あだち充
1980~1984年に連載された、あだち充の初期作品。はじめて読んでみた。
最初にことわっておきますけど、今の社会規範で、昔の作品を断罪するのは不毛かつ卑怯なことだとおもうんですよ。小林賢太郎がオリンピック開会式に携わることになったとたんに昔の映像をひっぱりだしてきていちゃもんをつけるような連中ね。
それはそれとして。
これはひどい作品だ。2024年の今になって読むと、まともに読めたもんじゃない。
もう一度言っておくと、作品や作者を批判するつもりは毛頭ない。ただ、やっぱり『みゆき』の中で描かれている世界はひどい。救いようがない。これはナチスドイツを描いた映画を見て「ひどい時代だな……」と感想を抱くのに似ているかもしれない。
というわけで「ひどさを楽しむ」という読み方をするのをお勧めします。『課長島耕作』と同じ楽しみ方。
『みゆき』の世界では、性犯罪が楽しく消化されている。風呂をのぞいたり女の子の脱いだ下着を勝手に触ったりはまだかわいいもので(それだって十分犯罪なんだけど)、スカートをめくり、警察官や教師が女子中学生に触れて「ぼくとデートしようよ」としつこくつきまとう。
で、それが極悪非道な行為として描かれているわけではなく、「明るく楽しいスケベ」としてギャグ調に描かれている。「スケベだけど憎めないおじさん」みたいな扱いだ。
今の感覚だと、まったく笑えない。中学校教師が教え子である女子生徒を気に入り、特別扱いして、ボディタッチをして、部屋に呼ぶ。直截的に「つきあってくれ」と言ったりする。これのどこで笑えというのか?
でも1980年代にはこれは「ほほえましいユーモア」として受け止められていたのだろう。もちろん眉をひそめる人もいたのだろうが、週刊少年サンデーに連載されて単行本になっている以上、多くの人は少年向けコンテンツとして問題なしとしていたわけだ。
いやあ。すごい時代だ。
何度も書くが、漫画が悪いわけではない。社会が悪かったのだ。
ちなみに、1980年代前半の『みゆき』ではおじさんが女子中学生につきまとい、1980年代後半の『ラフ』ではおじさん(主人公の父親)が女子高校生をナンパする。声をかけるだけで触ったりはしない。そして1990年代の『H2』以降は、せいぜい高校生がエッチな本を読むぐらいで、セクハラや性犯罪はほとんどない(偶然スカートがまくれる、とかはある)。あだち充作品を追っていくことで「少年マンガ誌でどこまで許されてきたのか」の時代変化がわかる。
ま、「スケベなおじさんたち」はまだマシというか。セクハラ中学教師も、嫌がっている女の子の家に強引に押しかける高校生も、勤務中に中学生をナンパする警察官も、一応「どうしようもないスケベなダメ男」として描かれているからだ。
いちばんひどいのが主人公の若松真人だ。こいつも他の男性キャラと似たり寄ったりのクズなのだが、主人公なので「読者が共感できるいいやつ」として描かれている。ここにいちばん疑問をおぼえる。
今の感覚で読むと「こいつのどこがいいやつなの?」とおもう。たとえば、こいつは事情があって血のつながらない妹とふたりで暮らしているのだが、その妹に家事をすべて任せている。さらに妹が旅行でいないときはクラスメイトの女の子に「料理つくる人がいないんだよね。作りにきてくれない?」なんてことを言うのだ。そして作らせる。もちろんこいつは食べるだけで何にもしない。つくる人がいないんだよね、じゃないんだよ。おまえがつくるんだよ。
どうしようもないクズ男だ。べつにクズ男が主人公でもいいのだが、クズならクズらしくしてほしい。『カイジ』の主人公・伊藤カイジはクズだが、ちゃんとクズとして描かれている。
若松真人はクズなのに、作中ではまるでクズじゃないかのような扱いをされている。こいつを好きになれる要素がぜんぜんない(何度も書くけど、今の感覚では、ね)。
男女雇用機会均等法の施行が1986年、中学校の家庭科が完全男女共修となったのが1989年。
『みゆき』の時代は、まだ「男女は平等に。男も家事をして、女も勉強して仕事をする」という感覚すらまだ一般的でなかった時代だ。だから若松真人のような男でもクズじゃないかのような顔をしていられたのだ。
主人公もクズだが、ヒロインがぜんぜん魅力的でない。
エロ漫画に出てくる女と同じぐらい、都合がよすぎる存在だ。主人公の(血のつながらない)妹・若松みゆきは、どんなにダメな姿を見てもずっとずっとお兄ちゃん大好き。それでいて、お兄ちゃんに彼女ができたときはすっと身を引く。
本命彼女の邪魔はせず、でも本命女がいないときはエッチな姿を見せてくれる。ザ・都合のいい女だ。
もっとからっぽなのが、もうひとりのヒロイン・鹿島みゆきだ。
主人公と同級生なのだが、鹿島みゆきは勉強ができるのに主人公がバカだから一緒に同じ大学を受けることにし、主人公が入試に落ちると自分は合格していたのに一緒に浪人するのだ(一応母が入学手続きを忘れていたからという理由をつけてはいるが)。
はっきりいって、パッパラパーのでくのぼうである。自分の意思がまるでない。ご主人様の後についてくるだけの犬と変わらない。「だいすきな彼ぴっぴのおよめさんになりたいの。いっしょにいられたらほかにはなんにもいらないわ。それ以外はなんにもかんがえられないの!」のバカ女だ。この女のどこに魅力があるんだ。
まあクズ男とバカ女でちょうどいいカップルではあるのだが……。
あだち充作品の男女の姿は、時代を映している。
『みゆき』の頃のヒロインは、どんなダメな男でも文句のひとつも言わずに優しく接し、好きな男に対してはとことん愛する女性だった。
『ラフ』の二宮亜美は二人の男を天秤にかけどちらが自分にふさわしいかを選択する立場にある。とはいえ二宮亜美はイエに縛られた存在であり、当初は父親の言われるままに動き、結婚相手まで父親に決められていた。徐々に自分で選択をするようにはなるが父親に対して正面切ってノーをつきつけるシーンはない。
『H2』の雨宮ひかりはもっと選択的に男を選ぶし、新聞記者として生きるというはっきりとした夢も描かれる。男に頼らずとも生きていける自立した女性だ(もうひとりのヒロインである古賀春華は将来の夢こそ持っているものの男に尽くすのが好きなタイプでちょっと鹿島みゆきに近い)。
『クロスゲーム』に出てくる月島四姉妹は性格はバラバラだが、四人とも「女だから男に優しくしないといけない。どんな男に対してもおしとやかにふるまうべきだ」なんて考えは微塵も持っていない。『タッチ』では「南を甲子園に連れてって」だったのが『クロスゲーム』では女子中学生が野球部のエースとして活躍している。
ということで、『みゆき』はひどい作品だが、ひどい作品だからこそ、それ以降時代を追うごとに作中に出てくる女性像が変化していってるのが感じられて、あだち充氏がちゃんと感覚をアップデートできているのを感じる。人は思春期までに形成された価値観をなかなか壊せないものだから、これはかんたんなことじゃない。
さすが50年以上も少年少女向け人気漫画家でいられる人はすごい。
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