2019年12月13日金曜日

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』

日本人のための怒りかた講座

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「怒りは悪」と思われがち。しかし、怒りを否定することは人間らしさを否定することです。仮に怒りを抑えたとしてもストレスがたまるだけで問題は解決しません。必要なのはコミュニケーション。身の回りの不愉快な出来事を引き起こしている相手と向き合い、誤解されずに怒りをきちんと伝える技術です。「知られざる近現代マナー史」を参照しながら、具体的な「怒る技術」を伝授する一冊。

ぼくも「怒れない日本人」だった。
腹が立つことがあっても
「いちいち波風を立てるより自分が我慢すればいいや」
とおもうことが多い。

でも最近ちょっとは見ず知らずの他人に注意できるようになった。

ついこないだも、マンションのエレベーター内で犬を歩かせている人に(うちのマンションをペット禁止ではないが共用スペースを歩かせるのは禁止)「犬は歩かせないでくださいね」と言った。
電車の列に割り込もうとしてくるおばさんに「後ろに並んでくださいね」と注意したこともある。

ぼくが他人に注意できるようになったのは子育てをしているせいかもしれない。
子どもと接しているとどうしても叱ることが増える。
子どもは一般常識を持っていないから「言わなくてもいつかわかってくれるだろ」が通用しない。言わなきゃわからない(ほんとは大人もそうなんだけど)。
それに「この子をそこそこの常識を持った大人に育てる」という社会に対する使命感があるから、「自分が我慢すればいいや」というわけにもいかない。

で、子ども相手に叱っているとよその子も叱れるようになる。よその子を叱れるようになるとよその大人も叱れるようになる(怖い人のぞく)。

そのうちに有効な注意の仕方もわかってきた。
怒りをぶつけても反発されるだけ、あいまいな叱り方をしても響かない、皮肉も通じない、具体的に「〇〇して」と要求を伝えるのがいちばん有効。

これは三歳児相手でもおっさんでもおばさんでも年寄りでもだいたい同じだ。
「こら!」とか「周りの迷惑を考えろ!」なんて叱っても相手を怒らせるだけで意味がない。迷惑行為をする人はそれがたいした迷惑じゃないとおもっているからやっているわけで。
自分の常識を押しつけようとしたってうまくいくわけがない。
「あなたがやっている〇〇は私にとって不愉快だから今この場ではやめてください」
これぐらいが適切だし、限界だとおもう。いついかなるときも正しい行いを他人に求める権利までは市民は持っていない。
「タバコのポイ捨てはやめてくれ」と言われて心を入れ替えてすっぱりやめるような人間はそもそもはじめからポイ捨てしないでしょう。



マッツァリーノ氏の主張はこうだ。
迷惑をかけている他人に注意すべき。
我慢したって自分のストレスが溜まるだけ。
注意したって改めてもらえるとはかぎらないが言わないよりは言ったほうが可能性があるだけマシ。
ただし深追いはいけない。聞き入れられなくてもあきらめる。喧嘩をしたり相手を貶めるのが目的ではなく、行動を改めてほしいだけなのだから。
できる範囲でかまわない。怖い相手には言わなくたっていい。
首尾一貫してなくていい。自分が注意したいときだけでいい。

しごくもっともだ。
(ちなみに後半の体罰やペットの話はおもしろいけどテーマがずれるし氏のブログの再掲なので、この本にまとめるのはいかがなものか)

タイトルには「怒りかた講座」とあるが、これは適切ではない(あえて不適切な言葉を使っているのだろう)。
氏が主張し、実践するのは「怒る」ではなく「交渉する」だ。
「それをやめてくれないか」と、相手への敬意をある程度示した上で頼む。
正義のためではない。あくまで自分が快適に生きるために。
 なにしろ、大正一三年の読売新聞の投書欄に、「近頃は私のような年寄りが電車に乗っても若い人たちが席を譲ってくれない。本を読むふりなんかして腹が立つ」と七○歳のおばあさんが投書してるんですよ。社会道徳は戦後やバブル崩壊後に廃れたわけじゃないんです。戦前、明治大正の時代から、状況はまったく変わってません。
 そして、そういったぶしつけなこどもやオトナの行動を見て憤慨するも、その場で面と向かって相手にいえない人がほとんどなのも、いまと同じ。その場でいえず、あとで新聞に投書してうっぷんを晴らす気弱な正義漢がたくさんいたのも、いまと変わりません。いまならさしずめ、その場でいえなかった怒りを、あとでブログやツイッターに書きこむのでしょう。メディアが変わっただけで、やってることは一緒です。
 つまり、勝手なことをする人間と、それを不愉快に思いながらも叱れない人がいて、結局は勝手な人間がのさばり続けるという世間の構図は、戦前もいまも、ずーっと変わっていないのです。
 戦前の保守教育も戦後のリベラル教育も、公徳心や社会道徳を育むという目標いては、どちらも失敗しています。これが、庶民史の真実です。
時代が変わっても人間の性質は変わらない。
昔も今も迷惑な人間はいて、それに眉をひそめる人間もいて、けれどその大半は見て見ぬふり。

マッツァリーノ氏は言う。「昔は悪いことをしたら叱ってくれるがんこ親父がいたもんだ」と語る人間は多いが「私は悪いやつを叱る」という人間は少ない、と。
みんな「誰かが嫌な役目を引き受けてくれないかな」と虫のいい期待を抱いているだけで、自分がなんとかしようとはおもわない。これでは社会は変わらない。

とはいえ社会は少しずつ変わっている。
全体としては、迷惑行為は減ってきているとはおもう。ゆるやかにではあるけど。

昔よりは分煙もされているし、セクハラ、パワハラ、アルハラなんて言葉もできて弱い立場の権利が守られるようになってきた。
少しずつだけど「誰もが暮らしやすい社会」に向けて前進してきている。

それは、わずかではあるけど声を上げた人がいるからだろう。
煙たがられても声を上げた人が。
たぶん最初に「セクハラはやめて!」と言いだした人は「なんだよブスのくせに。お高くとまってんじゃねえよ」的な反応を浴びたことだろう。
それでも、そういう人がいたから多くの人が後に続きやすくなったのだ。
迷惑なことは我慢をせずに声を上げたほうがいい。無理のない範囲で。
 なかなか怒らない人は、精神力が強いのでしょうか。人格者なのでしょうか。そうとはかぎりません。ただ単に鈍感なだけ、いわゆる空気の読めない人である可能性も高いのです。自分のことに怒らない人は、他人への共感能力も低いのです。人格者どころか、他人の痛みや苦しみを想像できない鈍い人なのかもしれません。
 そういうタイプの人は、自分も平気なんだから、他人もこれくらい平気だろう、こんなことで苦しんだり困ったりするわけがない、と勝手に決めつけて、ガマンや泣き寝入りを迫る薄情な人間です。
 一方で、ささいなことで怒るのだけど、じつは、他人に対しても人一倍気配りをしてる人もいます。他人の無神経さに敏感に反応して腹を立てるからこそ、自分も他人に不快な思いをさせぬよう配慮するのでしょう。
 ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです。

マッツァリーノ氏も書いているが、「こんな小さなこと」で怒れない人は、大きなことだともっと怒れない。

政治家の不正に声を上げたときに「そんな些細なことを問題視するよりもっと大事なことがあるだろ」と言う人がいるが、その手の人が「もっと大事なこと」をきちんと批判しているのを見たことがない。

現代人の脳がネアンデルタール人よりも小さいのは「自己家畜化」したからだという説があるが、「こんなささいなことで怒るなんて」と抑えている人は自己家畜化している真っ最中なのだろう。

感情を制御できない大人はみっともないけど、怒りの感情を完全に抑えることは社会を悪くする。
学校でも職場でも怒りを抑えることばかり求められるけど、抑えるんじゃなく適正な言葉で表出する方法を教えないといけないね。

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【読書感想文】タイトル大事なんとちゃうんかい / 須藤 靖貴『小説の書きかた』

小説の書きかた

須藤 靖貴

内容(e-honより)
読めば読むほど小説が書きたくなる、文章がうまくなる。そして、ひとの気持ちがわかるようになる。海風が吹き抜ける県立高校文芸部を舞台にしたアタマとココロの新・実用小説!

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

物語を通して小説の書きかたを伝える、という『もしドラ』の柳の下のドジョウを狙ったような本。

ハウツー本は好きじゃないんだよなあ。
とおもいながらもせっかくもらったので読んでみた。
うーん、やっぱり……。

「小説の書き方を小説を通して伝える」という意図は買うけど、肝心の物語がおもしろくない。
男子高校生一人と女子高校生三人が共同して一篇の小説を書くという話なのだが、まったくといっていいほど事件が起こらない(起こるハプニングが「書きあげたものの出来がイマイチだった」レベル)。
女子三人も個性がなさすぎて、とうとう最後まで見分けられなかった。
あえてつまんない小説を読ませることで失敗例を提示してくれたのかも。

ふつうにハウツー本として書いたほうがまだマシだったんじゃないだろうか。
書いていること自体はこれから小説を書く人にとってはためになるのかもしれないけど、肝心のこの本がおもしろくないんじゃあなあ。
タイトルとかさ。
「タイトルは作品の顔だからめちゃくちゃ重要」みたいなことを本文中で書いといて、で、この本のタイトルが『小説の書きかた』かよ。なんじゃそりゃ。ひねりゼロ!



まあおっさんが読む本じゃないなあ。
高校生ぐらいのときに読んでたら、「自分も今すぐ書かねば!」と奮いたっていたかもしれない。

ずっと本が好きだったし、そういう人ならたいてい経験があるとおもうけど、ぼくも学生のときは「自分でも書けるはず!」とおもって物語が書いてみた。
しかしながらというか、当然ながらというか、すぐに挫折。書くことのむずかしさを思い知った。おもしろくないとか以前に、書けないんだよね。書けば書くほど自分の文章のダメさが目について。

今は「作家になってやる!」「文壇に名を轟かせてやる!」みたいな野望もなくなったのでこうしてブログにだらだらと文章を書いているが、長く書いていると書くペースやリズムをつかめてきて、少なくとも書いている自分自身は楽しめるようになった。読む人が楽しんでいるかどうかは知らないが。

だから、物語を書きたい人は、こういう本を読むのも無意味ではないのだろうけど、その一万倍ぐらい「書き続けてみる」が大事だとおもう。書かないと書けないのだから。


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2019年12月11日水曜日

【読書感想文】昭和の少年が思いえがいた未来 / 初見 健一『昭和ちびっこ未来画報 』

昭和ちびっこ未来画報 

初見 健一

内容(e-honより)
本書には1950~70年代の間に、さまざまな子供向けのメディアに掲載された“未来予想図”が収録されています。小松崎茂、石原豪人をはじめとする空想科学イラストの巨匠たちが描いた未来画を暮らし、交通、ロボット、コンピューター、宇宙、終末の六項目に分けて紹介。

未来予想が好きだ。
このブログでも、真鍋 博『超発明 創造力への挑戦』、ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』、エド・レジス 『不死テクノロジー 科学がSFを超える日』といった硬軟さまざまな未来予想本を紹介してきた(ページ下の【関連記事】参照)。

未来の世の中(21世紀後半~22世紀ぐらい)はこうなる、という予想もおもしろい。
わくわくして長生きしたくなる(20世紀生まれのぼくが22世紀まで生きるのはまず不可能だろうが。少なくとも肉体は滅びるはず)。

それもおもしろいが、過去の未来予想もおもしろい。
50年前、100年前の人たちが予想した未来を、21世紀を生きるぼくが答え合わせをすることになる。
これがたまらなくおもしろい。
優越感をくすぐられる。なにしろこっちは未来人だ。20世紀人の「未来」については圧倒的にこっちのほうが知識がある。
「ははーん。こんなことを予想してたのかー。しょせんは20世紀人、ばかだねー」
とか
「おっ、まあまあいいセンいってんじゃん。とはいえここまでの予想しかできないのが20世紀人の限界だよなー」
とか上から目線で語れる。
べつにぼくの力で科学が進歩したわけではないのだが(むしろ過去の人のおかげなのだが)、しかし「新しい知識を持っている」というのはそれだけで優位に立てる条件なのだ。未来人でよかったー(20世紀生まれだけど)。



『昭和ちびっこ未来画報』は過去の未来予想を集めた本だ。

1950~1980年ぐらいの少年誌に掲載されていた「未来はこうなる!」というイラストがたっぷり載っている。全ページカラー。
すごくおもしろい。
イラスト(小松崎茂氏のものが圧倒的に多い。未来予想イラスト界の大家だ)もいいし、著者のツッコミも笑える。

雑誌だけでなく大阪万博の「未来生活」の写真なんかもあって、昭和の少年(あるいは大人も)がどんな未来を思いえがいていたかがよくわかる。もちろん全面的に信じていたわけではないだろうけど。


都市の未来予想はけっこうあたっている。

立体交差道路、動く歩道、モノレール、屋上ヘリポート、室内野球場、街頭テレビ。
どれも2019年現在あたりまえのように存在しているものばかりだ(モノレールはあまり一般的にならなかったけど)。

とはいえ「そりゃないだろ」というアイデアもあふれている。


高速道路で事故が起こらないように、巨大ロボットが違反車を(物理的に)つまみあげるという仕組み。
こえー。
こんなにすごいロボットが動いているのに「速度おとせ」という看板で注意を呼びかけているのが笑える。看板は進歩しないのかよ。

っていうかこんなロボットを動かす技術があるならとっくに自動運転車が実用化されてるだろ……。そもそも自動車が必要なくなってるんじゃないか。

あと「空港が空を飛ぶ」とか、脱線した機関車を持ち上げる飛行艇とか、いろいろツッコミどころの多いアイデアもおもしろい。
そんなすごい飛行艇が飛んでるのにまだ機関車使ってるのかよ。

すごいスピードで郵便物を運ぶ「ゆうびんロケット」は、ああ昔の人のアイデアだなあという気がする。
そうだよね。「いかに速く手紙を届けるか」という発想になっちゃうよね。「電子メールが一般化して紙の手紙を出す必要はほとんどなくなる」というパラダイムシフトにたどりつくのはむずかしい。

 今だっていろんな学者が「どうやって健康を維持するか」とか「安全でエコな自動運転車を作るにはどうしたらいいか」とか頭を悩ませているけど、将来的には肉体が不要になっている可能性もあるもんなあ。そうなったらとうぜん自動車なんて不要になるわけで。



コンピュータ、通信などの分野に関しては現在の状況は昔の想像をはるかに超えているかもしれない。
誰もが手のひらサイズの高性能コンピュータを持ち歩いている時代なんてほとんど誰も予想しなかっただろうなあ。

しかし、宇宙開発、海底開発、気象操作などは残念ながら「未来予想」にとうてい及ばない。
宇宙や海底は、今のところ「そこまでする必要がない」から開発してないだけで、「もうすぐ陸上に人類が住めなくなる」などのせっぱつまった状況になればちょっとはマシになるんだろうけど。
天気を操るとか台風を鎮めるなんてアイデアが紹介されてるけど、制御するどころか2019年になっても予想すらまともにできてない状態だもんな。
地球は手ごわいな。

ロボットに関しては、昔の少年が思いえがいていたヒト型ロボットが活躍する時代は当分こないんじゃないかな。ヒト型であるメリットがあんまりないもんな。



登山サポートロボットやおかあさんロボットの想像画が描かれているが「キモいし無駄」という感想以外は出てこない。
特におかあさんロボットの不気味さといったら……。ぜったいこの触手で絞め殺されるだろ。



終末予想も数多く紹介されている。

核戦争、温暖化、隕石の衝突、大洪水などで地球が滅ぶという暗黒未来予想だ(寒冷化がしきりに唱えられているのが20世紀らしい)。

放射能により動物や植物が巨大化・凶暴化、なんてのも昭和のSFって感じだなあ。ゴジラとかウルトラマンとかでも「放射能により凶暴化」ってのはけっこう扱われてるもんなあ。

今だったらアウトだよね。原発事故地域の風評被害がーってなってしまう。
けどそれはそれで臭い物に蓋って感じでイヤな感じなんだよなあ。
「風評被害はやめろー」って言う人の大半が被害者を慮ってるわけじゃなくただ単に遠ざけてるだけに見える。



著者も書いているけど、少年誌の定番だった未来予想は最近ではすっかり鳴りを潜めてしまった。
ぼくが子どもの頃読んでいた雑誌でも見た記憶がない。

ノストラダムスだ終末論だのオカルトが流行るのは歓迎しないけど、長生きしたいとおもわせてくれるような未来予想がもっとあってもいいのになあ。
未来に期待が持てない時代になってしまった。さびしいな。まあ人口も経済も衰退していく一方の今の日本じゃあなあ。


【関連記事】

【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

【読書感想文】 エド・レジス 『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』



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2019年12月9日月曜日

【読書感想文】靴下のにおいを嗅いでしまうように / たかたけし『契れないひと』

契れないひと(1)

たかたけし

内容(yanmaga.jpより)
わたしのしごとは、わたしになにをさせるのでしょう‥‥。子供向け英会話教室の体験を勧誘する訪問販売員ノグチマイコ♪ 今日も顔も知らないお客様のお宅の玄関の前に立ち、一生懸命お仕事をしています。されど毎回、契約が獲れなくて、上司に怒鳴られ、泣いています。苦笑と悲哀に満ちた幸薄ガールの営業GAG日誌♪『契れないひと』、そこはかとなく連載スタートです♪

たかたけしさんのデビュー作。
……だけどぼくはもう十年来のたかさんのファンだ。

とある趣味を通して(ネット上で)たかさんと知り合い、たかさんのブログ に魅了された。
ぼくは文章を読んでおもしろいとおもうことはあっても笑うことはないのだが、たかさんの文章だけは別だ。文章だけでこんなに笑わせられる人がいるのかと大いに感心し、こんなすごい文章をタダで読むことができるなんてブログっていいなあとおもいつつも、この人が世に出ないのはおかしい、『SPA!』あたりですぐに連載させるべきだろうと勝手に憤っていた。

そんなたかさんがついにデビュー。それもヤングマガジンで……ヤングマガジン?
そう、文章ではなく漫画でのデビューだというのだ。お、おめでとう……。

もちろんそれはそれでたいへん喜ばしいことなんだけど、いつかエッセイ集も出してくれることをぼくは今も願いつづけている。
東海林さだお氏のような『漫画以上にエッセイに定評のある漫画家』になってくれたらいいなあ。



前置きが長くなったけど、『契れないひと』について。

なんというか、見ちゃいられない。なのに見ちゃう。
やはりヤンマガで連載されていた 蓮古田二郎『しあわせ団地』という漫画を思いだした。


『しあわせ団地』の主人公・はじめは、仕事をしようとせず、家事もせず、妻に対しては暴言をぶつけるというどうしようもないクズ人間だ。
一応ギャグではあるのだが、はじめのせいで妻がひどい目に遭うことが多く、読んでいていたたまれない気持ちになる。ギャグなのに痛々しいだけでぜんぜん笑えない。
……なのになぜか気になる。ついつい読みたくなる。
イヤな気持ちになるのがわかっているのだから読まなきゃいいのに、読んでしまう。そして胸糞悪さを感じる……。


『契れないひと』も似た印象の漫画だ。
主人公・野口は英会話教室の飛び込み営業。子どものいる家庭をまわり、体験レッスンに勧誘する。結果が出なければ猛烈なパワハラを受けるブラック職場。レッスンもおそらく質の悪いものだと野口自身もうすうす気づいている。
気の弱い野口は契約をとれない。上司に罵声を浴びる。言われるがままに法律ギリギリ(ギリギリアウト)なやりかたで営業をかける……。

上司や会社はもちろん、野口にも共感できない。
自分のやっていることが顧客を幸せにしないことだとうすうすわかっている。
だけど言われるから、怒られるのがイヤだから、英会話教室を勧める。
会社内では立場の弱い野口も、客からしたら立派な加害者だ。
うじうじして身の不幸を嘆いているように見えるけど、あんたも悪人なんだよと言いたくなる。

……でもそれは高みの見物だから言えることであって、ぼくも同じ立場に置かれたらやっぱり野口と同じような行動をとってしまうかもしれない。少なくとも「この会社のやり方は間違っています!」と抗議することなんてできない。せいぜいがさっさと逃げだすぐらい。

だいたいの人は同じようなもんだろう。
数々の腐敗した軍隊や企業や政府の暴走も、ほとんどが「一握りの頭のおかしいトップ」+「その他大勢のうすうすヤバいと感じながら流れに身を任せた部下」によってなされてきた。

不善に立ち向かうのはエネルギーがいる。思考停止するほうがずっと楽だ。
考えることを止めて上司の言われるがままに行動する野口の姿は、まさに自分含めた「弱い人間」の姿だ。

己の弱さを見せつけられるから不愉快だ。でもここに描かれているのはまちがいなく自分の姿。だから読んでしまう。自分の靴下のにおいをついつい嗅いでしまうように。

『契れない人』はそんな漫画だ。



職業に貴賤はないというが、そんなのは嘘だ。
貴いだけの職業はないかもしれないが、賤しいだけの職業はある。振り込め詐欺やってる連中とか。

まあだいたいは「かなり貴い」から「かなり賤しい」のどこかに位置しているわけだが、やっぱり達成感とか社会貢献度とかを感じにくい仕事はある。

ぼくも広告の仕事をしているが、その中でもやってて意義を感じる仕事とそうでない仕事がある。
風俗やギャンブル関係の依頼は断るようにしているが、うさんくさい育毛剤とか不動産投資セミナーとかの広告をつくっているときは
「うーん……あんまり胸を張って勧められるものじゃないけど……」
とおもいながらも金になるからしょうがないと自分を半ば騙しながらやっている(またうさんくさい商売ほど金銭的条件がいいんだよね)。
残念ながら清廉潔白だけで食っていけるほどの技能を持っていないので。


ぼくもそれなりに悪い大人になったので「明らかな違法じゃなければ目をつぶろう」ぐらいにおもえるんだけど、そんなふうに感じられない人もいる。
「悪いことはやめましょう!」って人。
ほんとうならそっちのほうが正しいんだけど、悲しいかな今の世の中は正しい人が住みやすいようにはできていない。
「だったらおまえこの仕事やめろよ」となってしまう。

ついこないだ『ルポひきこもり未満』という本を読んだけど、そこに出てくる「社会でうまくやっていけない」人たちは、まさにそんな感じだった。
ふつうの人が「まあそんな真剣に考えなくていいじゃない」「ちょっとぐらいの悪いことだったらみんなやってるんだからさ」と思えることを、許せない人。

おかしいのはその人たちなんだろうか。それともこの狂った社会に順応できているぼくだちなんだろうか。



『契れない人』の世界の住人はみんな狂っているんだけど(人だけじゃなく犬も)、回を重ねるごとにどんどん狂気が増している。
この先どうなるのか。たぶん不快な展開が待っているんだろう。わかっている。わかっているけど、でも読んでしまうんだろうなあ……。


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【読書感想文】失業率低下の犠牲者 / 池上 正樹『ルポ ひきこもり未満』

ルポ ひきこもり未満

レールから外れた人たち

池上 正樹

内容(e-honより)
派遣業務の雇い止め、両親の多重債務、高学歴が仇となった就職活動、親の支配欲…。年齢も立場も、きっかけも様々な彼らに共通するのは、社会から隔絶されて行き場を失ってしまった現状である。たまたま不幸だったから?性格がそうさせているから?否。決して他人事ではない「社会的孤立者」たちの状況を、寄り添いながら詳細にリポート。現代社会の宿痾を暴き出し、解決の道筋を探る。制度と人間関係のはざまで苦しむ彼らの切実な声に、私たちはどう向き合うことができるのか…。

ひきこもり、あるいはそれに近い状態の人たちの事例が紹介されている。
この本で紹介されている人たちのケースは様々だ。うまく問題を克服して社会に出られた人、今ももがき苦しんでいる人、そしてひきこもりの末に自殺した人……。

以前、久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』という本の感想でこんなことを書いた。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

「ひきこもり」の問題も同じだ。
外に出られないことには原因がある。「出てきなさい」というだけで解決するような問題ではない。ただ仕事を与えて外に出すだけではだめだ。

ぼく自身、いっとき半ひきこもり状態だった。
気心の知れた友人とであれば出かけるが、それ以外の人とは会いたくない。一週間のうち五日か六日は終日実家にいるなんてこともあった。

あれはつらいものだ。「出たくない」とおもっているわけではない。
常に「出たくない」と「でも出なきゃだめだ」が闘っている状態だ。外に出なきゃいけないことは自分がいちばんわかっている。けど動けない。
そんな状態の人に「まず一歩外に出てみよう」と言ったって無駄だ。羽が折れた鳥に対して「さあ外に出ておいでよ。襲いかかってくる犬も猫もいるけど怖がらなくていいよ」と言うようなものだ。まずは身を守る方法を身につけさせなくては。

ぼくの場合は一年ぐらい半ひきこもりを続けた後、「バイトぐらいはしなくちゃな」ということでバイトをするようになり、そのまま正社員登用されてひきこもりを脱することができた。
でもこれはたまたま運が良かっただけだとおもっている。
実家に経済的余裕があったから一年の休息をとることができたけど、その余裕がなく無理して外に出ていたら心を壊していたかもしれない。
一念発起して受けたバイトの面接に落ちていたら意欲をなくしていたかもしれない。
正社員登用されていなかったらそのまま中年フリーターになっていたかもしれない。

いろんな「ラッキー」が重なっただけで今はそこそこ落ち着いた暮らしをできているけど、ほんの少し歯車がずれていたらぼくも『ルポ ひきこもり未満』に載る側だったかもしれない。



ひきこもりに対しては行政も対策を立てている。
が、あまり機能していない。

ひとつには、年齢制限を課していることがある。
これまでの公的支援が上手くいかなかった理由は、このように支援対象者を年齢や状態などで線引きしてきたことにある。勇気を出して、藁にもすがるような思いでたどり着いた最初の相談窓口の担当者から「あなたは支援の対象ではない」「あなたはここではない」などと冷たく突き放され、あるいは一方的な関係性の支援によって、社会に出ることを諦めてしまう――そんな経験をしてきた当事者たちは少なくない。
 こうした支援のあり方は、話題になっている「8050問題」のひきこもり長期高齢化や、地域で家族ごと潜在化していく大きな要因にもなっていて、当事者たちから「排除の暴力」と批判されてきた。
 柴田さんとやりとりしていた当時、ひきこもり支援の国の施策は、内閣府の「子ども・若者育成支援推進法」が法的根拠とされてきた。そのため、現場の自治体でも、「ひきこもり支援」のゴールは「就労」とされ、「三九歳以下の若者就労支援」に重きが置かれた。その支援の対象から弾かれた本人や家族は、せっかく相談にたどり着いても、せいぜい精神医療へと誘導されるのが実態だった。
せっかく支援制度があっても「二十代・三十代のひきこもりの人が対象」などと制限を設けてしまう。

まあ救いやすいほうから救うという考えもわからんでもないが、しかしより深刻なのは中高年のひきこもりのほうだ。
若ければ本人の意志次第でなんとかなることも多いが(その意志を奮いおこすのがたいへんなんだけど)、中高年の場合は本人の意志だけではどうにもならないことも多い。
正社員はもちろんアルバイトや派遣の職すらなかなか見つからない。周囲の目は厳しくなるどころか認知すらされなくなる。

ほんとはここにこそ行政が手を伸ばすべきなんだろうけど、成果が上がりづらいからか、放置されてしまう。
本人だけでなく、社会にとっても大きな損失なのだが。


『ルポ ひきこもり未満』に出てくる人の経歴を見ると、「たまたま運が悪かっただけ」の人も多いようにおもう。
たまたま最初に入った会社がブラック企業だった、たまたま直属の上司がパワハラ体質だった、たまたま会社の経営が傾いた。
本人の意思でどうにもならない事情が大きい。
もちろんどんな逆境でも乗りこえられるスキルや精神力を持った人もいるが、そんなのは少数派だ。
些細なきっかけでひきこもり生活に転落してしまう。そして一度道を外れると復帰するのはすごくむずかしい。

役所で非正規雇用をされている人の話。
 さらに、濱口さんが何よりも苦痛だったのは、仕事がないのに採用され続けていたことだという。何もすることがないのに職場にいることは、とても耐えがたかった。
 何をしていればいいのかわからないまま、時間が過ぎるのを待つ。指示も何もない。指示があっても、「何もしなくていいよ」と言われる。濱口さんは、生きている価値を否定されているような感覚に襲われた。
 そんなひどい状況であっても、「政治的な約束」を実行するために、その後も非正規は、採用され続けた。
 そもそも濱口さんは、失業対策のために雇われているから仕事がない。仕事を与えられないけど、自分も何かしなければと思っていた。雇わなければいけないことになっているから、給料も支払われる。
 同僚の中には、「仕事しないなら、私、行かない」と言って辞めてしまった人たちもいた。とにかく仕事がなかった。
 一方で、残業するほど忙しくしている部署もあった。しかし、職場側は、同一賃金を払わなければならなくなるため、非正規には仕事をさせようとしない。「働き方改革」が言葉の響きだけで骨抜きになるのではないかと懸念されるのは、まさにこの点である。当初、もらっていた仕事も、途中から来なくなることもあった。
 失業率の数字を下げるといっても、構造的な面での「からくり」に過ぎない。仕事がないために、スキルを付けないまま歳を取っていく。すると、求人欄で足を切られて応募ができなくなるという、負のループにハマっていく。
非正規雇用を増やし、一人でやっていた仕事を二人で分ければ数字上の失業率は低下する。
だけど出せる金は限られているから一人あたりの給料は減る。
「ギリギリ生活できる人」を増やしたにすぎない。

公務員はどんどん非正規化されていっている。
政府が「失業率が下がった!」と喧伝するためだけに弱い立場の人が犠牲になっているのだ。

一億総活躍時代の実態は「みんなで貧しくなろう」だ。


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