2023年3月10日金曜日

【読書感想文】辛酸 なめ子『女子校育ち』 / 2011年は下品な時代だった

女子校育ち

辛酸 なめ子

内容(e-honより)
女子一〇〇%の濃密ワールドで洗礼を受けた彼女たちは、卒業後も独特のオーラを発し続ける。インタビュー、座談会、同窓会や文化祭潜入などもまじえ、知られざる生態をつまびらかにする。

 自身も女子高出身者である著者が、自身の体験、卒業生、在校生、教員などの証言をもとに「女子校」について書いた本。


 ぼくは男だし、ずっと共学に通っていたし、近隣に女子校もなかったので、女子校なるものにはまったく縁がない。

 漫画『女の園の星』程度の知識しかない(もちろんあれがリアルとはおもってない)。

 男子校に関しては行ったことないけど、だいたい想像つくんだけどね。男しかいなかったらたぶんこうなるんだろうな、ってのが。でも女子に関してはイメージすら湧かない。


 そんなわけでこれまで女子校について思いをめぐらせたことすらなかったのだが、娘がひょっとしたら中学受験をするかも、さらに近所にはほどよいレベルの女子校がある、ということになって突如身近な話として立ち上がってきた。

 娘に「女子ばっかりの学校と男子もいる学校とどっちがいい?」と訊くと「どっちでもいい」とのこと。まあ、共学の環境しか知らないから女子校って言われてもイメージできないよねえ。

 ということで『女子校育ち』を手に取ってみた。

(以上、決しておっさんが女子校生ってどんなんじゃいゲヘヘという下心で読んだんじゃないですよという長い言い訳)




 生活指導について。

 掃除御三家の最後の一つは、田園調布学園です。なんとこの学園では、創立者が銅像の姿で永遠に掃除をし続けているのです。銅像の先生は、モップを持ち足元にはバケツが置かれ、おそれ多くも校舎脇の広場で掃除されています。その像を「ほら、先生も掃除なさっているでしょ」と指し示せば、生徒もおとなしく掃除せざるを得ないとか。生徒たちは「あいつのせいだ……」と、時には恨みがましく銅像をにらみながら、便器に手をつっこんで拭いたり、学校前の歩道までホウキではき清めたりと、環境美化に努めます。中学に入学してすぐに家庭科の授業でかっぽう着を作り、掃除中はそれを着用するという用意周到ぶり。全ての道は掃除に至るのです。「掃除はきちんとできる自信があります」と言う卒業生のTさんがまぶしいです……。
 先ほど高い学費を払って掃除させられるのは理不尽だと申しましたが、親にとってみれば、娘が家の掃除をしてくれるようになるので、投資としてちゃんと見合っているような気もします。もし自分が将来親になることがあったら、掃除精神をたたき込んでくれる学校を選びたいと切に思いました。

 ここまで掃除に力を入れるのは女子校特有の話ではなく、単に厳しい学校かどうかによるんだろうけど。

 とはいえ男子校だと「あらゆる面に厳しい学校」はあっても「掃除や家事にのみ特に厳しい学校」ってのはないだろうから、女子校らしい話なのかもしれない。

 ここで紹介されている学校は卒業してからもついつい掃除をせずにはいられないほど掃除の習慣が身につくらしく、ものがあふれすぎて引き出しがひとつも閉まらない娘の机を見ているぼくとしては「こういう学校に行って掃除のできる子になってくれたらいいな……」との思いを隠せない。まあぼく自身がぜんぜん片付けのできない人間なのでまずおまえが改めろって話なんだけど。




 制服について。

 制服が生徒の気風に及ぼす作用は大きく、桜蔭や東京純心女子のようにダサいと言われている制服に身を包んでいると皆あきらめモードで謙虚で貞淑な性格になるようです。田園調布学園OG、Tさんも、「渋谷は女学館や東洋英和の場所で、ダサい制服の自分たちはムリ。冬の制服はカラスみたいで、中学の夏服は毒キノコ。ビジュアルでがんばっても制服で殺されます」と話していました。制服がダサいという劣等感が高じて「自分はここにいる人間ではない」と思うようになり、受験で発奮、進学実績も良いとか。親にとっては、ダサい制服で青春をあきらめて真面目に勉学に励んでくれた方が安心かもしれません。

 このへんは女子ならではだよなあ。

 高校のとき、同じクラスの女子が「ほんとは○○高校に行きたかった」と言っていた。そこはぼくらの学校より偏差値の低いとこだったし遠かったので「なんで○○に行きたかったん?」と尋ねると「制服がかわいいから」との答えが返ってきて仰天した。そんなことが学校を選ぶ基準になるなんて……と、おしゃれとは無縁だったぼくからすると信じられないことだった。冗談で言っているのかとおもったぐらいだ。

 でも、制服で学校を選ぶ子って女子の中ではめずらしくないらしい。そういえば、人材紹介会社の営業から聞いたけど、女性は転職時に「オフィスのきれいさ・新しさ」を重視する人が多いらしい。個人的には、よほど汚いとかくさいとかじゃなければなんでもいいけど、女性はそうでもないみたいだ。つくづくちがう人種だなと感じる。




 女子校に進学するメリットについて。

ところで、女子校においては「容姿において差別されない」というのも大きいです。男子は驚くほど女性のルックスに厳しく、不美人には冷たいものです。共学ではブスのレッテルを貼られ、萎縮してしまいそうな人も、女子校ではのびのび過ごせます。後輩から人気のある先輩が必ずしも美人とは限りません。しかし、頌栄女子学院出身のSさんが「女子大に入って、早稲田や東大のサークルに入ったら完全に容姿でしか見られず、女子校とのギャップに悩みました」と語っているように、快適な温室から出たら厳しい現実が待っています。「努力すれば幸せが手に入ると思っていたのに、世の中は容姿重視なんですね……」ここでも、中高で女を磨いてきた共学出身の人に差を付けられてしまいます。

 「容姿において差別されない」ことの利点については、ほんとその通りだとおもう。

 申し訳ないけど、ぼくも学生時代、女子のことはほとんど容姿でしか見てなかったもん。

 「見た目がかわいくないけど話していておもしろい子」はいたし、そういう子とも仲良くしていたけど、「かわいい子」とはまったく別枠の存在だった。見た目が良くない子は、どんなに優しくて、どんなに気が合っても、異性としては「つまんないけどかわいい子」を上回ることはなかった。

 特に中学生なんか「美女と野獣」カップルはいても、その逆はまずいないよね。

 もうちょっと大人になったら容姿以外の部分も見えるようになってくるんだけどね。「あんまりかわいくないけど付き合ったら楽しいだろうな」とおもえるようになる。でも男子中高生時代は「女はかわいさがすべて」だったな。周囲もやっぱりそんな感じだったから、かわいくない子と付き合ってたらダサイ、みたいな風潮もあった。ほんとひっどい話だけどさ。


 否応なく美醜競争に巻き込まれるのはかわいそうだ。ブスはもちろん、美人もまた。

 そんなわけで「容姿において差別されない」という一点だけでも、娘を女子校に行かせるメリットは十分にあるとおもう。




 それにしても。

 とにかく著者の視点が下品。女子校に通う中高生を取り上げて、やれ処女率がどうだ、やれ男ウケがどうだ、やれフェロモンが出ているだ、やれモテなさそうだ、やれ遊んでそうだ、と下世話きわまりない。

「男が書いたらセクハラだけど女性だからセーフ」とかおもって書いてたんだろうな。じっさい、この本が刊行された2011年はまだそういう認識が一般的だったし。

 でも令和の感覚で読むとずいぶん気持ち悪い。自分が中高生の頃、大人から(男女問わず)そういう目を向けられたら気持ち悪く感じただろうに。

 よくちくまプリマー新書がこんなひっどい本を出してたなとおもう。三流週刊誌みたいな切り口だもん。

 もっとも十年以上前の本を取り上げて「感覚が古い」と糾弾するつもりはなくて(それはあまりにずるい)、ただただ「2011年当時はこういう感覚が許されてたんだなあ」と隔世の念に駆られる。人々の価値観って変わってないようで変わってるんだなあ。


【関連記事】

【読書感想文】女子校はインドだ/ 和山 やま『女の園の星』

【読書感想】カレー沢 薫 『ブスの本懐』



 その他の読書感想文はこちら


2023年3月9日木曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学の世界』 / 昔も今も都市は蟻地獄

 歴史人口学の世界

速水 融

内容(e-honより)
近代的な「国勢調査」以前の社会において、その基層をなす人びと、家族といった身近な存在から人口を推計し、社会全体の動態を分析する「歴史人口学」。現代世界が抱える最大課題である人口問題(少子化・高齢化から人口爆発まで)にも重要な示唆を与える。その先駆的第一人者が平易に語り下ろした入門的概説書の決定版。


 あまりなじみのない「歴史人口学」なる学問の日本における第一人者による、歴史人口学入門書。

 人口、世帯、出産、死亡、転入転出などの時代ごとの変遷を追う学問だそうだ。

 今の日本は、人口に関する問題に直面している。人口減、少子化、高齢化、働き手の不足、都市への人口集中、社会福祉費の増大。そんな問題解決への糸口に、ひょっとしたら歴史人口学がなってくれるかもしれない。




 江戸時代の中期以降はほとんど人口が増えなかった、という話を聞いたことがある。江戸時代は人口の面では停滞期にあった、というのが一般的な認識だが、細かく見るとそんなことはないそうだ。

 たしかに十八世紀の日本の人口は大きな増減はない。だがそれはあくまで日本全体の話であって、地域ごとに見るとダイナミックな変化が見えてくる。

 なんとなく「江戸時代、町人はいい暮らしをしていて、農村は貧しさにあえいでいたのだろう」とおもっていたが、実態はむしろ逆で、都市部のほうが死亡率が高かったのだそうだ。農村は乳幼児と老人は死ぬが、若い人はそんなに死んでいない。都市のほうがばたばた死ぬ。ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』にも書いてあったが、人口密度が高まると伝染病の流行率がぐっとはねあがるのだ。江戸時代の都市は住環境も悪かっただろうし。


 それでも、地方の若者(次男坊、三男坊)は都市(江戸、京都、大坂)に出てくる。だって田畑がないもの。都市は若者が増える。だが都市の死亡率は高く、結婚・出産の数も地方より少ない。都市は死亡が多くて誕生が少ないので自然人口減になるが、地方からの流入によって人口が保たれる。地方は出産数が多いが若者が都市に流出するのでこちらも大きな人口の増減はない。

 現代日本と同じことが江戸時代から起こっていたのだ。今も昔も、都市は出産・育児をするのに適した場所ではなかったわけだ。

 細かいミクロの史料の検討のところで、実際の数字を出して説明しますが、歴史人口学では、すでに都市墓場説とか、都市蟻地獄説と呼ばれる考え方が唱えられています。都市墓場説というのは、ヨーロッパの都市の人口史研究をしている人たちが言い出したことであり、蟻地獄説というのはじつは私の造語です。期せずして同じことを発見したのです。つまり都市というのはたくさん農村から人を引きつける。そして高い死亡率で多くの人を殺してしまうのです。
 そうすると、江戸時代の都市では、人間いつ死んでもおかしくなかったことになります。農村のように、齢をとったから死ぬ、というわけではなくて、いつでも死ぬのです。江戸時代の文化はよく都市の文化、町人の文化だといわれます。その都市に住んでいる人たちは、いつ死ぬかもわからないという状況で生活していたのです。その人たちが持っている人生観とか死生観は、農村住民の場合と違っていたのではないだろうかという疑問が湧いてきます。これは、今後解明していかなければならない問題ですが、こういうように死亡のパターンに非常にちがいがあるということは、今までよくわからなかったことなのです。これもやはり宗門改帳を使った研究の成果の一つといえるでしょう。

 なんとなく、江戸時代の農村で生まれたら、家と田畑を継いで、死ぬまでずっとその村の中で生きていくのかとおもっていた。

 でもそんなのは長男だけ(そして江戸時代はきょうだいが多いので長男が今よりずっと少なかった)。若者の三分の一ぐらいが村の外に出ていた、というケースもあったようだ。奉公、出稼ぎ、身売りなどで男女問わずけっこう他の村や都市へ移動していたようだ。

 また、都会に働きに出た経験のある女ほど結婚・出産の年齢が遅く、生涯に産む子どもの数が少なかったそうだ。このへんも今とおんなじ。

「地方には若者が就く仕事がないから都会に出る」「都会に出てきた若者は結婚が遅く、子どもも作らない傾向にある」ってのはここ数十年の話ではなく、数百年間にわたってずっとくりかえされてきたことなのだ。

 今も昔も、都市の生活は多くの人々の犠牲の上に成り立っている。




 現代の日本においては、世代や個人による人生観の差はあれど、地域による差はさほどないんじゃないかとおもっている。北海道から沖縄まで同じ教科書で学び、同じものを読み、同じテレビ番組や同じウェブサイトを見ているから、大きな差は生まれにくそうだ。

 でも江戸時代は、地域によって考え方がぜんぜんちがったのではないかと著者は書く。


 この小さい島国に、社会の基本となる家族の規範について、なぜこのような違いがあるのでしょうか。筆者は、これは日本に住むようになった人びとが持ってきた慣習と関係があるのではないか、と思っています。日本列島には、北から下りてきた人たち、朝鮮半島や中国大陸から渡ってきた人たち、南から島伝いに来た人たち、と大別して三つの移住の波があったように言われています。日本人は、よく一民族一言語、といって、その同一性が強調されるのですが、決して一色ではないのです。比較的早い時代に、政治的には統一され、構成民族間の闘争こそありませんでしたが、構成民族のもとをただせば、多種多様で、むしろよく統一が保たれたものだ、とさえ思われます。
 その中で、北からやって来た人びとは、基本的には狩猟民で、縄文文化の担い手だったと思われます。狩猟民は、生計を採取によりますから、非常に密度依存的です。ある規模以上に人口を増やさないようにする力が働くのです。このことが慣習となって、持っている生活規範の中にビルトインされていたのではないでしょうか。そして、弥生文化の担い手である第二の渡来民が、農耕をもたらし、次第に第一の集団を本州の東北部に追いつめます。そこに定住するようになった元狩猟民たちは、農耕を始めますが、過酷な自然環境も手伝い、ビルトインされた価値観を変えませんでした。それが、東北日本の早婚と出生制限の存在という、矛盾した規範を両立させる理由となった、というのが筆者の解釈です。
 これに対して、中央日本には、農耕民が渡来し、弥生文化そして古代律令制国家を造り上げました。相対的に高い生産性に裏打ちされて、この古代国家は、比較的短期間のうちに日本の国家統一を果たします。この農耕社会では、耕地を広げたり、工夫をして土地の生産性を上げることができれば、扶養可能な人口は増やせますから、東北日本のように、人口制限を価値観のなかにビルトインさせる必要はなかったのです。もちろん、だからといって、中央日本で、無制限的に人口が増えたわけではありませんが、この地に住む人びとにとって、人口規模は、東北日本に住む人びとのように、ある範囲に抑えなければならない性質のものではなかった、というのが筆者の見解です。

 東北では早く結婚・出産をおこない、けれどひとり当たりの出産数は少ない傾向にあった。逆に西日本では晩婚の傾向があり、東北ほど産児制限をしている様子はなかった。そして南から来た人は家族規範から自由で、人口制限もさらに少なかった。そんな傾向が江戸時代の資料から読みとれるそうだ。

 まだ「日本人」という意識もなかった時代。今の日本人がおもうよりずっと、当時の日本人は地方によって異なる生活をしていたんだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】河合 雅司『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』

【読書感想文】江戸時代は百姓の時代 / 渡辺 尚志『百姓たちの江戸時代』



 その他の読書感想文はこちら


2023年3月8日水曜日

大和郡山探訪

 奈良の大和郡山市へ行った。

 金魚すくいとひな人形が有名な町だ。といっても、どちらもつい一週間前に知った。それまで、大和郡山に行ったこともなければ、大和郡山について考えたことすらなかった。


 知人と話していて「子どもがひな人形を出してほしいっていうんですけど、めんどくさいんですよねえ。出すのも面倒だし、出してる間は場所をとるし、片付けるのも面倒だし」とぼやくと、「大和郡山に行けばいろんなおひなさまが見れますよ」と教えてくれた。

 街のあちこちにひな人形が飾られているらしい。それはいい。「おひなさまを観にいくから」という口実で、今年は我が家に飾るのは勘弁してもらおう。


 子どもを連れて、JR郡山駅からぶらぶら歩く。なるほど、駅や商店にひな人形が飾ってある。個人商店だけでなくチェーン店や銀行にもおひなさまを飾っている。大きくて高級そうなものもあれば、とりあえず飾ってますよというような簡易的なものもある。その「しぶしぶ付き合わされている感」もまた、街を挙げてやっているという感じがしていい。驚いたことに、お店でもなんでもない個人宅でも玄関を開放してひな壇を見学できるようにしているところまである。なんの得もないだろうに、えらい。めんどくさいめんどくさいと言ってばかりいる我が身を恥じねばならない。

 そうか、これはクリスマスのようなものだ。クリスマスであればいろんなお店が飾りつけをおこない、個人住宅でも派手に飾りやイルミネーションをつけているところがめずらしくない。大和郡山ではクリスマスの代わりにひなまつりなのだ。


 もうひとつ、大和郡山で有名なのが金魚すくいだ。なんでも郡山市で金魚すくいの全国大会が開かれているらしい。

 入ったカフェに『すくってごらん』という漫画が置いてあり、手に取ると大和郡山を舞台にした金魚すくいマンガだった。マンガの世界も、とにかく新しい題材を探さなくちゃいけないのでたいへんだ。

 ひな人形と同じように、街のいたるところに水槽があり、金魚が泳いでいる。またマンホールや橋の欄干などにも金魚が描かれている。

 とある店の前にも水槽があったのだが、一匹死んでぷっかりと浮いていた。そして他の金魚たちが死体をつついていた。生き物なのでそういうこともある。


 ひな人形と金魚。人を呼ぶ力があるんだかないんだかよくわからないものふたつが名物。まあじっさいぼくたちは足を運んだのだから、集客力はあるんだろう。

 ほどよくのどかな街並みをぶらぶらと歩くのは楽しかったのだが、少々不満だったのは道が狭くて人が歩いている横を車がびゅんびゅん通ってゆくところ。そして都市部以外の地域がたいていそうであるように、歩行者がいても車はおかまいなしなところ。横断歩道でもぜんぜん止まろうとしない。

 地元の人の生活もあるので観光客のための街づくりをしろとまでは言わないが、せっかく人を呼ぶための取り組みをしているのに「街が歩きにくい」というのはなかなか致命的かもしれない。

 帰りに路線図を見ていて気付いたのだが、郡山という駅、一駅北に行けば奈良駅で、二駅南に行けば法隆寺駅である。奈良公園、東大寺、法隆寺というたいへんパワーのある観光地にはさまれているのだから、ここに人を呼ぶのはむずかしいかもしれない。ひな人形と金魚、ニッチなところを攻める戦略は正しそうだ。

近鉄郡山駅にあった半額イルカ。
イルカが半額なのではなくこいつは看板らしい。



2023年3月7日火曜日

【読書感想文】藪本 晶子『絶滅危惧動作図鑑』 / 無味無臭

絶滅危惧動作図鑑

藪本 晶子

内容(e-honより)
すでに絶滅の危機に瀕しているものから、もうすぐなくなりそうなものまで。100種類の動作をイラストで解説。


「絶滅しそうな動作」を集めた図鑑。

「死語」や「生産終了したもの」に関する言説はよく見るけど、「動作」にスポットをあてるのはめずらしい。たしかにテレビはまだあるけど「テレビのチャンネルをひねる」や「テレビをたたく」といった動作は絶滅したもんね。


 この本に載っている動作でぼくがなつかしかったのは、うさぎ跳び、体温計を振る、携帯の電波を探す、カメラのフィルムを巻く、など。

 うさぎ跳びはぎりぎりやった世代だとおもう。小学生の時のサッカークラブでやったことがある(やらされた、という感じではなく遊びの延長の罰ゲームみたいな感じだったけど)。中学生のときにはすでに「うさぎ跳びは身体に悪い」と言われていた。

 体温計を振る、もなつかしいな。子どものときは水銀体温計を振っていた。一度振った体温計が机に当たって中の水銀が飛び散っちゃったことがあったんだけど、今おもうとおっそろしいもの使ってたなあ。水銀って毒だからね。

 カメラのフィルムを巻く、もあったね。使い捨てカメラもそうだったし、ぼくが北京で買った「長城」という謎のブランドのカメラも手巻き式だった。あれはなかなか味があっていい動作だったけどね。




 とまあ「ああ、あったなあ」とか「なつかしいなあ」とかおもうんだけど、それ以上のものは何もない。

 とにかく文章が無味無臭。せっかく着眼点がおもしろいのに、教科書みたいな文章なので読んでいてまるで引っかかりがない。まあ「図鑑」だからといえばそれまでなんだけど、それにしてもなあ。

 巻末に著者とみうらじゅん氏の対談が載っていて、みうらじゅんさんの言葉はやっぱりいちいち味があるから、余計に本編の無味っぷりが目立つ。「結局、真っ先に絶滅していくこういっていうのは、人が工夫してやろうとしたことなんじゃないかなと思いますね」なんてしみじみいい言葉だ。


 これはあれだな。カフェとかに置いといて、コーヒーの待ち時間にお客さんがパラパラめくるぐらいがちょうどいい本だね。数分だけ時間をつぶすのにぴったり。無味無臭だからコーヒーの邪魔にもならない。

 そういえばスマホの普及とともに「時間つぶしで雑誌をパラパラめくる」動作も絶滅寸前かもな。


【関連記事】

【読書感想文】「定番」は定番の言葉じゃなかった / 小林 信彦『現代「死語」ノート』

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』



 その他の読書感想文はこちら


2023年3月6日月曜日

R-1グランプリ2023の感想

 

 M-1やキングオブコントに関してはほぼ毎回感想を書いてるんだけど、R-1はあんまり書く気がしなくて2017年以来ずっと書いてなかった。でも今年はひさしぶりに書く気になった。

 リニューアルしてからちょっとずつだけどいい大会になってきてる気がする。芸歴制限には賛成しないけど。



1. Yes!アキト (プロポーズ)

 ギャグの羅列なのにおもしろい、というのがYes!アキトさんに対する評価だったのだけど、今回はストーリー仕立て。緊張して「結婚してください」が言えない男が、ついギャグを言ってしまうという設定。

 なるほどね、「け」ではじまるギャグを次々に言っていくのね、これはわかりやすいし自ら制約を課している分乗り越えたときはおもしろくなるはず! と期待しながら観ていたのだが……。

 あれ。あれあれ。「け」ではじまるギャグ、という設定を早々に捨ててしまって、あとは好き勝手なギャグ連発になってしまった。当初の設定はなんだったんだ。「け」ではじまるギャグか、プロポーズにちなんだギャグにしてくれよ。

 こうなるとプロポーズできない男という設定が単なる時間の無駄でしかなく、これだったら潔くギャグだけを多く見せてくれたほうがよかったな。


2. 寺田寛明 (言葉のレビューサイト)

 ネタの内容がいちばんおもしろかったのはここ。よくできている。

 が、芸として見たときにどうなんだという疑問も生じる。フリップの内容自体が完成されていて、演者ははっきりいって誰でもいい。ちゃんと文章を読める人でさえあれば寺田寛明さんである必要がない。アナウンサーでもいい(そして寺田さんは何度か噛んでいたので実際そのほうがよかった)。このネタ、テキストで読んでも同じくらいおもしろいとおもうんだよね。

 ネタは高評価。でも芸の達者さ、という点で見るとな……。


3. ラパルフェ 都留 (恐竜と戦う阿部寛)

 阿部寛一本でいくにしては阿部寛ネタが弱かったなあ。大きいとかホームページが軽いとか、独創性がないもんね。ホームページネタなんて、知らない人にはさっぱりわからないだろうし、知ってる人からすると「それネタにされるの何十回目だよ」って感じでまったく目新しさがない。

 博多華丸やじゅんいちダビッドソンが「モノマネだけどネタとしてもしっかりおもしろい」ネタを見せた大会で披露するには、あまりに浅かったな。


4. サツマカワRPG (数珠つなぎショートコント)

 ひとりショートコントの羅列、でありながらそれぞれのネタが有機的につながっているという凝った構成(その中でひとつだけつながっていない冒頭の和田アキ子はなんだったんだ)。

 決してわかりやすくないし、無駄も多かった気がするけど、新しいことをやってやろうという意欲は買いたい。というより、今大会は他の人にチャレンジ精神をあまり感じなかったんだよなあ。


5. カベポスター 永見 (世界でひとりは言ってるかもしれないこと)

 寺田寛明さんの感想のとこで「テキストで読んでもおもしろい」と書いたけど、こっちはそれどころか「テキストで読んだほうがおもしろい」。じっさいぼくは永見さんのTwitterアカウントをフォローして「世界でひとりは言ってるかもしれないこと」を読んでいるが、そっちのほうが味わい深い。

 こういう一言ネタって、咀嚼する時間が必要なんだよね。すごくいい肉をわんこそばのスピードで提供されても味わえない。


6.  こたけ正義感 (変な法律)

 これまたフリップネタ。が、このネタの場合は「演者がこの人である必然性」がある。弁護士が言うからこそ説得力があるし、怒ったり嘆いたり表現も多彩。

 ただ、これ以外のネタを見たいとはおもわなかったな(ABCお笑いグランプリの2本目はぐっとレベルが下がってたし)。



7. 田津原理音 (カード開封)

 おもしろかった。カードの開封動画、というのがほどほどに新しくて、ほどほどになじみがなくて。

 何がいいって「触れないカード」があることだよね。せっかくつくったカードだから全部を見せたいだろうに、ちらっと見せるだけで特に触れないカードがたくさんある。あれで一気に引き込まれる。わからないからこそ見入ってしまう。

 映像を使うのではなく、スライドを使用するのもよかった。映像だとどうしても対象との間に空間/時間的距離が生まれてしまうけど、スライドだと距離がなくて対象に触れられるからね。このネタにぴったり。

 そして凝った仕掛けではあるけど中身はあるあるネタなのでわかりやすい。すべてがちょうどいいバランス。


8. コットン きょん (警視庁カツ丼課)

 順番が良かったんだろうね。ギャグ、フリップ、モノマネコント、ショートコント、一言、フリップ、スライド、ときて、最後にしてやっと本格的なストーリーコント。こういうのを見たかった! という空気になってたもんね。

 とはいえ、個人的にはイマイチだった。一杯目のカツ丼がピークで、あとは右肩下がり。特にラストはひどかった。「容疑者の罪状にちなんだカツ丼を提供することで自白に持ちこむ」という設定でやってきたのに、最後は「外国人だから」という理由でつくったハンバーガー。罪状関係ないし。なんじゃそりゃ。それで済むならカツ丼課なんていらないじゃない。

 本格的な芝居をするならこのへんの論理が強固でないといけないよ。設定の根幹をぶち壊してしまう雑な展開だった。



 8人中、7番目と8番目にネタを披露した人が最終決戦進出。たまたまかもしれないけど、なんだかなあ。順番次第じゃん、という印象になってしまう。



最終決戦1.  田津原理音 (カード開封)

 ネタを見ながら、そういやこの素材は陣内智則さんのネタっぽいなあ、とふとおもった。ツッコミどころだらけの変な対象で笑いをとるという構成。ただしアプローチはまったくちがう。陣内さんがずばずばと切れ味鋭いツッコミを入れていくのに対し、田津原さんはあくまで愛でる。ずっとその立場を崩さない。変なものを切り捨てて笑いに変えるネタと、変なものを愛でて受け入れていくことで笑いを生むネタ。なんとなく時代の変化を映している感じがするよね。知らんけど。


最終決戦2.  コットン きょん (リモート会議ツール)

 これまた楽しめなかった。ZoomとGoogle Meetを使って別れそうになってるカップルの中を取り持つ、という設定。この設定であればこういう筋書きになるだろうな……と予想した通りの展開。意外性がまるでなかった。リモート会議が一気に普及した2020年頃ならともかく、2023年の今やるには題材としての新しさもないし。



 ネタの力よりも表現者として魅力的だったふたりが勝ち残って、その中でネタの強さが勝っていた田津原理音さんが優勝、という大会でした。

 はじめにも書いたけど、R-1は数年前に比べたらいい大会になってきてるとおもう。審査員が現役の芸人たち、ってのもいいんだろうな。

 あとはあれだな。「そのときの話題の人や他の賞レースのファイナリストだからといって安易に決勝に上げる」ところさえ直してくれたらな(去年はそういう感じじゃなかったのにまた戻ってしまった)。

 せっかく芸歴10年以内という縛りを課したんだから、人気の人を使うんじゃなくて、人気者を生みだしてやるぞという気概を見せてほしいな。結果的にはお見送り芸人しんいち、田津原理音という新しい才能の発掘ができているからいいけど。


【関連記事】

R-1ぐらんぷり2017の感想

ABCお笑いグランプリ(2022年)の感想