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2018年12月19日水曜日

【芸能鑑賞】『リメンバー・ミー』


『リメンバー・ミー』
(2018)

内容(Amazonプライムより)
家族に音楽を禁じられながらも、ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。ある日、彼はガイコツたちが楽しく暮らす、カラフルで美しい死者の国に迷い込んでしまう。日の出までに帰らないと、ミゲルの体は消えて永遠に家族と別れることに…。唯一の頼りは、陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。だが、彼にも生きている家族に忘れられると、死者の国から存在が消えるという運命が…。絶体絶命のふたりと家族をつなぐ重要な鍵──それは、ミゲルが大好きな名曲リメンバー・ミーに隠されていた…。

ピクサーの真骨頂といってもいいような映画だった。
個性豊かな登場人物、ストーリーが進むにつれて明かされる真実、手に汗握るアクション、シンプルながら力強いメッセージ。どこを切り取ってもすばらしい。

ピクサーファンのぼくとしてはもっと早く観たかったのだが、五歳の娘に「これ観ようよ」と誘っても「やだ。プリンセスが出てくるやつがいい」と断られて、なかなか観ることができなかった。
そりゃあね。五歳の女の子からしたら『リトル・マーメイド』とか『眠れる森の美女』とかのほうがいいよね。ということで、そのへんの作品も観てもらった上で、「じゃあ次はいよいよ『リメンバー・ミー』ね」ということでようやく観させてもらった。



(ここからネタバレ)


いやあ、泣いたね。
中盤ぐらいで「たぶん最後はミゲルがママココといっしょに『リメンバー・ミー』を歌うんだろうな」と思って、その通りの展開になったんだけど、やっぱり泣いた。まんまとしてやられた、って感じだ。音楽の力って偉大だなあ。

序盤に
「祭壇に写真を飾られていないと死者の国から帰ってくることはできない」
「現世で誰からも忘れられたとき、死者の国で二度目の死を迎える」
というふたつのルールを自然な形で提示する。
そして中盤以降はその二つのルールが物語にいい制約を与え、ラストはこのルールが感動を生む。
ピクサーはほんとに物語作りがうまいよね。

最近「ラストに意外などんでん返し! あなたは伏線を見抜けるか?」みたいな小説や映画がよくあるけど、その手の物語はまあたいていつまらない。
伏線やトリックが読者を驚かせるためのものでしかないんだよね。驚かせたその先に何があるかが大事なのに。

その点『リメンバー・ミー』は、伏線の貼り方が巧みすぎて観終わった後でも伏線だったと気づかないぐらい。なんて上質な仕掛け。
しかも「観客をだますための仕掛け」自体は物語の中心に据えられていない。あくまで、メッセージを届けるための手段でしかない。

ミゲルが歌う『リメンバー・ミー』を聴きながらぼくは、自分が死んで数十年たった日のことに思いを馳せた。
自分が死に、娘が歳をとり、百歳の娘にも死期が迫る。そのとき、娘はぼくのことをおぼえていてくれるだろうか。ぼくと過ごした日のことをいまわの際に思いだしてくれるだろうか。

百年後のことまで想像させてくれる映画は、文句なしにいい映画だ。



ピクサー作品にははずれがない(『カーズ』を除く)。
だからこそこんな映画が作れたんだろう。

この設定を思いついたとしても、ふつうは金をかけてつくれない。
かわいいキャラは出てこないし、主人公もごくごくふつうの少年だし、行動を共にするのはガイコツだし、舞台は死者の国だし、とにかく地味だ。主人公の相棒も汚い野良犬だ。
とても客を呼べる設定ではない(現に、ぼくの娘はなかなか観ようとしなかった)。

それでもぼくが観ようと思ったのは、それがピクサー制作だから。信頼と安心のピクサーブランド。
そして見事に期待に応えてくれた。
名作ぞろいのピクサー作品の中でも、『トイ・ストーリー』シリーズ、『インクレディブル』シリーズの次に好きな映画になった。



ところで、この映画の舞台である死者の国には、
「現世の誰からも忘れられたら消える」
「死んだときの年齢で死者の国にやってくる」
という設定があるが、この世界は現世以上に少子高齢化がすごいだろうな。

医学の発達によって若い人はどんどん死ななくなっていて、死ぬのは年寄りばかり。おまけに子どもは忘れられて死者の国から消えるのも早い(子孫がいないから)。

じっさいにこの設定の死者の国があったら、年寄りであふれかえっていて目も当てられない状況かもしれないな。

戦争があったら一気に死者の国も若返るんだろうけど。


【関連記事】

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』

【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』


2018年9月25日火曜日

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて


コントという表現手法が持つ強みについて。
単純に「短時間に大きな笑いをとる」という点においては、コントはあまり強くない。
状況説明に時間がかかるし、芝居の設定が乗っているから登場人物のとれる行動に制約がある。使える言葉もかぎられる。

「短時間に大きな笑いをとる」という点で考えれば、漫才のほうがずっと向いている。
キングオブコントがテレビ番組としていまいち成功していない理由もそこにある。老若男女いろんな人が観る、途中から観る人もいる、集中して観る人ばかりではない。そういうテレビの特質には、きちんと作りこまれたコントはあまり向いていない。「一分で笑える爆笑ネタ!」みたいなののほうがよほどテレビ向きだ。
(だからキングオブコントはテレビスタジオではなくどこかの劇場で客を入れてやって、それを中継する形のほうがいいと個人的に思う)

ではコントの強みがどこにあるかというと、多様な感情を引き起こすのに向いている点だ。

笑わせるのはもちろん、悲しさ、哀れさ、気まずさ、怖さ、いらだち、とまどい。さまざまな感情を我々はコントの登場人物を通して感じとることができる。
ただ「笑える」だけなら漫才のほうが向いている。
ぼくがコントを観るときは、そこに「感情を揺さぶってくれるもの」があることを期待して鑑賞する。今風の言葉で言うなら「エモさ」があるかどうか、ということになるだろう(おっさんが無理して使ってみたので使い方があってるかどうかはしらない)。



前置きが長くなったが『キングオブコント2018』の感想。
審査についてはいろいろ言いたいこともあるけど、ここではコントの中身だけ。

やさしいズ


会社の待遇に不服をおぼえる男が会社のビルを爆破しようと深夜のオフィスに忍び込むが、清掃のアルバイトが現れ……。

登場人物のコントラストが効いていたり、ストーリーに起伏があるところなど、いいコントだったと思う。アルバイト役が、ちゃんと「工業高校出て清掃バイトしてるやつ」の風貌をしていたのがすごく良かった。
不穏な空気の冒頭から、能天気だけどポジティブなアルバイトとの会話を通して爆破犯が徐々に心を開いていく様は、まさにやさしいコントだった。
ただ残念ながら、爆破犯役の芝居がうまくなかった。一生懸命演じているのが伝わってしまう。彼がもっと緊張感のある演技をできていたら、その後の展開への落差も大きくなって笑いも増えただろうに。
いきなり「あとは起爆スイッチを押せばビル中にしかけた爆弾が爆発して……」の説明くさい独白から入ったら、緊張感もなにもあったもんじゃないよね。
自然な会話から設定を観客に伝えることができていれば、もっと入りこめたんだけどな。


マヂカルラブリー


コンビニで自分の傘を探していたら、傘を盗もうとしていると疑われる……という日常のとるにたらない出来事がひたすらループする、というコント。

タイムループもののパロディ的なコントなのだが、はたしてパロディになっているのか?
タイムループものの作品は多いが、乾くるみ『リピート』も北村薫『ターン』もアニメ『時をかける少女』も映画『サマータイムマシンブルース』も、わりとどうでもいい日常、しょうもない理由でループしてるんだよね。
「こんなとこじゃなくない?」といわれても、「いや、"こんなとこ"をおもしろく見せるのが腕の見せ所なんじゃないの?」と思ってしまう。

ただ途中から「おじさんもループしている」ことが明らかになって話がどんどん転がっていくあたりはおもしろかった。
「信じたくなくて逆に強くあたってしまった」という妙に説得力のあるセリフや、「この世界はおじさんの夢の中」という不気味さがすごく好き。
タイムループに巻きこまれる怖さを上回る、「あぶないおじさん」の怖さ。ここをもっと前面に出してほしかったな。


ハナコ


犬を演じる、という以外に説明のしようのないコント。

このトリオのコントは以前にも何本か観たことがあったが、これはその中でもとびぬけてつまらなかった。キングオブコント史上もっともおもしろみのないコントのといってもいいぐらい。

ぼくも犬を飼っていたので「あー、あるある」とは思ったが、ただそれだけ。
犬の感情を描くといううっすらとしたユーモアがひたすら続く。NHKの「LIFE!」でやっててもおかしくないぐらい平和なコント(悪い意味で)。
三人目が登場したところで新たな展開があるのかと思いきや、何も起きない。最後に意外な事実が明らかになるのかと思いきや、やはり何にも起きない。
とうとう最後まで「うちの犬もこうだったわ。なつかしい」以外の感情を動かされることはなかった。
これだったら昔セコムがやってたおじさんが犬を演じるCMのほうがずっとおもしろかった。


さらば青春の光


予備校の生徒に対して、熱い言葉で勉強の大切さを説く講師風の男。ところが彼は授業をせず、説教だけをすると他の講師にバトンタッチして教室から出ていく。どうやら「鼓舞する人」という名目で雇われているらしく……。

「感情を揺さぶってくれるもの」という点で、今大会もっとも好きなコントだった。悲哀や憐憫、プライドが折れる様などを短時間でしっかりと表現していた。テレビ審査では明るくハッピーなストーリーが好まれるようだが、劇場でやったらこれが一番になっていたんじゃないかな。

とはいえこの底意地の悪い着眼点のコントが決勝に行けなかった理由は会場の空気にあわなかっただけではない。無駄な演出が多かった。
まず冒頭で講師風の男が生徒に説教をかましているシーン。あの現場に本物の講師がいないほうが良かった。二人いることに違和感があったから、あれでぼくは「こっちが本物の講師かな」と思ってしまった。そのせいで「では先生、お願いします」の衝撃が小さくなった。

また説明過剰だった点も後半勢いづかなかった理由だろう。本物の講師が「あの人は鼓舞する人や」という台詞はまったくの無駄だった。あの説明がなくても観客にはだいたいわかる。
講師が「鼓舞する人」を見下してることもはっきり口に出さずに伝えてほしかった。言葉に出さずに感じさせるのが芝居だし、それができる演技力を持っているコンビなのだから。
チョコレートプラネットの一本目やハナコの二本目は、説明をばっさりと省いて成功した。
さらば青春の光も、もっと観客の想像力に委ねる大胆さがあればパーフェクトなコントになっただろうと思うと残念でならない。


だーりんず


居酒屋で会社の後輩と出会った先輩が、こっそり後輩の分の勘定を済ませてやろうとする。ところが店員に意図がうまく伝わらず、思っていたようにスマートに感情をすることができない……。

ネタは良かった。ありそうなシチュエーション、誰もが持っている些細な見栄、慣れない人がかっこつけようとした結果かっこ悪くなってしまうというコミカルさ。
派手な動きはないが、繊細な心の動きが丁寧に描かれていて、もっと見たいと思わせてくれた。
ただ緊張からか、やりとりのぎこちなさが感じられた。ほんの少しなのだが、コントにおいてはそのわずかなぎこちなさが致命的となる。
これを東京03が演じたらめちゃくちゃおもしろいコントになったんだろうなあ。かっこつけたい角田先輩、めんどくさそうにする飯塚店員、空気を読まない豊本後輩とかでカバーしてほしい。


チョコレートプラネット


見知らぬ部屋で目を覚ました男。首には不気味な装置がつながれ、モニター画面では覆面男が「今からゲームをしてもらう……」という説明をはじめる。ところがつながれた男はパニックになってしまい、ゲームの説明をまったく聞こうとしない……。

前半部分は以前にも見たことがあった。しかしあれがおもしろいのは二分ぐらいまでだろうと思っていたら、謎のにおい、謎の装置、仕掛人登場、新たな仕掛人の存在と新たな展開を見せてちゃんと長尺に耐えられるネタに仕上がっていた。
いやあ、おもしろかった。『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム風の冒頭から、ひたすら叫びつづけるばかばかしい展開へ。「においは知らない!」は笑った。
恐怖の象徴のような覆面男がだんだんかわいそうになってくるのがいい。

じっさいにデス・ゲームをしようとしたらこういうことになるかもしれないと思わせてくれるリアリティがあった。フィクションではみんなおとなしくルールを聞いてルールにしたがってゲームを始めるけど、現実にはなかなかゲームが進まないんじゃないかな。

欠点を挙げるとすれば、覆面男の声が聞き取りづらかったこと。
あと覆面男の名字が「鈴木」というのはいただけない。名字がベタすぎておもしろくない。「橋本」とか「川谷」とか「石原」ぐらいの名字にしたほうがいいと思う。そこそこメジャーで、四文字の名字のほうがいいな。「群馬!」のところも「前橋!」とか「大宮!」ぐらいのほうがおもしろかったような。
とはいえ、ストーリーが動きながらも前半から最後までずっと笑いが起きつづける展開で、文句なしの一位。


GAG


同級生が居酒屋でアルバイトをしていることに驚く、進学校の生徒。大人のお姉さんの性的魅力に翻弄される少年たち……。

いつの間にかGAG少年楽団から改名してたんだね。「GAG」と「少年楽団」のうち、ダサい方を残しちゃったなあ。
そういや今大会の出場者、名前ダサすぎじゃない? だーりんずもマヂカルラブリーもわらふぢなるおもやさしいズもさらば青春の光もダサい。わざとダサさを狙ったのかもしれないけど、これだけ並ぶと一周半してやはりダサい。まあ名前のダサさではバイきんぐの右に出るものはいないけど。

ボケらしいボケもなく、ふたりの関係性に対するツッコミの視点のみで笑いを取りにいくという姿勢は評価したい。トリオならではだね。
ただしツッコミ役は芝居の中にいながらメタな視点での台詞を入れることになるため、芝居としてのリアリティは完全に壊れてしまう。
それはそれでありだけど、フレーズのひとつひとつが丁寧すぎて、一生懸命考えたなというのが伝わってしまう。舞台裏が見えてしまうのは芝居としてマイナスにしかならない。ぼくたちの努力の結晶です、笑ってくださいと言われても笑えないよね。

とはいえGAG史上最高に良かった。
男子高校生の青くささがびんびんと伝わってきて、村上龍の名作『69』のような味わいがあった。


わらふぢなるお


新しく入ったコンビニのバイトと店長がレジに立つ。ただしバイトにはわかりきったことをいちいち訊く「カラ質問」が多く、店長は次第にいらついてくる……。

人をいらつかせるキャラクター、よく練られた会話、おもしろかった。おもしろかったけど……。
芝居として見るといろいろとものたりない。動きがないこともあるし、「このシーンに至る前」の作りこみが甘いことも不満だ。
「レジの業務をひととおり教えた後」という設定だが、レジの業務を教えている間はカラ質問をしなかったのだろうか? 説明を終えた途端にカラ質問をするようになったのだろうか? だとしたらなぜ?

人生の一部を切り取ったコントではなく、コントのための人生を送っているキャラクターなんだよね。昨年のネタもそうだったし、二本目に演じたネタはもっとひどかった。このコンビのコントは「芸人のコント」なんだよなあ。ぼくは笑える「芝居」が観たい。


ロビンフット


結婚することになった中年男性とその父親。ところが男性は、妻となる女性の年齢を知らないという。わかっているのは干支だけ。たぶん三十六歳だと男は言うが、よくよく話を聞いてみると……。

「年齢がわからず戌年ということだけわかっている」という設定であればこうなるだろうな、という予想通りに話は展開していくが、そのシンプルさがむしろ心地いい。
とはいえこういうコンテストで観たいのは新しい切り口なので、ベテランがベテランっぽいネタをやってもそりゃあ優勝はできないよね。
どんどん年齢が上がってくるのはおもしろいが、そうなると序盤で語っていた「26の子どもがいる」「50ぐらいに見える」という設定が少し苦しくなってくる。その苦しさを強引に押しきるほどのパワーはなかったな。


ザ・ギース


物に触れるだけでそれを使っていた人物の思念を読みとることのできるサイコメトラーの少年。殺人事件の捜査のために遺留品に触れるが、見えてくるのは製造工程ばかり……。

シュールな発想の一点突破ネタで、さすがに五分はきつい。中だるみ感は否めなかった。
終盤の「身近にいる捜査協力者だと思ってた人が犯人」という展開もわりとよくあるやつで、そこまでの意外性はなかった。
さすがはメイドインジャパン、中国製はイマイチ、といった台詞も今の時代にあってなくて笑いにつながらず。

ところで、マヂカルラブリー、チョコレートプラネットといい、ずいぶんSF・サスペンス的なネタが多い。そこまでド定番なネタではないと思うのだが、SFに明るくない人はすっと設定に入れるのだろうか?


決勝戦


うーん、どれも感想を書きたいネタではなかったので省略。



【関連記事】

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


2018年9月10日月曜日

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』

(2017年)

内容(Amazon Prime Videoより)
24歳のOLヨシカは中学の同級生"イチ"へ10年間片思い中!過去のイチとの思い出を召喚したり、趣味である絶滅した動物について夜通し調べたり、博物館からアンモナイトを払い下げてもらったりと、1人忙しい毎日。そんなヨシカの前へ会社の同期で熱烈に愛してくれる"リアル恋愛"の彼氏"ニ"が突如現れた!!「人生初告られた!」とテンションがあがるも、いまいちニとの関係に乗り切れないヨシカ。"脳内片思い"と"リアル恋愛"の2人の彼氏、理想と現実、どちらも欲しいし、どっちも欲しくない…恋愛に臆病で、片思い経験しかないヨシカが、もがき、苦しみながら本当の自分を解き放つ!!

友人から勧められての鑑賞。
綿矢りさの同名小説の映画化。

おもしろかった。全員ヘンな登場人物、クレイジーな疾走感、ばかばかしいセリフまわし、なにより主役の松岡茉優の演技が光っている(ただちょっとかわいすぎる。このキャラクターならもっとダサい恰好、ダサいメイクをしててほしい)。
偏執的、オタク、人見知り、攻撃的、ナイーブ、メルヘンチック。困った部分を寄せ集めたようなキャラクターをうまく演じている。
突然のミュージカルパートも最高(歌がすごくうまいわけでもないのがまたリアルでいい)。

主人公は、周囲の人間に勝手なあだ名をつけていたり、ずっと片思いをしている男に接近するために興味ない男から言い寄られたときの手口をまんま使ったり、SNSで他人になりすましたり、好きじゃない男から告白されて舞いあがったり、なんつうか「賢い人がバカやってる」感がたまらない。

かと思ったらちょっとしたことで傷つく中学生のような繊細さを持っている。他人のことは平気で攻撃するくせに自分がちょっと傷ついたら大げさに騒ぎたてる。他人に対して成熟したコミュニケーションがとれない、ほんとにめんどくさい女だ。

でもそういうところがすごく魅力的だ。誰の心にもあるガキンチョな部分を具現化したような存在。こんなふうに生きられたらいいだろうな、いややっぱり嫌だな。
ぼくも昔、こういうタイプの女性と仲良くしていたことがあるが、やはり付きあいきれずに離れてしまった。遠目に見ている分には魅力的なんだけどね。でもその身勝手さを受け入れられるだけの度量の大きさはぼくにはなかった。



映像自体にトリックが仕掛けてあって、これまでのあれやこれが実は××だったということが明らかになるのだが(ネタバレのため伏字)、この種明かしをラストに持ってこないところがいい。
「ラストのどんでん返し!」みたいな安易な展開はいらない。そういうのつまらないから。さりげなくやるのがいいんだよね。「驚愕のラストがあなたを待ち受ける!」みたいに書かれたらぜったいに驚愕しない。

テンポの良さもあって序盤から最後までまったく退屈しなかったのだが、ラストで想定内の場所に着地してしまったのは少し残念。ここまでぶっとんだ話をつくるんならもっと思いきったラストでもよかったんじゃないかと思う。まあそれは原作の問題か。

安野モヨコ『ハッピー・マニア』を思いだした。『ハッピー・マニア』のカヨコを内向的にしたらこんな感じだろうな。
どこまでも自分のためにつっぱしる姿って、女性作者とよく合う。男が描いたらもっと周囲を気にしてかっこつけちゃうだろうなあ。

煩悩のままにつっぱしる女性はただただまぶしい。自分ができないからこそ。やりたくないからこそ。


2018年9月3日月曜日

【DVD感想】『アヒルと鴨のコインロッカー』


『アヒルと鴨のコインロッカー』

(2006年)

内容(Amazon Prime Videoより)
大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは・・・。

注意:この記事は、小説及び映画『アヒルと鴨のコインロッカー』のネタバレを盛大に含みます。



伊坂幸太郎の同名小説の映画化。

原作を読んだ人ならわかると思うが、原作の大きな要素として叙述トリックが占めており、「はたしてこれをどうやって映像化するのか?」という点が気になった。

ネタバレをするが、小説『アヒルと鴨のコインロッカー』には河崎という男が出てくる。
この河崎という男が主人公に語る話の中に、たびたびブータン人が登場する。
ところが後になって、河崎はすでに死んでいることがわかる。河崎と名乗った男こそがブータン人だったのだ。

単純な入れ替えトリックだが「日本に来て数年の外国人が日本人に成りすますのは不可能」という思いこみがあるせいで読者は気づきにくい。
この入れ替えトリックが小説『アヒルと鴨のコインロッカー』の肝である。


じつはAとBが同一人物だった。
文章ならこの一行で済むトリックも、映像で表現するのは至難の業だ。なぜなら顔が一緒であれば見ている側は同一人物であることに一瞬で気づいてしまうのだから。
だからこそ「映像化不可能」と言われていたのであり、はたして監督はこの部分をいかに料理したのか――。



結論から書くと、最低の手法だった。

映画『アヒルと鴨のコインロッカー』には回想シーンがたびたび出てくる。
そこに登場する「今の河崎」と「回想シーンに出てくるブータン人」はまったく別の役者が演じている。本当は同一人物であるにもかかわらず、べつの役者が演じているのだ。

嘘じゃん。

いや、嘘をつくことがだめなわけではない。
登場人物の台詞としてであれば、どれだけ嘘が語られてもかまわない。
だが映像で嘘をついてはいけない。小説でいえば、台詞や独白は嘘でもいいが、地の文(状況描写)が嘘であってはならない。それはフィクションとして最低限の"お作法"だ。ここを破ったらなんでもありになってしまう。
こんなのはトリックでもなんでもない。ただのインチキだ。
ルール内で観客をだますから「だまされた!」と気持ちよく叫ぶことができるのであって、ルール無視でだまされたって楽しくもなんともない。ポーカーはルール内で駆け引きをするのがおもしろいのであって、イカサマトランプを使うやつは出入り禁止にするべきだ。

過去に原作を読んでいたぼくは回想シーンで別人が登場してきた時点で「ひでえ!」と叫んでまともに観るのを放棄したが、知らずに観てた人はかわいそうだ。
たとえば「自称河崎が人形劇仕立てで過去のエピソードを語る」みたいな説明方法にすれば、ルールを破ることなく(嘘の)回想シーンを描くことができただろうに。
あまりにもお粗末。知恵がないなら映像化困難な作品を映像化するなと言いたい。

余計な音楽がなくかなり原作の雰囲気を忠実に再現できていたのに、たったひとつの致命的なルール違反のせいで映画全体が台無しになっていたのがもったいない。

あと琴美ちゃんはかなりおバカさんだよね。
ことごとく殺してくれと言わんばかりの愚行を犯してたら、そりゃ殺されるぜ。あまりにおバカな殺され方をしたせいで悲劇性が薄れてしまったのも残念。
変にかっこよく描こうとしたせいでかえってバカみたいになっちゃった。


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【DVD感想】『カラスの親指』


2018年8月18日土曜日

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』


『インクレディブル・ファミリー』

内容(Disney Movieより)
 悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた……。
 そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し……。
 一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

(『インクレディブル・ファミリー』および『Mr.インクレディブル』のネタバレを含みます)

『インクレディブル・ファミリー』を劇場にて鑑賞。映画館に行くのは数年ぶり。娘が生まれてから遠ざかっていたのだけれど、娘も長めの映画を楽しめるようになってきたので一緒に鑑賞。五歳児も楽しんでいた。

ぼくはピクサーの作品はほとんど観たのだが、その中でも『Mr.インクレディブル』は『トイ・ストーリー』シリーズに次いで好きだ。
なにがいいって、わざとらしく感動を狙いにいってないのがいい。お涙ちょうだいだけが感動じゃないということをピクサーはよくわかっている。

そんな『Mr.インクレディブル』の続編、『インクレディブル・ファミリー』。
たいてい続編って一作目の数年後から物語からはじまるものだが、『インクレディブル・ファミリー』は『Mr.インクレディブル』の一秒後からはじまる。ほんとに続編。連続して見てもほとんど違和感がないだろう。

ただテイストは一作目とはけっこう異なる。エンタテインメントに大きく舵を切ったな、という印象。
『Mr.インクレディブル』は「スーパーヒーローの悲哀」というユニークなテーマを丁寧に描いているしストーリーもよくできているんだけど、ピクサーシリーズの中ではいまひとつ人気がない。かわいいキャラクターも出てこないし、主人公は腹の出た中年男だし(途中で腹をひっこめるけど)、子ども受けする要素が少ない。
子どもにはカーズとかニモのほうがウケがいいんだろうね。

そのへんが課題としてあったのか、『インクレディブル・ファミリー』はアクションシーン多め、暗いシーン少なめ、ギャグ多め、子どもが活躍、赤ちゃんも活躍、派手なキャラクター多め、かっちょいいバイクや車が登場……と、これでもかってぐらい子どもに照準を合わせにいっている。音楽は一作目に続いてかっこいい。
主人公であるボブの心情も描かれているが、『ファミリー』で描かれるそれは「育児が思うようにいかないお父さんの苦悩」と、子どもにも理解しやすい。
『Mr.』で描写されていたような「時代の変化についていけずにかつての栄光を忘れられない中年男の悲哀」のような重苦しく大人の観客の心にのしかかってくるようなものではない。


個人的な好みでいえば『Mr.』のほうが好きなテーマだが、観ていて爽快感があったのは『ファミリー』だった。
『Mr.』では、助けてあげた相手から訴訟を起こされたり、パワーを押さえないといけなかったり、まったく意義の見いだせない仕事で成果を出せなかったり、持って生まれた能力のせいで家族がぎくしゃくしたり、かつて自分を慕ってきた男に苦しめられたりと、なんとも気が滅入る展開が多かった。
その分後半の活劇ではカタルシスが得られるのだが、後半のスッキリ感に比べて前半の鬱屈した展開が長すぎたように思う。

主人公ボブは悪役シンドロームと戦うのだがそれ以上に「世間」と戦っていた。シンドロームには最終的に勝利するのだが、当然ながら世間には勝つことはできない。そのあたりが最後までいまいちスッキリしない理由だったように思う。

『ファミリー』の戦いは誰にも認められない戦いではなく、世の中を味方につける戦いだ。
悪は罪のない人々に危害を及ぼそうとするものであり、主人公一家の戦いは人々や家族を守るための戦いだ。こんなに善なるものがあるだろうか。観客は心から喝采を送ることができる。

続編が作られる作品の場合、一作目は設定を活かしたシンプルなストーリーで二作目はこみいったストーリーという作品が多い。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のように。
ところがインクレディブルシリーズは逆。社会との軋轢や内面の葛藤を描いた一作目から単純明快なアクションドラマに還ることで、一作目の分のモヤモヤまで吹き飛ばすような痛快作品になった。冒頭に「続けて観ても違和感がない」と書いたが、ほんとに『Mr.』と『ファミリー』ふたつでひとつの作品と考えてもいいかもしれない。『Mr.』だけだといまいちスッキリしないんだよね。



『ファミリー』は前作よりもアクションシーン多めの作品だが、ひとりだけアクションシーンが大幅に減っている人物がいる。主人公のMr.インクレディブルだ。

冒頭こそ奮闘するものの結局犯人を取り逃し、その後はほとんどスーパーヒーローとしての活躍の機会は与えられない。
状況打破の機会を与えられてその期待に応えるのは一家のママであるイラスティガールで、敵に囲まれた子どもたちを助けに向かうのは親友フロゾン。Mr.インクレディブルはママを助けに向かうものの何もできぬままあっさり捕まり、子どもたちに助けてもらう始末。最後に敵をぶちのめすのはやはりイラスティガールだ。
パパの役目は「ママが戦う間に家事や育児をする」「ママが戦っている間に市民の安全を守る」というサポート役。

このあたりにも時代性が感じられておもしろい。
Mr.インクレディブルは強いが、他のスーパーヒーローたちとは違いこれといった特殊能力は持っていない。ただ力が強くて打たれ強いという時代遅れのパワー型。
昨今の主人公にはふさわしくない。今どきの少年漫画で「ただ強いだけ」の主人公がどれだけいるだろう。彼らが主人公でいられた時代は『ドラゴンボール』の最終回とともに終わってしまったのだ。

ただ強いだけのヒーローであるがゆえにMr.インクレディブルが作中で世の中から受け入れられず、使いづらいキャラクターとして制作者からも隅に追いやられてしまった。それは「家族の主役でなくなった父親」という姿にぴったり重なる。
男たちは「女は家事、男は外で仕事」といって仕事がたいへんなふりをしてきたけれど、女性が社会進出するにしたがって「効率化すれば仕事はそうたいへんでもない」ということがバレてきた。少なくとも男のほうがうまくできるわけではないということにみんな気づいてしまった。
狩猟生活を送っているうちはでかい顔をできていたのに、社会が機械化されるにしたがって「ただ強いだけの男」は役立たずになった。『ドラゴンボール』の孫悟空が、地球の危機は救うが家庭においては金は稼げないし家事も育児もまるでだめというポンコツっぷりをさらしていたことも象徴的だ。
「勇猛果敢で強いやつ」は平和な世の中には必要ないのだ。

スーパーヒーローとしての華々しい活躍の場が失われただけでなく家庭内での居場所も懸命に模索するMr.インクレディブルの姿は、居場所を失いつつある男性全体を象徴しているようにも見える。
ついでに悪役・スクリーンスレイバーの正体もやはりまた、これまでの男性の社会的ロールを奪うものだ。



時代の変化をなかなか受け入れられないMr.インクレディブルとは対照的に、スーパーヒーロー時代からの旧友であるフロゾンは前作以上の活躍を見せる。彼は「もうヒーローは必要とされていない」という状況をあっさり受け入れているし、その状況の中で自らができることとやってはいけないことを冷静に判断している。
時代の変化と己の立ち位置を把握できる人間はいつだって強い。遺伝生物学の世界では「強い生物とは、力が強い生物でも身体が大きい生物でもなく、変化に適応できたもの」とされているが、スーパーヒーローの条件もまた同じかもしれない。

そんなクールかつクレバーなフロゾンが我が身の危険をかえりみずに友人の子どもたちを助けに行く姿にしびれる。
フロゾン、かっこいいぜ。氷をつくりだす能力、水分がなくなるとエネルギー切れを起こすという制約(前作で見せていた)、冷静さと熱さをあわせもった性格。彼こそが今の時代の主人公向きなんじゃないだろうか。フロゾンを主役に据えたスピンオフ作品も観てみたいなあ。
しかしシニカルな立ち位置といい、恐妻家なところといい、見た目といい、アナゴさんにちょっと似ているよね。



全体的にスカッとする話だったのだが、引っかかったところがひとつだけ。
『Mr.』のラストで街を襲い『ファミリー』の冒頭で銀行強盗に成功して逃げる悪役・アンダーマイナー(モグラみたいなやつ)。
最後にあいつが捕まるんだろうなーと思いながら観ていたら、とうとう最後まで捕まらずじまいだった。ううむ、モヤモヤする。これは伏線の回収忘れなのか、はたまた三作目へとつながる伏線なのか……。


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【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』



2018年8月9日木曜日

【DVD感想】バカリズムライブ『ぎ』


バカリズムライブ『ぎ』

内容紹介(Amazonより)
脚本やCM、ナレーションなど様々な分野でマルチな才能を発揮するピン芸人・バカリズムが、5月に赤坂・草月ホールで行った単独ライブを映像化。作、主演、演出だけでなく作詞までも自身で手掛け、独自の感性で作り上げた最新ネタを披露する。


・オープニング


『ぎ』というライブタイトルについての語り。
『ぎ』ではなく他の文字でもよかった、ただし『ぬ』はだめだ、あえてマニアックな文字を選ぶセンスのアピールがダサいから、しかし『の』は優しい、と独特の主張をおこなうバカリズム。トークから「バカリズムライブを擬人化する」というメタな構成のひとり芝居につながってゆき……。

『ぬ』や『ぺ』や『あ』はタイトルにふさわしくないという主張、論理的に説明できないけど感覚的にはよくわかる。たしかに『ぬ』だったら狙いが見え透いていてダサいよね。
はじめて「ゆず」というアーティスト名を知ったときに「うわあ、あえてかっこよさを目指してませんよっていうアピールが透けて見えてかえってダサいなあ」と感じたのを思いだした。


・(オープニングアニメーション)


「ぎ」の文字が流れてゆく映像と「ぎ」だけの歌詞の歌が流れるアニメーション。


・『過ぎてゆく時間の中で』


余命を教えてくれ、もう覚悟はできているからと医者に懇願する患者。
意外な余命を告げられ、残された時間の中で何ができるかと慌てだし……。
「大型連休の話じゃないですよね?」
「茹で時間の話じゃないですよね?」

演技力の高さが光るコント。コントというより喜劇といったほうがいいかもしれない。芝居として見入ってしまった。


・(幕間アニメーション)『ギガ』


電器屋に「溶けるスマホ」を探しにきた客と店員のやりとり。


・『難儀と律儀』


レストランにてひたすら長いメニューを注文する客。

これはちょっとイマイチだったなあ。幕間映像でもよかったような。


・(幕間アニメーション)『銀』


地球外生命体にしか見えない友人の告白「じつは他の……」


・『ふしぎ』


某テレビ番組のカメラリハーサル中に、「草野」役のスタッフが「黒柳」役や「まことくん」役のスタッフを叱りはじめる。

コントの仕掛けとしてはシンプルだが「足のくさいホランさん」「金に汚いLiLiCoさん」といったフレーズや、某番組のテーマ曲の使い方が絶妙。


・(幕間アニメーション)『卒業』


なにかになることが夢だと語る青年。
「どこかの誰かが何者かになにかされてどうにかなっちゃうの」


・『の?』


今回のライブでを唯一「ぎ」がつかないコント。
のんが、ぬンターネット、にソコン、ぬレステ4のある「のんが喫茶」が舞台。

うーん、次の展開がほしかったな。これは期待はずれ。


・(幕間アニメーション)『律儀』


区役所への行き方を尋ねる、区役所というあだ名をつけられる方法を尋ねられる……。


・『六本木の女王』


どMの男がデリバリー女王様を呼んだら、なぜか中年の男がやってきて……。

これは好きなコント。いい発想だなあ。「村上春樹」という小道具も絶妙。品のある中年男性にふさわしいチョイスだよね。


・(幕間アニメーション)『疑惑の螺旋』


日曜の朝にテレビ局がしゃあなしでやっているような番組『月刊テレビ批判』。とあるサスペンス番組に寄せられた苦情を紹介する。


・『志望遊戯』


高校の三者面談。靴屋になりたいという生徒に進学を勧めるために「じゃあちょっと靴屋やってみよっか」と提案し……。

漫才コントの定番導入である「じゃあちょっとやってみよっか。おれが〇〇やるからおまえは……」のパロディ。安い芝居をする芸人への皮肉が込められていてにやりとさせられる。たしかにプロなら「ウイーン」はそろそろ終わりにしないといけないよね。
今回いちばん笑いの多かったコント。
お母さんがボケだしたときの担任のうれしさを隠しきれない顔がたまらない。


・(幕間アニメーション)『疑い男疑う』


カフェで彼女と話す疑り深い男。


・『疑、義、儀』


恋人が親に決められた婚約者と結婚することになった男。披露宴に乗りこんで花嫁を略奪しようかと思うがよく考えてみると……。

彼氏、花嫁、花婿それぞれの思惑が錯綜する様子を描いた、パワーポイントあり、歌あり、芝居ありのスケールの大きな(?)コント。
少しカッチリしすぎているコントだが、随所にばかばかしさをとりいれて頭でっかちな印象になりすぎないようにうまく調整されている。
すごくおもしろいわけではないけど、ラストにふさわしい完成度の高いコントだった。


・(エンディング)


「ぎ」と「の」だけの歌詞の歌。



前作『類』に比べると、笑い・奇抜性ともに少しスケールダウンしたかなという印象。
ただ、芝居のうまさは相変わらずなので演劇として見てもレベルが高いし、爆発的な笑いの起こるコントこそなかったもののすごく見劣りするコントもなかった。平均は下がってない。

今回は幕間映像がどれも良かった。アニメもバカリズム自身で作っているというからすごい。コントライブの幕間映像というと、箸休め的なものや「ファンには楽しめるもの」なんかが多いのだが、『ぎ』は幕間映像でもがっつり笑いをとりにきていた。
特に『疑惑の螺旋』は、大喜利として見たらそこそこレベルぐらいなのに「日曜朝の退屈な番組」っぽく見せることでなんだか妙なおもしろさが漂っていて好きだった。もしかしたらあのフォーマットに乗せたらなんでもおもしろくなるのかも。見せ方がうまいねえ。

数多くのコントを作っていたらどうしてもパターン化されてきそうなものなのに、バカリズムコントは趣向がそれぞれちがう。過去の作品とも似ても似つかぬコントを毎回放りこんでくる。
「常に新しいことにチャレンジする」という姿勢だけは不変だ。


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【芸能鑑賞】 バカリズムライブ『類』


2018年7月25日水曜日

【DVD感想】 『インサイド ヘッド』

『インサイド ヘッド』
(2015)

内容(Amazonプライムより)
11才の少女ライリーの頭の中の“5つの感情たち”─ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、そしてカナシミ。遠い街への引っ越しをきっかけに不安定になったライリーの心の中で、ヨロコビとカナシミは迷子になってしまう。ライリーはこのまま感情を失い、心が壊れてしまうのか? 驚きに満ちた“頭の中の世界”で繰り広げられる、ディズニー/ピクサーの感動の冒険ファンタジー。観終わった時、あなたはきっと、自分をもっと好きになっている。

頭の中の感情を擬人化するという、アニメーションでしか表現できないアイデア(あ、でもラーメンズが『心の中の男』でやってたわ)。
「頭の中」「頭の外」「他人の頭の中」が描かれるのでややこしくなりそうなものだが、さすがはピクサー、わかりやすく見せてくれる(一緒に観ていた四歳の娘はよくわかっておらず終盤で「ライリーって誰?」などと言っていたが)。

個人的な好みで言えば、今まで十本以上観たピクサー映画の中ではかなり下位の評価だった。『カーズ』シリーズとワースト一、二を争うぐらい。
ぼくは理屈で納得できないと先に進めないタイプなので、「抽象的なものを擬人化」「目に見えないものを具現化」するタイプの物語が苦手だ。「どうして短期的な感情の変化によって長期記憶を保管する部分がなくなってしまうんだ?」とか考えてしまう。深く考えずに観たらおもしろかったのかもしれないけど、なまじっかディティールがしっかり作りこまれているから理屈で追おうとしてしまうんだよね。

ストーリーとしては「ライリーが引っ越し先でうまくいかない」ということと「脳内司令部から長期記憶保管場所に行ってしまったヨロコビとカナシミが戻ってくる」という二点が錯綜しながら語られるわけだが、どちらも結末が読めてしまってハラハラ感がない。
子どもも楽しめるアニメーション映画なのだから「最後は友だちもできてハッピーになるんでしょ」「ヨロコビもカナシミも無事に戻ってくるんでしょ」ということが誰にでもわかる。
カナシミが序盤で厄介者として描かれている点も「序盤でこういう扱いをされているってことは最後にカナシミの大事さに気づくやつね」と容易に想像がついてしまうし、じっさいその通りに展開する(ネタバレしてもうた)。

「感情を擬人化」というアイデアはすごくおもしろいけど、そのアイデアを前面に活かそうとするあまりストーリーが単調なものになってしまったように思う。たとえば『トイ・ストーリー』でいえば「おもちゃが人間みたいに動いてしゃべってる。おもしれー」と思うのははじめの十分ぐらいで、その後はストーリーが魅力的だったからこそあんなにおもしろかった。『インサイド ヘッド』は「脳内でおこなわれていることをこんなふうに表現しました」を最後までやりつづけてしまった、という感じ。
短篇作品だったらすごくおもしろかったかも。



どうでもいいCMソングがなぜか頭にこびりついて離れなくなるとか、昔覚えた大統領の名前が忘れられてゆくとか、自分にとってパーフェクトで都合のいいイケメンが脳内にいるとか、猫の喜怒哀楽がランダムに決まってるとか、「脳内あるある」がふんだんに散りばめられていて、小ネタのひとつひとつはすごくおもしろい。
「なるほど、脳の中でこんなことが起こっているんだな」と思わされる説得力もある。たぶんきっちり脳科学のことを調べた上で作っているんだろう。


ところで、イライラ(Disgust)とイカリ(Anger)が別の個体として存在しているのがふしぎだ。イライラの激しいやつが怒りなんじゃないかと思うんだけど、アメリカでは別感情として扱われているのか?
それともじっさいの脳内ではべつの部分が担当しているのかな?
イライラの代わりにネタミとかオドロキとかワライとかがいたら、中盤の司令部のやりとりもネガティブ一辺倒ではなくもっと見応えがあったのかもしれないな。


2018年6月28日木曜日

【DVD感想】『塔の上のラプンツェル』


『塔の上のラプンツェル』
(2011年)

内容(Amazonより)
森の奥深く、人目を避けるようにしてたたずむ高い塔。そこには、金色に輝く“魔法"の髪を持つ少女ラプンツェルが暮らしていました。18年間一度も塔の外に出たことがないラプンツェルは、毎年自分の誕生日になると夜空を舞うたくさんの灯りに、特別な想いを抱き、今年こそは塔を出て、灯りの本当の意味を知りたいと願っていました。そんな中、突然塔に現れた大泥棒フリンと共に、ついに新しい世界への一歩を踏み出します。初めての自由、冒険、恋、そして、彼女自身の秘められた真実が解き明かされ…。

Amazonプライムで鑑賞。崖の上のポニョ、じゃなかった、塔の上のラプンツェル。
いきなり話それるけど、ポニョって崖の上にいるシーンほとんどないよね。崖の上の家でラーメン食って寝るだけだよね。あとは平地か海の中。なんで「崖の上の」ってタイトルにしたんだろう。羊頭狗肉じゃないか。劇場版を観にいった人は怒っただろうな。「崖の上のシーンを観るために入場料払ったのにほとんど崖の上のシーンないじゃないか! 金返せ!」って。どんな崖フリークだ。火曜サスペンスでも観とけ。ま、とにかく『崖の上のポニョ』よりも『海の中のポニョ』とか『半人半魚のポニョ』のほうがしっくりくるよね。

その点、ラプンツェルは十八年も塔の上にいるから看板に偽りなしだ。これなら塔フリークも納得だ。



古き良きディズニー映画、という内容。悪い魔女が出てきて、お姫様がさらわれて、イケメンの盗賊がやってきて塔から連れだして、一緒に冒険をして、献身的な愛を捧げて、最後は悪者がやっつけられて幸福な生活と結婚相手を手に入れて大団円。
ベタベタな内容だが、ディズニーはこれでいい、という気もする。
しかしディズニープリンセスも変わってきているよね。『アナと雪の女王』なんかぜんぜん違うパターンだもんね。
昔のディズニーヒロインって美人なだけで、すてきな男性が迎えに来てくれるのを待ってるだけの頭空っぽな存在だったけど、最近のプリンセスはみんな活動的だしちゃんと自我がある。少なくとも物語の中では女のほうが男より強くなっているね。


四歳の娘と一緒に観ていたのだけど、娘は号泣していた。ただ彼女が泣いていたのは「さらわれて本当のお母さんお父さんと引き離された」という点と「最後に本当のお母さんお父さんの元に帰ってくることができた」という点だけで、ああこの子にとってはまだ親子の情がすべてなんだなあ、と思った。四歳だから男女の愛を理解できないのはあたりまえなんだけど。
準主役であるフリン・ライダーのことなんかまったく娘の眼中になかった。終盤でフリン・ライダーが死にそうになっているシーンでも「ラプンツェルは本当のお母さんとお父さんのとこに帰れる?」ってずっと心配してたから。「フリン・ライダーも心配してあげなよ」って言ったら「誰?」って言ってたから。

かと思うと「カメレオンががんばって偽物のお母さんをやっつけた!」なんて叫んでた。準主役のフリン・ライダーはカメレオン以下かよ。
しかしそんぐらい異性に関心のない娘でもいつかは彼氏ができたりするんだろうなあと思うと、父親としては変なところでしんみりしてしまった。



さっきも書いたように最後は万事丸く収まるハッピーエンドなんだが、ピュアさを失ったおっさんからすると「そんな単純に物事が運んじゃっていいわけ?」と思ってしまう。

いやいやだって、じつは悪い魔女だったとはいえ、仮にも十八年自分のお母ちゃんと思っていた人でしょうよ、その人が死んでスパっと割り切れる?
実の親と再会したとき、つい昨日までは見ず知らずだった人に抱きつきにいける?

ゴーテル(魔女)は人の話は聞かないし嘘ついてラプンツェルを塔から出さないようにしてるけど、話を聞かない親も嘘ばかりつく親もいくらでもいる。
ラプンツェルが健やかに育っているところを見ると、ゴーテルだってそれなりにちゃんと親らしいこともしていたんだろう。
もうちょっと、育ててくれた親への未練というか、『八日目の蝉』のラストシーンみたいな別離のシーンみたいなのがあってもいいんじゃないかなあ、と思ってしまう。それをやると話がややこしくなっちゃうけど。

あとお姫様を救ったとはいえ大泥棒のフリン・ライダーがなんの説明もなく赦されてることとか、大泥棒だった男と十八年間塔から一歩も出たことのなかったお姫様の結婚生活がうまくいくわけないだろうなとか、余計なことを考えてしまう。

ぼくも娘のようにシンプルに「お母さんお父さんに会えて良かったー!」と号泣したいぜ。


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氷漬けになったまま終わる物語


2018年6月5日火曜日

【DVD感想】『ピンポン』(映画)


『ピンポン』

(2002)
内容(Amazon primeより)
才能にあふれ、卓球が好きで好きでたまらないペコ。子供の頃から無愛想で笑わないスマイルにとってペコはヒーローだ。だが、ペコはエリート留学生チャイナに完敗。インターハイでも、幼なじみのアクマに敗れてしまう。一方スマイルは、コーチに才能を見い出され、実力をつけていく。現実の壁にぶつかったペコと強さに目覚めたスマイル。それぞれの道を歩き始めた彼らに、またインターハイの季節がやってきた…。
2002年の映画を鑑賞。
同じくらいの時期に原作漫画を読んだが、ずっと読み返していなかったので「あーこんなエピソードもあったようななかったような」と、新鮮な気持ちで楽しめた。

映画のほうが漫画よりわかりやすいね。CGも見事だし話もシンプル。ストーリー自体はそんなにひねりのない熱血スポ根なんだけど、卓球という題材、違和感のないCG、個性的なキャラクターのおかげで既視感を与えない。

ちょっと残念なのは、ペコもスマイルもイケメンだったこと。
原作ではもっとキモかったはず。そしてそのキモいやつらがラケットを握ると輝いて見える……というのが魅力だった。卓球という「いまいちかっこよくないスポーツ」をかっちょよく描いていたのにな。それをイケメンが演じたら「はいはい、イケメンだからかっこいいんでしょ」になっちゃうじゃないか。


青春ど真ん中ストーリーなんだけど、歳をとってから観るとアクマとか卓球部の先輩とかバタフライ・ジョーとか、「主役になれなかった人たち」に感情移入してしまう。
なんちゅうか、ぼくの青春は終わったんだなあとちょっぴり寂しい気もするぜ。


2018年4月9日月曜日

【DVD感想】東京03『自己泥酔』


『自己泥酔』

東京03

内容(Amazon プライムビデオより)
2017年5月~9月に行われた「自己泥酔」全国ツアー(全11ヶ所、全27公演)の最終公演を収録。オール新作コント、映像ネタ、音楽が一体となった、東京03ならではの完成度の高い本編公演。 社長と部下が語り合う「自慢話の話」 / 「エリアリーダー」角田は部下を庇う理想の上司になれるのか? あの事件がコントになりました「トヨモトのアレ」 / 「ステーキハウスにて」声を荒げるクレーマーが思わぬ展開に…。 同僚の結婚報告を聞くために芝居を求められた飯塚は…「小芝居」/ 病室でアキコが婚約者サトシについた「悲しい嘘」 東京で経営者として成功している豊本が後悔していることを「謝ろうとした日」、友人2人は彼を受け入れるのか…。

第19回東京03単独公演「自己泥酔」をAmazonプライムビデオで鑑賞。
特典映像がないとはいえ、2時間近い公演を324円で観られるのはいいね。そうです、Amazonのまわしものです。

単純な笑いの量でいうともっともっと笑いをとる芸人はいるけど、コントとしての完成度でみると芸人・劇団含めて文句なく東京03はトップクラスだね。しかも年々クオリティが上がっていっているのがすごい。
このライブでは音楽も効果的に使われている。脚本・演者・音楽それぞれがハイレベルで、それらが組み合わさって途方もなく上質な空間を作りあげられているんだからただただ感心するばかり。


自慢話の話

IT会社の社長が飲み会の席で、すぐに自慢をはじめる社長ばかりで嫌になる、自分は自慢話は嫌いだ、と社員たちに語る。すると社員のひとりが「それって"自慢話しない"自慢ですよね」と言いだし……。
まず「同じITベンチャーの人間が集まるパーティーで……」という一言で自然かつ的確に状況を説明してしまう鮮やかさ。違和感なくすっとコントの世界に入らせてくれる。

「おれは他の社長とちがって自慢をしない」というのも自慢といえばそのとおりなんだが、このへりくつのような主張から「社長、固まってんじゃねーか」で笑いにつなげ、ただの理屈をこねくりまわす展開にせずに「生意気な後輩キャラ」で現実的な方向に着地させる。
大笑いするものではないけどワンアイデアを膨らませて複層的なコントに仕上がっている。


主題歌『自己泥酔で歌いたい』


角田氏による主題歌。
やたらポップな音楽に乗せてどこかで聞いたような歌詞を歌いあげている……と思ったら中盤の「自分に完全泥酔」でバッサリ。

愛と未来 自由と未来 光の先へただ進め
めぐり合い それは奇跡 広い世界で ようは奇跡
会いたくて 愛を叫び 鳴らないスマホに涙流し
I miss you 思い届け 結果どうあれ みんな踊ろう
現実を見ない 希望の啓示
自分に完全泥酔してなきゃ こんなの歌えない

マキタスポーツや岡崎体育がやっている「J-POPを皮肉った歌」と同系統だけど、ここで大きな笑いは狙いにいかずにあくまであっさりと。今や「J-POPあるあるを皮肉をこめて茶化す」すらもはやありがちな手法になってしまったからね。
音楽的にも笑い的にも、あくまで「コントライブのオープニング」に収まるちょうどいいサイズ感の曲。


エリアリーダー

部下が上司に叱責されているのを見たエリアリーダー、間に割って入り「悪いのは彼に仕事を任せた私。責任はすべて私にあります」と部下をかばう。ところが部下はエリアリーダーに感謝している様子がなく……。
こうなるだろうな、という観ている側の予想通りの展開だが、ちゃんと演技力で魅せてくれる。
「本当にぼくが悪いみたいに言ってくるんすよー」
「ちゃんと憧れろー」
など、エゴ丸出しの発言をくりかえすエリアリーダー。コミカルに描かれているけど、これは本心だよね。ぼくも部下の失敗をかばったことはあるけど、やっぱり「自分がよく思われたい」からであって、部下を助けるためではないもん。


(幕間映像)えりありーだー憧れられ四十八手


様々なシチュエーションで「部下に憧れられる方法」を紹介する映像。途中からエリアリーダーが弾丸を日本刀で真っ二つにするなど天才剣士であることが判明……。


トヨモトのアレ

不倫をしていることが社内中に知れわたり、さらに不倫相手に送ったLINEの内容を全社に知られてしまった豊本が落ちこんでいる。同僚の飯塚と角田がからかったり慰めたり叱咤激励したりするが、どうも角田の様子がおかしく……。
2017年3月に週刊誌報道で不倫が発覚した豊本氏。その一件を早速コントにしたのが本作。
「会社の受付嬢と不倫をしていた」という設定になっているが、その他の設定はほとんど事実のまんま。「LINEで『お尻なめたげる』と送った」などのインパクトのある設定も現実通り、なんだそうだ。

身内ウケを狙ったコントか、と思いきやそこで終わらせずに後半は「不倫を叱るふりをしながら手口を学ぼうとする同僚」に対してツッコミを入れることで不倫の一件を知らない人にも伝わるようにしているところがさすが。
そうそう、不倫をした人に対する世間のバッシングって「自分だけいい思いをしやがって許せない」っていう嫉妬心も混ざってるよね。少なくともぼくは「ちょっとうらやましい」って思ってるよ。


(幕間映像)トヨモトの反省


豊本と飯塚の会話を、昔のFLASHアニメのような小気味いいテンポで描くアニメーション。不倫行為を反省しているのかと思いきや「どうすれば世間に許してもらえるか」ばかり考えている豊本。その空想がどんどん飛躍していき……。


ステーキハウスにて

ステーキハウスで食事中の男がワインをこぼしてしまい、あわてて拭きにきた店員もワインの入ったデキャンタをこぼしてしまう。すると客は店長に対してクリーニング代、食事代、お食事券を要求しはじめる。ところが店員があることに気づき……。
「理不尽な因縁をつけるクレーマー」だけでも十分コントとして成立しているのに(「髪の毛全引っこ抜き」は笑った)、そこで終わらせずに「素性を知られてしまったクレーマーの葛藤」を描く後半につなげているのがすばらしい。
他人の目に映る自己の姿を意識して「たちの悪いクレーマー」と思われないように見苦しくあがくあまり、「たちの悪いクレーマーな上に"ええかっこしい"な人」に転落していく姿は滑稽を通りこして悲哀すら感じる。
利己心と虚栄心の間で揺れる心情がコミカルかつ丁寧に表現されていて、東京03のいいところが詰まったコントだった。


(幕間映像)MINIMUM REACTION GIRL『MMR』


ステーキハウスに来ていた客がプロデュースしたガールズユニットの曲。無駄に完成度が高い。


小芝居

こっそり社内恋愛していた角田と女上司の豊本が結婚することに。以前から角田の相談に乗っていた飯塚だが、角田から「知らなかったことにしてほしい」と頼まれて小芝居を打つことにする。ところがその芝居に角田が感動してしまい……。
東京03の魅力は練りこまれた脚本もさることながら(特に飯塚・角田両氏の)演技力の高さにもあると思うのだが、その飯塚氏の芝居のうまさが存分に発揮された傑作。
演技力が高くないと成立しないコント、という高いハードルを設定しておきながら、そのハードルを悠々と飛びこえている。観客の想定をはるかに上回る「意外な事実を聞かされて驚く演技」を披露して観客からの拍手をかっさらっていた。「芝居がうますぎて拍手が起こる」というのはすごい事態だよね。

全体的にハッピーな笑いがくりひろげられるコント……と思いきや背筋が凍るような衝撃のラスト。後味は悪いけど、個人的にはすごく好きなコント。


(幕間映像)劇団小芝居


「リアリティのある芝居」ではなく「わかりやすさのためにリアリティを排した小芝居」をする劇団の稽古を描いたアニメーション作品。
「なんで言えば伝わることを感じとってもらわなきゃいけないんだよ!」は安っぽいコントへの痛切な皮肉だね。
いまだに多いよね。「あー、付きあってる彼女から話があるっていってこんなところに呼びだされたけどいったいなんの話だろうな-」みたいな説明台詞から入るコント。
以前にも書いたけど、コントにおけるリアリティって軽視されがちだよね。自然さがないと笑えるものも笑えなくなるんだけどな。


悲しい嘘

入院中の彼女が「他に好きな人ができたから別れて」と言いだした。彼氏が当惑しながらも問いただしてみると、悪性の腫瘍が見つかったので余命が長くないことがわかる。何があっても支えてやると誓う彼氏だが……。
これも「こうなるだろうな」という予想通りの展開。そしてもうひと展開あるわけでもなくそのまま終わってしまうので拍子抜け。
「ただの本当」「腫瘍と好きな人どっちもできたってこと?」など、一部のフレーズはおもしろかったけどね。


(幕間映像)私、嘘をつきます


『悲しい嘘』の登場人物による歌。そしてライブ物販の宣伝。

謝ろうとした日

豊本の軽率な発言により絶縁状態になっている豊本と角田。豊本は共通の知人である飯塚に頼んで、角田に謝る場を用意してもらう。だが豊本の言動には誠意が感じられず、おまけに角田は来る途中にハプニングにまきこまれてはじめから不機嫌。さらに大事にしていたTシャツやタオルを勝手に使われたことで飯塚まで怒りだし……。
よくできたコント、なんだけど、うーん、予定調和的というか……。
構成作家のオークラ氏の脚本らしいが、いつものオークラコント、って感じなんだよな……。バナナマンのコントライブでも最後のコントはだいたいこんなパターン。いざこざが描かれ、伏線が丁寧に回収され、すべての問題は解決しないけど少しだけ前向きな未来が提示され、軽いメッセージとともに叙情的なラストを迎える、というパターン。パターンというほど形式化されてるわけじゃないんだけど、でも毎回「最後はちょっといい話」だと飽きてしまう。
東京03の魅力って小ずるさ、虚栄心、妬み、僻みといった「誰しもかかえる醜い部分」の心理描写だと思うんだけど、このコントはその部分が弱い。「都会で成功している豊本に対する角田の嫉妬」はあるんだけど、それってすごくわかりやすいものだしね。「自分もそれなりにやってきたという自負」とかをもう少し掘りさげてほしかったな。

ただ、終盤で安易に「許す」と言わずに
「すぐには許せそうにないけど、そうなれるようにがんばってみるよ」
という台詞を言わせるところはすごく感心した。そうだよなあ、何年も恨んでいた相手に頭を下げられて「許すよ」と言ったらそれは嘘だもんなあ。小手先の感動狙いではない、実感のこもった台詞だ。


エンディングテーマ



後半は少し失速気味だったものの、総じて高いレベルの安定感。
腹を抱えて笑うという感じではないが、おっさんたちの無理のない演技が続くので疲れることなく観ていられる。こちらもおっさんなので「異質なもの」をずっと観るのはしんどいのよね。
118分というコントライブとしてはかなりの長さだが、音楽ありアニメーションありで退屈させない。コントの質の高さはもちろんだが、全体的なパフォーマンスとして見ても完璧といっていい出来だね。


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バカリズムライブ『類』


2018年3月22日木曜日

【DVD感想】『SING』(2017)


(2017)

内容(Amazonより)
粋なコアラのバスター・ムーンが所有する劇場は、その活況も今は昔、客足は遠のき借金の返済も滞り、今や差し押さえの危機に瀕していた。
そんな状態でもあくまで楽天的なバスターは、劇場にかつての栄光を取り戻すため世界最高の歌唱コンテストを開催するという最後の賭けに出る。
欲張りで自己チューなネズミ、歌唱力抜群だが超絶シャイな10代のゾウ、25匹の子ブタの世話に追われる母親、ギャングから抜け出して歌手になりたいゴリラ、浮気な彼氏を捨ててソロになるか葛藤するパンク・ロッカーのヤマアラシ、常に超ハイテンションなシンガー兼ダンサーのブタなど、多数の応募者がオーディションに集まってくる。
皆、自らの未来を変える機会となることを信じて……。

四歳の娘といっしょに鑑賞。

ストーリーは「劇場を立て直すために歌唱コンテストを開催したらそれぞれ悩みを抱えた動物たちが集まってきて、最後は歌の力でみんながハッピーに」という単純明快なものだが、視点があちこちに移る群像劇だったので四歳児にはちょっと難しかったらしい。途中からは「ねえおとうちゃん、トランプしよ?」と言ってくるので、トランプをしながら観た。トランプをしながらでも楽しめる、わかりやすい筋。



『怪盗グルー』シリーズ(というより『ミニオンズ』シリーズといったほうがわかりやすいかもしれない)でおなじみのイルミネーション・エンターテインメント制作。

『怪盗グルー』シリーズもそうだけど、この制作会社の作品って些細な悪事を許しちゃうよね。
『SING』でも、ギャングの見張り役を務めていたゴリラやイカサマをしてマフィアから金をまきあげたネズミや劇場を華やかにするために水を盗んだコアラが、ぜんぜん悪びれることなく活躍しているのを見ると、ディズニー映画に慣れた身としては「いや犯罪やろがい。ええんかいな」と思ってしまう。特に罰も受けないしね(ネズミは怖い目に遭わされてたけど)。
しかも「正義のために必要不可欠な代償としての犯罪」ではなく「快楽のための犯罪」をやっとるからね。怪盗グルーもそうだけど。

「善人はたったひとつの過ちも犯さず、悪事を働いたものは必ず報いを受ける」というディズニー映画へのアンチテーゼとしてあえて「善なる存在による軽犯罪」を描いているのかな。
清濁併せ持っているところが人間らしさでもあるんだけど(『SING』に出てくるのは人間じゃないけど)、小説ならまだしもポップな見た目のアニメーション映画で犯罪行為が見過ごされていると「それはそうと他人に迷惑をかけていることについてはおとがめなしかい」ともやもやした気になる。



『SING』のキャラクターの中でぼくがいちばん気に入ったのはブタのおかあさん。
このブタを主役に据えてもいいぐらいの魅力的なストーリーを持っている。
(なぜかDVDのジャケットではオスブタが中央にいるけど、こいつはかなりの脇役。主役は後ろに小さく描かれているコアラ)

二十五頭の子どもと仕事に疲れた夫を抱えているブタのおかあさん。家族は愛しているしこれといった不満があるわけではないけれど家事に追われる日々にときどきふと疑問……。
と書いてしまうと平凡な母親の話だけど(二十五頭の子どもは平凡じゃないけど)、おかあさんの心中が言葉に出して語られないのにありありと伝わってくる描写が見事。こういうもやもやって言葉に出せないからこそのもやもやなわけだもんね。
子どもの前では愚痴もこぼさず不満な顔もせずいつもにこにこしている「良きおかあさん」の、本人すら言葉にできないであろう胸中をふとした表情の変化だけで描いてみせるのはたいしたものだ。

3Dアニメーションって進化したなあ。実写よりもはるかに繊細な表現ができるよね。


2018年3月12日月曜日

【DVD感想】『ズートピア』

『ズートピア』(2016)

内容(Amazonビデオより)
動物が人間のように暮らす楽園、ズートピア。誰もが夢を叶えられる人間も顔負けの超ハイテク文明社会に、史上最大の危機が訪れていた。立ち上がったのは、立派な警察官になることを夢見るウサギのジュディ。夢を忘れたサギ師のニックを相棒に、彼女は奇跡を起こすことができるのか…?「アナと雪の女王」「ベイマックス」のディズニーが夢を信じる勇気にエールを贈る感動のファンタジー・アドベンチャー。

自分の中でなぜか『ズートピア』と『ラ・ラ・ランド』がごっちゃになっていて、「あれ? ミュージカルだって聞いてたのになかなか歌いださないな……」と思っていたらぜんぜん違う作品だった。おっさんにとってはカタカナ五文字はぜんぶ一緒なのよ。
その程度の認識なので当然ながらまったく予備知識もなく観たんだけど、おもしろかった。安定のディズニー。

肉食動物と草食動物が楽しく暮らしているズートピアで、突然肉食動物が凶暴になるという事件が発生。人口の九割を占める草食動物は恐怖から肉食動物を避けるようになる……。というストーリー。

「どんな夢でも叶う」という前向きなメッセージやかわいいキャラクターが前面に出ているので見落とされそうだが、これを人種対立の話として見るとなかなかおもしろい。

日本でもやはり外国人が犯罪をしたらその発生頻度を検証しようともせずに「これだから××人は……」という言葉を口にする人がいる。アメリカだともっと多いんだろう。表立って口にするかどうかはべつにして。


快楽的な差別はダメだと誰でもわかるが、わかりにくいのは差別の根源に被害者意識や恐怖がある場合だ。

ルワンダ虐殺という事件があった。
過激派のフツ族がツチ族を大量虐殺した事件だが、きっかけのひとつはラジオ局の報道だと言われている。ラジオで報道された内容は、ツチ族の力を低く見るものではなく、その逆だった。彼らはこう言った。「ツチ族は我々フツ族を攻撃するだろう」と。つまり「ツチ族は力を持った脅威であり、我々はその被害者なのだ」と煽った。
これにより過激派フツ族は「やられる前にやらねば」という意識を持ち、ツチ族、さらには穏健派のフツ族を殺すことになった。

自分を加害者だと思っているときには「これ以上はかわいそうだな」と加減をしても、自分が被害者だと思っている人には歯止めがかからない。なにしろかわいそうなのはこっちなのだから。
9.11のテロの後、アメリカは攻撃的になった。イラク戦争も多くの国民が支持していた。それは「自分たちがテロリストに狙われるかもしれない」という恐怖感、被害者意識があったからだろう。加害者だったらこうはいかなかった。

昔も今も、洋の東西を問わず、同じことが起こっている。
日本も韓国も白人も黒人も、みんな自分が被害者だと思っている。身の安全や権利が脅かされていると。そして"被害者"がいちばん恐ろしい。


『ズートピア』は、この「誰もが被害者になりたがる」心理をうまく描いている。
肉食動物たちを排除しようとする草食動物たちに差別意識はない。あるのは被害者意識と恐怖心だけ。
差別されている肉食動物もまた自分たちを被害者だと思っている。
被害者と被害者が対立し、互いを排斥する社会。よく見る光景だ。

『ズートピア』では対立を煽った真の黒幕が明らかになってハッピーエンドを迎えるが、現実の世の中であれば黒幕が捕まった後も被害者意識は残りつづけ、何かのきっかけで表面化することだろう。

そのことを知っている者としては、『ズートピア』の動物たちが共に手を取り合って歩んでいくラストシーンに拍手を送りつつも、「こんなふうにできたらいいんだけどなあ……」とため息をつくしかない。

いや、ここでため息をつくからだめなのか。
素直に「どんな夢でも叶う!」と信じてディズニーダンスを踊る人間ばかりになれば「誰もが被害者になりたがる社会」はちょっとは改善されるのかもなあ。


それはそうと、この映画でいちばんぼくが感心したのは「キツネが怒ったときに鼻の頭にしわが入る」シーン。
昔飼ってた犬も怒ったときにこれとそっくりな顔してたなあ……。


2018年2月27日火曜日

【DVD感想】『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』



『スーパー・ササダンゴ・マシンによるコミュ障サラリーマンのためのプレゼン講座』

内容(「キネマ旬報社」データベースより)
プレゼンしか能のない覆面プロレスラー、スーパー・ササダンゴ・マシンのプレゼンテクニックを収めたDVD。会社で自分は何ができるのか、サラリーマンが「自分をプレゼンする」時や「企画を通したい」時のテクニックを収録。

「趣味・特技はプレゼン。苦手なものはプロレス活動全般」だという覆面レスラーのスーパー・ササダンゴ・マシンによるプレゼンを収めたDVD。

スーパー・ササダンゴ・マシン氏はプロレスラーでありながら新潟で金型工場を運営する会社の専務取締役も務めているという異色の経歴で、パワーポイントを駆使した巧みなマイクパフォーマンスで有名な覆面レスラーだ。
ぼくはプロレスにまったく興味がないが、YouTubeでササダンゴ氏のプレゼン(「煽りパワポ」というらしい)を観て、たちまちその完成度の高いパワーポイントと上質なユーモアの虜になった。

ふつうスポーツ選手は巧みなトークは求められないけど、プロレスはショーなのでマイクパフォーマンスで観客を惹きつける話術が必要になる。
身体と頭を使わないといけないからたいへんな商売だなあ。



このDVDに収録されている内容は以下の通り。

1.VS プロレス専門誌「発行部数を飛躍的に伸ばす方法」

2.VS 世界的飲食企業「より幸せな企業にするための新メニュー」

3.VS コミュ障な自分「一人で焼き肉をおいしく食べる方法」

内容をよく見ずにDVDを購入したので「スーパー・ササダンゴ・マシンの得意技である『煽りパワポ』が収録されてないのか……これはハズレかもな」と思いながら観たのだが、いやいや、これはこれで十分におもしろい内容だった。
いたってまともなプレゼンなのに、覆面レスラーが言っているという絵だけでもう笑える。

パワーポイントって「笑い」との相性がすごくいいよね。『バカリズム案』などのライブでも多用されてるけど、パワポはビジネスや学会などで使われる「お堅いもの」というイメージがあるからか、ごくごく標準的なMS Pゴシックでボケるだけで、おかしさが五割ぐらい増す気がする。



特に日本KFCホールディングス(ケンタッキーフライドチキンの会社)を訪問して広報部や商品開発部などの偉いさん相手に新商品の提案をおこなうパートは見応えがあった。

毎日新しいメニューを考えている人たちに向かって「まずはケンタッキーフライドチキンの概要について……」なんて釈迦に説法もいいところだが、KFCの社員たちがすごく真剣にプレゼンを聴き、ときにはスーパー・ササダンゴ・マシンの言葉をメモする姿で笑いをこらえられなかった。
「チキンとチキンでチキンを挟んだ新製品」なんてバカみたいな提案に対して、真正面から「実現可能か」「マーケット規模はどの程度か」「味や安全性は担保できるか」といった議論をしているのがめちゃくちゃおもしろかった。いい会社だなあ。

聴衆の反応も良かったし、ほどよく緊張感もあって、これぞ理想的なニッポンのプレゼン、って空気だった。



他の二編にもふれておくと、『週刊プロレス』編集部へのプレゼンは、相手が少人数、しかも顔なじみということでやや緊張感に欠けるものだった。
パワーポイントの中身は良かったので、もう少し大きい会場でやってたらさらにおもしろかったんだろうな。

「一人焼肉のプレゼン」は『孤独のグルメ』みたいにしたかったんだろうけど、焼肉に視点がいってしまう分、プレゼンの印象が弱かった。
そもそもプロレスラーが焼肉を食っている映像自体が退屈だった。プロレスラーと焼肉、という取り合わせにまったく違和感がないからねー。女性ばっかりのスイーツバイキングとかだったらもうちょっと面白味があったかも。



ぼくは人見知りなので親しい人以外と一対一で話すのは苦手なんだけど、大勢の前で話すのは平気だ。学生時代は生徒会長をやっていたし、友人の結婚式二次会の司会を務めたこともある。数十人、数百人の前で話すとひとりひとりの反応が気にならなくなるのでかえって気楽にできる。

今も仕事でたまに客先でプレゼンをすることもあるけれど、即興で話せるような才覚はないから、スピーチをするときは一字一句詳細な原稿をつくって、「ここで軽く笑いをとる」「ここは簡潔に説明してさらっと流す」と入念に構成を考える。

そういう人間にとってササダンゴ氏のプレゼンは大いに参考になった。

まずはじめにこれから話す内容の道筋をきっちり説明する。
本題はまじめに進めながらも細部ではユーモアを交える。
さまざまなマーケティング手法を使いながらも極力専門用語は使わずに平易な言葉を使って説明。
「WEB戦略の強化」みたいな安易な提案に逃げずに常に独自の切り口で提案。
……と、つくづく勉強になる。

これは企業の新人研修の教材にも使えるんじゃないでしょうか。


2017年10月29日日曜日

【DVD感想】カジャラ #1 『大人たるもの』



カジャラ #1 『大人たるもの』

内容紹介(Amazonより)
小林賢太郎の作・演出による、新しいコントブランド「カジャラ」。
旗揚げ公演となる「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●ラーメンズ・小林賢太郎の新作コント公演カジャラ♯1「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●出演は片桐仁/竹井亮介/安井順平/辻本耕志/小林賢太郎!
2009年の「TOWER」以降は本公演を実施していないラーメンズが揃って舞台に出演するのは7年ぶり!
●2016年7月27日から東京、大阪、神奈川、愛知で行われ、プレミアム公演となった模様を収録!

ラーメンズ・小林賢太郎氏が脚本・演出・出演を務めるコントユニット「カジャラ」の旗揚げ公演。

ラーメンズとしての活動は2009年を最後に休止中。小林賢太郎氏はニューヨークに住んで、NHKの『小林賢太郎テレビ』などを手掛け、片桐仁氏は役者や造形作家として活動しています。あとEテレ『シャキーン!』のジュモクさんとしてもおなじみですね。おなじみじゃないですか。あ、そう。ぼくは毎朝観てます。

そんなラーメンズが久しぶりにそろい踏みの舞台ということで楽しみに観てみたんだけど、うーん、「笑えるか」という点でみると正直いまいちだった。

コントというかちょっと笑いのある芝居、ぐらいの感じかな。


ベテラン芸人ならまずやらないベタ中のベタな設定「医者コント」をあえて数本用意していたり、時間の異なる2シーンを同時に演じてシンクロさせたり、実験的な作品をいくつか用意しているのに、それを突きつめることなくそこそこのところに着地させているのが残念。
たしかにどれもそこそこおもしろいし、細部の巧みさは感心すんだけど、小林賢太郎の舞台に求めてるのはそこそこじゃないんだよなああ。

いろんな創作表現の中でも「笑い」って特に年齢を重ねるごとに劣化しやすい部分だとぼくは思っていて、小林賢太郎も例外ではないんだろうな。『小林賢太郎テレビ』なんてほとんど笑える部分ないし。
それでも真正面から笑いにチャレンジする姿勢はすごいんだけど、だったらいっそおもいきってラーメンズとして活動再開してほしいなあとファンとしては思うばかり。
ぼくがこのライブでいちばん感心したのは片桐仁のコントアクターとしての質の高さだった。この人がいるだけで舞台の雰囲気がまったく変わるしね。
だからこそラーメンズというシンプルな枠組みで挑戦してほしい。

失敗してもいいからもっと鋭いものを、小林賢太郎に、というよりラーメンズには期待してるんだよ。



2017年10月2日月曜日

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


『キングオブコント 2017』を観おわって「コントはリアリティはどう処理すべきなのか?」と考えたのでつらつら書いてみる。


ジャングルポケットの1本目のコント。
サラリーマンが痴話喧嘩に巻きこまれてしまい、やっと乗れたエレベーターがなかなか動きださない……。というストーリー。

エレベーターがなかなか出発しないという誰もが経験のある現実感のある設定。
徐々に明らかになる意外な真相。
妙な状況を次第に受け入れてしまう心境の変化。
共感性のあるオチ。
よくできた脚本だった。

だが3人の「やりすぎの演技」がすべてを台無しにしていた。
大会に賭ける意気込みが裏目に出たのだろうか、3人ともが終始大声を張りあげている。抑揚がまったくない。常にテンションの高い芝居は、裏を返せば盛り上がり所のない芝居だ。

考えてみてほしい。
知らない人が「開」ボタンを何度も押すのでなかなかエレベーターが動きださない。
場所は自分の会社が入っているオフィス。相手は同じ会社の人かもしれない。取引先の人かもしれない。そんな相手に向かっていきなり怒鳴り声をぶつけるか?
ふつうのサラリーマンなら、しばらくは静観し、徐々にいらいらした様子を見せ、その後で「すみません、急いでるので先に行かせていただいていいですか?」と声をかける。それでも聞き入れられなければ、そこではじめて声を荒らげることになる。

痴話喧嘩をしている二人も同様だ。
ふつうはわざわざ職場で別れ話をしないし、するのであれば押し殺した声でおこなう。己の恥になる話を、わざわざ知り合いに聞かれるような大声で話すわけがない。

このコントでは徐々にヒートアップしていく過程が完全に省略されて、冒頭から3人ともが声を張りあげる。リアリティは破綻して、せっかくの緻密な脚本がわかりやすいドタバタ喜劇になりさがってしまったのは残念だ。
あの脚本そのままで、たとえば東京03が演じていたならめちゃくちゃおもしろいコントになっていただろうなあ。


コントでは、じっさいにはありえない設定を描くことができる。
「火星を探検する宇宙船の中」でも「ブサイクのほうがもてる世界」でもいい。

ただ、どんな無茶な設定を持ってきてもいいが、芝居である以上、その中の登場人物の行動には整合性がなくてはならない。
西暦3000年だろうが、ブサイクがもてる世界だろうが、人は理由もなく他人をぶん殴ったりはしない。何の得もないのに己の財産を投げ捨てたりもしない。
どんなに頭のおかしい人でも、自らの行動原理に基づいて動いている。狂人には狂人のルールがある。

パーパーの卒業式コントで描かれる男は、好きでもない女にキスをせまったり、女を5人集めてくることを要求したりと「めちゃくちゃヤバいやつ」だが、彼の言動には彼なりの論理がある(女を5人集めさせる理由の説得力よ!)。
だから観客は共感はできなくても理解ができる。そしてその論理のおかしさを笑うことができる(まあコントはウケてなかったけどね)。

アンガールズが2本目に披露したストーカーのコントも同様で、好きな女性の夫をつけ狙う男は異常者ではあるが彼の行動は首尾一貫している。
だから設定としては破綻していないのだが、残念なのはその行動を自ら説明していること。
ふつうの人は、自分がとった行動とその目的をわざわざ他人に説明したりはしない。そもそも自分の中でも明快な解釈を持っていないことがほとんどだ。

GAG少年楽団も「幼なじみの男女の50年間の微妙な関係性」という壮大なテーマを示しながらも、すべての歴史を台詞で説明してしまったことでずいぶんと安い芝居になってしまった。
あれを台詞ではなく演技だけで表現することができたならまた違った結果になったのだろうが、あまりに時間が足りないよなあ。


コントにリアリティをもたすための処理がうまかったのは かまいたちだった。
彼らが2本目に披露したウェットスーツを脱がすコントでは、序盤に「4時間もウェットスーツが脱げないんです」という状況を説明している(しかも不自然にならないように、店員が本店に電話で説明する形をとっている)。
あのくだりは笑いをとる上では冗長な部分だが、コント全体にリアリティを与えるという意味で重要な役割を果たしている。
「4時間後」から始めることによって、さらに「鬱血してきている」という説明をくわえることで、客が鋭く店員をなじる様子に説得力が与えられる。店員の手違いで着せられたウェットスーツが脱げないまま4時間も待たされたのなら声を荒らげて怒るのも無理はないな、観客は怒っている客に共感できる。
「あれ? 脱げないな」という状況からはじめてもコントとしては成立するが(そしてそのほうが導入はスムーズだが)客が店員に強いツッコミを入れることの説得力は失われてしまう。

さらば青春の光も、大会の常連だけあって説得力を持たせたコント運びをしていた。
2本とも、序盤は違和感を遠慮がちに指摘するだけにとどめ、徐々に不条理さのギアを上げていってから、強めのフレーズで糾弾している。いつのまにかありえないシチュエーションになっているけど、じわじわとエスカレートしていくので無茶めな行動もすんなり受けいれられてしまう。
じつにうまく観客をあざむいている。
さらに彼らはルックスや演技力も設定とぴったりあっていて、そこでも説得力を持たせていた。「居酒屋でひとりでささやかな晩酌をしているサラリーマン」「ちょっと客をなめた感じの居酒屋店員」「40代でバイトの警備員してる人」の風貌してるもんなあ。


先ほど、人はそれぞれ正当な行動原理を持っているはずと書いたが、その行動原理を意識的に破壊しにいったのがアキナだった。
誰もが「これはボールを拾いにいくだろう」と思う状況で行かない、ふつうの人なら言葉にしなくてもわかる暗黙のルールを理解しないなど、静かな狂気を描いていた。

試みは理解できるのだが、共感性を欠く男の狂気性をじっくり描くには時間がたりなかった。わかりやすい記号(サスペンスでおなじみの音楽)を用いたり、わかりやすい残酷性(「ピーターパンも焼いたら食べられる」発言)を入れたりしたことで、常人と紙一重のところに存在する狂気が、ずいぶん陳腐なものになってしまった。

なによりアキナの最大の不幸は、コントを披露する順番が、リアリティや論理性のある言動の一切を放棄したにゃんこスターのコントの直後だったことだ。常識を捨てたコントの後に常識のずれた人物を描いてもパワーダウンの印象は免れない。今大会でいちばんくじ運で損をした組だろう。

にゃんこスターは、リアリティのある設定や人物描写や文脈のつながりを捨て、さらには暗転前に自己紹介を放りこむことで芝居であるという大枠すらぶっこわしてしまった。
(たしかに革新的ではあったがコントの概念が変わると喧伝されていたのはいささかオーバーだ。キングオブコント初代王者のバッファロー吾郎もリアリティを完全に放棄したコントを披露していたではないか)


リアリティを欠いたコントは評価を落とすが、リアリティを捨てたコントは受け入れられる。
それは、ストーリー漫画では設定に矛盾があってはならないが、ギャグ漫画では矛盾が許されるようなものだ。
ギャグ漫画では、爆発の衝撃でふっとんだ人物が次のコマで包帯ぐるぐる巻きになっていて、さらにその次のコマでは完治していてもかまわない。誰も「すぐに包帯を巻けるはずがない。設定が破綻している」とはつっこまない。突拍子もない展開もある種の記号として処理する暗黙の了解が共有されているからだ。

コンテストの結果は、誠実にリアリティを追求したかまいたちが1位、でたらめな虚構世界をつくりあげてショーに徹したにゃんこスターが2位、巧みな嘘で観客を見事に騙したさらば青春の光が3位。

もちろん3組とも大きな笑いをとっていたが、コントに説得力をもたせることに成功した3組が上位を占めたという点で、芝居の構造的に見てもおもしろい大会だったなあ。


2017年9月3日日曜日

【CD感想】星新一のショートショートを落語化 / 古今亭志ん朝・柳家小三治『星寄席』

『星寄席』

星新一(原作), 古今亭志ん朝 , 柳家小三治 (演) 


ショートショートの神様・星新一の作品を落語家が演じたもの。
『戸棚の男』を古今亭志ん朝が、『ネチラタ事件』『四で割って』を柳家小三治が落語化。
もともとは1978年にレコードで発売されたものだが、なぜか2015年にCDで再発売されたらしい。

星新一に関連するものなら全集から評伝まですべて揃えずにはいられないぼくとしては見逃せないということで購入。上方落語を聴いて育ったので江戸落語は肌に合わないんだけどね。

星新一作品と落語って相性がいいね。
まず落語は古典でもSFの噺が多い。『犬の目』『一眼国』『地獄八景亡者戯』など。あたりまえのように幽霊や死後の世界が出てくる。
また『蛇含草』『天狗裁き』のようなあっと驚くオチ(サゲ)で落とす噺もあり、そのへんもショートショートに似ている。

星新一自身、江戸落語が好きだったようで、『いいわけ幸兵衛』のように落語(『小言幸兵衛』)を基にした作品も書いている。本CDに収録されている『ネチラタ事件』も、古典落語の『たらちね』を下敷きにしている。 また『うらめしや』のように落語原作も書いている。
描写を必要最小限にしていること、登場人物に特徴が少なく記号的であること、時事性が強くないことなども落語的だね。



というわけで『星寄席』だけど、話のチョイスが絶妙だった。
  • 絶世の美女を妻にしたら声帯模写の達人、ルパンの孫、キューピッド、フランケンシュタインたちが間男としてやってくるようになった『戸棚の男』
  • 世の中の人々の言葉遣いが突然乱暴になる病原菌が広まった世界を描く『ネチラタ事件』
  • 賭け事が好きすぎて命を賭けたギャンブルに挑戦した男たちが地獄に行く『四で割って』
いずれもSFらしい奇抜な設定と落語らしいばかばかしい展開がうまく融合されていた。
とはいえそれは原作が良かったからこその出来であって、落語として聴いたら、正直おもしろくなかった。

まずひとつには原作を忠実に言葉にしていたこと。
落語の噺というのは著作権フリーであり、噺の改編も自由にしていいことになっている。
大筋は残しつつも、時代にあったわかりやすいオチに変更したり、節々にギャグを交えたりすることは当たり前におこなわれている。ところがこの『星寄席』に関しては、そういった”あそび”がまったく存在しない。ただの朗読劇になっており、落語としては笑いどころがほとんどない。

そしていちばん残念だったのが、スタジオ録音だということ。タイトルに「寄席」と入っているにもかかわらず高座でかけられたものではないのだ。
したがって客席の笑い声も皆無なわけで、他の客の笑い声も一体となってひとつの話を形作る落語と呼べるものではない。
これではただの朗読劇で、落語家が演じる必要性が感じられなかったなあ。
ついでにいうと、柳家小三治の『ネチラタ事件』は上品すぎた。

高座ウケするようにアレンジして客の前で演じたらずっとおもしろいものになっただろうに。
40年前の音声でもまったく古びない星新一のショートショート。ぜひ落語に取り入れて、今後もしゃべりついでもらいたいものだ。


2017年7月22日土曜日

【DVD感想】『ミスター・ノーバディ』

ミスター・ノーバディ(2009)

内容(Amazonプライムより)
2092年、世の中は、化学の力で細胞が永久再生される不死の世界となっていた。永久再生化をほどこしていない唯一の死ぬことのできる人間であるニモは、118歳の誕生日を目前にしていた。メディカル・ステーションのニモの姿は生中継されていて、全世界が人間の死にゆく様子に注目していた。そんなとき、1人の新聞記者がやってきてニモに質問をする。「人間が“不死”となる前の世界は?」ニモは、少しずつ過去をさかのぼっていく――。

ううむ。難解な映画だった。
事前に友人から「ストーリーが分岐している映画なんで、何も知らずに観たら矛盾だらけで混乱するよ」と聞かされていたので大混乱はしなかったが、それでも話の流れから振り落とされないようにするのでせいいっぱいだった。
なにしろ、同一人物のぜんぜんちがう人生が並行に語られる上に、時代も100年ぐらいのスパンの間をいったりきたりして、さらに心象風景もさしこまれるのだから。

「ん? これはどの人生のいつの時代の話だ?」と常に考えていないといけないような感じ。
途中で「この映画は完全に理解するのは無理だ」と気付いて、ストーリーを追うのやめてぼんやりと観ることに切り替えた。

モザイク画のように、部分をじっくり見るのではなく全体の雰囲気を味わう映画なのかも。
映像が美しいから絵画を楽しむように観るのがいいのかもしれないけど、ぼくは左脳型の人間で、絵画鑑賞も苦手なので、観ているのはまあまあつらかった……。


とはいえ、「あのときああしていたら今ごろはどんな人生だっただろう」ということは誰しも考えることだし、SFの永遠のテーマのひとつであるけれど、「あったかもしれない」過去・現在・未来という難しいテーマをうまく映像化したとは思う。




ところでこの作品を観ながら、ぼくは「映画というのは観客を拘束できるメディアだな」と考えていた。

ぼくは『ミスター・ノーバディー』を「退屈な映画だな」と思いながらも最後まで観た(途中で昼寝休憩をはさんだけど)。
それは「映画というのは序盤は退屈でも後半まで観たらおもしろくなることが多い」ということを経験上知っているからだ(もちろん最後までつまんないものもあるけど)。
これがテレビ番組だったら、3分も観ずに離脱していたと思う。
映画だと思うから最後まで観たし、ましてレンタルビデオ屋で借りてきたビデオとか、映画館で観た映画とかだったら、どんなにつまらなくてもお金がもったいないから途中で停止するとか上映中に席を立つとかはしないと思う(寝ちゃうことはあるだろうけど)。


エンタテインメントは、どんどん手軽になってきている。
音楽を例にとれば、昔だったら音楽家の生演奏を聴くしかなかったものが、レコードやCDでいつでも聴けるようになり、カセットテープやMDといった記録メディアで複製もできるようになり、今ではデータで遠く離れた人ともやりとりができる。
が、接触がかんたんになるのと比例して、離脱も容易になっていっている。
コンサートに足を運んだ人が途中まで聴いて席を立つということはほとんど起こらないが、CDを途中停止することにはさほど抵抗がない。

インターネット上にあるコンテンツは、手軽に消費される分、ものすごくかんたんに捨てられる。
本を買って1ページだけ読んで読むのをやめる人はほとんどいないが、WEBサイトを3行だけ読んで「戻る」ボタンを押す人はすごく多い。
テレビも同様で、つまらない時間が1分でも続けばみんなチャンネルを変えてしまう。
だからテレビ番組やWEBサイトでは、逃げられないように「この後驚きの結末が……」みたいな煽りを入れたり、過剰に目を惹くタイトルをつけたり、クライマックスを冒頭に持ってきたりする。
その結果コンテンツがおもしろくなっているかというと、そんなことはない。むしろ逆。

おもしろそうなタイトルに釣られて読んだらがっかり。冒頭がいちばんおもしろい、いわゆる出オチ。タイトルと見出しですべてを表していて本文を読む必要がまったくなかった。
WEBサイトなんてそんなものであふれている。

意味があって序盤にピークを持ってきているのならいいんだけど、耳目を惹くためだけにやっているのであれば、作り手にとっても受け手にとってもマイナスにしかならない。


その点、映画は「基本的に観客は最後まで観る」という前提があるから、いちばんおもしろくなるための構成にすることができる。
序盤はたっぷりと世界観の提示と状況説明に時間を使い、中盤から徐々に観客をひきこんで、ラストにクライマックスを持ってきて「最初はつまんないかと思ったけど終わってみればいい映画だったね」と言われるような作りにすることができる。
これは今の時代においては本当に贅沢なことだと思う。


しかしこれは「映画は最後まで観るもの」という認識を持っているおっさんだからであって、ずっと無料動画や見放題の動画提供サービスに親しんでいる若い人からすると、やはり映画も「つまんなかったらすぐにやめるもの」なのかもしれない。
「10分くらい観たけど退屈だからやめたわー。星1つ!」って考えの人が増えたら、映画もやはり過剰に序盤を盛り上げるストーリーと必要以上に期待を煽る演出ばかりになるのかもしれないな。

そんな時代になったら『ミスター・ノーバディー』のような「最後まで観ないとわけわかんない映画」は誰も観なくなっちゃうんだろうなあ……。



2017年6月2日金曜日

【DVD感想】6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア

『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』

内容紹介(Amazonより)
2016年3月25日。
恵比寿ザ・ガーデンホール。
今をときめくテレビの演出家達が千原ジュニアを自由にプロデュース。
1人の芸人が1つの舞台で全く違った世界を演出された実験的かつ革新的なライブ。
チケットが即完した同ライブ待望のパッケージ化。

2006年に上演された『6人の放送作家と1人の千原ジュニア』の続編的なライブのDVD(『6人の放送作家と~』のほうは観ていないけどね)。

テレビのディレクターたちが周到に準備した舞台に何も知らされていない千原ジュニアが挑む、という実験的な企画。

で、いきなりケチをつけるけど、本編には5人のテレビ局員の舞台しか収録されていない。
公演では加地倫三(テレビ朝日)のパートもあったらしいけど、DVDには収められていない。
『アメトーク』や『ロンドンハーツ』のプロデューサーが何をやったのかは正直見たかったけど、まあしかたない。いろんな権利の問題があるんでしょう。舞台をDVD化するときにはよくある話だ(全部収録しないほうが劇場に足を運ぶメリットも感じられるしね)。

ただ、収録しないんだったらDVDのタイトルは変更したほうがいいんじゃないの?
『6人の』と謳っておきながら5人分しかないのは羊頭狗肉が過ぎるんじゃなかろうか……。




以下、感想。

 末弘 奉央(NHK)


『超絶 凄ワザ!』などの担当ディレクター。
千原ジュニアに対して大喜利のお題を出し、その後『プロフェッショナル 仕事の流儀』風のVTRが流される。
いろんな芸人が「千原ジュニアはいかにすごいか」を語り、捏造をおりまぜながらそのすごさを強調する。
構造としては「むやみにハードルを上げる」という一点のみなんだけど、NHKならではの質の高いドキュメンタリータッチな映像と、絶妙に粗い捏造の対比がおもしろい。

うん、これはたしかにテレビではできないよね。特にNHKなら。
いくら千原ジュニアからの「捏造や!」というツッコミがあるとはいえ、「冗談としての捏造」を真に受けてしまう人も観るテレビだとこれはできない。

「大喜利の天才」と上がりまくったハードルに対してどう答えるのかが見ものだったけど、見事に乗り越えてみせた(というかうまく逃げた)千原ジュニア。さすがだねえ。

ラストにピークがくる構成もよかったし、いちばん演出と演者のバランスがちょうどよかったのがこのコーナーだったな。

ただ惜しむらくは9割がVTRで構成されていたためライブ感には欠けていたこと。
これは悪い意味でNHKらしさだね。NHKって生放送でもライブ感がないもんね。

とはいえ1人目としては十分すぎる出来だった。



内田 秀実(日本テレビ)


『ヒルナンデス』などの担当ディレクターが手がけたのは、『千原ジュニアを知らない世界』という企画。
もし千原ジュニアが若手芸人だったとしてもやっぱり売れるのか? ということで、さまざまなシチュエーションに挑戦させられる千原ジュニア。

申し訳ないけど、ほんとにつまらなかった。
雑な大喜利に答えさせられるジュニアがかわいそうに見えてきた。

ゴールまでの道が一直線に決められているから、せっかく即興でやっているのに「どうなるかわからない」というライブ感がない。
この後にやった藤井健太郎の企画が真逆で遊びが多かった(そしてそこがことごとくハマっていた)ため、余計に筋書きの貧相さが目立ってしまった。

ぜんぶテレビでもできることだよね。というか、目まぐるしい場面転換もあったしテレビのほうが向いてる企画なんじゃないだろうか。
オチの手紙(妻からの手紙と思わせて実は別の人が書いていたというよくあるボケ)まで含めて、ことごとく笑えなかった。
なんでテレビで何度も見たパターンのボケを、チケットなりDVDに金払って見なあかんねん。

まあハズレがあるのもライブの魅力のひとつ、と思えば……。



藤井 健太郎(TBSテレビ)


『水曜日のダウンタウン』『クイズ!タレント名鑑』などの担当ディレクター。
以前に書いた(参照記事)けどぼくはこの人のファンなので、このDVDを購入したのも千原ジュニアを観たかったからではなく、藤井健太郎さんが何をやったのかが観たかったから。

で、藤井さんの企画が『ジュニアvsジュニア』というものだったけど、ぼくがこの人のファンだということをさしひいてもこれはすごかった。
これを観られただけでもDVD買ってよかったと思えたね。

さまざまなバラエティ番組やドラマや映画から集めた過去の千原ジュニアの映像をつなぎあわせて、現在の千原ジュニアとトークをしたり対決をしたりするんだけど、まあ鮮やか。
千原ジュニア(現在)が、困らせてやろうと意地悪な質問をしたりしても、ことごとく千原ジュニア(過去)にスマッシュを打ち返される。
完全に手のひらの上で転がされていたジュニア(現在)も素直に「すげえな」と言葉をもらし、悔しそうな顔をしていた。
なにしろこのライブでいちばん笑いをとっていたのが「過去のジュニア」だったからねえ。
(しかしDVD化するときに権利をとるのがたいへんだっただろうな。よくぞ収録してくれた!)

この企画はいい意味でテレビ的だった。

テレビ番組は基本的に無駄から成り立っている。NHKのドキュメンタリーだと30分番組のために2年も取材したりするというし、そこまでいかなくても放送時間の何倍もの映像を収録してそこから編集するのがあたりまえらしい。
つまり撮影したものの大部分が日の目を見ずに捨てられていく。
もったいない気もするけど、その無駄があるからこそ視聴者はおもしろい映像だけを楽しむことができる。

『ジュニアvsジュニア』も、膨大な無駄の上に構成された舞台だった。
いったいどれだけの映像を準備していたのだろう。たぶん舞台で流されたものの何倍もの映像が用意されていて、そのほとんどが使われていない。
(ちなみに3本対決のはずだったがうち1本は捨てられている。捨てられたことで笑いが生まれているから結果的には成功なんだけど、あれは予定通りだったのだろうか?)

藤井健太郎氏が自分で編集作業もしているという『水曜日のダウンタウン』も同じようにつくられていて、すっごくばかばかしいことに途方もない時間をかけて調査していたり、せっかく制作した映像を早送りで雑に流したりして、おもしろくなるためには惜しげもなく余計なものを捨てている。

舞台で活動している人には、「おそらく日の目を浴びることのないことのためにエネルギーを注ぐ」という無駄はなかなかできないだろうね。舞台って編集が入らないから。

テレビならではのやりかたを持ち込んでいる一方で、どういう展開になるかがプロデューサーにも演者にもわからないというライブならではの緊張感もあり、テレビと舞台の魅力がうまく融合していた企画だった。

笑いの量、すごいことをやっているという感動、終わりの潔さ。
すべて含めて完璧に近いステージだったと思う。



佐久間 宣行(テレビ東京)


『ゴッドタン』を手がける佐久間さんの企画は『千原ジュニアのフリートークvs○○ 3本勝負』。

「擬音で感じる女」「お笑いライブに足しげく通う女」「センチメンタル」という邪魔にも負けずにおもしろいフリートークをできるか? という企画。

まあ、『ゴッドタン』そのまんまだね。これを『ゴッドタン』でやったとしてもまったく違和感がない(番組の名物マネージャーも出てくるし)。
というか『ゴッドタン』の『ストイック暗記王』企画から劇団ひとりやおぎやはぎのコメントをなくしただけのように思えて、ものたりなさを感じた。

対決と言いつつ空気を読んだジュニアが負けにいってる時点で、「勝負」という前提が早々に崩れてしまった。
結果、即興にしては予定調和すぎる、台本にしてはぐだぐだすぎる、というなんとも中途半端な出来に。

プロデューサーが自分の得意パターンに持ちこもうとしすぎてたなあ。
新しいことに挑戦してほしかった。



竹内 誠(フジテレビ)


『IPPONグランプリ』『ワイドナショー』などの担当ディレクター。
素人の語るエピソードを千原ジュニアが代弁することでおもしろくするという『daiben.com』という企画だった。

シンプルでわかりやすいし、千原ジュニアというトークの達者な芸人を活かした企画だったけど、マイナス面も多く目立った。

たとえば、下敷きになった素人のエピソードが
「キノコの研究家が毒キノコを食べてみたときの話」
「お天気キャスターがプライベートで天候とどうつきあってるか」
という話だったこと。

それ自体が興味深い話だったので、千原ジュニアが代弁しなくてもおもしろかったんじゃないの? という印象がぬぐえない。
(代弁前のエピソードは観ている側にはわからないので千原ジュニアというフィルタを通したことでどれぐらいおもしろくなったのかがわからない)

また「素人が千原ジュニアにエピソードを語る時間」というのがあって、この間観客はひたすら待たされる。
DVDでは早送りで処理されていたけど、観客はただただ退屈だったはずだ。
高いお金を払って舞台に足を運んでいるお客さんをほったらかしにするという、悪い意味で「テレビ的」な時間だった。

この企画はおもしろいおもしろくない以前に、「観客に伝わらない」「観客を退屈させる」という点でそもそも失敗していたように思う。
決しておもしろくないわけじゃないけど、でも「これだったらテレビで『すべらない話』を観るほうがいい」と思う。



舞台とテレビの違いってなんだろう


テレビの制作者が舞台のプロデュースを手がけるということで、「舞台とテレビの違い」について考えさせられた。

このライブの間に挿入される映像でも、ディレクターたちに「舞台とテレビの違いはなんだと思いますか?」という質問がされている。
彼らの回答は「ライブ感」「観客との近さ」などだった。

でもライブ感も観客との近さも、決定的な違いじゃない。
VTRを使う舞台もあるし、生放送のテレビ番組もある。
観客を入れて収録するテレビ番組もめずらしくない。


じゃあ最大の違いはなにかって考えたら、それは「演者の代替可能性」じゃないかな。

舞台において、観客は演者に対してお金を払う。
もちろん入場料は劇場のオーナーや裏方のスタッフにも渡るわけだが(というよりそっちが大部分だろうけど)、観客の意識としては出演者に払っている。
だから主役級の演者が出られずに急遽代役が登場する、ということは基本的にありえない。
千原ジュニアのライブだったけど急病のため代わりに千原せいじだけが出てくる、ということは基本的に許されない(それはそれでおもしろそうだけど)。

ぼくは以前、まだ存命だった桂米朝一門の落語会のチケットを買ったことがある。
結局直前になって桂米朝が体調をくずし、公演は中止になった。
米朝さんが出られないならしょうがない。「他の演者は出られるんだから小米朝を代役に立てて公演をするべきだ」とは思わなかった。
そりゃそうだよね、米朝の落語を聴くためにチケットをとったんだもの。

一方、テレビの出演者は誰であっても代役が利く。
主役級が休んだとしても番組が放送中止になったりはしない。

かつて『たけし・逸見の平成教育委員会』という番組があった。
逸見さんが亡くなり、ビートたけしがバイク事故で入院して、番組の顔がふたりともいなくなったが、それでも代役を立てて番組は続いた。
島田紳助が引退してからも『行列のできる法律相談所』はやってるし、関西ではやしきたかじんが亡くなって何年もたつ今でもたかじんの番組が2つ放送されている(さすがに番組タイトルからは消えたけど)。
「この人なしでは考えられない」というような番組でさえも、意外と成立してしまうのだ。
もし明石家さんまが急に休業しても『踊る!さんま御殿』も『明石家電視台』も『さんまのまんま』もきっとしばらく続くだろう。


『6人のテレビ局員と1人の千原ジュニア』を観おわってまず僕が抱いた感想は、「テレビっぽいなあ」だった。

それはたぶん、準備が周到すぎたから。
「千原ジュニアには事前に企画の内容を知らせない」「編集でごまかせない舞台だから失敗は許されない」という条件が重なった企画、千原ジュニアがどう動こうが大勢に影響しない企画ばかりになってしまったんだと思う。
結果、千原ジュニアじゃなくても成立する企画になってしまった。

テレビをつくっている人間として「最後の最後を演者のパフォーマンスにゆだねる」ことは怖くてできなかったんだろうなあ。

すごく実験的でおもしろい企画だったんだけど、結果的に「テレビマンが舞台を成功させるのは難しい」という弱点を露呈させてしまった舞台だったのかもしれない。

ただ回を重ねればそのへんを打破するような企画をぶったててくれる人も現れると思うので、ぜひ同様の企画をまたやってほしいね。

【関連記事】

【読書感想文】 藤井 健太郎 『悪意とこだわりの演出術』


2017年5月9日火曜日

【DVD感想】『カラスの親指』





『カラスの親指 by rule of CROW's thumb』(2012)

内容(Amazonビデオより)
悲しい過去を背負ったままサギ師になったタケ(阿部寛)と、成り行きでコンビを組むことになった新米サギ師のテツ(村上ショージ)。そんな2人の元に、ある日ひょんなことから河合やひろ(石原さとみ)と河合まひろ(能年玲奈)の美人姉妹、それにノッポの石屋貫太郎(小柳友)を加えた3人の若者が転がり込んでくる。彼らもまた、不幸な生い立ちのもと、ギリギリのところで生きてきたという。これをきっかけに始まる他人同士のちょっと奇妙な共同生活。やがて、タケが過去に起こしたある事件が、彼らを一世一代の大勝負へ導くことになるが、この時は誰一人、それを知る由もなかった…。社会のどん底で生きてきた5人の一発逆転劇。そして驚愕の真実が明かされる…。

Amazonプライムで鑑賞。
道尾秀介の小説を映画化したもの。
詐欺で悪人から大金を騙しとる、っていういわゆる「コン・ゲーム」の王道のようなストーリー。

コン・ゲームって、小説だとジェフリー・アーチャーの『100万ドルを取り返せ!』とか伊坂幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』、映画だと『オーシャンズ』シリーズや『ラスベガスをぶっつぶせ!』なんかが有名だね。

そういう作品をいくつか見ているので『カラスの親指』も

「予想外のハプニングがあり、失敗したかにみえてもじつはそれも計算通りで、最終的にはうまく金をとるんだろうなー」

と思ってたらまさにそのとおりの展開だった。

……と思いきや、もうひとひねりあった。


だまされたー!
と気持ちよく叫びたいところだけど……。

んー、この展開はいただけない。

完全にやりすぎ。ご都合主義が過ぎる。
「最後に大どんでん返し」をやりたいあまりリアリティを捨ててしまった。

「たまたまうまくいった」の10乗みたいな確率のストーリーを「全部私の筋書き通りです」って言われてもなあ……。

さらっと「当たり馬券を用意してただけです」とか言ってるけど、どうやって当たりの万馬券を用意するんだよー!
これは一例だけど、ほかにも穴だらけだった。

しかも無駄金使って大芝居を打つ動機が弱いし。
このへん、原作小説ではちゃんとつじつま合わせてるのかな?

一応ちゃんと伏線は張ってあってフェアではあるけどね。

でもフェアだったらなんでも許されるわけじゃないぜ!

2時間40分もある長編映画だったけど、無茶などんでん返しを入れるぐらいなら、2時間ですっぱり終わってほしかった。

終盤まではけっこう楽しめただけに残念。



冒頭の競馬場のシーンはよかったなあ。

詐欺師3人の騙しあい。

あのシーンがいちばん「おお!」ってなった。



村上ショージの演技が笑っちゃうぐらいへただった。

「ぱっとしない詐欺師」の役だからへたでもあんまり気にならなかったんだけど、セリフが聞きとれないところも。

ラストの重要なセリフまで棒読みだったけど、あそこで豹変してシリアスな演技をしてたら全体の印象も大きく変わったんだけどな……。



時間がたっぷりあるのに、セリフで説明してる箇所が多くて疲れてしまった。

阿部寛が聞かれてもいないのに自分の過去をべらべらしゃべる。
あまりにあけっぴろげだから「これも嘘なんだろうな」と勘ぐっていたら、全部ほんとだったのでびっくりした。

詐欺師なのにオープンすぎる!
しかも隠したい過去なのに。

そのへんが「詐欺師として一流にはなれない」という人物描写なのだとしたらアリだけど、たぶん何も考えてないだけ。

原作小説の地の文で説明してることを、何も考えずにセリフにしちゃったんだろうなー。



公開時のキャッチコピーは

「衝撃のラストには、衝撃のウラがある。」

だったそうだけど、そろそろこういう

「驚愕のラスト!」
「ネタバレ禁止! あなたもきっと騙される」

みたいな映画、やめにしない?

あと「映像化不可能と言われた〇〇がまさかの映画化!」も。
(『イニシエーション・ラブ』とか『アヒルと鴨のコインロッカー』とか)

中にはよくできているものもあるけどさ。

でも監督の自己満足に思えちゃう。

よく映像化したなーとは思うけど、でもべつに映像化する必要なかったんじゃない?


「観客をだますタイプの作品」って映像には向いてないんだよね。

小説だと
  • 「読者はすべての文を読む」という了解があるので伏線やトリックが見過ごされにくい
  • すべてを描写する必要がないので、都合の悪い情報は隠すことができる
  • かんたんに読み返せるので「あーそういうことか」って思ってもらえる
という利点があるから、自然に、かつフェアに読者をだますことができるんだよね。

でも映像作品は
  • 画面の情報量が多いので伏線の提示がさりげなさすぎると観客に気づかれない
  • 読者に与えたくない情報まで画面に映ってしまう
  • かんたんに見返せないので、観客が「そんな伏線あったっけ?」ってなる
こういう事情があるから、読者をだますタイプの作品には向いてないと思うんだよね。
(難しいからこそ『シックス・センス』のようにうまくはまったときは衝撃も大きいんだけど)

「やってやれないことはない」ぐらいだったらやらないほうがいいと思うんだよなあ。

映画には映画の長所があるんだからさ。

小説では表現しづらいスピードとかリズムとかスリルとかを表現するのには向いてるんだし。

作品ごとに適したメディアは違うから、無理に映像化・アニメ化・コミカライズ・ノベライズしないほうがいいと思うなー。

2017年3月1日水曜日

R-1ぐらんぷり2017の感想

R-1ぐらんぷり2017の感想書きます。


【1回戦Aブロック】

・レイザーラモンRG 『トランプ大統領』

この人のすごさって、「プロとは思えない潔さ」ですよね。
トランプ就任直後にトランプやったり、五郎丸が流行ってるときに五郎丸やったり。
しかも似てないし、たいしたひねりもない。
プロの芸人がぜったいにやらないことでしょ。素人が(それもおもんないやつが)忘年会でやっちゃうレベルのキャラ。
それをプロがやるってのがすごいよね。
この人しかできない。ここまでいくと逆にカッコイイ。
もうおもしろいとかおもしろくないとかどうでもいい。ていうかおもしろくなかった
でもそれもいいじゃない、って思わされる人間的魅力があるね。相方がイヴァンカ・トランプの恰好で応援に来てたシーンもしみじみとした良さがあったなあ。こちらもやっぱりおもしろくなかったけど。

・横澤夏子 『ママチャリ』

達者だね。達者さがちょっと鼻につく感じだね。
一人芸って、ネタの力と表現力のかけ算だと思うんだけど、ネタが弱いよねえ。
というかこの道って、古くは山田邦子から、青木さやかやら柳原可奈子やらがさんざんやりつくしてしまった道だからねえ。

・三浦マイルド 『両方から聞こえてきそうな言葉』

ネタそのものは良かったんだけど、キャラクターとあってなさすぎてうまく入ってこなかったな。せっかく強いキャラクターがあるのに誰がやっても成立しちゃうネタだったな。
後半の保育園のくだりは広島出身という点をうまく活かしてたけど、そこにいくまでは「悪くはないけど……」っていう感じでした。

・サンシャイン池崎 『となりのトトロ』

たぶんああいう勢いで押しきるネタって、現場にいたら笑っちゃうと思うんだよね。
逆にいうとテレビで観ている人との温度差がいちばんあるのもこういうネタ。
きっと「まったく笑えなかった」という感想があふれかえっていたことでしょう。ぼくもそのひとり。


ぼくは「あえて言うなら三浦マイルドだけど誰でもいいや」って思ってましたが、サンシャイン池崎が最終決戦進出。


【1回戦Bブロック】

・ゆりやんレトリィバァ 『透明感のある女』

わかりやすいフリの後に、強い一言を並べていくネタ。
設定がフリーダムすぎて、客も戸惑っていたように感じた。
たとえば「なんで〇〇は××なん?」っていう言い回しで統一するとか、ヤンキーというテーマでそろえるとか、なにかしらルールがあったほうが見やすかったように思う。
ところでネタとまったく関係ないけど、ゆりやんレトリィバァってすごい吉本新喜劇にいる雰囲気漂わせてるよね。はじめて見たとき「ぜったい新喜劇の役者や」って思った。新喜劇側はぜったいほしいやろ。

・石出奈々子 『ジブリっぽい女の子が大阪に行く』

いきなりネタと関係ないこと書くけど、この人、すごいタイプ。
整っているようでちょっとだけくずれてる顔とか、小柄なとことか肌がきれいなとことか。
「かわいいなあ」と思って観てたのであんまりネタ覚えてないや。
ええっと、大阪に行く話ね。
ほんとジブリの世界の表現すごいね。特にあの力こぶのとことか。でも肝心のネタはおもしろくなかったなあ。大阪ネタが手垢まみれすぎて。
あの世界観で、大阪人全員から憎まれるぐらいどぎつい攻撃したらおもしろいんだろうなあ。

・ルシファー吉岡 『大化の改新』

よくできてるんだけど、設定自体はそこまでぶっとんでるわけじゃないから、あとはどれだけ切れ味の鋭い言葉を並べるかなんだけど、期待を超えてくれなかったなあ。
自身が2016年にやった「キャンタマクラッカー」のネタのほうが、設定、言葉のインパクト、くだらなさ、どれをとっても上だった。
自分に負けちゃだめだね。

・紺野ぶるま 『占い師』

15年くらい前だったらすごくウケてたと思う。
今でもおもしろくないわけじゃないんだけどね。でもすべてが古い。
いろんなネタをパクってんのか? って思っちゃうぐらい、どのボケも既視感があったなあ。
それでもまだ表現力があれば笑えるんでしょうけど。
この人がネタ書いて横澤夏子が演じたらうまくいくんじゃないかな。


Bブロックも消去法で石出奈々子かなあと思っていた。で、石出奈々子が最終決戦進出。

アイデンティティ田島の敗者復活コメントおもしろかったなあ。「ブルマも行ったし」
でも結果発表前に急にアナウンサーがコメント振った時点で「落ちたんだな」ってわかっちゃったから、あれはよくないね。


【1回戦Cブロック】

・ブルゾンちえみ 『キャリアウーマン』

見ててわかるぐらい緊張してたね。本人も「ネタ飛ばした」と言ってたし。
あの顔で余裕たっぷりのいい女を演じるのがおもしろいネタだから、緊張しちゃったら成立しない。
べつの番組で観たことあるけど、いちばん笑ったのは両隣の男のセリフだった。

・マツモトクラブ 『雪の夜の駅のホーム』

笑いの量を求められる場では勝てないだろうねえ。この人のはコントじゃなくてコメディだからねえ。
戦いの場を変えたほうがいいんじゃないかと思う。
ところで「掛川は新幹線止まらない」は、RGのネタを受けてのアドリブだったのかな。アドリブを入れにくい構造のネタなのに、がんばったなあ。

・アキラ100% 『全裸芸』

いやあ、おもしろい。これは惹きつけられちゃうでしょ。
以前に観たことあって、でも去年のR-1ぐらんぷりで決勝に行けなかった時点で「今後はもう無理だろうな」と思っていた。
だって見た目のインパクトが命だし、『丸腰刑事』の完成度は高かったから、「もうこれ以上のネタを作って上がってくることはないな」と思っていた。
で、今年になって決勝進出。「なんでいまさら」と思っていたら、ちゃんとネタのレベルを上げているのでびっくりしてしまった。
生放送だった、というのも有利にはたらきましたね。
板尾審査員がコメントしていたとおり、スリリングなネタで見入ってしまいました。

・おいでやす小田 『言葉を額面通りに受け取る彼女』

これはいいネタだね。いちばん笑ったのはアキラ100%だったけど、ネタの完成度はこれがダントツで1番だった。
「比喩表現を言葉通りに受け取ってしまう」ってボケ自体は古典落語にもあるぐらいだから目新しいものじゃないんだけど、見せ方がうまかったね。
彼女だけでなくウェイターも使ったり、言葉だけじゃなく手の動きもつけたり、妄想の会話を延々くりひろげるくだりがあったり、飽きさせない趣向が十分に凝らされていた。


アキラ100%がおいでやす小田を僅差で抑え、最終決戦進出。
ぼくも「笑ったのはアキラ100%、でも好みはおいでやす小田」と思っていたから、まあ納得。
あとは、アキラ100%にはかわいげがあるけど、おいでやす小田にはかわいげがないってのも、意外と審査に響いたのかも。本人が悪いわけじゃないけどね。


【最終決戦】

・サンシャイン池崎 『でかい剣を持ってるやつあるある』

あれ?
1本目のネタよりはおもしろいと思ったのに、こっちのがほうがウケてない。
ていうか客が疲れてない?
後半急カーブを切って着地する構成とか、叫びすぎて声出なくなってるとことか、おもしろかったのにな。好きじゃないけど。
「らしくない」ネタだったからすんなり受け入れられなかったのかな。
1本目と違う笑いのとりかたをしにきていて、じつはけっこう計算高い人なのかもね、この人。

・石出奈々子 『ジブリの世界のテレビショッピング』

サンシャイン池崎とは逆に、1本目と同じタイプのネタを持ってきて撃沈。
いやあ、びっくりするぐらいスベってたね。
ほんとおもしろくなかったなあ。かわいいだけだったなあ。かわいかったなあ。


・アキラ100% 『全裸芸』

サンシャイン池崎が空回り、石出奈々子がだだスベりで、やる前からほぼ結果が決まってしまったアキラ100%。
ここでのアキラ100%は安心感がありますね(ネタの内容は不安感しかないけど)。だってこの芸がスベることないでしょ。眉をひそめられることはあっても。
で、最後の最後までいろんな角度から全裸芸を見せてくれて楽しませてくれました。
ネタを見るだけで、まじめな人なんだなあってわかりますね。


というわけで、アキラ100%が残る2人に圧倒的な差をつけて、文句なしの優勝!


しかし、「R-1ぐらんんぷり優勝者は売れない」というジンクスがありますけど、このジンクスは少なくともあと1年は続きますね、これ……。