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2019年12月6日金曜日

保育士の薄着至上主義と闘う


六歳の娘が熱を出した。
一日休ませたら元気になったので保育園に行くことに。
さすがに今日はあったかくしときなさい、長袖長ズボンで行きなさい(これまで半袖半ズボンだった。どうかしてる)というと、娘は泣いて抵抗する。
イヤだイヤだ、半袖半ズボンじゃないとイヤだ、と。

で、どうしてそんなに長袖長ズボンを嫌がるんだとくりかえし訊くと、娘が口を開いた。
「だって先生が長袖長ズボンはダメって言ってた……」


娘の言葉を鵜呑みにしたわけではない。
保育士が「長袖長ズボンはダメ」とはっきり言うとはちょっと考えられない。
だが、それに近い保育士からのメッセージはぼくも受信していた。

保育士たちがやたらと薄着を礼賛すること。

おたよりでも「冬でもなるべく薄着で過ごすよう指導しています」などと書いていること。

他の保護者が「うちの子はおなかこわしやすいんで長袖を着せていったら『なるべく半袖にしてくださいねー』と言われた」と語っていたこと。

少し前に子どもたちがみんな半袖半ズボンだったので「みんな寒くないん?」と訊いたら、子どもたちが口をそろえて「長袖なんか着るわけないやん!」と言ったこと。


矯正まではしなくても、園の方針として「なるべく薄着で過ごさせる」というスタンスでいるらしいこと、そしてその方針を子どもたちがまるで金科玉条のように絶対視していることを前々から感じとっていた。



くだらない。ほんとくだらない。

そのくだらなさがぼくにはよくわかる。
なぜならぼく自身、「一年中半袖半ズボンで過ごした子ども」だったから

「半袖半ズボンは元気の証」と信じていたぼくは、小学二年生のとき、親からどんなに言われても長袖長ズボンを着なかった。
もちろん寒かった。がたがた震えていた。家に帰ったらストーブの前に直行した。風邪もひいた。
他の大人たちから言われる「こんなに寒いのに半袖半ズボンなんてすごいねー」という言葉を、文字通りの褒め言葉として受け取っていた。本音は「ようやるわ。あきれた」なのだと理解していなかった。

そんな経験のあるぼくだからこそわかる。
無理して薄着でいることのメリットなんて何もないということが。



しかし多くの保育士が「薄着でいると元気になる」と信じているように見える。
保育士は、自分の経験から「薄着で遊んでいる子は元気な子が多い」とおもってしまうのかもしれない。

あほらしい。
典型的な[前後即因果の誤謬]だ。
薄着でいるから元気になるんじゃない、元気だから薄着で外で遊べるのだ。

その理屈で言うなら、「病院にいる子は公園にいる子より不健康な子が多い。ということは病院に行くと不健康になる」ということになってしまう。

ぼくが子どもの頃は「おひさまの下でいっぱい遊んで真っ黒になるまで日焼けした子は元気になる」と言われていた。
これも同じだ。元気だから外で遊べるだけの話だ。
現代において「紫外線をたっぷり浴びると元気になる」なんていう人はまさかいないだろう。
なのにまた同じ失敗をくりかえそうとしている。


いや知りませんよ。
もしかしたら、ほんとうに薄着で過ごすことが免疫力を高めるのかもしれませんよ。

でもそれを科学的に検証しようとしたら、多数の子どもを集め、ランダムに二つのグループに振り分けて、片方のグループには防寒具を着せ、片方のグループの子どもたちはどんなに寒がっても半袖半ズボンしか着せず、その二つのグループの数年後、数十年後の健康状態にどれだけ差が出たかを検証しないといけない。
そんな非人道的な実験が今の日本で認められるとは到底おもえないから、たぶん検証不可能だろう(仮に他の国で実験したとしてもそれはその国の気候でしかあてはまらない話だ)。

だから薄着で過ごすことが健康にいいかどうかを議論するのがそもそも無駄だ。
だったら「快適なほうを選ぶ」でいい。



仮に、子ども数百人を用いた非人道的実験がおこなわれて「半袖半ズボンだと元気になる」という結果が得られたとする。

それでもぼくは真冬に薄着で過ごさせることには賛成しない。

健康がすべてに優先するわけではない。

もしも「パンツ一丁で過ごすと元気になる」というデータが出たら、どうだろう。
男も女もパンツ一丁で過ごすか。パンツ一丁で往来を歩くか。
そんなバカなことはしない、と誰もがおもうだろう。
なぜならパンツ一丁で歩くことは健康云々に関係なく、非常識だからだ。

社会常識を教えるのも教育の役割だ。

「冬でも半袖半ズボン」は社会常識からは外れている。
たまにいるけどね、真冬でも半袖のおじさん。
あれを見て、たいていの人は「ああアレな人なのね」とおもう。
そりゃ冬でも半袖半ズボンのおじさんから「私の恰好見てどうおもいますか」と訊かれたら、面と向かって「ばかじゃないかとおもいます」とは言えないから「あ……えー……健康的ですごいなーと……おもいます……」と答えるだろうけど、それは本心ではない。

「冬には冬にふさわしい恰好があります。寒い中で半袖半ズボンで過ごすのはおかしなことです」と教えてやるのが保育士の仕事だろう。

子どもは「少し肌寒いからもう一枚着ていこう」などと判断する力がないからこそ、大人が先回りして防寒対策をしてやらねばならない。
(中学校などで衣替えの時期が決まっているのも同じ理由だとおもう)



いくら「あったかい恰好をしなさい」と言っても娘が「でも長袖長ズボン着てる子は弱いって言われるから……」と渋っていたので、洗脳を解くためにかなりきつい言葉で言い聞かせた。

「いい? 長袖長ズボンをダメってのは先生のウソなんだよ。ウソ! だから信じちゃダメ! その証拠に先生たちは長袖長ズボン着てるでしょ! 先生も適当に言ってるだけ!」

「寒いときに我慢して半袖半ズボンにする人はバカなだけ! バカなの! 先生が言ってることはバカなこと!」

娘が持っている保育士への信頼感を壊すようなことはできればしたくなかったが、強固に「薄着至上主義」を信じこまされていたので仕方がない。

何度も言うことで、ようやく娘も長袖長ズボン+コートを着てくれた。
洗脳が解けたかどうかはわからないが、まずは呪縛を解く行動をとることが必要だ。



……みたいなことを、二十分の一ぐらいに希釈して保育士への連絡ノートに書いた。

「いつもお世話になっております。ふざけたことをぬかさないでいただくようお願いいたします」みたいな感じで。

そしたらすぐ連絡があって、すんませんまちがってましたすぐ改めます、とめちゃくちゃ丁重に詫びられた。

……なんだかなあ。
それはそれで腑に落ちないというか。

「いやあなたはそういいますけどやはり薄着で過ごすことが大事だと私たちは考えるんですよ!」みたいな気概はないのかよ。
おまえら確固たる信念もなしに、他人に薄着で寒い中過ごすことを半ば強要してたのかよ。それただの虐待じゃん。

プロの保育士として信念があるんだったらちゃんとそれを主張しろよ、と。
信念がないんだったらはじめっから他人に自分の価値観を押しつけんなよ、と。

そんなふうにおもうわけです。
我ながらめんどくせえ保護者だなあ。



2019年12月5日木曜日

ニュートンのなりそこない


うちの次女。
こないだ一歳になった。
よちよちと歩くようになり、すれちがう人みんなに笑顔をふりまき、パーとかアイーとかの音を発するようになり、どこをとってもいとをかし。百パーセント癒しだけの存在だ。ウンコすらかわいい。

そんな彼女、近ごろは物理法則に興味を持ちだした。
机の上にあるものをひきずりおろしたり、箱を逆さにして中身をぶちまけたり、コップをひっくりかえしてお茶をこぼしたり、飽きもせずにそんなことをくりかえしている。
エントロピーが増大する一方なのでやめてほしいのだが、まあこれも彼女の正常な発達のために必要なんだろうとおもって基本的にはあたたかく見守っている(液体をこぼそうとするのは止めるが)。

こういう作業を何十回、何百回とくりかえすことによって
「これぐらい力を弱めると手からものが落ちる」
「ものを持っている手を離すととこれぐらいの速さで下に落ちる」
「液体は低い方に向かって流れる」
といった物理法則を経験的に学んでゆくのだろう。



ここでぼくはニュートンにおもいを馳せる。


ニュートンが「なぜものは下に落ちるのだろう」と疑問を持ったとき、周囲の人たちはどんな反応をしただろう。

「なるほど。言われてみればふしぎだ。何か大きな力がはたらいているのかもしれない。その力がなんなのか、どれぐらいの大きさなのか、気になるところだ」
……とはならなかっただろう。まちがいなく。

「は? 上から落としたら下に落ちるにきまってるだろ。わけのわからないこと言ってないで働け」

「なに赤ん坊みたいなこといってるんだ。落ちるから落ちる、それが答えだよ」

「だったらおれが教えてやるよ。おまえがクズだからそんなことを疑問におもうんだよ! わかったら働け!」

みたいなことを言われていたはずだ、ぜったい。
かわいそうなニュートン。

いや、ニュートンはまだいい。
そんな反応を受けながらも彼は研究に打ちこみニュートン力学を確立して後世に名を残したのだから。

ほんとうにかわいそうなのは、「なぜものは下に落ちるのだろう?」という疑問を持ちながらも「そんなこと考えるひまあったら働け」という声に負けて、研究の道をあきらめた数多くの、そして無名のニュートン予備軍たちだ。
もしも「たしかにふしぎだね。その理由をつきつめてみたらすごい発見につながるかもしれないよ」と言って背中を押してくれる理解者がいれば、彼らのうちの誰かがニュートンになっていたかもしれないのに。

そんな気の毒なニュートンのなりそこない。彼らと同じ道を我が子に歩ませないために、我が子がわざと食卓にお茶をこぼしてぬりひろげているのをぼくは今日もあたたかく見守る。
……でも液体はやめてくれって言ってるだろ!


2019年12月2日月曜日

かわいそうおばさん


妻が言う。
「二人目の育児になってから、“かわいそうおばさん”が寄ってこなくなった」

 「かわいそうおばさん? なにそれ?」

「赤ちゃんを連れて歩いていると、やたらとかわいそうかわいそうっていうおばさん。ひとりじゃなくて複数いる。『寒いのに外に連れだされてかわいそうねー』とか『あらー。泣いてるの。かわいそうねー』とか言ってくるの」

 「えっ、なにそれ。子どもは寒くたってお出かけが好きだし、赤ちゃんが泣くなんてごくごくふつうのことなのに」

「そう。今ならそうおもえるんだけどね。でもこっちははじめての子育てでいろいろ神経質になってるから、いちいち気にしちゃうのよねえ。自分の子育ては良くないのかもしれない、って」

 「その人たちは何が目的なんだろう」

「さあ。おまえの子育てはなってないって言って優越感にひたりたいんじゃない? だっこして歩いてたら『あらー。おんぶじゃなくてかわいそうねー』って言われたこともあるからね」

 「えええ。だっこがかわいそうなんだ。そういう人は、おんぶしてたらしてたで『だっこじゃなくてかわいそうねー』って言うんだろうね」

「だろうね。でも、そういうオバハンは気にする必要ないっておもうようになったら、向こうから寄ってこなくなった。はじめての育児で不安になってる母親ばっかり狙うんだろうね、かわいそうおばさんは。きっと弱ってるにおいをかぎわけるのよ。サメがケガした獲物の血のにおいに集まってくるように」

 「こえー。でもぼくもよく赤ちゃん連れて歩いてたけど、そんなおばさんには会ったことないなー」

「あいつらは弱い獲物しか狙わないからね。男の人のところには行かないのよ」

 「こえー。でもそうやって弱っているお母さんを狙って攻撃せずにはいられないなんて、きっとそういうおばさんたちは子育てでいろんなイヤな思いをしたんだろうね。だから後輩をいたぶらずにはいられない」

「先輩からしごかれつづけたから、自分が三年生になったときに後輩を殴るみたいな」

 「“かわいそうおばさん”が本当に『かわいそう』と言いたいのは過去の自分なのかも」

「そう考えると“かわいそうおばさん”こそがかわいそうな存在……とはならないからね! 自分がイヤな目に遭ったからって若い母親をいじめていいことにはならんわ! ×××××(書くのもはばかられる悪口)!」


ということで、幼い子どもを持つおかあさん。
“かわいそうおばさん”はほうっておくのがいちばんです。
もしくは「泣いてるの。かわいそうねー」と言われたら

そうなのよ、今日はあいにくいつも面倒を見てくれてる召し使いがお休みをとっちゃって。ばあやがいなくてほんとにかわいそうだわオホホホホ!

ぐらいのことを言って撃退するのがいいんじゃないっすかね。


2019年11月19日火曜日

おばけなんてじゃないさ


小学生のとき、親に「早く寝ないとおばけが出るよ」「いい子にしてないとサンタさんが来ないよ」と言われるたびに「何をくだらないことを言っているんだ」とおもっていた。
「しつけのために嘘を教えるなんて、指導者の立場にある人間として正しい行いとはおもえない」とおもっていた。
「自分が親になってもおばけだのサンタクロースだの妖怪あずきあらいだのといった茶番に子どもは付きあわせないぞ!」と決意した。

で、自分が親になって数年たった今、おばけもサンタクロースもばんばん使っている。
「夜更かししてるとおばけが出るよ」「じゃあサンタさんに悪い子ですって報告しとくわ」と言っている。

こんな恰好をして脅したこともある



同じく幼い子を持つ友人と話すと、やはりみんなおばけもサンタクロースも大いに活用しているようだ。

べつに積極的におばけだのサンタクロースだのと教えるわけではないが、子どもが保育園でおばけやサンタクロースの存在を仕入れてくるので、
「保育士がせっかく教えたものを、あえて否定することもあるまい」
と乗っかっているうちについつい依存してしまうのだ。

子を持ってわかる、先人の知恵の重要性。

おばけやサンタクロースというのは、いってみれば「賞罰の外注」だ。

ふだんは子どもに対する賞罰の権限は親が握っている。
「悪いことをしたから怒ります」
「言うこと聞かないと遊びに連れていきません」
「がんばったから好きなお菓子を買ってあげます」
と。

しかし、権限者が近くにいると都合が悪いこともある。
子どもが大きくなると、知恵をつけてきていろいろ反論されるようになる。
「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
「自分だって〇〇できてないくせに」
「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」

こう言われると困ってしまう。
親にもいろいろ事情があるのだ。
「忘れてた」とか「めんどくさい」とか「いいの! お父さんがいいって言ったらいいの!」とか、それぞれ正当な理由がある。
だがそれを子どもに言っても理解してもらえそうにない。

そこで、外注ツールを使うのだ。
それが、おばけであり、サンタさんであり、なまはげだ。
賞罰を与える主体が遠くの存在であれば、子どもの反論もなんなくかわせる。

「こないだはよかったのになんで今日はだめなのよ」
→ 「知らない。決めるのはおばけだもん」

「自分だって〇〇をできてないくせに」
→ 「おばけは子どもをさらうから、大人は関係ないんだよ」

「なんで大人は好きなときにお菓子買ってるの?」
→ 「大人のところにはサンタさんが来ないからね」


子どもというやつは、
大人はルールに従って生きているとおもっているし、
大人の言動は首尾一貫していなければならないとおもっているし、
大人は嘘をつかないと信じている。

大人の正しさを信じてくれることはありがたいのだが、そうすると現実とのズレが生じる。
そのズレを埋めてくれるパテがおばけでありサンタなのだ。

いやはやおばけさん、サンタクロースさん。
いつもたいへんお世話になっております。その節は存在ごと否定してしまい申し訳ございません。
もうほんと、おばけさんには足を向けて寝られません。どちらの方角にいるのか存じあげませんか。


2019年11月15日金曜日

早く行くのは三文の徳


中学三年生のとき。
部活を引退して、朝練がなくなった。
せっかく早起きする習慣がついたのにそれを捨てるのももったいないとおもい、早朝から学校に行くようにした。
本を読んだり、当時はまっていた漢字能力検定の勉強をしたりしていた。

ぼくが早く来るのを知って、友人Sも早く登校してくるようになった。
まだ誰もいない教室で、くだらない話をしたり、漢字クイズを出しあったりして過ごすようになった。

あるとき、早朝の教室に男性体育教師が怒鳴りこんできた。
「おいおまえらなにしとんねん!」

突然のことにぼくらはびっくりした。
そのときは漢検の問題集を広げていたので戸惑いながらも「えっ、漢字の勉強してるんですけど……」というと、体育教師はきょとんとした顔をした。

「ほんまか……? そっか、まぎらわしいことすんなよ……」
といって、職員室へ帰っていった。
残されたぼくらは顔を見合わせた。なにがまぎらわしいことなんだ?
どうやら体育教師は、ぼくらが早朝の教室で何か悪いことをしているとおもったらしい。
男子中学生というのは非行に走りやすい年頃だ。同級生には隠れて校舎の裏でタバコを吸ったりしている連中がいたので、ぼくらもその手合いだとおもわれたようだ。

その後も体育教師は何度かそっと教室をのぞきにきた。
よほど「誰にも言われないのに早朝から学校にきて勉強する生徒がいる」ということが信じられなかったらしい。



高校に進学してからも早朝に登校する習慣は続いた。
ぼくは野外観察同好会に入った。もちろん朝練はない。けれど朝練をしている野球部やサッカー部よりもずっと早く登校した。早く着きすぎて校門が開いていないこともあった。

早く行ったからといって何をするわけでもない。
まずは机につっぷして少し寝る。
学校に行って寝るのなら家で寝ればいいじゃないかとおもうかもしれないが、誰もいない教室で寝るのが楽しいのだ。おまけに遅刻の心配もないからストレスなく寝られる。
起きたら、本を読んだり、ときどき宿題をしたり、ぼくほどではないが早く登校してくる友人たちとしゃべったり。

そんなふうに朝の時間をのんびり過ごしていただけなのに、ふしぎと教師からは褒められるのだ。
朝、顔を合わせると「今日も早いな。えらいなー」と言われる。早く来て寝ているだけなのに、えらいと言われる。家でやらなかった宿題を学校でやっているだけなのにえらいと言われる。

これが放課後に教室に残っている場合だとこうはいかない。見回りに来た教師から「いつまで残ってんねん。はよ帰れよ」と注意されたりする。
ふしぎなことに、同じことをやっていても、朝だと「感心な生徒」になり、放課後だと「だらしない生徒」の扱いになるのだ。


そのとき学んだことは、社会人になってからも役に立った。
人は、早く来る人のことを「まじめなやつ」と評価するらしい。

三十分残業しても「がんばってるな」とは言われないが(まあぼくがいた会社は長時間が労働があたりまえだったってこともあるけど)、始業時間よりも三十分早く出社すると「まじめだな」と言ってもらえる。
逆に、始業時間一分前に来る社員は「だらしないやつ」というレッテルを貼られたりする。
毎朝一分前に来る人は、いつも同じ時刻に家を出て、少しでも電車が遅れたら走って遅れを取り戻したりして、すごくがんばっているように見える。毎朝ぎりぎりの人のほうがスケジュール管理をきっちりしているのに、だらしないと思われるのだから気の毒だ。

ぼくはだらしないから早めに家を出る。
ぼくからすると「毎朝一分前に来る」よりも「だいたい三十分前に着く」ほうがずっとかんたんだ。何も考えなくていいのだから。

だらしない人は早めに家を出るほうがいいぜ。
時間を気にしながらあわてるぐらいなら、早起きするほうがずっと楽だぜ。


2019年11月8日金曜日

強盗と痴女


以前、こんな話を聞いた。

道で強盗や不審者に遭遇したとき「強盗だ!」と叫んでも誰も出てきてくれない。身の危険を感じるから。
だから「火事だ!」と叫ぶとよい。火事なら、家にいると危険なのでみんな出てきてくれるから。

と。
それを聞いたときはなるほどいい方法だと感心したのだが、改めて考えるとそれってほんとにいい方法なんだろうか。


「火事だ!」という声を聞いた母親が、あわてて3歳の娘と0歳の息子を連れて外に飛びだしてくる。
だがそこには刃物を持った強盗。あわれ罪のない親子は、動転した強盗の凶刃に倒れ……。

という可能性もある。

その場合、もちろんいちばん悪いのは刺した強盗だが、「火事だ!」と嘘をついて無関係な市民を巻き添えにした人間は「いやぼくも被害者なんで」で済まされるだろうか。

刑法には「緊急避難(第37条)」という条項があり、
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
とある。

この考えでいくと、"避けようとした害"は「強盗に金品を奪われる」であり、"生じた害"は「母子が刺される」なので明らかに後者のほうが程度が大きい。
なので罰の対象にはなるがある程度は軽減される、ということになる(だよね? 法律の専門家じゃないので責任は負いません)。

まあ軽減されるとはいえやっぱり罪にはなるみたいなので、やっぱり嘘はよくないよね。
自分の嘘のせいで罪のない人が殺されたら寝覚めが悪いし。

だから強盗に遭遇したときは
「火事だ!」じゃなくて
「痴女が出た!」と叫んで、下心丸出しで外に飛びでてきた男の人に助けてもらうのがいいんじゃないでしょうかね。
それなら万が一その人が刺されてもそれほど心が痛まないし。

2019年11月7日木曜日

のび太が心配


のび太が心配だ。

最近、娘がドラえもんの漫画やアニメを観るようになったので、ぼくもまた『ドラえもん』を読むようになった。

のび太はテストでたびたび0点をとる。
名前を書き忘れたから0点にされた、とか、学校教育のあり方に対して抗議をするためにあえて白紙で提出した、とかではなく一応問題にまじめに取り組んだ結果として0点をとる。
先日見たアニメでも2点をとっていた。

小学四年生のテストだから「直前に習ったこと」が出題されているはずだ。
そこそこ授業を聞いてそこそこ理解していれば70点ぐらいはとれるはず。
だからのび太が0点とか2点とかをとるのは、計算ミスをするとか、暗記が苦手とかが原因ではなく、そもそも「授業で先生が言っていることや教科書に書かれていることがなにひとつ理解できていない」のだ。

たぶんのび太にとって学校の授業は、まったく知らない外国語を聞かされているのと変わらないぐらいちんぷんかんぷんなのだろうと想像する。


まっさきに疑うのは知的障害や発達障害だが、ふだんの言動を見るかぎりでは重大な障害を抱えていなさそうだ(さして夜更かしをしているようにも見えないのに居眠りしすぎなので睡眠障害の可能性はある)。

ドラえもんや出木杉くんの難解な話にもついていけるし、漫画をよく読んでいるから読解力が極端に低いわけでもなさそう。

ではのび太はなぜ勉強ができないのだろうか。
それは「勉強のしかたを知らない」からだとおもう。

のび太は四年生よりずっと前の段階で授業についていけなくなっている。
たぶん一年生。
基礎がまったくできていない。漢字が読めない、四則計算ができない、かんたんな文章の意味がわからない。
だから四年生のテストで0点をとる。まちがえるとか難しくて解けないとかではなく、「何が問われているのかさっぱりわからない」のだ。

たぶんのび太にとって四年生のテストの問題文は
「sin θ + cos θ =1/2のとき、sin θ cos θの値を求めよ」
と訊かれているのと同じぐらい、意味がわからないはずだ。


問題の原因が数年前にあることにのび太自身が気づけるわけがない。九九の重要性に気づけるのは、九九を理解できる人間だけだ。

だから大人がちゃんと指導してやる必要がある。問題はどこにあるのか、何から手を付ければいいのか。

なのにのび太の周りにはちゃんとした大人がいない。
先生もママも「勉強しなさい」「宿題はやったの?」としか言わない。
未来から来たロボットはえらそうに講釈は垂れるくせに、肝心の勉強の方法は教えてくれない。

のび太は勉強したくても何をやったらいいのかわからないのだ。
ときどきのび太が一念発起して「勉強するぞ!」と机に向かうシーンがある。
でもすぐにあきらめる。そりゃそうだろう、九九ができない人間がいくらやる気になったところで分数の問題が解けるはずがない。やる気の問題じゃない。

70点をとる子は勉強時間を増やせば90点をとれるようになるだろうが、0点をとる子が自分ひとりでどれだけ勉強しても70点をとれるようにはならない。


のび太がかわいそうだ。
勉強できないのはのび太のせいじゃない。たしかにのび太はなまけものだ。だがなまけものでない小学生がどこにいるだろうか。なまけるのはあたりまえだ。
それにのび太は、興味のあることに対してはたいへんな熱意を見せる。正しい勉強の方法、勉強のおもしろさを教えてやればめきめき伸びる可能性が高い。

のび太が勉強できないのは100%指導者の責任だ。ママやパパや先生が悪い。セワシはドラえもんよりもまともな家庭教師を未来から派遣したほうがよかった。

『ドラえもん』には「テストで悪い点をとったのび太にママがお説教をする」というシーンがよく登場する。
ママとのび太が正座して向かいあっているシーンだ。

ぼくから言わせると、あれがもうまちがいだ。
あれはただ感情的に怒っているだけで指導ではない。
ほんとうに指導しようとおもったら、ママとのび太が向かいあうわけがない。隣に並んで机に向かい、答案用紙を広げながら「なぜ間違えたのか」「この問題を解くためには何を身につけなければならないのか」を確認する必要がある。

なのにママはテストの点数しか見ていない。
取り組む姿勢も、どういう問題を間違えたのかも、のび太がどうして間違えたのかも、まるで見ようとしていない。たぶんママもまた勉強のやりかたがわからない子どもだったのだろう。
のび太が「テストの答案を隠そう」という方向に向かうのも当然だ。結果だけを問われるのであれば、答案を隠して結果をなかったことにするのが最善の方法なのだから。

のび太が0点の答案を隠すのはのび太からママに向けたメッセージなのだ。
結果だけを求めないで、ぼくは勉強のしかたがわからないだけなんだよ、というメッセージ。
そのメッセージに早く気づいてあげてほしい。

それかドラえもんがタイムマシンで向かう先を「小学一年生ののび太の机の引き出し」にしてあげてほしい。


2019年11月6日水曜日

三手の読み


娘(六歳)とどうぶつしょうぎ。

娘はとにかく弱い。そりゃ子どもだから弱いのはあたりまえなんだけど、それにしたってひどい。
どんどん駒を献上してくれる。

ぼくはライオン(王将)のみ、娘はライオンとキリン2枚とゾウ2枚とヒヨコ2枚、なんてハンデ戦でやってもぼくが勝つ。

娘の指し方は、「ここに進める! 進もう!」みたいなやりかたなのだ。
「複数ある可能性の中から最善手を選択するゲーム」だと理解していない。
じゃんけんのように「やってみなきゃわからない」タイプのゲームだとおもっている。

ということで、一言だけアドバイスをした。
娘が悪手を指したときに「そうしたら次におとうさんがどうするとおもう?」と訊いてみることにした。

この一言で、娘の指し方は大きく変わった。
「えっと……、あっ、とられる。やめとこ」
と気づいて、べつの手を指す。
これを何度かやっているうちに「次におとうさんがどうするとおもう?」と訊かなくても、じっくり考えてから指すようになった。

キリンゾウ落ち、ぐらいのハンデ戦だと三回に一回ぐらいは娘がぼくに勝つようになってきた。
娘が先を読めるようになったのは、ニコリのパズルをやって論理的思考力がついたおかげもあるとおもう。
ぐんぐん強くなった。

そして、ときどき勝てるようになると目の色が変わった。
勝つと「どうぶつしょうぎおもしろい!」と言って、何度も勝負を挑んでくる。
今までは負けても「まいりましたー」とへらへらしていたのに、「……………………まいりました(小声)」と悔しさをにじませるようになった。
負けるのが悔しくなるぐらい真剣に向き合うようになったんだなあ、と感動してしまった。


将棋の世界に「三手の読み」という言葉がある。
一流のプロ棋士でも、三手の読みが重要だと語る人は多い。
ずぶの素人と中級者を分けるのは「三手の読み」だ。三手読めなければ勝つかどうかは運任せになってしまう。三手先が読めれば自然に五手、七手を読めるようになる。

将棋にかぎらず、三手先が読めるだけでいろんなゲームが強くなる。
ゲームだけではない。対人交渉でも「これを提案して、Aと返されたらA'と答えよう。Bと言われたらB'と返そう」と想定しておくだけで、優位に話を進められるようになる。


どうぶつしょうぎが「三手の読み」を学ばせてくれた。
すごいぞどうぶつしょうぎ。

「よっしゃ、じゃあふつうの将棋もやってみよう!」ということで将棋盤を買ってきたのだが、さすがに「むずかしい……」と言われてしまった。

駒の種類が多いので動かし方をおぼえるのに時間がかかるかな? とおもっていたのだが、そのへんはさすがこどもの吸収力、あっさりおぼえた。
むずかしいのは駒の見分け方らしい。漢字が読めないので、金と銀、桂馬と香車とかの区別がつきにくいのだ。

ま、そこは慣れて形で覚えるしかないよね。
大人でも龍とか馬とか読めないしな。



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塾に行かせない理由



2019年11月1日金曜日

採点バイトをした話

大学生のとき、受験産業大手のB社の模試採点のバイトをしたことがある

たしか友人の紹介だった。
筆記試験を受けて、採用された。

ぼくが採点することになったのは国語。
まずはじめに模範解答が配られる。そしてリーダー格のバイト(大学生)が前に出て、説明を加える。
ここはこういうところに気を付けて採点してください。
説明は短かった。一時間もなかったはず。わからなかったらすぐに訊きにきてください、そういってバイトリーダーは説明を終えた。

こんなもんか、と少し驚いた。
もっと厳密な判断基準があるのかとおもっていた。
ずいぶんいいかげんなもんなんだな。まあ模試だしな。

採点をしていると、やはり判断に迷うところが出てくる。
その都度バイトリーダーのもとへ訊きにいく。バイトリーダーが答える。バイトリーダーでもわからなければバイトリーダーが社員のもとへ質問に行く。
場合によっては全員に説明がなされる。
「こんな質問がありました。この場合はこうしてください」と。
新たに基準ができるわけだ。

ぼくはおもう。
えっ。そうなの。
それだったら、もう採点終わっちゃったやつの配点が変わるんだけど。
まあいいか。模試だし。

何度か質問をしているうちに気がついた。
ぼくの質問回数が圧倒的に多い。
採点者は数十人いるが、まったく質問しないバイトもいる。
判断に迷わないのだろうか。そんなわけないだろ。国語の記述問題だぞ。
めんどくさがっているか、何度も質問をしたら申し訳ないとおもってるんだろうな。まあ気持ちはわかるけどそれでいいのか。
質問をしない人は独自の判断基準で採点しているんだろうな。
まあいいか。模試だし。

採点は二重チェックをしていた。誰かが採点した答案を、もう一度べつの人が採点する。
へえ。けっこうちゃんとしてるんだ、とおもった。
べつの人の答案をぼくがチェックすると、あれこれちがうんじゃないのとおもうことがある。
バイトリーダーに見せに行く。ああ、たしかにちがいますね。訂正しておいてください。
ひどいときだと五点、十点と点数が変わることもあった。
これ、チェック時に気づいたからよかったけど、チェックする人間も適当な人間だったらぜんぜんちがう点数のままだったんだろうな。
まあいいか。模試だし。



ということで、模試の採点をした感想は
「けっこういいかげんに採点してるんだな」
だった。
(ただ情報漏洩にはすごく気をつかっていた。答案の内容はぜったい外に漏らすなよと厳しく言われた)

誰が採点するかで点数はけっこう変わる。
模試の結果に一喜一憂してる高校生には申し訳ないが。

……という経験があるので、大学入試の判定に民間試験を使うなんてとんでもない話だとおもうのだが、あれからB社は変わったのかなあ。

2019年10月30日水曜日

ギネスで村おこし


「どうするよ?」

 「困るよなあ。こんなに余るなんて」

「予算が足りんっちゅうことは今までにもあったけど、こんなに余るのははじめてよなあ。どこで計算をまちがえたんやろか」

 「どうする?」

「無理やりにでも使うしかないわなあ。来年から予算減らされたらかなわんし」

 「一回集めた税金を返すってわけにもいかんしなあ」

「何に使うよ」

 「建物つくれるほどの額じゃないもんなあ。かといってかんたんに遣いきれるほどの額でもないが」

「やっぱり村おこしやで」

 「村おこしかあ」

「みんなが納得するのは村おこしよ、結局」

 「まあな。村おこしって大義名分があれば誰も反対せんもんな」

「おまけに成果を求められんじゃろ、村おこしは。その結果どれだけ人が来たかなんか誰も気にせんもん」

 「やってみることに意義があるんやもんな、村おこしは」

「そうよそうよ、みんな薄々わかっとるんよ、やっても無駄やって。けど隣の村がやっとるのにうちだけやらんわけにはいかんっちゅうてやっとるだけよ」

 「じゃあ村おこしやな」

「問題はどうやって村おこしするかよなあ。どうやったらみんなが納得するような村おこしになるかやで」

 「あれなんかどうじゃろ、ギネス」

「ギネス?」

 「ほら、ようテレビでやっとるじゃろ。ギネスに挑戦っちゅうて。大勢でなわとび跳んだりしとるやつ」

「おお、おお、やっとるな」

 「あれなんかええんじゃないか。テレビも来るし。テレビに映ったら、みんな満足じゃろ」

「ちがいない。テレビに映ったら村おこしは成功じゃ。完全に村がおこっとるわ」

 「よっしゃ、決まりやな。ギネスやギネスや」

「しかし何でギネスに挑戦するんや。世界一になれる特技の持ち主なんか村におらんじゃろ」

 「特技なんかいらんなよ。あんなもん」

「そんなことないやろう。世界一やぞ」

 「ギネスに載るのは二種類あるんや。ひとつは、世界一速く走るとか、世界一重いものを持てるとかのすごいやつ。これは才能や努力や運が必要なやつやな。
  で、もうひとつは金と人手さえかければどんなあほでもできるやつ。もっとも多くの洗濯ばさみを身体につけるとか、世界一たくさんの人間が同時にでんぐり返りをするとか

「おお、そういやそんなんもやっとるな。テレビで観たことあるわ」

 「言ってみれば、最初のやつは“誰もまねできんやつ”やな。で、もうひとつは“誰でもできるけどあほらしいから誰もやらんやつ”や

「なるほどなるほど。わしらがめざすんは後のほうやな」

 「もちろんそうよ」

「なにがええかのう。洗濯ばさみをつけるのは痛そうやなあ」

 「かんたんなんは、やっぱり巨大な食べ物系やろな」

「巨大な食べ物?」

 「そうそう、世界一でかいピザとか、世界一長い海苔巻きとかをつくるやつ。あれなんか金さえかけりゃかんたんやろ」

「なるほどな。金は余っとるし、ちょうどええのう」

 「しかもギネス申請が終わったらみんなで食べりゃあええしな。村おこしは成功するわ、腹はいっぱいになるわ、みんな満足じゃ」

「おまえは天才か」

 「問題は何の食べ物を作るかやな。ピザとか海苔巻きとかは他にもやっとるやつがおるやろうから、競争が激しくないもんがええなあ。今流行っとるいうし、世界一多いタピオカミルクティーでも作るか」

「おいおい大事なことを忘れとるぞ」

 「なんや」

「一応村おこしやねんからな。村に関係あるもんやないとあかんやろ。この村にタピオカミルクティー飲ませる店なんか一軒もないやろがい」

 「おおそうか」

「それにタピオカブームはもう終わりらしいぞ」

 「村に関係あるもんか。村の特産いうたら……」

「まあ、おろうふやろうな」

 「おろうふかあ……。おろうふなあ……」

「しょうがなかろう。村の特産といえるもんが他にないんやから」

 「しかしおろうふなんか今どき誰も食べんぞ。おまえ、最後におろうふ食べたんいつや」

「うーん……。たしかコウジの結婚式の引き出物でもらったような気がするなあ」

 「コウジの結婚式ってもう二十五年くらい前やぞ。あそこの上の子が去年東京の大学卒業したゆうとったで」

「そんな前になるか。おろうふ、食べとらんなあ」

 「あれはうまいもんじゃないからなあ」

「ただしょっぱいだけやもんな」

 「しかもご飯がすすむしょっぱさじゃないよな」

「そうそう。食欲がなくなるタイプのしょっぱさ。海の水を飲んだような」

 「しかもあれ、栄養もまったくないらしいぞ」

「戦争で食糧がない時代にしょうがなく食べとっただけやからな。あんなもの今誰も食べんぞ」

 「そらそうよ、みんな食べるようなもんなら村の特産やなくて全国的に広まっとるわ」

「そうかあ。まずいから特産なのか」

 「そうそう。日本中どこいってもそうよ。特産品はまずい」

「まてよ。ほんなら、まずくて栄養がないことを逆手にとったらどうや」

 「どういうことや」

「ダイエットにええんやないか。栄養価が低い。まずいからあんまり食べられん。おまけに食欲もなくなる。ダイエットにぴったりやないか」

 「あかんあかん」

「なんでや」

 「おろうふ、カロリーだけはそこそこ高いんや」

「えっ、そうなんか」

 「そうそう。カロリーと塩分だけは高いんや。だから身体にも悪い」

「つくづくどうしようもない食べ物やな……」

 「だからこそ食糧のない時代でも残っとったんや。まずいけど腹だけは膨れるいうて」

「まあでも、逆に言うたら不人気やからこそインパクトもあるんちゃうか。ほれ、寿司を百皿食うたって話題にはならんやろ。寿司はうまいから、胃袋のでかいやつやったらそれぐらいはいけるやろなあとおもうだけやもん。けどおろうふをたくさん食べるやつはおらんからな。出されても残すぐらいやもん」

 「ああ。こないだおろうふ生産者連盟の集まりがあったけど、誰もおろうふに手をつけんかったらしいぞ。つくっとる人間ですら食わんのよ」

「だからこそ、や。ピンチはチャンスやで。そんなおろうふを大量に食うなんてやった村は他にないやろ。ギネス記録は約束されたようなもんや」

 「しかしなあ」

「まだなんかあるか」

 「おろうふは見た目が悪いやろ。悪く言えば吐瀉物みたい、良く言えばなおりかけの傷口みたいな見た目しとるやろ。そんなおろうふを集めてもテレビが紹介してくれんのとちゃうかな……」

「つくづくどうしようもない食べ物やな……」



2019年10月25日金曜日

神経質とおおらかの組み合わせ


娘(六歳)の友だちに、Nちゃんという女の子がいる。
公園でいっしょに遊んでいると、このNちゃんと娘がよく喧嘩をする。
喧嘩というか、娘がNちゃんに対して一方的に怒っている。

Nちゃんの性格は、良く言えばおおらか、悪く言えばがさつ。
対する娘は神経質。

よくあるのは、こんなケースだ。
娘がボール遊びをしている。公園の隅に自転車を停めている。
するとNちゃんが娘の自転車に勝手に乗る。
それを見た娘、「勝手に乗らんといて!」と激怒。
Nちゃんは怒られても平気な顔で「だって使ってなかってんもん」とへらへらしている。

傍から見ていると、正直どっちの言い分もわからんでもない。
まあ他人のものを勝手に使うのはよくないな、とおもう。
ぼくだってイヤだ。使ってなかったとかそういう問題ではない。「貸して」と言ってくれれば貸したのに、無許可で使われると腹が立つ。

でも、だからってそこまで大声を張りあげて怒るようなことでもないだろう、ともおもう。
Nちゃんにはまったく悪気がないのだし、実害もないのだから。


よく「自分がやられてイヤなことは他人にしてはいけないよ」と子どもに対して教える。
しかしこの場合、その教えは通用しない。
なぜならNちゃんにとっては「自分が使っていない間に友だちが自分の自転車を使う」のはイヤなことじゃないのだ。

じっさい、Nちゃんが友だちに対して怒っているところはほとんど見たことがない。叩かれたとか、悪意あることをされたときだけだ。
ただ、怒られているところはよく見る。


意地悪をしたり意地をはりあったりしているわけではなく、ただ価値観がちがうだけなのだ。
そしてこういう関係の場合、常にといっていいほど「几帳面/神経質」なタイプが「おおらか/がさつ」に怒りを向けることになる。

ぼくの両親の関係が、まさにそうだ。
常に母が父に小言をいう。「〇〇してよ」「〇〇しないでって言ったじゃない」
父は、うんと返事をする。言い返さない。けれど改めることもない。また同じことをして同じように注意される。

それでも長年夫婦としてやっているわけだから、なんだかんだで相性のいい組み合わせなんだろう。
几帳面同士だとぶつかるし、おおらか同士だとやるべきことがなされないだろうから。
ぼくとしても、母がしっかりしてくれていたおかげで助かったことはよくあるし、父の無神経さに救われたことも(すごく少ないけど)ある。
「叱る側」「叱られる側」に役割分担されていたほうがうまくまわることも多いのだろう。


だから、娘には
「Nちゃんに対して腹の立つことも多いだろうけど、こっちが怒ってもへらへら笑って聞き流してくれる相手ってのはすごくありがたい存在だよ。もしかすると一生の親友になるかもしれないから大事にしな」
と伝えたいんだけど、これを六歳児にわかるように伝えるのは無理かなあ……。


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【エッセイ】無神経な父



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2019年10月24日木曜日

ちくちくの肌着


赤ちゃんの肌着って、縫い目が外側にくるように着せるんですよ。
縫い目とかタグとかがちくちくして赤ちゃんのデリケートなお肌を傷つけちゃうから。

それ聞いたとき、はーん、なるほどーとおもったんだけど、同時に「だったら大人の肌着もそうしたらいいのに」とおもったんですよ。

そりゃあぼくの肌は赤ちゃんみたいにデリケートじゃないですけど、そうはいってもちくちくするよりちくちくしないやつのほうがいいでしょ、誰だって。
外から見えない肌着であれば、見た目よりも肌触り重視でいいじゃない。

サイいるでしょ、サイ。
あのツノでかふとっちょ。
サイの肌ってがっさがさじゃないですか。触ったことないですけど、見るからに。
あれだってね、たぶん内側はぬるぬるしてるとおもうんですよ。血とか粘膜とかで。見たことないですけど。サイの皮めくったことないんで。
あれが逆だったらどうなるとおもいます?
体内側がごわごわがっさがさで、外に出てる部分がぬるぬるだったら。
空気の乾燥したサバンナで生きられないだろうし、めちゃくちゃ痛いとおもうんですよ、サイ自身が。
サイがしゃべれたら「もう絶滅するー!」って絶叫するぐらいの痛みだとおもうんですよね。

がっさがさ

だからね。パンツも内側を優しい素材にしてあげるべきなんですよ。
内側ソフト、外側ちくちく。これでいきましょうよ。
外側がちくちくしてるほうが外敵から身を守るのにも役立つしね。栗みたいに。


2019年10月21日月曜日

力づくで子育て


もう六年ほど子育てをしている。
娘を叩いたことは一度もないが、押さえつけたことやねじふせたことは何度もある。

「魔の二歳児」という言葉がある。
だいたい二歳ぐらいでいわゆるイヤイヤ期を迎えることから、そう呼ばれるのだ。

この時期の、聞き分けのなさったらない。
育児をしたことのない人にはわからないだろう。ほんとにどうしようもない。

泥酔した人って話が通じないじゃないですか。
あれを百倍ひどくしたのがイヤイヤを発動した二歳児だとおもってもらえばだいたいまちがいない。

「くつはかない!」
 「でも靴履かないとお外行けないよ」
「はかない!」
 「じゃあ外行けなくていいの?」
「いや! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「くつはかない!」
 「じゃあどうやって行くの? ベビーカー乗る?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあだっこで行こうか?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあはだしで行く?」
「いやだ!」
 「はだしが嫌なら靴履いて」
「いやだ!」
 「おとうさんが履かせてあげよっか?」
「いやだ!」
 「じゃあ自分で履く?」
「いやだ!」
 「もうお出かけやめとこっか」
「いやだ! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「いやだ!」
 「なにがいやなの?」
「いやだ!」
 「それじゃわかんないよ」
「いやだ!」
 「もうおうちにいようよ」
「いやだ!」
 「じゃあ靴履こう」
「いやだ!」

これ、ぜんぜんおおげさな話じゃなくて、二歳児のいる家庭では日常茶飯事だからね。

なにがすごいってこれだけ話しても事態が一ミリも動いてないってこと。
官房長官の記者会見ですらこれよりは若干話になる(若干ね)。

二歳児ってなまじっか言葉が通じるから余計に厄介なんだよね。


まあこっちがひまなときであれば、イヤイヤを発動されてもつきあってあげたり、あるいは放置したりするんだけど。
でもそういうわけにはいかないこともある。
五分以内に家を出ないと会社に遅刻するときとか、お店でイヤイヤが発動したときとか、土砂降りの中、道端で急に「歩きたくないしだっこされるのもいや」と言いだしたときとか。

こういうときは力で押さえつける。
自分の左手と左脚と右脚を使って娘を押さえつけ、右手で靴を履かせる。
全力で暴れる娘を、こちらも全力で抱きかかえながら反対側の手で傘をさして雨の中走るとか。

一度、じたばたと暴れる娘を抱きかかえて、通勤鞄を持ち、保育園に持っていく鞄を持ち、保育園のおひるね用布団をかつぎ、傘をさしながら保育園まで走ったことがある。
あのときは千手観音が我が身に宿ったとしかおもえない。


さすがに娘が六歳になった今は、力で押さえつけることはなくなった。
娘も暴れなくなったし、もし六歳が本気で暴れたら抱きかかえることはできないだろうから。

けれど幼いころは、「力づく」に頼る場面は多かった。
おじさんになって運動不足になったという人もいるが、ぼくは子どもができてからのほうが圧倒的に筋力を使うようになった。
子どもをかついだり、ひきずったり、荷物を持ったり、走りまわったり。

子育てに体罰を使うのはよくないが、「力づく」は必要だぜ。


2019年10月17日木曜日

ゴミックマ


伊藤園のおーいお茶をよく買うのだけれど、コンビニ限定でおまけがついていることがある。
こないだも「リラックマ オリジナルペットボトルカバー」がついていた。

ああ、いやだな、とおもう。

こんなのいらない。
ペットボトルカバーなんていらない。飲みおわったらすぐ捨てたいからペットボトルを買っているのに。
仮にカバーを使うとしてもリラックマは趣味じゃない。

いらないなら使わなければいいじゃないかとおもうかもしれないが、新品のモノを開封もせずに捨てることが心が痛む。
地球環境、なんて言葉が脳裏によぎる。

で、おーいお茶に伸ばしかけた手を引っこめ、他のお茶を選ぶことになる。

企業としては販売促進のためにやっているんだろうけど、少なくともぼくに関しては逆効果だ。
ぼくにとってはリラックマ オリジナルペットボトルカバーはゴミなのだ。
「ゴミ付き」と「ゴミ無し」の商品があれば、ゴミ無しを選ぶのは当然だ。
コラボをやるとしても、せめて「リラックマ オリジナルペットボトルカバー付き」「リラックマ無し」の二種類から選べるようにしてほしい。



ぼくはピルクルという乳酸菌飲料が好きで、仕事のときは毎朝飲んでいる。

いっとき、このピルクルがYouTuberのヒカキン氏をパッケージに載せていた。


ヒカキン氏については、ぼくはよく知らない。
すごい人気のYouTuberらしい、ということは知っているが彼の動画は一度も観たことがない。
だから好きでも嫌いでもない。

ただ、飲み物に人の顔が印刷されてるのがすごくイヤだったので、コラボをしている間ずっとピルクルを買わなかった。
似たような乳酸菌飲料を買って「やっぱりピルクルのほうがおいしいな」とおもいながら飲んでいた。
ぼくにとっては、少し味が落ちることよりもおじさんの顔が印刷された飲み物を口にするほうがイヤだったのだ。


もちろんコラボをしたりおまけをつけたりすることで新たに買うようになる層がいることは理解している。でも、「いつもの」を求めている客がいるということもメーカーのマーケティング担当者には知っておいてもらいたいな。

あと、コラボのせいでリラックマもヒカキンもちょっと嫌いになった。
おまえらさえいなければ……。


2019年10月11日金曜日

競輪場でボードゲーム


ボードゲームをしたい。

モノポリーとか人生ゲームとか。
カードゲームでもいいけど。
三十代になった今、友人たちとボードゲームをやったら楽しいだろうなとおもう。


けれど「ボードゲームしない?」と誘うのは気が引ける。
お互いいい歳で、それぞれ仕事も家庭もあって、そこそこ忙しい。そんなおっさんたちがボードゲームのために集まってくれるだろうか。

仮に集まったとしても、家に招待するためには妻にお伺いを立てて、部屋を掃除して、子どもの相手もしつつ……と考えるとめんどくさすぎて「だったらもういいや」となってしまう。


ボードゲームってそんなんじゃないんだよね。

なんとなく集まったもののやることなくて、
「ひまだなー。何かないの」
「んー。人生ゲームならあるけど」
「おっ、それでいいじゃん」
みたいな感じでだらっとはじめたい。

で、やりはじめたら意外と盛りあがって「人生ゲームもけっこう盛り上がるね」みたいな感じになりたい。

そんで片付けながら「おもしろかったなー。またやろっか」みたいなことは言うのだが結局その「また」は訪れない、みたいな感じがボードゲームの正しいありかただとおもう。

ボードゲームのために時間と場所をセッティングして関係各所にお伺いを立てて……みたいなかしこまった感じでやりたくない。

友人と家呑みをすることもなくなった今、「やることないからボードゲームでもすっか」みたいな機会はもう訪れないのかな。寂しいな。



うちの近くの銭湯で、よく「ボードゲームの集い」というイベントをやっている。
風呂上がりにビールでも呑みながらボードゲーム。
楽しそうだな、とおもう。

けれど参加しようとおもったことはない。
ただボードゲームをしたいのではなく、気心の知れた友人とボードゲームをしたいのだ。

「ボードゲームの集い」に行ったとする。
みんな初対面。
軽く自己紹介をして、ルールを確認して、「じゃあよろしくお願いしまーす」ってな感じでゲームがスタートする。

「あーそうきましたか」
「なるほど、いい作戦ですね」
「いやいや、運が良かっただけですよ」
「さすがお強い」
「いやはや、ボードゲームも奥が深いですなあ」
みたいな会話をくりひろげながらゲームが進行して……ってちがうんだよ! そういうのがやりたいんじゃないんだよ!

ぼくがやりたいのは
「ちょっとおればっか集中攻撃すんなよ!」
「おまえが弱いのが悪いんだろ!」
「じゃあこのカード使ったるか」
「あっ、おまえふざけんなよ。ごめん、やめてやめて!」
「はいだめー。使う!」
「じゃあこのカードで回避!」
「えっ、おまえそれ持ってんのかよ、ないって言ってたじゃん」
「だまされてやんのーバーカバーカ! はいビリ決定~! よわっ! よわっ!」
「こいつほんと死ねばいいのに」
みたいな、底意地の悪さをむき出しにした攻防なのだ。

初対面の人たちが集まる場でこういう感情むき出しのプレーをして「なんなのこの人……」という冷ややかな眼を受け流せるほど、ぼくの度量は大きくない。

だから「ボードゲームの集い」に行けばボードゲームのおもしろさを味わうことはできても、童心に返って心の奥底から楽しめないだろうな、とおもうのだ。

ぼくがやりたいのは高級カジノみたいな大人のやりとりじゃなくて、競輪場みたいな魂のシャウトなんだよね。
競輪場行ったことないけど。

2019年10月8日火曜日

有段者になろう


ぼくは段を持っていない。

おもえば、ずっと段とは無縁の人生を歩んできた。

格闘技は見るのも好きじゃない。
将棋や囲碁は趣味でやる程度。
書道のように集中力を要するものは苦手。

持っている資格は、普通運転免許、英検三級、漢検二級。それだけ。
英検や漢検に級はあっても段はない。
小学生のとき通っていたスイミングスクールで四級ぐらいまでいったけど、こちらも段はない。

だからだろう、「有段者」という響きにあこがれる。
「学生時代は剣道部にいました。剣道二段です」
なんて言われると、「まいりました」と言ってしまいそうになる。段を持っているだけで「技あり」一本とられた気分だ。

吉本新喜劇だったかで
「わしは柔道・剣道・空手・書道・そろばんあわせて七段や!」
「書道四段とそろばん三段やけどな」
みたいなギャグがあったけど、一段も持っていないぼくとしてはただただ「すごいじゃないか」とただただ感心してしまう。


たぶんこの先も段をとることはない。
なんだか悲しい。
ぼくの人生、無段で終えるのか……。

そうだ!
自分が家元になればいいんだ。
そして自分に段を発行すればいいんだ!
段なんて言ったもん勝ちだもんな。

だからぼくは今日から「読書感想文五段」を名乗ることにした。

柔道でいったら全日本選手権に優勝する人が五段だったり、将棋(プロ)でいうと四段になることで晴れてプロになったりするので、五段というのは相当な強さだ。

よしっ、今日からぼくは読書感想文五段!
プロフィールも更新したぜ!


2019年10月2日水曜日

燃える金属バット


「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」
「猿とエッチしたらエイズになるわ」「黒人とかな」――。
吉本興業所属のお笑いコンビ「金属バット」のこんな発言を収めたネタ動画が、YouTube上で84万回以上、再生されている。
HIV陽性者の団体や支援団体は「ショックというよりも呆れた」「差別や誤解を強化するのはやめてほしい」などと批判している。
金属バットという漫才コンビのネタが炎上しているらしい。

少し前にAマッソというコンビのネタ中の発言が差別的だとして炎上し、それが飛び火してきたようだ。
きっと「どっか他にも差別的な発言してる芸人がいるんじゃねえか」と血眼になって探してきたやつがいたんだろう。ごくろうなこった。

(ちなみにAマッソの発言についてはここでは触れない。なぜならぼくがそのネタを観ていないから。ネタ全部を観ずに、ある発言がどういう意図で発せられたものかを判断できるわけがない)


この記事を読んだぼくの感想は、
あーあ、ばかに見つかっちゃったな。
だ。

まず、ぼくは金属バットが好きなのでどうしても彼らに肩入れしてしまうことをあらかじめ断っておく。
このネタも何年か前にYouTubeで観て、爆笑した。
(もっぱらYouTubeで観るだけなのでぜんぜんお金落としてないのよ。ごめんね。でもDVD出してくれたら買うよ)


でもまあ、たしかにいろいろとまずい発言の多いネタだ。
こうやって一部を切り取られたら勝ち目はないだろうなとおもう。

彼らの最大の落ち度は「(誰がYouTubeにアップロードしたのか知らないが)削除申請をしなかった」ことだとおもう。
(しかしYouTubeにアップしていなければぼくは観られなかったので感謝している)

しかしなあ。
わざわざ動画を観にいって、あるいは動画を観ることもせずに非難している人を見ると、そりゃあ世界から差別はなくならないな、とおもう。
差別大好きすぎるだろ。


いきなりで申し訳ないが、ぼくは男同士の性的な接触を気持ち悪いとおもう。
なにかの拍子にその手の画像や映像を観てしまったことがあるが、とっさに「気持ちわるっ!」とおもった。それはもう反射的に。ごめんね。

でも、そういうのを求めている人がいることも理解している。ゲイの人たちがプライベートな空間でそういう行為をすることまで否定しない。
もしも、ふつうの銭湯に行って男同士でいちゃついているのを見たら「おい公共の場でなにやっとんねん。やめろや」とおもう(男と女でもおもう)。
でもゲイバーとかでいちゃつくのはどうぞご勝手に、だ(そういう場なのか知らないが)。ぼくには関係のない場所だからね。

わざわざ非難するために漫才動画を観る(あるいはその書き起こし記事を読む)人は、ゲイバーに乗りこんでいって「おい! 不愉快だからやめろ!」というようなもんだ。おまえが不愉快なんだよ。


上にリンクを貼った記事の中にNPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」の代表が出てくるが、まあこの人が当事者として憤りを感じるのは仕方ないとおもう。つくづく同情する。
もしこの人がたまたまおもしろい漫才を探してこの漫才を目にしたのであれば、金属バットに怒りをおぼえるのは無理がない。

でも
こんなことを言ってる輩がいますぜ! ねえ、当事者としてどうおもいます? イヤな気持ちになったでしょ? それを記事にしたいんでコメントくださいよゲヘヘ
とわざわざ教えに来たやつがいたのだとしたら、怒りはそいつに向けたほうがいい。金属バットが俗悪でないとは言わないが、そのゲヘヘのほうが百倍俗悪だからだ(しかも己の邪悪さに気づいていない可能性が高い)。



ところで、批判コメントを読んでいると、どうも漫才の構造を理解できていない人が多いんじゃないかとおもった。

漫才の古典ギャグとしてこういうやりとりがある。
「今日のお客さんはべっぴんさんはべっぴんさんぞろいやねえ。端からべっぴんさん、べっぴんさん、ひとつ飛ばしてべっぴんさん」
「失礼やないか!」

もはや人口に膾炙されすぎてパロディ元にしかならないギャグだが、漫才をはじめて見る小学六年生の前でやったら今でもそこそこウケるだろう。

でも、これを小学一年生の前でやったらウケないとおもう。
「君かわいいね、隣の君もかわいいね、ひとり飛ばして、その隣の君もかわいいね」
と言ったら、一年生たちは当惑してしまうんじゃないだろうか。このおじさんたちはどうしていきなりひとりだけばかにするんだろう、と。

でも六年生にはわかる。
おかしいのは「飛ばされたひとり」ではなく「飛ばした漫才師」のほうであると。
その構造が理解できる。だから笑う。
「あの漫才師は客の容姿が悪いことをばかにして嘲笑した!」とはおもわない。


金属バットの漫才も同じだ。
金属バットの漫才で笑う観客は、三倉佳奈やHIV患者をバカにして笑っているのではない。
「偏見に満ちてむちゃくちゃなことを言う小林(坊主のほう)」を笑っているのだ。

もしも「三倉佳奈はエイズ患者だ」「HIV患者は獣姦や黒人とのセックスをしたせいだ」と信じている人がいたら、その人は金属バットの漫才では笑えないだろう。だってその人にとっては小林の言っていることは至極まっとうなことなのだから。

「私はお2人のネタの露悪的手法よりも、それを聴いて観客が笑っているということに、より絶望を覚えます。いまだに、エイズに対して、蔑んだりバカにされて当然のものだと内心思っている人がいるんだなと」
上記のNPO法人代表はこう発言しているが、ぼくは賛成できない。
当然のものと思っていないからこそ笑えるのではないか、と。
(ただし差別意識があるのは間違いない。「先天性の白血病」だったらちっとも笑えないだろうから)

ちなみにそのあとに続く「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という発言には全面的に同意する。ネットに流さなければバカに見つからずに済んだだろうから。


漫才師は、その芸の性質上、ひとりが極端なことを言う、ピントの外れたことを言うことが多い。

エッセイで「〇〇という考えはどうだろう。私はこれが正しいとはおもわない」と書くべきことを漫才にすると、「〇〇だよ」「そんなわけあるかい!」になる。
もちろん「そんなわけあるかい」までがセットで漫才師からのメッセージなのだが、それを理解できない人がいる。
前半の発言だけを切り取って、「あいつは『〇〇だよ』と言っていた! 問題発言だ」と騒ぎたてる。
そりゃ問題発言だろう。わざと問題になるような切り取り方をしているんだから。
漫才師は、漫才中はふたりでひとりなのに。

漫才師の会話を切り離してあれこれ言うのはフェアではない(上記NPO法人の代表はちゃんと全体の文脈を踏まえて話しているが)。
それって、俳句の上の句だけを詠んで全体を論じるようなもんでしょ。



なんだかずいぶん擁護したけど、金属バットのあのネタはやっぱりまずいとおもう。

使っている言葉がよくなさすぎるし、ネタ全体を通して観ても、演者と観客の間に差別意識の共有がないといえば嘘になる(どっちかというと差別意識をまきちらすというより差別意識に気づかせるネタだとはおもうが)。

不愉快におもう人がいるのは当然だ。

だが「私は不愉快におもう」と「だからそんなことをしてはいけない」はまったくべつの話だ
さっきの同性愛者の話でいうと「ぼくは男性同士の性的関係を不愉快におもう」が「そんなことするな」とはおもわない。

その間には大きな隔たりがあるはずで、それこそが社会性だとおもうのだが、いい歳をしても社会性が身についてなくて「快/不快」と「善/悪」が隣り合わせになっている人がいる。少なからず。

(ちなみに前述の記事のNPO法人代表の人はそこをちゃんと区別している。
「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という言葉にはそれが表れている。とても立派な考えの人だとおもう)


だからぼくが金属バットに言いたいことは、
こら! そんなこと言ったらだめだぞ! でももっとやれ!
ってこと。


2019年10月1日火曜日

夢のような道具、夢が叶った時代


子どもの頃、カメラがほしかった。

ぼくだけではないとおもう。
子どもはみんな写真が好きだ。なにかというと撮りたがる。
今でも、大人がカメラを構えると子どもたちは「撮らせて!」と寄ってくる。

今だったらスマホを貸して「ここを押すんだよ」と言えば済む話だが、ぼくがこどものときはそうかんたんにカメラを貸してもらえなかった。

カメラがいまより高価だったこともあるが、それよりもフィルム代がもったいなかったことのほうが大きい。

若い人でも知っているとおもうが、昔のカメラは撮影にフィルムが必要だった。
フィルムは27枚撮りとか36枚撮りとかあって、正確にはおぼえていないが500円以上はしたとおもう。
で、写真を撮った後に現像して写真としてプリントするのにもお金がかかった。お店や枚数によって料金はちがったが、1,000円近くはした。
つまり1枚の写真を撮影してプリントするのに、50円ぐらいかかっていたわけだ。

今だったらスマホで10枚ぐらいあっという間に連写してしまうが、当時なら10枚撮れば500円がふっとぶことになる。
当然、子どもに気軽に「撮っていいよ」なんて言ってくれる大人はいなかった。



中学生ぐらいのとき、カメラを買おうとおもって調べたことがある。
カメラ本体なら、お年玉とかで十分買えるものがあった。
けれど断念した。
上記のように、ランニングコストがかかるからだ。

写ルンです(使い捨てカメラ)をかばんに入れて持ち歩いていたが、めったに撮らなかった。ここぞというときにしか撮らないので、36枚を撮りおわるのに半年とか一年とかかかった。

現像して写真を目にする頃にははじめのほうに撮った写真のことなんか忘れているので、はじめて見るのに「あーこんなこともあったなー」と古いアルバムをめくるような(この表現も伝わらないかも)感覚を味わえた。

高校生になって自由に使えるお金が多少増えたことで写真を撮るペースは増えたが、それでもフィルムを使い切るのに一ヶ月はかかった。

大学生になってはじめてちゃんとしたカメラを買った。
中国に行ったときに買った「長城」という謎のブランドのカメラだ。中国で買ったのは、もちろん安かったからだ。日本円にして1,500円くらいだった。

けれど長城はあまり使わなかった。
もうそのころにはデジカメが世に出ていたし、携帯でも(粗いとはいえ)写真を撮れるようになっていたからだ。
ほどなくしてぼくも30,000円ぐらい出してコンパクトデジカメを買い、フィルムカメラとはおさらばした。



こないだ親戚が集まったとき、娘、姪、甥にデジカメをプレゼントした。
トイカメラというやつで、まるっこくてかわいいデザインのおもちゃのカメラだ。
おもちゃといってもMicroSDカードを差しこめば写真を何千枚も撮れるし、USBで充電もできる。モニターもあるから、PCがなくても撮った写真を見ることができる。
フラッシュとかズームとかはついていないが、子どもが撮って遊ぶだけなら十分すぎる機能だ。

これが1台3,000円で買えた。
ぼくが15年前にはじめて買ったデジカメの10分の1の値段。でも画素数は同じぐらい。メモリは進化しているので保存できる枚数はずっと多い。

子どもたちは大喜びして写真をばしゃばしゃと撮っていた。
ぼくのおしりを撮ってきゃっきゃと笑っている。

ぼくが子どもの頃だったら、くだらないことに使うなと叱られたことだろう。
けれど誰も叱らない。どれだけ撮ってもフィルム代も現像代も電池代もかからないのだから。
くだらないことに使ってもいい時代になったのだ。
いい時代になったものだ。



ちなみにぼくが子どもの頃にずっとほしかったものは、カメラのほかにもうひとつある。

トランシーバーだ。
あの当時、トランシーバーにあこがれなかった子どもはたぶん一人もいなかっただろう。でも今は誰もほしがらないんだろうなあ。
え? トランシーバーとは何かって?

昔の少年がみんな憧れた、夢のような道具だよ。
残念ながら、その夢はもう叶っちゃったんだけどね……。


2019年9月26日木曜日

睾丸が痛すぎて救急車に乗った話


あいてててて。
起きて着替えていたら、突然下半身に痛みが走った。
すごく痛い。
どこが痛いのかというと、精巣。
まあわかりやすくいうと睾丸ですね。もっとわかりやすくいうとキンタマ。

虫に刺されたような鋭い痛みじゃなくて、鈍くて重たい痛み。
野球のボールが睾丸にあたって悶絶したことある人ならわかるとおもうんですけど、あの痛みをちょっと弱くしたやつがずっと続いてる感じです。

なんだなんだとおもって股間を触ってみたらとんでもなく痛い。右の睾丸だけがめちゃくちゃ痛い。
ぬわあああぁと悶絶して、目まいまでしたのでリビングで横になった。

妻が「どうしたの?」と訊くので、恥ずかしながら「なんかすごく痛くなった……。あの、えっと、いわゆる精巣というか睾丸というか……」と説明。

横になったままあわててスマホを開いて「睾丸 痛い」で検索したら、"精巣捻転" という病気の説明が見つかった。
なにかのきっかけで精巣がねじれてしまう病気だそうで(おそろしいことに寝ているだけでなったりするそうだ)、「6時間以内に治療しないと血流が止まって壊死します」ととんでもないことが書いてある。

え、え、壊死!?

まじかよやべえよ宦官じゃん。
ぼくはもう子どもが二人いて今のところこれ以上つくる予定はないのでもう睾丸がなくてもむしろ悩みの種が減っていいのかもしれないけど、そうはいってもちんちんが壊死してしまうのはイヤだ。
だってこわいもん。

間の悪いことに3連休の中日。ふつうの病院はやってない。
しかたない、救急車を呼ぶことに。
痛み自体は耐えられないほどではないが「6時間で壊死」の恐怖で頭の中がいっぱいになって、一秒でも早くとしか考えられない。
脳内で、ドラマ『24』みたいに6時間後のタイムリミットに向けて時が刻まれていく。

119に電話をして「すみません、急に精巣に激痛が……」と説明したのに、「え? どこが痛いとおっしゃいました?」と聞き返されてしまった。羞恥プレイかよ。「あの、いわゆる睾丸というかキンタマというか……」ともごもごと説明してようやく伝わる。

まもなく救急隊員がやってきた。
隊員から「ヘルニアかな」と言われておもいだす。
そういえば2日前から腰がすごく痛かった。
ヘルニアだったらいいな。や、ヘルニアもたいへんなんだろうけど、そうはいってもちんちんが壊死する病気よりはマシだろう。
「そういえば関係あるかどうかわかりませんけど、2日前から腰が痛かったです」と説明する。
腰が痛いことなど、完全に忘れていた。睾丸の痛みの前には腰痛など蚊に刺されたぐらいの痛みでしかない。気づいたら腰の痛みはふっとんでいた。

寝てくださいと言われるが、寝ると痛いので付き添い者用の椅子に座って泌尿器科のある救急病院へ向かう。右睾丸が圧迫されると痛いので、左尻だけを椅子につけた変な格好で。
救急車があってよかった、と心からおもう。
救急隊員に感謝。救急車のために道をあけてくれるドライバーたちにも感謝。森羅万象に感謝をしているうちに病院に到着。
救急隊員に何度もお礼を告げる。

看護師さんに病状を説明したのだが、そこからとんでもなく待たされる。
どうやらぼくの痛みは大したことなさそう、と判断されたらしい。ほかの患者が次々に診察室に呼ばれてゆく。
いやたしかに痛みは大したことないんだけど、ちんちんが壊死するかもしれないですよ、制限時間は6時間しかないんですよ、看護師さんには睾丸がないんでこの恐怖がわからないでしょうけどね、と叫んで暴れたくなる。
しかしぼくのような患者を想定しているのか、待合室の壁には「大声を上げたり暴行を振るったりセクハラ行為をする方に対しては医療行為をお断りする場合があります」と注意書きが貼りだされている。
「ちんちんが!」と叫びながら暴れたら、[大声] [暴行] [セクハラ]のスリーアウトで即チェンジだ。
仕方なく、左尻だけを椅子につけた変な格好で待ちつづける。


1時間半待たされてようやく診察室へ呼ばれた。
待っていたのはずいぶん若い男性医師。まだ二十代半ばぐらい。名札を見ると研修医と書いてある。
救急外来なのでしかたないんだけど、大丈夫か、研修医におれの睾丸が救えるのかと不安になる。

まず問診。
精巣が痛いんです、と説明。
「なにかぶつかったりとかしました?」と訊かれて「いいえ」と返答。
すると医師は「あのたいへん申し訳ないんですが……」と口をにごす。
ん? なんだなんだ、もう手遅れだとか言いだすんじゃないだろうな、まだ診てもいないのに!
とおもっていたら、研修医くん、「あのぅ……、最近、性交渉とかは……」と恥ずかしそうに言う。

おーい!
おまえが照れんなや!
性器が痛いって言ってるんだから性病を疑うのも当然のこと。こっちだって三十年以上生きてるおっさんなんだからそんなことわかっとる!
だから堂々と訊いてくれ! 照れるな! 「申し訳ないんですが」とか言うな!
事務的に「最近性交渉はしましたか」と訊いてくれ。ぼくのことは人の心を持たない機械として扱ってくれ。

その後も研修医くんは「あの、えー、風俗とかは……行かれてないです、よね……?」などと照れながら質問してくる。
こっちも恥ずかしくなって「あっ、はい、ないです、ほんとに……」と照れながら答えてしまう(ほんとにないからね!)。

「じゃあ、えー、横になってズボンを下ろしてもらっていいですか……」とやはり緊張しながら研修医くんが言う。初体験かよ。
やべえ、恥ずかしい。
しかもよく見たらこの研修医くん、なかなかのイケメンじゃないか。なんだかいけないことをするようでドキドキする。

で、研修医くんにいろいろ診られて触られた。しかも「おずおず」という感じですごく優しく触るものだから、おもわず「もっと乱暴に扱ってください! ぼくのことは人体模型だとおもってください!」と言いたくなった。

いろいろ調べた研修医くん、「たしかにちょっと腫れてますね……」と言っただけで、あとはなんにも説明してくれない。

ははーん、さてはおまえ、ちっともわかってないな?

「ではまた待合室でお待ちください」と言われる。
おいおい、こっちは壊死がかかってるんだぞ、しかももう痛みだしてから2時間半はたってるからあと3時間ちょっとしか猶予はないんだぞ。
とおもうが、気がつくとほんのちょっとだけ痛みがマシになっているような気がする。少なくとも痛みは増してない。
血流が止まって壊死するならきっと痛みはこんなもんじゃないだろう。ってことは精巣捻転じゃないのかな。

30分ほど待っていると、また診察室に呼ばれた。
現れたのは60歳を過ぎているであろうおじいちゃん先生。おお、頼もしい。ギターと医者は古いほうがいい。

ベテラン医師、問診をしながら「女遊びとかしてない?」と訊いてくる。
そうそう、これだよ。このデリカシーのなさ! これを求めてたんだよ! 変に気を遣わないのがすごくありがたい! このデリカシーのなさを見習え研修医!

さすがはベテラン医師、触診も乱暴だった。
「右の睾丸が触るとすごく痛いんです」と言うと、「これは痛いね?」と言いながらぎゅっと触ってくる。さすがだ。研修医くんの童貞のような手つきとはまったくちがう。
しかし痛すぎる! そんなに睾丸握られたら平常時でも痛いぞ!

で、超音波検査や血液検査などをされた結果、「どうも精巣上体炎じゃないか」ということになった。
ぼくがおそれていた精巣捻転ではないとのことなのでとりあえず一安心。
精巣上体炎というのはばい菌が入ることでなるものらしいが、ほんとに心当たりがない。
かっこつけてるわけじゃなく、ほんとに。女遊びもしてないし昨年子どもが生まれてから妻ともセックスレスだし。

でも、医師によると「すごく力んだりすると尿が逆流して雑菌が入りこむことがある」のだそうだ。
あっ、そういえば2日前から腰が痛い! 立ったり座ったりするたびに腰に激痛が走るのでめちゃくちゃ力んでいた!

原因もわかって一安心。
薬を飲んでいたら少しずつ痛みも引いてきた。

それから二日以上たった今でも壊死する気配はないので、精巣捻転ではなさそうだ。でも「じつは内側が壊死してて突然ぽとりと落ちたらどうしよう」という恐怖は少しある。


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2019年9月19日木曜日

21世紀の健康診断


健康診断に行くたびにおもう。


血液を採取されて、レントゲン検査で被曝して、バリウムを排出させるために下剤を飲む。
身体にいいわけがない。

健康のために不健康なことをしている。
なにやってるんだろうという気になる。

特に診断結果が出て「異状なし」だと、余計にその思いが強くなる。
だったらやらなくてよかったじゃん。
これがもし「ガンが見つかりました。でも早期発見なので今から治療すれば治ります」だったら「健診受けといてよかったー!」とおもうはず。
健康だったらがっかりして深刻な問題があれば喜ぶ。ずいぶんおかしな話だ。

昔は瀉血といって、病気になった人の血を抜いていたらしい。
悪い血が病気の原因になっているから血を抜けば病気が治る、という考えにもとづいて。
もちろん血を抜くことは身体にダメージを与えるから具合は悪くなる。瀉血によって死ぬ人も多かったそうだ。

今われわれは病気の原因が細菌やウイルスだと知っているから、病気になっても血を抜いたりしない。
健康のために不健康なことをしていたなんて、昔の人はばかだなあ。


きっと未来人も、同じことを我々にたいしておもうのだろう。
21世紀の人は健康のために血を抜いたり食事を抜いたりバリウムを飲んだり下剤を飲んだりしてたんだって。
まじで? 越死ばかじゃん。(「越死」は「すごく」の意味の未来の言葉)

令和人って長生きしたいって言いながら塩食ってたらしいよー。千万ー。(「千万」は「ウケるー」みたいな意味の未来の言葉)

令和人って健康のためにジョギングしてたんだって。越死アホだよね。

令和人って必死こいて勉強してたんだけどね、それが21世紀物理学なんだって§§(「§§」は笑っている様子を表す記号)。


そんなふうに未来人にばかにされるんだろうな。

でもな、未来人。
これだけは言っておく。

健康診断で血を抜かれるのって、痛いし怖いし不健康だけど、でもちょっとだけ快感もあるんだぜ。
蚊に刺されたときにおもいっきりかきむしったときや自分の足のにおいをかいだときに感じるのと同じような、不快なのになぜかちょっと気持ちいい感じもほんのちょっとあるんだぜ。

自分でも越死千万だけど。


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