2024年3月8日金曜日

【読書感想文】藤原 辰史『給食の歴史』 / 今も昔もとんちんかん議員はいる

給食の歴史

藤原 辰史

内容(e-honより)
学校で毎日のように口にしてきた給食。楽しかった人も、苦痛の時間だった人もいるはず。子どもの味覚に対する権力行使ともいえる側面と、未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面。給食は、明暗が交錯する「舞台」である。貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視覚から知られざる歴史に迫り、今後の可能性を探る。


 戦前から現在に至るまでの給食の歴史について書かれた本。

 以上の簡単な整理からも分かるとおり、給食とは実に多面的な分野を往来する魅力的かつ複雑な現象である。政治史、経済史、農業史、災害史、科学史、社会史、教育史、運動史。さまざまな歴史分野の統合によって初めて全体像が明らかになると言えるだろう。

 子どものころはあたりまえのように給食を食べていて「あって当然」のものだった。現在、公立小学校の給食実施率は99%だそうだ。残りの1%は生徒数数人の学校とかかな。

 だが、その歴史をたどると、給食は決してあたりまえのものではなかった。

 明治時代は「金がなくて弁当がないから学校に行かない」という子が多かったため、給食が導入されるようになった。就学率を上げるために給食が導入されたわけだ。当時は食うや食わずの子どもも多かっただろうから「学校に行けばごはんが食べられる」というのはだいぶ魅力的なご褒美だったことだろう。言ってみればログインボーナスだ。


 そんなふうにしてはじまった給食だが、何度も廃止の危機に瀕しているそうだ。戦中・戦後の物資不足、アメリカによる占領が解かれて援助がなくなったことによる資金不足などの経済的事情に加え、「みんなに同じものを食わせるなんて社会主義的だ」と反対する議員がいたり、「本来弁当をつくるはずの母親が楽をしたいからだ。給食は親子の愛情を阻害する」なんてピントはずれの批判をする議員がいたりしたらしい。昔も今も、何もわかっちゃいないじいさんが法律を作っていたのだ。




 給食は政治の影響も大きく受けた。

 占領後、MSA協定からPL480にいたるまでの日米外交は、給食の意味合いを大きく変えた。目の前の外貨獲得、経済復興、飢えからの解放という喫緊の課題の裏で、アメリカは日本を食糧輸出先として自国のお得意先にし、あわせて共産主義の防壁にしようとした。この意図を、サムスはしっかりと受け取っていた。アメリカは給食を一つの道具として、国防と食糧の二方面から日本人の「安全」を左右できる力を握ろうとしたのである。 
 この結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増す。すでに述べたようにサムスは日本の米食文化に疑問を抱いていた。「日本人は占領開始の七五年も前に、すでに彼らの栄養摂取のパターンを決めてしまっていたが(明治に入っても米穀中心のパターンを変えなかったこと)、これは誤っていた」(サムス『GHQサムス准将の改革』)と断言している。そして、自分の政策を「日本のような大人口を食べさせるのに必要な食糧の量を決定する伝統的方法をくつがえすこと」だと評価し、根拠を下記の調査に求めている。「調査の結果、日本人の食生活における栄養摂取パターンは炭水化物が多すぎ、タンパク質、カルシウム、ビタミンが不足」しており、「農村の人々は穀物の入手が容易であったため、穀物消費量が多かった」(同右)。
 厚生省の大礒も同じである。「当初よりのアメリカ側の陰謀で、余った小麦を売りつける手段に使ったのだとさも知ったような言辞を弄する者が現われたが、これは全くの​噓」​だと語気を強めている(大礒『混迷』)。彼は、「米飯と味汁」というサムスの最初の提案が崩れたことを強調して、サムスに市場開拓の意図がなかったと弁護している。
 大礒にとって、日本の食事の欠点は、あまりにも一時に大量の白米を食べすぎること、副食の入る余地がないこと、そして、栄養素が欠けやすいことであった。「日本人の体格が国際的にみて劣っており、体力の面でも到底彼らの比ではないとか、病気にも罹りやすく、寿命も短く、乳児・幼児の死亡率もかなり高いという悩み」がずっと彼を支配していたのである(同右)。

 アメリカは敗戦国である日本に対して支援をしながらも「自国の余剰食糧を買ってもらいたい」「小麦や乳製品などの輸出を増やすために日本の食文化を欧米化したい」といった政治的意図に基づいて、給食に対する要求を出している(もっと単純に、自分たちの食生活こそが最良だという思い込みもあっただろう)。

 今でこそ米飯給食が増えたらしいが、ぼくが子どものころなんて米飯は月一、二回で、ほとんどはまずいパンだった。牛乳も不人気だったし(体質的に飲めない子もいるのにあれを強制するのはひどいよなあ)。政治的な理由もあったんだろうなあ。




 給食のメリットは数あれど、昔も今もトップクラスに重要なのが貧困対策だ。

 現在でも、学校給食が唯一の良質な食事である家庭は少なくない。「小学校教諭の友人から、クラス内に六人、給食で飢えをしのぐ子がいると聞きました。夏休みが明けるとガリガリになっているそうです」と伝える京都の三〇代女性もいれば、「小学校で給食を作る仕事をしていました。朝ご飯を食べずに学校へ来て、夕飯は菓子パンを食べるだけ、給食だけが唯一きちんとした食事だという子どもがいました」と答えたのは、千葉県に住む四〇代女性の調理員である。

 世襲議員や、官僚や大企業出身の議員にはこういう事情はなかなか見えないだろうなあ。

 だから「給食は親子の愛情を阻害する」なんてとんちんかんなことを言ってしまうのだ。




 たぶん、給食制度に反対する人は今ではほとんどいないだろう。

 じっさい、給食はありがたい。経済的な理由や、「各家庭の親が弁当を作らなくていい」という時間的な理由はもちろん、プロの栄養士が考えたバランスのよい食事をすることができる、季節の食材や地元の食材にふれる食育ができる、家族以外の人と食事をすることにより食事マナーを身につけられる、給食当番をすることで配膳などを学べる……。そしてなにより、みんなで同じものを食べるのは楽しい。

 うちなんか共働きなので夏休みや冬休みでも給食だけは実施してほしいぐらいだ(倍の値段になってもいいからやってほしい。そうおもっている家庭は多いだろう)。


 2020年頃、コロナ禍で「給食のときはそれぞれ前を向いてだまって食べること」というお達しが下された。うちの子は「だまって食べないといけないからつまんない」と言っていた。そりゃあそうだろう。本来なら給食なんて日々の学校生活のなかでも一、二を争うほど楽しいイベントなのに、それが無味乾燥なものに変えられてしまったのだから(ついでにコロナ禍では休み時間の遊びなども制限されてて、ほんとに気の毒だった)。


 もちろん嫌いなものを強制されたり、食べきれない子が居残りさせられたりといった“苦い記憶”はあるだろうけど、それはおおむね制度運用側の問題(というか教師の問題)であって、制度自体が悪いわけではない。

 そんな給食制度も、決してあたりまえのものではなく、先人たちの努力、給食をなくそうとする連中に対する闘いの結果として今存在するのだということを改めて知った。


 そういえば。

『となりのトトロ』で、サツキが「今日から私、お弁当よ」と言うセリフがある。お弁当を作るのを忘れていたお父さんに代わって、サツキがお弁当を作っているのだ。
(それも残り物ではなく、朝から七輪で魚を焼いたりしている。さらに弁当とは別に味噌汁など朝食も作っている。とんでもない小学生だ)

 あれはサツキがとんでもなくしっかり者だったからなんとかなったけど、そうじゃなかったら「学校に遅れる(あるいは行かない)」か「弁当を持って行かずに他の子らが弁当を食べているときに我慢する」しかないわけだ。

 戦争で両親のいない子も多かっただろうし、貧しい家も多いし、今のようにコンビニも冷凍食品もお惣菜屋もない時代、お弁当を用意するというのはたいへんな苦労だったにちがいない。

 給食があればサツキの負担もだいぶ軽減されただろうになあ。


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2024年3月7日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『コロナと潜水服』 / 本だからこそかける偏見

コロナと潜水服

奥田 英朗

内容(e-honより)
早期退職を拒み、工場の警備員へと異動させられた家電メーカーの中高年社員たち。そこにはなぜかボクシング用品が揃っていた―。(「ファイトクラブ」)五歳の息子には、新型コロナウイルスを感知する能力があるらしい。我が子を信じ、奇妙な自主隔離生活を始めるパパの身に起こる顛末とは?(表題作)ほか“ささやかな奇跡”に、人生が愛おしくなる全5編を収録。

 短篇集。すべて超常現象が起こる話。といって幽霊というほどおどろおどろしいものではなく、なんか霊的なふしぎなことが起こる、という程度。

 取り壊し寸前の古い家を買ったら男の子の気配を感じる『海の家』、追い出し部屋に異動させられた社員の前に謎のボクシングコーチが現れる『ファイトクラブ』、占いというより呪いをかける『占い師』、息子が人を見て新型コロナウイルスに感染しているかどうかを言い当てるようになる『コロナと潜水服』、中古車を買ったら前の持ち主の思い出の地に連れていかれる『パンダに乗って』の五編。


 個人的にはちょっと期待外れ。そもそも超常現象を扱った話が好きじゃないんだよなあ。なんとでもアリになっちゃうからさ。小説をつくるほうからしたらこんなに楽なネタもないんじゃないだろうか(書いたことないから知らないけど)。どんな不条理なことが起きても超常現象のせいにしたら「そういうものですから」で済ませられちゃうもんね。

 オカルトならオカルトで、ちゃんとルールを設定してほしいな。




 わりと好きだったのは『占い師』。

 プロ野球選手を彼氏に持つ女性。自身もミスコン女王、コンパニオン、フリーアナウンサーなど華やかな道を歩んできた。

 ある年、彼氏の成績が急上昇。たちまち球界の人気選手となる。だがそれと同時に彼女への連絡回数は減り、態度もそっけないものに変わってゆく。彼の周りには虎視眈々と有力選手を狙っている(ように見える)女性アナウンサー。

 彼女が“占い師”に相談すると、翌日から彼は絶不調に。自信を失った彼は彼女に癒しを求めるようになる。会う回数が増えたのはうれしいが、このままでは成績不振でクビになる。プロ野球選手でなくなった彼には魅力がない。

 再び占い師に相談すると成績が上昇するが……。


 活躍しすぎてほしくないが、さりとてまったく活躍しないのも困る、という女性の身勝手な欲望をあからさまに書いた短編。悪意に満ちている。

 男が書いているので「ああいう女はこんなもんだろ」とばかにした感じがありありと伝わってくるが、その乱暴さがかえって楽しい。小説なんだから、偏見や悪意に満ちていてもいい。エンタテインメントの読者が求めているのは正しさじゃない。

 小説なら許される。昔は「本には書けないようなことでもネットになら書ける」だったけど、今じゃ「ネットで書いたら炎上するようなことでも本ならそこまで多くの人の目に留まらないから大丈夫」になってるからね。


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2024年3月6日水曜日

【読書感想文】松沢 裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』 / がんばったってダメだって

生きづらい明治社会

不安と競争の時代

松沢 裕作

内容(e-honより)
日本が近代化に向けて大きな一歩を踏み出した明治時代は実はとても厳しい社会でした。景気の急激な変動、出世競争、貧困…。さまざまな困難と向き合いながら、人々はこの時代をどう生きたのでしょうか?不安と競争をキーワードに、明治という社会を読み解きます。

 岩波ジュニア新書。

 最近、この手のジュニア向けの本がけっこうおもしろいことに気がついた。若かったころは「子ども向けに書いた本なんて」と手にも取らなかったけど、つくづく良書が多いんだよな。


 序盤に書いてあることは「明治時代って、江戸時代のような身分社会が崩れて、立身出世が実現できるようになった時代のように語られるけど、ほとんどの人々の暮らしはひどいものでしたよ」という内容で、まあそりゃそうだろうなとしかおもえなかった。

 以前に紀田 順一郎『東京の下層社会』という本を読んだことがあるが、明治時代の貧民層や娼婦の暮らしは、そりゃあひどいものだったようだ。『生きづらい明治社会』では木賃宿で暮らす人々をネットカフェ難民にたとえているけど、とても比べられるようなものじゃないだろう。たしかにネットカフェ難民も楽な暮らしではないが、明治の木賃宿暮らしに比べれば天国のような生活だろう。

 あたりまえだけど、明治時代は劣悪な環境で人がばたばたと死んでゆく、過酷な時代だった。




 この本でおもしろかったのは、中盤以降に出てくる「通俗道徳」で明治時代の貧困を語っている点。

 ここで「通俗道徳」という歴史学の用語を紹介しておきたいと思います。人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。
 安丸さんは、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「良いおこない」として考える行為に注目します。これといった深い哲学的根拠に支えられるまでもなく、それらは「良いこと」と考えられています(だからそれは「通俗」道徳と呼ばれます)。
 それは確かに良い行為であると、私たちも普通に考えるだろうと思います。そこまでは大した問題ではありません。問題はその先です。勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることはない。親孝行をすれば家族は円満である……。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる、いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
 ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。

 おもしろかったのは、つい最近読んだマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』にも似たような記述があったからだ。

 近年、アメリカでも特に「努力すれば成功する。成功しなかったのは努力が足りないからだ」という考えが強くなっているという。だから成功者は富を独占する権利がある、と。能力主義(メリトクラシー)という考え方だ。

 現代アメリカと明治日本で同じ兆候が見られる。こういう「おもわぬ本と本がつながる」のが読書の醍醐味だ。

 著者は、「通俗道徳」の考え方が強くなるのは明治に入ってからだと指摘する。

 人びとが、通俗道徳一本やりで、完全にわなにはまり切ってしまうのは、明治時代に入ってからです。第一章でみたように、地租改正によって村請制は廃止され、人びとを無理やり助け合わせる仕組みは消滅しました。いやいやながら豊かな人が貧しい人を助ける必要はもうなくなったのです。
 そして政府は、といえばこれまでのべてきたようにカネがありません。何らかの理由で貧困におちいった人を助けるのに割く予算はないのです。こうして、人びとが貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって、必死で働くことが唯一の選択肢となりました。
 くり返しますが、通俗道徳を守って生きていればかならず成功するわけではありません。しかし、このように助け合いの仕組みも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者です。こうした状況のなかでは通俗道徳のわなから逃れることはとても難しいことです。実際に、がんばって働き、倹約し貯蓄して、成功した実例が身近に珍しくないからです。
 こうして、明治時代の前半の小さな政府のもとで、人びとは通俗道徳の実践へと駆り立てられてゆき、その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印をおす社会ができあがっていったのです。

 生まれによって階級が決まっていた江戸時代と異なり、明治時代は(理論上は)貧富の差に関係なく誰でも成功できる時代になった。実際、貧しい家庭の出身で経済や学問の世界で名を上げた人物もいた。針の穴を通すような低い確率だけど。

 そのせいで、貧しい暮らしをしている人が「努力が足りなかったから自業自得だ」とみなされるようになってしまった。

 のしあがるチャンスが0%の社会より1%の社会のほうがしんどいかもしれない。




「やればできる」が幅を利かせる社会の何がまずいかというと、できなかった人が救済されなくなることだ。だって「できなかったのはやらなかったから」なんだから。

 それに加えて政治の問題もあった。

 なぜ、増えた税金を、貧困者を助けるためにつかうという流れができなかったのか。第三章の、窮民救助法案否決の部分でのべたのとおなじ理由をここでもあげることができます。この時期の衆議院議員選挙でも、選挙権には、依然として財産による制限があり、また女性に選挙権はありませんでした。貧困者に選挙権がない以上、貧困対策は、政党の支持拡大の手段にはなりません。それにひきかえ、交通網が整備されたり、学校が増設されたりすることは、富裕層には有利です。交通網整備によって、地方と都市のあいだの物流の便がよくなれば、地方の製造業者や地主には、製品や農産物を都市で販売するうえでメリットがあります。また、学校ができて学生が集まれば、それだけのお金がその地方に落ちることにもなります。家や土地をもつ人、商店主などには利益になります。そうした利益を地方にもたらしてくれる政党や議員を、有権者は支持することになるわけです。

 明治時代には普通選挙がおこなわれておらず、選挙権、被選挙権を有するのは高額納税者に限られていた(総人口の約1%)。金持ちが投票して金持ちを選ぶのだから、貧しい者のための法が整備されるはずがない。おまけに通俗道徳や能力主義が強い時代。カネやコネのないほとんどの人にはさぞ生きづらかったことだろう。


 日清戦争以前の「小さな政府」の時代に、人びとは、自分で努力する以外に生き延びる道のない、「通俗道徳のわな」に、はまってゆきました。このわなに一度はまってしまうと、そこから抜け出すのはとても難しいのです。「実際に成功している人は努力した人」という現実がそこにある以上、成功した人たちは、自分の地位を正当化するために、このわなにむしろしがみつこうとします。自分が成功したのは、たまたま運がよかったとか、親が金持ちだったとか、そういうことではなく、自分が努力した結果なのである、と。自分の富、自分の地位は道徳的に正しいおこないの結果なのである、と。努力したのに成功しなかった人たち、いくら努力しても、貯蓄の余裕もなく、生活が改善する見込みもなかった人たちのことは忘れ去られてゆきます。

 マイケル・サンデル氏が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でも指摘しているように、この「やればできる。できなかったのはやらなかったから」の考えは諸外国でどんどん強くなっている。もちろん日本でも。

 電気グルーヴの『スネークフィンガー』という曲に

 がんばったってダメだって 努力をするだけムダだって

という歌詞があって、 昔は「ひっでえこと言うな」と思って聴いてたけど、最近聴いたときは「これはこれでそんなにひどい歌詞でもないな」とおもうようになった。

 少なくとも「やればできる!」を連呼する人よりはよっぽど人情味があるとおもうな。


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2024年3月5日火曜日

小ネタ12

切手

 切手が値上げするらしい。はがきは63円→85円、封書は84円 or 94円→110円になるそうだ。

 ずいぶん高くなるなあと感じたが、よく考えたら、日本中どこにでも、しかも相手の玄関にまで届けてくれるサービスが100円前後だなんてそれでもめちゃくちゃ安いよなあ。

 しかしスケールメリットがあるからこそ100円かそこらでできているわけで、値上げによって利用者が減ればスケールメリットもなくなってさらに値上げして……と値上げスパイラルになるかも。

 ま、「面倒だから手紙出さない」人はたくさんいるけど「63円が85円になるから出さない」って人は少ないだろうな。



後頭部

 散髪が終わった後、理容師が手鏡で後頭部を見せてくれて「どうでしょう?」と言われる。

 どうでしょうと言われても、自分の後頭部を見るのなんて散髪後だけなので、いつもと比べていいのか悪いのかわからない。

 せめて髪を切る前にも手鏡で後頭部を映して「こちらがカット前の後頭部です」とやっといてくれよな(やらなくていい)。


知らんけど

関西人「知らんけど」

論語「子曰く」

ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」



2024年3月4日月曜日

小ネタ11

ネーミング

 おしりふきは汎用性が高くてすごく便利なのに、ネーミングのせいで使われにくくなっている。もっとしゃれた名前にできないものか。


五十音順

 世界史の教科書に出てくる人物名を五十音順に並べたら、たぶん愛新覚羅(あいしんかくら)が最初だろう。

 ……とおもったけど、愛新覚羅よりもアイザック・ニュートンのほうが前だな。世界史の教科書には出てこないかな。他にもっと早い人はいるかもしれないが、最後は完顔阿骨打(わんやんあぐだ)でゆるぎない。


メイン

 学生時代、中国に旅行していた。数人の日本人で話していたとき、話の流れでひとりの女の子が「それだったら私みんなのためにメイドさんになったげるわ」と言った。

 そのとき「メイド・イン・チャイナやな」と言ったのは、ぼくの生涯ベストダジャレだとおもう。


SDGs

 娘が小学校でSDGsについて教わっている。

 それはいいんだけど、いまだに「一年生の算数で数回使うおはじきセット」とか「三年生で数回使うだけのそろばん」とかを生徒全員に買わせるのはなんでなんだ。学校で買って貸与してくれよ。鍵盤ハーモニカとかは口をつけるからわかるけど。SDGsってなんなんだ。