2020年8月5日水曜日

【読書感想文】死後にビデオテープを学習する貞子さん / 鈴木 光司『リング』

リング

鈴木 光司

内容(e-honより)
同日の同時刻に苦悶と驚愕の表情を残して死亡した四人の少年少女。雑誌記者の浅川は姪の死に不審を抱き調査を始めた。―そしていま、浅川は一本のビデオテープを手にしている。少年たちは、これを見た一週間後に死亡している。浅川は、震える手でビデオをデッキに送り込む。期待と恐怖に顔を歪めながら。画面に光が入る。静かにビデオが始まった…。恐怖とともに、未知なる世界へと導くホラー小説の金字塔。

言わずと知れたホラー小説の金字塔的作品。
たぶん日本で一番有名なホラー小説だろう。

ぼくは小説も映画も見たことがなかったが、「呪いのビデオ」とか「井戸の中から貞子」といった断片的な知識はあったので、小説を読んでいて貞子という名前が出てきたときには
「いよっ、待ってました!」
と掛け声をかけたくなった。
歌舞伎『リング』だったらじっさいに言っていた。

それぐらい有名なので、もうあんまり怖くない。

発表当時(まだ映画にもなる前)、ホラー好きの母がこの小説を読んで
「私もいろんなホラー作品を観てきたけど、こんなに不気味な小説は読んだことない!」
と絶賛していた。

そのときに読んでいたら怖がれたのかもしれないな。



映画版の「テレビ画面から貞子から這い出してくるシーン」が有名だけど(ぼくはパロディしか見たことないけど)、原作には貞子は登場しないんだね。

こっちのほうがいいね。
姿が見えない、なのにその存在が感じられる。だからこそ怖い。
見えちゃったら想像力をかきたてられないもの。

まあ映像作品で「姿が見えない怖さ」を描くのはむずかしいんだろうけど。
とはいえ貞子に具体的なビジュアルを与えたのは“逃げ”だよなあ。映画観てないけど。



なんで「呪いのビデオテープ」なのか知らなかったけど、読んではじめて「ああ、なるほど。拡散させるためにビデオテープにしたのか」と合点がいった。

ホラーの小道具としてはちょうどいいよね。
「呪いのYouTube動画」だったらあっというまに全世界に拡散しちゃうからじわじわ拡がる怖さがないもんね。

しかし気になったのが一点。
貞子は1966年に殺されている。ところがVHSの誕生は1976年。
つまり貞子は生前ビデオテープを知らなかったはずで、なぜ「呪いのビデオテープ」を生みだすことができたのだろう。
カセットテープですら日本で発売されたのが1966年なので、貞子は使い方を知らなかった可能性が高い。

死後にビデオテープの機能について学んだんだろうか……。
VHSとベータの戦いを見守って、VHSが勝ったからVHSに怨念を込めたのだろうか……。

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【読書感想文】三半規管がくらくらするような小説/小林 泰三 『玩具修理者』

ママは猟奇的



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2020年8月4日火曜日

怖い怖い児童文学 / 三田村 信行『おとうさんがいっぱい』

おとうさんがいっぱい

三田村 信行(著)  佐々木 マキ (挿画)


 子どものときから本は好きだったのでいろんな本を読んだが、もっとも印象に残った本を一冊だけ選べと言われたら『おとうさんがいっぱい』を挙げたい。

 好きだったわけではない。
 むしろ嫌いだった。
 なぜならめちゃくちゃ怖いから。
 児童文学とはおもえないぐらい怖い。


 ぼくはいわゆる『怖い話』は好きじゃない。
 怖くないから。
 幽霊とか心霊現象とかをまったく信じていないので霊的な怪談はなんともおもわない。心が無風。
 事故物件だって住めと言われたら住めるぜ(あえて選ぶほどではないけど)。ラララ科学の子。

 ぼくが子どものときに怖かった話は三つ。

『世にも奇妙な物語』の『替え玉』というエピソード。
『まんがにっぽん昔話』の『影ワニ』というエピソード。
 そして『おとうさんがいっぱい』。
 ぜんぶよくわからない話だ。
 奇妙なことに巻きこまれるが、なぜそうなったのか説明できない。
「おまえがあのとき殺した女の怨念が幽霊となった」みたいなわかりやすい説明がない。
 そういうのが怖い。

『おとうさんがいっぱい』は怖かった。
 幽霊もお化けも殺人鬼もゾンビも血も出てこない。描写も最小限で淡々とした文章。なのに怖い。

 ごく平凡な日常の隣にぽっかりと口を開けた、ほんの少しだけこっちと違う世界の入口。
 そんな感じ。
 カフカみたいだ。カフカ読んだことないけど。



『おとうさんがいっぱい』には五編の短編が収録されている。

 もうひとりの自分と出会う『ゆめであいましょう』

 異次元に迷いこんでしまう『どこへもゆけない道』

 部屋から脱出できない上に自身が世界から切り離されてしまう『ぼくは5階で』

 父親が異空間に閉じこめられる『かべは知っていた』


 どれも怖いが、やはりいちばんおっかなかったのは表題作『おとうさんがいっぱい』だ。

 『おとうさんがいっぱい』はこんな話だ。

~ 以下ネタバレ ~

 おとうさんが家に帰ってきた。もうおとうさんが家にいるのに。
 顔も背格好も話し方もそっくり。記憶もたしか。どちらも完璧なおとうさんだ。
 お互いに自分こそが本物だと主張するがまったく見分けがつかない。
 さらに翌日もうひとりのおとうさんがやってくる。
 同じ現象があちこちの家庭で起きる。なぜかおとうさんばかりが複数に増えたのだ。社会は大混乱。

 政府は方針を定める。家族がひとりのお父さんを選ぶこと。
 おかあさんがショックで寝こんでしまったので、我が家では「ぼく」が決めることに。
 三人のおとうさんは「どういう父親でありたいか」「どういう家庭にしたいか」を必死でプレゼンする。
 それを聞いたぼくは、ひとりのおとうさんを選択する。
 選ばれなかった二人のおとうさんはどこへともなく連れ去られてしまう。激しく抵抗するが強制的に連行される。
 どこへ連れていかれるのかと尋ねても誰も教えてくれない。
 二人のおとうさんの行方を案じていたぼくだが、次第に忘れてゆく。
 これでいいんだ、あれは悪い夢だったのだ……と。

 そんなある日、ぼくが学校から帰ってくるとそこには「ぼく」がいた……。

 ひゃあこわい。
 星新一作品はぜんぶ読んだが、ここまで切れ味がよくて後味の悪い作品はショートショートの神様・星新一ですらそう多くは残していない。

 もう一度書くけど、児童文学なんだよ。おっかねえ。

 いつか娘にも読ませたいけど、夜眠れなくなりそうだしな。
 一年生にはショックが大きいだろうな。いつがいいんだろうな。

 ところで、この本があまりに怖かったので、ぼくはいまだに佐々木マキ氏の絵も怖い。
 佐々木マキ作の絵本(『ぶたのたね』とか)を読んでいても「これ最後にとんでもなくおそろしいことが起こるんじゃ……」とドキドキしてしまう。


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【読書感想文】村上春樹は「はじめての文学」に向いてない / 『はじめての文学 村上春樹』

2020年8月3日月曜日

【読書感想文】悪の努力家 / 高木 彬光『白昼の死角』

白昼の死角

高木 彬光

内容(e-honより)
明晰な頭脳にものをいわせ、巧みに法の網の目をくぐる。ありとあらゆる手口で完全犯罪を繰り返す“天才的知能犯”鶴岡七郎。最後まで警察の追及をかわしきった“神の如き”犯罪者の視点から、その悪行の数々を冷徹に描く。日本の推理文壇において、ひと際、異彩を放つ悪党小説。主人公のモデルとなった人物を語った秘話を収録。
舞台は戦後すぐ。
東大生の鶴岡七郎が悪の天才・隅田光一と出会い、金融会社「太陽クラブ」を結社して徐々に悪の道の魅力をおぼえはじめる。
隅田光一の失敗そして自殺により太陽クラブは解散するが、詐欺の経験と自信を手に入れた鶴岡七郎はさらなる綿密な詐欺計画を次々に実行する……。

前半は実際にあった光クラブ事件(Wikipedia)を下敷きにしている(というかほとんどそのまんま)が、隅田光一の死後に鶴岡七郎が潜在的に持っていた悪の才能を徐々に開花させてゆくのがこの小説の見どころ。
鶴岡七郎は天才・隅田光一よりもずっと人間的な深みがある(このキャラクターにも実在のモデルがいるらしい)。

「生まれもっての悪人+天才」というキャラクターは魅力的だ。
フィクションの世界にはたくさんいる。
『羊たちの沈黙』のレクター博士とか『模倣犯』のピースとか『悪の教典』の蓮実聖司とか。
どれも魅力的だが、どうも現実味がない。
「悪の大魔王」みたいなもので「こんな人が近くにいたらどうしよう」という気にはならない。だってもしいたらどうしようもないもの。ただただ逃げるしかない。
まして「自分がこうなったら」とはおもえない。自分が悪の大魔王になることを想像するのはむずかしい。

ところが『白昼の死角』の鶴岡七郎は根っからの悪ではない。
より大きな悪に触れて悪の道に引きずり込まれた、自分は周囲より頭がいいとおもっている、だが上には上がいるともおもっている、欲望を満たすためなら悪事をはたらくこともあるがその場合でも「だまされるほうが悪い」という自己正当化をおこなう。

隅田光一のほうは生まれついての悪だが、鶴岡七郎は後天的な悪。前者は悪の天才で、後者は悪の努力家。

「自分も環境によってはこうなるかも」と思わされるぐらいの悪人なのだ。
ぼくだって出会う人によっては鶴岡七郎のような生き方をしていたかもしれない。



「約束の期日までに金が用意できず、すぐに百万円を用意しなければ詐欺罪で捕まってしまう」
という状況での鶴岡七郎の言葉。
「あるとも。いますぐ、百万の金が作れたら、なんの文句もないわけだろう」
 いかにも自信ありげな七郎の態度は、善司をすっかりおどろかせてしまったらしい。そんなことがどうしてできる――、というような表情で、眼を見はり、七郎の顔をしばらく見つめていた。
「まあ、僕がいろいろ法律の問題を調べてみたところでは、このままでいったら、僕たち四人が、詐欺で起訴されることだけは、ぜったいに間違いがなさそうだ。まあ、これからの方針は、この現実を頭にたたきこんで、覚悟をきめることから出発するのだね」
「それで?」
「どうせ、そういう運命になっているものなら、毒をくらわば皿までで、ほんとうに詐欺をするんだよ。しくじったところでもともとだ。うまくいって、ここで百万の金ができたら、両方の罪がいっしょに逃げられる。たしかに一か八かの非常手段だが……」
「なんだって! 詐欺から助かるために詐欺をするのか?」
「そのとおり。いやならここであきらめて、刑務所へ行こうか」
詐欺で捕まらないために詐欺をする……。
なるほど、どうせ捕まるなら少しでも助かる目があるほうに賭けたほうがいい。
最後まであきらめない。まるで高校球児のようなひたむきな姿勢だ。すばらしい!

「このままだと捕まる」という局面で、「逃れるためにさらに罪を重ねる」という選択をできるかどうかが、大悪党と小悪党を分ける境目なんだろうな。
そしてたぶんどうせやるなら大胆に行動したほうが成功する。

……だけどふつうはそれができないんだよな。
どうしても守りに入ってしまう。

やはりぼくは大悪党にはなれなさそうだ。
「悪の道から足を洗うのです。それ以外、あなたが救われる道はありません」
「とおっしゃると?」
「犯罪の道で成功することは、世間が考えているよりも、ずっとむずかしいことですよ。そこには人なみはずれた知恵と、不撓不屈の勇気と、たえざる練磨が必要です。戦争以上に、常住座臥、緊張の連続が要求されます。あなたのような人間には、それはとうてい無理でしょう。ですから今後犯罪からは、ぷっつり縁を切りなさいと申しあげるのです」
鶴岡七郎は詐欺行為を重ねて財産を手に入れるが、彼のような知能、演技力、大胆さと緻密さ、そして人間的魅力があれば、まっとうに働いてもきっと成功していただろう。
もしかしたらそっちのほうが稼げていたかもしれない。
それだったらもちろん警察に追われることもないし。

でも彼は詐欺をやる。
それは金儲けや名声のためではない。
詐欺をしたいから詐欺をするのだ。

好きこそものの上手なれというけれど、詐欺師でもヤクザでもマフィアでも、成功するのはその道が好きな人、その道でしか生きられないような人なんだろうな。
「楽して金を儲けたい」みたいな動機ならまっとうに働いたほうがずっと楽なんだろうとおもうよ、ほんと。



ところでこの小説、中盤まではおもしろかったんだけど、後半は退屈だったなあ。

はじめのうちこそ死角を突くような大胆な手口で詐欺を実行するのだが、中盤からはぜんぜんスマートじゃない。

「酒に酔わせて都合のいい約束をさせる」とか。
なんじゃそりゃ。どこが「白昼の死角」なんだよ。おもいっきり力技じゃねえか。

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【読書感想文】貴志 祐介 『悪の教典』



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【読書感想文】軽妙な会話が読みたいなら / 伊坂 幸太郎『フィッシュストーリー』

フィッシュストーリー

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
最後のレコーディングに臨んだ、売れないロックバンド。「いい曲なんだよ。届けよ、誰かに」テープに記録された言葉は、未来に届いて世界を救う。時空をまたいでリンクした出来事が、胸のすくエンディングへと一閃に向かう瞠目の表題作ほか、伊坂ワールドの人気者・黒澤が大活躍の「サクリファイス」「ポテチ」など、変幻自在の筆致で繰り出される中篇四連打。爽快感溢れる作品集。
短篇集。
伊坂幸太郎らしい作品が並ぶ。

 動物園のエンジン


精神病、オオカミ、マンション建設というお題で三題噺をつくったらこんな話になるかな、というストーリー。
つまりとりとめのない話というか。
異質なものをむりやりくっつけてみたけどいまいちきれいにはつながらなかった感じ。
会話のおもしろさは楽しめる。


 サクリファイス


人里離れた山奥の村に古くから伝わる生贄の風習。
その風習を利用して村長が人を殺そうとしているのではないかと疑いを抱いた主人公・黒澤だが……。

と、サスペンス調の話運びに引きこまれたのだが、結末はどうも拍子抜けというか宙ぶらりんというか。
ミスリードの推理を真相が下回ってしまってるんだよな……。


 フィッシュストーリー

映画化されたものを以前観たことがある。
「なんだこれ。退屈な映画だな……。このバラバラのエピソードがどうつながるんだ……」
とおもいながら観ていたら、ラストで
「おお! そうつながるのか! 予想外の角度から来たな!」
と驚かされた。

既にストーリーは知っているので「バラバラのエピソード」部分で退屈せずに済んだのだが、ラストの切れ味は映画版のほうが上だったな。
もちろんぼくがネタを知っていたからというのもあるけど、映画の演出はスピーディーでわかりやすかったからな。
あれは映像の強みだよね。一気に全部種明かししても説明くさくならない。これを文章でやると野暮ったくなっちゃう。

ぼくが映画版を先に観たからかもしれないけど、映画版のほうがおもしろかったな。前半つまらなかったけど。
長編小説を映画化するとたいてい失敗するけど、短篇の映画化はうまくいくこともあるね。


 ポテチ

『サクリファイス』にも出てきた黒澤が再登場。伊坂幸太郎作品によく出てくるキャラだね。
この話では黒澤は主人公ではなくその後輩たちが主役。

ストーリーは特にどうってことのない話なんだけど、登場人物や軽妙な会話はこの短篇集の中でもっとも魅力的だった。
大笑いするようなものではないんだけど、ウィットに富んだ上品なユーモアが満ちあふれている。

伊坂幸太郎作品の魅力って会話にあるのかもしれない。
正直、ストーリー運びを軸に置いたものはあんまり好きじゃないんだよね。
ぼくは『ゴールデンスランバー』よりも『陽気なギャング』シリーズのほうが好きだ。



「おもしろい物語が読みたい!」という人にはものたりない短篇集だとおもうけど、時間つぶし的に楽しむにはおもしろいとおもうよ。

2020年7月30日木曜日

【読書感想文】そんなことまでわかるのにそんなこともわからないの? / マーカス・デュ・ソートイ『数字の国のミステリー』

数字の国のミステリー

マーカス・デュ・ソートイ(著)  冨永星(訳)

内容(e-honより)
素数ゼミが17年に一度しか孵化しない理由、世界一まるいサッカーボールを作る方法、雷とブロッコリーと株式市場に共通するもの、ベッカムのフリーキックが曲がる理由、パーティで仲の悪い二人が二人きりにならないようにする方法…。今なおトップクラスの現役数学者である著者が、数学の現場の豊富なエピソードを交えながら、この不思議で美しいワンダーランドをご案内します!
高校数学は得意だった(センター試験で数学ⅠAと数学ⅡBの両方100点だったのが自慢!)。
でも大学では文系の道に進んだ。

この話をすると数学が得意でなかった人には「そんなに数学が得意なのに文系に行くなんてもったいない!」と言われるが、数学の奥深さを知っている人間ならわかるだろう。
高校数学ができることとその後の数学をやっていくことはまったく別ものだ。

ぼくは大学に進んでから理学部の数学専攻の人間を幾人か見てきたが、ヤバいやつだらけだった。
休み時間や食事中も楽しそうに数学の話をしているやつや、九次元世界をイメージしているやつや、頭の中だけで麻雀をするようなやつがいた(そいつの話では、訓練すると完全ランダムで牌が引けるようになるらしい)。

つくづく「ああ、“高校数学が得意”ぐらいの自信で数学の道を志さなくてよかった」とおもったものだ。
「世界をすべて数学でとらえる」ぐらいの人間じゃないと足を踏み入れてはいけない世界なのだ。



自分は「数学の世界のスタートラインに立ったぐらいでやめてしまった」人間だが、数学者の話を聞くのはおもしろい。

学生時代は矢野健太郎さんの数学エッセイや数理パズルの本をよく読んでいた。

数学史を読むと、人間って数学的才能はぜんぜん進歩してないんだなと感じる。

たとえばスポーツなんかだと、五十年前と今とではまったくレベルが違う。
数十年前は世界トップの体操選手が「C難度!すごい!」ってやってたのに、今はC難度の技なんて準備体操みたいなもんで、F難度G難度とやりあっている。

ところが数学はそんなことない。千年前の人が発見した理論が今見てもめちゃくちゃすごかったり、百年前の人が出した問題が今でも解けなかったりする。

もちろん数学は蓄積だから後年の人間のほうが圧倒的に有利なんだけど(あとコンピュータが使えるってのも大きい)、そういうのを抜きにして個人レベルの能力だけで見るならピタゴラスやフェルマーよりすごい現代の数学者なんてほとんどいないんじゃなかろうか。



数学の話を読んでいると、とんでもない次元にまで連れていかれるのが楽しい。
 数学者の多くは、たとえ宇宙のむこう側の生物学や化学や物理学が地球のそれとはまるで違っていたとしても、数学だけは地球と同じはずだと考えている。地球から二五光年のかなたにあること座α星、ベガのまわりを回る系外惑星で腰を下ろして素数に対する数学の本を読んでいる誰かにとっても、59や61は素数であるはずなのだ。なぜならケンブリッジの高名な数学者G・H・ハーディーがいうように、これらの数は「我々がそう考えるからでもなければ、我々の頭脳が今あるような形にできあがっているからでもなく、数学の現実ゆえに素数でしかあり得ない」のだから。
そういやSF小説『三体』にもそんなエピソードがあったような気がする(記憶違いかもしれないが)。
遠い星の生き物と交信をするときに、まずは数学を使うと。

数学的に意味のある信号を送れば、ある程度発達した文明なら必ず理解できるはずだというのだ。
ふうむ。たしかに環境・姿形・文明など何もかも異なる文明と唯一共有できる話題というのは数学かもしれない。

そんな日が来るのかどうかしらないけど、未知なる文明と数学を使ってコミュニケーションをとりあうのって、なんちゅうかロマンあふれる話だなあ。



バタフライ効果とかカオス理論とかフレーズとしては聞いたことはあっても、いまいちよくわかっていなかった。
 気象学者は今や、海に浮かぶ定点観測船の観測データや衛星から送られてくる画像や情報などの膨大なデータを手に入れることができる。しかもきわめて正確な方程式を使って、大気のなかで空気の塊がぶつかり合って雲ができたり風が起きたり雨が降ったりする様子を説明することができる。気象がなんらかの数式によって決まっているのであれば、その方程式に今日の気象データを入力して、コンピュータで来週の天気がどうなるかを調べるくらいのことは朝飯前だろうに……。
 ところが残念なことに、最新のスーパーコンピュータをもってしても、二週間後の天気を正確に予報することはできない。この先どころか、今日の天気すら正確にはわからないのである。もっとも優秀な測候所でも、その精度には限りがある。それに、空気に含まれる粒子一つ一つの正確な速度やありとあらゆる場所における正確な温度、地表のすべての地点における気圧を知ることなどとうてい不可能だ。ところがこれらの値がほんの少し変わるだけで、天気予報はがらりと変わる。このような状況を「バタフライ効果」という。一匹の蝶々が打っただけで大気にわずかな変化が起きて、その結果地球の裏側で竜巻やハリケーンが生まれて大混乱が起き、人命が奪われて何百万ポンドもの損害が生じる可能性があるというのだ。
科学はどんどん進歩してるのに、天気予報はちっともあたらない。
五十年後の日蝕がいつ起こるかは正確に予測できるんだから三日後の天気ぐらいかんたんでしょ、と素人はおもってしまうのだが、どうもそうではないらしい。

天気を決定するデータは無限にあるのに観測できるデータは有限。おまけにちょっとずれただけでぜんぜんちがう結果が生まれるので、正確な予測はこの先もたぶん不可能なんだそうだ。
ふうん。地震予知とかも永遠に不可能なのかねえ。

「えっ、宇宙が始まった瞬間の0.1秒後の状態のことはわかっているのに三日後の天気もわからないの!?」
っておもっちゃうんだけどなあ。



いちばん信じられないエピソードがこれ。
 フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは、第二次大戦中にドイツ軍に捕まって、下士官兵用捕虜収容所Ⅷ-Aに収容された。そして同じ収容所にクラリネット奏者とチェロ奏者とバイオリン奏者が収容されていることを知ると、三人の演奏家と自分のためにピアノ四重奏曲を作りはじめた。こうしてできたのが、二〇世紀における音楽のすばらしい結実というべき「世の終わりのための四重奏曲」である。この曲はまず捕虜収容所Ⅷ-Aの関係者と収容者に披露されたが、このとき作曲家自身は収容所にあったおんぼろなアップライト・ピアノを弾いたという。
で、その音楽に“素数”が重要な役割を果たしていた……。

嘘つけー!!と言いたくなるぐらいできすぎたエピソード。
こんなすごい話ある?