2019年9月6日金曜日

【読書感想文】伝統には価値がない / パオロ・マッツァリーノ『歴史の「普通」ってなんですか?』

歴史の「普通」ってなんですか?

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
みそ汁の味付けが地域ごとにまちまちであるように、料理の伝統的な味付けには地域ごとの個性があります。伝統とは、ローカルで多様性のある文化なのです。つまり、国全体、国家で統一された伝統なるものは、歴史的には存在しないのです。日本人全員が共有する「日本の伝統」と称するものは地域ごとの多様性を無視してるわけで、その存在は歴史的にも文化的にも疑わしい。日本の伝統なるものは、だれかによって捏造されたフェイクな伝統ではないのか。権威主義にゴリ押しされて鵜呑みにすることなく、謙虚に再検討する作業が必要です。
日本通のイタリア人(自称)である著者が、豊富な資料をもとに日本の「伝統」の嘘くささを暴いた本。

昔の日本人は礼儀正しかった、昔は地域みんなで子育てをした、昔は女性は結婚したら専業主婦になるのがあたりまえだった……。

いずれも何度となく聞いたことのある話だ。

まあそのへんのおじいちゃんが勝手に過去を美化して「昔は良かった」とほざいてるぶんには「おじいちゃん、もうなにねぼけたこと言ってんのよ」で済むけど(済まないか)、政治家のおじいちゃんまでもがこの手の思い込みを信じて、それをもとに政策をつくったりするわけだからまったく始末に困る。
 それにしても、です。戦前戦後を通じ、なぜ日本ではこれほどまでに保育園と共働きが忌み嫌われてきたのでしょう。一般人も政治家も、寄ってたかって保育園と共働き夫婦を社会の敵として排斥しようとしていた様子は不気味ですらあります。
 その原因はひとつには、伝統の誤解にあります。専業主婦は、大正時代に誕生した高収入の中・上流サラリーマン家庭でのみ可能だった、女性の新しい生きかたです。それは男性にとっても、オレの稼ぎだけで家族を養ってやってるのだ、という自尊心を満足させるものでした。
 が、それはあくまで、あこがれでした。低賃金で働く下流サラリーマンや工場労働者の家庭では夫婦共働きが基本です。ついでにいえば、農家もむかしから共働きです。つまり専業主婦こそが新たな時代の豊かさと贅沢の象徴であり、ステータスだったのです。その図式は戦後になっても変わらなかったのに、どうしたわけか戦後の経済発展のなかで、カン違いした日本人が、専業主婦を日本の標準的・伝統的家族像へとまつりあげてしまいました。そして貧乏人にはあたりまえだった共働きが、伝統を破壊する欲望と贅沢の象徴とみなされる逆転現象が起きたのです。
 まあ政治家なんて大半がお金持ちの家の出だから彼らにとっては「おかあさんが外で仕事をしていないのがふつう」なんだろうけどさ。

けれどいつの時代も、両親ともに働いているほうがふつうだった(もっといえば子どもも働いているほうが「伝統的」な姿だ)。


そういえばぼくも結婚したとき、当時の会社の社長に「結婚しても共働きを続けます」と言ったら、団塊の世代である社長はこう言った。
「やっぱり男たるもの、嫁子どもを食わしてこそ一人前やで」
と。
「じゃあ食わせられるよう給料あげろよ」とはさすがに言わなかったが(言えばよかった)、あの世代だとこういう価値観はけっして珍しくない。

妻は仕事がしたいから働いているわけだし、共働きのほうが当然収入は増えるしリスクも小さくなるんだけど、こういうことをおじいちゃんに言ってもなかなか理解してもらえない。
己の中にある「ふつう」は頑強なので、なかなか壊せないのだ。


ちなみに、日本の税制は専業主婦世帯が共働き世帯に比べて圧倒的に有利になるように設計されている。
幻想である「ふつうの家庭」を基準に制度設計しているからこういうことになるのだ。

いいかげん夢から目を覚ましてほしい。もしくはさっさと現世から卒業してほしい(「死ね」の婉曲な言い方)。



「昔は良かった」の「昔」はたいてい美化された思い出なのだが、もっとひどい場合もある。
 そもそも時代小説が盛んに書かれるようになったのは大正時代のことでした。時代考証を無視した荒唐無稽な娯楽時代小説が受け入れられるようになったことが、ブームの一因です。
 大正時代ともなると、中高年層までが明治生まれ。作家も読者も大半は、本物の江戸時代を知らない世代になってました。なので作家が歴史的にはありえない話をおもしろおかしく書いたとしても、読者にもそれを批判できるだけの知識がありません。考証の縛りがなくなることで、時代小説のエンターテインメント性は高まりました。しかしそれは同時に、エセ江戸文化イメージを庶民に広めることにも一役買ってしまいました。
 その影響はいまだに尾を引いてます。二〇一六年の新聞投書にこんなのがありました。時代劇に登場する武士や町人の礼儀正しさや慎み深さを見ると、将来の日本は大丈夫かと危惧してしまう──。このかたは、時代劇をノンフィクションだとカン違いされてるようです。
 江戸時代の人がみんな礼儀正しかったなんてわけがないでしょ。無礼で非道で乱暴なヤツは普通にたくさんいました。火事とケンカは江戸の華、なんてのを聞いたことはないですか。放火や暴力沙汰が日常茶飯事だったんですよ。猛スピードで走る荷車がこどもをひき殺してそのままひき逃げするなんて事件がたびたび起きていて、幕府は交通安全を呼びかける御触書をしょっちゅう出してました。

以前、時代小説はラノベだと書いた。
都合のいいことや安っぽい願望でも、時代小説というベールに包めば一応それらしく見えるからだ、と。

【読書感想文】時代劇=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

だから時代小説ファンタジーとして楽しめばいいんだけど、困ったことに過去を舞台にしたフィクションをもとに「昔は良かった」と語ってしまう人がいるのだ。

『男はつらいよ』や『裸の大将』や『ALWAYS 三丁目の夕日』を引きあいに出して「昔の下町には人のぬくもりが……」みたいなことが語る人もいる。

そのうち
「『シン・ゴジラ』の頃の日本人は危機的状況にも力をあわせて立ち向かったのに今の日本人は根性がない……」
みたいなことを言いだす人も現れるかもしれない。



伝統は基本的に価値がない、役に立たない。
価値があれば、わざわざ「伝統」なんて冠をつけてありがたがる必要がない。そんなことしなくてもみんな使うから。

「学校教育には伝統がある」とか「伝統ある小説という娯楽」なんて誰も言わないでしょ。
なぜならそれはまだまだ現役だから。

着物や歌舞伎のように、価値が下がって見向きもされなくなりつつあるものだけが、廃れゆくものの最後の悪あがきで「伝統」を名乗るのだ。
だから伝統をありがたがる必要なんか少しもない。
 つまり、日本人が「伝統」を意識するようになってから、まだ一〇〇年ちょっとしか経ってません。
 それ以前、江戸時代の人たちが、伝統みたいなものを意識してたかどうかは疑間です。変化がゆるやかだった時代の人間にとって、伝統は特別なものでなく、日常の長く退屈な繰り返しの延長にすぎなかったのかもしれません。
 変化のなさゆえに、人々はむしろつねに新しい刺激に飢えていたようにも思えます。歌舞伎はいまではすっかり日本の伝統芸能としての地位を確立しましたが、もとはといえば、江戸時代の日本人が新しもの好きだったから、歌舞伎という新しい芸がもてはやされたのです。新しもの好きで飽きっぽい民衆の期待にこたえるべく、歌舞伎は新たな技法や仕掛けを次々と取り人れて独自の進化発展を遂げました。
 もしも江戸時代の人が伝統を重んじていたら、歌舞伎などという流行り物は支持されなかったかもしれません。もしそうだったら、歌舞伎から派生した長唄、小唄などさまざまな邦楽も、存在しなかったでしょう。

「伝統」を大切にしないことこそが伝統なのかもしれんね。

今度から「伝統の」という形容詞を見たら、「風前の灯火の」に置きかえることにしようっと。


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2019年9月5日木曜日

【読書感想文】お金がないのは原因じゃない / 久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』

ニッポン貧困最前線

ケースワーカーと呼ばれる人々

久田 恵

内容(e-honより)
政府の締めつけとマスコミによる福祉たたきの狭間で、貧困層と直接向き合ってきたケースワーカーたち。福祉事務所で働く彼らの悩み、怒り、喜びを通して、過剰な期待と誤解を受けてきた生活保護制度の実情を明らかにする。未曾有の発展をとげた戦後日本の「見えない貧困」を描き出した衝撃のルポルタージュ。

ケースワーカーとは、自治体で生活保護に関わる業務をおこなう人たち(それ以外の業務もあるらしいが)。
ケースワーカーの仕事内容、抱える問題、とりまく環境などについてまとめたルポルタージュ。

この本で紹介されている時代、場所、ケースなどはさまざま。
 ワーカーには立入り調査票が発行されているが、本人の留守中に勝手に部屋に入っていいわけではない。その日、沢井は新人ワーカーを一人連れて、吉沢のアパートに行き、管理人に言って鍵を開けてもらおうとしたが、合鍵などないと言われた。
 困り果てていると、ドアのガラスの割れているところに広告の紙が貼ってあるのを見つけた。破って覗くとすごいスルメの臭いがして、蠅がぶんぶん飛んでいた。やつめ、また飲んでスルメを出しっ放しにして逃げたな、そう思って腕を差し込んでみるとうまい具合に鍵が開いた。中に入り、なんだこりゃ、と言いながらすさまじい臭いの中で、酒瓶の転がった台所を点検していると、連れて行ったもう一人の新人ワーカーが、隣の部屋を覗いて妙に冷静な声で言った。
「あのう、この方ですか?」
 見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた。
 その時、さすがの沢井も、もう駄目だ、と思った。ワーカーを辞めたいと思った。
読んでいておもうのは、つくづくたいへんな仕事だということ。
戦後に生活保護制度ができてから今まで、そしてこれからも、ケースワーカーの仕事がたいへんじゃなかった時代などないんだろう。
ぼくだったら「見るとそこに、すでに腐敗し、真っ黒になって転がって死んでいる吉沢がいた」なんて状況に遭遇したら、もう続けられないとおもう(たぶんそれよりもっと前に辞めてる)。

精神的にハード、業務量も多い、感謝されることはほとんどなくて恨まれたり非難されることのほうがずっと多い、身の危険もある、だからといって給料がいいわけではない。

ケースワーカーをやっている人たちにはただただ頭が下がる。



この本を読むまで、生活保護受給者の問題は「お金がない」ことだとおもっていた。
もちろんお金がないから生活保護を受けるわけだが、問題の根っこはそこではない。

今の日本で「食っていくだけのお金がない」という人には、それなりの原因がある。
病気やケガ、老い、障害、失業のようなわかりやすい原因もある。たいていの人が想像するのはこっち。

でもそれだけじゃない。
「人付き合いができない」「決まった手続きに従って作業をすることができない」「持ってるお金より多くを使わないようにすることができない」「ストレスの原因になる家族がいる」といった、病気未満、障害未満の問題を抱えている人がいる。
それも少なくない数。
たぶん小学校の一クラスに三十人いれば、そのうち何人かは該当するぐらいの。
 ワーカーになって川口がしみじみと実感したのは、この社会には周りと折り合いをつけて上手に生きていくことが、どうしてもできない人たちがいるということだった。
 そういう人にとってこの社会は恐怖と不安に満ちている。一人暮らしのアパートを訪ねてくる新聞の勧誘員や、「世界が滅びる」などと言ってくる宗教の勧誘者に、過剰に反応して恐がったりもする。
 働くどころか、一人で生きていく、それだけで大変なのである。
 また、不運がいくつもいくつも積み重なってついに立ち上がれなくなった人や、本人のあまりに弱い資質のせいで、まっとうに生活できなかったりと、原因はいろいろあるが、ギリギリのところで生きている人は、担当のワーカーに過剰な期待をもっている。
 それが思うようにいかないと、延々とウラミの感情を溜めこむようなところに陥ってしまう。そこにいってしまったらもう説得も納得も不可能になる。ワーカーとの関係も悪くなる。

仕事はふつうにできるけれど、金銭感覚だけが著しく欠如している人がいる。あればあっただけ、あるいはある以上に遣ってしまう。
知能に問題はないのに他人と話をする能力だけが欠如している人がいる。
話しているとふつうなのに書類の記入だけができない人がいる。

「訊かれたことに答える」「お手本通りに書類に記入する」「支出が収入を上回りそうなら倹約する」というのは、ほとんどの人にとっては難なくできることだ。努力でもなんでもない。
だから“ふつうの人”からしたら
「こんなかんたんなこと、どうしてやらないの?」
と言いたくなる。
まさかできないのだとはおもわない。
怠慢、無計画、身勝手といった烙印を押してしまう。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

この先、“あたりまえのことができない人”は増えていく一方だとぼくはおもう。
社会が複雑化するにつれて“あたりまえ”のハードルがどんどん上がっていくからだ。



第四部『ケースワークという希望に向けて』では、生活保護制度が時代によってどう変わってきたのかが紹介されている。
どうやってできたのか、世間の反応はどう変わったのか、そしてこの先どうなるのか。

戦後の日本中が貧しかった時代にGHQの指示でつくられた生活保護制度。
当初はほんとに「税金で保護しないと餓死する」レベルの人を対象に、ぎりぎり食つなぐだけの給付をする制度だった。
しかし人々の生活が豊かになるにつれて、生活保護の趣旨も「健康で文化的な最低限度の生活」を守るための制度へと変わってゆく。
同時に性善説を前提にした制度だったために不正受給の温床にもなり、厳しい目も向けられるようになった。

生活保護の不正受給が明らかになればケースワーカーが非難され、生活保護を受けられずに亡くなる人がいればケースワーカーが非難される。
かといってすべての申請に対して厳しくチェックするだけの時間も予算もない。

生活保護という制度は長年使っているうちにずいぶん綻びが出てきたようにおもう。

たとえばこんなケースが紹介されている。
 母親は五十代で、慢性的な病気を抱えていた。以前は多少なりとも働いていたが、今は仕事ができず、現在、低賃金のお風呂のない老朽化した民間アパートで、公立高校に通う娘と二人で保護を受けて暮らしている。
 苦労して育ててきた長男は、無事高校を卒業して就職している。彼もやっぱりワーカーの配慮で自立して、寮生活をしていたが、勤めて二年が経った。申し込めば、家族と一緒に社宅に入居できることになったのである。
「おかあさん、部屋も広くてさ。風呂もあるよ。みんなで一緒に暮らそう」
 彼から勢い込んで言ってきたのである。
 ところが、同居して家族がひとつになれば、彼の給料が世帯の収入として計算されてしまう。山本が、三人世帯として保護の要否判定をすると、彼の収入が保護費を若干上回り、母親と妹の保護が廃止になってしまうという結果が出た。
 そうなれば、十九歳の息子が一家の柱になって自分の給料だけで家族を扶養し、母親と妹を食べさせていくことになるのだ。

泣く泣く、長男は家族との同居をあきらめたそうだ。
おかしな話だ。
同居しようがしまいがこの一家の給与収入は変わらない。だったらいっしょに住んだほうがいい。生活費も抑えられるし、お互いに安心感もあるだろう。
なのに同居すると生活保護が受けられなくなるから、不便な道を選ばざるを得ない。

息子の収入が十分に多いのならわかるが、高卒で二年働いたぐらいであれば給料はしれているだろう。病気の母親と高校生の妹を養うことが困難なのは誰だってわかることだ。
けれど今の制度では同居はできない。

生活が苦しいから保護する、ではなく、保護されるために苦しい生活を送る、になってしまっているのだ。制度の欠陥だろう。


こういう例をいくつも読んでいると、生活保護制度ってもうかなりボロボロなんだなとおもう。そろそろ大きな改革をする時期に近づいてるのかもしれない。


この本にも再三「人々の生活が苦しくなると生活保護に向けられる厳しくなる」と書かれている。
「おれはこんなに苦しいおもいをしながら働いているのに、生活保護を受けているやつらは税金で楽しやがって」という憎悪を抱くのは、年収1000万円の人ではなく年収100万円の人のほうだろう(税金を多く払っているのは前者のほうなんだけどね)。

きっと日本人はこれからどんどん貧しくなるから、生活保護受給者やケースワーカーに対する風当たりはさらに強くなる。

個人的には、もらうことに後ろめたさを感じずにすむ制度がいいとおもう。
たとえばベーシックインカムのような、全員が同額をもらえる制度とか。それだったらもらったお金を娯楽に使おうがパチンコに使おうが「ずるい」とケチをつける人は減るだろう。
人頭税の逆ですべての国民が年齢や能力に関係なくもらえるようになれば、子どもを産む動機にもなるし。
都市から地方への移住も進みそうだし(もらえる額が同じなら物価の安い地方に住むほうが得だから)。

問題は財源だけ。たったそれだけ……。


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2019年9月4日水曜日

【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

ゼロからトースターを作ってみた結果

トーマス・トウェイツ(著) 村井 理子(訳)

内容(e-honより)
トースターをまったくのゼロから、つまり原材料から作ることは可能なのか?ふと思い立った著者が鉱山で手に入れた鉄鉱石と銅から鉄と銅線を作り、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作るべく七転八倒。集めた部品を組み立ててみて初めて実感できたこととは。われわれを取り巻く消費社会をユルく考察した抱腹絶倒のドキュメンタリー!
いやあ、おもしろい!
今年読んだ中でナンバーワンのおもしろさだった。

内容は、タイトルがすべて表している。
トースターをゼロから作る。一からではない。ゼロから。
だから鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

この世紀のプロジェクトに挑むのはイギリスに住むただの大学生。
無謀すぎる。
じっさい、かなり失敗している。ずるもしている(ニッケルはかなりずるい)。
それでも著者は、あの手この手を使いながらトースター(らしきもの)をゼロから作ってしまうのだ。



本を読んでいてこんなにわくわくしたのはひさしぶりだ。
子どものときに『ロビンソン・クルーソー』や『あやうしズッコケ探検隊』を読んだと同じぐらいの興奮を味わった。

たとえば、これは家庭用電子レンジで鉄鉱石から鉄を精製しているところ。


ははははは。どこが「なんかよさげ?」なんだ。
SHARP製電子レンジの断末魔の絶叫が聞こえてくるようだ。

しかしこれで鉄が取りだせたというのだから驚きだ。SHARPの技術者もびっくりだろう。

ちなみに「電子レンジを使うなんてずるいじゃないか!」とおもうかもしれないが、著者ははじめはちゃんと溶鉱炉を作ってるからね。それで失敗してるからね。



こんな調子で次々にトースターのパーツをつくっていく。

工夫と妥協を重ね、ときにはカナダの法律も犯しながら、ついにはトースター(らしきもの)を完成させる(そのトースターでパンが焼けたかどうかは本を読んでたしかめてね)。

この本の表紙に載っている、黄色い汚らしいかたまり。それが手作りトースターだ。
これを作るのになんと15万円かかったそうだ。

こんな代物(といったら失礼だけど)でも作るのに15万円かかるわけで、もしも店で売っているのと同じ性能・デザインのトースターをゼロから作ろうとおもったら100万円じゃきかないだろう。
それが店に行けば1000円もしないぐらいの価格で買える(しかもその中には製造元や販売店の利益も入っている)わけで、なんともふしぎな感覚になる。

我々の生活が、どれだけ多くの科学技術に支えられているか、そしてその恩恵を我々がどれだけ安価で享受しているかを気づかされる。

 ということで僕は、インペリアル・カレッジを飛び出し、さらなるリサーチを行った。そしてついに、科学博物館の科学史図書館で『デ・レ・メタリカ』を探しあてた。
 それはゲオルク・アグリコラによって、16世紀にラテン語で記されたものであり、英語版は、第31代アメリカ合衆国大統領に選出される前のハーバート・クラーク・フーバーと、彼の妻、ルーによって翻訳されている。
 ヨーロッパ史上初の冶金学専門書である『デ・レ・メタリカ』には、その当時知られていた、世界各地の採鉱、および金属の製錬について、年代順に記されていた。この本は、ほぼ500年前に書かれたものにもかかわらず、僕にとっては、現代の教科書よりもずっと役に立った。そのことは、少なからずショッキングなことでもあった。
 というのもそれは、16世紀以降に発展してきたさまざまなメソッドは、僕一人ではまったく使いこなすことができないものであることを意味するからだ。

産業革命以後の技術というのは、ほとんどが大資本や工作機械や電気エネルギーがあることを前提にしたもので、個人が利用するにはまるで役に立たないものなのだ。

もしも地球からあらゆる機械が消えてしまったとすると、我々の暮らしはあっという間に16世紀頃の生活に戻ってしまうのだろう。 いくら21世紀の知識があったとしても、機械を持たない我々にはそれを使いこなすことができないのだから。

科学技術に支えられた暮らしについての認識を改めて考えなおすきっかけになる……とかむずかしいことは考えなくていいから、とにかく読んでみてほしい! ただ単純におもしろいから!

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2019年9月3日火曜日

【読書感想文】直球ファンタジー / 三浦 しをん『白いへび眠る島』

白いへび眠る島

三浦 しをん

内容(e-honより)
高校最後の夏、悟史が久しぶりに帰省したのは、今も因習が残る拝島だった。十三年ぶりの大祭をひかえ高揚する空気の中、悟史は大人たちの噂を耳にする。言うのもはばかられる怪物『あれ』が出た、と。不思議な胸のざわめきを覚えながら、悟史は「持念兄弟」とよばれる幼なじみの光市とともに『あれ』の正体を探り始めるが―。十八の夏休み、少年が知るのは本当の自由の意味か―。文庫用書き下ろし掌篇、掲載。

ファンタジーというかホラーというか。青春小説でもある。

生まれ故郷の小島に帰省した高校生の主人公。怪物が出る、といううわさを耳にして不吉な予感をおぼえる……。
という導入。島に伝わる伝説になぞらえた殺人事件でも起こるのかな、とおもいながら読んでいたら、ほんとに怪物が出る。
あっ、そういう話ね。

持念兄弟、神としてまつられる白蛇、うろこを持つ一族、ふしぎなものが見える少年、とけれん味の強い設定がたっぷり。
設定が語られ、徐々に不吉な予感が高まり、怪異現象が島を襲い、主人公が友情に支えられながら島を救う……というストーリー。

なんというか、順当すぎて拍子抜けしてしまった。
いや、悪いわけではなかったんだけど、定番のストーリーを素直に楽しむにはぼくがすれすぎてしまったというか……。
中学生ぐらいで読んでいたらまた楽しめたんだろうけど。

ストーリーにそんなにひねりがないところも含めて、民話っぽい雰囲気はよく出ている。
神話とか民間伝承ってそんなに意外性のあるストーリー展開じゃないもんね。
意外な正体もどんでん返しもない。正義が負けることもないし悪は封じこめられる(滅びるわけではない)。
だからこれはこれでいいのかもしれない。


ところで、離島に起る怪異現象、ということで堀尾省太 『ゴールデンゴールド』という漫画を思いだした。
 『ゴールデンゴールド』も神様の出現により島中がじんわりと破滅に向かっていく話ではあるんだけど、 『ゴールデンゴールド』は神様が直接手を下さずに人間の欲を利用していさかいを起こさせる。
狭い島の住人たちの様々な思惑が衝突しながらじわじわと人間関係が壊されていく。

ぼくにとってはこっちのほうがずっと怖い。


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2019年9月2日月曜日

女は騒ぎすぎる、男は隠しすぎる


こないだ、娘の友だち(五歳男子)と遊んでいたら、彼がこけて膝から血を出した。
すると彼は目に涙を浮かべ、無言でぐっと痛みをこらえていた。

その姿にぼくは心を打たれた。
なんでいじらしいんだ!



うちの子は女なので、女の子たちといっしょに遊ぶことが多い。
子どもなのでよくこける。ぶつかる。そしてよく泣く。

その泣き方が、ちょっと大げさすぎる。
たしかにこけたのは痛いだろうけど、ちゃんと手をついたし血も出ていない。そこまで痛いか?
「あいててて……」ぐらいで済むレベルじゃない?

完全に言いがかりとしかおもえないときもある。
「〇〇ちゃんに足ふまれたー! いたいー!」と言って五分以上泣きつづけられたりすると、口にこそ出さないが「嘘つけ」と言いたくなる(自分の娘なら口に出す)。

女子の泣き方って大げさすぎやしません?
ちょっとすりむいただけなのに、どてっぱらに銃弾喰らったぐらいの泣き声出すでしょ。
あれは「みんなあたしを見て!」って言ってるだけなんだよね。
「ほらあたしこんなにかわいそうなのよ! みんなしてあたしのご機嫌をとりなさい!」って言ってるんだよね。

ほんと、女の子とサッカー選手は痛がりすぎだ。勘弁してほしい。





じゃあ男子の反応のほうがいいのかというと、男子は男子で別の問題がある。

女子は被害度合いを過大報告するのに対し、男子は過少申告する。

どう見ても大丈夫じゃないときにも「大丈夫、まだ遊べる」と言いはなつ。ケガを隠す。熱があってもしんどくても無理をする。

ぼくもそうだった。
小学生のとき、よくケガをしたことを隠していた。ろくに洗わずに手当もしないから化膿した。傷口がじゅくじゅくになったところで母親に発見され、怒られた。
「どうしてもっと早く言わないの!」

そして「ケガしたことを報告すると怒られる」と誤った学びを得たぼくは、次もまた隠す。化膿する。怒られる……という傷口じゅくじゅくスパイラルに落ちこむのだ。


自分ではおぼえていないが、ぼくは三歳のときに自転車でこけたそうだ。
ぼくがすぐに泣きやんでまた遊びはじめたために、母は大したことないとおもい、放置した。
その晩、ぼくがまったく寝返りを打たず、腕をかばうような動きをしていたため翌日病院に連れていったところ、肘の骨が折れていたそうだ。

骨折していたにもかかわらず、「今遊びたい」という気持ちのほうが痛みを上回ってしまい痛みを隠そうとするのだ。阿呆である。



あくまでぼくの観測範囲の話だが、女子は痛みを大げさに訴えすぎるし、男子は痛みを訴えなさすぎる。


で、大人になってもその傾向は続いているような気がしてならない。

女はちょっとした不具合でも世界の終わりのように大げさに騒ぐし、男は失敗を隠そうとするので失敗が明るみに出たときにはもう取り返しのつかないことになっている……。