2024年7月17日水曜日

ABCお笑いグランプリ(2024年)の感想

第45回ABCお笑いグランプリ(2024.7.7)の感想。


■Aブロック

ぐろう

 相方から自転車を借りたところ、職務質問をされた。なんと自転車を貸してくれた相方が被害届を出していた……。

 というすばらしい導入の漫才。が、そこがピークで、中盤の示談金をせしめようとしてくるあたりでスケールダウンしてしまう。「何のために!?」という得体の知れなさが、金銭目的といういちばんつまらない形で処理されてしまったのが残念。

 とはいえこれまでにいくつか見たぐろうの漫才は、家村さんが一方的に持論を展開する形だったので、相方が反撃を見せるという点で進歩の兆しを感じた。


天才ピアニスト

 タクシーの車内で上司に対して遅刻の言い訳をしていたら、運転手が嘘につきあってくれる……というコント。

 審査員に指摘されていたように窮地を救ってくれた運転手への感謝が足りないし、そもそもあの状況で噓に付き合ってくれる運転手って感謝だけでなく同時に気持ち悪さも感じるだろうに、そのへんの心理描写はカットしてただ「ありがとうございます」で済ませてしまうのはちょっと平板すぎる気もする。

 しかし声帯模写の達者さに、まだこんな引き出しがあったのかと奥の深さを感じた。次々と新しい設定のコントを考えてくる竹内さんと、それを最高の形で表現するますみさん。つくづくいいコンビだとおもう。


ダウ90000

 とにかくシチュエーションが自然で鮮やか。「家飲みの最中にそのテンションに疲れてしまってベランダに出てしんみりしゃべっているシーン」をコントにできる人はそう多くないだろう。それを缶ひとつと短いやりとりだけで伝えてしまえる芝居のうまさよ。

 さらにあの短い時間で、八人の登場人物を自然に登場させてそれぞれに持ち味を発揮させ、楽しさ、滑稽さ、驚き、失恋の悲しみ、同情、それに対する感謝の気持ちと切なさなどを表現して、それでいて詰め込みすぎに感じさせない自然さ。見事なドラマを見せ、それと同時にギャグやペーソスを散りばめてしっかりコントの形に落とし込む。

 つくづく見事。完成されすぎて逆に新人賞にふさわしくないとさえ感じてしまう。それにしても、まるで祭りに参加するように楽しそうな感じで毎年参加している姿は見ていて心温まる。


金魚番長

 オーケストラをテーマにした漫才。すごく達者なのだしネタもおもしろいし腕もある。だが、どうもスタイルそのものに目新しさを感じないというか。

「ひとりが次々に不可解な行動をとり、それに対して(コント世界の)外側にいる相方がツッコミを入れることで行動の謎が解ける」というスタイルの漫才は霜降り明星以降めずらしいものではなくなり、よほどの新奇性がないと「おもしろいんだけどどこかで見たことがあるような感じ」に映ってしまう。

 とはいえまだまだ若いコンビなのでこれから自分たちの強固なスタイルを築いてくれるのだろう。


 最終決戦に進出したのはダウ90000。


Bブロック

エバース

 車を持ってないのにドライブデートをすると約束をしてしまったので、相方に車になってほしいと頼むという漫才。

 突拍子もない設定でありながら、妙にディティールが詰められていて論理と非論理のはざまを揺れ動くようなエバースらしいネタ。ルンバで進むあたりはわりとベタな発想だったが、「やっと追いついた」「陰性、ヤバっ」「陰性のルンバ車」など次々に他の追随を許さない発想が飛び出し、怒涛の盛り上がりを見せた。

 その分、前半で佐々木さんがガッチガチに緊張していて、その緊張が映ったのかコンビ両方何度か言い間違いをしてしまうミスがあったのが残念。ああいうわかりやすいミスがあると、審査に迷ったときの判断材料になっちゃうだろうねえ。


やました

 一方的にしゃべりすぎる女性が恋人から別れを切り出されるひとりコント。

 おもしろい人、達者な人とはおもいますが、いかんせんこのタイプのコントは既視感がぬぐえないな……。なぜか女性芸人ばかりなんだよな。「人の話を聞かずにずっとしゃべってる男」「しょうもないだじゃれを連発する男」はめずらしくないから、男が演じてもおかしくないのかな。


フランスピアノ

 パントマイムを題材にしたコント。軽いものを重く見せるのではなく、重いものを軽く見せるおかしさ一辺倒で進んでしまったのが残念。そもそも軽いものを重く見せるパントマイム自体がそれほどなじみがないものなんじゃないか。


青色1号

 アナウンサー採用面接を舞台にしたコント。失敗をくりかえしている応募者が自分の置かれた実況をはじめ、それに呼応するようにアナウンス部長も熱の入った実況をはじめてしまう……。

 後半にいくにつれて盛り上がる展開、ミスの許されない脚本と熱の入った演技、たまにさしこまれる解説者のようなアクセントも効いてソツのないコント。

 ただ個人的には三人とも熱量の高いコントが好きじゃないんだよね。三人ともが熱いと喧嘩みたいになっちゃう。おかしさって盛り上がった後の冷静になった瞬間に訪れるとおもっているので。


 勝ち上がりは青色1号。まあいちばん失点が少なかったもんなあ。個人的にはエバースが勝てなかったのが残念。


Cブロック


令和ロマン

 猫ノ島という怪しい島を題材にした漫才。

 M-1優勝により知名度が高くなったおかげでお客さんもすんなり世界に入ってくれる。世界に引き込む形の漫才をするこのコンビにとっては大きなアドバンテージだろう。

 話があっちこっちに行くし漫画的なぶっとんだボケが随所に入るのだが、どんなに乱暴に揺さぶっても堂々たるたたずまいを見せる松井ケムリさんのおかげで軸が揺るがないのがすごい。どんな目に遭ってもケムリはケムリでいられるもんな。


かが屋

 始業前の教室を舞台にしたコント。定期券を落とした生徒と、それを拾ってあげた友人が織りなすドタバタ。

 いやあ、良かった。これまで観たかが屋史上もっともおもしろかった。ちょっとした冗談のつもりだったのに本気で友人を怒らせてしまって傷つく生徒の気持ちも、自分の勘違いで友人にひどい言葉をぶつけてしまって悔やむも引っ込みがつかなくなって素直に謝れない生徒の気持ちも、よくわかる。切ないドラマなんだけど、優しい方言で包みこんでいるのと、「地獄の空気」というちょうど学生らしいワード、「同窓会で大スター」や「五分経ってないんや」など急に俯瞰で見るような視点の切り替えによってアクセントをつけている。

 特に「五分経ってないんや」は屈指の名セリフで、何がすごいって、絶妙のあるあるでありながら、観ている側の気持ちとぴったり一致しているところ。あの濃密なドラマが五分もかかっていないなんて。


フースーヤ

 えー、ぜんぜんおぼえてないです。フースーヤってそんなもんだからね。

 いちばんおもしろかったのは、大会オープニングのVTRでピン芸人やコント師が「ピン芸でかきまわしてやる!」「コントがいちばん強い!」みたいなコメントを言った後にフースーヤが「漫才をなめるなよ」ってコメントを出してたところ。

 誰が言うてんねん。


ぎょねこ

 円周率の暗記をテーマにしたコント。

 審査員が「知的なネタ」とコメントしていたが、そういうコメントが出るってことはそんなにおもしろくなかったってことなんだよね。個人的にはこういうロジカルなネタは好きなんだけど、台本のおもしろさだけでは勝てないよなあ。

 昔のABCグランプリでジグザグジギーが毎回勝てなかったのをおもいだした。


 勝ち上がったのは令和ロマン。うーん、かが屋が良かっただけに残念。



ファイナルステージ


令和ロマン

 実家に帰ったら、HUNTER×HUNTERのゾルディック家みたいになっていた、という漫才コント。

 一本目のネタが漫画的だったのでちがうのを観たいとおもっていたのだが、輪をかけて漫画チックだったのでなんだか萎えてしまった。

 さんざんあれこれやってきて、最後が「妹ちっちゃい」というシンプルすぎるボケだったのが妙におもしろかった。


青色1号

 三人で英語禁止ゲームをしたら、二人が異常に弱すぎてどんどん金を出してゆく……というコント。

「英語禁止ゲームすぐに英語を言っちゃう」という弱めの笑いがずっとくりかえされていたので大きな仕掛けがあるのかとおもったら、誕生日祝いというこれまた弱めの仕掛け……。

 ぐろうの「真相がわかったことで得体の知れなさがなくなってしまう」のと同じように、これも誕生日祝いであることがわかったことで一気に狂気性が薄れてしまった。


ダウ90000

 浮気相手と喫茶店にいたら、偶然彼女がやってきて、会社の同僚のふりをするコント。

 別人のふりをするドタバタコント、ってのはちょっとダウにしてはベタすぎる気もする。とはいえ「芸能人の誕生日めっちゃおぼえてる人」「仕事のできる坂下さん」など絶妙なリアリティを織り交ぜてくるあたりはさすが。

 八人がでてきて、それぞれが別人のふりをする……となるとさすがに話が混みいりすぎて、この短時間で表現するのは難しかったかな。


 ということで優勝は令和ロマン。大会当初からあった「誰が令和ロマンを倒すんだ?」の雰囲気通りの展開になったけど、最後に青色1号もダウ90000も失速しちゃったもんなあ。



 ABCお笑いグランプリの魅力は、ネタもさることながら、それ以外のトーク部分。毎年、ネタ以外の部分で大きな笑いが起きるのが特徴。審査員が笑わせてくれるし、去年の「彼は声優の専門学校に行ってました」はコント以上のコントだった。

 今年は一本目ネタ終わりのダウ「二本目はミュージカルやります」→金魚番長「ワンピース歌舞伎やります」で、エンディングでのまさかのワンピース歌舞伎。あの度胸、実行力、そして急遽用意したにしては高すぎるクオリティ。「こりゃあ金魚番長は売れるな」とおもわせてくれた。

 令和ロマン高比良さんのヒール立ち回りも大会の盛り上がりに大きく貢献していたし、やっぱり番組全体のおもしろさでいうといちばん好きな大会だなあ。


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2024年7月10日水曜日

【読書感想文】村上 春樹『スプートニクの恋人』 / 炎が弱くなった後の人生

スプートニクの恋人

村上 春樹

内容(e-honより)
22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。―そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー。


 村上春樹の小説を読むたびにおもう。よくわかんねえな、と。

 でも文章は魅力的だし、断片的にではあるが印象的なエピソードも挿入されていて強く記憶に残るし、なんだかわかんないけど「良さそうなものを読んだ、ような気がする」という気持ちにはなれる。でもどんな話だったのか、うまく説明できない。当分、村上春樹はいいや。

 でも数年たつと「今なら理解できるかも」という気になって、また読んでしまう。そしてやっぱり「よくわかんねえな」とおもいながらページを閉じる。

 中学生のときからずっとそれをくりかえしている。


 これは好みの問題なんだろうけど、ぼくは「解釈の余地が大きすぎるもの」が好きじゃないんだよね。絵画とかもよくわかんねえし。言いたいことがあるなら言葉ではっきり説明してくれなきゃわかんねえよ。こっちはおかあさんじゃないんだからあんたの深層意識まですくいあげようとしてあげませんよ。



 そんなわけでぼくにとって四年ぶり十作目ぐらいの村上春樹作品である『スプートニクの恋人』を読んだわけだが、これがまあザ・村上春樹。

 とにかく気取ったしゃらくさい文章の導入からはじまり、主人公はモテるための努力もしないのになぜか女に不自由せず、不思議な出来事をきっかけに旅に出て、いくつかの残酷で印象的な挿話が披露され、奇妙な体験をして、明確な解釈や結末もないままぼんやりと終わる。

 いつもの村上春樹だ。そう、ちょうど村上春樹が村上春樹であることから逃げられないように。やれやれ。


 こんなことを書くとぼくが村上春樹を小ばかにしているようだが、そんなことはない。ただ肌に合わないとおもっているだけだ。ノーベル賞の季節になると湧いて出るハルキストのことは心の底から侮蔑してるがね。



 それでもぼくが村上春樹作品を数年に一度手に取りたくなってしまうのは、断片的にではあるが気に入る描写や言い回しが見つかるからだ。


 「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」

 これこそ村上春樹の作品をよく言い表している言葉かもしれない。

 わからないものをわからないままにすtることがどんどん許されなくなっているからこそ、余計に。ほんと「わかりませんでした」が作品に対する批判だとおもっている人が多いからね。それは自分の知性の欠如か懐の狭さの吐露でしかないのにさ(もちろんぼくが村上春樹作品をわからないと書くことも同じだ)。



 今作でもっとも気に入った言い回しはこちら。

 人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。でもひとたび失われてしまえば、その炎はもう永遠に取り戻せない。ぼくが失ったのはすみれだけではなかった。彼女といっしょに、ぼくはその貴重な炎までをも見失ってしまったのだ。

 そうねえ。ぼくの場合は16歳~17歳頃に「人生で今がいちばん楽しい!」と唐突に気付き、「今後これを超えるような日々はきっともう来ないだろう」という諦観も同時に得てしまった。

 はたして、その後の人生において、瞬間的に楽しさや喜びを感じることはもちろんあるが、あの頃のように「何をしていても、していなくても、24時間ずっと愉しい」日々は訪れていない。

 それはそれで悪いことではなく、その〝ささやかな炎〟があるからこそ今を生きていける面もある。それに、我が子を見ると「この子たちにとって人生のピークはきっとこれから訪れるんだろう」とおもえて、これもまたわくわくさせてくれるんだよな。


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2024年7月5日金曜日

【読書感想文】田中 陽希『それでも僕は歩き続ける』 / おもしろい人のつまらない本

それでも僕は歩き続ける

田中 陽希

内容(e-honより)
本気で挑むことの大切さを伝えたい。人気テレビ番組『グレートトラバース3―日本三百名山全山人力踏破』でおなじみの著者が、旅の途中で語ったこれまでの人生とこれからのこと。驚異的な挑戦を続ける理由や、次世代をになう子どもたちへのメッセージが綴られる。幼少期から学生時代までの貴重な写真。グレートトラバース3の記録写真を収録。対象:小学生高学年以上。


『クレイジージャーニー』というテレビ番組がある。

 他の人がしないようなめずらしいことをやりつづけている人に密着するドキュメンタリーだ。世界中の危険な場所に行く人、アリが大好きでとうとうアリと関わることを職業にしてしまった人、虫を食べることに情熱を燃やす人、高い所に登りたい人、洞窟探検を続けている人……。

 いろんな“クレイジー”な人が出てくるが、中でもクレイジー度高めでぼくが好きなシリーズが「アドベンチャーレース」に挑戦する人たちの会だ。

 アドベンチャーレースとは、何日もかけて、いくつかのチェックポイントを回りながら、走ったり自転車に乗ったり泳いだりカヤックを漕いだりしてゴールを目指すという競技だ。ざっくり言うとトライアスロンのすごい版というか。

『クレイジージャーニー』ではTeam EAST WINDというアドベンチャーレースのチームを追いかけているのだが、このチームのレースのしかたがえげつない。

 まず、ほとんど寝ない。レースは一週間ほどかけておこなうのだが、まずスタートしてから五十時間ぐらいはまったく寝ない。その後は仮眠をとるが、それも一時間とか二時間とかの短時間で、一週間で合計十時間も寝ていないんじゃないだろうか。ただ寝ないだけじゃなく、その間ずっと走ったり自転車を漕いだりしているのだ。寝ていないからみんな思考力が落ちているのに、それでも走りつづける。それどころか流れの速い川を移動したり、崖を降りたり、一歩間違えれば死んでしまうような場所を移動したりもする。

 またアドベンチャーレースは女性を含む四人一組のメンバーでやっているのだが、Team EAST WINDには田中正人さんという鬼軍曹がいて、この人が(一般人の感覚でいえば)パワハラをしまくる。メンバーを寝かさないし、ちょっとでもへたばったメンバーがいたら暴言を吐く。数十時間寝ていなくてふらふらになっている人に「ビンタしたげようか?」なんてことを言う(この「したげようか?」は嫌味でもなんでもなくて、本気で優しさのつもりで言っているのだ)。とはいえアドベンチャーレースに参加する人はもともとどっかおかしい上に何日もまともに睡眠をとらないせいでますますおかしくなっているので、他のメンバーもそれを当然のこととして受け入れている。

 ハードな競技というレベルを超えて、ぼくから見たらほとんど拷問(強制されているか自主的にやっているかの違いしかない)でしかないのだが、そのクレイジーさがおもしろくて『クレイジージャーニー』のアドベンチャーレース回は毎回「ひええ」「頭おかしい」「ぜったいまちがってるって」と言いながら食い入るように見てしまう。 

 そんなTeam EAST WINDの主要メンバーである田中陽希さん(リーダーと同じ田中姓だがこれは偶然)のエッセイ集。

 


 ……ということでどんなクレイジーなことが書いてあるんだろうと期待して読んだのだが、まったくの期待外れ。

 コロナ禍の刊行、編集者がインタビューをまとめただけ、子ども向けに書かれたもの、ということでとにかく薄味でつまらない。

「何かをはじめたら最後までやりとげることが大事だとおもいます」「挑戦をすることで周りの人への感謝の気持ちが自然に湧いてきました」みたいなことが延々と書かれている。つ、つまんねえ……。


 ただのファンブックだった。

 田中陽希さんという人はクレイジージャーニー以外のドキュメンタリー番組にも出ているそうで(ぼくは知らなかったが)、その番組のファン向けに書かれた本のようだ。それも浅いファン向けというか。

 田中陽希さんの生い立ちだとか学生時代の話だとかにやたらとページを使っている。おもしろいエピソードでもあればいいんだけど、これがまた平凡な学生生活なんだ。田中さんの写真も多いし、「田中陽希さんという人間のファン」につくられた本という感じ。競技のファン向けではない。

 レースの間の様々な感情の移り変わりだとか湧いてくる妄念だとかそういうところはまったく掘り下げられていない。小学三年生の道徳の教科書に載せるのにちょうどいいレベルのうわっつらの話しか書かれていない。

 これはインタビューした人が悪いんだろうなあ。せっかくのめちゃくちゃおもしろい素材なのに、それをまったく活かしてない。最高級牛肉をハンバーグにしてカレーにしちゃうようなものだ。クレイジーな素材を大衆料理にすんじゃねえよ。


 ぼくがノンフィクションの感想文を書くときは何か所かは引用してあれこれ書くようにしてるんだけど、この本に関しては内容が薄すぎて引用したいところが一か所もなかった。

 わけのわからない活動をしている人なんだからイカれたところがあるはずなのに、そこをまったく見せず凡庸な人生訓に終始させているんだもの。

 ということで田中陽希さんのファンだけど競技には関心ない、という人以外にはおすすめしません。『クレイジージャーニー』を観ましょう。


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2024年7月4日木曜日

【読書感想文】鎌田 浩毅『富士山噴火と南海トラフ 海が揺さぶる陸のマグマ』 / 火山灰はガラス

富士山噴火と南海トラフ

海が揺さぶる陸のマグマ

鎌田 浩毅

内容(e-honより)
「3・11」以降の日本列島は、「大地変動の時代」に突入してしまった。富士山にも、火山学者たちが密かにおそれる、ある重大な「異変」が起こった可能性が高い。2030年代に高い確率で発生する、南海トラフ巨大地震の衝撃が加われば、300年間蓄積したマグマが一気に噴き出しかねない。火山学の第一人者による、渾身の予測と提言。


 タイトルの「南海トラフ」部分は、羊頭狗肉とまではいかないがちょっと釣りタイトル。南海トラフ地震のことは「近いうちに起きることが確実視されている」程度しか書かれておらず、ほぼ富士山噴火の話。

 まあ著者は火山学者なので、専門外の地震について語らないのは誠実な態度ではあるんだけど。だったらタイトルにつけるのはずるいな。そっちのほうが売れるから出版社の人がやったんだろうけど。



 富士山噴火と聞いても我々はあの雄大な富士山の姿しか見ていないからあまりぴんとこないけど、実は富士山は激しく活動している山で、わかっているだけでも過去2200年間で42回は噴火しているそうだ。平均すると50年に1回ぐらいは噴火する計算。もちろん等間隔で噴火するわけじゃないけど。

 そんなペースで噴火している富士山だから、300年噴火していない現在は「きわめてめずらしい状況」にあるわけだ。そう考えるといつ噴火してもおかしくない気がしてくる。


 富士山は大きな山だけに、そこに溜めこんでいるマグマも多く、もし噴火したら、火山灰、溶岩流、噴石、火山弾などさまざまなものを放出し、さらにそれによって火砕流や泥流といった現象を引き起こして広い範囲に被害を与えると見られている。

 たとえば火山灰にしても、ぼくなんかは「ああ桜島周辺だと風向きによっては洗濯物が干せないっていうね。火山灰が舞ったら不便だろうね」ぐらいにしかおもってなかったのだが、そんなものではないらしい。

 基本的には、火山灰はマグマから軽石を経由して大量に生産される。このようにしてできる火山灰の正体は、ガラスの破片である。 「ガラス」というと普通は、窓ガラスやガラスのコップを思い浮かべるだろう。実はガラスとは、物質がきちんとした結晶構造をもたない状態のことをいう。ガラスは結晶に比べるとずっと脆く、細かく割れると鋭い破片になるのである。
 マグマが急に冷やされて固まると、ガラスの状態になる。もしマグマが非常にゆっくりと冷えると、ガラスではなく結晶ばかりの塊になる。マグマが急冷したときだけ、ガラスになるのだ。
 つまり、噴火の際に火山灰が噴出するということは、①マグマが引きちぎられて空中へ放り出されたあと、②急速に冷えてガラスの破片になること、を意味する。そのため火山灰には、鋭い破面をもったガラスが含まれるのである。これらが肺の中に吸入されると、先に述べた珪肺という症状を起こすのである。
 さて、これで火山灰が「燃えかす」ではないことが理解していただけただろう。
 岩石の細かいかけらである火山灰は、水に溶けることもなく、いつまでも消えることがない。乾燥すれば何週間も舞いあがり、雨が降るとまるでセメントのように固まってしまう。城の壁に使われている漆喰のように硬化するのである。

 火山灰という言葉からさらさらした粉のようなものをイメージしていたのだが、その正体はガラスなのだ。細かいガラスが広範囲に撒きちらされるわけで、それはさぞかし困ったことになるだろう。

 重みもある(雨を吸えばさらに重みは増す)から屋根に積もれば家屋を壊し、排水管を詰まらせ、農作物を枯らす。さらに細かいので首都圏にまで飛んでいき、細かいので機械・コンピュータの中にまで入りこんで故障させる。

 そうなるとどこまで被害が拡大するかわからない。

 さらに「南海トラフ地震が引き金となって富士山が噴火する」という可能性も十分にあり、そうなると震災に加えて大規模な停電や通信障害も起こる可能性があり、地震被害がさらに拡大することになる。


 ふうむ。たいへんだ。そんな大惨事が数十年のうちにほぼ確実に起こるのだ。

 ただ救いなのは、噴火は地震とちがって数十日前には発生がわかること。

 わが国では活火山を所掌する気象庁と、各大学をはじめとして、国立研究開発法人である防災科学技術研究所、国土地理院、産業技術総合研究所などが約50の活火山に観測網を展開し、そこで得られたデータは気象庁によって24時間監視されている。
 そうした観測結果をもとに、われわれ地球科学を研究する者は「火山学的には富士山は100パーセント噴火する」と説明している。しかし、最初の噴火予兆である低周波地震がいつ始まるかを前もって言うことは、現代の科学技術でもまったく不可能である。
 たしかに低周波地震の発生から噴火までには数週間~1ヵ月ほどの時間を要することは予測しているが、「噴火の数週間~1ヵ月前」というスタートは、明日かもしれないし、かなり先の数年後かもしれないわけである。だが少なくとも、スタートしてから数週間~1ヵ月ほどの時間的な猶予はあるので、その間に可能なかぎり準備と対策を講じるべきだと言っているのである。
 噴火予知は地震予知と比べると、実用化に近い段階にまでは進歩してきた。しかし、一般市民が知りたい「何月何日に噴火するか」に答えることは、残念ながら現在の火山学ではできない。仮に「何月何日に噴火する」といった風評がメディアやインターネットなどで流れても、科学的根拠はまったくないので信用しないでいただきたい。

 数週間あれば避難もできるしある程度は手を打てる。

 となると、やっぱり怖いのは、同じように「ここ数十年でほぼ確実に起こる」と言われている南海トラフ地震のほう。地震も予知できるようになってほしいものだ。せめて数時間前でもいいから。


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2024年6月28日金曜日

小ネタ19

和製

 和製って人にしか使わないよね。工業製品だと「日本製ドライヤー」なのに、スポーツ選手などに使われるのは「和製ストライカー」「和製大砲(長距離打者の意味)」だ。

 また「和製メッシ」「和製イニエスタ」のように外国の人物の名前がつけられることもある。

「和製メッシ」は、製品ではないからほんとは和製ではない。もちろんメッシでもない。


狛犬ポジション

 電車の扉横のポジション(俗に言う“狛犬ポジション”)が好きな人は多い。そんなに混んでないときは好きにすればいいのだが、満員電車だとあそこに陣取ったまま一歩も動こうとしない人はたいへん迷惑だ。駅に止まったときはあのポジションの人がいったん外に出てくれるとスムーズに乗客が乗降できるのだが、あのポジションの人はまず動こうとしない。動いたら、べつの狛犬ポジション好きに取られるからだ。

 みんなが「この人がいったん外に出てくれたらスムーズに人が流れるのにな」とおもってても、狛犬ポジションの人は「私は関係ありませんよ」という顔をしている。京都の「いけず石」のようだ。

 狛犬ポジションに陣取る人を減らすためには、あそこの乗り心地を悪くするのがいい。

 といっても、人を不快にするためにエネルギーを使うのはよくない。どうせなら「他のお客さんの役に立つように、けれど狛犬ポジションの人は負担が増えるように」するのがいい。

 たとえば狛犬ポジションの人からは路線図が見えるようにしておき、「停車駅について知りたい人は扉横に立っている人にお尋ねください」という車内アナウンスを流す。じっさいに尋ねる人は少ないだろうが、「知らない人に質問されるかも」とおもうだけで立ちたくなくなる人は多いだろう。

 これはなんの根拠もないが、狛犬ポジションに立つ人は、知らない人に話しかけられるのを嫌う度合いが人より強いんじゃないかとおもう。


いけず石

「いけず石」について説明しておこう。

 車が自宅の敷地に入ってこないように、敷地の角に設置される石のことだ。石というよりちょっとした岩ぐらいのサイズ。主に京都で見られる(「いけず」は京都弁で「意地悪」)。

 都市部、とくに古都ということで、京都市内の家はたいてい狭い。塀や囲いなどない場合が多い。道路も狭く歩道がないことが多いので、家の外壁のすぐ近くを自動車が走ることになる。そのため「いけず石」が設置されることになったのだろう。

 しかし「自宅を壊されたくない」とおもうのは誰しもあたりまえに持っている気持ちだ。なのに「自宅を壊されたくないから自宅の敷地内に石を置く」ことを「いけず」と呼ぶなんてひどい。何にも悪くしてないのに。

「あの人は泥棒に入られないように家に鍵かけて番犬飼ってはるわ。いけずやわあ」と言うようなものだ。泥棒側の意見だ。