2022年10月12日水曜日

【読書感想文】竹宮 ゆゆこ『砕け散るところを見せてあげる』 / なんか悔しいけどおもしろかったぜ

砕け散るところを見せてあげる

竹宮 ゆゆこ

内容(e-honより)
大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る…。小説の新たな煌めきを示す、記念碑的傑作。

 タイトルに惹かれて購入。なんだかアニメのノベライズみたいな文章だなとおもって読んでいたのだが、調べたらやっぱりライトノベル出身の作家だった。あー。今は新潮社もライトノベルのレーベルを持っているのかー。

 ライトノベルはほとんど読んだことがない。井上真偽の『探偵が早すぎる』を読んだときは「これがライトノベルなのだろうか?」とおもったけど。

 ということで新鮮な気持ちで読んだ。




 最初は「なるほど、これがライトノベルか」ぐらいのやや冷やかし気分で読んでいた。

 うん、さすがライトというだけあって小説入門にはいいね。会話主体の展開、口語表現、登場人物たちがおもっていることをほとんど口に出す(あるいは地の文で明記する)ところ。

 とにかくわかりやすい。〝行間を読む〟がほとんど要求されない。かなりローコンテクストな小説だ。

 難解なだけで何が言いたいのかさっぱりわからない独りよがりな小説よりずっと読みやすい。作者のサービス精神を感じる。

 個人的にはわかりやすすぎてちょっと退屈だったけど、これはこれでいいとおもう。


 はるか昔にこんな雰囲気の小説を読んだ気がする……と考えて、おもいだした。新井素子『グリーン・レクイエム』だ。1980年発表。ぼくが読んだのは2000年頃だった。高校の図書館で読み、装丁の美しさもあいまって手元に置いときたいとおもい、わざわざ書店で取り寄せて購入したほど好きだった本だ。

『グリーン・レクイエム』は異星人との恋を描いたSF小説だったが、あれも今の定義でいえばライトノベルになるのかもしれない(当時はそんな言葉はなかった)。


『砕け散るところを見せてあげる』も、ぼくが中高生だったならばすごく好きな小説になっていたかもしれない(ギャグは好きになれなかったが)。

 ……というのが読んでいる最中の感想だった。だが。



 おお。こ、これは。素直に認めたくないけど、なかなかおもしろいじゃないか。途中からはどんどんおもしろくなった。


【以下ネタバレ】


 ストーリー展開自体は、そこまで目新しいものはない。

 高校生の主人公がいじめに逢っている後輩の女の子を助ける、なんやかんやあってふたりの距離が縮まる、気持ち悪いとおもっていた女の子があか抜けて素敵に見えてくる、実は女の子は父親から虐待を受けていた、女の子を救い出すために主人公は行動を起こす……。

 よくある話、かどうかは知らないが、物語の世界ではいじめも虐待もよく見るテーマだ。現実ではどちらもなかなか快刀乱麻ようには解決しないけど、そこはフィクションなのでシンプルに解決する。かんたんではないけど、シンプルに。

 2000年代前半に浅野いにお氏がこういう漫画を描いていた。さわやかな絵柄なのに、いじめや虐待といったヘビーな出来事をまるでなんでもないかのように描く手法。当時は斬新だったが、後続作品がどんどん現れたことで今ではめずらしくもなんともない。

『砕け散るところを見せてあげる』はそれの小説版、といった感じ。やっぱり漫画っぽさはぬぐえない。



【以下もっとネタバレ】

 そんな感じで読んでいたら、あと数十ページを残して問題解決してしまった。あれ。まだけっこうページ残ってるけどどうするの?

 とおもっていたら、そこからは一気に時代を飛び越え、概念的な話が続く。なんだこれ。そして、叙述トリックが明らかになる。

 あー。なるほど、冒頭の「俺」は、中盤の「俺」の息子かー。死んだはずの父親が現れたところで変だとおもっていたんだよな。よく読めば、作中に出てくる小道具にもいろいろヒントがある。誰も携帯電話持ってないのは数十年前だからか。

 やー。よく考えてるな。ミステリとおもって読んでたら警戒してたけど、ライトな青春ストーリーだとおもって読んでたから油断してた。まんまと騙された。

 素直に認めるのはなんか悔しいけど、けっこうおもしろかったぜ。




 ところでこの本を、小学六年生(読書好き)の姪に「おっちゃんが読んだ本だけどよかったら」とプレゼントしたところ、一日で読んだらしく電話がかかってきて「おもしろかった!」というお声を頂戴した(やはりラストの展開はよくわからなかったらしいが)。

 うん、やっぱりティーン向けの本だったね。おっさんが読んでぶつぶつ言ってすみませんでした。

 

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2022年10月11日火曜日

キングオブコント2022の感想

 キングオブコント2022の感想。


 漫才に比べてコントは表現の幅が広くていろんなことができるし方向性も多様なので、点数をつけて並べることにあんまりなじまないとおもうんだよね。そもそもの話になってしまうけど。なので、点数や順位はあんまり意味がないというか、単なる審査員の好みでしかないとおもうのでそのへんにはふれない。


 いやあ、すごくおもしろかった。いい大会でした。2021年に審査員一新してからよくなったね。

 スタジオの客はアレだったけどね。去年も書いたけど。なんだねあの客は。客というか客に指示を出している人の問題なのかもしれないけど。出てきただけで笑う。フリの段階で笑う。くすぐり程度のボケで手を叩いて笑う。コントを観る客じゃなく、単なる盛り上げ役のエキストラ。そりゃあ番組なんだから多少おおげさに笑うほうがいいけど、ちょっと限度を超えていた。

 あと、去年もそうだったんだけど、出番順がよくできすぎじゃない? わかりやすく笑える初出場組からはじまって、徐々にリベンジ組や下馬評の高い本命が増えてくる。ほんとに抽選? 作為入ってない?




 以下、ネタの感想。


クロコップ

 あっちむいてホイデュエル。

 おもしろかったなあ。キングオブコントは15回すべて観てきたけど、トップバッターの中ではいちばん笑えた。

 ほんと、トップバッターとして最高の出来だったとおもう。ポップで、バカバカしくて、誰にでもわかる。遊戯王がわかればなおおもしろいんだろうけど、わからなくてもおもしろい。

 やってることはかなりベタなんだけど、あの衣装と曲のパワーで、わかっていても笑っちゃう。

 そしてすばらしかったのが縄ばしごだけでヘリコプターを表現したところ。あの小道具のチープさと、表現している絵のダイナミックさとのコントラストがまたいい。あの絵の構図って、誰も実際に見たことないのに誰もが知っているシーンだもんね。くだらなすぎて最高。

 まちがいなく今大会の殊勲賞。優勝者が歴代最高得点を記録したのはクロコップのおかげだ。


ネルソンズ

 映画『卒業』風に花嫁を奪いに来る元カレ。

 題材といい、展開といい、あまり新しいものがなかったな。三人の世界で完結せずに(見えない)出席者も巻きこんでいるあたりはよかったね。まあおもしろかったんだけどね。「二次会だぞ」の種明かしもすばらしかったし。

 ただ、このトリオのキーマンである和田まんじゅうがまるで傍観者のようなポジションになってしまったのは残念。もっと彼をおもしろく追い込むネタもあるだけに。個人的には、以前の決勝でやった野球部のネタのほうが好きだった。

 新婦が、成功者である元カレよりも新郎を選ぶ理由が「足が速いから」ってのがなあ。リアリティはないし、かといってボケとしては弱いし。

 展開的には、新郎が見捨てられないのが令和の笑いっぽいなと感じた。平成はまだ「ブ男はひどい目にあってもいい」とされていた(少なくともコントの世界では)時代だからね。

 あの新郎、新婦の友人百人が百人とも「ご主人、優しそうな人だね」と言うタイプだよね。


かが屋

 ドMの男と、それを落としたい先輩女性社員。

 なーんか、キングオブコントに照準を合わせたようなネタだなー。かが屋の持ち味はそこじゃないのに、とおもってしまう。

(彼らにしては)派手めな設定、性急かつ意外性のない展開、そして芝居ではなく説明台詞で状況や内面を口に出してしまう雑さ。あの電話はほんとに楽をしちゃってたなー。

 きちんと脚本と芝居で見せる実力を持ったコンビだけに、あの拙速な展開は残念だったな。せめて「ふたりがお互いの思惑に気づく」のをラストに持ってきていたらもうちょっと印象も違ったんじゃないかとおもうが。

 かが屋らしくても勝てないし、らしくないことをしても勝てない。このコンビにとっては、べつにキングオブコント優勝だけが生きる道じゃないとおもうぜ。


いぬ

 インストラクターと主婦の夢。

 ばかばかしい展開は嫌いじゃないけど、それは緻密な設定や細かいリアリティがあってこそ生きるもので、「夢」や「キス」といった安易な手段を使っちゃったらなあ。

 ところであの濃厚接触シーンは、2020年や2021年だったらテレビでさせてもらえなかったかもね。いや今年でもアウトかもしれんが。


ロングコートダディ

 料理頂上対決。

 コック帽が看板にあたって落ちる、というシンプルなくりかえしでありながら、細かい会話のやり取りや役柄にマッチしたふたりのキャラクターで飽きさせない。いやほんと、あのシェフを違和感なく演じられる人はそうはいないよ。あの風貌だからできるネタ。「ぜんぜん」の使い方もすばらしい。ばかみたいな感想だけど、センスがいいなあ。

 個人的にはすごく好きなコントだったけど、点数が伸びないのもわかる。腹抱えて笑うようなコントじゃないもんな。でも彼らの持ち味は十分に発揮できたとおもう。ロングコートダディも、かが屋と同じく「チャンピオンを目指さなくてもいいコンビ」だとおもう。まあこれは外野の勝手な意見で、当人たちは目指したいんだろうけど。

 ところでこのワンシチュエーションをひたすら突き詰めるコントは、ロッチが『試着室』のネタでかなり頂点に近いところを極めてしまったので、あれを大きく跳び越えるのはなかなかむずかしそうな気もする。

 ネタ以外のところでは兎さんの「金髪だから印象に残るんですよ」は今大会いちばんおもしろいコメントだった。松本人志審査委員長の実績や名声を一切破壊するようなひっでえ悪口だ。


や団

 死んだふりドッキリ。

 怖すぎた。個人的には嫌いじゃないけど。コントだとわかっていても「人が死体を遺棄しようとするシーン」は楽しく見ていられない。もはやサスペンスホラー。ツッコミ役が明るくポップであればまだよかったのかもしれないけど、彼の顔も怖いしな。顔の怖い人と、行動が怖い人と、何考えてるかわからなくて怖い人。三人とも怖かった。

 なんといっても秀逸なのは鼻歌まじりに加えタバコで死体処理をするシーン。貴志祐介『悪の教典』でサイコパスの主人公が三文オペラのモリタートを歌いながら生徒たちを次々に殺していくシーンをおもいだした。


コットン

 浮気証拠バスター。

 細部まで丁寧につくりあげられた構成、それを支える確かな演技力。見事なコントだ。が、見事すぎる点が一位になれなかった原因なのかなという気もする。設定が完璧すぎて遊びがないというか。隙がなさすぎて「ほんとにこんな仕事あるのでは」という気がしてきた。

 良くも悪くも頭いい人が考えたネタ、って感じがしたな。ぼくはラーメンズのコントが好きで、ラーメンズはもちろん、小林賢太郎単独作品やKKP(小林賢太郎プロデュースの劇団)の作品もよく観ていた。で、いろいろ観た結果、やっぱりいちばんおもしろいのはラーメンズだった。それは片桐仁がいるから。彼がいることで、コントに「バカ」が加わる。片桐仁の頭が悪いという意味ではなく、予測不能性というか、あぶなっかしさがプラスされるということだ。

 コットンのコントには、小林賢太郎単独作品のような「おもしろいしよくできているんだけど、でもなんか退屈」を感じた。よくできているからこそハラハラドキドキ感がない。

 ということで個人的にはなんかたりないなという印象だったんだけど、でも思い返してみるとやっぱり隅々までよくできていた。彼女からの電話とか、彼女が急に来るとか飽きさせない展開も用意していたし。なによりすごいのは、変な人が出てこないということだよね。ちゃんとした人がちゃんとした仕事をちゃんとこなしている。なのにおかしい。すごい脚本だ。


ビスケットブラザーズ

 野犬に襲われる

 で、そんなコットンに足りなかった「バカ」をふんだんにまぶしたのがビスケットブラザーズ。

 気持ち悪いのにかわいげのあるふたりが飛んだり跳ねたりしているだけで妙に愛おしい。不気味さや気持ち悪さを描いたコントはわりとよくあるが(今大会でいうとや団や最高の人間とか。過去にもかもめんたるやアキナもサスペンス感の高いコントをやっている)、ビスケットブラザーズが他と違うのは圧倒的な善性を持っているところだろう。気持ち悪いけど、悪意や攻撃性はまるで感じない。そしてそこがまた気持ち悪い。

 そう、純粋無垢な善ってなんか気持ち悪いんだよね。我々は生まれながらにして悪も持ってるから。圧倒的な善に対しては、無意識のうちに「そんなわけないだろ」と警戒してしまう。ビスケットブラザーズは一貫して善なるものの気持ち悪さを表現している。

 衣装で安易な笑いをとりにいっているかとおもいきや、展開やセリフなど入念に設定が作りこまれている。ぱっと見の印象ののせいで「見た目や動きで笑いをとろうとするコント」と判断してしまうのはもったいない。あのコントを「安易な笑い」と言う人こそ、上辺だけしか見ていない。ビスケットブラザーズの良さはそこじゃない。あの見た目がなくても十分おもしろい。

 好きだった台詞は「それどういう意味」。あのタイミングであの台詞。最後まで予定調和を許さない。最高。

 ベタな笑いからシュールな笑いまで幅広く詰めこまれていて、パワーだけでなくテクニックも備えている。全盛期の朝青龍を髣髴とさせた。


ニッポンの社長

 人類補完計画。

 一昨年の『ケンタウロス』、昨年の『バッティングセンター』ではたっぷり時間をかけた丁寧にネタふりをしてからナンセンスな笑いで吹き飛ばすという贅沢なコントを見せてくれたニッポンの社長だが、今大会はうってかわって短いフリとベタな笑いのくりかえし。

 あれ。どうしちゃったの。まるでショートコント。特に見どころを感じなかったな。


最高の人間

 テーマパーク。

 ピン芸人同士のユニットだが、それぞれの良さが出たネタ。とはいえ元々持ち味が似ているので、おいでやすこがのような「タイプの異なるこの二人が組んだらこんなにおもしろくなるのか!」というような驚きはなかったけど。

 間が詰まりすぎていたように感じた。特に前半。あそこはもっともっと時間をかけてたっぷり怖がらせてほしかったな。その部分の不気味さが大きいほど、中盤での「みんな逃げて」が生きただろうに。

 そしてせっかくの緊迫感のある展開だったのに、終盤の回想シーンのせいで緊張の糸が切れてしまった。あのサスペンス感を保ったまま最後までいってたら……、いやそれでも勝てなかったかな。怖すぎたもん。

「観客を新規スタッフに見立ててしゃべる」構図なのもよくなかったのかもね。当事者感が出すぎてしまって。あれがトリオで、や団のようにツッコミ役がいればだいぶ緩和されてたんだろうけど。




以下、最終決戦の感想。


や団

 気象予報士の雨宿り。

「気象予報士が予報をはずして雨宿り」ってせいぜい四コマ漫画の題材程度の発想だけど、そこからあれだけストーリーのあるコントに仕立てあげるのが見事。

 個人的には一本目の死んだふりドッキリよりもこっちのほうが好き。大男がびしょ濡れになってやけくそになっているだけでおかしいし、狂気は感じつつも「気象予報士への逆恨み」という行動原理がわかるからそこまで怖くない。だから笑える。気象予報士を恨むのはお門違いだけど。

 マスコットキャラクターの中の人だということが明らかになるタイミングもうまい。さすが15年決勝に進めなかっただけあって、いいネタをストックしてるなあ。


コットン

 お見合い。

 これまたぶっとんだ人が登場するわけでもなく、特別なことが起こるわけでもないのに、リアリティをギリギリ保ったままちゃんと笑えるコントに仕立てている。見事。

 上品な女性がタバコを吸いはじめてガラの悪い本性を表す……じゃないところがいいね。徹頭徹尾上品さを保っている。タバコを吸っている以外はまとも。いやべつにタバコを吸う人がまともじゃないわけじゃないけど。

 前半と後半でまるで別人になってしまうような(芝居として破綻している)コントも多いけど、コットンはキャラクターの一貫性を保っているのがうまい。笑わせるためなら何をやってもいいってもんじゃないからね。

 ただ、キャラクターが首尾一貫していただけに「お見合いでもじもじしていた二人が数分間でプロポーズして承諾する」という展開の性急さが目についてしまった。とってつけハートフル。〝エンゲージリング〟をやりたかったんだろうけど、あそこで「気持ちはありがたいですけどまだお互いのことを知らなさすぎるので……」ぐらいにしていたら、もっと上質な仕上がりになったのになあ。少なくともあの時点で、女性側が相手に惹かれる要素はほとんどないとおもうけどなあ。


ビスケットブラザーズ

 男ともだちを紹介。

「どんなに変でも女性ものの服を着て髪の長いカツラをかぶっていたら女性とみなす」というコントのお約束を逆手に取ったようなネタ。女装が似合わない体形だったことがまた良かった。『寄生獣』の絵がうまくなくて登場人物全員の表情がぎこちなかったせいで結果的に誰が寄生獣かわからないというおもわぬ副産物があったことを思いだす。

 女とおもっていた友だちが実は男、男と分かった後でも女に戻ったり男になったりする、二重人格かとおもいきや周到な計画だった、過去にこの作戦が成功したことがある……と次から次に驚きがしかけられていて退屈させない。

 メインの展開以外にも「プロ野球チップスの味」「君が完成させてみる?」といった細かいワードも光っていて、一分の隙もなく笑わせてやろうというパワーを感じた。

 個人的には一本目の野犬退治よりこっちの方が好き。クレイジーなんだけど、当人の中にはしっかりした論理があるのがいい。

 実はよく練られたネタなのに、まるでそれを感じさせないのがいい。




 ってことで、今回もいい大会でした。

 個人的にはクロコップとロングコートダディがもっと上位であってほしかったけど、それは好みの問題なので。

 大会主催者に文句をひとつだけ言うとすれば、準決勝の配信は決勝の後にもやってほしいということ。準決勝配信観ようかどうかかなり迷ったんだけど、観ちゃうと決勝を楽しめなくなるので諦めた。決勝の後だったら心おきなく楽しめるから、決勝後に配信してよ。


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2022年10月7日金曜日

三歳は特別

 三歳というのは、人間の一生において最も特別な時期だとおもう。もちろん他の年齢もそれぞれ特別ではあるが、三歳はやっぱり特別に特別だ。どういうことかというと、圧倒的に「おもしろい」のだ。


 まずしゃべれる。たぶん言語学習能力がいちばん高まるのがこの時期なのだろう。二歳児と三歳児では話せる言葉の量や質がまったくちがう。単語をつなぎあわせている程度だった二歳児が、たった一年でぺらぺらにしゃべれるようになる。もちろん語彙の数はまだまだ少ないが、文法的には完璧に近い日本語を操れるようになる。中一の一学期英語がたった一年で英検二級レベルにまで進化するぐらいの変化だ。

 それから身体能力もずいぶん発達する。三歳ぐらいからはこけることが格段に少なくなる。ジャンプしたり、急に止まったり、踊ったり、自転車(コマつき)をこいだり、大人と変わらない動作ができるようになる。

 その一方で、社会性はぜんぜん身についていない。つまり、恥ずかしいとか、ねたましいとか、気まずいとか、後ろめたいとか、ありがたいとか、申し訳ないとか、そういった〝第三者の視点を内的に持つことによって生まれる感情〟がぜんぜんない。客観性を持っていない。常に自分が中心だ。

 表現できる事柄はかなり大人に近づくのに対し、それを自省する感情がまるで育っていない。いってみれば「エンジンやアクセルは高性能なのにブレーキがほとんど利かない車」。とんでもない暴走車だ。

 暴走車。制御する側としてはたいへん厄介だ。だが同時におもしろくもある。そりゃそうだ。「何が起こるかわからないアトラクション」なのだから。


 じっさい、自分の子を見たり、他の親の話を聞いているとすごい話が出てくる。

  • 非常ボタンが気になったので押してから「これなに?」と尋ねた
  • タンスから飛び降りて骨折した
  • 蛍光塗料をなめてみたら口の中が光った。さらに激痛に襲われた
  • 一時間ぐらい怒りつづけている。怒っている理由は次々に変わるが、最初のきっかけは「ドアを自分で開けたかったから」
  • 砂を投げていることを注意されて「わかった」と言った三秒後に砂を投げる

 これらはほんの一例だが、三歳児はまったく自省が利かないことがよくわかる。

 当事者だったらたいへんだ。でも他人事ならばおもしろい。それが三歳児だ。

 認知症患者も同じようにブレーキが利かなくなるが、こっちはたいへんなだけで笑えない。三歳児のほうは「そのうち落ち着くはず」とおもえるからまだ笑える。もっとも子どもによっては落ち着くまでに二十年ぐらいかかったりもするのだが……。


 ところで、三歳児の「客観性のなさ」がよくわかるのが、かくれんぼをしたときだ。

 三歳ぐらいまでの子の隠れる場所は丸わかりだ。身体の一部が見えていたり、さっき隠れたところにもう一度隠れたり、すぐに顔を出してしまったりする。それで、本人はきちんと隠れている気になっている。

 ところが四歳ぐらいからちゃんと隠れられるようになる。鬼からは見えない位置、さっきとは違う場所に隠れられる。それは「他人から自分がどう見えるか」という視点を持つことができるからだろう。

 かくれんぼという遊びは発達の具合によって異なる楽しみ方ができる。古来から伝わっているだけあって、なかなかよくできている遊びだ。


2022年10月5日水曜日

【読書感想文】青木 貞茂『キャラクター・パワー ゆるキャラから国家ブランディングまで』/成功事例のみ

キャラクター・パワー

ゆるキャラから国家ブランディングまで

青木 貞茂

内容(e-honより)
なぜ日本人は「ゆるさ」に惹かれるのか?LINEの「スタンプ」が人気を集めるのはなぜか?―キャラクター文化は、いまやアニメや漫画にとどまらず、日本社会全体に浸透している。その秘密はどこにあるのか?自身も「キャラクター依存」を告白する著者が、空前のブームから日本文化の深層に分け入り、キャラクターが持つ本質的な力を浮き彫りにする。


 ゆるキャラ、マスコットキャラクター、LINEスタンプなど〝キャラクター〟がなぜ日本で特に好まれ、広く使われるのかについて考察した本。

 

 たしかに身のまわりにはキャラクターが蔓延している。子ども向け商品だけでなく、企業も自治体も政党もキャラクターを使っている。

 他の国にもキャラクターはあるが、日本とアメリカではキャラクターの性質が少し違うようだ。

 ディズニー・キャラクターは、まるで人間のようにコミュニケーションをとることから、人間同士の絆のように共感性が高く、感情的かつ精神的な絆を持ちやすいのです。また、アメリカ人的であるがゆえに、ディズニーランドやディズニーの長編アニメは、世界中で非常に人気があり、かつ一方で嫌われてもいるのです。
 人々は、ディズニー・キャラクターとは、人間を相手にしたようなコミュニケーションをとり、サンリオ・キャラクターには、人間に隣接した別の親密な存在として感情移入をすると考えられます。それは、犬や猫、ウサギやモルモットといったペットとの関係に非常に近いといえます。

 なるほどね。たしかに日本のキャラクターには無表情なものが多い。サンリオキャラはだいたい無表情だし、リラックマ、すみっコぐらし、くまモン、しまじろうなど表情に乏しいキャラが多い。

 また日本生まれではないが日本で人気のミッフィー(ナインチェ・プラウス)はまったくの無表情だし、ムーミンもピーターラビットも表情はあまり変わらない。

 アメリカ生まれのディズニーキャラクター、トムとジェリー、スヌーピーなどが喜怒哀楽をむきだしにするのとは対照的だ。

 まあ日本でなじみがないだけで、アメリカにもゆるキャラみたいな表情に乏しいキャラがいるのかもしれないけど。

 日米の有名人形劇を見比べてみると、その差は明らかだ。

ひょっこりひょうたん島
(NHKアーカイブス より)

SESAMI STREET
(SESAMI STREET JAPAN より)

 人形劇なのにみんな笑顔(しかし人形劇の人形にこんなに表情があったら、怒りや悲しみの表現がしづらくないのだろうか?)。



 企業やブランドや自治体にキャラクターがいるのがあたりまえになっているから何ともおもわないけど、よくよく考えると公式キャラクターというのは奇妙なものだ。

 キャラクターがいようがいまいが製品の品質にはなんの関係もない。子ども向けのお菓子ならキャラクター目当てに買う人もいるだろうが、たとえばぴちょんくんがいるからといってダイキン工業のエアコンを選ぶような人はまずいないだろう。

 それでもキャラクターは多くの団体が採用しているし、我々もそれを当然のように認知している。

『キャラクター・パワー』によれば、キャラクターには以下のような力があるという。

①存在認知力 他者に存在を認められるプレゼンスを作る
②理解伝達力 メッセージや意味を理解してもらうスピードを高め、わかりやすくする
③感情力 好意や親しみやすさなど感情的な絆を作り、つなげる
④イメージ力 魅力的なイメージを創造する
⑤拡散力 人に伝えたくなるクチコミをおこさせる
⑥個性力 他のグループとの違いやある価値観を持った人々との同一性がすぐに認識できる
⑦人格力 まるで人間と同じ精神や魂があるかのような実在性を感じさせる

 たしかにね。

 熊本の魅力を言葉や文章で長々と説明されるより、くまモンが名産品を持って立っているほうがずっと伝わりやすいし、記憶にも残りやすい。

 ネット上の解説記事なんかでも、解説役Aのアイコンと聞き手役Bのアイコンがあって、会話形式で解説する……なんてのもよく見る。あれも、キャラクターがあることでむずかしい話が頭に入ってきやすくなる効果がある。


 キャラクターには人間型や無生物型などもあるけど、なんといってもいちばん多いのは動物型だ。

 このように、キャラクター思考においてよく用いられるのが、動物シンボルです。動物シンボルを使用することで、本来は生命を持たない無機物の商品に対して、思い入れを持たせることができます。
 一方で、人間は人間をモノとして扱うこともできます。ナチスによるホロコースト、ルワンダやボスニアでの虐殺などは、人間を非人格化したがために可能となった行為でしょう。このとき虐殺する側の人間は、虐殺される側の人間を動物や虫のメタファーで呼ぶことが多いとされています。虐殺の対象を蛇やネズミなどのマイナス・キャラクターと考えてしまえば、正当性を手に入れることができるというわけです。

 動物には特有のイメージがある。

 犬だったらかわいさだけでなく忠実な相棒といったイメージがあるし、ネコやペリカンが運送会社のキャラクターに採用されているのは「大事に運ぶ」イメージによるものだろう。

 動物キャラクターを付与することで、対象に特定のイメージを持たせることができる。上で挙げられているように、マイナスのイメージを与えることにも使える。




……といった話が続いて、一章『キャラクターに依存する日本人』あたりは楽しく読んでいたのだが、だんだん辟易してしまった。

 なんだか、論理が強引なんだよね。「〇〇というキャラクターが成功したのは××だからだ」「このキャラクターにはこんな心理学的効果がある」みたいな話がたくさん出てくるんだけど、定量的な裏付けはまるでない。

 結局ぜんぶ著者の推量なんだよね。「キャラクターには強いパワーがあるから活用すべき」という結論が先に決まっていて、その結論にもっていくためにいろんな理屈を並べ立てているという感じ。まったくもって、理屈と膏薬はどこへでもつくなあという感想。


 基本的に紹介されているのは成功事例だけだしね。たしかにキャラクターを使ってうまくいった例は多いけど、キャラクターを使ったけどうまくいかなかった事例はその数百倍あるわけじゃない。たとえばくまモンやひこにゃんは成功したけど、金をかけて作ったのにほとんど効果を生んでいない地方自治体のマスコットゆるキャラはごまんとある。

 そのへんに目をつぶって「キャラクター・パワーすごい!」ってのはちょいとずるいぜ。


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動物キャラクター界群雄割拠



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2022年10月4日火曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 / 野球はベースボールではない

和をもって日本となす

You Gotta Have Wa

ロバート・ホワイティング(著)  玉木 正之(訳)

内容(e-honより)
これば、“文化摩擦”に関する本である。すなわち、日本とアメリカのあいだに存在している亀裂を、ベースボールというスポーツを通して描いたものだ。われわれアメリカ人にとって、異なる文化を理解することがいかに難しいものか、とりわけ日本というまったく異質の文化がいかに理解し難いものであるか―ということを、知ってもらうために書いた本なのである。

 おもしろかった!

 1989年に『You Gotta Have Wa』のタイトルで刊行され、1990年に日本語訳された本。日本に精通した著者が、アメリカ人に対して、日本野球を通して日本文化を紹介するという形の本。

 日本野球界で活躍した外国人選手や通訳への取材を通して「日本野球界がいかに外国人選手にとってやりづらい場所か」を明らかにすると同時に、日本社会全体が抱える欠点も見事に暴いてみせている。

 また、選手の話にとどまらず、監督、コーチ、オーナー、経営陣、通訳、応援団、高校野球などの問題にも触れていて、単なる「ガイジンが見た日本野球」の枠を超え、日本野球界全体に対するすばらしい問題提起になっている。


 三十年以上に書かれた本なので登場するエピソードは古いが、本質は今もさほど変わっていない。この三十年間で日本がほとんど経済成長しなかった理由も垣間見れる。




 第1章『赤鬼伝説』では、1987年のボブ・ホーナー騒動について書かれている。

 ボブ・ホーナーという野球選手を知っているだろうか。1987年にヤクルトスワローズに在籍した野球選手だ(当時ぼくは幼児だったのでリアルタイムでは知らない)。

 彼はなんと日本プロ野球の最初の4試合で11打数7安打、6本塁打というとんでもない活躍を見せ、その容姿もあわせて「赤鬼」と呼ばれた選手だ(今だったら問題になりそうなニックネームだ)。

 日本に来る外国人選手といえば、メジャーリーグで活躍できなかった選手、もしくはもう選手としてのピークを過ぎた選手というのが常識だった時代。ホーナーは30歳という脂の乗った時期に来日。日本がバブルで潤沢な金を出せたから、という時代背景もあった。まあホーナーがメジャー球団と契約できなかったから、という事情もあったのだが。

 鳴り物入りでやってきて、前評判以上の成績を残したホーナーはたちまち日本中の注目の的となった。プロ野球が国民的スポーツだった時代だ。スワローズの観客動員数は大幅に増加し、ホーナーはCMにも出演。国民的なスターとなった。

 が、スターになったのはホーナーにとっていいことばかりではなかった。一挙手一投足が注目され、グラウンドの中だけでなく、プライベートもマスコミに追いかけまわされ、また試合に欠場することなどが批判の種になった。

 なによりも、ホーナーがチームの練習に参加しないことが非難された。

 これを聞いて、多くの日本人はあきれ返った。日本人にとって、試合前の練習というのは、試合そのものと同じくらい大きな意味のあるものだった。あるいは、試合以上に重要であると考えるひともいるくらいなのだ。毎日試合前に、いい練習を厳しく行なうことは、ファンやマスコミや相手チームに対してやる気を表わし、野球に取り組む姿勢の整っていることを示すという意味合いもあった。そのうえ、日々の練習は、向上心を持つものにとって必要不可欠なものである、とも考えられている。より多く練習するものが、より多くのいい結果を得る――と、ほとんどすべての日本人が信じているのである。
 彼らは完全主義者であり、日常の鍛練と不屈の意志があれば何事も可能になる、という信念を持っている。ケガや苦痛を克服することも、自分よりも強い敵と戦って勝つことも、バッティングのタイトルをとることも、その他あらゆることについて、成せば成る、と考えているのだ。さらに、努力"を重視する傾向がきわめて強く、どれだけがんばったかということを、人間に対する最終的な評価と考えているひとも少なくない。結果は二の次、というわけである。
 そんななかで、試合前に汗を流さず結果だけを求めたホーナーのやり方は、すべての日本人の人生観とスポーツ観に対する冒濱的行為であるともいうことができた。

 プロなんだから、結果を出せば他の時間はどう過ごしたっていい。そういう考えは日本野球界では通用しない。「サボってるけど成果を上げる選手」が叩かれ、「一生懸命練習するけどヘタな選手」のほうは何も言われない。

 結局、ホーナーはたった一年でアメリカに帰ってしまった。ヤクルトは高年俸での複数年契約を提示したが、ホーナーはそれを蹴り、ヤクルトに提示されたよりもずっと安い年俸でセントルイス・カージナルスと契約した。『和をもって日本となす』によると、ホーナーはすっかり日本という国に対して嫌気がさして、一日も早くアメリカに帰りたかったらしい。

 単なるホームシックではない。同じルールのスポーツでありながら、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別の文化を持っており、ホーナーは〝野球〟になじむことができなかったのだ。これはホーナーにかぎらず、多くの外国人選手に共通する現象だった。日本で好成績を残し、球団から残留を打診されたにもかかわらず本国に帰ってしまった外国人選手は山ほどいる(シーズン途中で勝手に帰国した選手も何人かいる)。


 よく「プロなんだから結果がすべて」と言うが、じっさいはそんなことはない。結果を出していても、練習をまじめにすることや、監督やコーチやOB(部外者なのに!)の言うことを聞くことが求められる。

 ホーナーをめぐる一連の騒動は、日本野球がどういうものかをよく表している。



 著者は、アメリカのベースボールと日本の野球はまったく別物だと主張する。

 アメリカで行なわれているゲームと同様、日本版の試合も、ボールとバットを使って行なわれ、同じルール・ブックが用いられている。しかし、似ているのはそこまでで、たとえば、日本の練習方法などは、アメリカ人の眼で見ればほとんど宗教的な行為のようにも思われる。
 アメリカのプレイヤーは本格的なスプリング・トレーニングを3月からはじめる。つまり約半年間のシーズンに向けて、せいぜい5~6週間の準備期間をとるだけだ。さらに、毎日のトレーニングも3~4時間といったところで、それが終わると近くのゴルフ場へ行くか、プールへ行くか、家へ帰ってごろ寝をするような日々を過ごす。この程度でも、ヒート・ローズのように、トレーニングをやりすぎると指摘する連中が少なくない。
 ところが日本のチームは、1月中旬の厳しい寒さのなかで、長距離走や、ダッシュや、ウェイト・トレーニングや、さらにスタジアムの階段を上り下りするような、自主、トレーニングを開始する。そして本格的なキャンプがはじまると、早朝訓練、夜間訓練を含めて1日7時間近くも練習が行なわれる。そのうえ宿舎では、チームプレイの戦術についてのミーティングが開かれ、そのあとさらに屋内練習を行なうといった具合なのだ。
 この日本式の練習に2~3年参加したウォーレン・クロマティは、「まるで教会の集会に集まるような熱心さで、新兵の訓練をやるような厳しさだよ」といった。
 そしてシーズンに入っても、このようなハード・トレーニングが続けられるのだ。真夏になると、アメリカでは多くのプレイヤーが試合のための体力を温存するために、試合前の練習を減らすことが多い。が、日本では逆に練習量を増やす傾向が見受けられる。特訓こそ夏バテ対策として効果を発揮する、と思われている面があるのだ。

 さすがに今はこの頃よりはマシになったとおもうが(だよね?)、それでもやっぱり野球界では根性論が幅を利かせている。そもそも高校野球の全国大会を真夏の日中にやる国なのだ。

 ぼくは野球が好きだ。野球というスポーツはやるのも見るのも楽しい。でも野球部は嫌いだ。でかい声を出したり、坊主頭を強制されたり、先輩やコーチにへいこらしたり、気が乗らないときも練習させられたり、監督の機嫌で走らされたり、野球部にまつわる何もかもが嫌いだ。だから高校入学当時、ソフトボール部に入ろうかとおもった。裏庭で練習をしているソフトボール部員は〝スポーツ〟をやっていて楽しそうだったから。だがソフトボール部には女子しかいなかった。顧問(おばちゃん先生)に「男子は入れないんですか?」と訊きにいくと、「男なら甲子園を目指せ!」と言われた。これが差別でなくてなんなのだ。

「野球道」という言葉もあるように、多くの野球関係者は野球を単なるスポーツとはおもっていない。この点、大相撲にも似ている。大相撲は強さだけでなく〝品格〟を求められるが、野球も技術以上に〝元気溌剌〟〝礼儀正しさ〟〝ひたむきさ〟が求められる。ま、その反動でグラウンドの外ではしょっちゅう暴行やらいじめやら陰険なことをやっているわけだが。




 同じルールブックを使いながらまったくべつのスポーツであるベースボールと野球。そのため、ベースボールをプレイするものだとおもって日本にやってきた外国人と日本野球の間には軋轢が生まれることとなる。

 意味のない(あるいは逆効果の)練習やミーティングを強制される。チームの成績が悪いとスケープゴートにされる。打率が高くてもホームラン数が多くないと評価されない。ホームランが多くても三振が多いと評価されない。プライベートの用事で休むと非難されれる(仮に契約時にプライベートの休暇をとることを盛り込んでいても)。

「外野手出身のコーチが、メジャーリーグで実績のある内野手に対して守備をコーチしようとしてきた。不要だと断ると怒鳴られた」

「体調不良だったので休ませてほしいと言うと、疲れているのは練習が足りないからと言われた」

「コーチや監督のほうが本人よりも体調やベストな練習方法を理解しているとおもっている」

といった例が、『和をもって日本となす』にはこれでもかと書かれている。

 読んでいて、日本人として恥ずかしくなった。そうなんです、ごめんなさい。日本ってこういう国なんです。効率や実益よりも努力や対面のほうが重要視されるんです。「和を乱さない」ことが何よりも求められるし、「和を乱さない」ってのは要するに「えらい人の機嫌を損ねない」だったりするんです。ばかでしょ? ぼくもそうおもいます。でもそういうばかが偉そうにしている国なんです。野球界だけじゃなくて。


 メジャーリーグを観ていると、どんな選手も受け入れる懐の広さを感じる。もちろん胸中はいろいろあるのだろうが、少なくとも表向きは誰にでも門戸が開かれている。いろんな人種の選手がプレイしている。日本で実績のある選手でも、メジャー1年目で活躍すれば新人王が与えられる。さすが優勝チームを決める大会を勝手に「ワールドシリーズ」と呼んでしまうだけのことはある。アメリカでいちばん=世界一なのだ。傲慢であると同時に、余裕もある。

 日本プロ野球は、日本人と外国人選手の間に明確に線を引いている。

 ついこないだ、スワローズの村上宗隆選手がシーズン56号ホームランを打って大騒ぎになった。「王選手の記録を58年ぶりに破った!」と大きなニュースになっていた。よく知らない人が見たら、まるでこれまでの日本記録保持者は王選手だとおもうだろう。

 でもほんとはそうじゃない。日本記録保持者はバレンティン選手の60本。村上選手はシーズン本塁打数の日本記録を作っていないし、それどころかリーグ記録も、球団記録すら作っていない(バレンティンもスワローズだったので)。

 でも新聞やテレビでは、まるでバレンティンの記録はなかったような扱いになっている。小さく(日本人としては)最多本塁打記録! と書いている。

 ちなみに、王貞治は中国民国籍なので正式には日本人ではない(帰化もしていない)のだが、なぜか王貞治や、通算最多安打記録保持者の張本勲(韓国籍)は日本人扱いになっている。べつにそこを外国人扱いしろとは言わないが、だったらアメリカ人だって日本人と同等に扱えよとおもう。


 1978年から1987年まで日本でプレーしたレオン・リー選手も、外国人として「別枠」扱いを受けていた。

 彼は外国人選手としては異例の10年間も日本で活躍し、通算4000打数以上の選手の中では今でも歴代一位の通算打率.320という記録を持っている。もし彼が日本人だったら大スターになっていただろう。

 だが、まるで「外国人参考記録」であるかのように、彼の記録は実績は低く見積もられた。

 日本人も、リーに対しては十分に好感を抱いていた。が、彼らは、リー(とその弟であるレオン)の堂々とした態度と謙虚な心には好意を寄せていたものの、スターとして扱うことはなく、リーにとっては、その点が不満でもあり、悩みの種でもあった。彼は、日本のプロ野球史上最高の生涯打率を持つ者に付与されて当然と思われる権利と栄誉を、喉から手の出るほど求めていた。日本人のスター選手に新聞記者が殺到するのと同様、自分のところへも意見を求めにきてほしいと思っていたし、引退したときには、監督やコーチの依頼がくることを期待した。少なくとも、川上哲治や山本浩二と同じように、野球評論家として新聞のコラム欄を持ちたいと思った。しかし、日本人は、彼に何も与えようとはしなかったのである。
「まったく信じられないよ」といったときのリーの声には、痛々しいほどの悲しさがにじんでいた。「誰も10年間で3割2分の成績なんて残せないよ。なのに、あっさりポイと捨てられておしまいだ。ひとりの男をこんなふうに扱うなんて、誰にもできないはずだよ」

 日本語も堪能だったのに、〝ガイジン〟であるリーにはずっとお呼びがかからなかった(引退して16年もたった2003年にバファローズのコーチ→監督になっているが)。




 日本プロ野球は、〝ガイジン〟を求めていないのだ。できることなら、日本人だけでやりたいとおもっている。そして、その差別意識を隠そうともしない。

 1986年には、朝日新聞が「ガイジン選手は必要か?」というアンケート調査の結果を公表した。それによると、プロ野球ファンの56パーセントがイエスと回答した。が、選手でイエスと回答したのはわずか10パーセントであり、球団のオーナーは12人中たった4人しかなく、監督にいたってはゼロという数字が出た。しかも、ノーという回答の最大の理由としてあげられていたのは、金がかかりすぎるということでもなければ、若手選手が活躍の場を失うということでもなく、さらにトラブルを引き起こすからということでもなく、ただ単に「日本人だけのチームが理想的」という、まるでデルフォイの神殿の神託のように曖昧模糊としたものだったのである。

 三十年以上たった今ではさすがにここまでではないとおもうが、それでもバレンティン選手の本塁打記録が一斉に無視されているのを見ると、今でもこういう意識は根強いようだ。

 なにしろ、中心選手でも〝助っ人〟呼ばわりするのだから。まるで派遣社員のごとく。


 このあたりも相撲界と似ている。

 2017年に稀勢の里関が横綱昇進を決めたとき「貴乃花以来の日本出身横綱!」と騒がれた。なんて失礼な話だろう。その間、横綱として相撲界を支えた武蔵丸や朝青龍や白鵬や日馬富士や鶴竜が、まるで正統な横綱でないかのような扱いをされたのだ。

 ちなみに武蔵丸は横綱昇進したときは既に日本に帰化していた。れっきとした日本人横綱だったのに、それでも傍流扱いをされた。なんてひどい差別なのだろう。




 結局、日本人(国籍が日本なだけでなく、日本生まれ日本育ちで日本語を話す人)にとっては外国人はよく言えば「お客様」、悪く言えば「よそ者」なんだよね。グローバル化だのなんだの言っても。だからこの期に及んでまだ「移民受け入れは段階的に」なんて悠長なことを言っている。ぼくからすると、外国人だらけになるより老人だらけの国になるほうが百倍困るんだけどなあ。

 日本人のほとんど(もちろんぼくも含めて)がうっすらと持っている差別意識に気づかせてくれるいいノンフィクションだった。なにより、書かれているエピソードのひとつひとつがめっぽうおもしろいしね。


 なにがおもしろいって、かなりあけすけな筆致で描かれていること。外国人だからだろう、遠慮がない。もっといえば口が悪い。

 1967年、広島県の高校を卒業した村田は、パシフィック・リーグのロッテ・オリオンズという、日本でいちばん人気のないチームにドラフトで指名され、入団した。
 オリオンズの本拠地は大気汚染がひどい川崎という工業都市で、そこにある川崎球場はいつも観客が少なく、終戦直後に建てられたままのスタジアムは長い年月の風雨にさらされ、かなり老朽化していた。おまけにグラウンドもひどく、外野の芝は剥がれ、地面はでこぼこに波打ち、ロッテ・ナインは、まるで草野球をやってるみたいだ、と不満をこぼしていた。

 はっはっは。こんな文章は日本野球界の人間には書けないよなあ。


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