2025年1月9日木曜日

どうしてテーマパークは変に凝ったメニューを作るのか

 テーマパークや動物園のレストランが嫌いだ。

 たぶんたいていみんな嫌いだろう。めちゃくちゃ高くて、買うのに時間がかかって、こんでいるからなかなか席がとれなくて、それでいてそんなにおいしくない。


 何がイヤって、「時間がかかって高くてうまくない」の三拍子そろっているところだ。「早い・安い・うまい」の逆だ。

 このうち二つなら許せる。個人的には「時間がかかる」がいちばんイヤだ。

 なぜならテーマパークや動物園には飯を食いに行ってるわけではないから。飯を食うのはトイレと同じで「生存のために必要だからやるがなるべく時間をかけたくない行為」だ。

 そこで儲けたい会場側の思惑もわかる。だから値段に関してはしかたないと諦める。まずくてもいい。ただ、「高くてまずくていい」と割り切ってしまえば、時間のほうはなんとかできるだろ、とおもうのだ。

 コンビニで売ってるようなおにぎりとかサンドイッチを仕入れて、市価の二倍で売る。こっちはそれでいいのだ。歩きながら食べられるし。

 会場側としても、施設や人を割かずに稼げる。悪くない話だとおもうのだが。


 なのに。

 どうして変に凝ったメニューを出すんだ。

 そのテーマパークのキャラクターをイメージしたハンバーグランチとか、動物園の人気のペンギンをあしらったプレートランチとか、余計なことをするんだ。

こんなのとか

こういうの


 その変に凝ったメニューを、調理に慣れてない学生バイトが一生懸命用意するのだ。時間がかからないわけがない。

 いや、そういうメニューがあってもいい。求めている人だっているだろう。

 ただ、それとは別窓口で(ここ重要)、市販のパンやおにぎりを売ってくれ。同じ売場にすると結局全部混むからやめてくれ。


 なに? 客単価? いっぱいお金を落とさせたい?

 わかった。じゃあ二倍と言わずもっととっていい。市販のおにぎり二個と市販の魚肉ソーセージのセットにして2,000円にしていい。その代わりすぐ提供してくれ!



2025年1月7日火曜日

名物・豚汁がうまい店(ただし氷点下)

 昼時に慣れない道を歩いていたら「名物・豚汁がうまい店」と書かれた看板を見つけたので店に入った。

 うん、こんな寒いときに食べる豚汁はたまらない。


 15人も入ればいっぱいのそう大きくない店。店員は四十代ぐらいの男性と四十代ぐらいの女性。一人客のぼくはカウンターに座った。さっそく塩さば・豚汁定食を注文する。

 店内には豚汁のいい香り。これは期待できそうだ。

 定食の到着を楽しみにしていながらカウンター内の様子をうかがっていたのだが……。


 どうも店員の男女の仲が悪いのだ。

 静かに喧嘩をしている。断片しか聞こえてこないのだが、


女「あ、それごはん大盛りです」

男「大盛りにしたつもりですけど?」

女「……」


というやりとりがあったり、


女「~って言いましたよね?」

男「主語がなかったのでわかりません。はっきり言ってもらわないと」

女「……」


と、丁寧語で喧嘩をしている。


 すごく感じが悪い。

 ふたりともいい大人なのでさすがに声を荒らげたりはしないが、ずっと押し殺した声で喧嘩している。


 そりゃあ、まあさ。店員だって人間だから腹の立つこともあるさ。働いていたらいろいろ言いたくなることもあるだろう。ぼくだって同僚相手に文句や嫌味を言ったこともある。

 でもさあ。


 豚汁のうまい店で険悪な空気出さないでよ!

 コンビニとか、国道沿いのチェーンのラーメン屋とかなら、まだいい。そういう店にあったかい接客なんて期待してないから。金髪ピアスのにいちゃんが気だるげにラーメン持ってくるみたいな接客でもいい。

 でも「名物・豚汁がうまい店」はちがうじゃない。にこにこした小太りのおばさんかおじさんが「はい、豚汁おまたせ! 寒いからこれ食べて元気つけてね!」と言いながら豚汁よそってくれるみたいな雰囲気を期待しちゃうじゃない。

 喧嘩するんなら豚汁の看板をはずしてくれ!



2025年1月6日月曜日

おこたとおバズ

「おこた」って言葉、いいよね。「こたつ」よりもあったかい。

 おばあちゃんが言ってるイメージ。実際、ぼくの母親(70歳近い)は「おこた」と言う。とはいえ実家は床暖房が完備されてもうこたつはないので母が「おこた」と口にする機会は二度とないかもしれないが。


「おこた」は「こたつ」に丁寧語の「お」をつけて、後ろの「つ」を省略した言葉だ。

 調べてみたら、女房言葉というそうだ。おかみさんではなく、宮中の女房が使っていた言葉。

 他にも、「おさつ(お+さつまいも)」「おでん(お+田楽)」「おにぎり(お+にぎりめし)」などがこの形だ。ほう、けっこうある。

 食べ物ばかりではない。「おでき(お+できもの)」「おなら(お+鳴らす)」などもそうだ。

 汚いものを指す言葉だからこそあえて上品に言い換えたのだろう。今ではあたりまえの「おなら」もかつては隠語だったんだな。

 名詞だけでなく、「鳴らす」のような動詞にまで「お」をつけて名詞化してしまうのはおもしろい。

「お」の力はなかなかすごくて、いろんな言葉をむりやり丁寧化してしまう。

 おニュー、おセンチのように英語につくこともあるし、おばか、おデブのように悪口にくっついて侮蔑的な意味を若干やわらげ、その代わりに皮肉っぽい意味を持たせたりもする。


 外来語を力技で丁寧化してしまう「お」、個人的にはけっこう好きなのだが残念ながらおニューもおセンチもほぼ死語だ。

 もっと流行ってほしい。

「ごインスタでおバズのおエモなおインフルエンサー」とか言いたい。


2025年1月2日木曜日

M-1グランプリにおいて個人的に重要だとおもうネタ10選

 M-1グランプリでこれまで披露されたネタは、決勝だけでも200本以上。

 その中で、個人的に重要だとおもうネタ10選。おもしろいかどうかというより、後のコンビに影響を与えたかどうかで選出。なので昔のネタが多めです。また、記憶をたどって書いているので細かいところで間違っているかも。



1.第1回(2001年)大会
  麒麟「小説の要素」

 M-1グランプリという大会においてこのネタが重要なのは、ネタの内容そのものよりも、この漫才に対して“松本人志が与えた評価”による。

 まったくの無名だった麒麟(超若手が集まるような関西ローカルの番組にすら出ていなかった)が全国ネットのゴールデンタイムで漫才を披露し、それに対して天下の松本人志が「ぼくは今まででいちばんおもしろかったですね」と評価を与える。当時を知らない人にはイメージしにくいだろうが、2001年の松本人志という存在は「唯一無二の天才」であり「自分以外の芸人は認めない傲慢な天才」であった(そしてそれが許される存在でもあった)。

 その松本人志審査員による「今まででいちばんおもしろかったですね」は最上級の褒め言葉であった。

 これは多くの若手芸人に「M-1グランプリに出場すれば松本人志から評価される」という夢を与えた。ある意味当時破格だった1000万円という賞金よりも価値のあるものだったかもしれない。


2.第2回(2002年)大会
  フットボールアワー「ファミレス」

 ポーカーフェイス&ローテンションで淡々とくりひろげられるボケに感情を乗せた強めのツッコミ、という典型的なダウンタウンフォロワースタイルのコント漫才。今でこそ多種多様な漫才スタイルがあるが、90年代~2000年代初頭はこのスタイルが本当に多かった。

 その中でも群を抜いて完成度の高い漫才を披露したのがフットボールアワー。このスタイルの完成形であり、かつオリジナリティもあった。フットボールアワーが優勝したのは2003年だが、凄みを見せつけたのは2002年のほうだった。

 これにより他のコンビは新たの道を探るしかなくなり、これ以降さまざまなスタイルが花開くことになる。


3.第3回(2003年)大会
  笑い飯「奈良県立歴史民俗博物館」

 M-1デビュー作である2002年の『パン』、究極バカスタイル『ハッピーバースデー』(2005年)、そして空前絶後の100点をたたき出した2009年『鳥人』など数多くの衝撃を生みだした笑い飯のネタの中でも、特に衝撃的だったのがこのネタ。テレビで観ていても会場が揺れるのが伝わるほどのビッグインパクトだった。

 歴史博物館というテーマの斬新さ(漫才史上、後にも先にもこれだけだろう)、見た目・音楽・動き・ナレーションすべてがおもしろかった最初の「ぱーぱーぱーぱぱーぱぱー」のシーン、くだらないのに何度見ても笑ってしまう「ええ土」の応酬、鮮やかなオチ、すべてが完璧だった。

 これ以降M-1予選には大量のWボケスタイルの笑い飯フォロワーが生まれたそうだが、他にも、間を詰めてボケ数を増やす漫才が評価されるようになるきっかけを作ったのもこの漫才だったかもしれない。


4.第5回(2005年)大会
 変ホ長調「芸能界」

 大会初(であり現時点で唯一)のアマチュア決勝進出者。

 正直ネタの内容については特に言うことはないが、(たとえ話題作りの要素が多分にあったとしても)プロでないコンビでも決勝に進めるという功績を作ったことは大きい。

 結果、多くのプロアマが予選にエントリーすることになり、大会の盛り上がりに貢献した。このコンビがいなければおいでやすこがのようなユニットコンビが生まれていなかった可能性がある。


5.第5回(2005年)大会
 ブラックマヨネーズ「ボーリング」

 発想力重視のコント漫才が主流だった前期M-1に王道しゃべくり漫才で登場して、そのしゃべりのうまさとパワー、そして人間味で優勝をかっさらったブラックマヨネーズ。奇をてらったことをしなくても会話だけでこんなにおもしろくなるんだと、漫才という話芸の底力を改めて突きつけた漫才。

 細かいネタの羅列ではなく会話を組み立てて笑いを積み上げていく漫才として、その後のオズワルドやさや香に影響を与えたのではないだろうか。


6.第10回(2010年)大会
スリムクラブ「塔」

 2007年~2009年頃のM-1は、キングコング、トータルテンボス、ナイツ、NON STYLE、オードリー、パンクブーブーのようにテンポを上げて細かいボケを詰めこむタイプの漫才が好成績を収めた。M-1グランプリで勝つにはフリを短くしてボケを詰めこんで笑いの量を増やす、後半にいくにしたがってテンポを上げて盛り上がり所で終わらせる……という必勝法ができかけていた。大会が最も競技化していたのがこの時代だった。

 もしかすると漫才にはこれ以上大きく発展する可能性はないんじゃないだろうか。なんとなくそんな諦めに近い空気が漂っていた。M-1グランプリという大会が2010年で終了することになったのも、もしかするとそれが一因だったかもしれない。

 そんな時代に風穴をあけたのがスリムクラブだった。信じられないほど長いフリ、脈略のないボケ、ツッコミを入れずに困惑するだけの相方……。すべてがセオリーの真逆だった。なのに爆発的にウケた。無言でも笑いをとれる。衝撃的な漫才だった。

 それ以前のM-1にも、おぎやはぎ、千鳥、東京ダイナマイト、POISON GIRL BANDのようなローテンション、スローテンポなシュール系漫才はあったが、軒並み点数につながらなかった。M-1でこういう系統はダメなんだと誰もが諦めかけていた時代にスリムクラブが定石を破った功績は大きい。

 2015年に復活後のM-1で多種多様な漫才スタイルが花開いたのには、スリムクラブの影響も見逃せない。


7.14回(2018年)大会
  トム・ブラウン(ナカジマックス)

 中島くんを五人集めてナカジマックスを作りたいという奇天烈な導入、徐々に加速してゆく異常な展開、どこまでもズレたツッコミ。無茶苦茶なのに、なぜだか論理を感じる。作り物ではない、本物の狂気を感じさせる漫才だった。

 その後もランジャタイやヨネダ2000のような奇天烈漫才が決勝に登場するが、その先鞭をつけたのがトム・ブラウンだった。ここでトム・ブラウンがある程度受け入れられなければ、その後の決勝の顔ぶれも変わっていたかもしれない。



8.14回(2018年)大会
  和牛「オレオレ詐欺」

 本来なら楽しいだけの漫才に「嫌な感情」を持ちこんで成功させたのが和牛。その集大成ともいえるのが「オレオレ詐欺」だった。

 嘘をついて老親を騙して、あげく騙された母親に向かってネチネチと説教する。ふつうならただただ嫌な気持ちになるはずなのに、なぜか笑える漫才にしてしまう和牛の技術はすごい。漫才におけるコントは「これは漫才中のお芝居ですよ」とあえてわざとらしい芝居をするものだが、和牛は声のトーンや表情など、全力で芝居に没入してみせた。

 極めつきがラストの「無言でにらみ合うシーン」。漫才は言葉に頼らずとも表現できることを示し、その枠組みを大きく広げてくれたネタだった。



9.15回(2019年)大会
 ミルクボーイ「コーンフレーク」

 強固なシステムを作り上げ、何年にもわたって研ぎ澄ませ、老若男女を笑わせることに成功したミルクボーイ。あのシステム自体はその数年前から完成されていたが、ひとつのシステムをつきつめるとここまで到達できると見せてくれたのは大きい。

 同じシステムを続けていたら飽きられそうなものだが、M-1優勝後もさらに同じシステムを進化させてウケ続けているのを見ると、本物はそんなにやわなものではないことを教えてくれる。

 漫才の中にはまだまだ金鉱脈が眠っていることを示したネタ。



10.16回(2020年)大会
  マヂカルラブリー「吊り革」

 このネタははたして漫才か否かという論争を巻き起こした問題作。冒頭とラストをのぞいて野田さんがほとんど言葉を発しない奇抜な設定ながら、ばかばかしさと身体性のみで爆笑を巻き起こした。

 細かいテクニックも構成も話術も吹き飛ばすようなダイナミックな動き。実際はしっかり考えられた漫才なのだが、尿をまきちらしながら転がる動きで計算だと感じさせないばかばかしさ。

 この18年前にテツandトモが決勝に進んだときには「おまえらここに出てくるやつじゃない」とまで言われたが、マヂカルラブリーは審査員にも観客にも受け入れられた。M-1グランプリという大会が大きく成長したことを体現したネタだった。おそらく今後はさらに誰も見たことのない形の漫才が出てくることだろう。



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【読書感想文】ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』 / 前よりちょっとだけ現在を大事にするようになった

DIE WITH ZERO

人生が豊かになりすぎる究極のルール

ビル・パーキンス(著)  児島 修(訳)

内容(e-honより)
全米注目のミリオネアが教える、究極のカネ・人生戦略。「今しかできないことに投資する」「タイムバケットにやりたいことを詰め込む」「若いときにはガレージから飛び降りる」……など、人生を豊かにするために、私たちが心に刻むべき9つのルールを紹介。若ければ若いほど、人生の景色をガラリと変えられる一冊。

『DIE WITH ZERO』のメッセージはいたってシンプル。

 死ぬときに財産をほぼゼロにしよう。お金は生きているうち、元気なうちに使おう。


 たしかにその通りだ。みんなわかっている。墓場にお金は持っていけない。

 でも、生前にお金を使い切るのはむずかしい。なぜなら、自分がいつ死ぬかわからないから。

 おもっていたより長く生きるかもしれない。自分が年老いたときにちゃんと年金がもらえるのかわからない。歳をとったら医療費が高くつくんじゃないの。急な出費とか、物価高とかあるし、老後にいくらか必要なのかわからない。

 ぼくもそのタイプ。あんまり物欲がないしセコいし妻も浪費するタイプではないので、貯金額は増えていく。といって欲しいものはあまりない。いちばんお金を使っているのが生命保険。それも掛け捨てではないので貯蓄みたいなものだ。


 昔から貯めこむタイプだった。おこづかいをもらっていたときから、ある程度の貯金がないと不安になる。子どものいる今ならともかく、「どうしようもなくなったら親に泣きつけばいい」状況だった若い頃なんか、あるだけ使ってしまってもよかったとおもう。でもできなかった。小さい頃から「後先気にせずどんどん使ってたらなくなって困るよ」と言われて育ったからだろう。



 必要以上に貯めこんでしまうタイプはけっこう多いようだ。

「いつか必要になったときのために」と貯めこんで、その「いつか」が来ることなく死んでしまう人が。

 ・資産額が多い人々(退職前に50万ドル以上)は、20年後または死亡するまでにその金額の11.8%しか使っておらず、88%以上を残して亡くなっている。つまり、66歳に引退したときに50万ドルだった資産は、66歳の時点でまだ44万ドル以上残っている
 ・資産額が少ない人々(退職前に20万ドル未満)は、老後に資産を使う割合が高い同額の支出でも、資産が多い人に比べて支出の割合が大きくなるためだろう)。だがこのグループでも、退職後の18年間で資産の4分の1しか減っていない
 ・全退職者の3分の1が、なんと退職後に資産を増やしている。資産を取り崩すのではなく、反対に富を増やし続けていた
 ・退職後も安定した収入源が保証されている年金受給者の場合、退職後の18年間で使った資産はわずか4%と、非年金受給者の35%に比べてはるかに少なかった
 
 つまり、現役時代に「老後のために貯蓄する」と言っていた人いざ退職したらその金を十分に使っていない。
 「ゼロで死ぬ」どころか、そもそも生きているうちにできるだけ金を使おうとすらしていないように見える。
 これは年金をもらっている人の場合、より明白になる。年金受給者は老後も安定した収入が保証されている。だから、年金をもらっていない人に比べて貯金を取り崩しやすいように思える。だが、調査結果の通り、年金受給者が老後に資産を減らす割合はとても低い。

 理想は、40代、50代ぐらいで財産額がピークを迎え、そこから少しずつ使って減らしていき、死ぬときにゼロに近くなっていることだ。

 でもほとんどの人がそうではない。歳をとってからも資産が増え続ける。といってそのお金を使ってやりたいことがそうあるわけではない。

「子や孫に遺産を残せるならそれでいいじゃないか」という人もあるだろうが、相続させるにしても早く財産を渡してあげるほうがいいと著者は書く。たしかにその通りだ。60歳になって親が死んで遺産をもらうよりも、30歳のときに生前贈与されるほうがいい。若いときのほうが使い道が多いのだから。

 それに生きているうちにちょっとずつ渡すほうが、税金も少なくて済むし、無用な相続トラブルも避けられる。



 

 そもそも、同じお金の価値が、年代によって異なると著者は語る。

 経験から価値を引き出しやすい年代に、貯蓄をおさえて金を多めに使う。この原則に基づいて、支出と貯蓄のバランスを人生全体の視点で調整していくべきである。
 私たちはずっと、老後のために勤勉なアリのように金を貯めるべきだと言われてきた。だが皮肉にも、健康と富があり、経験を最大限に楽しめる真の黄金期は、一般的な定年の年齢よりもっと前に来る。
 この真の黄金期に、私たちは喜びを先送りせず、積極的に金を使うべきだ。老後のために金を貯め込む人は多いが、「人生を最大限に充実させる」という観点からすれば、これは非効率的な投資だ。
 単にまわりがそうしているからという主体性のない理由で貯めている人も多いが、金は将来のために取っておいたほうが良い場合もあれば、今使ったほうが良い場合もある。その都度、最適な判断をしていくべきなのである。

 たしかにそうだ。80歳になって使う100万円よりも20歳で使う100万円のほうがずっと楽しいに決まっている。

 一般に、歳をとるほど同じ額のお金から得られる喜びは小さくなる。財産が増えることもあるし、感受性が鈍ることもある。

 ぼくは小学生のとき、お年玉を銀行に預けていた。そのお金は結局大人になるまで引き出すことはなかった。何万円かにはなったはずだ。

 すごくもったいないことだ。今なら一日か二日で稼げる額だ。数万円好きに使っていいよ、と言われたら、じゃあちょっといい食事をして、服でも買って、それで終わりだ。でも学生のときに自由に使える数万円があったらどれだけ楽しめただろう。

 どうせ使うなら若いときのほうがいい。同じ二泊三日の旅行でも、得られるものがぜんぜんちがう。




 お金はいつまでも貯めとける。それがお金のいいところでもあり悪いところでもある。

 有給休暇は二年使わなかったら消滅するじゃない? お金も同じような仕組みならいいのにね。手にしてから二年使わなかったお金は消滅する。だったらいやおうなしに使うもの。まあでも不動産とか株とか金(きん)とかに流れるだけか。

 お金は貯めとけるので、必要以上に稼いでしまう。食物だったら「これ以上収穫しても腐らせてしまうだけだからこのへんでやめとこう」となるけど、金を稼ぐのはやめどきがわからない。

 実際、ウェアが患者から聞いた後悔のなかで2番目に多かったのは(男性の患者では1位だった)は、「働きすぎなかったらよかった」だ。これは、まさに私が本書で主張していることの核心だとも言える。
 「私が看取った男性はみな、仕事優先の人生を生きてきたことを深く後悔していた」とウェアはつづっている(女性にも仕事をしすぎたことを後悔する人はいたが、患者の多くは高齢者であり、まだ女性が外で働くのが珍しい時代を生きてきた人たちだ)。
 さらに、働きすぎは後悔しても、一生懸命に子育てしたことを後悔する人はいなかった。多くの人は、働きすぎた結果、子どもやパートナーと一緒に時間を過ごせなかったことを後悔していたのだ。

 ぼくの友人に自分で事業をしている男がいて、そいつはけっこう稼いでいるらしいのだが、家族で食事をしているときでも、友人たちと遊んでいるときでも、仕事の電話がかかってきたらすぐに出て対応している。

 大金を稼ぐためにはそれぐらいしないといけないのかもしれないが、プライベートの時間を切り売りして稼ぐことにそんなに意味があるの? とぼくはおもってしまう。

 じっさい、そいつと遊ぶことは減ったし。仕事のほうを優先する人は遊びに誘いにくいんだよね。




 人間にはずっと未来のことを想像する力がある(だからこそ貨幣というものが価値を持つ)。

 しかしそのせいで、未来を心配するあまり、現在の価値が低く扱われてしまう。


 ぼくはこの本を読んで、考え方ががらっと変わった……とはならなかった。でも、ちょっとだけ変わった。もっと今を大事にしたほうがいいな、と。

 とりあえず、どっちを買うか迷ったときに値段を理由に選ぶのはやめよう、とおもった。今までは「ほんとはこっちのほうがいいけどちょっと高いんだよな……」と躊躇していた場面で、ほんとにいいものを選ぶようにしようとおもう。

 まずは清水の舞台から飛び降りた気持ちで1500円のランチや!


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