しても、一つひとつの変化の重要性はどんどん小さくなっている。明らかに技術進化の収穫逓減が起きている。この事実はすぐに当たり前のことになって、「もう聞き飽きた」と思うようになるだろう。

 これもどうなんだろう。結局、「過去10年間に発売された新しい製品の大半は、表面的な部分をいじくりまわしているにすぎない」なんて主観でしかないよね。

 著者が年をとったからじゃない? とも言いたくなる。人間、年をとるにつれて新しい変化を大したものじゃないと言いたくなるものだからね。たとえばパソコンが普及しはじめたときだって(全体的な傾向としては)、若い人ほどそこに可能性を感じ、年寄りほど「そんなのよりこれまでのやりかたのほうがいいぜ」と感じたとおもうんだよね。

 自分が培ってきたものを否定したくないから、年寄りほど新しい技術を軽視する。


 ぼくが「すげえ」と感じた技術は、今から十数年前にはじめて触れたGoogle Earth。世界中のあらゆる地点を上空からのぞくことができるなんて! と感動したものだ。

 実際、GPS(や他の探査システム)を使った技術はこの十年かそこらで大きく進化した。もう忘れちゃったかもしれないけど、2000年代初頭はみんな紙の地図を見て行動してたんだぜ。ぼくは本屋にいたけどゼンリンの地図も道路地図も時刻表もめちゃくちゃ売れてたんだぜ。今ではほとんど誰も買わない。

「未知の場所に行ってもスマホがあればなんとかなる」ってのは人々の行動を大きく変えた。しかもその変化のスピードはものすごく速かった。自動車の普及スピードなんか比べ物にならないぐらい。

 何を持って「大きな変化」とするかは人によるよなあ。著者はやたらと「自動車や飛行機に比べて最近の技術は大きなインパクトを与えていない」と書いてるけど、飛行機どころか自動車にも乗らないぼくにとっては(もちろん物流とかで恩恵は受けているけど)、GPS地図アプリやスマホや動画配信サービスのほうがよっぽど大きな変化だ。

 たくさんのデータを使ってあれこれ書いているくせに、最後の結論が「おじいちゃんの主観」なのがなー(著者が何歳か知らないけど)。



 あらゆるものがスローダウンしている(著者によると)中で、スローダウンしていないもの。

 それが空気中の二酸化炭素量であり、世界各地の平均気温である。

 大気中に排出される二酸化炭素は増加の一途をたどり、気候変動、さらには地球温暖化が進んでいる。そのスピードはさらに加速しているが、人間が種としてよく生き残るのであれば(理屈の上では、たとえ繁栄しないとしても)、無限にそうし続けることはできない。人間の生活のほとんどの側面でスローダウンが進んでいる中で、これは唯一の大きな例外である。

 もちろん二酸化炭素量や気温もいつかはスローダウンするのだろうが、スローダウンとは「上昇のペースが落ちる」だけであって、「下降する」ではない。

 いずれは下降するのだろうが、はたしてそのときまで人類は耐えられるのだろうか……。


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2024年8月19日月曜日

小ネタ22 (仰げば尊し / レジの効率化 / 冷)

仰げば尊し

『仰げば尊し』の一番の歌詞は、

あおげばとうとし 我が師の恩
教えの庭にも はやいくとせ
おもえばいととし このとし
今こそわかれめ いざさらば

と、三回「とし」という言葉が出てくるが、すべてまったく別の言葉だ。古文の問題に使えそうだ。


レジの効率化

 スーパーやコンビニのレジの流れを効率化するアプリがあるらしい。アプリに「持っているポイントカードは何か」「支払いはカードかお財布ケータイか現金か」「20歳以上かどうか」「マイバッグを使うか」などの情報を登録しておくと、レジに近づいただけで店員にその情報が表示され、いちいち「ポイントカードはお持ちですか?」などの会話をする手間が省ける、というふれこみだ。

 予想だけど、レジの流れをスムーズにしたいとおもってこのアプリを使ったら、余計にイライラすることが増えるような気がする。

理由1)「アプリに登録してるんだからいちいち訊いてくるなよ!」とおもう。

 たとえば「エコバッグを持っている」と登録していても、店員からしたら「レジ袋は必要ですか?」と訊かざるをえないだろう。だってその日はたまたま持っていないかもしれないんだから。

理由2)自分が早くなるほど他人が遅いのが許せなくなる

 みんなレジの支払いに1分かかっていたら、前の客が1分かかっていても気にならない。でも自分はアプリを使って20秒で終わるようになれば、1分もかけている前の客が許せなくなる。「おれはアプリまで入れてこんなに早くやってるのになんでこいつはやらないんだよ!」

 世の中のいろんなシステムが効率化してスピーディーになっているが、その分イライラすることが減ったかというとそんなことはない。むしろ逆じゃないか。


 知人が家を建てたので、新居祝いに高級牛肉(しゃぶしゃぶ用)を贈った。お礼のLINEが届いて「ありがとう! 冷しゃぶにして食べたけどおいしかった!」と書いてあった。

 いいんだけど、ぜんぜんいいんだけど、冷しゃぶかーとおもってしまった。

 せっかくのいい肉なんだから、冷しゃぶじゃなくて、あったかいしゃぶしゃぶで食べてほしかったな。ぜんぜんいいんだけど。

 なんでかうまく説明できないんだけど、肉の良さを百パーセント引きだすのは冷しゃぶじゃないだろう、とおもっちゃうんだよね。この感覚、ぼくだけだろうか。

 たとえば、コーヒー好きの人にいいコーヒー豆を贈ったら「ありがとう! アイスコーヒーにして飲んだらおいしかったよ!」と言われたような気持ち、と言ったら伝わるだろうか。

 いいんだけどさ。冷しゃぶでもアイスコーヒーでもいいんだけどさ。