2024年6月10日月曜日

【読書感想文】あだち充『みゆき』のひどさと、だからこそわかるすごみ

 

みゆき

あだち充


 1980~1984年に連載された、あだち充の初期作品。はじめて読んでみた。

 最初にことわっておきますけど、今の社会規範で、昔の作品を断罪するのは不毛かつ卑怯なことだとおもうんですよ。小林賢太郎がオリンピック開会式に携わることになったとたんに昔の映像をひっぱりだしてきていちゃもんをつけるような連中ね。


 それはそれとして。

 これはひどい作品だ。2024年の今になって読むと、まともに読めたもんじゃない。

 もう一度言っておくと、作品や作者を批判するつもりは毛頭ない。ただ、やっぱり『みゆき』の中で描かれている世界はひどい。救いようがない。これはナチスドイツを描いた映画を見て「ひどい時代だな……」と感想を抱くのに似ているかもしれない。

 というわけで「ひどさを楽しむ」という読み方をするのをお勧めします。『課長島耕作』と同じ楽しみ方。




『みゆき』の世界では、性犯罪が楽しく消化されている。風呂をのぞいたり女の子の脱いだ下着を勝手に触ったりはまだかわいいもので(それだって十分犯罪なんだけど)、スカートをめくり、警察官や教師が女子中学生に触れて「ぼくとデートしようよ」としつこくつきまとう。

 で、それが極悪非道な行為として描かれているわけではなく、「明るく楽しいスケベ」としてギャグ調に描かれている。「スケベだけど憎めないおじさん」みたいな扱いだ。

 今の感覚だと、まったく笑えない。中学校教師が教え子である女子生徒を気に入り、特別扱いして、ボディタッチをして、部屋に呼ぶ。直截的に「つきあってくれ」と言ったりする。これのどこで笑えというのか?


 でも1980年代にはこれは「ほほえましいユーモア」として受け止められていたのだろう。もちろん眉をひそめる人もいたのだろうが、週刊少年サンデーに連載されて単行本になっている以上、多くの人は少年向けコンテンツとして問題なしとしていたわけだ。

 いやあ。すごい時代だ。

 何度も書くが、漫画が悪いわけではない。社会が悪かったのだ。

 ちなみに、1980年代前半の『みゆき』ではおじさんが女子中学生につきまとい、1980年代後半の『ラフ』ではおじさん(主人公の父親)が女子高校生をナンパする。声をかけるだけで触ったりはしない。そして1990年代の『H2』以降は、せいぜい高校生がエッチな本を読むぐらいで、セクハラや性犯罪はほとんどない(偶然スカートがまくれる、とかはある)。あだち充作品を追っていくことで「少年マンガ誌でどこまで許されてきたのか」の時代変化がわかる。




 ま、「スケベなおじさんたち」はまだマシというか。セクハラ中学教師も、嫌がっている女の子の家に強引に押しかける高校生も、勤務中に中学生をナンパする警察官も、一応「どうしようもないスケベなダメ男」として描かれているからだ。

 いちばんひどいのが主人公の若松真人だ。こいつも他の男性キャラと似たり寄ったりのクズなのだが、主人公なので「読者が共感できるいいやつ」として描かれている。ここにいちばん疑問をおぼえる。

 今の感覚で読むと「こいつのどこがいいやつなの?」とおもう。たとえば、こいつは事情があって血のつながらない妹とふたりで暮らしているのだが、その妹に家事をすべて任せている。さらに妹が旅行でいないときはクラスメイトの女の子に「料理つくる人がいないんだよね。作りにきてくれない?」なんてことを言うのだ。そして作らせる。もちろんこいつは食べるだけで何にもしない。つくる人がいないんだよね、じゃないんだよ。おまえがつくるんだよ。

 どうしようもないクズ男だ。べつにクズ男が主人公でもいいのだが、クズならクズらしくしてほしい。『カイジ』の主人公・伊藤カイジはクズだが、ちゃんとクズとして描かれている。

 若松真人はクズなのに、作中ではまるでクズじゃないかのような扱いをされている。こいつを好きになれる要素がぜんぜんない(何度も書くけど、今の感覚では、ね)。


 男女雇用機会均等法の施行が1986年、中学校の家庭科が完全男女共修となったのが1989年。

『みゆき』の時代は、まだ「男女は平等に。男も家事をして、女も勉強して仕事をする」という感覚すらまだ一般的でなかった時代だ。だから若松真人のような男でもクズじゃないかのような顔をしていられたのだ。




 主人公もクズだが、ヒロインがぜんぜん魅力的でない。

 エロ漫画に出てくる女と同じぐらい、都合がよすぎる存在だ。主人公の(血のつながらない)妹・若松みゆきは、どんなにダメな姿を見てもずっとずっとお兄ちゃん大好き。それでいて、お兄ちゃんに彼女ができたときはすっと身を引く。

 本命彼女の邪魔はせず、でも本命女がいないときはエッチな姿を見せてくれる。ザ・都合のいい女だ。


 もっとからっぽなのが、もうひとりのヒロイン・鹿島みゆきだ。

 主人公と同級生なのだが、鹿島みゆきは勉強ができるのに主人公がバカだから一緒に同じ大学を受けることにし、主人公が入試に落ちると自分は合格していたのに一緒に浪人するのだ(一応母が入学手続きを忘れていたからという理由をつけてはいるが)。

 はっきりいって、パッパラパーのでくのぼうである。自分の意思がまるでない。ご主人様の後についてくるだけの犬と変わらない。「だいすきな彼ぴっぴのおよめさんになりたいの。いっしょにいられたらほかにはなんにもいらないわ。それ以外はなんにもかんがえられないの!」のバカ女だ。この女のどこに魅力があるんだ。

 まあクズ男とバカ女でちょうどいいカップルではあるのだが……。




 あだち充作品の男女の姿は、時代を映している。

『みゆき』の頃のヒロインは、どんなダメな男でも文句のひとつも言わずに優しく接し、好きな男に対してはとことん愛する女性だった。

『ラフ』の二宮亜美は二人の男を天秤にかけどちらが自分にふさわしいかを選択する立場にある。とはいえ二宮亜美はイエに縛られた存在であり、当初は父親の言われるままに動き、結婚相手まで父親に決められていた。徐々に自分で選択をするようにはなるが父親に対して正面切ってノーをつきつけるシーンはない。

『H2』の雨宮ひかりはもっと選択的に男を選ぶし、新聞記者として生きるというはっきりとした夢も描かれる。男に頼らずとも生きていける自立した女性だ(もうひとりのヒロインである古賀春華は将来の夢こそ持っているものの男に尽くすのが好きなタイプでちょっと鹿島みゆきに近い)。

『クロスゲーム』に出てくる月島四姉妹は性格はバラバラだが、四人とも「女だから男に優しくしないといけない。どんな男に対してもおしとやかにふるまうべきだ」なんて考えは微塵も持っていない。『タッチ』では「南を甲子園に連れてって」だったのが『クロスゲーム』では女子中学生が野球部のエースとして活躍している。


 ということで、『みゆき』はひどい作品だが、ひどい作品だからこそ、それ以降時代を追うごとに作中に出てくる女性像が変化していってるのが感じられて、あだち充氏がちゃんと感覚をアップデートできているのを感じる。人は思春期までに形成された価値観をなかなか壊せないものだから、これはかんたんなことじゃない。

 さすが50年以上も少年少女向け人気漫画家でいられる人はすごい。


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2024年6月3日月曜日

おさえつけ


 某中学校のオープンスクールに行った。娘が受験するかも、ということで。

 校長の話、放送部の進行による質疑応答コーナー、校舎見学、体験授業。

 すべて終わった後で娘に「どうだった?」と訊いたら、「図書室に本が多いのがよかった」と言っていた。ま、他の中学校を見たことがないからいいとか悪いとか判断のしようがないよなあ。


 娘の判断に影響を与えちゃいけないとおもって何も言わなかったけど、ぼくは「いい学校だな」とおもっていた。

 そうおもったのは、校長の挨拶の前に、進行を担当していた放送部の子が「それでは校長先生、てみじかにお願いします」と言ったからだ。言われた校長は苦笑い。

 校長の話が長いことをいじれる環境。もしかするとそれすらも台本通りだったのかもしれないが、とにかく「生徒が多少は校長をいじってもいい」という姿勢を見せたことをすばらしいとおもった。


 ぼくだって他の中学校を知らない。比較できるのは、三十年近く前に自分が通っていた中学校だけ。

 ぼくの通っていた中学校では、生徒が教師を、それも校長を、おおっぴらにいじるなんてとてもできる空気じゃなかった。

 なにしろ、講演に来たゲストが「みなさん足をくずして楽な姿勢でお聞きください」と言い、生徒たちが足をくずして楽な姿勢で話を聞き、講演が終わってゲストが帰ったら体育教師が「ほんとに足をくずすやつがあるかぁ! 失礼だろうがぁ!」とぶちぎれた学校だ。今考えても異常者だ。こういうやつがいるから生産性は上がらないのだ。


 ぼくの中学時代、教師たちは「とにかく生徒をおさえつけること」を目的として生きていた。もちろん個々の教師にはそれぞれいろんな考えがあったのだろうが、少なくとも学校全体の姿勢としては「生徒ふぜいが教師にちょっとでもたてつく真似を見せたら殺す」みたいな感じだった。

 その姿勢がもっとも表れていたのが朝礼や始業式・終業式などで、校長先生がお話しされている間は、私語はおろか、身体を動かすことすら認めていませんよ、という感じだった。

 べつにぼくの通っていた中学校が荒れていたわけではなく、それどころか市内でも有数の“荒れていない学校”として有名だったぐらいで、それでも刑務所のような厳しさで生徒を管理しようとしていたので、その時代の公立中学校はどこも似たり寄ったりだったのだろう。


 ぼくが中学生だった1990年代後半は、ヤンキーブームは去っていたものの、まだそれを若干引きずっていた時代だった。そのへんは当時の人気漫画にも表れていて、『SLAM DUNK』『幽遊白書』『GTO』など“元ヤンキーが主人公の漫画”が多かった(『ろくでなしブルース』のようにヤンキーどまんなかはダサいとおもわれていた)。

 じっさい、ぼくらよりも十年ぐらい上の世代はわりと荒れていたそうだ。

 というわけで教師たちも「ちょっとでも手綱をゆるめてまた不良が増えたら困る」とおもっていたのだろう。生徒に対してはとにかく厳しく厳しく接していた。時代だ。


 もうひとつ、オープンスクールに行った学校がぼくの通っていた中学校とちがうところがある。

 それは「私立でそもそも不良あるいは不良予備軍は入学してこない」ということだ。

 そもそも荒れそうな人が入ってこない。だから締めつける必要がない。

 そういや高校でも、トップクラスの進学校は校則がほとんどなかったり、服装や髪色が自由だったり、しめつけがゆるい。「おまえらなら、どこまでやっていいかわかるよな」という感じだ。そうでない学校は「自由にさせたらおまえら何するかわからないからめいっぱい締めつけとく」となってしまう。

 自由を求めすぎると自由を与えてもらえない。

 皮肉なものよ。



2024年5月31日金曜日

【読書感想文】北野 勇作『100文字SF』 / 坂が好き

100文字SF

北野 勇作

内容(e-honより)
100文字SF、集まれ!新しい船が来たぞ。えっ、沈んだらどうしようって?馬鹿、SFが死ぬかよ。それにな、これだって100文字SFなんだ。北野勇作がそう言ってたろ。さあこの紙の船に、乗った乗った!

 ほぼぴったり100文字のSF短篇集。というかショートショート。

 SNSで発表されている1,000篇の中から200篇を選んだらしい。あのショートショートの神様・星新一氏の作品が約1,000篇だから、100文字という縛りで1,000篇もの作品を書くのはただただすごい。

 しかもクオリティも高い。




 気に入った作品を三篇だけ紹介。

 急坂にある商店街だ。商店街全体が少しずつずり落ちていくから、いちばん上には空き地ができる。そこに新しい店が入る。坂を下れば下るほど左右の店舗は古くなる。いちばん下がどうなっているのかは、誰も知らない。

 いいねえ。子どものような自由な発想。



 定期的に襲ってくる人食い巨大怪獣への対策として行われたのは人を巨大化する計画。誰かひとりが巨人となって戦う。勝てるんですか。勝てなくても、今回から食われるのはひとりで済むだろ。あんなに大きいんだから。

 きれいなオチ。アメリカンジョークのよう。



 水筒の中に何かがいる。口から覗いてみたら向こうもこっちを覗いていた。逆さにして振ってみたが水筒の内壁に手足を突っ張って出てこない。熱湯を入れても平気らしい。それならまあ、何も入ってないのと同じことか。

 ちょっと不快な余韻が残る。こういうのも好き。




 とはいうものの、一気に読んでいるとさすがに飽きてきた。

 いろんな作品があるとはいえ、200篇も読んでいると傾向が見えてくる。坂を扱った作品が多いなとか、またまわりオチか、とか。

 これはあれだな。一気に読まずに、寝る前にちょっとずつ読むとかがいい楽しみかただな。


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2024年5月29日水曜日

小ネタ17

むしゃくしゃ

 転居したので役所にマイナンバーカードの住所変更に行った。

 マイナンバーカードと住民票を出して「住所変更お願いします」と言うと、「身分証明書はお持ちですか?」と訊かれた。

 一瞬ポケットをさぐりかけて……ん? マイナンバーカードが身分証明書だろ。

「(マイナンバーカードを指さして)それです」
「いえ、免許証など」
「なんでマイナンバーカードだとだめなんですか?」
「えっと……。ではこれで大丈夫です。」

 ではってなんだよ。相手の態度によって必要な書類が変わるのかよ。

 職員の名札を見ると、派遣大手P社の名前が。ああ、公務員の非正規化の弊害がこんなところにも……。

 この人に怒りをぶつけてもしょうがないしな。日本が貧しいのが悪い。

 むしゃくしゃしたので焼肉を食べた。後悔はしていない。


うどん

 うどん屋を発見したので入った。立ち食いだった。立ち食いなら立ち食いでもいいけど、そうとわかるように店の外に大きく書いといてほしいよなあ。

 狭いなあ。足元に小麦粉とか積んであって足の置き所がないし。

 注文してからずいぶん待たせるなあ。うどんでこんなに時間がかかるかね。

 狭いからうどん運びにくいなあ。注文カウンターと食器返却口とレジがすぐ近くにあるから混雑してしょうがない。動線が悪いんだよなあ。

 と、不満だらけだったのだが、うどんを食ったらめちゃくちゃうまかったので全部吹き飛んだ。うまいは強い。強いはコシ。うどんだけに。


ガラパゴス

 独自の進化をしていることを「ガラパゴス化」と言う。「日本だけ〇〇でガラパゴス化している」とよく聞く。

 ひょっとしたらガラパゴスのほうでは「ガラパゴスは日本化している」と言っているかもしれない。



2024年5月28日火曜日

【読書感想文】小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』 / お金は便利なり

猟師の肉は腐らない

小泉 武夫

内容(e-honより)
現代に、こんなに豊かな食生活があったとは!福島の山奥、八溝山地。電気も水道もない小屋で自給自足の暮らしを送る猟師の義っしゃんは、賢い猟犬を従えて、燻した猪や兎の肉に舌鼓を打ち、渓流で釣ったばかりの岩魚や山女を焼いて頬張り、時には虫や蛙、蛇までも美味しくいただく。先人からの知恵と工夫を受け継ぎ、自然と生命の恵みを余すことなく享受する、逞しくて愛すべき猟師の姿。


 農学者である著者が、友人である猟師を訪ねて行動をともにした記録。

 夏と冬に二回訪問し、それぞれ数日ずつ過ごしただけだが、とにかく濃密。数日間の記録を本一冊にしてもぜんぜん足りないとおもえるぐらい充実した日々を送っている。




 山奥の小屋にたったひとり(猟犬と一緒ではあるが)で暮らしている“義っしゃん”は、ほぼ自給自足の生活を送っている。


「家の中、暗かっぺ。今明るぐすっから」
 と言うと、義っしゃんは天井から吊るされているランプにマッチで火を灯した。俺は、この時代に未だ使われているランプをはじめて見たが、火がだんだんと力強く燃えて行き、その炎が燈芯全体に達すると、周りは思っていたより明るくなり、義っしゃんの顔の髭までよく見えるのであった。小屋の中を見回すと、俺はさらに驚いた。天井から囲炉裏にぶら下げられている自在鉤の上の方に、稲藁を束ねたものが括り付けてあり、そこには竹串を打たれた魚や、野鳥、蛇、蛙が刺されているのである。串に刺されたものが萎びて、表面が黒く煤けているのは、上ってきた煙に燻されて、燻製のようになったからであろう。肉類を保存するのに最も知恵のある方法である。俺が串刺しを興味深く見上げているのを見て、義っしゃんは、
「岩魚が多がっぺげんちょ、山女だとか鮠もいるぞい。蛙は赤蛙、蛇は蝮と縞蛇だ。下の方に刺してある羽をむしった鳥はない、鶫と山鳩と椋鳥なんだわい。鶉もいっぺ」
 と教えてくれた。

 午前十一時ごろ、義っしゃんと俺はドジョウ捕りに出発した。義っしゃんは、腰に魚籠を縛り付けたのは当然なのだが、田畑を耕すのに使う鍬を肩に担いでいる。魚捕りに行くのにどうして網でなく鍬を持っていくのだろう。山を下って行って、二十分も歩いたところで平地が出てきた。二年前の夏にドジョウ掬いをしたところで、俺は、蛇に手を咬まれた苦い思い出がある。小川は、以前よりもはるかに水量が少なく、Ⅲ岬には秋に刈り取られた稲の根の部分だけが一面に残っている。土は乾いた状態だったが、一番手前の田圃だけは、氷が薄く張っていた。義っしゃんは、その田圃の畔を歩き、水を引き込む坑のあたりまで行くと、「こっちへ来てみっせ」と俺を呼び、いきなり鍬を振り下ろして氷を割り、ひと塊りの土を掘り出した。そしてその土を手で崩しながら、
「ほら、いだっぺよドジョウだあ。そっちにも、こっちにもニョロニョロいっぺ」
 と言って、蠢くドジョウを手で摘み上げては泥付きのまま魚籠に入れるのであった。はクネクネと動いている。こんなに寒い冬なのに、元気のいいドジョウで驚いた。
 「ドジョウの奴めらない、泥の中で動がねで寝でだんだげんちょ、突然掘り起こされよ、おったまげで動きまわってんだわい。これない、ドジョウの土籠りっていってよ、まあ冬眠みてえなもんなんだあ」
 義っしゃんは、田圃の土を掘り返してはクネクネと動きまわるドジョウを次々に拾い上げている。

 冬のドジョウは土の中で獲るんだ……。田んぼの水を少しずつ抜いてドジョウを一箇所に集めておくと、そのへんの土を掘るといっぺんに獲れるんだそうだ。すごい漁だ。


 魚や野菜はもちろん、猪、蜂の子、蝗、甲虫の幼虫、蛇、蛙など、山にある様々なものを義っしゃんは獲って食料にしている。獲ってきたものを捌いて、調理して、保存食にも変える。納豆や酒も自分でつくる(酒の密造は違法です)。

 金銭を使うのは獲った猪やドジョウを町に売りに行って現金に換えて調味料などを買うぐらい。ほぼ自給自足+周囲の人との助け合いで生きている。


 いいなあ、こんな生き方。と、ちょっぴりあこがれもするのだが、でもぼくがここで暮らしたら一週間もしないうちに音を上げるだろうな。

 義っしゃんは毎日働いている。食べ物を獲りにいき、畑の手入れをし、調理し、保存食をつくる。たぶん毎日毎日何かしないといけないのだろう。それはきっとすごく充実した日々なんだけど、ぼくのようにめんどくさがりの人間は「今日は一日ごろごろしていたい」とか「作るの面倒だから外食で済まそう」とかおもってしまう。町の暮らしだとたまにはそういう日があってもいいけど、山だとそうはいかない。自然はいくら金を積んだって自分の都合で動いてくれないから、

「お金に縛られない暮らし」ってあこがれるけど、でもお金ってすごく楽なんだよね。物質だけでなく、労力とか時間とか快適さとか、いろんなものがお金で代替できてしまう。

 お金って便利だよなあ。

 他人に「ちょっとこれやってくれませんか」とお願いできるような関係は素敵だけど、でもそれは他人から頼まれたらよほどのことがないかぎりは引き受けないといけないわけだもんな。都市での生活に慣れると「だったらお金を払って解決したほうがいいや」とおもってしまう。


 たぶんぼくには山での暮らしはできない。だから大災害が起きて文明が滅んだときにはおとなしく死んでいくことにする。そのときにはきっと義っしゃんのような人が人類の遺伝子を未来へ残していってくれることだろう。




 猟師の生活も読んでいて楽しいが、グルメ本としても楽しめる。とにかく、ここに出てくる料理がみんなうまそうなのだ。

 その兎肉は筋肉だけで出来ているといった感じで盛り上がっていて、肉片のひとつを手に取ると、ずしりとした手応えがある。俺はそれを上下の前歯でガブリと噛みつき、そして肉を持っていた手を前に伸ばして喰い千切った。
「そこんどご、後ろ脚の腿肉のどこだがらちょっと硬いべげんちょ、食べてみっと味が濃いがらうめ。筋肉質のとこはどんな動物でもよ、いつも動かしてばっかしいっぺ、んだがら味が濃くてよ、とでもうめぐなんだわい」
 と義っしゃんは解説してくれた。噛むと鼻孔から瞬時に煙の匂いがスーッと抜けてきて、口の中では硬い肉が歯と歯に潰されてほこほこと崩れてゆき、そこから野生に育まれた動物しか持っていない濃いうま味がジュルジュルと湧き出してくるのであった。さすが野山を走り回っていた兎だけあって、余分な脂など付いておらず、義っしゃんが言った筋肉質のうま味ばかりが送ってくる。野生動物のこの部分は確かに美味い。なぜ味が濃いのかには理由があって、筋肉は休むことなく動き続けなければならない宿命ゆえに、常にスタミナの素となる良質のアミノ酸を備えておく必要がある。そのアミノ酸こそうま味の本体であるからで、全身これ筋肉、といった蛇や赤蛙を食べた時も、この野兎によく似て味が濃かった。これこそ野生動物にしか宿らない味の真髄なのだろうが、このことは鶏にも語れる。

 たぶん臭みとかもけっこうあるんだろうけど、野趣あふれた味を楽しめる人にとっては最高だろうな。いちばんいい食材を、いちばんいい調理法で、いちばんいいタイミングで食えるわけだもんな。

 以前観たあるテレビ番組で、超一流の料理人が南米に行き、市場で売っている獲れたての食材を、生で食ったり、塩で味付けだけして焼いて食ったりして、最高にうまいと言っていた。料理の神髄を極めたような人でも(だからこそ)、最終的には獲れたて+シンプルな調理法がいちばんうまいと言うのだ。凝った料理もそれはそれでうまいが、「獲ったばかりの魚をその場で焼いて食う」みたいな本能にガツンとくるうまさには適わないのだろう。




 たいへんおもしろかったのだが、気になった点がふたつ。

 ひとつは、義っしゃんが密造酒をつくっていることや銃刀法違反をしていることをあっさり書いてしまっていること。

 これがばれると警察に捕まるから秘密にしてくれと頼まれたので「秘密にする」と約束した、と書いているのだ。書いとるやないかーい!

 ま、いろいろとぼかしてはいるんだろうけど、それでも他人事ながら「これを書いちゃうのはどうなのよ」とおもった。


 もうひとつは、会話を借りて主張を展開していること。

 捕鯨は守るべき文化だ、農薬や化学調味料の使用は悪影響が大きい、昔の人の知恵はすごい……。

 そういう著者の「主張」を本にするのはいっこうにかまわない。ただそれを「著者と義っしゃんの会話」に混ぜて書くのが気持ち悪い。むりやり混ぜずに、会話は会話、主張は主張でちゃんと書けばいいのに。会話に混ぜることでその部分の不自然さが目立って、余計に説教くさく感じるんだよね。

 ま、おもしろい番組の間に挟まるスポンサーの広告のようなものとおもって読み流すしかないね。


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