2019年3月15日金曜日

【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』

もっと言ってはいけない

橘 玲

内容(e-honより)
この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!
博識の人のとりとめのないおしゃべりを聞いているという感じ。
話のひとつひとつはすごくおもしろい。
でも全体として見ると少し散漫。
「いろんな本のおもしろいところを紹介するブックガイド」として読んだらすごくいい本だとおもう。


「知能は遺伝子によってある程度決まる。人種によって知能は(平均で見ると)違う」
というのが全体を通しての主張なのだが、そのあたりのことは前作『言ってはいけない』にも十分書いてあったので、『言ってはいけない』を読んだ人にとってはさして驚きはない。
まあそりゃ人種によってばらつきはあるだろうね。肌の色だって身長だってちがうんだから、知能だけが同じなはずがない。

ただ「日本人(を含む東アジア人)は知能が高い傾向にある」ってのは事実でも、「日本人はみんな優秀」は事実ではない
でも、そこをごっちゃにしてしまう人は決して少なくない(これこそが日本人みんなが知能が高いわけではないことの証左だ)。

だから、橘さんの言っていることは間違いではないんだけど「すごく誤解を招きやすいこと」を言っている。
橘さん自身は自分の発言が誤解を招くこともわかってて言ってるんだろうけど、あえて誤解の招きやすいことを言う手法にはちょっと疑問も感じてしまう。

読解力がなくて誤解したほうが悪いんだけど、「読解力の低い人が誤解するであろうこと」を強い口調で語るのもどうなんだろう。
ガソリンを撒いておいて「悪いのは火をつけたやつでしょ。火をつけるやつがいなければ火事にはなりませんよ」と言うようなもので。

まあこの人の場合はずっとそういう露悪的な立ち位置で商売しているわけだし、それがおもしろいんだけどさ。



『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。――音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
 ところが子育ての大切さを説くひとたちは、親の努力によって子どもの運命が決まるかのような主張をする。これがほんとうだとすれば、子育てに成功した親は気分がいいだろうが、「失敗」した親は罰せられることになる。
 どんな子どもも親が「正しい教育」をすれば輝けるなら、子どもが輝けないのは親の責任だ。「犯罪が遺伝する」ことがあり得ないなら、子どもが犯罪者になるのは子育てが悪いからだ――という理屈もいまでは「言ってはいけない」ことになったので、「社会が悪い」となった。「人権」を振りかざす〝自称〟リベラルが目指すのは、「努力が報われる」遺伝率ゼロの世界なのだ。
このへんの話はすごくおもしろかった。

ふうむ。
「人間はみんな生まれたときは同じ能力を持っている」という主張は一見平等なように見えるけど、「あなたが成功しなかったのはあなたやあなたの親に責任がある」という"完全自己責任論"にもつながりやすい。

「どんな親から生まれたかによってあなたが成功するかどうかはある程度決まっている」というのは残酷なようで、「だったら成功する確率が低い人には手厚いサポートを」という議論につながる。
身体の弱い人に対するサポートがあるように、生まれつき知能の低い人もサポートするわけだ。

「誰でもやればできるさ」は、誰にでもチャンスを認めているようで、じつはかなり残酷な主張だ。それって「できないのはやらなかったから」の裏返しなのだから。

仮にぼくが小さいときから血の出るような努力をしてきたとしても、100メートル9秒台で走れなかっただろう。
それを桐生祥秀選手に「おれは努力したおかげで9.98秒で走れた。おまえが走れなかったのは努力が足りなかったからだ」と言われたらたまったものではない。

しかし教育の場ではわりと日常的にこういう論旨がまかりとおっている。
才能の無い分野で努力するよりは、早めに見切りをつけて自分にあった道を探したほうがいい。
そして残酷なようだけど「どんな分野にも才能のない人」が存在することは認めなければならない。
「人間誰しもどこかしら優れたところはあるんだ」というきれいごとは耳あたりがいいけれど、それこそが人を苦しめる。



本筋とはあんまり関係がないけれど、「人類水生生活説」はなるほどとおもった。
 海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。だとしたら人類も、過去に水生生活をしていたのではないか。
 このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。
 人類が二足歩行に移行したのは、四つ足で水のなかに入っていくよりも、直立したほうが水深の深いところで息ができるからだ(それに、水の浮力が上半身を支えてくれるから倒れない)。鼻が高く、鼻の穴が下向きなのも、水にもぐるときに都合がいいからだ。体毛がないのはそのほうが水中で動きやすいからで、皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。
そういや手塚治虫のなんかの漫画でも似たようなことが描いてあったなあ。
人間は身体的に弱いから、水辺に棲んで敵が来たときは水中に逃げるしかなかった。水中では二足歩行のほうが暮らしやすい。浮力があるし、顔を水上に出さなくてはいけない。赤ちゃんがおぼれないようにするためには手でだっこしなくてはならない。こうして手が発達して、道具を生みだせるようになり……。

これはあくまでひとつの説なので正しいかどうかはわからないけど、納得のいく説ではある。
風呂に入ると気持ちいいのも、水のなかで暮らしていたときの記憶があるからかも……。



人類が(他の哺乳類よりも)攻撃的でない理由、の仮説。
 なぜ人類は、身体的な強さが権力と直結しないように進化したのだろうか。
 ボームの慧眼は、石槍は獲物を倒したり外敵と戦うときのためだけに役立つのではないと気づいたことだ。いまならオモチャにしか思えないかもしれないが、打製石器は人類の歴史では大量破壊兵器に匹敵するイノベーションだった。ひとたびそれを手にすれば、ひ弱な人間も集団でマンモスをしとめることができる。だとすれば、共同体のなかのひ弱なメンバーが身体の大きなボスを殺すのはもっとかんたんだったはずだ。
 こうして旧石器時代の人類は、共同体の全員が大量破壊兵器(打製石器)を保有し、「いつでも好きな時に気に入らない相手を殺すことができる」社会で生き延びなければならなくなった。
だから人類は平等な社会を築くようになったし、徒党を組むために言語や高い知能が必要になった……と続く。
自己中心的な人間や暴力的な人間は殺されたり、排斥されたりして、そうした遺伝子は淘汰された、という考え方だ。

核抑止論とか、アメリカ人が好きな「銃があるからこそ平和が保たれる」みたいな話だね。
逆説的だけど、強力な武器があるからこそ平和的にふるまわなくてはならない。

しかしこれが正しいとしても、平和的な社会というのは裏返せば暴力的な人が得をする社会だ。
周囲がみんな争いを好まず、自分だけが戦闘的であれば、反撃に遭うことなく他人の資源を奪うことができるわけだから。詐欺師にとって「みんながお人好しの世の中」が暮らしやすい世の中であるように。
だから、平和的な社会になったとしても攻撃的な人は一定数存在する。

ということで「平均的に見ると平和と平等を愛する人類」なのかもしれないけど、それは「人類はみんな平和と平等を愛する」とイコールではないんだよねえ。



さまざまな言説をものすごいスピードでどんどん紹介してくのは、刺激的でおもしろい。圧倒的な読書量、そしてわかりやすくかみくだいて説明する力。これだけのことができる人はそう多くない。
全盛期の立花隆氏のようだ。

ただ、橘さんが自分の見解や仮説を述べるあたりは、ちょっと暴走しすぎかなあと眉に唾をつけたくなることが多い。話としてはおもしろいんだけど、話半分に聞いておかないと。
おもしろすぎるので警戒が必要な本、だよなあ。

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2019年3月14日木曜日

SNSでバズるのひええ


はじめて、Twitterでバズるということを経験した。

ツイートから5日経過した時点で、13,000回以上リツイートされ、40,000近い「いいね」がついている。
インプレッション(表示された回数)は180万回を超えている。
ひええ。テレビの不人気な深夜番組だと視聴率1%を切るというから、それよりも見られているわけだ。

人気アカウントの持ち主からしたらめずらしいことじゃないのかもしれないけど、ぼくのツイートなんてふだんは「いいね」が3個ついたら多いぐらいなので、もうすっかりびびってしまった。

はじめは「おっ、なかなか好評だな」とうれしかったんだけど、そのうち通知が止まらなくなり、1秒ごとにリツイートや「いいね」がどんどん増えていくのを見ていると、胃が痛くなってきた。
自分の言葉が自分の身体を離れてひとり歩きしているという感覚。

今回はたまたま毒にも薬にもならぬ内容だったからよかったけど、ぼくは不謹慎なこととか特定の団体批判とか政治色の強いことなんかも書いているので、もしもそういうツイートがここまで拡散していたらと思うとぞっとする。



バズったことで、いろんな発見があった。

まず、けっこうフォロワーが増えること。1日で100人ぐらい増えた。ありがたい。

Twitterから流れてブログ記事を読んでくれる人も増えた。
ぼくは、Twitterをブログの更新告知ツールと位置づけているので、これがいちばんうれしい。

あとツイートに対していろんなコメントがつくのが愉しい。
これが賛否両論だったら精神的に耐えられなかっただろうけど、今回は内容が内容だけにほとんどが肯定的なコメントで助かった。

なんかいろんな人がいろんな解釈をしてくれる。
  • 他人に迷惑をかけないならやってみろ、ってことですね
  • やりたいならやればいいが責任は自分で持てよ、ってことか
  • 実は背中を押してくれる優しいアドバイス
とか。

ぼくが伝えたかったことは 「ぼくのおじさん、こんなおもろい人やでー」 ぐらいだったので(悪口みたいに聞こえたらイヤなので最後にフォローをつけたした)、自分の何気ないつぶやきがいろんな意味に解釈されていくのはおもしろい。
文章から何を読みとるかは読み手の自由だしね。

いちばんおもしろかった反応はこれ(知らない人だけど勝手に引用)。

たしかになあ。
「挑戦してみろよ。自己責任で」だとずいぶん冷たい印象になるよなあ。言ってることは同じなのに。



ちなみにこのツイートに出てくるおじさん、実在する。
以前にこのおじさんのことを書いた記事がこちら。

おじさんじゃないもの


この記事は数十人に読まれただけだったけど(それでもすごくありがたいことなんだけど)、ほとんど同じ内容なのにTwitterだと100万人に見てもらえるんだなー。

2019年3月13日水曜日

【読書感想文】どうして絶滅させちゃいけないの / M・R・オコナー『絶滅できない動物たち』

絶滅できない動物たち

自然と科学の間で繰り広げられる大いなるジレンマ

M・R・オコナー (著), 大下 英津子 (翻訳)

内容(e-honより)
厳重に「保護」された滅菌室にしか存在しないカエル、周囲を軍に囲まれて暮らすキタシロサイ、絶滅させられた張本人にDNAから「復元」されつつあるリョコウバト……。人が介入すればするほど、「自然」から遠ざかっていく、自然保護と種の再生テクノロジーの矛盾を、コロンビア大学が生んだ気鋭のジャーナリストが暴く。

動物が絶滅、と聞くと反射的に「良くない!」と思ってしまう。なんとか食いとめなければ、どんな手を使ってでも保護しなければ、と。
だがこの本の著者は問いかける。「それってほんとに必要なことなの?」

どうして動物を絶滅から守らなくちゃいけないんだろう……。



著者は「生物が絶滅してもいい」と主張しているわけではない。
ただ、絶滅しそうな動物を隔離して保護したり、DNAを保存したりして「絶滅を防ぐ」ことに疑問を呈している。
それって絶滅を防ぐことになるの? それで何かをやった気になるだけじゃないの? それよりもっとやるべきことがあるんじゃないの?

たとえば、動物を絶滅から防ぐために人間の飼育下におくことで、かえって環境に適応できなくなってしまうことを挙げている。
 「箱舟」もいつも効果を発揮するわけではない。遺伝的適応度(生殖可能年齢まで生きのびた個体が産んだ子の数によって測定)の損失の発生は、飼育下繁殖の個体群では早く、数世代で生じて子孫が途絶える確率が高い。飼育されている状態だと個体群内部で形質の選択が行われ、この環境下の生存率は上昇するが、野生の生存率は上がらない。とはいえ、そもそもこれらの生物が自然に戻されることがあれば、の話だが。
 大半の飼育下繁殖プログラムの目的は、動物を再導入することだが、飼育下繁殖の動物が、実際に自立した、つまり「野生に」戻ったケースは数えるほどしかない。アメリカシロヅルは、今でも人間のパイロットから移動のしかたを教わらなければならない。両生類になると再導入の成功率は格段に下がる。ある調査では、飼育下繁殖ののちに再導入された58種のうち無事に野生環境で成長したのは18種、そのうち自立できたのは13種だった。
 もっと言えば、飼育下繁殖プログラムで育てた110種のうち、52種はそもそも再導入の予定がなかった。これらの種が生息していた生態系がなくなってしまったのだ。動物を生まれ育った場所で保全する生息域内保全という方法の支持者は、再導入の予定なしに飼育下繁殖を行うことこそが飼育下繁殖において最も致命的だという。絶滅のリスクをできるだけ減らそうとするあまり、環境よりも動物を救うことが主眼になっている。
たとえばカイコガは、長い期間人間によって絹を生産するために飼われてきたため、今では自然界で生きていくことができない。
飼育という環境に適応した結果、自分で餌をとったり敵から逃げたりできなくなったためだ。
佐渡トキ保護センターのような保護施設をつくっても、もともと持っていた性質を失った動物を増やすだけだ。

保護センターの中でしか生きられないのであれば、はたして絶滅から救ったといえるのだろうか。



さらに最近では、動物そのものを保護するのではなく、絶滅しそうな動物のDNA情報だけを保存しておく方法もとられている。
だが、動物の行動はDNAだけで決まるのではない。
 一方、20年以上、飼育下繁殖しているアララが産んだ卵は、巣から取りだされて、確実にひなが孵るようにと保育器に移される。2013年までは、最初の雌は自分で卵を孵化させてひなを育てることが許されたが、現存しているアララについては、抱卵、孵化、飼育を人間が一手に担っている。その結果、アララの文化が一変したという証拠がある。かつては世代間で継承されてきたアララ特有の行動が消滅したのだ。発声のレパートリーは減った。1990年代に飼育下繁殖のアララを自然に還そうと試みたが、ハワイノスリの避けかたがわからなかったらしい。かつては仲間と結束して戦っていたというのに。また、すっかり人間に慣れてしまって自分で餌を探さなくなった。習性を失ってしまったために、野生で生きていくのは不利になるおそれがあった。

もしも地球が爆発して人間が絶滅することになったとする。
そこで、とんでもない技術を持った宇宙人が、人間すべてのDNAを保存する。さらに地球そっくりな環境の星をつくりなおし、保存したDNAをもとに人間を復活させたとする。

復活した人間たちは今と同じ生活を送れるか?
当然ながら答えはノーだ。
言語も文化も知識もすべて失われる。遺伝子には組み込まれていないから。
現代の生活はおろか、狩猟や採集すらできない。ほとんどの人間は生きていくことすらできないだろう。

動物だって同じだ。
DNAの冷凍保存では、非言語的コミュニケーションによって種の間に伝えられていることまで残せない。
そうやって復活させた動物は、復活前と同じものとはいえないだろう。



『絶滅できない動物たち』は話があっちこっちにいくので論旨は決して明快ではないのだが、著者の主張は
「絶滅を防ぐことに意味がないとはいわないが、生きていればいいというものではない、DNAを残せばいいというものではない」
ということだとぼくは受け取った。

絶滅寸前の動物の遺伝子を冷凍保存して未来に残すことは、それ自体が悪ではないけれど、そのせいで「今生きている動物の棲息環境を守る」ことがなおざりにされているのではないだろうか。

だが、棲息環境を守るのはDNAを保存することよりもずっとたいへんだ。なぜなら、われわれの暮らしが制限されるから。
ぼくらは「トキ保護センターをつくります」には同意できても、「トキが棲みやすくするため、あなたはこの土地から出ていってください」には同意できない。
「動物を絶滅から防ごう!」に共感できるのは、「自分に関係のないところでどっかの誰かがやるのはいいよ」と思っているからで、自分の暮らしを犠牲にしてまで守りたいとは思っていないのだ。

結局、「絶滅しそうだからなんとかしなきゃ」ってなった時点で、もうどうしようもないんだろうね。
環境は元に戻せないもの。


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2019年3月12日火曜日

【読書感想文】スリルを楽しめる人 / 内田 幹樹『機長からアナウンス』

機長からアナウンス

内田 幹樹

内容(e-honより)
旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業だが、華やかなスチュワーデスとは違い、彼らの素顔はほとんど明かされない。ならばと元機長の作家が、とっておきの話を披露してくれました。スチュワーデスとの気になる関係、離着陸が難しい空港、UFOに遭遇した体験、ジェットコースターに乗っても全く怖くないこと、さらに健康診断や給料の話まで―本音で語った、楽しいエピソード集。
元・全日空のパイロットによるエッセイ集。
(一応この本の中では「A社」と伏せられているけど、「A社とJALの違いは……」とか書かれていて伏せている意味がまったくない)。

内容紹介文には「旅客機機長と言えば、誰もが憧れる職業」とあるが、少なくともぼくはぜったいにやりたくない職業だ(できないだろうが)。
高いところは嫌いだし、速い乗り物は嫌いだし、車の運転も嫌いだし、睡眠時間はたっぷりほしいし、決断力はないし、責任感もないしで、なにひとつパイロットに向いている要素がないからだ。

だからこそ、こういう本を読むと自分とはまったくちがう人の考え方にふれられるわけで、おもしろい。
 着陸は離陸に比べておもしろい。
 天気の良いときも悪いときもそれなりにおもしろいのだ。たとえば風の強い日、春一番なんて最悪だ。スピード計の針は暴れ回るし、降下率も一定になりきらない。機の姿勢はあおられて定まらず、コースからはすぐに外れる。こんなときは暴れ馬に乗っている気分になる。
 ある程度暴れさせておいて、ズレそうになったら、そっち側を手綱の代わりに舵で押さえる。躊躇するような気配があったら、すかさず拍車の代わりにパワーを当てる。これが上手くいくとたまらなくおもしろい。雨や雪、霧などもそうだ。計器のほんの少しの動きも見逃さず、張り付いたように指示を追いかける。パワーもスピードも機の姿勢にも、一瞬たりとも隙を与えない。目と耳と手と尻とに全神経を集中させる。
スリルを楽しめる人がパイロットに向いてるんだろうな。ぼくなんか臆病だから「今日天気悪いんで出航やめにしませんか」とか言っちゃいそうだもん。

この本の中には「パイロットにはバイクを趣味にしている人が多い」と書いているが、そうだろうなあ。バイク乗りもこういうスリルを楽しめる人だろう。
安全第一主義のぼくにはまったく理解できない。すごいなあとただただ感心するばかり。



V1速度について。
V1速度というのは離陸時の臨界速度のことで、「これより前ならば離陸は中止できるが、これを超えると飛び上がるしかないという、いわゆる離陸直前の決心をしなければならない速度」のことらしい。
 V1速度は天気が悪いときとか、風向きが悪いとか、雪で滑走路が滑りやすいとか、そうした悪条件の場合には路面の摩擦係数を測定し、それに基づいて計算されている。実際のケースで、ほんとうにブレーキの摩擦計算が理論通りになるかというと、これが一○○パーセントとは誰にも言えない。そこは経験を積むことによって、さまざまなケースを頭に入れて操縦する。
 臨界速度直前でトラブルが発生した場合、そのあたりの判断がいちばん難しい。エンジン関係のトラブルなら離陸を中止するが、ブレーキ関係のトラブルなら離陸を続行するという具合だ。なにしろ時速二五〇から二六○キロ前後の速度で前を見ながら計器を見て、一秒の何分の一かで認して、判断して操作するのだから。パイロットは離陸滑走中、スロットル(出力レバー)に手を添えている。これはパワーを出すためではなく、不具合が発生した場合にいつでもパワーを絞ることができるようにするためなのだ。V1を超えて、はじめて絞る必要のなくなったレバーから手を離すことができる。
ひゃあ。
こんなの、ぼくにはぜったいむりだ。
車を運転していても「えっ、今のところ右折だったのか、えっ、まずい、どうしよう、まだいけるか、もうむりか、あっ、あっ」みたいな感じで不本意な直進をしてしまうのに。

しかしブレーキにトラブルが起こっていても離陸しちゃうのかあ。おっそろしいなあ。一度スピードに乗ってしまったらもう飛び立つしかないんだもんなあ。
「エンジンが一発壊れたぐらいでは、離陸してしまったほうが問題がない」とも書いていて、理屈としてはそうなのかもしれないけど、こういうのを読むとますます飛行機に乗りたくなくなる。
今度飛行機に乗るときは「この飛行機、もしかしたらブレーキやエンジンが壊れてるのかかもしれないんだよなあ」と考えてしまいそうだ……。
知らなきゃよかった。



コーパイ(=コーパイロット。副操縦士)の運転の話。
 当然のことだが最終的な決断と権限はつねに機長が持っている。
 実際の飛ばし方自体は、ちゃんと訓練をしているわけだから、コーパイが飛ばしてもキャプテンが飛ばしても、それほどの差にはならない。むしろ、若くてやる気じゅうぶんのコーパイのほうが、キャブテンより部分的にはうまいなどということもある。
 ただ、これはあくまでも技量だけの問題であって、総合的な判断能力のことではない。その意味でいうと、考え方によっては天気が悪い日はコーパイにやらせたほうが安全だということがある。
 というのは、キャプテンは自分が操縦していると、操縦自体に神経を集中させてしまうから、逆に、それ以外の状況の見定めが甘くなる可能性があるからだ。たとえばある種の自信から「俺はまだ大丈夫、まだ大丈夫」と、逆にどんどん気持ちが入っていく。管制からの情報と自分がイメージする情報が違っていても、「もう少し先に行けば元に戻るだろう」「自分ならばできるだろう」という意識が出る。実際、その読みが当たることは多いが、そうならなかった場合は危険に近づくことになりかねない。
 コーパイが操縦していた場合、キャプテンとしてはその操縦を見ていればいいわけで、他のことに気を配る余裕が出てくる。しかも危ないと思ったらすぐにやり直しを要求できるし、コーパイは機長のオーダーに間髪を入れず従ってくれる。

もちろん飛行機の運転のことはよくわからないけど、「コーパイにやらせたほうが安全」というのはよくわかる。

ぼくは、仕事をする上で「これは誰かに任せるより自分でやったほうが早いわ」と考えて、自分でやってしまうことが多かった。
でも最近では、積極的に若い人に仕事を振っている。
そして気づいたのは、自分でやらないほうが格段に視野が広がるということ。

自分でやったことだと「せっかくここまでやったのだから」とか「成果が悪くなってきたけどなんとか持ちなおしてくれるはず!」とか、判断に"もったいない"や"願望"といった感情が入ってしまう。時間をかけてやったことほど特に。
どうでもいいことなら、そういう"お気持ち"も大事にしないといけないんだけど、成果がシビアに数字で見える仕事であれば早めに冷静な判断を下さなければならない。

だから「実行する人」と「チェックする人」はべつにしておいたほうがいい。
経験の浅い人に仕事をやらせるってのは、経験を積ませるだけじゃなく、冷静な判断をするためにも重要だね。



こういう「ちょっとめずらしい職業についている人が語る」業界ものエッセイって、たいてい下世話な暴露話が多いんだけど、『機長からアナウンス』は終始落ちついた語り口で、品がある。

ほんとに機長のアナウンス、という感じでその上品さがかえって新鮮だった。

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2019年3月11日月曜日

子どもを動かす3つの方法


こないだ娘の友だちの家におじゃましたとき。

さあそろそろお片づけしようかということになったが子どもたちがいっこうに片づけをしないので

「よっしゃ、じゃあおっちゃんがお片づけしようっと!
 ほらおっちゃん五個も積み木片づけた! おっちゃんがいちばん片づけ上手やな!」
とやってみせた。

すると、それまで遊んでいた子どもたちが「十個片づけた!」とか「ほらこんなにきれいに片づけたよ!」と口々に言いながら競うようにおもちゃを片付けはじめた。


その様子を見ていたおかあさんから「子どもをノせるのがうまいですね」と言われた。
うむ。
自慢になるが、自分でもうまいと思う。

それはひとえに、自分自身がめんどくさがりやで、おまけに親や教師の言うことをちっとも聞かずに育ったからだ。
自分が言いつけを守らない子だったから、やるべきことをやらない子どもの心理がよくわかる。

子どもに何かをさせたいと思ったら、「〇〇やってね」と素直に命じても無駄だ。
まあうまくいかない。

行動させるためには、禁じるか、競争させるか、負い目を感じさせるかだ。



禁じるのはシンプルながら案外うまくいく。

「お風呂に入らない!」と言ってる子に、
「あっそう。じゃあ入らなくていいよ。ぜったいにお風呂に入っちゃだめだからね!」
と言うと、子どもは「いやだ! 入る!」と泣きながらあっさり主張をひっくりかえす。

「かかったな」と内心ニヤリとするが、ここであわてて「よしじゃあ入ろう」と捕まえにいってはいけない。まずはゆっくりリールを巻いて相手がこちらに近づいてくるのを待つ。
「だめだめ。おとうちゃんがひとりでお風呂に入るんだから。やったー! ひとりでお風呂だー!」
と言いながら風呂に向かって走る。
そうすると子どもは「いやだ! お風呂入る!」と言いながら風呂に向かって駆けだす。
こうなればもうあとは「しょうがないなあ。じゃあ一緒に入ってもいいよ」と、「こっちが折れてやった」感を出す。

子どもが駄々をこねる場合はたいてい、明確な目的があるわけでなく、ただ「自分の要求を呑ませたい」ためだ。
そんなときには、

「風呂に入らせたい親 VS 風呂に入りたくない子」
 ↓
「風呂に入らせたくない親 VS 風呂に入りたい子」

と立場を逆転させることで、相手のプライドを満足させつつ目的を果たすことができる。
人は禁止されるとやりたくなる。これを心理学用語でナントカ効果という。忘れた。



競争させるのは説明不要だろう。
最初に挙げた、「お片づけ競争」のようなものだ。
「どっちが上手かな?」とか「おっちゃんがいちばん上手やで」と対抗意識を煽ることで、「やりたくないこと」をゲームにする方法だ。

小学生のとき、掃除は嫌いだったが「雑巾がけ競走」は楽しんでやっていた。
「マラソンで走った距離を教室の後ろに貼りだします」と先生が言いだしたときは、みんな競いあって走っていた。
誰しも負けるのは嫌なものだ。競争は手段のはずだが、多くの場合それ自体が目的化する。



負い目を感じさせるというのは、子どもの良心に訴えかける方法だ。
「片づけをしない」とか「ものを独り占め」とかやってる子どもは、それが良くないことだとわかっている。
悪いとは知っているが、意地になって後に引けなくなっているのだ。

既に悪いことだと自分でわかっているのだから、そんな子に対して
「片づけをしなきゃだめだよ」とか「みんなで仲良く使おうね」とか言っても意味がない。ますます意固地になるだけだ。

そんなときは「そうか。片づけてくれないのか。しょうがない。他の子だけでやるか」とか「〇〇ちゃんがひとり占めしてるからしょうがないよ。他の子らでべつの遊びしよう」とか言ってその場を離れる。
わがままを言っている子は、自分でも悪いことをしているとわかっているのだから胸が痛む。結果的に折れてくれることが多い。

要は、「言われて動いた」のではなく「自分の意志で動いた」と思わせることだ。
誰かに注意されたから改めるのは子どもでもプライドが許さないのだ。



三つのやりかたに共通しているのは「まず行動させる」ということだ。
教える前に行動させないといけない。

わがままを言っている最中の子どもに対して「〇〇しなさい」とか「〇〇したらだめでしょ」とか言う大人がいるが、そんな説教に子どもは耳を貸さない。
子どもだけじゃない。大人も同じだ。政治家のおじいちゃんも同じ。まちがったことをしている人に「あなたのやりかたはまちがっている」と言ったって反発されるだけだ。

やっていることを否定されたら自分自身を否定されたように感じる。当然ながら反発する。
だからあれこれ言う前に行動させる。
折れてやったふりをしたり、甘やかしたり、なだめたりすかしたり、脅したり、言うことを聞く薬を使ったり(こえー)、なんでもいいからとにかく行動させる。まずは風呂に入らせる。片づけをさせる。
その後で「ほら。早くお風呂に入ったらその後で遊べるでしょ」とか「片づけをしたらものがなくならないからいいよね」と言う。すると子どもはうなずいてくれる。

片づけをしていないときに「片づけしたほうがいいよね」と言われたら、"片づけをしない自分" が否定されることになる。

片づけをした後に「片づけしたほうがいいよね」と言われたら "片づけをした自分" が肯定されることになる。

言うことは同じでも、やる前に言うのとやった後に言うのでは反応はまったくちがう。

あれこれ言う前にとにかく行動させる。
行動を否定するのではなく肯定するように持っていく。できていないことを叱るのではなく、できたことを褒める。



ってのが、子どもと接しているうちにぼくが探しあてた方法。
「禁じる」「競争させる」「負い目を感じさせる」でじっさいうまくいくことが多いし、何より怒らなくていいので自分の精神上もいい。

ちなみにえらそうなことを書いたが、自分の娘やその友だち、姪、甥などの観測範囲の話なので、万人にうまくいくかどうかは知らない。

またぼくは教育の研究者じゃないので、ぼくのやりかたが長期的な発達にどんな影響を与えるかは知らない。どうせ誰にもわからないだろうけど。