2022年6月10日金曜日

【読書感想文】エマニュエル=サエズ ガブリエル=ズックマン『つくられた格差 不公平税制が生んだ所得の不平等』 / なぜ民主主義は金持ちだけを優遇するのか

つくられた格差

不公平税制が生んだ所得の不平等

エマニュエル・サエズ(著) ガブリエル・ズックマン(著)
山田 美明(訳)

内容(e-honより)
富裕層はますます富み、中間層や貧困層はより貧しくなる真の理由とは?ピケティの共同研究者による衝撃の研究結果。史上最高レベルの不平等はどのように生まれたのか?最高税率が高ければ格差は縮小し、経済も成長する。富裕層の租税回避を防ぐ方法。

 近年の税制がいかに富裕層を優遇しており、その結果格差がどれだけ拡大しているか、そしてどう是正すべきかを書いた本。

 扱っているのは基本的にアメリカの話だが、日本も似た状況になっているのでことごとくうなずかされる。




 アメリカでは、上位1パーセントの所得が国民所得の20%以上を占めている。貧富の差は拡大するばかり。

 本来なら富の再分配をするのが税の役目なのに、高額所得者の所得税は下がる一方。おまけに租税回避が横行しており、税による再分配はちっとも機能していない。

現在ではほとんどの社会階層が、所得の二五~三〇パーセントを税金として国庫に納めている。ただし超富裕層だけは例外的に、二〇パーセントほどしか納めていない。アメリカの税制はほぼ均等税と言えるが、最富裕層だけ逆進的なのである。アメリカはヨーロッパ諸国ほど多額の税金を徴収していないかもしれないが少なくとも累進的ではあるという主張があるが、これは間違っている。

 なんと、高額所得者の税率が高くないどころか、逆に低くなっているのだ。金持ちほど税率が低い。

 どう考えたっておかしい。貧乏人から年収の三十パーセントを持っていくのと、億万長者から収入の三十パーセントを持っていくのでは、前者の痛みのほうがはるかに大きい。なのに同じ割合にするどころか、逆に貧しい人からのとる率を高くするのは理不尽だ。


 この本には、アメリカにおける税引前所得の年間成長率の表がある。

 1946年~1980年の間。どの階層も年平均2.0%ぐらいの率で成長していた。

 ところが1980年~2018年の間では様相は一変する。成長率が年平均1.4%に下がり、さらに9割の国民の成長率は1.4%を下回った。平均を上回っているのは富裕層だけで、特に上位1パーセントの富裕層は大きく成長した。さらに上位0.1%の富裕層の年平均成長率は320%、上位0.01%は430%、そして最上位0.001%(2300人)は600%となった。

 富める者はますます富み、その一方で労働者階級の所得はほとんど増えていない。つまり「金持ちが潤えば、自然に富がこぼれ落ちて経済全体が成長する」という『トリクルダウン理論』は真っ赤な嘘だったのだ。




 上位1%の金持ちはますます潤い、残りの99%との差は開く一方。日本もアメリカほどではないにせよ、同じような状況だ。どうしてこんなことが起こるのだろう。

 いや、ニホンザルの社会ならわかる。力の強いものがすべてをぶんどる社会であれば、そういうことも起こるだろう。

 だがアメリカも日本も民主主義国家だ。金持ちも貧乏人も同じ一票を持っている。それなのになぜ、「1%の金持ちに優しい法律を作ってあげる政治家」を選んでしまうのだろう。

 じつにふしぎだ。民主主義が機能していれば、格差はゼロにはならないにせよ、少なくとも半数以上は得をするような制度を選ぶんじゃないだろうか。


 だが、アメリカや日本だけでなく、世界中で「高所得者に対する税金はどんどん下がっていく」傾向が見られる。

 その原因は、高所得者による〝租税逃れ〟にある。

 一九八六年税制改革法は、累進課税が廃れていく過程を如実に示している。累進課税は、有権者の意思により否定され、民主的な手続きを経て廃れていくわけではない。累進課税が大幅に後退する事例をいくつも検討してみると、そこに一つのパターンがあることがわかる。まずは租税回避が爆発的に増え、次いで政府が富裕層への課税は無理だとあきらめ、その税率を引き下げるのである。この負のスパイラルを理解することが、税制の歴史を理解し、将来的に公平な税制を構築していくための鍵となる。


 所得の大半が個人所得の対象になっていない、様々な租税回避策によって法人税の支払いを免れている(法人税の低い国外にペーパーカンパニーを設立して株式や債券をそこに移す)、所得税の税率が低い(資本所得に対する税率は低い)などにより、高所得者ほど租税を回避しようとしている。GAFAのような国際的大企業が(その利益に比べれば)まったくと言っていいほど税金を納めていないことは有名な話だ。

 そもそも、労働に対する税よりもキャピタルゲイン(投資による利益)にかかる税のほうが安いってのが意味わからん。誰がどう考えたって、労働によって得た金よりも不労所得のほうに高い税率かけるべきだろう。


 『つくられた格差』では、高所得者や大企業が税金から逃れるためにあの手この手を使っている手口が紹介されている。もちろん租税回避策にも金はかかる。だから貧しい者には同じ手が使えない。でも金持ちや大企業からしたら、多くの弁護士や税理士を雇っても十分おつりがくる。結果的に金持ちほど納める税率が低くなるという〝税の逆進性〟が起こる。




 本書では、対抗措置の案も提言されている。詳しくはこの本を読んでほしいけど、各国政府が本気を出せば租税回避の大部分は防ぐことができる。

 筆者は〝国民所得税〟なるシンプルな税制を提案する。

 〝国民所得税〟はあらゆる所得にかかる税だ。労働所得と企業所得と利子所得すべて。もちろんキャピタルゲインにも。当然ながら累進税(高所得者ほど税率が高くなる)である。

 国民所得税を導入すると、こんな世界が可能になる。アメリカでその税収を使えば、国民全員に医療や育児を提供できる。公立大学への助成金の増加などにより、高等教育を受ける機会も均等化できる。アメリカでは現在、高等教育を受ける機会に大きな格差がある。(中略)アメリカ以外の国でも、国民所得税を導入すれば、給与税や付加価値税を減らし、税制の逆進性を和らげることができる。
 たとえば、アメリカで税率六パーセントの国民所得税を導入し、さらに富裕層への課税を強化すれば、国民所得のおよそ一〇パーセント分に相当する税収が得られる。そのうちの六パーセント分を医療に、一パーセント分を育児に、〇・五パーセント分を高等教育にまわせば、二一世紀にふさわしい社会制度を確立できる。残りの税収は、現在労働者階級を苦しめている売上税(およびトランブ関税)の廃止に使えばいい。

 ちょっと絵に描いた餅のような気もするしここまでうまくはいかないとおもうが、それでも今よりずっと格差は縮むことだろう。

 ぜひとも租税回避している金持ちからきっちり金をとってほしい。税金が増えれば教育や医療や福祉が充実するんだもの、ぼくのとられる税が増えたって文句言わないぜ。

 まあ経団連みたいなところに手なずけられている政治家はやろうともおもわないだろうけど。




 租税逃れをしている金持ちや企業からしっかり金をとることは「胸がすっとする」以外にもメリットがある(もちろんすっとするのが最大のメリットだが)。

 資産家や大企業の経営者は「成功者から高い税をとれば成功への意欲が失われる」なんてことを言うが、それを裏付けるデータはまったくない(もちろん共産主義国のように100%とられるならば意欲はなくなるだろうが)。トリクルダウンも嘘だった。

 このように、無数の評論家が大衆に信じ込ませようとしている内容とは裏腹に、法人税の負担が労働者に転嫁されることは経済学的に「証明」されていない。もし本当に、法人税の負担が労働者にのしかかるのなら、世界中の労働組合が法人税の削減を政府に懇願していることだろう。実際のところ、高い法人税のために一般労働者が苦しんでいるという見解を誰よりも積極的に支持しているのは、裕福な株主たちなのだ。たとえば、二〇一八年のアメリカ中間選挙の際には、コーク兄弟(それぞれ五〇〇億ドルもの資産を所有している)の支援するロビー団体が二〇〇〇万ドルもの資金を費やし、トランプ大統領の法人税引き下げにより賃金が上がると有権者に訴える運動を展開している。同様に、労働税の負担が資本に転嫁されることも、経済学的に証明されていない。長期的に見れば、資本税の負担は資本所有者が、労働税の負担は労働者が背負うことになる。貧困層に課される税により富裕層が苦しむことはないように、富裕層に課される税により貧困層が苦しむこともない。

 話はむしろ逆で、富の集中はイノベーションを妨げる。

 富は力になる。極端な富の集中は極端な力の集中を生む。政府の政策に影響を与える力、競争を阻害する力、イデオロギーを形成する力、それらが一つになって、自分に有利になるよう所得の分配を操作する力になる。その力は、市場でも政府でもメディアでも発揮される。これこそが、一部の人間が英大な富を所有するとほかの人の手に渡る富が減る中心的な理由である。現在の超富裕層の所得は、社会のほかの階層を犠牲にして成り立っている。ジョン・アスターやアンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラーなど、金びか時代の実業家が「悪徳資本家」と呼ばれているのは、そのためだ。
 現在、アップルや、アマゾンの創業者ジェフ・ベゾス、ウォルマートを経営するウォルトン一族は何をしているだろう? 自分たちの財産や地位を守ることばかりしている。たとえば、新規参入企業を、脅威的な存在になる前に買収している。競合企業や規制当局、内国歳入庁と争っている。新聞社を買収している。英大な富を蓄積した人々がいつでもどこでもしていることだ。アップルやアマゾン、ウォルマートの創業者はみな、多大なイノベーションを成し遂げ、新たな製品やサービスを生み出してきた。なかには、いまだイノベーションを追求している創業者もいる。だがその後継者たちは、会社の現在の地位を守ることに汲々とするばかりであり、今後そこから偉大なイノベーションが生まれるとは思えない。

 富が集中すれば、その金で新たなイノベーションに挑戦するよりも、競合のイノベーションを妨害しようとする。当然のことだ。

 家康が天下統一を成し遂げて鎖国政策を敷いた江戸時代。徳川家からどんなイノベーションが生まれただろうか? 諸国大名が力を持つのを妨げる政策ばかりとっていたではないか。




 ぼくが金持ちじゃないからってのもあるけど、富める者がますます富める社会はよろしくない。どんな分野でも同じ、山の成長に欠かせないのは広い裾野だ。野球のうまい小学生九人を集めて、その子らだけに最高の環境を与えて練習させれば最高のチームができるかというと、そんなことはない。

歴史の教訓に従えば、万人の成功に投資する国が豊かになるという事実は今後も変わらないだろう。

 スティーブ・ジョブズはビジネスの世界に革新をもたらしたが、もしも彼が今の時代に会社をつくったとしたら、GAFAのような(アップルはないからGFAか)巨大企業につぶされずにアップル社は大成功していただろうか。どう考えたって無理だろう。


 金持ちから税金をたっぷりふんだくるのは大企業の飼い犬でない政治家にぜひがんばってもらうとして、国民の意識も変わるべきだとぼくはおもう。

 脱税は当然だし、ペーパーカンパニーを作ったりタックスヘイブンを利用しての租税回避はもっと厳しく糾弾すべきだとおもうんだよね。

 テレビでもネットニュースでも不倫した有名人を叩いたりしてるけど、家族以外は何の被害も受けていない不倫と異なり、税金逃れは全国民が被害者なわけだ。

 違法でなくても道義的に許されることではない。税金を減らすためにペーパーカンパニーを作るやつは、救急車を一年間に百回呼ぶやつと同じぐらい市民の敵だ。

 税金ドロボーってのは公務員や政治家のことじゃなくて、租税回避をするやつやそれを手伝う税理士や会計士のことだ。租税回避をするやつは義務から逃れているわけだから、それに応じて権利も減らしてあげないといけない。病院も警察も消防も後回しの対応でいい。どんどんぶんなぐっていこう。

 まずはふるさと納税の返礼品制度をつくったやつを樹から逆さ吊りにするところからだな!


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2022年6月9日木曜日

【読書感想文】ピーター・フランクル『ピーター流生き方のすすめ』 / 一生ものの靴は最悪

ピーター流生き方のすすめ

ピーター・フランクル

内容(e-honより)
テレビやケータイに縛られるのはダメだって、わかってるけどやめられない…。大道芸人兼数学者、世界中を渡り歩いてきたピーターも、誘惑に弱いし失敗も後悔もたくさん。でも、楽しく生きる秘訣は「自分の人生の主人公になること」だとピーターは思う。ふつうのオトナのお説教とは一味違う、実践的で具体的なアドバイスが満載。

 ぼくの子どもの頃のあこがれの人が、ピーター・フランクルだった。

 たしかはじめて知ったのはテレビ番組『平成教育委員会』だったとおもう。数学者であり、大道芸人でもあり、十二ヶ国語を操る。その知性のわりにとっつきにくさはまったくなく、飾らない人柄で日本語でジョークまで飛ばしていた。

 なんてかっこいい人なんだ。まるで七つの力を持つ鉄腕アトムみたいな人だ。こんな超人にぼくもなりたい……。とそうおもった。

 残念ながらぼくは数学者にはなれなかったしお手玉はできないし海外にも数えるほどしか行ったことがないけど、ピーター・フランクル氏は今もぼくのあこがれの存在だ。

 そんなピーター・フランクル氏が若い人に向けて書いた、〝生き方〟の本。




 気さくな人柄が本にも出ている。若い人向けのアドバイスというとどうしてもえらそうになってしまうものだが、己の失敗談やユーモアもまじえて楽しそうに語っている。

 くりかえし語っているのが、自分のために時間を使おうということ。

 ついついネットサーフィンで時間を浪費してしまうぼくにとっても耳の痛い話だ。


「テレビはリアルタイムで観なくていい」という主張はたいへんうなずける。

 ぼくも最近ではほとんどリアルタイムでテレビを観ることはなくなった(生で観るのは朝の子ども番組だけだ)。 録画で観ると、観たい番組を選ぶことになるし、終わった後に「ついつい次の番組まで観てしまった」なんてこともない。高校野球やサッカーのワールドカップもダイジェストでしか観ない。好きな人からしたら邪道とおもうかもしれないが、どうせ生でテレビ観戦したって、スタジアムに足を運んだって、全部の選手の全部のプレーを全部の角度から観ることなどできやしないのだ。だったらダイジェストでもたいして変わらない。


 特に拍手を贈りたいのがこの意見。

  でもいちばん簡単なのは、部活の時間を減らすことです。とくに運動部には、多くの時間が割かれてしまうので、一度考え直してみる必要があります。もちろん、スポーツをすることはよいことですが、プロを目指しているわけでもないのに、あまりに自分の時間や精力を奪われすぎてしまうのは、よくないことだと僕は思います。

 これねえ。なんで教師って部活をさせたがるんだろうね。今はどうだか知らないけど、ぼくが学生のときは「よほどの事情がないかぎりは全員何かしらの部活に入るように」と命じられていた。そんなに部活をさせたがるわりに、掛け持ちはいい顔をされなかったのも謎だ。

 放課後校外でよからぬことをされるより、部活をやらせて教師の目の届くところにいさせたい、って魂胆があったのかな。むしろ部活こそが暴力やいじめの温床になっていることも多いけどな。

 ぼくが高校では部活に属していなかった。いや正確には野外観察同好会なる組織に属してはいたが(しかも会員ふたりしかいないのでぼくが会長だった)、三年間で五回ぐらいしか活動していない。部活をやらなくてよかった、とつくづくおもう。

 放課後、友人の家に集まって音楽を聴きながらくだらないおしゃべりをしたり、公園で野球やサッカーをしたり、川に行ってパンツ一丁で泳いだり、気が向いたら勝手に陸上部や弓道部の練習に参加したり、毎日楽しく過ごしていた。遊んでいただけでなく、勉強したり本を読んだりもした。

 そのときいっしょに過ごしていた友人とは今でもよく遊ぶ。

 部活に打ちこんでいたいた人は「部活をやっていてよかった」と言うかもしれないが、彼らは部活をやらない楽しさを知らないのだ。話半分に受け取った方がいい(もちろんぼくも部活にすべてをささげる楽しさは知らない)。


 もちろん、部活をしたい人はしたらいい。プロ野球選手になりたいとか、遊びも勉強も犠牲にしてでも吹奏楽だけをやりたいとか、そういう人を止める気はまったくない。

 でも「何か部活をやらなくちゃ」ぐらいの気持ちだったら、やらないという選択肢もあってもいい。というよりやらないのがふつうだとおもうのだが。

 特に今はかんたんに趣味を通じて世界中の人とつながれる時代だからね。




 ピーター・フランクル氏が尊敬する父親について。

 彼がそうやってなにか調べたりしているときの表情を見ていると、毎日朝から晩まで病院で働いて、家でも論文を書かなければいけないのに、その上なんでこんなことまでやらなければならないんだ、というような不満の影はすこしもないのです。それどころか、新しい知識を得ることができる喜びや楽しさが、彼の顔を明るく照らしていました。
 それを見ていた僕は、やっぱり学ぶというのはすごく楽しいことなんだ、もしかして、人生でいちばんの喜びなのかもしれないぞと思ったのです。なにも教えてくれないくせに「勉強しなさい」とくどくど言ったりするのではなく、自分の行動や生き方を通して学ぶ楽しさを伝えてくれた父に、僕はとても感謝しています。

 ぼくも人の親なので教育関係の本や記事を読むんだけど、こういうこと言う人って少ないんだよね。

 子どもを勉強させるにはどんなご褒美を用意したらいいか、どんな部屋にしたらいいか、どんな塾に入れたらいいか。

 いやいやいや。まず第一は「勉強を好きにさせる」だろ。これが最初にして最大の方法だ。

 サッカーを嫌いな子をサッカー選手にすることはぜったいにできない。どんなに優秀なコーチやトレーニング設備をそろえても無理だ。それと同じだ。

 じゃあどうやったら好きになるか。そりゃあ勉強の楽しさを教えることだろう。

 勉強は楽しい。わからなかったことがわかるようになる、こんなに楽しいことはない。


「勉強したら〇〇してあげる」「勉強しないなら××しない」と物で釣る、これはまったくの逆効果だ。なぜならこういうことを言う人は「勉強は苦痛」とおもっているからだ。その姿勢は子どもにも伝わる。

「一時間バトントワリングできたらお菓子あげるよ」「がんばってバトントワリングしないと将来苦労するよ」と言われて、「なんだかわかんないけどバトントワリングって楽しそう!」とおもえる人がいるだろうか(ちなみにここで適当に名前を使わせてもらったが、バトントワリングとは新体操みたいな競技だ)。




 ものに対する考え方も共感できる。

 ピーター・フランクル氏がブランド物のズボンを買った後、自転車で汚してしまった話。

 その翌日、あるブランド好きの友人の家に夕食に行きました。そこで食事をしながら、きのうこんなことがあったと悔しそうに話したら、おまえはばかだと言われました。そんな立派なズボンを買ったなら、おまえは表参道までタクシーで行くべきだった、たったワンメーターの距離だろうに、と言うのです。そのときは、それなりに正しい意見にも思えました。しかし、僕は帰り道、あのときの悔しさを思い出しながら考えた結果、彼とはちがう結論に達しました。それは、おれはもうブランド品は買わないぞ、という結論でした。
 彼の話をよく考えてみると、僕はまるでズボンのために生きなければならないように思えました。まず先にズボンがあって、僕はこのズボンを活かし、守るために、ああしたりこうしたりしなければならないのだと。でも、ズボンはあくまで僕のためにあるのだと僕は思いました。ズボンのために僕があるのではない。ズボンのために自分の生き方を変えなければならないくらいなら、そんなズボンはいらないじゃないかと思ったのです。

 そう! まったくもってそう!


 ぼく自身、服や車や時計を買うときは「価格」と「機能」以外のものを気にしたことがない。そりゃあダサいよりはかっこいいもののほうがいいけど、市販されているものはどれもそんなにダサくない。

 靴や時計で高いものを勧めてくる人はこんなことを言う。「きちんと手入れをすれば一生ものだよ。一生使えるとおもえば決して高くないよ」と。

 げええ。なんで一生靴の奴隷にならなきゃいけないんだ。一生お靴様にかしづいて磨いてやらなきゃいけない人生なんて最悪じゃないか。一生同じ靴や時計に縛られる人生なんてごめんこうむる。

 足を守るために靴を履いてるのに、なんでこっちの手を汚して靴の手入れしてやらなきゃいけないんだよ。「一生ものの靴」なんて最もいらないものだ(それにたいてい「一生使えるとおもえば高くない」というやつに限ってすぐ買い替えるんだ)。


 高いものをぞんざいに扱っている人はかっこいい。金持ちなんだな、とおもう。

 でも高いものを大切に大切に扱っている人は「貧しいな」としかおもえない。

 とはいえぼくも、こないだ新しい靴を買った翌日に雨の中公園で遊んでどろどろにしてしまったときは「新しい靴履いていくんじゃなかった……」と落ちこんだな。気にせず笑えるような人になりたい。

 

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2022年6月8日水曜日

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2022年6月7日火曜日

【読書感想文】東野 圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』 / 人は自己を犠牲にしない

パラレルワールド・ラブストーリー

東野 圭吾

内容(e-honより)
親友の恋人を手に入れるために、俺はいったい何をしたのだろうか。「本当の過去」を取り戻すため、「記憶」と「真実」のはざまを辿る敦賀崇史。錯綜する世界の向こうに潜む闇、一つの疑問が、さらなる謎を生む。精緻な伏線、意表をつく展開、ついに解き明かされる驚愕の真実とは!?傑作長編ミステリー。


【ネタバレあり】


 主人公・敦賀崇史のふたつの世界が交互に語られる。

 ひとつは、親友・智彦が麻由子という女性と付き合っており、崇史が麻由子にひそかな恋心を描いている世界。

 もうひとつは、崇史が麻由子と交際しており、智彦はアメリカにいる世界。この世界では智彦と麻由子が交際していたという事実はない。

 まるでパラレルワールドのように、似た世界でありながら細部が異なるふたつの世界。はたしてどちらが真実の世界なのか。そしてなぜ〝パラレルワールド〟は生まれたのかー。




 感想。

 せっかく「パラレルワールド」というタイトルをつけてミスリードを誘ってはいるが、あまり成功してはいない。

  • 主人公たちが記憶に関する研究をしている
  • 主人公の記憶と事実との間に食い違いがある
  • 過去と現在が交互に語られるが、食い違いが生じているのは現在のみ
  • 過去編と現在編で人称が変わる(過去編は『俺』で、現在編では『崇史』で語られる)

 ので、「何らかの理由で主人公の記憶が改変され、同一人格でなくなったのだな」と容易にわかる。パラレルワールド感が出ていない。

 で、読み進めていくとはたしてその予想は当たっている。パラレルワールドではなく、現在編は「記憶を改変された主人公が認識している世界」だ。


 で、なんやかんやあってあれやこれやの謎が解けて(内容ゼロのあらすじ)過去編と現在編がつながるわけだが、どうもしっくりこなかった。

 ストーリー組み立てのうまさとか、SFをとりいれつつもちゃんとミステリにしあげるところか、さすがの東野圭吾作品だとはおもう。

 ただなあ。

 話のキーになるのが「主人公の親友の自己犠牲」なんだよね。これが嘘くさくて、終盤で冷めてしまった。

 中盤までは理解不能な記述が続くので「いやでもこれを乗り越えた先におもしろいラストがあるはず!」と信じて我慢しながら読み進めていたのに、待っていたのが主人公の親友による「愛する人の幸せのためにぼくは身を引くよ」「ぼくを裏切ったあいつとずっと親友でいたいから、ぼくは生命の危険があるけど己の記憶を改竄するよ」という自己犠牲的な行動。

 いやあ、そりゃないぜ。人間、そんなに自分を犠牲にできないぜ。

 フィクション以外で聞いたことある? 愛する女性に幸せになってもらいたいから、自ら身を引いた人の話を。親友が大事だから、自らの命を投げだした人を。

 ねえよ。戦時下みたいな特殊な状況で「殺らないと殺られる!」みたいにおもいこまされたのならともかく、平常時に洗脳されたわけでもない人が自己犠牲精神を発揮するかというと……、ううむ、納得できない。


 主人公の行動はひたすらエゴイスティックで共感できただけに、親友のうすっぺらい行動にはがっかり。

 最後にもう一段階「これもまた主人公の願望によって改竄された記憶でした!」っていうオチがあるのかとおもったら、それもなく。都合のよい願望かとおもったら、都合のよい現実でした。


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2022年6月3日金曜日

漫画読むのだりー

 漫画読むのだりー

とおもう日が来るとはおもわなかった。


 ぼくは漫画が大好きだった。小説やノンフィクションも好きだが、漫画のほうが好きだった。小説も好きだったが、どっちかっていったら「お金がなくて漫画が買えない」「図書室には漫画がない」「漫画を人前で読むのは恥ずかしいからかっこつけて小説を読む」みたいな消極的な理由で、できることなら漫画ばかり読みたかった。

 母親がぼくに語ってくれたエピソードがある。ぼくが小学生のとき、いっしょに買い物に出かけ、買い物をする間ぼくを本屋で待たせておいた。母親が戻ってくると、息子がむずかしそうな小説を読んでいる。感心感心とおもって「一冊買ってあげるよ」と声をかけると、息子はうれしそうに小説を棚に戻し、漫画コーナーへと走っていったという。つまり「ほんとは漫画を読みたいけど漫画はシュリンクされていて立ち読みできないので小説を読んでいただけ」だったのだ。

 小学生のときはこづかいが少ないから漫画は月一冊しか買えなかったし、中高生のときも遊ぶ金がほしくて漫画はそうそう買えなかった。ほんとにほしい漫画(『行け!稲中卓球部』とか『王様はロバ』とか)を月に一冊ぐらい買うだけだった。
 その点、文庫本は安かった。古本屋だと百円で買えたし、近くの公民館でやってたバザーではなんと一冊十円で買えた。おまけに活字の本は一冊読むのに時間がかかる。漫画だったらあっという間に読んでしまうが、活字の本は数日はもつ。ぼくが活字の本をたくさん読んでいたのは「漫画が買えなかったから」だ。


 大学生になると、バイトなどである程度お金に余裕もできて、思う存分漫画を買えるようになった。おもえばこの頃がいちばん漫画を読んでいた。

 今のようにネット上で試し読みもできないし、ネットでレビューも見られなかった時代。どうやっておもしろい漫画を買っていたとおもう? 若い人には想像もできないかもしれない。

 答えは「表紙だけで買ってみる」である。

 表紙と裏表紙の絵、作品タイトル、帯に書かれたわずかなコメント。そういったものを頼りに「おもしろそう」なものを買ってみるのだ。ときには作者のペンネームで選ぶこともある(黒田硫黄なんてはじめはペンネームのセンスだけで選んだようなものだ)。

 あとはブックオフにもお世話になった。ブックオフは立ち読みできたからね。


 大学を卒業してからも漫画はたくさん読んでいた。無職時代は時間だけはあったので漫画喫茶に行ったり、古本屋でまとめ買いをしたりして、『ジョジョの奇妙な冒険』『SLAM DUNK』『H2』などの数十巻ある作品を数日で一気読みしたりしていた。

 その後、書店で働きはじめると「まだ流行っていない作品」の情報が入るようになった。知らない人も多いが、書店に届いた時点ではコミックはまだシュリンクがかけられていないのだ。品出しをする書店員は読み放題なのである(もちろん仕事があるからじっくりは読めないけど)。

『聖☆おにいさん』も『テルマエ・ロマエ』も『俺物語』も『ママはテンパリスト』も『ダンジョン飯』も、「この漫画がすごい!」に選ばれるよりずっと先におもしろさを知った。


 だが、書店員を辞めてから急速に漫画を読まなくなった。読むのは、以前から買っていたシリーズのみ。新たに開拓をすることはほとんどなくなった。今では継続的に買っているのは『HUNTER×HUNTER』と『ヒストリエ』だけ。どっちもなかなか新刊が出ないので(いつ出るんだ!)ぜんぜん買っていない。

 今では漫画を買うのは年に二、三冊だ。それも短篇集とか一巻だけを単発的に買うだけで、何十巻も続くシリーズを継続的に買うということはない。経済的には今がいちばん余裕があるのに、電子書籍のおかげで保管場所の心配もしなくて済むようになったのに、今がいちばん漫画を買っていない。


 自分でも驚くことに、漫画を読むのがめんどくさくなったのだ。学生時代には想像すらしなかった。漫画一日中でも読めた。さほどおもしろくなくても、漫画があればとりあえず読んだ。

 ところが今じゃ漫画を読むのがめんどくさい。気になる漫画がないではないが、「連載作品を買って長く付き合っていくのがめんどくさいなあ」とおもうようになった。「三巻まで無料!」なんて広告を見ても心を動かされなくなった。「読んでみておもしろくなかったらイヤだし、おもしろかったら四巻以降も買わなきゃいけないからそれはそれでイヤだ」とおもうようになった。


 もちろん、今の漫画がつまらないなんて言う気はない。今の漫画は歴史上最高におもしろいのだろう。ただ、ぼくが歳をとってしまっただけだ。

 そういや母もそうだった。
 ぼくの母はかつて漫画好き少女だったらしく、家には手塚治虫の古い漫画がたくさん置いてあった。我が子にも手塚治虫漫画を買ってくれた。

 だがぼくの知っている母は漫画をほとんど買わなかった。たまに気まぐれで『ガラスの仮面』や『動物のお医者さん』を買ってきてくれたが、あまり読んでいる様子はなかった。小説はよく読んでいたが。

「漫画好きなのになんで漫画読まないんだろう」とおもっていたが、あのときの母とほぼ同じ歳になってわかった。漫画を読むのはけっこうめんどくさいのだ。人によっては、活字の本よりも。


 ということで、若い人に言いたいのは、今のうちに漫画をたくさん読んでおいてもいいし、読まなくてもいいし、おまえがどうしようがこっちは知ったこっちゃねえしよく考えたら若い人に言いたいことなんてべつになかったわ。


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