2021年10月26日火曜日

ツイートまとめ 2021年6月



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2021年10月25日月曜日

テニスである

(この記事は八月下旬に書いたものです)


 にしこりもすなるテニスといふものを、してみんとてするなり。


 そんなわけでテニスである。
 きっかけは娘の友だち・Sちゃんのおかあさんに誘われたこと。

 話はそれるが、男から見た「子どもの友だちのおかあさん」の呼び名って〝ママ友〟でいいんだろうか。ママ友でもパパ友でも友だちでもないような気がする。そもそも「子どもの友だちの保護者」のことを友だちとおもったことないんだけどな。なんかいい呼び名ないかな。〝保護者仲間〟ぐらいかな。まあそれはどうでもいい。

 親戚が小学生向けテニススクールをやってるから人数合わせのために参加してくれないか、と誘われた。

 娘に「どうする?」と訊くと、「うーん、Sが行くなら行く」という煮え切らない返事。しかしそれも当然で、娘はそもそもテニスというものをほとんど知らないのだ。まともに見たことすらないのだから「やる?」と訊かれても「やりたい!」という返事にはならないのは当然だ。ぼくだって「クィディッチやる?」と訊かれて「やる!」とは即答しないもんな。ハリー・ポッターに登場する箒にまたがって球入れをする架空のスポーツを現実にやる人がいるらしいです。それがクィディッチ。


 そしてテニス教室へ。正午スタート、一時間。
 八月、好天、正午。暑くないわけがない。暑いというより熱い。腕からちりちりと音がする。

 ラケットの持ち方を教わり、ボールを真下についてみようとか、ボールにラケットを当てようとかコーチから指示。娘の様子を見ると、決して楽しくはなさそう。なにしろそもそもテニスが何かをよくわかっていないんだもんな。目的のわからない作業をさせられるのはさぞつらかろう。

 そんなこんなで一時間のレッスンは終了。最後に申し訳程度に「ふたり一組でネットをはさんで打ち合ってみましょう」という時間があったが、当然ながらラリーにはならない。よくて一往復。

 まあテニスがどんなもんかわかっただけでもいいさとおもい、娘に「どうする? またやりたい?」と訊くと「やりたい!」と意外にも強い返事。
 しかも友だちのSちゃんが「うーん、どうしよっかなー」と迷っているのに、娘は「Sが行かなくても行く」と言う。
 えーレッスン中はむすっとしてぜんぜん楽しそうに見えなかったのに。なんかわからんが心の琴線にふれたようだ。


 さあ来週もテニス教室へ行こう、とおもっていたら教室から連絡が。緊急事態宣言の延長で一切の部活が禁止になったのだと。
 むー。テニスなんて全スポーツの中でいちばんディスタンスとるスポーツなのになー。


2021年10月22日金曜日

【読書感想文】永 六輔『一般人名語録』

一般人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
またまた日本全国一億二千万人が創った名言・箴言。格言・警句。すごいものです。一般人が生みだす言葉の力強さと皮肉とスゴ味は。たとえば「今日も無事、小便できる幸福よ」―。本当にじっくり読んでみて下さい。何か痛快な気持ちになって、日本と自分の置かれた状況が見えてきませんか。どうぞ御愛読を。

『無名人名語録』『普通人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言集」第三弾。

 内容は変わらずおもしろいけど、一部前作と同じ内容があるぞ。チェックしてないのか。

 まあこの時代(約三十年前)はふつうの人はパソコン使わずに仕事してた時代だもんな。チェックも容易ではなかったんだろう。




「市民運動でマスコミに対応している人が
 スターになってくると、
 潮が引くように運動が無力になっていくことがあるの。
 運動って無名でないと、
 まとまらないのね」

 はるか昔、星新一氏が対談で、「市民運動が注目されるようになると中心人物の売名や利益と結びついてしまって権力にとりこまれる」と言っていた。

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』

 多くの市民運動を見ていてもそうおもう。

  高潔な思想を持った市民運動がはじまる
→ 中心人物が注目を集める
→ その人物の過去の言動が検索され、炎上
→ 運動自体の評価が下がり、下火になる

というケースを何度も見てきた。
 特に今の時代はかんたんに過去の発言を検索できるので、まずいことがかんたんに見つかる。誰だってうしろ暗いことのひとつやふたつやみっつやよっつはあるだろう。ぼくなんか悪口ばっかり書いてるからひとたまりもない。

 論理的に考えれば「市民運動の中心人物がいいやつじゃなかった」からといって市民運動までも否定される筋合いはないのだが、残念ながら人々はそんなに論理的じゃない。
「悪いやつがやってるんだから悪いこと」になってしまう。




 言われてみればたしかにそう! という発言。

「内科っていうのは外から診察して、
 外科っていうのは、
 内側をあけて治療するわけですからね。
 内科が外科で、
 外科が内科なんですよね」

  ほんとだ。

 なんで外を診るのを内科、中を開くのを外科っていうんだろう。


「昭和天皇って相撲が好きだったっていうのは、
 あの行司が好きだったんじゃないかな。
 土俵の上で一番偉そうに見えて、
 決定権のないところがさ、誰かに似てない?」

 言われてみれば。

 相撲の行司ってぜんぜん権力ないからね。

 スポーツの審判はフィールド上の最高権力者なのに、行司はちっとも権力がない。行司が裁いても土俵下にいる審判団にかんたんにくつがえされるし、ミスジャッジをしたら小刀で切腹しないといけない(じっさいはしないけど)。

 権力はないのに責任だけはある。天皇と同じだ。




「戦争体験を伝えろって、
 若い奴が話を聞きに来るんだけどさ、
 オレが中国戦争でやってきたことなんか言えないよ。
 強姦ばっかりだもの」

 戦争体験談っていうと悲惨な話ばかりになるけど、全員が悲惨な思いをするんなら戦争なんかそもそも始まらない。

 一部には、戦争によっていい思いをするやつもいるはずなんだよな。強姦したとか、戦争によって大儲けしたとか、票を集めたとか、そういうやつがさ。

 でもそういうやつは語らない。自分もつらい目に遭ったかのような顔をする。

 ほんとは、そういうのこそ書き残さなくちゃいけないんだよな。匿名でいいからさ。

「戦争すれば庶民が悲惨な目に遭うぞ!」よりも「戦争すればあいつがうるおうぞ!」のほうが抑止力になるんじゃないかな。




「プロ野球が立派でないと青少年に悪い影響を与える……。
 冗談じゃねェや、のぼせるんじゃないよ、
 たかがプロ野球が!」
「障害児が、
 精一杯生きているっていう言い方をするけど、
 本当は、障害児に対して
 精一杯生きなきゃいけないのよ」

 24時間テレビが「感動ポルノ」と言われて久しい。ぼくは観たことないので何とも言えないけど。

 ただ、テレビで伝えるべきは「障害者が何かにチャレンジする姿」よりも「障害者が何かにチャレンジするのを助ける人の姿」ではないだろうか。

 十年ぐらい前に、ある日本人の登山家が八十歳でエベレストに登頂して「世界最高齢! えらい!」とニュースで騒いでいた。

 でも、その人はべつにえらくない。好きで登っているんだもん。好きでラジオ体操するのも好きでエベレストに登るのもいっしょだ。趣味でやっているだけなんだから、べつにえらくもない。

 えらいのは、彼を助けた人たちだ。エベレストに登るだけでもたいへんなのに、じいさんをサポートしながら登らなきゃいけないのだ。仕事でやっているとはいえ、じいさんの道楽に付きあって命を救っているのだ。これはえらい。

 パラリンピックの選手だってぜんぜんえらかない。好きなスポーツをやっているだけだ。あれがえらいなら、公園でスケボーの練習をしている連中もえらいことになる。

 褒めたたえるとするなら、パラリンピックの選手をサポートしてる人たちだよな。
 彼らを取りあげて「ほら、すごいでしょ!」とやれば、観ているほうも「自分も何か手助けできるかも」とおもえるようになるかもしれない。


 スポーツ選手に対して、ファンが「感動をありがとう!」とか言うのは好きにしたらいいけど、問題なのは一部のスポーツ選手がそれを真に受けて「自分は日本中に勇気を与えられるすごい存在だ」と勘違いしちゃってること。

 勘違いするなよ。おまえは好きで跳んだり跳ねたりたたいたり投げたりしてるだけなんだよ。その姿がおもしれえから注目を集めてるだけ。パンダと同じ、何も生みださないごくつぶし。

 いやいいんだよ。ごくつぶしを飼える社会はすごく成熟してるってことだから、そうやってプロスポーツ選手が存在することはぼくも賛成だ。

 でもこないだのオリンピック開催の議論のときに明らかになったけど、一部のスポーツ選手は「社会の見世物をさせていただいている」立場だということを忘れて「社会がスポーツ選手のためにまわるべき」と思いこんじゃってるんだよね。愚かにも。

 ファンがちやほやするからだぞ!


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2021年10月21日木曜日

部活は違憲

 部活は諸悪の根源。

 とまでは言わないが、部活がなくなれば世の中からパワハラがだいぶ減るんじゃないかとにらんでいる。


 小学生のとき、上級生は単なる「年上」だったし、下級生は「年下」でしかなかった。

 なのに中学生になると急に上級生は「敬うべき存在」になり、下級生は「威張っていい相手」になる。

 なんなんでしょうね、あれ。

 小学校でも縦割りの活動はあった。掃除とか運動会とかで、六年生が一年生の面倒を見ることが。
 そのときは「六年生のおにいさんおねえさんは一年生に教えてあげましょう」という感じだった。
「年下の子にはやさしくね」だった。

 なのに中学生になると急に「二年生は一年生に対してえらそうにしていい」になる。

 急にびゅんびゅん吹かしてくる。先輩風を。

 なんでだよ。「二年生のおにいさんおねえさんは一年生にやさしく教えてあげましょう」にしろよ。


 こうしてぼくらは部活動を通して
「先輩は後輩に対して敬意を払わなくていい」
「後輩は先輩が理不尽なことを言っても逆らってはいけない」
と誤った考えを学ぶ。

 憲法十四条「すべて国民は、法の下に平等であつて」は、部活においては無視される。
 部活は違憲。


 まあすべて部活のせいとは言わんが、他の学年と関わることなんて部活以外にはほとんどないから、まちがった上下関係を身につける原因の九十パーセントは部活のせいといってもいい。

 だから部活がなくなれば世の中からパワハラは減る。あと貧困と疫病と暴力と争いと鼻出しマスクでマスクした気になってるやつも減る。まちがいない。


2021年10月20日水曜日

【読書感想文】永 六輔『普通人名語録』

普通人名語録

永 六輔

内容(e-honより)
再び日本全国の普通人が創った名言・箴言・格言・警句を、味わってください。なんと深く世相をえぐり、庶民の微妙な気持ちをとらえていることでしょう。この素晴らしい表現力に、だれもが驚きます。そして共感がひろがります。さあ、1億2千万人のペーソスあふれる大傑作を、声をだして読んでください。


『無名人名語録』に続く「市井の人々がふと漏らした発言」を集めた本。刊行は今から三十年前の一九九一年。

 なんてことない言葉なんだけど、うならされたり笑わされたり。

 たとえばこんなの。

「デマを流すコツは、みんなが信じたがるデマを流すこと」
「年をとってみるとわかることがあるね。
 戦争をやろうとするのは、決して若い連中じゃないんだよな。
 自分は戦地に行かないという連中が、はじめたがるんだ。
 自分が死なないとわかりゃ、
 戦争って面白いものなァ。
 で、若い連中が死ぬ……。
 年とった連中の若者に対するヤキモチだな」




「パーティとか、寄り合いで、帰りそびれて最後までつき合っちゃってさ。
 そのために、オーバーに言えば、
 人生が狂っちゃったりするんだよな。
 帰るタイミング、
 別れるタイミング。
 うまい奴がいるからねェ」

 何歳になっても「帰るタイミング」ってむずかしいよね。

 まあぼくは数年前から「どう見られてもいいや」とおもえるようになったのでスッと帰れるようになったけど、それまでは帰りそびれて後悔したものだ。そんなにおもしろいわけじゃないんだけどな、とおもいながら周囲に流されて二次会三次会に行き、やっぱりおもしろくなくて「早く帰りたいな」とおもいながら時間が過ぎるのを待つ。

 でも子どもが生まれたことで、帰る口実を作りやすくなった。

「子どもが待ってるので」「妻に怒られるので」と言えば、そこまで引き止められない。

 これは今の時代だからで、昭和の時代だったら「男が家庭なんか気にするな」なんて言われていたかもしれない。

 いい時代になったなあ。




「地下鉄に乗ってさ。
 いきなり喧嘩、なぐり合い。
 思わず、ポカンと見ちゃったよ。
 事情はわからねェんだもン。
 割って入れるもんじゃねェ。
 様子を知ろうとすりゃ、
 時間はかかるよ。
 そのうち、次の駅で、連中は、
 ホームに出ちゃう。
 それを車内で傍観していたって、
 そんなこと言われたって困っちゃう。
 正義感とか、公徳心てェものは、
 いつも持ってて、
 すぐに出せるってものじゃねェもの」

 ぼくもこの前、似た経験をした。

 街中で口論や喧嘩を目にすることがたまにあるんだけど、ほとんどの場合一部始終はわからない。

 注意 → 反論 → 再反論 → 再々反論 → 激昂してでかい声を出す

 のあたりで周囲の人は「なんか揉めてるな」と気づくから、いきさつがさっぱりわからない。

 止めたほうがいいのか、止めないほうがいいのかもわからない。たとえば痴漢を現行犯で捕まえたのだったら止めないほうがいいし、刃物を持って暴れてる人がいるんなら止めに入るより逃げたほうがいい。

 都会の無関心とか現代人は冷たくなったなんて言われるけど、たいていの場合は事情がわからなくてどうしようもないんだよね。




「ニュースショーの司会をしていると、
 自分の考えと、局としての考え、
 さらに視聴者が満足する考えと三つの発想の、
 どれを選ぶかということで疲れ果ててしまう。
 だからまず、自分の考えがない人がいい。それから局としての考えにも及ばない人がいい。
 正義も、真実も、無視して、
 視聴者が考えそうなことを言う人。
 そんな人こそ、すぐれた司会者」

 なるほどなあ。そうかもしれない。

 長続きするニュース番組の司会者って、自分の意見を出さない(もしくは何も考えてない)ように見えることが多い。

 政治家の不正や有名人の不倫にすぐ怒ってすぐ忘れるような人ばかりだ。

 みんなが右に行けば右に走り、世間が左に向かえば自分も左に移動する。思想も信条も洞察もない。わたぼこりのように風に流されて漂うだけ。

 それがうまくいく秘訣なんだろうね。




 中でもいちばんおもしろいのは、公共の電波や紙面に乗せることは決してできない、偏見まみれの本音の言葉。

「お客様、ここは東京のライブスポットです。
 田舎から来た人は下手なリズムで手を叩かないで下さい。
 それからブスの人、気取らないでェ!」
「オレがひとり暮らしの老人だからって、
 若い女のボランティアが来るんだよ。
 来てもいいけど、ケツを触ったら
 怒ってもう、来てくれないの。
 そういうケチなのも、ボランティアっていうのかい? 孤独なスケベだっているんだよ。
 触るだけなんだからさァ」

 いいなあ。

 こんなこと、Twitterでもなかなか言えないもんなあ。匿名掲示板に書いたことが原因で逮捕されることもある世の中だもんな。

 貴重な歴史的史料だ。


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