2022年9月27日火曜日

まるで参考にならないであろうダイエット成功記

 1年間で7kg痩せたので、その記録。

 痩せたい痩せたいとおもっている人にはたぶんあんまり参考にならないとおもう。



■ 1年間で7kg太った

 2021年夏に受けた健康診断で、前年から比較して7kg増えていた。生涯で最高の体重である。

 もともとぼくは痩せ型で、食べてもさほど太らず、二十歳の頃から現在までの十数年間で3kgぐらいしか体重が増えていない。そんなぼくが1年間で7kgも太った。これは驚異的なことである。ついでにいうと、血液検査の結果も軒並み悪化していた。

 原因はいくつか考えられる。


1.コロナ禍で外出が減った

 デスクワークだが、それでもコロナ前は週に一、二度は他の会社に出向いていた。ところがコロナ禍で打ち合わせがほとんどリモートになった。客先訪問が週に一、二度から月に一、二度になった。


2.プール通いをやめた

 週に一度、長女のプール教室を待つ間、ぼくもプールで泳いでいた。だがコロナ対策として通うのをやめた。やはりマスクをしないのはちょっと怖いし、そもそもコロナ禍でプールに来る人というのはちょっとアレな人が多くて、プールサイドでゴホゴホと咳き込んだりしている人もいる。すっかり嫌になってしまった。


3.次女が離乳食を卒業した

 なんの関係があるのかとおもうかもしれないが、これが関係大アリなのである。

 次女が離乳食を卒業して大人とほぼ同じごはんを食べるようになった。子どもというやつは日によって食べる量がずいぶんちがう。もりもり食べることもあればほとんど箸をつけないこともある。大人であれば「今日は食欲ないから少なめでいいや」と事前にごはんの量を減らしたりもできるが、子どもはそういうことをしてくれない。あれもこれもちょっとずつ箸をつけるだけつけて、大半を残したりする。

 当然、ごはんが残ることが多い。まったく箸をつけていなければ翌日に置いといたりもできるが、ちょっとずつ箸をつけていたり、ひどいときはごはんに納豆を乗せたところで「もうおなかいっぱい」と言ったりする

 もったいない。しかたなくぼくが食べる。当然、太る。


■ 痩せることにした

 もともと痩せ型だったので7kg太ってもまだ標準体型よりはやや痩せている。とはいえさすがに1年間で7kgは太りすぎだ。このままだとデブになってしまう。血液検査の数値も悪化しているので、ぼくは痩せることにした

 ここで強調しておきたいのは、「痩せようとおもった」ではなく「痩せることにした」であることだ。

 まずぼくに言わせれば、ダイエットに失敗する人は「痩せるための努力」をしている。そんなもので痩せるわけがない。やるべきは「痩せる」である。「痩せるためにがんばる」と「痩せる」はまったく別物だ。

 親から「歯みがきしなさい」と言われた子どもが「歯みがきしようとおもってる!」「歯みがきするための努力をするよ」などと言った場合、たぶん彼は歯みがきをしない。その場しのぎの言い訳でしかない。やる子はうだうだ言ってないですぐにやる。

 だから「痩せようとおもう」なんて考えてる時点でもうダメだ。おもったその瞬間からもう痩せはじめなければならない。


■ 痩せるのはかんたん

 理論的には、痩せることはすごくかんたんだ。摂取カロリーより消費カロリーを大きくすればいい。それだけ。

 そしてカロリー計算をしたことのある人ならわかるとおもうが、運動によって消費カロリーを増やすのはすごくむずかしい。痩せるぐらいのカロリーを使おうとおもったら相当きつい運動をしないといけない。疲れるし、めんどくさいし、時間もとられる。おまけに運動をしたら腹が減る。だいいち、いっぱい食べて、消費するためだけにいっぱい運動するなんて非効率じゃないか。

 そんなわけで、痩せるためには「食べる量を減らす」これにかぎる。ほとんど唯一の方法だ。


■ 食べる量を減らした

 だから食べる量を減らした。といっても無理はしない。三食きちんと食べるし、家族がおやつを食べるときはいっしょに食べる。好きなものも我慢しない。次女がごはんを残したときはもったいないからぼくが食べる(ただしその分、あらかじめぼくの分のごはんは少なめにしておく)。

 ただ、ごはんの盛りをちょっと減らし、仕事中の間食をちょっと減らしただけだ。

 減らしたら減らしたでなんてことはない。太ったということはもともと食べすぎだったのだから。つらくもないし、(ほとんどないけど)つらいときは食べればいい。


■ 痩せた

 うちには体重計がない。だからぼくが体重を量るのは、年に一回健康診断のときだけだ。

 今年の健康診断。前年と比べて7kg痩せていた。2020年から2021年にかけて7kg増え、翌年には7kg減った。つまりすっかり元通りになったわけだ。ついでに血液検査の数値も改善していた。


■ 結論

 ということで、食べる量を減らしたら痩せた。それだけ。あたりまえすぎる話だ。ダイエット情報を求めてうっかりこのページに来てしまった人はがっかりしただろう。

 身もふたもない話だけど、これがすべてなのだ。食べる量を減らせば痩せるし、減らさなければ痩せない。食べて痩せる食品は毒だけだし、きつい運動を持続できてかつ食べる量を抑えられるような強靭な意志の持ち主はそもそもはじめから太らない。


 ぼくは本屋で働いていたときにさまざまなダイエット本を目にした。『〇〇するだけダイエット』をどれだけ見たことか。体操だ、お酢だ、記録だ、ストレッチだ、マニキュアだ、オリーブオイルだ、海藻だ、と。

 ぼくは「アホだなあ。食事の量を減らせば絶対に痩せられるのに」とおもいながらそれらの本を棚に並べていた。食べる量を減らすだけだから、運動も労力も時間も器具も特別な食品もいらないのに。おまけに食費も抑えられる。


 ずっと自身がダイエットをする機会がなかったのでその理論の正しさを証明することができなかったが、今回1年間で7kg減らしたことで身をもって理論にまちがいがなかったことを示すことができた。

 というわけでどこかの出版社さん、この理論を世に広めるため『食べる量を減らすだけダイエット』を刊行しませんか?


2022年9月26日月曜日

【読書感想文】今井 むつみ『ことばと思考』 / 語彙が多ければいいってもんじゃない

ことばと思考

今井 むつみ

内容(e-honより)
私たちは、ことばを通して世界を見たり、ものごとを考えたりする。では、異なる言語を話す日本人と外国人では、認識や思考のあり方は異なるのだろうか。「前・後・左・右」のない言語の位置表現、ことばの獲得が子どもの思考に与える影響など、興味深い調査・実験の成果をふんだんに紹介しながら、認知心理学の立場から明らかにする。


 言語学の世界には、ウォーフ仮説というものがある。言語的相対論ともいうそうだ。

 かんたんにいうと「人間の思考は言語によって決定される。言語から離れた思考は不可能だ」という考えらしい。


 思考にとって言語が重要なことは間違いない。「民主主義とは人民が主権を持ち人民が政治を行う考えである」みたいな抽象的な概念を言語なしに考察することは不可能だろう。

 ただ、「言語から離れた思考は不可能だ」とまでいうのは難しい。民主主義について考えることはできなくても、「はらへったからあそこにあるあれをくおう」ぐらいのことなら言語とは無関係に考えられるはずだ。なぜなら言語をもたない動物も、人間の赤ちゃんも、考えているのだから。

 ということで、どこまでが「言語によって決定されていること」なのかを探るのが本書だ。




  ついつい「日本語の〇〇って英語でなんていうんだろう」と考えてしまう。まるで日本語のある単語と英語のある単語が一対一で対応しているかのように。

 たしかにそういう言語もある。日本語の「いぬ」と英語の「dog」は同じものを差すだろう。だが日本語の「歩く」と英語の「walk」は同じ意味ではない。英語ではゆっくり歩くことは「stroll」で、ぶらぶら歩くことは「amble」で、目的なくゆっくり歩くのは「saunter」、とぼとぼ歩くのは「traipse」、重たい足どりで歩くのは「trudge」、千鳥足で歩くのは「totter」、よちよち歩きは「waddle」……など、歩くだけでも20種類以上の動詞がある。日本語では副詞や擬態語を使って表現するが、動詞は「歩く」1種類だ。つまり日本語の「歩く」と英語の「walk」はぜんぜんちがう意味の動詞なのだ。「歩く」のほうがずっと広い。


 以前、『翻訳できない世界のことば』という本を読んだ。「肌についた、締めつけるもののあと」「夫が妻に許しを請うために贈るプレゼント」といった、日本語では一語で訳せない単語を集めた本だ。

 だが、ほとんどの外国語が「翻訳できないことば」なのだ。「walk」といった中一英語ですら翻訳できないのだから。

 色を表す言葉もそうだ。青はブルーだと小学生でも知っているが「青」と「blue」は完全に同じ範囲を指す言葉ではない。

 そもそも、色を指す言葉の数自体が言語によって大きく違う。色の名前で「赤」や「青」のようにそれ以上分けられないものを〝基礎名〟と呼ぶ。「黄緑」のように基礎名を組み合わせたものや「栗色」「きつね色」のように物質の名前を使ったものは基礎名でない(オレンジ(橙)色はオレンジ(橙)由来だが色の名前として使うことのほうが多いこともあって基礎名とみなすらしい)。灰色や桃色も同様だ。

 日本語や英語に色を指す基礎名は11ある。白、黒、赤、黄、緑、青、紫、灰、茶、オレンジ、ピンク(厳密には日本語と英語ではそれぞれの差す範囲は微妙に異なるのだが)。

 だがこれは多いほうで、ほとんどの言語はもっと少ないらしい。

 アメリカのカリフォルニア大学の研究グループが、世界中の言語のなかから一一九のサンプルを取り出し、それぞれの言語における色の基礎名の数を調査した。色の名前の数がもっとも少ないのは、パプアニューギニアのダニ族という部族の言語で、この言語には色の名前が二つしかない。色の名前が三つ~四つの言語が二〇、四つ~六つの言語が二六、六つ~七つの言語が三四、七つ~八つが一四、八つ~九つが六、九つ~一○個の言語は八つであった。一○以上の色の名前を持つ言語は、一一しかなかった。つまり、日本語や英語のように一一も色の名前(基礎名)がある言語は、少数派だったのである。例えば、色の基礎名が三つの言語では、大まかに言って、白っぽい色、私たちが赤と呼ぶ色から黄色にかけての色、私たちが呼ぶ緑・青・黒にまたがる色に、それぞれ名前がつけられる。
 この調査から、私たちが「緑」と「青」とそれぞれ呼ぶ色を別の名前で区別しない言語は、区別する言語より多いことがわかった。一一九の言語のうち、「緑」と「青」を区別する言語は、三〇しかない。一方で、「緑」と「青」を区別するだけでなく、私たちが「緑」、「青」と呼ぶ色を、さらに細かく基礎名で分ける言語もある。例えば韓国語では、黄緑を「ヨンドゥ」、緑を「チョロク」という二つの基礎語によって、「別の色」として扱っている。

 こう書くと、「日本語は色の基礎名が11もあってすごい!」と身びいきしてしまいそうになるが、必ずしもそうとは言い切れないのがおもしろいことだ。

 意外なことに、色が少ない言語のほうが正確に色を認識できることもあるようだ。「青と緑の中間だけど少し青っぽい色」を見せられると、日本語話者は「青」と認識してしまう。だが、青と緑の区別のない言語の話者は、その色を(典型的な)青とは違う色と認識できる。なまじっか「それらしい色を指す言葉」を知っているせいで、認識がその言葉に引きずられてしまうのだ。

隣接する二つのカテゴリーの境界にある刺激を、二つのカテゴリーの中間の曖昧な刺激として知覚するのではなく、はっきりとどちらかのカテゴリーのメンバーとみなすことを、心理学では「カテゴリー知覚」(あるいは「範疇知覚」)という。(中略)つまり、ことばを持たないと、実在するモノの実態を知覚できなくなるのではなく、ことばがあると、モノの認識をことばのカテゴリーのほうに引っ張る、あるいは歪ませてしまうということがこの実験からわかったのである。

 色だけでなく、たとえば〇が棒でつながったイラストを見せられ、時間を置いた後にそれと同じ絵を描いてくれと言われる。そのとき、「メガネ」という文字といっしょにイラストを見せられた人はよりメガネっぽい絵を描き、「ダンベル」という文字を見せられた人はよりダンベルっぽい絵を描く。「見た絵をそのまま描く」という課題に挑戦するときに、言葉の情報がじゃまをするのだ。




「色を指す言葉が少ない」ぐらいは想像できるけど、驚くことに世の中には「前」「後」「左」「右」といった言葉を持たない言語もあるそうだ。

 しかし、世界には「前」「後」「左」「右」に相当することばをまったく持たない言語が多く存在する。例えばオーストラリアのアボリジニの言語のひとつであるグーグ・イミディル語は、モノの位置をすべて「東」「西」「南」「北」で表す。私たちが「ボールは木の前にある」とか「リモコンはテレビの左にある」と言うとき、この言語の話者は「ボールは木の南にある」とか「リモコンはテレビの西にある」とか言うわけである。そもそもこの言語では、話者を中心とした相対的な視点でモノの位置関係を表すということをまったくしないそうである。

 東西南北を使って絶対的な位置関係で指し示すそうだ。これは幼児にはむずかしそうだけど、慣れるとこっちのほうが便利かもしれない(前後左右を指す言葉もあったほうがいいけど)。

 じっさい、この言語の話者は遠くに連れていかれてもまっすぐ戻ってこられるそうだ。常に東西南北を意識しているから迷うことが少ないのだろう。

 だが「左右反転した図形は同じものと見なしてしまう」という弱点もあるらしい。それぞれ一長一短あるようだ。




 副詞や擬態語が脳に与える影響について。

筆者自身が行ったある実験では、実験協力者に、人がいろいろな動き方で歩いたり走ったりしているシーンのビデオを多数見てもらった。それぞれのビデオ(例えば人が肩で風を切り、大またで胸を張ってすばやく歩いているシーン)に対し、「ずんずん」「はやく」「歩く」などということばが個別にテロップで示された。この実験では機能的画像磁気共鳴法、通常f(unctional)MRIと呼ばれる方法により、このときに協力者の脳がどのように活動しているかを測定した。
 すると画像を見ているときにいっしょに見たことばの種類によって、脳の活動のしかたが違うことがわかった。副詞(「はやく」)、動詞(「歩く」)を見たときは、一般的に言語を処理する部分(主に左半球の側頭葉の、意味の処理をする部分)が多く活動したが、擬態語(「ずんずん」)を見たときには、左半球だけでなく、右半球でジェスチャーなどの、言語以外の認知活動をする部分の活動が目立った。特に人やモノの運動を知覚するときの脳内ネットワークで非常に重要な中継点となるMT野という部分が、擬態語を見たときは動詞、副詞のときよりも強く活動した。つまり、動きといっしょに擬態語を見た場合、「歩く」「はやく」などの普通の動詞や副詞といっしょに同じ動きを見た場合よりも、運動を知覚する部分や、運動を実際に行ったり、これから行う運動のプランニングをしたりする部分の活動が多く見られた。また、実際にはことばは文字で提示され、音の刺激はまったく聞かされなかったのに、言語ではなく、環境中の音を聞いたときに活動する部分にも動きが見られた。

 擬態語といっしょに見たときのほうが、より見た対象に共感できると。

 ふうむ。

 日本語はオノマトペ(擬音語・擬態語)が他の言語に比べて豊富だという。そして日本人は、良くも悪くも他人の顔色をうかがうことに長けているともいう。

 もしかすると、オノマトペがいわゆる〝日本人気質〟を築く一端になっているのかもしれない。なんの根拠もない、ぼくの勝手な憶測だけど。




 思考のうちどこまでが「言語によって決定されていること」なのか? という冒頭の話に戻る。

 ここまで紹介された例を見れば、かなりの思考が言語によって左右されていることがわかる。が、本書では「言語によらない思考」も紹介されている。言葉を扱うようになる前の乳児を対象にした実験により、言語とは関係のない思考パターンがあることもわかっている。

 ということで「思考の多くは言語によって左右されるが、全部が全部そうというわけではない」ということらしい。真実はいつだって平凡なものだ。


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2022年9月21日水曜日

ケンタウロスのなかまたち

 キマイラ(ライオンの頭とヤギの身体とヘビの尻尾)、スフィンクス(ヒトの頭とライオンの胴体)、ペガサス(馬の身体と鳥の翼)、コカトリス(雄鶏の上半身とヘビの下半身)、グリフォン(鷲の上半身とライオンの下半身)、ヒッポグリフ(鷹の上半身と馬の下半身)、鵺(サルの頭、タヌキの胴体、トラの胴体、ヘビの尻尾)など複数の動物を組み合わせたキメラは数あれど、なんといってもいちばん有名なのはケンタウロスだろう。馬の胴体とヒトの上半身がくっついたやつだ。

 ケンタウロスの特異性は、その「つなげるとこ、そこ?」感にある。


 他のキメラは一応、「〇〇の上半身と××の下半身」だったり「〇〇の頭と××の首から下」だったりして、身体の部位が重複しないようにしている。

 まあ「ヘビの尻尾」だったり、「鳥の翼」だったりはかなり無理があるが(鳥の翼はもともと脚から進化したので翼があるのなら脚が四本あるのはおかしい)、少なくともぱっと見ではそれほど違和感はない。「こんな動物いるかも」とおもわせてくれる造形をしている。

 なんせ、上半身がシマウマで下半身が馬みたいなクアッガという動物は実在したのだ。

Wikipedia『クアッガ』より

 だったら、遠い昔あるいははるか未来に、グリフォンみたいなやつが生きていたとしてもさほどふしぎはない。


 ところがケンタウロスだけは、はなから生物の基本を無視している。哺乳類×哺乳類の組み合わせなのに、手足は六本。ヒトの胴体と馬の胴体を持っているので、心臓も肝臓も膵臓も胃もふたつずつ持っていることになる(まあ胃に関してはウシなんか四つも持っているか)。はじめっから「いそう」とおもわせる気がないデザインなのだ。

 いや待てよ。哺乳類だとおもうからいけないのか。ケンタウロスは脚が六本だから昆虫なのか?

 いやあ。さすがにあのサイズの昆虫はいないだろう。昆虫は肺を持たないから、あの大きさの身体に酸素を送れないもんな。

 待てよ。タコやイカは?

 タコやイカには心臓が三つある。おまけに脚の数も多い。まさしくケンタウロスと同じじゃないか!!


 そうか。ケンタウロスは、タコやイカと同じ頭足類だったのか。水中で暮らしていて、何かの拍子に陸に上がり、そこで速く走れるように四本の脚が馬みたいになり、高いところの果実や虫を取って食べられるように二本の脚がヒトの手のように進化したのだ。

 つまりあいつがウマやヒトに似ているのはまったくの偶然で、ハリネズミとハリモグラのように別々の道をたどって進化して、たまたま形状が似てしまっただけなのだ。

 そう。ケンタウロスはヒトでもウマでもなく、タコやイカの仲間なのだ!


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ふざけんなクアッガ


2022年9月20日火曜日

【読書感想文】いっくん『数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた』 / 数学は直感を超える

数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた

いっくん(著)  店長(構成協力)

目次
ケーキを三等分せよ
時計の文字盤をデザインせよ
地球の直径を求めよ
規則性に反するものを見つけよ
ハートのグラフを描け
答えが1になる問題を考えよ
角を三等分せよ
大定理でくだらないことを証明せよ
円周率を求めよ
起こる確率が無理数である事象を考えよ
ほとんどの整数の数をいえ
「病的な数字」の例をあげよ
1=2を示せ
不思議な図形の例をあげよ
満室の無限ホテルの部屋を空けよ
とにかく大きい数をあげよ

 あれこれ書くより、このツイートをいちばん見てもらうのがいちばん早い。


 以前このツイートを見て「おお、すげえ!」となったので(理解はできない)、『数学クラスタが集まって本気で大喜利してみた』を読んでみた。




 おもしろかったのは『規則性に反するものを見つけよ』の章。

 タイトルだけだと意味がわかりづらいけど、たとえばこんな話。

 n^17+9と(n+1)^17+9の最大公約数は?

 最大公約数とは、2つ以上の数に共通している約数(公約数)うち最も大きいもののことです。では、n^17+9…①と(n+1)^17+9…②の最大公約数はいくつになるでしょうか?

 まずn=1を代入すると、
 ①1^17+9=1+9=10
 ②(1+1)^17+9=131072+9=131081
となり、10と131081の最大公約数は1です。
 次にn=2を代入すると、①が131081、②が129140172となり、この最大公約数も1です。
 これをn=3,4,5…と続けていっても、最大公約数は1のまま。どこまでいっても、ずっと最大公約数は1に違いない!と思いきや、

n=8424432925592889329288197322308900672459420460792433
で、
急に最大公約数が1ではなくなるのです。
これはコンピュータの演算でわかった結果ですが……それまでに8424432925592889329288197322308900672459420460792432回も同じ流れが続いていたことを考えると、規則性が裏切られた時のインパクトはすさまじいものがありますね。

 ある命題があって、nが1のときは真である。nが2のときも真である。nが10のときも100のときも1000のときも1億のときもその1億倍のときもずっとずっと真である。

 にもかかわらず、nが8424432925592889329288197322308900672459420460792433 のときは真ではない。

 うそー。そこまできて裏切られることある?


 この話を妻(工学部出身)にしたところ、「だから数学は嫌いなんだ」と言われた。妻いわく、物理の世界だったら一万回試して同じ結果になれば100%と見なしていい。まあ物理に限らず日常生活においてはそうだろう。1兆回やって同じ結果になれば、1兆1回目も同じになるに決まっている。

 ところが数学の世界ではそうは断定できないし、じっさいに8424432925592889329288197322308900672459420460792433回目で裏切られてしまうこともある。

 人間の感覚で理解できる範囲を超えている。


 物理はさ、理解できなくてもなんとなくは想像できるじゃない。「この材質・形の物体をこの角度で投げればだいたいこのへんに届くな」ってのはわかる。もちろん予想と外れることはあるけど、10メートル先に行くと予想した物体が100メートル後方に行くようなことはない。

 でも数学ではそういうことが起こってしまう。




『1=2を示せ』も、直感を見事に裏切ってくれる。



 どうだろう。この証明。

  2=√2 になるわけないから、まちがっていることはわかる。わかるけど、いざ反証しようとするとむずかしい。

 物理の世界だと、〝かぎりなく直線に近づけた曲線〟は直線として扱っていいもんね。というか現実世界にはまったく凹凸のない直線なんて存在しないし。

 でも数学の世界だと矛盾が生じてしまう。うーん、わずらわしい。

 



 とまあ、数学が嫌いでない人からしたら楽しめる本だとおもう。細かい数式はぼくにはぜんぜん理解できなかったけど(高校のときは数学めちゃくちゃ得意だったのになー。高校数学レベルではまったくついていけない)、


 で、まあ、おもしろかったんだけど、残念だったのは「第1章の『ケーキを三等分せよ』がいちばんおもしろかった」ってこと。尻すぼみ感がある。

 大喜利と言いつつ、オリジナルの回答じゃないのも多いしね。数学界で有名な解法や議論とか。昔の有名数学者が考えたものを持ってきて「大喜利の答えです!」っていうのはちがうんじゃないの、とおもってしまう。まあ看板が悪いだけで中身は悪くないんだけどさ。


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2022年9月16日金曜日

【読書感想文】冲方 丁『十二人の死にたい子どもたち』/ 惜しい!

十二人の死にたい子どもたち

冲方 丁

内容(e-honより)
廃病院に集まった十二人の少年少女。彼らの目的は「安楽死」をすること。決を取り、全員一致で、それは実行されるはずだった。だが、病院のベッドには“十三人目”の少年の死体が。彼は何者で、なぜここにいるのか?「実行」を阻む問題に、十二人は議論を重ねていく。互いの思いの交錯する中で出された結論とは。

 冲方丁さんといえば『天地明察』で骨のある時代小説を書いた人、というイメージだったので、こんな安いWebマンガみたいなタイトルの小説も書くんだーと意外な気持ちで手に取った。

 タイトルからもわかるように『十二人の怒れる男』のオマージュ的作品でもある。もしかすると三谷幸喜の『十二人の優しい日本人』の影響もあるのかもしれない(筒井康隆の『12人の浮かれる男』はたぶん関係ない)。


 集団自殺をするために廃病院に集まった十二人の少年少女。ところが実行直前になって、十三人目の死体があることに気づく。それでも予定通り自殺を実行しようとするメンバーだったが、ひとりの少年が異議を唱えだして……。

 ここからは『十二人の~』の典型的パターン。一人 VS 十一人という構図からスタートし、議論を重ねるごとにひとりずつ賛同者が増えていき、徐々に場の流れが変わりはじめる……というストーリー。




【以下、ネタバレ感想】


 これを小説でやるのはきついな、というのがいちばんの感想。動きの少ない密室劇。登場人物は十二人。これで十二人の個性を読者に印象付けるのはそうとうむずかしい。

 それぞれのキャラクターを書き分けようとすると極端な性格にするほかなく、超傲慢、超バカ、超冷静沈着頭脳明晰、超日和見主義、超無口、超美人……などマンガチックなキャラクターになってしまう。

 特に女性キャラはひどい。男性のほうは(考えは違えど)全員議論ができる他者への優しさを持っているのに、女性のほうはヒステリック、超バカ、傲岸不遜、視野狭窄、攻撃的でほとんどまともに会話が成り立たない。作者はよほどの女嫌いなのか?

 そこまでしてもやはり十二人の個性を印象付けるのはむずかしく、案の定、読んでいてこいつ誰だっけとなってしまう。


 おまけに病院の見取り図を利用したトリックなんかも出てきて、ややっこしいったらありゃしない。やはり〝十二人もの〟は映像作品だからこそできるものだよね。




「ゼロ番の死体」の正体については、納得のいく設定だった。

 自分のせいで植物状態になってしまった兄。まあこれなら集団自殺の場に連れてきてもおかしくないとおもえる。

 ただ、アンリとノブオが、彼を自殺の場に連れていった理由がいまいち腑に落ちない。見ず知らずの死体なのに。頼まれたわけでもないのに。ましてアンリは誰よりも自由な選択を重要視していたのに。

 そして、誰ひとりとして彼が死んでいるかどうかを確かめようとしないのも不自然。シンジロウなんか細かいところはめちゃくちゃ気にして微に入り細を穿って調査するくせに、肝心なところはまったく調べない。

 で、案の定「ゼロ番は生きている」という予想通りの展開。そりゃあね。物語冒頭から死体が出てきて、ろくに調べられていなかったら、実は生きてましたーパターンだよね。そうならないのは落語『らくだ』ぐらいだ。


 話の展開自体はぜんぜん悪くなかったので、登場人物を減らして、ゼロ番移動のくだりをまるっと削除すればすごくおもしろい物語になったんだろうな、とおもう。いろいろ惜しかった。

 結局自殺をやめるというのも予定調和ではあるが、これはいい予定調和だとおもう。

 ただ、興醒めなのが大オチ。

 実はサトシがこの集まりを開くのは三回目で、過去に二回参加者たちの自殺を止めていたという設定。

 これ、いらなかったんじゃないかなあ。よくあるよねという仕掛けで意外性はないし、驚きをもたらす効果よりも「ここまでの物語の価値を貶めてしまう効果」のほうが大きい。

 さんざん熱い議論を見せられたあげく、これじつはサトシくんのてのひらで転がされてただけでしたーって言われちゃうと、あの話し合いはなんだったんだって気になっちゃう。あれで一気に作品全体への評価が下がってしまった。




 なんか不満点ばっかり書いてしまった。でも一応書いておくと、ぼくは本当につまらない小説を読んだときにはあんまり感想を書かない。特に心動かされないから。不満を書く気にすらならない。

 不満を書きたくなるのは「あとちょっとですごくおもしろくなっただろうに」という作品に対して。アイデアは良くて、キャラクターも良くて、細かいところまで気を配っていて、だったらあとここだけ変われば完璧だったのにー!って作品に対してはあれこれ言いたくなってしまう。

 ということで、いろいろと「惜しい!」と言いたくなる作品だった。そもそも小説に向いてなかったようにおもう(この作品は映画化もされてるみたいね)。


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【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』



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