2023年9月6日水曜日

こばかにされる教師たち

 中学校でも嫌われている先生はいたが、高校になるとそれがちょっと変わった。

 嫌うんじゃなくてこばかにするようになった。


 言ってみれば、中学時代の嫌われている先生は陰で「ヤマシタのやつ、むかつくよなー」って言われる感じだったのが、高校でこばかにされる先生は「ヒデコちゃんがまたとんちんかんなこと言ってたよ。かわいそうに」みたいな扱いだった。

 中学では、嫌われながらも一応目上の存在だったのが、高校では明らかに格下になっていた。

 こばかにするようになって、「あの先生むかつく」という感覚はあまりなくなった。なぜなら格下だから。

 ナメクジがいるじゃん。ナメクジが好きな人はあんまりいないとおもうんだよね。でもナメクジにむかつくことってまずないでしょ。なぜなら圧倒的に格下だから。ゴキブリみたいに素早く動いたりもしないし、蚊みたいに刺してきたりもしないし。人間様が負ける要素がひとつもない。だから、嫌だなとはおもうけど、おびえたり憎んだりはしない。高校においてこばかにされる教師はそんな存在だった。ナメクジに例えるのはさすがに失礼だけど。


 また、中学校では「怖い先生」が嫌われることが多かったけど、高校に入ると嫌われるタイプが変わった。

 そこそこの進学校だったこともあってか「頭のいい先生」「教えかたがうまい先生」が生徒から敬意を持たれていて、そうでない先生がこばかにされてた。

 体育教師なんかはその典型だった。もちろん敬意を持たれている体育教師もいたが、それは「生徒に対して対等に近い立場で関わろうとする教師」で、軍隊の上官のような態度で接してくる教師は例外なくこばかにされていた。

 高校生ともなれば、肉体的な強さでは大人に負けていない。教師が過度な体罰をできないこともわかっているので、大声を出すタイプの教師はそんなに怖くない。むしろ「理性をコントロールできないあわれなやつ」としてこばかにされる。

 こばかにしていることが伝わるのだろう、体育教師のほうはなんとかして優位に立とうと理不尽に怒る。理不尽に怒ることで「理性的に会話ができないあわれな大人」としてますますこばかにされる。


「こいつは自分より数段頭が悪いくせにいばってるな」ということがわかってしまい、こばかにするようになるのだ。

 そう、ちょうどレベルの低いポケモントレーナーの言うことをポケモンが聞かないのとおんなじで。



2023年9月4日月曜日

【読書感想文】大竹 文雄『競争と公平感 市場経済の本当のメリット』 / 自由競争も弱者救済も嫌いな国民

競争と公平感

市場経済の本当のメリット

大竹 文雄

内容(e-honより)
日本は資本主義の国のなかで、なぜか例外的に市場競争に対する拒否反応が強い。私たちは市場競争のメリットをはたして十分に理解しているだろうか。また、競争にはどうしても結果がつきまとうが、そもそも私たちはどういう時に公平だと感じるのだろうか。本書は、男女の格差、不況、貧困、高齢化、派遣社員の待遇など、身近な事例から、市場経済の本質の理解を促し、より豊かで公平な社会をつくるためのヒントをさぐる。


 導入は「市場競争はいいのか悪いのか」「政府はどこまで市場に介入すべきか」「なぜ日本人は海外と比べて自由競争を嫌う傾向があるのか」なんて話でけっこうおもしろかったのだが、本題に入ると話があっちこっちにいってしまう。

 個々の話はけっこうおもしろいんだけど、『競争と公平感』というタイトルとはほとんど関係のない話も混ぜられていて、どうも散漫な印象。

 ワンテーマでくくる新書ではなく「経済学者のおもしろコラム集」みたいな感じで出せばよかったんじゃないかな。



 日本人は自由競争が嫌いなんだそうだ。

「貧富の差が生まれるとしても、市場による自由競争によって効率性を高めたほうがいいか?」という問いに対して、賛成する人の割合が日本は他国と比べて極端に低いという。

 極端なことをいえば、「金持ちになれる人からなっていこう」よりも「みんな同じくらいに貧しい」ほうがマシ、と考える人が日本には多いのだ。

 ぼくもわりとそっち側なので、気持ちはわからなくもない。「自分は100円得するけど金持ちが大きく得をする」政策と「自分は100円損するけど金持ちは大きく得をする」政策があったら、後者を選びたくなる。冷静に考えれば前者のほうがぜったい得なんだけど、でもどっかの誰かが得をしていることが許せない、というひがみ根性がある。

 これはわりと生来的な感覚なんじゃないかとおもう。子どもを見ていても「自分が損をしたこと」ではなく「他の誰かが得をしたこと」に怒っている。自分がお菓子を買ってもらえなくても怒らないけど、妹だけが買ってもらってたら激怒する、みたいに。

 だからぼくの正直な感覚としては「日本人はなぜそんなに不平等を嫌うのだろう?」というより「諸外国はなぜそんなに不平等を許せるのだろう?」なんだよな。

 とはいえ日本人もすべての不平等を憎むのではなく、努力などで富を手にした人のことはわりと素直に認めるようだ。

 日本人は「選択や努力」以外の生まれつきの才能や学歴、運などの要因で所得格差が発生することを嫌うため、そのような理由で格差が発生したと感じると、実際のデータで格差が発生している以上に「格差感」を感じると考えられる。また、日本の経営者の所得がアメリカのように高額にならないのは「努力」を重視する社会規範があるためかもしれない。一方、学歴格差や才能による格差を容認し、機会均等を信じている人が多いアメリカでは、実際に所得格差が拡大していても「格差感」を抱かない。こうしたことが、日米における格差問題の受け止め方の違いの理由ではないだろうか。つまり、所得格差の決定要因のあるべき姿に関する価値観と実際の格差の決定要因とに乖離が生じた時に、人々は格差感をもつのだろう。

 たとえば大谷翔平選手に関する報道を見ていると「彼はこんなに努力をしている」「彼は学生時代から一生懸命夢を追い続けて、高い志を持って、日々鍛錬を重ねてきた」という記事が多い。たぶん、そういう報道を見ることで、日本人は大谷選手が稼ぐことを“許して”いるんだとおもう。

 大谷選手が努力をしてきたことはまちがいないが、じゃあそれだけで彼があそこまでの選手になれたのかというと決してそんなことはない。持って生まれた身体、健康状態、家庭環境など“生まれ持った幸運”によるものも大きい。すべての野球少年が大谷選手と同じだけの努力をしたら同程度のプレイヤーになれるのかというと、それはまちがいだ。

 でも我々は彼の幸運には目をつぶり、「大谷選手は努力をしてきたから高額報酬を手にする資格がある」と“許す”ことにする。


 なんのかんのといって企業が採用時に学歴を重視するのも同じことかもしれない。「彼は東大を出ている。ということは彼は学生時代に人より努力をしたのだ。だから彼はその努力に見合うだけの報酬を手にする資格がある」と考える。



 日本人が努力を重視すること自体は悪いことではないかもしれない。しかし問題は、えてしてそれが「成功しなかった人は努力が足りなかったからだ」という誤った結論を導き出すことにある。

 日本人は他国の人に比べて「貧しい人の面倒を見るのは国の責任である」と考える人の割合が極端に少ないのだそうだ。「あいつが貧しくなったのは努力が足りなかったから、自業自得でしょ」となるわけだ。

 だから、生活保護をもらうことを避けたり、その反動かもらっている人に対する風当たりが強かったりする。

 日本人は親切なんていうが、あれは「身内と認定した人には親切」であって、見ず知らずの他人を救いたくないという気持ちは強い。なにしろ国が率先して「自助、共助、公助」なんていう国だ。


 国民の経済的豊かさを引っ張り上げるためには「市場による自由競争によって効率性を高める。結果として貧富の差は拡大するが、セーフティネットを強化するなど国による貧困対策で資産を再分配することで差を縮める」がいちばんいい方法なのだろう。

 が、「ほんとに自由な競争が嫌い」「見ず知らずの困っている人を国が救うのが嫌い」という国民性では、なかなかそれが実行できない。

 日本の経済的衰退の要因のひとつかもしれない。



 日本は人の育成に金をかけない国だと言われている。

 国家支出における教育費の割合が他国よりもずっと小さい。

 なぜなら、教育の恩恵を受けられない老人世代の声がでかいから。

 投票者の高齢化は、政治に大きな影響を与える。年金、医療、教育といった年齢別にその利害が異なる政府支出は多い。中位投票者が高齢化するにつれて、政府支出の中身は、年金・医療・福祉といった高齢者がより需要するフトしていく可能性が高い。
 高齢者向けの政府支出が政治的理由で増えていくことのデメリットは、そのために人的資本への投資が少なくなることで、経済成長に悪影響を与えることである。また、高齢者向けの歳出をまかなうために、税や社会保険料が高くなると、勤労世代の労働意欲を低下させる可能性もある。

 今後もどんどん高齢化してゆく。そうなると、ますます政治家は高齢者の言うことを聞いて、教育費を削ってゆくことになるのだろう。そして若い人が貧しくなり、少子化は加速し、さらに年寄りが増え、年寄りが嫌いな教育費はどんどん削られてゆく……。

 この流れが止まることはあるのだろうか。年寄りだけが死んでゆく伝染病が大流行しないかぎり、そんな世の中を見ることはできないかもしれない(そのときにはぼくも死んでいるのでどっちみち見られない)。


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2023年8月31日木曜日

ツイートまとめ 2023年3月~4月


川柳

オノマトペ

正装としての仮装

言葉遣い

彼はATM

地上の星

くりあげ

党派性

2世選手

ふたを開けてみれば

バカだから

炭水化物>脂肪

となりの桃白白

星ディス



マンガでも

カードには

ダイイング

人類 VS 草なぎ

球界

首長

ハンドブック

革命児

まちがってはいない

マジ感謝

レッテルとトレードマーク

2023年8月29日火曜日

天文学的な数字

 すごく大きな数字を「天文学的な数字」というのであれば、

 すごく小さな数字は「分子生物学的な数字」というべきだし、

 0と1だけであれば「情報工学的な数字」と呼べるし、

 〝50万円以下〟のような幅を持たせた数字は「法学的な数字」といってしかるべきだし、

 定義が一意に定まっていない数字は「形而上学的な数字」と呼んでもいいし、

「建築学的な数字」は0がなくて-1階の次が1階になっていて、

「歴史学的な数字」でもやはり0がなくてA.D.1年の前年がB.C.1年になっていて、

「栄養学的な数字」はcalとkcalが頻繁にごっちゃにされて、

「服飾学的な数字」ではメーカーごとに自分の好きな数字をLサイズと見なしてよくて、

「宗教学的な数字」は各宗教団体が発表している信者数の合計が人口を大きく超えているから100%が1じゃない、

ということが統計学的な数字からは言える。


2023年8月28日月曜日

【読書感想文】リチャード・マシスン『運命のボタン』 / 起承はすばらしい

運命のボタン

リチャード・マシスン(著)
尾之上 浩司(編・訳) 伊藤典夫(訳)

内容(e-honより)
訪ねてきた見知らぬ小男は、夫婦に奇妙な申し出をする。届けておいた装置のボタンを押せば、大金を無償でご提供します。そのかわり、世界のどこかで、あなたがたの知らない誰かが死ぬのです。押すも押さないも、それはご自由です…究極の選択を描く表題作をはじめ、短篇の名手ぶりを発揮する13篇を収録。


「そのボタンを押せば大金が手に入ります。ただし世界のどこかであなたの知らない誰かが死にます」という謎の装置をめぐる顛末を描いた『運命のボタン』。

 わりと有名なショートショートだろう。ぼくも、かつてどこかのサイトで紹介されていた小噺として読んだ。その鋭いオチに感心して原作を読んでみたのだが……。

 あれ。ぼくの知ってるオチとちがう。しかも原作のほうが冴えない。

「迷った挙句にボタンを押してしまい、大金を手に入れる」ところまでは同じだったのだが。


【以下ネタバレ】


 リチャード・マシスン版のラストは
「夫が死んでしまい、ボタンを押した妻のもとに生命保険金が転がりこむ。『知らない人が死ぬって言ってたじゃない!』と激昂する妻に、ボタンを運んできた謎の男は『あなたはほんとうにご主人のことをご存じだったと思いますか?』と言うのだった」
というもの。

 うーん、わかったようなわからないような話だ。そりゃあ夫婦だからって一から十まで知っているわけじゃないけど、「あなたの知らない人」ってそういうことじゃないでしょ。アンフェアだ。こういうのってルールの中で意外なオチを用意するからスマートなのであって、ルールをねじまげるのはずるい。

 ぼくが小噺集の中で読んだのは
「ボタンを押すと、一瞬いやな感触がする。きっと名前も顔も知らない誰かが死んだのだろう。しかし約束通り大金を手にすることができた。ボタンを持ち去ろうとする謎の男に『そのボタンはどうするの?』と訊くと、『あなたの名前も顔も知らない誰かのところに持っていきます』という返事が……」
だった。

 こっちのほうが断然スマートだ。一瞬考えるが、すぐに理解できるちょうどいい不気味さ。余韻も残る。どうやらテレビドラマ用に書き換えられたオチらしい。

 改変版を知っていたので、オリジナル(リチャード・マシスン版)を読んで「なんか野暮ったいオチだな……」と感じてしまったわけだ。




 表題作『運命のボタン』とその次の『針』がショートショートSFだったのでその方向の作品集かとおもったら、テイストはばらばらだった。本格SFあり、ホラーあり。

 今から半世紀ほど前に書かれた短篇なので、今読むとちょっとものたりない。えっ、もう終わりなの、もうひとひねりかふたひねりあるんじゃないの、という感覚になる。20世紀はこれぐらいで満足していたのか。小説も進歩してるんだなあ。

 ストーリー運びにはものたりなさも残るが、設定のおもしろさはあまり古びていない。


 ある日家にやってきた見知らぬ少女と遊ぶようになって以来娘に異変が起こる『戸口に立つ少女』

 息子が飼いたがっている小犬を母親が捨てるが、何度捨てても殺そうとしても帰ってくる『小犬』

 ロボットボクシングの試合当日にロボットが壊れてしまったので人間がロボットのふりをして出場するという落語『動物園』みたいな話『四角い墓場』

 テレパシー能力を身につけるために言葉を教えられずに育った少年を取り囲む人々の苦悩を描く『声なき叫び』

 飛行機の窓の外に、飛行機を破壊しようとしている怪物が見える。はたして怪物は実在するのかそれとも自分が狂っているのか……『二万フィートの悪夢』

 どれも設定がすばらしい。ぞくぞくさせられる。でも、だからこそ、「このすばらしい設定を活かすにはもうちょっと凝った展開がほしいよな……」とおもってしまう。50年前はこれだけで十分斬新だったんだろうけどさ。


 特にスリリングだったのは、治安の悪い地域のレストランで妻がトイレに行った間に夫の姿が消えてしまう『死の部屋のなかで』。

「夫はどこへ行ったのか?」という謎だけでなく、「このレストランにいる男たちは妻をどうしようとおもっているのか?」「もしかして保安官もこの連中の仲間なのか?」と、何重にもはらはらさせられる。妻以外の連中の真意がわからないのがおそろしい。

 が、これもやはり「えっ、これで終わり……?」と言いたくなるような結末。肩透かしをくらってしまった。


「起承転結」の「起」「承」はすばらしいのにな、という作品が多かった。


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