2022年12月6日火曜日

【読書感想文】NHKスペシャル取材班『ルポ車上生活 駐車場の片隅で』/野次馬だということを忘れるな

ルポ車上生活

駐車場の片隅で

NHKスペシャル取材班

内容(e-honより)
老い、病気、失業、肉親からの虐待、配偶者との死別、人間関係のつまずき―。車しか行き場がなかった。貧困だけではない“漂流の理由”とは?話題のNHKスペシャルが待望の書籍化!


 車上生活を送っている人たちを取材したルポ。

 日本には、車で生活している人たちが少なからずいる。が、その実態についてはほとんど何もわかっていない。

 まずは車上生活者の全体像を理解する上で参考になるものはないかと、関係する調査を探した。しかし、車上生活者についての調査はこれまで国も自治体も行っていない。
 ホームレスの概数調査は、厚生労働省が各地のNPOに委託して行われている。しかしあくまで土手や公園に段ボールやブルーシートなどを広げている人々を遠目から見て「ホームレスとみられる人」を数えているにすぎない。当然ながら、道の駅は調査の対象外。仮に対象となったとしても遠目から見て車上生活者かどうか判断するのは不可能だ。つまり、国のホームレス調査には、車上生活者は含まれていない。だから全国に車上生活者がどの程度いるのかは、誰にもわからないのだ。

 ホームレスの概数調査はおこなわれているが、車上生活をしている人は調査そのものがおこなわれていない。車の中で生活していても、ほとんどの場合は外からわからない。だから我々が気づかないだけで、じつは周囲にもけっこういるのかもしれない。

 そういやこないだ読んだ『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』という本にも、車内で生活していてそのまま亡くなった人のケースが載っていた。


 車上生活はたいへんだろうが、ホームレスに比べればはるかに楽だろう。雨風はしのげるし、冬の寒さも車外よりはマシ。荷物を持って移動するのもかんたん。

「ホームレスになるほどではないけど生活が苦しくて車を所有している」人であれば、車上生活に行きつくのはそう不自然なことではないのだろう。




 しかしこの本を読むかぎり、意外と「食うに困って車上生活をするしかなくなった」以外の車上生活者もいるらしい。

 この〝謎の車上生活者コミュニティ〟のメンバーを簡単に紹介させてもらう。

 ①Uさん(60代男性)。車は軽自動車。車上生活歴20年。借家があるがほとんど帰らないという。離婚を経験しており、現在は独身のため、「家にいてもうつになるだけ。車上生活は楽しくてやめられない」という。
 ②Iさん夫婦(夫・50代/妻・60代)。車はキャンピングカー。車上生活歴2年。自宅はないため、ホームレスに当たるのだろうか。もともと夫婦で車上生活をすることが夢だった。資金獲得のため、夫はリタイアするまでいくつかの仕事を掛け持ちで続けたという。現在は無職。
 ③Sさん(70代男性)。車は年季の入ったミニトラック。車上生活歴12年。持ち家が青森にあるが、「青森にいると寒くて頭が痛くなる」という。1年のうち、9ヵ月間は九州地方を中心に車上生活をし、夏の期間だけ青森の自宅で過ごす。
 ④Xさん(60代? 男性)。車はワゴン車。妻と離婚し愛人と過ごしていたが、関係が悪化。アパートを飛び出し、小型犬と一緒に車上生活を始める。「車上生活は楽しい」というが、そこに至った経緯を詳しくは教えてくれなかった。現在も自宅はない。

 こんな感じで、「車上生活が好き」「車に大切な思い出がつまっている」「家にいたくない」「家庭の事情で家にいづらい」といった理由で車上生活を選んでいる人もいるようだ。

 また、年金をもらっていたり、仕事をしたりして、収入がある人もいるそうだ。さらに自宅があるのに車上生活を送っている人も。

 まあ深刻な悩みを抱えていない人のほうがインタビューに答えてくれる率は高いだろうから、取材をすると〝そこまで困ってない人〟の割合が実態よりも高くなるのかもしれないけど。


 たしかに、車上生活をしたくなる気持ちはわからなくもない。ぼくは運転が嫌いだけど、もしも家族がいなくて、一箇所にとどまらないといけない仕事もないのであれば、あちこち移動しながら生きていくという暮らしにあこがれる部分もある。フーテンの寅さんだって免許と車を持っていれば車上生活を送っていたかもしれない。

 人によっては「移動もできるワンルーム」に住んでいるぐらいの感覚なのかもね。




 とはいえ、もちろん食うに困って車上生活を余儀なくされている人もいる。さらに単身ではなく、夫婦や家族で車上生活を送る人も。

 子どもと共に車上生活を送っていた家族の話。

 しかし、夜になると厳しい現実が家族を襲った。日が落ちると、急激に気温が下がる。日中機嫌がよかった子どもたちも、寒さと空腹からかぐずりだす。子どもの大好きなカレーライスやポテトフライなどを食べさせてやりたいが金はどんどんなくなっていき、お腹を空かせた子どもに、満足に食事も食べさせられない。100円のパンやおにぎり、時にはお菓子などを与え、なんとかその場をしのぐしかなかった。
 夫婦は、2日間ほとんど何も食べられない日もあったという。次女に授乳中だった妻は、十分な食事がとれないなかで、健康な母乳がでているかどうか不安を感じていた。
「本当に、どうなってもおかしくない状態でした。仕事が見つからないなかで、私自身もどんどん不安になっていくし、今日はなんとか食べられたとか、明日はどうしようかとか、そんなことばかり考えていました。車でどこかに移動するのにも、ガソリン代がかかるので、道の駅の駐車場でただじっとしているしかなかったですね」

 また、空腹以上に厳しかったのが冬の「寒さ」だった。
 残りわずかになったガソリンを節約しようとエンジンをかけずに眠っていたため、毛布にくるまっても夜は冷え込んだ。寒さで目が覚めるたびに、少しだけエンジンをかけ、暖房をつけて車内を暖める。これを繰り返すうち、気がつけば夜が明けていた。銭湯などに行くこともできなくなり、冷たい水で濡らしたタオルで子どもたちの体を拭いてやることしかできなくなった。不安と寒さで眠れないことも多くなり、深夜になると、これからどうするか、夫婦で答えの出ない話し合いを続けた。
 季節は1月。この年、冬の寒さはとくに厳しかった。
 たとえ頼れる人がいなかったとしても、他の選択肢はなかったのだろうか。そんな気持ちが私の表情に表れていたのだろう。恵理子さんは続けて、当時の思いを語ってくれた。
「全然、お金もなかったし、ネットカフェって子どもがいたら駄目ですよね。だから子どもと一緒にいるためにどうしようか、だったと思います。ヘンに助けを求めて、子どもと引き離しますよって言われても困るし。それだと自分がもたない。今思えば、何も考えていなかったというか、自分本位と言われればそうですけどね……」
 それまで淡々と話していた彼女の顔が曇る。子どもたちの顔を思い浮かべているのかもしれない。いち早く行政に頼れば、なんらかの救済措置があったことはわかっていたはずだ。しかし、子どもと離ればなれにならないために、彼女はあえて別の道を探ろうとしたのだ。私には子どもはいないが、女性としてその気持ちを察することはできる。きっと口で言うよりもずっと悩んだだろうし、想像以上につらい選択だったに違いない。

 これを読んで「なんて身勝手な親だろう」とおもった。

 自分が車上生活を送るのは好きにしたらいい。頼れる人がいない、生活保護に頼りたくない、親戚との関係がよくない、仕事がない、いろんな事情があるだろう。

 でも、こんな生活を送りながら「子どもと離ればなれにならない」ことを選ぶのは、親のエゴでしかないとおもう。そりゃあ子どもは親といっしょにいたがるだろう。親といっしょの生活しか知らないんだから。

 けど、命の危険にさらしてまで子どもといっしょに車上生活を送る権利はない。子どもだけでも行政に任せるべきだろう。

 なにが「想像以上につらい選択だったに違いない」だよ。ただの虐待親じゃねえかよ。こんなもんは親の愛じゃねえよ。




 車上生活を送っている人のいろんな面を見ているうちに「必ずしも車上生活って不幸でおないのかもしれないな」とおもうようになった。

 もちろん不幸な人はいるが、それは車上生活にかぎらない。自宅があっても不幸な人もいれば、車でそこそこ幸福な生活を送っている人もいる。

 こういう道があってもいいとおもう。道の駅のように、車上生活を送っている人が過ごしやすい場所があればいい。

 彼らに住居をあてがうことだけが福祉ではないとおもう。放っておいてやるのもまた優しさなんじゃないだろうか。放っておいてほしいから車上生活をしている人が多数派なんじゃないかろうか。




 いろんな記者が交代で書いているのだが、謙虚な人もいれば傲慢な人もいる。傲慢というか、「善意の押し付けがすぎる」というか。

「おれたちジャーナリスト様が社会正義のために取材してやってんだぜ」臭がぷんぷんする。

 さっきも書いたように「放っておいてやるのも必要」とぼくはおもうのだが、「こんな生活を送る人がいてはならない! 救済すべき! 『NHKスペシャル』で取りあげてやって社会問題にすべき!」みたいな気持ちが行間から漂ってくる記者もいる。


 熱いね。

 でもさ。ぼくが車上生活者だったら、ぜったいに社会問題なんかにしてほしくないとおもうんだよね。「『NHKスペシャル』で取りあげます」なんて言われたら「大きなお世話だやめろ」とおもうだろう。社会とかかわりたくなくて車上生活をしているんだから。社会のほうから近づいてこないでほしい。

 だから、仮に取材するとしても「野次馬根性丸出しで申し訳ないですけど、なんとか取材させていただけないでしょうか」という姿勢で近づくべきだとおもう。それなのに、「我々が取り上げてやることで彼ら彼女らのためになるはず! だからなんとしても取材せねば!」みたいな気持ちが文章から伝わってくる。押しつけがましいったらありゃしない。

 社会的弱者のレッテルを貼られたくないから取材拒否しているんだということも想像せず、しつこく追いかけまわしている。

 記者の書いたものを読んでいるだけでも「強引な取材だな」と感じるのだから、こういう記者に追いかけまわされたほうからしたらたまったもんじゃないだろうな。

「どうやったら心を開いてもらえるだろうか」じゃないんだよ。心を開きたくないから車上生活をしてるんだよ。


 NHKの記者をやってると、自分が正義の味方だとかんちがいしちゃうのかな。しょせん我々視聴者の野次馬根性を満たすためにやってることなのにさ。

 いや、いいんだよ。野次馬根性で。おもしろいもん、変わった生活を送っている生活をのぞき見するのは。人間として、自然なことだとおもう。

 でもそれはどこまでいっても野次馬根性なんだよ。結果的に社会がいいほうに変わることはあるかもしれないけど、それは偶然の結果であって目的ではない。

 なのに、やれジャーナリズムだ、やれ社会的意義だ、やれ視聴者へのメッセージだのとほざいちゃあいけない。おまえらが扱っているのは生身の人間なんだよ。ただ車に住んでるだけで、犯罪者でもなんでもないんだよ。生きた人間を「視聴者へのメッセージ」の材料にするなよ。材料にしたいんだったら、フィクションを書けよ。

 

 そのバランスを取る上でカットせざるを得なかったのが、竹迫ディレクターが撮影した北海道の女性親子である。
 70代の母親とともに車上生活をしていた40代の女性。昼間は4人の子育てに追われる娘を手助けし、夜は近くの道の駅で寝泊まりしていた(第3章参照)。
 そんな女性にカメラを向けると、満面の笑みで語った。
「もう一回子育てさせてもらってるような感覚です。だから苦とかじゃなくて、自分の幸せですよね。お金で買えない幸せですね」
 初めに竹迫ディレクターから「車上生活の理由は、娘さんの子育てを手伝うためでした」と聞いたとき、その意外性に一瞬理解が追いつかなかった。
 それでも話を聞くにつれ、核家族化が進み定着するにしたがって子育てに悩む人が増えていく、という現代社会の一断面であると強く感じるようになった。私自身も、二人の保育園児の子育てをいつも妻の実家に助けてもらっているため、自らの境遇を重ね合わせたことは否定できない。この女性親子のエピソードは、1回目の試写では番組の中に入れていた。しかし2回目の試写以降はカットし、その後も復活させることはできなかった。
 理由は、バランスである。たしかに、娘の子育てを手伝うためという理由で車上生活をする人がいるという事実は重い。しかし、女性の弾けるような笑顔が画面一杯に映し出されると、どうしても「支援を必要としていない」という側面が強調されすぎてしまうのだ。

 こうやって舞台裏を書いてるから本のほうはまだ良心的だけど、番組のつくりかたとしてはひどいものだ。「こんなところを放送したら、この人が不幸に見えなくなってしまう。だからカット」ですってよ。不幸に見えないことの何が悪いんだよ。「支援が必要」かどうかはおまえや視聴者が決めることじゃないんだよ。


 いろんなことを考えさせられてたいへん意義深い本だったけど、同時にNHK記者の傲慢さも目に付いた。

 そのジャーナリズムは、今ここで困ってる人じゃなくて、NHKさんが仲良うしてはる政府のほうに向けてくださいね。政府がまともに仕事してたら「支援が必要な人」は減るんだから。


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2022年12月2日金曜日

【読書感想文】ダニエル・E・リーバーマン『人体六〇〇万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』 / 農産物は身体によくない

人体六〇〇万年史

科学が明かす進化・健康・疾病

ダニエル・E・リーバーマン(著)  塩原 通緒(訳)

内容(e-honより)
人類が類人猿から分岐し二足歩行を始めてから600万年。人類の身体は何に適応しどのように進化してきたか。速さ、強さ、運動能力で他より劣るにもかかわらず厳しい自然選択を生き残ったのはなぜか。両手が自由になり長距離走行が可能になったことで得た驚くべき身体的・文化的変化とは。「裸足への回帰」を提唱する進化生物学者リーバーマンが、人類進化の歴史をたどりながら現代人の抱える健康問題の原因を明らかにする。

 はあ疲れた。

 とにかく長い。いや、長いことはいいんだが、ひたすら同じことのくりかえし。これなら上巻だけでもよかったぐらい。

 出てくるエピソード自体はけっこうおもしろいのだが、これでもかと事例を挙げてくるので「もうわかったから」と言いたくなる。




 この本で書かれているのはこんなことだ。

 進化的ミスマッチ仮説とは、基本的に、遺伝子と環境との相互作用の変化に適応の理論を当てはめたものだ。ざっと要約してみよう。あらゆる世代のあらゆる人は、周囲の環境と相互作用する数千の遺伝子を受け継いでいるが、それらの遺伝子の大半は、何百世代、何千世代、ことによると何百万世代も前に、特定の環境条件のもとで祖先の生存能力と繁殖能力を高めるために選択されたものである。したがって、あなたが受け継いでいるそれらの遺伝子のおかげで、あなたは特定の活動や、食物や、気候条件や、その他もろもろの環境的な側面にさまざまな程度で適応している。しかし同時に、環境の変化によって、あなたはときどき(つねにではないが)別の活動や食物や気候条件などに対して十分な適応ができていない。この適応不全の反応が、ときどき(これまた、つねにではないが)あなたを病気にかからせる。たとえば自然選択は過去数百万年のあいだに、果実、塊茎、野生の鳥獣、種子、木の実など、繊維は豊富だが糖分は少ないさまざまな食物を摂取するように人間の身体を適応させた。そのために、現代のあなたが糖分ばかりで繊維の少ない食物を絶えず摂りつづけていると、いつ2型糖尿病や心臓病などの病気が発症しても不思議ではないのである。同じように、果実しか食べないというのも、やはり病気にかかる原因となる。
  • 人類は狩猟採集生活を送れるよう、数万年、数百万年かけてその身体を進化させた
  • 狩猟採集生活を送っていた時代が圧倒的に長く、農耕生活を送るようになってからはたった数千年と(人類の歴史から見れば)まだ日が浅い
  • そのため、農耕生活を送ることにはまだ人類の身体は適していない。ましてや現代人の生活には身体が追いついていない
  • そのため、にきび、アルツハイマー、喘息、水虫、虫歯、うつ病、偏平足、緑内障、痛風、痔、高血圧、腰痛、近視、胃潰瘍、骨粗鬆症などの〝進化的ミスマッチ〟が起こっている。これらは狩猟採集生活を送るために進化した身体に、現代人の生活が適していないためである
  • 生存や子孫を残すことに不利な病気などは自然淘汰されてゆくが、〝進化的ミスマッチ〟の多くは生殖適齢期を過ぎてから顕在化するため、自然淘汰の対象になりにくい。

 これを、手を変え品を変え説明してくれる。いやあ、衝撃的事実みたいに語ってるけど、そこまで意外でもないんだけどな……。

 あと、狩猟採集生活をしていた人類は虫歯にも腰痛にも高血圧にもならなかったみたいに書いてるけど、ほんとかね。そのへんが怪しいんだよな。証拠が見つかってないだけで、なかったことは証明されてないし。腰痛になるような年齢に達する前に死んでいたんじゃないか、という説を著者は否定しているが、そのへんの論理もどうもあやしい。

前にも述べたように、狩猟採集民は小集団で暮らしているが、それは母親の出産間隔が長く、生まれた子供が乳幼児期に死亡する率も高いからだ。とはいえ、近年の狩猟採集民は必ずしも一般に想像されているような不潔で野蛮な生活をしてはおらず、短命でもない。幼児期を無事に生き延びられた狩猟採集民は、概して長生きする。最も一般的な死亡年齢は六八歳から七二歳のあいだで、ほとんどの人は孫を持ち、なかには曾孫まで持つ人もある。大半の人の死亡原因は、胃腸か呼吸器への感染症、マラリアや結核などの病気、さもなければ暴力や事故である。また、いくつかの健康調査から、先進国の高齢者の死亡や障害の原因となっている非感染性の病気のほとんどは、狩猟採集民の中高齢者にはまったく見られないか、見られたとしてもかなり珍しいことがわかっている。もちろん調査の数が限られているとはいえ、とりあえず報告されているかぎり、狩猟採集民のなかで2型糖尿病や、冠状動脈性心疾患、高血圧、骨粗鬆症、乳がん、喘息、肝疾患を患っている人は皆無に近い。さらに言えば、痛風、近視、虫歯、難聴、扁平足といった、ありふれた軽い疾患に悩まされている人もほとんどいないように思われる。むろん、狩猟採集民が完璧に健康な状態で一生を送れるというわけではなく、とくにタバコと酒がますます普及してきてからは、健康への悪影響も大きいだろう。しかし、それでも今日の多くのアメリカ人高齢者に比べれば、なんら医療的ケアを受けていないにもかかわらず、彼らのほうが健康であるように見受けられるのだ。

 これはちょっと眉唾なんだよなあ。仮にこれが事実だったとしても、大事なのは〝生まれた子供が乳幼児期に死亡する率も高い〟のとこなんだよな。長生きした人は健康だったとしても、大半が乳幼児期に死んでしまうんじゃあなあ。




 人類が二足歩行をはじめた理由について。

 二足歩行は、四足歩行よりも遅い。短距離走をすれば、人間はほとんどの大型哺乳類に負ける。

 だが二足歩行はトップスピードこそ遅いが、移動時のエネルギーを節約できるというメリットがある。長距離を走るのには適している。

 しかもヒトは汗をかける。二足歩行によって直射日光にさらされる表面積が少なく、体温上昇が抑えられるという利点もある。

 そのため、ヒトは全動物の中でもトップクラスに長距離走が得意なんだそうだ。


 そういやイギリスには「Man v Horse Marathon」というマラソン大会があるらしい。これは、人間のランナーと、人を乗せた馬が同時に約35kmを走る大会だ。この大会、ほとんどの場合は馬が勝つが、人間が勝ったことも過去に三度あるのだそうだ。短距離走で人が馬に勝つことは不可能だから、いかに人間が長距離走に向いているかがわかる。まあ「Man v Horse Marathon」で馬のほうは人間を乗せて走るからハンデを背負っているわけだが……。

 銃がない時代の狩猟ってどんなのだったか。ぼくのイメージは、原始人たちが石オノを持ってわーっとマンモスを追いかけているイメージだ(たぶん、昔やってた日清のカップヌードルのCMの影響)。


 でも、じっさいはそんなのではなかったらしい。ヒトは遅いから、たいていの獲物に短距離走で追いつくことができない。

 原始時代の狩りは、シマウマやヌーを何十キロも追いかけつづけ、相手がばてて倒れこんだところを狩る「持久狩猟」だったらしい。

 追われる側からするとなんともいやらしい相手だ。




 ヒトと他の動物との最大の違いといえば大きな脳だが、じつはもうひとつ、「短い腸」という特徴もあるのだそうだ。

 人間の奇妙な特徴の一つは、脳と消化管(空のとき)がどちらも重量一キログラムあまりで、同じような大きさをしているということだ。人間と同じくらいの体重の哺乳類の大半は、脳の大きさが人間の約五分の一で、腸の長さが人間の二倍ある。言い換えれば、人間は相対的に小さな腸と、大きな脳を持っていることになる。これに関する画期的な研究を行なったレズリー・アイエロとピーター・ホイーラーは、この人間独特の脳と腸の大きさの比率が、最初の狩猟採集民の登場とともに始まった一大エネルギー転換の結果だと提唱した。つまり初期ホモ属は本質的に、食事を良質なものに切り替えることによって大きな腸を大きな脳と交換したというわけだ。この論理によると、食事に肉を取り入れ、食料加工への依存度を高めることで、初期ホモ属は食べたものの消化に費やすエネルギーを大幅に節約できたので、余ったエネルギーを大きな脳の成長と維持にまわすことができた。

 腸が短いということは、消化能力が低いということ。だからヒトは、草食動物と同じものを食べて生きてゆくことはできない。

 脳と腸の、重さあたりの必要エネルギーはほぼ同じぐらい。だから大きな脳と長い腸の両方を維持することはできない。ヒトは、長い腸を捨て、その代わりに大きな脳を手に入れたわけだ。


 我々はほとんどの食材をそのまま食べることはできない。その代わり、大きな脳を使って食物を解体、加工、調理することができる。食べやすく、消化しやすくするために。

 こうして我々の脳は大きくなり、それと反比例して、歯は小さくなり、腸も短くなった。今さら過去の食生活には戻れない。調理をしないと生きていけない身体になってしまったのだ。




 ヒトが進化によって手に入れたものに「複雑なメッセージを伝えることのできる声」もある。だが、声にはいいことばかりではないようだ。

 だが、落とし穴もある。人間特有の声道の配置には、かなり大きな代償もともなうのだ。(中略)しかし人間の場合は、ほかのどの哺乳類とも違って、喉頭蓋が数センチほど低い位置にあるために軟口蓋と接触していない。首のなかで喉頭の位置を下げたことにより、人間は管の内部の管を失ったので、舌の奥に大きな共有スペースが発達し、食物と空気の両方がそこを通って食道か気道のどちらかに入ることになった。結果として、ときどき食物が喉の裏側に入って、空気の通り道をふさいでしまうことになる。人間は、大きすぎるものを飲み込んだり、うっかり飲み込み方を間違えたりしたときに、窒息を起こす危険のある唯一の種なのだ。全米安全性評議会によれば、食物の誤嚥による窒息は、アメリカの事故死因の第四位であり、自動車事故による死亡数の約一〇分の一を占めている。私たちは、より明確にしゃべれるになるのと引き換えに、大きな代償を支払っているのである。

 食べ物をのどに詰まらせるのはヒトだけなんだそうだ。声を出しやすくしたことで、食べ物がのどに詰まりやすくなった。餅をのどに詰まらせて死ぬのは、しゃべれるからなのだ。


 進化ってなかなかうまくはいかないもんだねえ。たいてい、何かを手に入れるためには何かを失うことになる。

 二足歩行をすれば長距離走が得意になったり両手が自由に使えるというメリットがあるが、短距離走は遅くなるし腰痛も引き起こす。

 脳を大きくすればエネルギー不足に陥るため、腸や歯を小さくしなくてはならない。

 しゃべれるようなのどの構造にすれば、食べ物がのどに詰まりやすくなる。常に代償がつきまとう。




 我々が食べているものの多くは、農業によって収穫されたものである。これは現代人にとってはあたりまえだが、人類の歴史から見ればあたりまえではない。農業をしていなかった時代のほうが圧倒的に長い。

 したがって、農産物に頼った食生活をしていると、様々な身体上の問題を引き起こす。

 我々は「野菜は身体にいい」とおもいこんでいるが、そもそも農産物は我々の身体にとって最適ではないのだ。

 農産物に頼っていると、栄養の多様性が失われる、飢饉に弱い、デンプンの摂りすぎによる虫歯、糖尿病などの問題が起こる。

 埋伏智歯(親知らず)も、農産物を食べるようになってから起こった問題らしい。

 狩猟採集民は、親知らずはふつうに生えていたそうだ(だから親知らずじゃない)。やわらかいものを食べるようになったことで咀嚼の回数が減り、あごが細くなったために生えられなくなったのだ。

 親知らずがあることこそが、我々の身体が暮らしに適応できていない証拠だ。




 身体の進化が環境の変化に追いつかない〝進化的ミスマッチ〟は、どんどん大きくなっている。

一方では、市場制度がさまざまなかたちの進歩を後押しして、先進国では多くの人が祖父母の世代よりも長生きできて、しかも健康的に生きられるようになった。しかし一方、資本主義は人間の身体にとって、決して良いこと尽くめではなかった。製造業者も販売業者も、人々の衝動と無知を食い物にするからだ。たとえば「脂肪ゼロ」と虚偽的広告を打った食品は、人々の購買意欲を大いにそそるが、実際それは糖類がたっぷり詰まった高カロリー食品で、消費者をいっそう太らせる結果になったりする。逆説的だが、いまや自分で努力してお金をかけないと、カロリーの少ない食品を摂取できないぐらいなのである。

 ここ数千年、わずかな例外をのぞいて人類は(平均的に見れば)自分の親世代より長生きしてきた。

 だが、もしかするとそろそろそんな時代は終わるのかもしれない。特に先進国においては。我々は、平均寿命が延びる時期から短くなる時期への転換期に生きているのかもしれない。


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2022年11月30日水曜日

【コント】麺のかたさ

「麺の硬さ、かため、ふつう、やわらかめと選べますけど」

「かためで」

「あと接客態度もかため、ふつう、やわらかめの中から選べますけど

「なにそれ。そんなのあんの。じゃあおもしろそうだから、かためで」

「本日は数ある飲食店の中から当店をご選択いただき誠にありがとうございます。お客様の一生の思い出になるべく、従業員一同……」

「かたいな! ラーメン屋とはおもえないかたさだ。やっぱりやわらかめにして」

「ちょっと山ちゃん、ずいぶんごぶさたじゃなーい。きれいな女の子がいる他のお店に浮気してたんじゃないのー?」

「うわ、いきつけのスナックの距離感! こういうの苦手だわ、やっぱりふつうで」

「うちの店は黙ってラーメンを食う店だ。おしゃべりは禁止、撮影も禁止、スマホは電源食ってくれ。おれのやりかたが気に入らないやつは今すぐ出てってくれ」

「それがふつうなのかよ。こんなのいやだ、やっぱりかために戻して!」

「……」

「すみませーん!」

「……」

「おーい! 聞こえてるでしょー!!」

「……」

「普通じゃなくて不通じゃないか!」



2022年11月29日火曜日

【読書感想文】特掃隊長『特殊清掃 死体と向き合った男の20年の記録』 / 自宅で死にたくなくなる本

特殊清掃

死体と向き合った男の20年の記録

特掃隊長

内容(e-honより)
人気ブログ『特殊清掃「戦う男たち」』から生まれた書籍が携書となって登場!「特殊清掃」とは、遺体痕処理から不用品撤去・遺品処理・ゴミ部屋清掃・消臭・消毒・害虫駆除まで行う作業のこと。通常の清掃業者では対応できない業務をメインに活動する著者が、孤立死や自殺が増え続けるこの時代にあって、その凄惨な現場の後始末をするなかで見た「死」と、その向こう側に見えてくる「生」のさまざまな形。


「特殊清掃」とは、主に孤独死した遺体が見つかった現場で清掃をする仕事のこと。その特殊清掃(特掃)に従事している著者のブログ記事をまとめたもの。

 ぼくが実際に見たことのある遺体は祖父母のものだけ。病院で息を引き取り、ちゃんと死化粧してもらっていたので、まるで人形のようなきれいな遺体だった。

 だが実際の死はそんなきれいなものばかりではない。孤独死して誰にも気づかれないと、遺体は腐る。聞くところによると、とんでもない悪臭が発生するという。おまけに遺体は腐敗し、虫が集まってくる。とんでもなく凄惨な現場になるだろうというのは想像がつく。

 ……とはおもっていたのだが、想像を超えてくる内容だった。

 腐呂の特掃には一定の手法がある。
 汗と涙と試行錯誤の末に導き出された、私なりのやり方があるのだ。だから、いまは、特掃をはじめたころの悪戦苦闘ぶりと比べればずいぶんとスマートにできるようになった。そうはいっても、その過酷さは特掃のなかでもハイレベル。
 手や腕はもちろん、身体はハンパじゃなく汚れるし、作業中に気持ちがくじけそうになることも何度となくある。そして、悪臭なんかは、身体のなかに染み込んでいるんじゃないかと思うくらいに付着する。心を苦悩まみれにし、身体を汚物まみれにしてこその汚腐呂特掃なのだ。

「ん? なんだ?」
 作業も終盤になり、浴槽内のドロドロもだいぶ少なくなってきたころ、底の方に銀色に光るものが見えてきた。
「は? 歯?」
 指で摘み上げてみると、それは白く細長い人間の歯だった。
 それには銀色の治療痕があり、故人が、間違いなく生きた人間であったことをリアルに伝えてきた。

「うあ! こんなにある」
 よく見ると、銀色の歯は浴槽の底に散在。手で探してみると、次から次へと出てきた。その数は、遺体の腐敗がかなり進んでいたことを物語っていた。

 おおお。

 浴槽の底に歯が溜まるということは、身体はどれだけ溶けているのか……。ほとんどゼリー状になっているということだろう。人体がゼリー状に溶けた風呂の水……。どれほどの悪臭を放つのか想像すらできない。

 家の中での死は風呂場での死が多いという。転倒事故や、血圧の変化によるショック死のせいで。ひとり暮らしで浴槽で死に、そのまま長期間気づかれないと、こんなことになってしまうのか……。風呂に入るのがおそろしくなるな。




 よく「自宅の布団の上で死にたい」という言葉を耳にする。

 しかし、特殊清掃の仕事について知れば、そうも言っていられなくなる。

「死ぬことは怖くないけれど、長患いして苦しむのはイヤだね」
「そうですね……」
 望み通り、長思いもせず住み慣れた我が家でポックリ逝くことは、本人にとってはいいかもしれない。しかし、場合によっては残された人が長患いしてしまう可能性がある。
「〝部屋でポックリ死にたい〟なんて、気持ちはわかるけどお勧めはできないよなぁ……」
 内心、私はそう思った。

 男性の頭には、死んだ人の身体がどうなっていくかなんて、まったくないみたいだった。そして、男性同様、一般の人も、自分が死んだ後に残る身体については、あまり深くは考えないのかもしれない。せいぜい、〝最期はなにを着せてもらおうかな?〟などと考えるくらい。あとは、〝遺骨はどうしようか〟などと思うくらいか。やはり、自分の身体が腐っていく状況を想定している人は少ないだろう。だから、自宅でポックリ逝くことを安易に(?)望むのかもしれない。その志向自体が悪いわけではないが、残念ながら、現実はそう簡単でなかったりするのだ。

 家族と同居していて、死んでもすぐに発見してもらえるのであれば、自宅で死ぬのあ幸せかもしれない。しかし、孤独死して、誰にも気づかれず、腐り、ウジが湧き、悪臭を放つことを考えれば、とても自宅での死がいいとは言えない。いくら死んだら意識はないとはいえ、やっぱり死んだ後に己の身体が腐るのは嫌だ。掃除をする人にも申し訳ないし。




 ぼくはわりと死に対してはドライなところがあって、死ぬこと自体はそんなに怖くない。特に子どもが生まれてからは「もう生物としての役目は果たしたのでいつ死んでもあきらめはつくかな」という心境になった。生命保険にも入ってるし。

 仮に余命一ヶ月を宣告されても、それなりに落ち着いて死ねるんじゃないか、とおもっている。まあ実際そうなったらめちゃくちゃうろたえるのかもしれないけど。

 その代わり、子どもの死が怖くなった。考えたくないけど、ついつい考えてしまう。特に娘が赤ちゃんの頃は毎日びくびくしていた。落っことしただけで死んでしまいそうな、あまりにかよわい生き物と暮らすのはなかなかおそろしい。自分の余命一ヶ月は「そんなものか」と受け入れられるかもしれないが、子どもの余命一ヶ月はとても平静ではいられないだろう。

 自分の子だけでなく、よその子、さらには見ず知らずの子ですら死はつらい。子どもが自己や事件で死ぬニュースを見ると、気持ちが落ち着かない。たぶんぼくだけではないのだろう、特に子どもの死に関するニュースは人々の反応も過剰になっている。


 何か特別なことがない限り、納棺式には遺族が立ち会うことがほとんど。なのに、この男児の家族は誰も来なかった。
 それでも私は「冷たい家族だ」なんて思わなかった。
 亡くなった子どもに対して愛情がないから来ないのではないことを、痛いほど感じたからだ。
 遺体のかたわらに置かれた山ほどのオモチャやお菓子が、両親の想いを代弁しているようでもあった。

 具体的な事情を知る由もない私は、黙々と仕事をするしかなかった。
 両親がこの場に来ることができない理由を考えると切なかった。

 両親は、我が子の死が受け入れ難く、とても遺体を見ることができなかったのかも……。
 温かみをもって動いていた息子が、死を境に冷たく硬直していったことを、頭が理解しても心が理解しなかったのかも……。
 我が子を手厚く葬ってやりたい気持ちと、その死を認めざるを得ない恐怖とを戦わせていたのかもしれなかった。
 他人の私には、胸を引き裂かれたに値する両親の喪失感を計り知ることはできなかったが、単なる同情を越えた胸の痛みを覚えた。

「他人の不幸を蜜の味とし、他人の幸せを妬ましく思う」
 私という汚物は、そんな心の影を持っている。
「他人の不幸を真に気の毒に思わず、他人の幸せを真に喜ばず」
 それが、私の本性なのだ。

 しかし、他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとするような人間に憧れもある。ほんの少しでいい、死ぬまでにはそんな人間になってみたいと思う。

 もし自分だったら。冷たくなった我が子に向き合えるだろうか。遺体を目の前にして死を受けいれられるだろうか。

 自分の死は「受けいれられるだろうな」とおもうぼくでも、イエスと答える自信はない。




 清掃作業についてそこまで克明に描写しているわけではないが、とんでもなくハードな仕事だということは容易に想像がつく。給料がいくらかは知らないが「いくらもらってもやりたくない」という人が大多数だろう。

 そんな中、著者はさすがプロだけあって、できるだけ感情を抑えながら特殊清掃という仕事に取り組んでいる様子がこの本からうかがえる。

 そんな著者が、めずらしく取り乱した状況。

 何枚かあった写真を一枚一枚顔に近づけて、何度も何度も見直した。
なんと、写真に写っていた人物は、私が見知った人だった!

 いきなり、心臓がバクバクしはじめて、「まさか! 人違いだろ!?」「人違いであってくれ!」と思いながら夢中で名前を確認できるものを探した。
 氏名はすぐに判明し、力が抜けた。残念ながら、やはり故人はその人だった。
 心臓の鼓動は不規則になり、呼吸するのも苦しく感じるくらいに気が動転した!

 故人とは、二人で遊ぶほどの親しい間柄ではなかったが、あることを通じて知り合い、複数の人を交えて何度か飲食したり話をする機会があった。見積り時は、縁が切れてからすでに何年も経っていたが、関わりがあった当時のことが昨日のことにように甦ってきた。

 彼は当時、かなり羽振りがよさそうにしていて、高級外車に乗っていた。
 高級住宅街に住んでいることも自慢していた。
 自慢話が多い人で、自分の能力にも生き様にも自信満々。
 かなりの年齢差があったので軽く扱われるのは仕方がなかったけれど、正直言うとあま好きなタイプの人物ではなかった。
 しかし、「(経済的・社会的に)自分もいつかはこういう風になりたいもんだなぁ」と羨ましくも思っていた。

 その人が、首を吊って自殺した。  そして、目の前にはその人の腐乱痕が広がり、ウジは這い回りハエは飛び交っている。
 自分がいままで持っていた価値観の一つが崩れた瞬間でもあった。
 しかも、よりによってその後始末に自分が来ているなんて……。気分的にはとっとと逃げ出して、この現実を忘れたかった。
 身体に力が入らないまま、とりあえず見積り作業を済ませて、そそくさと現場を離れた。
 そのときの私は、「この仕事は、やりたくない……」と思っていた。

 数々の凄惨な遺体を見てきたプロでも、やはり生前の姿を知っている人の遺体はまた別のようだ。好きじゃない人であっても。

 聞くところによれば、外科医は決して自分の身内の手術は担当しないという。百戦錬磨の名医でも、身内に対しては冷静でいられないそうだ。


 遺体ってなんだろうね。

 心は脳にあって、身体は代えの利く物体。理屈としてはそうでも、やはり人間は知人の身体を「物体」とはおもえないらしい。たとえとっくに死んでいても。

 ニュースで、戦死した人、震災で行方不明になった人、拉致被害者などの「遺骨を見つけて遺族が喜ぶ」という報道を見る。もちろん生きているほうがいいから喜ぶというのは適切な表現ではないかもしれないけど、残された身内の心境としては「生きている > 死んでいて遺骨が見つかる > 死んでいて遺骨も見つからない」なのだろう。

 ここでも、遺体はただの物体ではない。


 星新一の短篇に『死体ばんざい』という作品がある。それぞれの事情で死体を欲する人たちが、一体の死体の争奪戦をくりひろげるというブラックユーモアに満ちた小説だ。あの小説を読んで楽しめるのは、それが「誰なのかわからない」死体だからだ(最後には明らかになるが)。キャラクターのある死体であれば、嫌悪感のほうが強くてとても楽しめないだろう。

 人間にとって「知っている人の死体」と「知らない人の死体」はまったく別物のようだ。


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2022年11月28日月曜日

【読書感想文】鈴木 仁志『司法占領』 / 弁護士業界の裏話

司法占領

鈴木 仁志

内容(e-honより)
二〇二〇年代の日本。経済制圧に続き司法の世界も容赦なく、アメリカン・スタンダード一色に塗りつぶされてしまった。利益追求型の米資本法律事務所には正義は不要。司法の“主権”さえも失った日本は、もう日本ではなくなっていた。実力現役弁護士が、迫り来る司法の危機を生々しく描いたリーガルサスペンス。

 弁護士である著者が、弁護士業界を舞台に書いた小説。小説の舞台は2020年だが、刊行された当時は「近未来小説」として書かれたわけだ。今では過去になってしまったけど。


 はっきり言ってしまうと、小説としてはうまくない。文章も、構成も、人物造形も、これといって目を惹くものはない。特に第一章『ロースクール』に関しては丸々なくても成立していて(おまけにこの章の主人公である教授はその後ほとんど登場しない)、蛇足といってもいい。

 書かれていることも、ロースクール生の退廃、外資ローファームの日本での暗躍、社内での悪質なパワハラやセクハラ、弁護士の就職難、仕事に困った弁護士が悪事に手を染める様など、あれこれ書きすぎて散漫な印象を受ける。終わってみれば平凡な完全懲悪ものだったし。


 とはいえ、小説としてのうまさははなから期待していないのでそんなことはどうでもいい。こっちが読みたいのは業界暴露話なのだから。

「弁護士業界の裏側をのぞき見したい」という下世話な期待には、ちゃんと応えてくれる小説だった。

(できることなら小説じゃなくてノンフィクションとして書いてくれたほうがおもしろく読めたんだけど、フィクションを織り交ぜないと書きにくいこともあったんだろうね)




 2000年頃、日本の弁護士の数は大きく増えた。ロースクール(法科大学院)ができたのがちょうどぼくが大学生の頃で、周りにもロースクールを目指す知人がいた。これからは弁護士になりやすくなるぜ、と意気揚々としていたが、彼がその後弁護士になれたのかは知らない。ただ、弁護士の数が増えるということは一人あたりの案件は減るわけで、そう楽な道ではなかっただろう。とりわけ若手弁護士にとっては。

「一九九〇年代まで年間五百人程度だった司法試験の合格者が、二〇一〇年には三千人になってる」
「随分とまた極端ですよね」
「そうだろう。一体誰がこんな急激な増員を推し進めたと思う?」
「……」
「裏を返せば、誰がこの大増員で一番得をしたか」
「誰が一番得をしたか……。教科書的には、市民のアクセス確保のための増員ということになってますよね」
「そう。しかしね、二〇〇〇年当時、一般市民の間で『弁護士を増やしてくれ』なんていう世論が湧き上がったことは一度もなかったんだよ。選挙の争点になったこともなければ、草の根運動が起こったこともない。たまにマスコミが煽ってもほとんど反応はなかった。一般市民はね、裁判や弁護士なんて一生関わらないと思ってる人がほとんどだったんで、本当のところ、そんなに大きな関心を寄せてはいなかったんだな」

(中略)

「企業側としては、弁護士を増やすことより、社員法務スタッフを増やして、身内に『予防法務』や『リーガル・リスク・マネジメント』を行わせることこそが重要と考えていた。弁護士が巷に溢れて事件屋まがいの行動を起こすことは、逆にリーガル・リスクの典型として警戒してたんだな。要するに、経済界全体としては、弁護士の大量生産なんか積極的に望んではいなかったというわけだ」
「……」
「市民でもなく、経済界でもない。裁判所も法務省も、若手獲得のための漸次増員は主張していたが、極端な大増員には慎重論。弁護士会も一九九〇年代中頃までは大反対。それじゃ、弁護士の大量生産を強力に推し進めたのは一体誰なんだ?」
「……」
「一九九〇年代、司法の規制緩和を執拗にわが国に要求していたのは、アメリカだ。そして、弁護士大増員論が一気に本格化したのは一九九九年。その直前の一九九八年十月に、アメリカ政府は、『対日規制撤廃要求』のひとつとして、日本政府に『弁護士増員要求』をはっきりと突きつけてきている。これが偶然に見えるか?」

 ほとんどの人は、弁護士が増えることなど望んでいなかった。大半の市民にとっては弁護士のお世話になることなんて一生に一度あるかないかだったし、それは今でも変わっていない。

 調べてみたところ民事裁判の数は増えているどころか、20年前の半分以下に減っているそうだ。裁判だけが弁護士の仕事ではないとはいえ、裁判が減っていれば仕事の量も減っているのではないだろうか。

 仕事は減っている、けれど弁護士の数は大きく増えている。どうなるか。価格競争が起き、食いっぱぐれる弁護士が増え、中には良くない仕事に手を染める弁護士も出てくる。


「はあ」
「あのね、東京には弁護士なんか掃いて捨てるほどいますからね。仕事にありつくためには、事件を追っかけるか作るかしかないんですよ」
「作る?」
「そう」
「作るって、どうやって……」
「不安を煽ったり、喧嘩をけしかけたり、まあいろいろとね」
「あの、弁護士業って、争いを解決する仕事じゃないんですか?」
「そういう古い発想は早く捨てたほうがいいですよ。じゃないと、いつまで経っても勝ち組には入れないよ」
「勝ち組……」
「争いの芽を掘り起こして、丸く収まりかかっている案件をなんとか紛争にまで高めていくと。そうでもしなきゃ、とてもじゃないけど、安定した収入は得られないですよ」
「……」
「こんなこと、アメリカじゃ何十年も前から常識なんだけどね。日本はまだまだ遅れてるから……」

 ここまで露骨ではないけど、(最近は減ったが)少し前は電車内の広告が弁護士だらけだったことを考えると、これに近い状況は現実に起こっているんだろうな、とおもう。

 過払い金請求とか残業代請求とか、実際に弱者救済になっている部分もあるんだろうけど、とはいえあそこまで派手に広告出したりCM打ったりしているのを見ると、それだけじゃないんだろうなともおもう。


 つくづく、「困ったときに助けてくれる仕事」って需要以上に増やしちゃいけないんだろうなとおもう。医師も不足してるって言ってるけど、医師国家試験合格者の数を急に増やしたら、医療のほうもこんな感じになっちゃうんだろうな。

 病気でもなくて特に医療の必要性を感じていない人のところに「あなたこのままじゃ危ないですよ。この医療を受けたほうがいいですよ」って医者が言いに来る世の中。おお、ぞっとするぜ。


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