2022年8月16日火曜日

がんばっている姿に元気をもらわない

 朝のクリニックの待合室が好きだ。

 清潔感のある室内、かすかに流れるクラシック音楽、視界に入る観葉植物、さわやかな消毒液のにおい。とても居心地がいい。

 あんなに読書が進む場所もない。もちろん自分の容態がたいしたことない場合にかぎる話だが。


 クリニックの待合室の何がいいって、元気な人がいないことだ。

 クリニックだから具合が悪い人ばかりなんだろ、と言われるかもしれないが、そんなことはない。大病院ならいざしらず、クリニックに重病人は少ない。眼科や皮膚科ならなおさらだ。

 雰囲気が伝わるのか、子どもですら小声で話している。怒っていたり、声を立てて笑ったりしている人もほとんどいない(大病院にはけっこういる)。



 よく「がんばっている姿に元気をもらいました」「日本代表の活躍で、日本を元気に!」なんていうが、あんなの嘘だとぼくはおもっている。

 元気な人は他人を元気にしない。どっちかっていうと吸い取っている。

 そりゃあ周りがにぎやかにしていたら自然と自分の声も大きくなる。うるさい居酒屋とか。でもそれは周囲に元気をもらっているわけではない。元気を絞りだしているだけだ。

 元気な姿、がんばっている姿は周囲を疲れさせる。


 それでも
「いや、そんなことはない。私は他人ががんばっている姿を見ると自分も元気をもらいます」
という人がいたら、問いたい。

 あなた、選挙カー見て元気出ますか?


 選挙カーに乗っている人は例外なく元気ですよね。がんばってますよね。一生懸命声をはりあげて、目標に向かってひたむきに努力してますよね。

 どうですか。元気もらえますか。うんざりしませんか。近くに来られたらどっと疲れませんか。おまえらが走らせてるのは選挙カーだけじゃなくて虫唾だよとおもってませんか。おまえらは選挙カーに乗ってるだけじゃなくて図に乗ってるんだよとおもってませんか。ダルマに目を入れるより先に全住民に詫びを入れろとおもってませんか。国会に召集されるより天に召されろとおもってませんか。


2022年8月10日水曜日

【読書感想文】ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』/悪い意味でおもしろすぎる

サピエンス全史

文明の構造と人類の幸福

ユヴァル・ノア・ハラリ(著)  柴田 裕之(訳)

内容(e-honより)
なぜホモ・サピエンスだけが繁栄したのか?国家、貨幣、企業…虚構が文明をもたらした!48カ国で刊行の世界的ベストセラー!


 勘違いされがちだが、我々ホモ・サピエンスは最も優れた種ではない。大型哺乳類の中では圧倒的に弱いほうだし、人類の中でも決して優れているわけではなかった。たとえばネアンデルタール人はホモ・サピエンスよりも体格が良く、脳も大きかった。けれど生き残って現在反映しているのはネアンデルタール人ではなくホモ・サピエンスのほうだ。

 そんなホモ・サピエンスがなぜ生き残ったのか、なぜ人口が増えたのか、なぜ科学を発達させたのか、そして今後ホモ・サピエンスはどうなっていくのか……。という人類200万年の歴史を一気にひも解く一冊。




 ううむ、おもしろい。が、おもしろすぎる。良くも悪くも。

 いや物語として読んだらめちゃくちゃおもしろいんだよね。わかりやすいし、新鮮な見解が次々に紹介されるし、論旨は明快だし。

 小説ならおもしろければそれでいいんだけど、ノンフィクションに関してはおもしろすぎる本は要注意だ。なぜなら、おもしろすぎるノンフィクションはえてして枝葉末節をばっさりと刈りとってしまい、それどころか細い細い幹の上に大きな枝や葉や花をむりやり咲かせているからだ。

 異論や都合の悪い反証をばっさばっさと切り捨てて「これしかない! これに決まっている!」と書いている。これは科学的立場からするときわめて不誠実だ。まして何千年も何万年も前のことを扱っているのに、こんなに見てきたように語れるはずがない。つまり筆者が見たいように見ているということで、やっていることは司馬遼太郎といっしょだ。


 つまり単純化しすぎなんだよね。

 たとえばさ、
「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった。黄金時代は過去にあり、世界は衰退・停滞していると考えていた」
ってなことが書いてるのね。キリスト教やイスラム教の考えだと「神が世界を完璧につくったが、人間が不完全であるせいで世界は必ずしも良くなっていない」となるから、というのがその根拠だ。

 なるほどとおもうし、十分説得力のある意見ではあるけれど、その一方であんた見てきたんですかいと言いたくなる。数百年前の人たちに1万人をあつめて意識調査をおこなったんですかい。でなかったらどうして「科学革命以前は、人類のほとんどは進歩を信じていなかった」なんて言いきれるんですかい。


 ということで、物語としてはすこぶるおもしろいし、人類史に関心を抱くきっかけとしてはいい本だけど、ここに書いてあることを鵜呑みにしちゃあいけないよ。これはあくまで著者が紡いだ物語だからね。

 話半分に受け取るにはめっぽうおもしろいけどね。




 なぜホモサピエンスは他の動物にはない大きな力を持つことができたのか。

 それは「虚構」のおかげだと著者は言う。

 群れで狩りをする動物はたくさんいるが、群れの構成数はせいぜい数十頭までだ。個体を認識できる限界がそれぐらいだからだ。ハチやアリのように、数千の個体と協力をする生物もいるが、彼らの集団は血縁関係にある。まったくの赤の他人が、それも数百、数千、数万という数の個体がひとつの目的のために協力できるのはヒトだけだ。それは言葉を使って「虚構」を生みだすことができるからだ。

 言葉を使って想像上の現実を生み出す能力のおかげで、大勢の見知らぬ人どうしが効果的に協力できるようになった。だが、その恩恵はそれにとどまらなかった。人間どうしの大規模な協力は神話に基づいているので、人々の協力の仕方は、その神話を変えること、つまり別の物語を語ることによって、変更可能なのだ。適切な条件下では、神話はあっという間に現実を変えることができる。たとえば、一七八九年にフランスの人々は、ほぼ一夜にして、王権神授説の神話を信じるのをやめ、国民主権の神話を信じ始めた。このように、認知革命以降、ホモ・サピエンスは必要性の変化に応じて迅速に振る舞いを改めることが可能になった。これにより、文化の進化に追い越し車線ができ、遺伝進化の交通渋滞を迂回する道が開けた。ホモ・サピエンスは、この追い越し車線をひた走り、協力するという能力に関して、他のあらゆる人類種や動物種を大きく引き離した。

 たとえば我々は日本という国のために税金を支払っている。だが「日本」も「国家」も「財政」も「税金」もじっさいには存在しない。それ自体目に見えない。

 けれど我々は「日本」があるとおもい、「税」が「日本人」の暮らしを良くすると信じて納税をする。

 このように、虚構をつくりだし、虚構のために力を合わせて努力をすることができる。ときには虚構のために命を投げだすこともある。これによって他の生物よりもはるかに強い結びつきを生みだし、ヒトは地球上で最も繁栄する動物のひとつになった。


 そして、ヒトが生みだした虚構の最たるものが「貨幣」だ。貨幣はただの紙切れや金属の塊で、それ自体にはほとんど価値はない。もっといえば現代社会で流通している貨幣のほとんどは電子データだ。紙切れですらない。

 にもかかわらず我々は貨幣を信じている。政府を打ち壊そうとするテロ組織ですら貨幣を信じていて、それを欲する。

 哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているのかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の規準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。

 たしかにねえ。貨幣は格差を拡大したかもしれないが、貨幣自体はきわめて平等なものだ。

 たとえば小さな集落で誰かひとりが村八分にされるとする。周囲の人は彼に何も協力しない。彼が何かを依頼しても何も渡さないし、何もしてあげない。よほどのことがないかぎり、村八分にされた人は生きていけないだろう。

 だが貨幣は彼を差別しない。貨幣があれば、財やサービスを買うことができる。現代社会では、どれだけ友だちが少なくて、どれだけ周囲から嫌われていても、金があれば生きていける。

 今、我々は見ず知らずの人にお金を渡すことで、ごはんをつくってもらったり、髪を切ってもらったり、服を作ってもらったりできる。あたりまえのようにやっているけど、これはすごいことだ。貨幣がなければ、知り合いでもない人のために労働を提供してくれる人はほとんどいないだろう。たとえこちらが「今度あんたが困ってるときは助けるからさ」と言ったって、こちらの素性がわからなければ依頼を受けてくれないだろう。

 いやあ、お金ってすごい仕組みだよね。もちろん悪い面もあるけど、見知らぬ人同士をつないでくれる絆の役割を果たしてくれるんだもんね。




 ヒトの活動が他の動植物を絶滅に追いやっていることはみなさんご存じの通り。だが、それを科学文明のせいにするのは思慮が浅すぎる。

 狩猟採集民の拡がりに伴う絶滅の第一波に続いて、農耕民の拡がりに伴う絶滅の第二波が起こった。この絶滅の波は、今日の産業活動が引き起こしている絶滅の第三波を理解する上で、貴重な視点を与えてくれる。私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。産業革命のはるか以前に、ホモ・サピエンスはあらゆる生物のうちで、最も多くの動植物種を絶滅に追い込んだ記録を保持していた。私たちは、生物史上最も危険な種であるという、芳しからぬ評判を持っているのだ。

 ヒトが他の動物を絶滅させるようになったのは、ここ数百年の話じゃない。産業革命前から、いやもっと前、農業をするようになったときから、いやもっともっと前、狩猟採集をしていた時代からどんどん他の動物を絶滅させていた。

 こうなるともう、ヒトとは他の動物を狩りつくすことで生きている生物と言っていいかもしれない。文明の発展とか関係なく。生まれながらにしてそういう生き物なのだ。「他の生物を守ろう」というのは「人間やめますか?」と言っているのに等しいのかもしれない。




 歴史の教科書には「ヒトは農耕によって豊かな暮らしを手に入れた」と書いてあるけれど、それは真実ではなかったようだ。

 かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
 だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。(中略)農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
 では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

 たしかに総量で見れば、人間が手に入れる食物の量は増えた。でも、農耕を始めたことで食物が増える以上のスピードで人口が増え、結果的にひとりあたりの量にすると狩猟採集生活よりも貧しくなった。もちろん種として見れば個体数が増えるのは成功だけどさ。

 人間が農耕を始めたことで得をしたのは、穀物や野菜だった。彼らは人間に栽培されることで、労せずして遺伝子を後世に残すことができるようになった。もちろん「逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ」というのは乱暴な物語ではあるけれど、結果だけを見ればそう見えないこともない。




  歴史に対する姿勢について。

歴史学者はあれこれ推測することができるが、確実なことは何も言えない。彼らはキリスト教がどのようにローマ帝国を席巻したかは詳述できても、なぜこの特定の可能性が現実のものとなったかは説明できない。
(中略)
特定の歴史上の時期について知れば知るほど、物事が別の形ではなくある特定の形で起こった理由を説明するのが難しくなるのだ。特定の時期について皮相的な知識しかない人は、最終的に実現した可能性だけに焦点を絞ることが多い。彼らは立証も反証もできない物語を提示し、なぜその結果が必然的だったかを後知恵で説明しようとする。だが、その時期についてもっと知識のある人は、選ばれなかったさまざまな選択肢のことをはるかによく承知している。

 我々が歴史を語るとき、結果から振り返るのですべての答えを知っているような気になってしまう。「あのときあいつを選ばなければよかったのに」「あそこで負けを認めていれば今頃は」と。

 だけど、我々が知っているのは無数にあった可能性のうちのたった一本だけで、他の道については何にも知らない。だから我々は、過去に「選ばなかった道」がどこにつながっているかをまったく知らない。未来がわからないのと同じように。

 たとえば日本がアメリカに戦争を仕掛けたことや、その戦争を長引かせた人は失敗として語られることが多いけど(ぼくもそうおもうけど)、真珠湾攻撃をしなくても同じような結果になっていたかもしれないし、早々に降伏していればもっとひどい結果になっていた可能性だって捨てきれない。


 それでもついつい歴史について語るときは、過去のすべてとまで言わなくても当時の人よりも多くのことを知っているような気になってしまう。未来について知らないように、過去についても知らないという謙虚さを持たなくてはならない。

 ということで、上に引用した文章についてはたいへんすばらしいことを書いているとおもうんだけど、だったらどうしてこの本はすべてを見てきたかのような筆致なんだよー!


 すっごくおもしろいんだけど、知的に傲慢なところが散見されて、信頼性という点では低めな本だったな。橘玲さんの本みたい。

 物語・入門書として読む分にはいいけど、正しいことが書かれているものとしては読まない方がいいな。


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2022年8月8日月曜日

【読書感想文】矢野 龍王『箱の中の天国と地獄』 / 詰将棋に感情表現はいらない

箱の中の天国と地獄

矢野 龍王

内容(e-honより)
閉ざされた謎の施設で妹と育った真夏。ある朝、施設内に異変が起こり、職員たちは殺戮された。収容されていた他の男女とともに姉妹は死のゲームに強制参加させられる。建物は25階、各階には二つの箱。一方の箱を開ければ脱出への扉が開き、もう一方には死の罠が待つ。戦慄の閉鎖空間!傑作脱出ゲーム小説。


 あの矢野龍王さんの書いた小説ということで購入。

 あのと言われても知らない人もいるだろうが、ペンシルパズル(クロスワードとか数独とかのパズル)界ではかなりの有名人だ。ぼくは子どものときからペンシルパズル雑誌『ニコリ』を購読しているが、パズル作家として「矢野龍王」の名前はよく目にしていた。

 パズル界では有名な人が書いた小説だけあって、パズルのような作品だった。うん、パズルとしてはたいへんよくできている。小説として見たら……。まあかなり稚拙だ。文章とか感情表現とかはおせじにもうまいとはいえない。これだったらいっそ戯曲のほうがよかったんじゃないかな。「〇〇、階段を昇る。××、困惑の顔を浮かべる」みたいに説明と会話だけに徹したほうがかえってこちらの想像力をかきたてられたかもしれない。

 せっかくストーリーはよくできていたので、これで文章もうまかったら最高の小説だった。逆にいうと、シナリオは完璧だった。いや批判から入ってしまったけどほんとにおもしろかったよ。



 謎の男・般若に拉致されて集められた、とある施設内で暮らしていた六人。周囲には施設の職員たちの死体。逃げ場のない施設に閉じ込められ、制限時間内に脱出できないと施設ごと消滅させると告げられる。脱出を目指す六人だが、各フロアには二個ずつの箱があり少なくとも一個を開けないと別のフロアに移動することができない。だが箱にはさまざまな罠が仕掛けられており、間違った箱を開けると死に至ることも……。

 という、『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム。思考実験のような小説だ。

 正直、この手の作品はいくつも見ているので、今さら新しい発見はそうないだろうなとあまり期待せずに読みはじめたのだが、これがどうしておもしろい。

 ネタバレをせずにこの本の感想を書くことは不可能なので、以下ネタバレ感想




【ここからネタバレ】


・もっとウソくさくてもよかったとおもう。なんか一応布袋への復讐とか施設への復讐とかもっともらしい理屈をつけてるけど、しゃらいくさいというか。どうせ嘘っぽさはぬぐえないわけなんだから。「複数の人物を閉じ込めて、脱出できるか死ぬかのゲームをさせる」ことにリアリティなんかもたせられるわけない。だったら説明は最小限に抑えてほしい。へたな言い訳を長々と連ねられるより、「これはほら話だからそういうものとして楽しめ!」のスタンスでいい。

・その点、登場人物の名前が記号みたいなのはよかった。アポロだとかスカイラブだとかベビーフェイスとか宇宙人だとか布袋・大黒・弁天だとか。山田とか高橋とかにしても書きわけられないのをちゃんと理解している。リアリティのない記号みたいな名前にしたのは正解だとおもう。

・バカすぎる登場人物がいなかったのはよかったな。みんなわりと合理的に行動してるもんね。ベビーフェイスは当初はバカキャラだったけど途中からは急にふつうになってたし。

・すぐ死ぬ人たちにいちいち感傷的にならないのもいい。モブキャラはどんどん消費していく。これでいいんだよ、これで。しょせんパズルなんだから。詰将棋で捨て駒にする駒に感情移入しなくていい。人間の重みを与えない方がいい。そういう小説じゃないんだから。

・ある程度はご都合主義なのも、それでいい。ゲームの一部は運任せで、登場人物はバタバタと死んでいくけど、ヒーローとヒロインだけは死なない。前半どんどん死んでいって、ちょっとずつ追加されて、また死んで、でもヒーローとヒロインだけは死なない。予定調和的だけど、詰将棋だからこれでいい。気になるのはそこじゃないからね。

・スカイラブは主人公たちが知らない間に死んでいて「ははあ、これは序盤に死んだことになってるやつが敵の黒幕っていうあのパターンね」とおもっていたら、ぜんぜんちがった。まんまと騙された。勘ぐりすぎた。

・登場することなく死んでしまった人はあまりにかわいそうすぎる。『IN』を引いて、箱からも出してもらえなかった人。運任せのゲームとはいえ、それはさすがにひどい。チャレンジさえさせてもらえていない。

・自分たちを殺そうとした大黒の意識を失わせた後、その手からライフルを取り上げないのが意味不明。「なかなか取れない」から諦めるって何それ。あまりに非合理的。

・「箱に書いてある星の数から、中身の見分け方を見出す」→「ルール変更の箱を開けてしまう」ってなるのはいいんだけど、その後星の数を調べなくなるのはまったく意味がわからない。「余計な情報をもらっても、混乱するだけだ」って何それ。ルールが変わっただけで、ルールがなくなったかどうかはわからないのに。情報は少しでもあったほうがいいだろ。重要なアイテムである電卓を使わなくなるのもまったくもって理解できない。これも非合理的。

・施設内の狭い部屋に閉じこめられて暮らしていたのに、世間についての知識がありすぎる。一応家庭教師がいたという設定はあるけど、挨拶とか人付き合いとか身体を動かすこととかはほとんどできないんじゃないの?

・ラスト1ページで「般若がスーツケースに入ってた」ということが示唆される(だよね?)けど、さすがにスーツケースに何十時間も隠れるのは無理がある。楽器ケースに隠れてたゴーンじゃないんだから。しかも人間が入ってるスーツケースをかついで投げたりしてたけど。ゴリラの遺伝子が入ってるベビーフェイスならともかく、常人には無理でしょ。そして、人間が爆死するような爆弾であればスーツケースも無事では済まないし、さらにはもしも真夏たちが脱出に失敗していたら般若も死んでたわけで、「スーツケースに隠れる」というアイデアはさすがに無理がありすぎる。最後の「実はこんなに身近なところに隠れてましたー!」をやりたかったことはわかるけどさ。


 リアリティとか人間の心の動きとかは求めず、ただストーリーのおもしろさだけを楽しみたい人にとってはいい作品だとおもう。

 無駄がないんだよね。こういう作品って中盤は冗長になりがちだけど、そのへんもうまく処理されている。新キャラを投入したり、ダイジェストにしたり、ルール変更をしたり。随所に飽きさせない工夫がある。運と知恵のバランスもいい。

 ほんとにストーリーだけを取りだしたらこれ以上ないってぐらい完成されている作品だった。


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2022年8月5日金曜日

【漫才】やらない理由

「今度オペラのコンサートがあるんだけど、一緒に行かない?」

「オペラ? オペラってあのオペラ? 歌うやつ?」

「そう、そのオペラ。オペラって名前のチョコレート菓子もあるけど、そっちじゃなくて歌劇のほうのオペラ」

「オペラのチケットがあるの?」

「いや、まだない。おまえが行くんなら一緒に買ってあげるよ。S席でいい? 1枚19,000円」

「オペラってそんなにするの!? いや、いい。行かない行かない」

「じゃあA席にする? それともB席?」

「いや席の問題じゃなくて。オペラに行かない」

「えっ……。なんで?」

「オペラに興味がないから」

「なんで興味がないの?」

「そもそもちゃんと観たことがないから」

「なんで観たことがないの?」

「なんでって……。ええっと……。いや待て待て。オペラを観たことがないことに理由がいる?」

「いる」

「それはおかしいよ。何かをやることに理由を求めるのならまだわかるけど、やらないことに理由なんてないよ」

「そうかなあ」

「じゃあ聞くけどさ、おまえがポルトガルに行ったことないのはなんで? って聞かれても特に理由はないだろ。それと同じだよ」」

「おれポルトガル行ったことあるよ」

「あんのかい!」

「いいだろあったって」

「いやそれはいいけどさ。でも今は『行ったことないであろう場所』の例えとしてポルトガルを挙げたんだから、あったらダメなんだよ。じゃあウルグアイでもパラグアイでもいいけど、おまえが行ったことない場所に行かない理由を訊かれて……」

ウルグアイもパラグアイも行ったよ」

「あんのかーい! なんであるんだよ。世界中放浪してる旅人かよ」

世界中放浪してる旅人だったんだよ」

「もう! そういう話してるんじゃないんだよ! じゃあ、えっと……おまえはパラピレ共和国に行ったことないよな?」

ない。それどこにあんの?」

「今おれが考えた架空の国! おまえはパラピレ共和国に行ったことがないな? でも行ったことないことに理由なんてないだろ? そういう話だよ」

「行ったことないことに理由はあるよ

「は?」

おまえが考えた架空の国だからだよ。ほら、正当な理由あるじゃん」

「ああもう! じゃあなんでもいいや、おまえがやったことなさそうなこと。え~っと、おまえが学生時代にラクロス部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「アイスホッケー部じゃなかった理由は?」

「声楽の練習してたから」

「じゃあおまえがクルージングをしない理由は?」

「そんな金があるならオペラ観にいきたいから」

「じゃあおまえが昨日おれの家に来なかった理由は?」

「オペラ観てたから」

「今おまえがマリファナ吸ってない理由は?」

「この後オペラ観るときに落ち着いた気持ちで楽しみたいから」

「全部即答できんのかよ! ていうかマリファナ吸わない理由はもっとあるだろ……。
 しかも全部オペラが理由なんだな。なんでそんなにオペラ好きなの?」

「えっ……。改めて言われたら、なんでオペラ好きなんだろう。なんでオペラ観にいくんだろ。冷静に考えると、オペラの何がいいのか、よくわかんないな……」

「やらないことすべてに理由はあるのに、やることに理由ないのかよ!」


2022年8月4日木曜日

年寄りは嫌い、若い子は条件付きで好き

 あのですね。みなさん、年寄りは嫌いじゃないですか。

 いや、いいんですよ。誰も聞いてませんから。嘘つかなくたって。お年寄りは大切にしないといけないとか、おじいちゃんおばあちゃんは国の宝ですとか、そんな嘘つかなくたって。

 いいんですよ。みんな嫌いなんですから。八十歳の人だって、百歳の人を見て「いつまで生きてんだ」とおもってるにちがいないんですから。

 そりゃあ自分の親戚とか、親切なご近所さんとか、高齢タレントとかは好きかもしれませんよ。でもそれはあくまで個別的例外でしてね。まあ一般には年寄りは嫌いなんですよ、みなさん。

 大丈夫ですよ、やましさを感じなくたって。昔から若い人は「年寄りはさっさとくたばりやがれ」っておもってたわけで、その若い人だった連中こそが今の年寄りなわけなんですから。

 もちろん今の若い人たちだってそのうち年寄りになって嫌われます。みんな若いうちは年寄りを嫌って、自分が年寄りになったら若い人から嫌われるんです。水が高いところから低い方に流れるのと同じぐらい、ごくごく自然のことなんです。


 考えてもみてくださいよ。

「お年寄りは大切に」とか「おじいちゃんおばあちゃんには優しくしましょう」とか言うわけですけどね、なぜそんな言葉があるかというと、ついつい嫌悪してしまうからなんですよ。

 だってそうでしょう。ほんとに大切なものには「大切にしましょう」なんて言わないでしょう。

「我が子は大切にしましょう」とか「美人・イケメンには優しくしましょう」とか「紙幣は大切な財産です」とか言いますか。言わないでしょう。あたりまえのことは言わないんです。


 ま、そういうわけで、みんな年寄りを嫌い(たぶん年寄り自身も親しくない年寄りは嫌い)ということで満場一致を見たわけでここから本題に入るわけですが、みなさんに訊きたいのは「人は若い人を好きなのか?」ってことなんですよね。

 何言ってるんだ、人間が年寄りを嫌うのは太古の昔からの自然の摂理なんだから、ということは若い人は(相対的に)好きに決まってるじゃないか、と言いたくなりますよね。わかります。

 たいていの人は若い人を好きです。若い人はいいです。アイドルも若い人ばっかりだし、「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」というのは自然な欲求です。「年寄りにご飯を食べさせてあげる」だと介護になっちゃいますもんね。これは欲求じゃなくて労働です。

 ただ、ここでひとつ気を付けないといけないのは「若い人を好き」ってのはあくまで「自分より低い地位に甘んじているかぎり」という条件付きってことです。


「若い子においしいご飯を食べさせてあげたい」という人は少なくないですが、「その若い子があなたよりもずっと多く稼いでいるとしたらどうですか?」あるいは「その若い子があなたの直属の上司だとしたらどうですか?」という質問をしてみましょう。

 それでも胸を張って「若い子がいっぱいご飯を食べているところを見るのが好きだからごちそうしてあげたい!」と言える人は、まあいないでしょう。

 結局、若くない人たちは、「若い子」は「自分より地位が低くて金のない子」だとおもっているし、またそうあることを望んでいるわけなんですよ。

「がんばる若い子を応援したい」なんて言う人が応援したいのは貧乏で権力のない若者だけであって、在学中に起業して年収数億円の若い子やプロ野球選手になって華々しく活躍している若い子ではないんですよね。


 そうです。ペットと同じです。

 犬や猫が好きな人だって、その犬や猫が自分より大きくて力も強くて、さらに自分がいなくても生きていける存在だったら、これまでと同じようには愛せないでしょう。

 若くない人が「若い子」に向ける目はペットに向けるものと同じです。だから学生社長として成功を収めている人は「若い子」には含まれないんです。ネコはかわいがるけどトラはペットにしたくないんです。


 ところで政治家って年寄りばっかりですよね。国会議員の平均年齢は五十歳を超え、政治家が四十代でも若手だ最年少だと騒がれます。我々はやれ「老害だ」とか「年寄り議員はさっさと引退しろ」とか言います。まるで年寄りの政治家を嫌っているように見えますけど、そんな年寄りを選んでいるのは我々です。我々がほんとに嫌いなのは若い政治家なんです

 我々は、自分より若い人に権力を与えたくないんです。ペットですから、自分たちの代表になんかしたくない(ペットを「家族」と言う人はいっぱいいますけど、でもペットを世帯主にするのはイヤでしょ?)。だから選挙で若い人は選ばないし、そもそも出馬もさせない。政治家がじいさんばあさんばっかりなのはそのせいです。みんな若い政治家が嫌いなんです。

 年寄りに従うのはイヤだけど、若いやつに従うのはもっとイヤ。若いやつを高い地位につけるぐらいならまだ年寄りのほうがマシ。みんなそうおもってるわけです。


 政治家が若返りを果たすには、我々が「自分より金を持っている若い人にでも平気で食事をおごってあげる」ぐらいの度量を持つ必要があるわけですよ。

 ちなみにぼくにはもちろん、そんな懐の深さはないです。


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