2022年10月14日金曜日

【読書感想文】爪切男『クラスメイトの女子、全員好きでした』 / さすがにこれはエッセイじゃないだろう

クラスメイトの女子、全員好きでした

爪切男

内容(Amazonより)
小学校から高校までいつもクラスメイトの女子に恋をしていた。
主演・賀来賢人、ヒロイン山本舞香でドラマ化もされたデビュー作「死にたい夜にかぎって」の前日譚ともいえる、全20篇のセンチメンタル・スクールエッセイ。きっと誰もが“心の卒業アルバム”を開きたくなる、せつなくておもしろくてやさしくて泣ける作品。


 爪切男さん(こういう名前)が学生時代に好きだった女の子たちとの思い出を書いたエッセイ集。

 エッセイというか、かなり創作が混ざっている感じがあるけど……。




 好きだった女の子といっても、登場するのはクラスのアイドル的な美少女ばかりではなく、なにかしら問題を抱えた女の子ばかりだ。

 よく吐く女子、男子の金玉を攻撃する女子、水飲み場の蛇口に直接口をつけて飲む女子、ひげの濃い女子、家が貧しくて泥棒をする女子、まったくしゃべらない女子……。

 人気者ではなく、他の子から避けられたり嫌われたりしてる子に爪切男は愛を込めた目を向ける。歪んだ性癖だ。

 いや、違う。白状しよう。実は、私は嬉しかった。勉強もスポーツもできて、おまけに美しい林さんが、下品な水の飲み方をするのが本当に嬉しかった。ひねくれ者なだけかもしれないが、私は人のダメなところ、欠落した部分が可愛くてたまらないのだ。林さんの恥ずかしいクセをずっと見ていたかったが、このまま岩崎君に彼女が汚され続けるのは、もう我慢ならない。


 しかしこの気持ちはちょっとわかる。ぼくも小学生時代はいちばんかわいい子が好きだったけど、中学生からはクラスの人気者じゃなくてちょっと陰のある子を好きになった。あんまり男子としゃべらない女の子と言葉を交わした後に、ささいなしぐさが気になって、「この子の魅力に気付いているのは自分だけかもしれん」とおもうとどんどん気になってしまう。

 ただのあこがれから、「自分のものにしたい」欲が強くなってくるからかな。中学生ぐらいになってから異性の好みは多様化していくよね。

 爪切男さんは小学生で「目立たない子の、自分だけが気付いている魅力を発見する」歓びを覚えているのだから相当マセているなあ。




 書かれているエピソードはどれもおもしろいんだけど、エッセイとして発表されている以上、あまりにおもしろいと眉に唾をつけてしまう。

 そんなにたくさん、クラスの女子とのおもしろいエピソードがあるわけないだろ、という気になってしまう。

 窃盗癖のある〝ナッちゃん〟とのエピソード。

「ヒロ君、ごめん。私、泥棒してるんだ」
「……そうか。いいよ。何を盗ったんだよ。金か? 本か?」
「言うのが恥ずかしいんだけど……」
「怒らないから言って」
「うん、私……」
「……」
「友達のシルバニアファミリーを……遊びに行くたびにひとりずつ盗んでるの」
「え? シル?」
「友達は動物が住む大きな家まで持っててさ、羨ましくて……。みんな私に自慢ばっかりしてくるから、家族をひとり誘拐してやったの」
「えーと、誘拐」
「ちょっとしたら返そうって思ってたんだよ。本当に! でもいざ返そうと思ったら情がわいてさ。この子は私の子供だって」
「……」
 二〇一七年十一月。東京で暮らす私のもとに、地元から結婚式の招待状が届いた。差出人はナッちゃんだった。四十の大台に乗る前に、ようやく独り身を卒業するらしい。出欠を確認するハガキを取り出し、欠席に大きく丸を付けた私は、余白の部分にメッセージを書く。
 ナッちゃん。結婚おめでとうございます。あの盗んだシルバニアファミリーなんですけど、結局もとの人に返さなかったでしょ。俺は何でも知ってます。
 ナッちゃん。シルバニアファミリーに負けない幸せな家族を作ってくださいね。

 おもしろいんだけどさ。でもこれはもう小説でしょ。




 作り話感が強すぎる本題の「クラスメイトの女子との思い出」よりも、個人的には家族のエピソードのほうがおもしろかったな。

 実は私も、小学校低学年の頃は幽霊をこの目で見ることができた。近所の墓地や裏庭に生い茂る竹林の中で、人型にぼんやりと光る物体やボロボロになった兵隊さんの姿をよく目撃したものだ。
 初めて幽霊を見たとき、恐怖で腰を抜かしそうになりながらも、なんとか家までたどり着いた私は、事の顛末を親父に報告した。すると「よし、今から幽霊退治に行くぞ!」と親父は私の手を引いて現場へと向かった。幽霊のいる場所に戻るのは怖かったが、親父が私の話を信じてくれたことが嬉しかったのをよく覚えている。
 兵隊さんの幽霊は先程と同じ場所からこちらをじっと凝視していた。私はその姿をハッキリと捉えることができるのだが、親父には何も見えていないようだった。
「父ちゃんを、幽霊の場所まで案内しろ」と言われた私は、スイカ割りを誘導するのと同じやり方で「父ちゃん、もっと右! あ、行き過ぎた! 左、あと少し左!」と必死でナビゲーションする。
 やがて親父と幽霊の顔が真正面から向き合うフェイス・トゥ・フェイスの状態になった。
「父ちゃん! 目の前にいる!」と私が叫ぶと同時に「オラァァ!」と獣のような咆哮を上げ、親父は兵隊の幽霊に頭突きをぶちかました。「かました」というよりも「すり抜けた」というのが正しい表現だ。次の瞬間、幽霊の姿はそこからたちまち消え去ってしまった。「父ちゃんすごいや! 幽霊を倒した!」と、私は心の底から親父を尊敬した。

 ま、こっちも創作っぽさはすごいんだけど。でも、変に「あまずっぱい恋の思い出」にしている女の子との思い出よりも、こっちのほうがばかばかしくて笑えた。


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2022年10月12日水曜日

【読書感想文】竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』 / なんか悔しいけどおもしろかったぜ

砕け散るところを見せてあげる

竹宮 ゆゆこ

内容(e-honより)
大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る…。小説の新たな煌めきを示す、記念碑的傑作。

 タイトルに惹かれて購入。なんだかアニメのノベライズみたいな文章だなとおもって読んでいたのだが、調べたらやっぱりライトノベル出身の作家だった。あー。今は新潮社もライトノベルのレーベルを持っているのかー。

 ライトノベルはほとんど読んだことがない。井上真偽の『探偵が早すぎる』を読んだときは「これがライトノベルなのだろうか?」とおもったけど。

 ということで新鮮な気持ちで読んだ。




 最初は「なるほど、これがライトノベルか」ぐらいのやや冷やかし気分で読んでいた。

 うん、さすがライトというだけあって小説入門にはいいね。会話主体の展開、口語表現、登場人物たちがおもっていることをほとんど口に出す(あるいは地の文で明記する)ところ。

 とにかくわかりやすい。〝行間を読む〟がほとんど要求されない。かなりローコンテクストな小説だ。

 難解なだけで何が言いたいのかさっぱりわからない独りよがりな小説よりずっと読みやすい。作者のサービス精神を感じる。

 個人的にはわかりやすすぎてちょっと退屈だったけど、これはこれでいいとおもう。


 はるか昔にこんな雰囲気の小説を読んだ気がする……と考えて、おもいだした。新井素子『グリーン・レクイエム』だ。1980年発表。ぼくが読んだのは2000年頃だった。高校の図書館で読み、装丁の美しさもあいまって手元に置いときたいとおもい、わざわざ書店で取り寄せて購入したほど好きだった本だ。

『グリーン・レクイエム』は異星人との恋を描いたSF小説だったが、あれも今の定義でいえばライトノベルになるのかもしれない(当時はそんな言葉はなかった)。


『砕け散るところを見せてあげる』も、ぼくが中高生だったならばすごく好きな小説になっていたかもしれない(ギャグは好きになれなかったが)。

 ……というのが読んでいる最中の感想だった。だが。



 おお。こ、これは。素直に認めたくないけど、なかなかおもしろいじゃないか。途中からはどんどんおもしろくなった。


【以下ネタバレ】


 ストーリー展開自体は、そこまで目新しいものはない。

 高校生の主人公がいじめに逢っている後輩の女の子を助ける、なんやかんやあってふたりの距離が縮まる、気持ち悪いとおもっていた女の子があか抜けて素敵に見えてくる、実は女の子は父親から虐待を受けていた、女の子を救い出すために主人公は行動を起こす……。

 よくある話、かどうかは知らないが、物語の世界ではいじめも虐待もよく見るテーマだ。現実ではどちらもなかなか快刀乱麻ようには解決しないけど、そこはフィクションなのでシンプルに解決する。かんたんではないけど、シンプルに。

 2000年代前半に浅野いにお氏がこういう漫画を描いていた。さわやかな絵柄なのに、いじめや虐待といったヘビーな出来事をまるでなんでもないかのように描く手法。当時は斬新だったが、後続作品がどんどん現れたことで今ではめずらしくもなんともない。

『砕け散るところを見せてあげる』はそれの小説版、といった感じ。やっぱり漫画っぽさはぬぐえない。



【以下もっとネタバレ】

 そんな感じで読んでいたら、あと数十ページを残して問題解決してしまった。あれ。まだけっこうページ残ってるけどどうするの?

 とおもっていたら、そこからは一気に時代を飛び越え、概念的な話が続く。なんだこれ。そして、叙述トリックが明らかになる。

 あー。なるほど、冒頭の「俺」は、中盤の「俺」の息子かー。死んだはずの父親が現れたところで変だとおもっていたんだよな。よく読めば、作中に出てくる小道具にもいろいろヒントがある。誰も携帯電話持ってないのは数十年前だからか。

 やー。よく考えてるな。ミステリとおもって読んでたら警戒してたけど、ライトな青春ストーリーだとおもって読んでたから油断してた。まんまと騙された。

 素直に認めるのはなんか悔しいけど、けっこうおもしろかったぜ。




 ところでこの本を、小学六年生(読書好き)の姪に「おっちゃんが読んだ本だけどよかったら」とプレゼントしたところ、一日で読んだらしく電話がかかってきて「おもしろかった!」というお声を頂戴した(やはりラストの展開はよくわからなかったらしいが)。

 うん、やっぱりティーン向けの本だったね。おっさんが読んでぶつぶつ言ってすみませんでした。

 

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2022年10月11日火曜日

キングオブコント2022の感想

 キングオブコント2022の感想。


 漫才に比べてコントは表現の幅が広くていろんなことができるし方向性も多様なので、点数をつけて並べることにあんまりなじまないとおもうんだよね。そもそもの話になってしまうけど。なので、点数や順位はあんまり意味がないというか、単なる審査員の好みでしかないとおもうのでそのへんにはふれない。


 いやあ、すごくおもしろかった。いい大会でした。2021年に審査員一新してからよくなったね。

 スタジオの客はアレだったけどね。去年も書いたけど。なんだねあの客は。客というか客に指示を出している人の問題なのかもしれないけど。出てきただけで笑う。フリの段階で笑う。くすぐり程度のボケで手を叩いて笑う。コントを観る客じゃなく、単なる盛り上げ役のエキストラ。そりゃあ番組なんだから多少おおげさに笑うほうがいいけど、ちょっと限度を超えていた。

 あと、去年もそうだったんだけど、出番順がよくできすぎじゃない? わかりやすく笑える初出場組からはじまって、徐々にリベンジ組や下馬評の高い本命が増えてくる。ほんとに抽選? 作為入ってない?




 以下、ネタの感想。


クロコップ

 あっちむいてホイデュエル。

 おもしろかったなあ。キングオブコントは15回すべて観てきたけど、トップバッターの中ではいちばん笑えた。

 ほんと、トップバッターとして最高の出来だったとおもう。ポップで、バカバカしくて、誰にでもわかる。遊戯王がわかればなおおもしろいんだろうけど、わからなくてもおもしろい。

 やってることはかなりベタなんだけど、あの衣装と曲のパワーで、わかっていても笑っちゃう。

 そしてすばらしかったのが縄ばしごだけでヘリコプターを表現したところ。あの小道具のチープさと、表現している絵のダイナミックさとのコントラストがまたいい。あの絵の構図って、誰も実際に見たことないのに誰もが知っているシーンだもんね。くだらなすぎて最高。

 まちがいなく今大会の殊勲賞。優勝者が歴代最高得点を記録したのはクロコップのおかげだ。


ネルソンズ

 映画『卒業』風に花嫁を奪いに来る元カレ。

 題材といい、展開といい、あまり新しいものがなかったな。三人の世界で完結せずに(見えない)出席者も巻きこんでいるあたりはよかったね。まあおもしろかったんだけどね。「二次会だぞ」の種明かしもすばらしかったし。

 ただ、このトリオのキーマンである和田まんじゅうがまるで傍観者のようなポジションになってしまったのは残念。もっと彼をおもしろく追い込むネタもあるだけに。個人的には、以前の決勝でやった野球部のネタのほうが好きだった。

 新婦が、成功者である元カレよりも新郎を選ぶ理由が「足が速いから」ってのがなあ。リアリティはないし、かといってボケとしては弱いし。

 展開的には、新郎が見捨てられないのが令和の笑いっぽいなと感じた。平成はまだ「ブ男はひどい目にあってもいい」とされていた(少なくともコントの世界では)時代だからね。

 あの新郎、新婦の友人百人が百人とも「ご主人、優しそうな人だね」と言うタイプだよね。


かが屋

 ドMの男と、それを落としたい先輩女性社員。

 なーんか、キングオブコントに照準を合わせたようなネタだなー。かが屋の持ち味はそこじゃないのに、とおもってしまう。

(彼らにしては)派手めな設定、性急かつ意外性のない展開、そして芝居ではなく説明台詞で状況や内面を口に出してしまう雑さ。あの電話はほんとに楽をしちゃってたなー。

 きちんと脚本と芝居で見せる実力を持ったコンビだけに、あの拙速な展開は残念だったな。せめて「ふたりがお互いの思惑に気づく」のをラストに持ってきていたらもうちょっと印象も違ったんじゃないかとおもうが。

 かが屋らしくても勝てないし、らしくないことをしても勝てない。このコンビにとっては、べつにキングオブコント優勝だけが生きる道じゃないとおもうぜ。


いぬ

 インストラクターと主婦の夢。

 ばかばかしい展開は嫌いじゃないけど、それは緻密な設定や細かいリアリティがあってこそ生きるもので、「夢」や「キス」といった安易な手段を使っちゃったらなあ。

 ところであの濃厚接触シーンは、2020年や2021年だったらテレビでさせてもらえなかったかもね。いや今年でもアウトかもしれんが。


ロングコートダディ

 料理頂上対決。

 コック帽が看板にあたって落ちる、というシンプルなくりかえしでありながら、細かい会話のやり取りや役柄にマッチしたふたりのキャラクターで飽きさせない。いやほんと、あのシェフを違和感なく演じられる人はそうはいないよ。あの風貌だからできるネタ。「ぜんぜん」の使い方もすばらしい。ばかみたいな感想だけど、センスがいいなあ。

 個人的にはすごく好きなコントだったけど、点数が伸びないのもわかる。腹抱えて笑うようなコントじゃないもんな。でも彼らの持ち味は十分に発揮できたとおもう。ロングコートダディも、かが屋と同じく「チャンピオンを目指さなくてもいいコンビ」だとおもう。まあこれは外野の勝手な意見で、当人たちは目指したいんだろうけど。

 ところでこのワンシチュエーションをひたすら突き詰めるコントは、ロッチが『試着室』のネタでかなり頂点に近いところを極めてしまったので、あれを大きく跳び越えるのはなかなかむずかしそうな気もする。

 ネタ以外のところでは兎さんの「金髪だから印象に残るんですよ」は今大会いちばんおもしろいコメントだった。松本人志審査委員長の実績や名声を一切破壊するようなひっでえ悪口だ。


や団

 死んだふりドッキリ。

 怖すぎた。個人的には嫌いじゃないけど。コントだとわかっていても「人が死体を遺棄しようとするシーン」は楽しく見ていられない。もはやサスペンスホラー。ツッコミ役が明るくポップであればまだよかったのかもしれないけど、彼の顔も怖いしな。顔の怖い人と、行動が怖い人と、何考えてるかわからなくて怖い人。三人とも怖かった。

 なんといっても秀逸なのは鼻歌まじりに加えタバコで死体処理をするシーン。貴志祐介『悪の教典』でサイコパスの主人公が三文オペラのモリタートを歌いながら生徒たちを次々に殺していくシーンをおもいだした。


コットン

 浮気証拠バスター。

 細部まで丁寧につくりあげられた構成、それを支える確かな演技力。見事なコントだ。が、見事すぎる点が一位になれなかった原因なのかなという気もする。設定が完璧すぎて遊びがないというか。隙がなさすぎて「ほんとにこんな仕事あるのでは」という気がしてきた。

 良くも悪くも頭いい人が考えたネタ、って感じがしたな。ぼくはラーメンズのコントが好きで、ラーメンズはもちろん、小林賢太郎単独作品やKKP(小林賢太郎プロデュースの劇団)の作品もよく観ていた。で、いろいろ観た結果、やっぱりいちばんおもしろいのはラーメンズだった。それは片桐仁がいるから。彼がいることで、コントに「バカ」が加わる。片桐仁の頭が悪いという意味ではなく、予測不能性というか、あぶなっかしさがプラスされるということだ。

 コットンのコントには、小林賢太郎単独作品のような「おもしろいしよくできているんだけど、でもなんか退屈」を感じた。よくできているからこそハラハラドキドキ感がない。

 ということで個人的にはなんかたりないなという印象だったんだけど、でも思い返してみるとやっぱり隅々までよくできていた。彼女からの電話とか、彼女が急に来るとか飽きさせない展開も用意していたし。なによりすごいのは、変な人が出てこないということだよね。ちゃんとした人がちゃんとした仕事をちゃんとこなしている。なのにおかしい。すごい脚本だ。


ビスケットブラザーズ

 野犬に襲われる

 で、そんなコットンに足りなかった「バカ」をふんだんにまぶしたのがビスケットブラザーズ。

 気持ち悪いのにかわいげのあるふたりが飛んだり跳ねたりしているだけで妙に愛おしい。不気味さや気持ち悪さを描いたコントはわりとよくあるが(今大会でいうとや団や最高の人間とか。過去にもかもめんたるやアキナもサスペンス感の高いコントをやっている)、ビスケットブラザーズが他と違うのは圧倒的な善性を持っているところだろう。気持ち悪いけど、悪意や攻撃性はまるで感じない。そしてそこがまた気持ち悪い。

 そう、純粋無垢な善ってなんか気持ち悪いんだよね。我々は生まれながらにして悪も持ってるから。圧倒的な善に対しては、無意識のうちに「そんなわけないだろ」と警戒してしまう。ビスケットブラザーズは一貫して善なるものの気持ち悪さを表現している。

 衣装で安易な笑いをとりにいっているかとおもいきや、展開やセリフなど入念に設定が作りこまれている。ぱっと見の印象ののせいで「見た目や動きで笑いをとろうとするコント」と判断してしまうのはもったいない。あのコントを「安易な笑い」と言う人こそ、上辺だけしか見ていない。ビスケットブラザーズの良さはそこじゃない。あの見た目がなくても十分おもしろい。

 好きだった台詞は「それどういう意味」。あのタイミングであの台詞。最後まで予定調和を許さない。最高。

 ベタな笑いからシュールな笑いまで幅広く詰めこまれていて、パワーだけでなくテクニックも備えている。全盛期の朝青龍を髣髴とさせた。


ニッポンの社長

 人類補完計画。

 一昨年の『ケンタウロス』、昨年の『バッティングセンター』ではたっぷり時間をかけた丁寧にネタふりをしてからナンセンスな笑いで吹き飛ばすという贅沢なコントを見せてくれたニッポンの社長だが、今大会はうってかわって短いフリとベタな笑いのくりかえし。

 あれ。どうしちゃったの。まるでショートコント。特に見どころを感じなかったな。


最高の人間

 テーマパーク。

 ピン芸人同士のユニットだが、それぞれの良さが出たネタ。とはいえ元々持ち味が似ているので、おいでやすこがのような「タイプの異なるこの二人が組んだらこんなにおもしろくなるのか!」というような驚きはなかったけど。

 間が詰まりすぎていたように感じた。特に前半。あそこはもっともっと時間をかけてたっぷり怖がらせてほしかったな。その部分の不気味さが大きいほど、中盤での「みんな逃げて」が生きただろうに。

 そしてせっかくの緊迫感のある展開だったのに、終盤の回想シーンのせいで緊張の糸が切れてしまった。あのサスペンス感を保ったまま最後までいってたら……、いやそれでも勝てなかったかな。怖すぎたもん。

「観客を新規スタッフに見立ててしゃべる」構図なのもよくなかったのかもね。当事者感が出すぎてしまって。あれがトリオで、や団のようにツッコミ役がいればだいぶ緩和されてたんだろうけど。




以下、最終決戦の感想。


や団

 気象予報士の雨宿り。

「気象予報士が予報をはずして雨宿り」ってせいぜい四コマ漫画の題材程度の発想だけど、そこからあれだけストーリーのあるコントに仕立てあげるのが見事。

 個人的には一本目の死んだふりドッキリよりもこっちのほうが好き。大男がびしょ濡れになってやけくそになっているだけでおかしいし、狂気は感じつつも「気象予報士への逆恨み」という行動原理がわかるからそこまで怖くない。だから笑える。気象予報士を恨むのはお門違いだけど。

 マスコットキャラクターの中の人だということが明らかになるタイミングもうまい。さすが15年決勝に進めなかっただけあって、いいネタをストックしてるなあ。


コットン

 お見合い。

 これまたぶっとんだ人が登場するわけでもなく、特別なことが起こるわけでもないのに、リアリティをギリギリ保ったままちゃんと笑えるコントに仕立てている。見事。

 上品な女性がタバコを吸いはじめてガラの悪い本性を表す……じゃないところがいいね。徹頭徹尾上品さを保っている。タバコを吸っている以外はまとも。いやべつにタバコを吸う人がまともじゃないわけじゃないけど。

 前半と後半でまるで別人になってしまうような(芝居として破綻している)コントも多いけど、コットンはキャラクターの一貫性を保っているのがうまい。笑わせるためなら何をやってもいいってもんじゃないからね。

 ただ、キャラクターが首尾一貫していただけに「お見合いでもじもじしていた二人が数分間でプロポーズして承諾する」という展開の性急さが目についてしまった。とってつけハートフル。〝エンゲージリング〟をやりたかったんだろうけど、あそこで「気持ちはありがたいですけどまだお互いのことを知らなさすぎるので……」ぐらいにしていたら、もっと上質な仕上がりになったのになあ。少なくともあの時点で、女性側が相手に惹かれる要素はほとんどないとおもうけどなあ。


ビスケットブラザーズ

 男ともだちを紹介。

「どんなに変でも女性ものの服を着て髪の長いカツラをかぶっていたら女性とみなす」というコントのお約束を逆手に取ったようなネタ。女装が似合わない体形だったことがまた良かった。『寄生獣』の絵がうまくなくて登場人物全員の表情がぎこちなかったせいで結果的に誰が寄生獣かわからないというおもわぬ副産物があったことを思いだす。

 女とおもっていた友だちが実は男、男と分かった後でも女に戻ったり男になったりする、二重人格かとおもいきや周到な計画だった、過去にこの作戦が成功したことがある……と次から次に驚きがしかけられていて退屈させない。

 メインの展開以外にも「プロ野球チップスの味」「君が完成させてみる?」といった細かいワードも光っていて、一分の隙もなく笑わせてやろうというパワーを感じた。

 個人的には一本目の野犬退治よりこっちの方が好き。クレイジーなんだけど、当人の中にはしっかりした論理があるのがいい。

 実はよく練られたネタなのに、まるでそれを感じさせないのがいい。




 ってことで、今回もいい大会でした。

 個人的にはクロコップとロングコートダディがもっと上位であってほしかったけど、それは好みの問題なので。

 大会主催者に文句をひとつだけ言うとすれば、準決勝の配信は決勝の後にもやってほしいということ。準決勝配信観ようかどうかかなり迷ったんだけど、観ちゃうと決勝を楽しめなくなるので諦めた。決勝の後だったら心おきなく楽しめるから、決勝後に配信してよ。


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2022年10月7日金曜日

三歳は特別

 三歳というのは、人間の一生において最も特別な時期だとおもう。もちろん他の年齢もそれぞれ特別ではあるが、三歳はやっぱり特別に特別だ。どういうことかというと、圧倒的に「おもしろい」のだ。


 まずしゃべれる。たぶん言語学習能力がいちばん高まるのがこの時期なのだろう。二歳児と三歳児では話せる言葉の量や質がまったくちがう。単語をつなぎあわせている程度だった二歳児が、たった一年でぺらぺらにしゃべれるようになる。もちろん語彙の数はまだまだ少ないが、文法的には完璧に近い日本語を操れるようになる。中一の一学期英語がたった一年で英検二級レベルにまで進化するぐらいの変化だ。

 それから身体能力もずいぶん発達する。三歳ぐらいからはこけることが格段に少なくなる。ジャンプしたり、急に止まったり、踊ったり、自転車(コマつき)をこいだり、大人と変わらない動作ができるようになる。

 その一方で、社会性はぜんぜん身についていない。つまり、恥ずかしいとか、ねたましいとか、気まずいとか、後ろめたいとか、ありがたいとか、申し訳ないとか、そういった〝第三者の視点を内的に持つことによって生まれる感情〟がぜんぜんない。客観性を持っていない。常に自分が中心だ。

 表現できる事柄はかなり大人に近づくのに対し、それを自省する感情がまるで育っていない。いってみれば「エンジンやアクセルは高性能なのにブレーキがほとんど利かない車」。とんでもない暴走車だ。

 暴走車。制御する側としてはたいへん厄介だ。だが同時におもしろくもある。そりゃそうだ。「何が起こるかわからないアトラクション」なのだから。


 じっさい、自分の子を見たり、他の親の話を聞いているとすごい話が出てくる。

  • 非常ボタンが気になったので押してから「これなに?」と尋ねた
  • タンスから飛び降りて骨折した
  • 蛍光塗料をなめてみたら口の中が光った。さらに激痛に襲われた
  • 一時間ぐらい怒りつづけている。怒っている理由は次々に変わるが、最初のきっかけは「ドアを自分で開けたかったから」
  • 砂を投げていることを注意されて「わかった」と言った三秒後に砂を投げる

 これらはほんの一例だが、三歳児はまったく自省が利かないことがよくわかる。

 当事者だったらたいへんだ。でも他人事ならばおもしろい。それが三歳児だ。

 認知症患者も同じようにブレーキが利かなくなるが、こっちはたいへんなだけで笑えない。三歳児のほうは「そのうち落ち着くはず」とおもえるからまだ笑える。もっとも子どもによっては落ち着くまでに二十年ぐらいかかったりもするのだが……。


 ところで、三歳児の「客観性のなさ」がよくわかるのが、かくれんぼをしたときだ。

 三歳ぐらいまでの子の隠れる場所は丸わかりだ。身体の一部が見えていたり、さっき隠れたところにもう一度隠れたり、すぐに顔を出してしまったりする。それで、本人はきちんと隠れている気になっている。

 ところが四歳ぐらいからちゃんと隠れられるようになる。鬼からは見えない位置、さっきとは違う場所に隠れられる。それは「他人から自分がどう見えるか」という視点を持つことができるからだろう。

 かくれんぼという遊びは発達の具合によって異なる楽しみ方ができる。古来から伝わっているだけあって、なかなかよくできている遊びだ。


2022年10月5日水曜日

【読書感想文】青木 貞茂『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』/成功事例のみ

キャラクター・パワー

ゆるキャラから国家ブランディングまで

青木 貞茂

内容(e-honより)
なぜ日本人は「ゆるさ」に惹かれるのか?LINEの「スタンプ」が人気を集めるのはなぜか?―キャラクター文化は、いまやアニメや漫画にとどまらず、日本社会全体に浸透している。その秘密はどこにあるのか?自身も「キャラクター依存」を告白する著者が、空前のブームから日本文化の深層に分け入り、キャラクターが持つ本質的な力を浮き彫りにする。


 ゆるキャラ、マスコットキャラクター、LINEスタンプなど〝キャラクター〟がなぜ日本で特に好まれ、広く使われるのかについて考察した本。

 

 たしかに身のまわりにはキャラクターが蔓延している。子ども向け商品だけでなく、企業も自治体も政党もキャラクターを使っている。

 他の国にもキャラクターはあるが、日本とアメリカではキャラクターの性質が少し違うようだ。

 ディズニー・キャラクターは、まるで人間のようにコミュニケーションをとることから、人間同士の絆のように共感性が高く、感情的かつ精神的な絆を持ちやすいのです。また、アメリカ人的であるがゆえに、ディズニーランドやディズニーの長編アニメは、世界中で非常に人気があり、かつ一方で嫌われてもいるのです。
 人々は、ディズニー・キャラクターとは、人間を相手にしたようなコミュニケーションをとり、サンリオ・キャラクターには、人間に隣接した別の親密な存在として感情移入をすると考えられます。それは、犬や猫、ウサギやモルモットといったペットとの関係に非常に近いといえます。

 なるほどね。たしかに日本のキャラクターには無表情なものが多い。サンリオキャラはだいたい無表情だし、リラックマ、すみっコぐらし、くまモン、しまじろうなど表情に乏しいキャラが多い。

 また日本生まれではないが日本で人気のミッフィー(ナインチェ・プラウス)はまったくの無表情だし、ムーミンもピーターラビットも表情はあまり変わらない。

 アメリカ生まれのディズニーキャラクター、トムとジェリー、スヌーピーなどが喜怒哀楽をむきだしにするのとは対照的だ。

 まあ日本でなじみがないだけで、アメリカにもゆるキャラみたいな表情に乏しいキャラがいるのかもしれないけど。

 日米の有名人形劇を見比べてみると、その差は明らかだ。

ひょっこりひょうたん島
(NHKアーカイブス より)

SESAMI STREET
(SESAMI STREET JAPAN より)

 人形劇なのにみんな笑顔(しかし人形劇の人形にこんなに表情があったら、怒りや悲しみの表現がしづらくないのだろうか?)。



 企業やブランドや自治体にキャラクターがいるのがあたりまえになっているから何ともおもわないけど、よくよく考えると公式キャラクターというのは奇妙なものだ。

 キャラクターがいようがいまいが製品の品質にはなんの関係もない。子ども向けのお菓子ならキャラクター目当てに買う人もいるだろうが、たとえばぴちょんくんがいるからといってダイキン工業のエアコンを選ぶような人はまずいないだろう。

 それでもキャラクターは多くの団体が採用しているし、我々もそれを当然のように認知している。

『キャラクター・パワー』によれば、キャラクターには以下のような力があるという。

①存在認知力 他者に存在を認められるプレゼンスを作る
②理解伝達力 メッセージや意味を理解してもらうスピードを高め、わかりやすくする
③感情力 好意や親しみやすさなど感情的な絆を作り、つなげる
④イメージ力 魅力的なイメージを創造する
⑤拡散力 人に伝えたくなるクチコミをおこさせる
⑥個性力 他のグループとの違いやある価値観を持った人々との同一性がすぐに認識できる
⑦人格力 まるで人間と同じ精神や魂があるかのような実在性を感じさせる

 たしかにね。

 熊本の魅力を言葉や文章で長々と説明されるより、くまモンが名産品を持って立っているほうがずっと伝わりやすいし、記憶にも残りやすい。

 ネット上の解説記事なんかでも、解説役Aのアイコンと聞き手役Bのアイコンがあって、会話形式で解説する……なんてのもよく見る。あれも、キャラクターがあることでむずかしい話が頭に入ってきやすくなる効果がある。


 キャラクターには人間型や無生物型などもあるけど、なんといってもいちばん多いのは動物型だ。

 このように、キャラクター思考においてよく用いられるのが、動物シンボルです。動物シンボルを使用することで、本来は生命を持たない無機物の商品に対して、思い入れを持たせることができます。
 一方で、人間は人間をモノとして扱うこともできます。ナチスによるホロコースト、ルワンダやボスニアでの虐殺などは、人間を非人格化したがために可能となった行為でしょう。このとき虐殺する側の人間は、虐殺される側の人間を動物や虫のメタファーで呼ぶことが多いとされています。虐殺の対象を蛇やネズミなどのマイナス・キャラクターと考えてしまえば、正当性を手に入れることができるというわけです。

 動物には特有のイメージがある。

 犬だったらかわいさだけでなく忠実な相棒といったイメージがあるし、ネコやペリカンが運送会社のキャラクターに採用されているのは「大事に運ぶ」イメージによるものだろう。

 動物キャラクターを付与することで、対象に特定のイメージを持たせることができる。上で挙げられているように、マイナスのイメージを与えることにも使える。




……といった話が続いて、一章『キャラクターに依存する日本人』あたりは楽しく読んでいたのだが、だんだん辟易してしまった。

 なんだか、論理が強引なんだよね。「〇〇というキャラクターが成功したのは××だからだ」「このキャラクターにはこんな心理学的効果がある」みたいな話がたくさん出てくるんだけど、定量的な裏付けはまるでない。

 結局ぜんぶ著者の推量なんだよね。「キャラクターには強いパワーがあるから活用すべき」という結論が先に決まっていて、その結論にもっていくためにいろんな理屈を並べ立てているという感じ。まったくもって、理屈と膏薬はどこへでもつくなあという感想。


 基本的に紹介されているのは成功事例だけだしね。たしかにキャラクターを使ってうまくいった例は多いけど、キャラクターを使ったけどうまくいかなかった事例はその数百倍あるわけじゃない。たとえばくまモンやひこにゃんは成功したけど、金をかけて作ったのにほとんど効果を生んでいない地方自治体のマスコットゆるキャラはごまんとある。

 そのへんに目をつぶって「キャラクター・パワーすごい!」ってのはちょいとずるいぜ。


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