2023年12月6日水曜日

【芸能観賞】ダウ90000単独ライブ『20000』


ダウ90000第2回単独公演
『20000』

概要
ダウ90000単独ライブ「20000」
日程:2023年11月7日(火)~11月19日(日)
会場:東京・ザ・スズナリ

 配信にて視聴。

 8本のコントに幕間映像を加え、2時間を超える大ボリューム。コントは8本とも8人全員が出演。


(観た人向け。ネタバレを含みます)




1. 服の記憶

 序盤は「仕事の話をしているときに出てくる例えが、すべて車の運転に関する比喩」という会話劇だが、中盤からは「さっき会ったばかりの人の服装をどれだけおぼえているか」というクイズのような展開に……。


 ぼくは人の服装をまったくおぼえられない人間なので(それどころか自分の服もおぼえていない)、観ていてまったく参加できなかった。

 まず「野球とクリスマスツリー」のあの服があって、そこからつくっていったコントなのかなーと想像。



2. トロイメライの声

『トロイメライの声』という漫画に関する話。熱心なファン、今はじめて読む人、読もうとはおもわないが話だけ人、アニメだけ観ている人、アニメ監督のインタビューだけ読んだ人が『トロイメライの声』について語り合うが話が一致せず……。


『トロイメライの声』は架空の漫画なので、当然ながら観ている人には漫画の中身はわからない(ただ雨が降っていることだけがわかる)。そこでAとBの主張が完全に食い違っている場合、観客はAとBの語り口によってその信憑性を判断するしかない。

 一方は落ち着いた口調で理路整然と語り、もう一方は感情的であり、必死であり、不明瞭であり、いちいち鼻につくオタク口調であり、かつ冴えない風采の男である。あたりまえのように聞き手は前者の言い分が正しそうだという判断を下すわけだが、やがて後者のほうが正しいらしいことが明らかになる……。

 我々が「どうやらこの人が言っていることは正しそうだ」と判断する際に、話の内容ではなく、いかに口調や外見に引きずられているかを気づかされるコント。ぜんぜん市民にとってプラスとなる主張をしていないのに、ビジュアルや語り口の良い政治家や評論家が人気を博している、なんてのもよくある話だ。我々は自分がおもっているよりもずっと論理的ではない。

 おもしろい試みをしているとおもうのだが、いかんせん会話劇を進める上で八人という人数は多すぎる。もちろん人数が多いからこそ表現できることもあるわけだけど、少なくともこのコントに関してはもっと少ないほうがすんなり伝わったんじゃないかなー。



3. 手術前

 重い病気になり、手術を控えた女性。そこへ彼女に好意を寄せる男がやってくるが、彼の語る「手術が終わったらふたりで〇〇をしよう」があまりに微妙。次々に彼女に言い寄る男たちが現れるが、それぞれどこかずれている……。


 ん-これはあまりピンとこず。これまた「八人を出すためにがんばった」感のある設定だった。

 これまであまり言語化されてこなかった細かいあるあるを並べ立てていくのは蓮見さんらしいけど。



4. 幼なじみとFAX

 男の家に、結婚する予定の彼女が引っ越してくることになり、彼女の幼なじみの男が引越しを手伝いにきてくれる。彼女と幼なじみは仲がいいが、お互いに恋愛感情は持ったことがないという。だが彼女と幼なじみが十年以上も毎日FAXをしていることが明らかになり、彼氏は二人が愛しあっているのではないかと疑う……。


 今作でいちばん好きだったコント。

 幼い頃から毎日FAXを送りあう仲。電話やメールやLINEではなく、あえて不便なFAXで、好きな人の話をしたり、それぞれ恋人ができたことを報告したり、似顔絵を送りあったり……。これは恋人や夫婦よりも深い仲だよなあ。

 令和の今、デジタルネイティブ世代の若者が、FAXで届けあう気持ちを描けるのがすごい。文学だ。岩井俊二監督の『Love Letter』を思いだした。

 しかしそこで感傷的な展開にはもっていかず、二人の関係に嫉妬する彼氏もまた、幼なじみの女性と電報でのやりとりを続けていることがわかる……という展開で急にコントらしくなる。

 いいコントだったが、彼女と幼なじみが本当の気持ちに気づいてそれぞれ恋人と別れてくっつく、というのはちょっと安易に感じたな。急に平べったい人物になっちゃった。オチの回覧板につなげるためにはしかたないんだけど、設定に説得力があっただけに雑さが目立ってしまったな。



5. サプライズ

 もうすぐ誕生日の友人を驚かせようと、サプライズパーティーをするために集まった七人。だが主役はバイトでなかなか帰ってこず、七人は待たされることと空腹でイライラして場は険悪な空気に。些細なことで言い争いがはじまるが、怒りながらも友人を大切におもう気持ちがにじみ出てしまう……。


 険悪な雰囲気で怒鳴り散らしてるのに、出てくるのは相手を慮る言葉ばかり……。日本語がわからない人が見たらただただおっかないコントだろう(実際、うちの五歳児は怖がっていた)。

「あたし今日誕生日なんだけど」は笑った。自分の誕生日に「誕生日が近い友人のサプライズパーティー(しかも失敗)」に参加させられる気持ちたるや。

 おもしろかったけど、どうしても天竺鼠がABCお笑いグランプリやキングオブコントでやっていた「口の悪いサラリーマン」のネタを思いうかべてしまったな。



(幕間映像)コンピレーションアルバム

 音楽プレイヤーを手に、思い出の曲を語り合う男女の音声コント。

 幕間映像にちょうどいい、ワンアイディアものコント。


6. 旅館バイト

 旅館の新人バイト。先輩バイトたちから、客室の清掃の際に「部屋に残っていた食べ物は見つけた人のものになる」というルールを教えられる。そのルールは微に入り細を穿っていて……。


 バイト先のローカルルールが細かくて絶妙にゲーム性に満ちている。あるあるとありえなさのちょうど間にあるおかしさ。どっかにはこんなことやってるバイトもあるかもな、というちょうどいいライン。

 楽しい職場なのに、場を読めないバイトのせいで雰囲気が壊れてしまう感じもリアリティがあっていい。

 しかし旅館の客室ってそんなに食べ物を置いて帰るものなのか? ほぼ置いて帰ったことないぞ。



(幕間映像)展開予想

 ソファに座って、ここまでのコントを観ていたカップル。そろそろラストのコントなので伏線を回収するようなハートフルな展開が待っていると予想を語る……。


 おまえらの思い通りにはさせねえぞ、という挑戦状のようなコント。誰への挑戦状かって? そりゃあオークラ氏やその周囲かな……。


7. 芝居の表現

 ドラマ撮影現場で、女優を本気で殴るように命じられた俳優が「表現のためだからって何をしてもいいわけじゃない」と難色を示す。だが女優、演出家、脚本家には彼の主張がまったく理解されず……。


 これもいいコント。どちらの言い分もわからなくはない。たとえ相手の同意があったとしても暴力はいけないのか、その同意は本当に自由意志の発露なのか……と考えさせておいてからの、まさかのキスシーンNG。

 正義と正義の衝突かとおもったら、単にこの俳優が嫌われているだけなんかい。

 好きなセリフは「わたしが女だからですか」。



8. 講演会

「恋を応援する」というセミナーを開催する女性。ファンたちは熱心に聞いているが、その話の薄っぺらさに、聞いていたスタッフがおもわずツッコミを入れてしまう。聞きとがめた講演者が「言いたいことがあるなら前に出てどうぞ」と言うと、本当にスタッフが登壇してしまい……。


 後味悪いコントだなあ。これを最後に持ってきたのは「ハートフルなコントで締めないぞ」という意気込みの表れなのか。にしても、ただただ嫌な気持ちになるコントだった。

『また点滅に戻るだけ』を見たときもおもったけど、蓮見さんはディベートで相手を徹底的にやりこめるのが好きなのかねえ。観ていて気持ちのいいものじゃないんだけど。ウエストランドのようにある種露悪的に「論理に隙のある相手をやりこめる嫌なオレ」としてやるんならいいけど、蓮見さんの場合はそれをかっこいいとおもってやってる節がある。ダサいんだけどなあ。

 しかも、ただ相手を言い負かすだけじゃなく、周囲の人に「あいつすげえ」的なことを言わせる。言い負かされた相手が、言い負かしたやつに好感を持ったりする。観ていて恥ずかしくなるぐらいダサい。キムタクのドラマか。



 ということで、ラストの後味が悪いせいで全体としても「なーんか嫌なもの観ちゃったなー」という印象。最後って大事だね。ラストのハートフルコントはぼくもいらないとおもうけど。

『また点滅に戻るだけ』が無駄のない完璧に近い作品だっただけに、『20000』のほうはちょっと粗さが目立ってしまった。展開に無理があるな、とか、無理に八人全員使わなくていいのにな、とか。おもしろかったけどね。『また点滅に戻るだけ』が良すぎたのかも。

 FAXのコントとドラマのコントが好きでした。


【関連記事】

【芸能観賞】ダウ90000第5回公演 『また点滅に戻るだけ』




2023年12月1日金曜日

きびきびしていない

 こないだ、娘が通う小学校の運動会を見に行った。

 で、「〇〇さん基準、体操の隊形にー、開け!」ってやっていた。それを見ておもったこと。


・そういや去年まではやってなかった

 娘は四年生なので去年までも運動会はやってたんだけど、去年まではコロナ禍での開催ということで、最初から生徒同士の間隔を空けていた。だから当然「体操の隊形に開け!」もなかった。「体操の隊形に開け!」もコロナでなくなっていたもののひとつだ(「体操の隊形」自体はあった。「体操の隊形じゃない隊形」がなかった)。


・まだやってんのか

 「体操の隊形に開け!」をすごくひさしぶりに見た。大人になったらやらないもんな。体操するとしても「横の人との間隔をとってくださーい!」とか言うもんな。


・きびきびしてない

 他の学校はどうだか知らないけど、娘の小学校の「体操の隊形に開け!」はぜんぜんきびきびしてなかった。みんなダラダラ歩いて、ゆっくり広がっていた。

 すばらしい!

 ぼくが学生のときはそんなことなかった。「体操の隊形にー」で走る準備をし、「開け!」で一斉に走り出さないといけなかった。所定の位置まで駆けたらぴたっと止まり、細かい位置調整のほかは極力動かないように厳しく言われていた。

 はっきりいってなんの意味もないクソ無駄行為だ。体育教師が軍の上官気分になって嗜虐趣味を満たすことをができるという以外には何も生み出さないゴミくず蛮習だった。

 その「きびきび動く」が令和の小学校においてはなくなっているのだ(他の学校は知らない)。

 きっと、「走れ!」とか「きびきび動け!」とか言う、何も考えていない教師が絶滅したのだろう。たいへん喜ばしいことだ。ビバ絶滅!


 さあ、次は保護者をさしおいていちばん正面のテントでえらそうにしている来賓を滅ぼす番だ!


2023年11月28日火曜日

【読書感想文】福田 和也『悪の対話術』 / 悪というより計算高い

悪の対話術

福田 和也

内容(e-honより)
第一印象を制する礼儀正しい生意気のすすめ、悪口、お世辞による観察眼の鍛え方、敬語の意外な役割など、舌鋒鋭く世を生き抜くための刺激的「話し方」講座。


 対話に関する本。が、筆者は舌鋒鋭いことで知られる文芸評論家であるので、巷によくある「相手に伝わる話し方講座」の類ではない。

 どうやって相手の印象を操作するか、いかにふるまえば相手をいい気にさせられるか、どのような言葉を口にすれば本心を知られずに済むか、といったことにページが割かれている。お世辞、悪口、沈黙などについて。

 タイトルには『悪の』とついているが、どちらかというと「計算高い」「打算的な」対話術の本といったほうが正確かもしれない。なので「まっすぐぶつかれば必ず本心が伝わるはず」といったピュアな考え方をする人にはまったくおすすめできない。

 また、対話術とついているが、具体的なテクニックは乏しい。「対話に対する向き合い方」のほうが近いかもしれない。




 中年になった今、腹を割って話せる友人を新たにつくることは不可能だろうとおもう。いや、不可能ではないかもしれないけど、気の置けない友人を作るためにこちらからがんばる気はないし、仮に誰かが「友だちになってよ」と接近してきたとしても「こんな中年おじさんに接近してくるなんて何を企んでやがる」と警戒して拒絶してしまうだろう。つまり不可能ということだ。

 だったら、心を開いてぶつかるような話し方ではなく、誰とでもそこそこの距離をとりつつほどよく付き合えるような話し方を身につけるべきだ。誰かと親友になったり恋人をつくったりするのなら「大成功する交際術」が必要かもしれないが、今求めているのはそうではなく「失敗しない交際術」なのだ。

 仕事をし、生活をしていくためには、ほとんどの場合たいした尊敬には値しない人たちから、指示を受けたり、教えを受けたり、承認をもらったりしなければならないのです。もしも、そうした接触のたびに相手のつまらなさにたいして意識的であったら、どんなに仕事がつまらなく、生きていくことは味気ないでしょう。
 こうした味気なさを救うのが敬語の第一の機能なのです。
 つまり、敬語を使うことで、人は、相手の人品を忖度するというストレスから解放されるのです。敬語を使うことで、「目上」にたいして、その相手にたいする評価とはかかわりなく、あたかも敬意をもっているように接することができる。従い、教えを請うことが出来るのです。なんと便利なのでしょう。
 その点からすれば、敬語とは、敬意の表現ではなく、敬意の存否に関係なく相手と「目上」「目下」の関係を作るための言葉なのです。

 そうそう、敬語って楽なんだよね。

 最近ぼくは仕事関係の人には誰に対しても敬語を使うようにしている。社長でも取引先でも同僚でも今日入社してきた新人にも、同じように敬語で話す。なぜなら、そっちのほうが圧倒的に楽だから。「この人にこんな言い方をして気を悪くしないかな」とか「この人にはため口なのにあの人に敬語だったら変だとおもわれないかな」とか気をもむ必要がない。誰であろうと敬語。向こうがどんなに気安く話しかけてきても敬語。

 ずっと敬語だと、接近することはむずかしいだろう。常に敬語で話す人に対して、プライベートで遊びに行こうよ!とはなりにくいものだ。でもそれでいい。こっちは高得点を挙げたいんじゃなくて失点したくないだけなんだから。




 笑いについて。

 微笑みとか、笑いというのは、自発的なものですね。もしくは自発的に見せなければならないものです。会話している相手から自然に笑みがこぼれたり、笑いが発したりすると、話をしていて、なんとなく嬉しくなる、非常にリラックスした気分になって、解放された心持ちになるのです。
 そういう魅力が、機械的な笑いには一切ない。むしろ笑いという人間にとってかなり自然な現象を、無理やり作り出してしまっているという感じが、無残であると同時に侮辱を受けているような気分にさせるのです。
 エアロビクスという競技がありますね。あの競技は、演技者が、飛んだり跳ねたりしながら、始終笑っているという気持ちの悪い(失礼)ものですが、あの笑いと、ファースト・フードの笑いは同じです。

 あー。たしかに、エアロビクスとかフィギュアスケートとかアーティスティックスイミングの笑顔って気持ち悪いよね。顔に張り付いたような笑み。無表情のほうがずっとマシとおもえるぐらい不気味。

 しかもあれをやらされるのって女子競技ばっかりだよね。男子には求められない。

 ああいうのもなくなっていくかもね。早くなくなるといい。


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【読書感想文】麻宮 ゆり子『敬語で旅する四人の男』 / 知人以上友だち未満

敬遠の語



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2023年11月24日金曜日

【読書感想文】風野 春樹『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』 / 時代に愛され、時代に消された男

島田清次郎

誰にも愛されなかった男

風野 春樹

内容(e-honより)
本当に天才だったのか。―本当に狂人だったのか。大正時代を流星の如く駆け抜けた作家、島田清次郎。二十歳で空前のベストセラーを生み出し、二十五歳で精神病院へと収容される。その数奇な一生を現役精神科医がたどりなおす新たな人物伝。

 島田清次郎という作家の評伝。

 島田清次郎は大正時代に活躍した作家。デビュー長篇『地上』がベストセラーとなり、さらに自伝的内容であったことから島田清次郎も若者たちからカリスマ的人気を博す。その後も次々にヒットを飛ばすが、清次郎の傲岸不遜な態度が文壇で不評を買い、さらに誘拐・監禁・強姦というスキャンダルにより実質的に文壇から追放、統合失調症(当時の病名は早発性痴呆)を発症し、妄想にとりつかれ、三十一歳で死去するまで晩年は精神病院で過ごした。

 数々のトラブルやスキャンダルにより、文壇からは半ば黙殺され、今となっては国語の教科書にも載っていない。彼の作品も『地上』第一部がかろうじて青空文庫で読めるぐらいで、他の本はすべて絶版。つまり新刊書店では手に入らない。


「俳優やミュージシャンが逮捕されたからといって作品まで非公開・回収する必要があるのか?」という議論がなされることが多いが、文芸に関してはけっこうゆるやかだ。

 薬物中毒だった坂口安吾や中島らも、自衛隊駐屯地に侵入して割腹自殺した三島由紀夫なんかの作品は今でもふつうに書店で手に入る。死刑囚が獄中で書いた手記を発表することもあるし、他のジャンルに比べれば「犯罪は犯罪、作品は作品」と考える向きは強いとおもう。

 にもかかわらず島田清次郎作品は書店から消えてしまった。作者の人となりだけが原因ではないのかもしれないが、なんとも残念なことだ。




 この評伝を読んでいると、島田清次郎という人物はじつに傲岸不遜、尊大な人物だ。

  こうして中山の家に居候することになった清次郎だが、その後「地上」が出て名声があがると、中山や妹、さらには両親までもを奴隷扱いするようになり、「お前の家にいてやるのを光栄とおぼえろ」などと言い出すようになった。
 両親からも苦情を言われ、妹からは清次郎に手を握られたなどと抗議され、ついに堪忍袋の緒が切れた中山は、清次郎を家の外へと投げ出してしまった。清次郎は衣物の泥を払いもせず「覚えていろ」と捨て台詞を吐くと、それっきり戻らなかった。荷物はあとで車屋に取りに来させた。
 小学校時代からの友人である林正義も、同じ上胡桃町の清次郎の部屋を訪ねている。そのとき、清次郎はちょうど『地上第二部』を執筆中だった。
「お母さんも喜んでおられるでしょう」と林が祝辞を述べたところ、清次郎はこう答えた。
「そうです、しかし母はぼくがどれだけ偉くなったかを知らないだけかわいそうです、実際総理大臣より偉くなったんですからね」
 林が自分たちも同人誌を作っていることを告げると、清次郎はすかさず
「ぼくのように成功すると、それが刺激となって、君達も真似するようになるんでしょう」
と答えたため、林は辟易したという。
「流感で臥てゐる。人は冷たし、木枯しは寒し、これまでの態度は悪かったから、看護に来てくれ」と、清次郎は中山のもとに葉書を送った。
 当時の清次郎は蓬萊館という本郷の安下宿にいた。障子は破れ、戸の建てつけが悪くて外気が吹き込むという悲惨な状態だった。すっかり同情した中山は、糊を買ってきて障子を張り替え、戸の隙間には新聞紙を詰め、炭を買ってきて部屋を暖め、流感に効くといわれていた漢方薬の地龍を煎じて清次郎に飲ませた。
 すると、看病の甲斐あって翌朝には平熱に戻り、三日目には清次郎は床の上に座れるまでに回復した。
 元気になるとともに傲慢な発言も戻ってきた。清次郎は、『地上』を出してもらった某氏(おそらく生田長江か堺利彦だろう)に対して暴言を吐き、「天才に奉仕するのが凡人の務めだ」と言い出した。
 失礼な物言いが腹に据えかねた中山が「ほう、では僕が君を看護するのも、君のような天才に対する務めかね」と訊くと、「そうだ、生意気な口答えをするな、貴様は同郷だから出入りを許してやるのだ、吾輩の看病をさせてやるのをありがたく思え」と清次郎は言い放った。
「何を言うか、お前は木枯しは寒し、人は冷たし、来てくれ頼むと泣き言で哀願したから、窮鳥も懐に入れば猟師も云々と言うから、お前は生意気な野郎だが、来てやったのだ。お前に何の責任があって奉仕せねばならぬのか」と中山は怒鳴った。
 すると清次郎は「天才に反抗するか」と言って、まるで殿様が家来を手打ちにするような形で中山に殴りかかったのである。

 こんなエピソードのオンパレード。これでもごく一部だ。

 ほとんど誰に対してもこんな態度だったという。さぞ嫌なやつだったんだろう。「生意気にふるまってるけど実はこんなかわいい部分もあった」みたいな話すらまるでない。副題の『誰にも愛されなかった男』は決して大げさな表現ではない。中には彼の才能を買っていた人もいるが、島田清次郎の身近な人で、彼を愛していたのは母親ぐらいだったようだ。


 島田清次郎の不幸は、才能があったことじゃないだろうか。

 たいていの人が、多かれ少なかれ、傲慢な部分を持っている。特に若い頃は根拠のない自信に満ちあふれ、「おれをそこらへんの人間といっしょにするな」という意識を持っている人は多い。ぼくもそのひとりだった。

 もしぼくが若くから何かの分野で評価され、若い世代のカリスマとして持ち上げられていたら……。きっと天狗になっていたことだろう。周りを見下し、威張り散らす、とんでもなく嫌なやつになっていたことだろう。

 だが幸か不幸かぼくは天才ではなかった。いろんなところで鼻っ柱をへしおられて、現実との折り合いをつけて生きていく道を選んだ。というかそうやって生きていくしかなかった。そのおかげで、とんでもなく嫌なやつにはならず、そこそこ嫌なやつで収まっている。たぶん。

 しかし島田清次郎はそうではなかった。傲慢な態度のままで生きていけるだけの才があった。これが彼の不幸の根源だったのかもしれない。

 幼い頃から成績優秀で、弁論大会に出るほど弁が立って、小説を書けばベストセラーとなって若いファンが天才だとあがめてくれる。これは天狗にならないほうがむずかしいかもしれない。

 とはいえ島田清次郎の場合はちょっと限度を超えている気もするが……。気質の問題もあったのだろう。

「令嬢誘拐事件というスキャンダルが原因で失脚」とされているが、この事件にしても、ちょっとまともな人のやることとはおもえない。この頃にはもう統合失調症がだいぶ顕かになっていたんじゃないだろうか。女性を誘拐して監禁・連れまわし、警察に捕まり、女性の家族から裁判を起こされてもなお、当の女性と結婚できると信じていたのだから。

 傲慢だったから人気を失ったとおもえば自業自得という気もするけど、病気のせいでそうなったのだとおもえば気の毒でもある。




 ところで、大正時代って人権意識が低いなあと改めて感じる。

 島田清次郎が令嬢を誘拐したり強姦したりしたことについても「令嬢のほうが島田清次郎にファンレターを送ったり家族に内緒で会いに行ったりしていたからしかたない」という理由で令嬢のほうが悪いとされたり(裁判所もそういう判断をくだしている)。嫁入り前の女が男に近づいたらレイプされてもしかたない、とみなされる時代だったんだなあ。

 精神病院に入った島田清次郎をおもしろがって、わざわざ会いに行って「こんな支離滅裂な言動をしていた」と新聞記事にしたり。

 ひっでえ時代だなあ。

 島田清次郎は時代の寵児でもあり、忌み児でもあったのだ。


2023年11月21日火曜日

小ネタ6

 

引き取り

ここはひとつお引き取りください。息を。


余計な真実を言う人

「まあまあ、本人もこうやって反省してるポーズをとってるわけですし」


みみ

食パンの耳を表す漢字は「餌」。


好調

テレビのニュースで「クマの出没増加を受けて、クマ撃退グッズが好調です」と伝えていた。

それを「好調」と呼ぶのってあってるんだろうか。そりゃあ武器商人にとっては「戦争が起きて武器が好調です!」って気持ちかもしれないけど、買うほうは買いたくて買ってるんじゃないよ。

どこかの100均ショップで香典袋に「今売れてます!」というポップがつけられていたけど、それに似たものを感じる。売れてるからって人気とはかぎらんぞ。