2021年7月26日月曜日

【読書感想文】高野 秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』

移民の宴

日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活

高野 秀行

内容(e-honより)
日本に住む二百万を超える外国人たちは、日頃いったい何を食べているのか?「誰も行かない所に行き、誰も書かない事を書く」がモットーの著者は、伝手をたどり食卓に潜入していく。ベリーダンサーのイラン人、南三陸町のフィリピン女性、盲目のスーダン人一家…。国内の「秘境」で著者が見たものとは?

 「日本に住む外国人たちの食事会」にまぎれこませてもらい、日本在住外国人たちがどこで食材を買っているか、どんな料理をしているか、さらにはどんな生活を送っているかをつづったルポ。まあルポというほど堅苦しくないが。

 たしかに、ぼくが子どもの頃は(田舎育ちだったこともあって)外国人を目にする機会は少なかったが、今は日本にいる外国人の姿もめずらしくない。
 コロナ禍で旅行者の数は激減しているのにそれでも街を歩く外国人(っぽい見た目の人)は少なくないのだから、住んでいる人も多いのだろう。

 だが、ぼくは彼らがふだん何を食べているのかほとんど知らない。
 たしかに中国人のやっているお店には中国人っぽいお客さんが多いし、ネパール料理屋ではネパール人らしき人をよく目にする。とはいえ彼らだって年中外食をしているわけではなく、自炊したり買ってきたものを食べたりしているのだろう。どんなものを食べているか、ほとんど知らない。

 でも、よくよく考えてみればべつに外国人にかぎらず、周囲の人が家でどんなものを食べているかほとんど知らない。なんとなく同じ日本人だから同じものを食っているだろうとおもっているが、もしかしたらぼくの友人や同僚は毎日カレーだけを食べたりバッタを食べているのかもしれない。




 正直言って「外国人の料理レポート」部分は、高野秀行さんの本にしてはあまりおもしろくなかった。まあこれはぼくが食にあまり関心がないせいだけど……。

 結局、外国人であろうとそれほど変わったものを食っているわけではないんだよな。日本に暮らしていて日本のスーパーに行っていれば買うものだって似たようなものになる。一部の食材は祖国から取り寄せることもあるだろうが、日本で買い物をせずに暮らしていくことはできない。
 調理法に多少の違いはあるが、それは日本人同士でもおなじこと。

 たとえば同じく高野秀行さんが書いた『辺境メシ ~ヤバそうだから食べてみた~』に出てくる強烈な料理の数々に比べると、「日本で暮らす外国人の料理」はインパクトが小さい。




 とはいえ「日本在住外国人の暮らしぶり」や「価値観のちがい」についてはおもしろかった。

 レストラン業のベテラン二人に「どうしてフランスでなくわざわざ日本に店をオープンしたのか」と訊くと、異口同音に「フランスで店を開くのは日本の十倍難しい」という答えが返ってきた。
 フランスでは店舗をレンタルするという習慣がなく、丸ごと買わねばならない。しかも「商業権」というものがある。前の店の一年分の売上を支払わねばならない。例えば一月の売上が二百万の店なら二千四百万円。仕事も顧客もすべて買うという発想らしい。しかも、アルコールを売る、料理をするという全てにライセンスが必要で、とにかくお金がかかるのだそうだ。
 日本でのレストラン経営のコツは? と訊くと、「きめ細かくサービスすること」。フランスのビストロなら客が来ても「あ、その辺に座って!」と声をかける程度だが、日本ではテーブルを整え、席まで案内する。「日本人はちょっとしたことを大切にするからね」。ナビルさんは日本に初めて来たとき、日本式の接客を一から学ぶため、あえて一番下の見習いから始めたのだという。

 フランスのレストランのほうが接客とかマナーとかうるさそうだけど、意外にも日本のほうがうるさいんだね。

 ヨーロッパって職人組合とかが発達した歴史があるから、レストラン業界にも保護権益があるのかもしれない。
 消費者からするといろんなお店が林立して味やサービスや価格で競ってくれるほうが安くておいしいものが食べられていいんだけど、労働者の立場で考えると商業権があるほうがいいよね。無理な値下げ競争とかする必要がないから。

 そういやぼくもイタリアに行ったことがあるけど、レストランの店員がだらだらしているし、日本ほどメニューも多くないし、その割にけっこういい値段をとるんだなとおもった。サイゼリヤのほうがずっと安くて同じくらいおいしくていろいろ食べられる。あれは商業権のおかげで楽に商売ができていたからなんだろうな。




 ロシア正教会ではユリウス暦を使っているので、グレゴリオ暦(いわゆる西暦)とは日付がずれる。ロシア正教会のクリスマスは一月だ。

 そのせいで過去にはこんな〝大事件〟が起きたそうだ。

 なんと、昭和天皇はロシアン・クリスマス当日に亡くなったのだ。在日ロシア人たちは動揺した。世間は祝い事をみな「自粛」している。パーティなどもってのほかだ。しかし、彼らにとってのクリスマス・パーティとは遊びではない。主イエス・キリストの生誕を祝うという宗教行事なのだ。
「だから窓もカーテンをぴったり閉めて、音が外に漏れないようにして、ひっそりと『メリー・クリスマス!』ってやったのよ」
 付け加えれば、在日ロシア正教会は日本にひじょうに気を遣っている。この教会では、ミサの度に、「天皇陛下と日本政府の幸せと長命」を祈るのだそうだ。

 クリスマスパーティーなのにまるで黒ミサだ。

 日露間は国交は続いているが、アメリカ寄りである日本にとってロシアとの関係は決して良好とはいいがたい。
「警察に監視されていた」なんて話もあるし、日本で暮らすロシア人はいろいろ嫌な目にも遭ってきただろう。
 だからこそ、こうして「我々は日本人の敵じゃないですよ」というアピールを懸命におこなっているのだ。なんとも健気な話だ。
 天皇陛下と日本政府の幸せと長命を祈るなんて話を聞くと「さぞかしつらいおもいをしたんだろうなあ……」と同情してしまう。




 この本に出てくる海外の料理は、日本人がふだん食べているものより手が込んでいるものが多い。 まあ食事会の料理だからふだんよりは手が込んでいるのだろうが、それでも四時間煮込むとか、前の日から仕込んでおくとかとにかく手間ひまをかけている。

 だが日本人が楽をしているということではない。

 取材を重わて行くうちにだんだんわかってきた。日本人の食事はあまりに幅が広いのだ。和食、中華、洋食と大きく三種類は作れないといけない。油一つとっても、サラグ油、ごま油、オリーブ油は常備している。酒も日本酒、焼酎、ワイン、ビールと飲みわけ、肴もそれに合わせる。その他、テレビ・雑誌・ネットのレシピでは、タイ料理や北アフリカのタジン鍋、インド・カレーなどをせっせと紹介する。
 昨日は麻婆豆腐だったから、今日はマリネとアンチョビ・パスタにしよう。で、明日はさんまの塩焼きで日本酒にするか」なんていうのは、日本人の主婦(主夫)としてごく普通だ。こんなでたらめなメニューで動いている主婦は世界広しといえども、日本だけではないか。
 多くの外国人は「私たちの料理は作るのは大変だけど、一回作ると同じものを何日も食べる」と言う。日本人は目先をころころ変えないと気が済まないのだ。

 海外の料理は手間ひまをかける。その代わり大量につくって、同じものを何日もかけて食べる。
 日本の料理はシンプルなものが多いが、毎日べつのものを食べる。そもそもの考え方がちがうのだ(たぶん湿度が高いから作りおきができないという事情もあるのだろうが)。

 しかし日本の料理はいつからこんなにバラエティに富んだものになったんだろう。昔の日本人は毎日同じものを食べていたはず。火を使うのだって今みたいにかんたんではなかったんだから。

 たぶん戦後だろうね。女性が専業主婦になり(専業主婦が一般的になったのは戦後)、調理家電が発達して時間ができたことで、さまざまな料理をつくる余裕ができた。
 小林カツ代さんの評伝を読んだことがあるが、料理研究家の大家である彼女は結婚当初まったく料理ができず、テレビ番組に「料理コーナーを作ってほしい」と投書をしたことで料理研究家の道を歩むことになったそうだ。ちょうどその頃が、日本人が食にこだわりだした時代だったんだろうね。

 しかしもう時代は変わった。専業主婦の数は再び減り、商業権のない日本では労働時間は減らない。家庭料理にかけられる時間は減りつつある。
 この先日本も「大量に作って何日もかけて食べる」になっていくのかもしれない。今は保存技術も発達したわけだし。


【関連記事】

【読書感想文】何でも食う人が苦手な料理 / 高野 秀行『辺境メシ ~ヤバそうだから食べてみた~』

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』



 その他の読書感想文はこちら


2021年7月21日水曜日

ファスト映画と映画予告編

 少し前の話になるが、ファスト映画を公開していた人が逮捕された、というニュースを目にした。

 ぼくはその記事でファスト映画なるものを知った。
 ファスト映画とは、映画を10分程度に短縮してあらすじをつけたものだそうだ。
 昔ニコニコ動画で『時間がない人のための~』って動画が流行っていたが、あれだ。

 存在すら知らなかったぐらいなのでぼくはファスト映画を観たことはないが、まあ現代の需要にかなっている動画だなとおもう。

(断っておくが逮捕された人をかばう気はない。逮捕された人はYouTubeで収益を得るために権利者に許可なく映画を切り貼りしていたらしいから完全アウトだ)


 手っ取り早く結末を知りたい、はずれを引きたくない、みんながおもしろいという映画だけを知りたい。
 そういう欲求はどんどん強くなっている。
 小説でも映画でも「感動の物語」「号泣必至」「あっと驚くどんでん返し」「最後の一ページで衝撃を受ける」みたいなちゃちいコピーがあふれている。

「うるせえ。感動するかどうかは見てから自分で決めるわ」とおもうぼくのような人間は少数派なのかもしれない。
 まあぼくも本を買う前にAmazonで星の数をチェックしたりするので、他人の評価を気にしてないわけじゃないんだが……。


 それはそうと、違法に作られたファスト映画がYouTubeにはびこっていると聞くと、これは悪いやつがいっぱいいるというより、映画製作会社の怠慢なんじゃないかとおもってしまう。

 手間暇かけてファスト映画が作られるのは、それが再生されるからだろう。
 需要はある。時間をかけずに映画をダイジェストで観たいという人がいっぱいいる。

 だったら違法アップローダーではなく、権利者がそれに応えてやればいい。


 音楽でもマンガでもお笑いでも、どんどん無料配信でお試しをさせている時代だ。そっちのほうが売れるから。
 あたりまえだ。内容がわからないものは買いづらい。無料版で興味を持ってこそ有料版を買うのだ。ぼくはラーメンズのDVDを全巻持っているが、最初に観たのはニコニコ動画だかYouTubeだかに上がっていた違法アップロード動画だった(今はラーメンズのDVDの内容は全部公式がYouTubeに載せてるけどね)。

 だから映画も、DVDを販売している会社が無料ダイジェストを作ればいい。それによってDVDが売れたり、同じ監督や俳優の作品が売れたりするだろう。


 え? 映画には既に予告編があるって?

 ……あのさあ。
 そうだ。おもいだした。前から言おうとおもってたんだった。
 映画の予告編。あれ何?

 聞くところによると配給会社が勝手に作ったりしてるらしいね。
 あれたいていひどいね。無茶苦茶だよね。内容とぜんぜん関係なかったりする。
 前半のぜんぜん重要でない台詞が、まるで映画全体を決定づける重要な台詞であるかのように使われたりする。
 へたすると本編の夢のシーンとかが、予告編ではまるでクライマックスシーンであるかのように使われていたりする。大嘘じゃん。

 まあ、ちょっとだけ制作側の事情もわかる(ちょっとだけね)。
 映画の予告編は、劇場で他の映画の公開前とかテレビCMとかで使われる。つまり、予告編を観る人は、観ようとおもって観てるわけではない。強制的に予告編を見せつけられているわけだ。
 だから、ネタバレをするわけにはいかない。
「まっさらの状態で観たかったのにー!」と言う人もいるから、ネタバレには気を付けなくてはいけない。本当のクライマックスシーンを使うわけにはいかない。本当のクライマックスシーンを使ったら「ああ、ラスボスはこいつなんだ」とか「最後は崖から落ちるんだ」とかバレちゃうからね。
 そこで苦肉の策として、前半~中盤の「ちょっと盛りあがるけどさほど重要ではないシーン」を、さもクライマックスシーンであるかのような予告編にするんだろう。
 作り手の苦労はわかる。だからある程度はしかたない。かつては


 そう、「予告編はいろんな人が見るからしかたないよね。ネタバレしてほしくない人も目にしちゃうわけだから」で済まされてたのは昔の話。
 今はそうではなくなった。
 YouTubeの動画は(インストリーム広告と呼ばれる5秒経つとスキップ可能な広告も含めて)、途中で停止・スキップができる。
 ユーザーの意思にかかわらず半ば強制的に見せられる&停止不可能な映画館の予告やテレビCMと違い、YouTubeの動画は避けられるし停止できる。

「観たくなければ観なければいい」が通用するのだ。
 だから予告編の中にちょっとぐらいのネタバレは入れてもいい。もちろん謎解きがおもしろさの中核を占める作品ではだめだが、アクション映画やサスペンス映画であればだいたいのストーリーを説明してもさほどおもしろさは損なわないだろう。むしろ「こういうストーリーだったら観に行こう」という人が増えるんじゃないだろうか。

 あらかじめどんな話か知った上で観たい人はたくさんいるのだ。


 違法なファスト映画がはびこるのは、権利者の怠慢があるんじゃないだろうか。
 権利者が公式にファスト映画を作ってYouTubeにアップすればいい。収益にもなるし、DVDの売上にもつながるだろう。
 それをしないから「ニーズはあるのに供給がない」ことになり、違法なアップローダーが現れるのだとおもう。

(これは素人の意見。じっさいは監督や役者の契約で「ファスト映画をつくってYouTubeにアップロードする」ことまで規定していないことがほとんどだろうから、そうかんたんにはいかないんだろうけど……)


2021年7月20日火曜日

かちかちオリンピック

 むかしむかし、あるところにミュージシャンがいました。
 ミュージシャンは少年時代に他の生徒に対して加害行為をおこなっており、それを雑誌のインタビューで誇らしげに語っていました。

 それを知ったうさぎは怒りました。
 うさぎはミュージシャンとも被害者とも何の関係もありませんが、ぜったいにミュージシャンを許すわけにはいきません。

 そこでうさぎはミュージシャンをオリンピック会場に誘いこむと、ミュージシャンの背負った柴に火打ち石で火を付けました。「ここはかちかちオリンピックだからかちかち音がするんだ」

 ミュージシャンは大炎上。背中に大やけどを負いました。
 うさぎはさらにミュージシャンの背中にとうがらしをすりこみ、泥船に乗せて沈めました。
 沈んでゆくミュージシャンを見てうさぎはゲタゲタと大笑い。わるものをやっつけたのです。

 めでたしめでたし。うさぎは次のわるものをさがしにいきました。


2021年7月19日月曜日

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

2020年6月30日にまたここで会おう

瀧本哲史伝説の東大講義

瀧本 哲史

内容(e-honより)
「君たちは、自分の力で、世の中を変えていけ!僕は日本の未来に期待している。支援は惜しまない」2019年8月に、病のため夭逝した瀧本哲史さん。ずっと若者世代である「君たち」に向けてメッセージを送り続けてきた彼の思想を凝縮した“伝説の東大講義”を、ここに一冊の本として完全収録する。スタジオ収録盤にはないライブ盤のように、生前の瀧本さんの生の声と熱量の大きさ、そしてその普遍的なメッセージを、リアルに感じてもらえると思う。さあ、チャイムは鳴った。さっそく講義を始めよう。瀧本さんが未来に向けて飛ばす「檄」を受け取った君たちは、これから何を学び、どう生きるべきか。この講義は、君たちへの一つの問いかけでもある。


 経営コンサルタントや投資家の経歴を経て、京大などの准教授を務めた瀧本哲史氏が、東大でおこなった講義を本にしたもの。

 一回の講義を本にしたものなので、正直情報量は多くない。何かを知りたいならこの本よりも、瀧本氏が執筆した本を読んだほうがずっといいとおもう。
 ただこの本からは〝熱意〟みたいなものは感じることができる。もちろん活字にしているので生講義に比べれば何十分の一でしかないんだろうけど、それでもたしかに息遣いが感じられる。
 音は悪くてもライブ盤CDのほうが迫力を感じられるように。




 パラダイムシフトはどんなふうに起こるかという話。

 地動説が出てきたあとも、ずっと世の中は天動説でした。
 古い世代の学者たちは、どれだけ確かな新事実を突きつけられても、自説を曲げるようなことはけっしてなかったんですね。
 でも、新しく学者になった若い人たちは違います。古い常識に染まってないから、天動説と地動説とを冷静に比較して、どうやら地動説のほうが正しそうだってことで、最初は圧倒的な少数派ですが、地動説の人として生きていったんです。
 で、それが50年とか続くと、天動説の人は平均年齢が上がっていって、やがて全員死んじゃいますよね。地動説を信じていたのは若くて少数派でしたが、旧世代がみんな死んじゃったことで、人口動態的に、地動説の人が圧倒的な多数派に切り替わるときが訪れちゃったわけですよ。結果的に。
 こうして、世の中は地動説に転換しました。
 残念なことに、これがパラダイムシフトの正体です。
 身も蓋もないんです。
 新しくて正しい理論は、いかにそれが正しくても、古くて間違った理論を一瞬で駆逐するようなことはなくてですね、50年とか100年とか、すごい長い時間をかけて、結果論としてしかパラダイムはシフトしないんですよ。


 ぼくの知り合いのおばあちゃんの話。
 もう九十歳を過ぎていて完全に認知症だ。最近のことをまったくおぼえていなくて、三分おきに何度も同じ話をくりかえす。
 選挙の時期になると、息子がおばあちゃんを投票所に連れていく。もちろんおばあちゃんはどんな候補者が出ているのか、誰がどんな政策を掲げているのかはまったく知らない。三分前のことをおぼえていないのだからあたりまえだ。でもおばあちゃんは投票用紙に「自民党」と書いて投票箱に入れる。数十年間ずっとそうしていたから。
 このおばあちゃんに、いまさら考え方を変えさせることは無理だろう。仮に自民党が消滅したとしても、おばあちゃんは投票所に足を運べるかぎりはずっと「自民党」に票を入れつづけるのだろう。

 これは極端な例だが、そこまでいかなくても人が考えを改めるのはむずかしい。賢い人でも。いや、賢い人ほど。
 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、多くの情報を得た人は、「元々の自分の考えに近い証拠」を信じ、「元々の自分の考えにあわない証拠」を切り捨て、ますます自説に執着するそうだ。
 さらに認知能力の高い人ほど自己正当化がうまく、議論によって考えを改める傾向が低いのだそうだ。


「人の常識はそうかんたんに変わらない」は悲しい現実だ。
 けれど「時代が変わって構成員が変われば世の中の常識は変わる」は希望でもある。

「若いやつは苦労すべき。少ない給料で長い時間を働くことで成長できる。おれもそうやって成長した」「女は家庭を守ってなんぼ。子どもには母親がずっとついていることが必要。わたしもそうやって家庭を守ってきた」とおもってるおっさん・おばさんに考えを改めさせるのはすごくむずかしい。ほぼ不可能といっていい。
 しかし旧い価値観の持ち主が社会から退場してゆくことで、ちょっとずつ世の中は変わっている。少しずつだけど、学校でも会社でも根性論は消えつつある。路上で他人が近くにいても平気でタバコをばかすか吸うおっさんももうすぐ死滅してくれるはず。明るい未来だ。


 しかし「時代が変わって新しい価値観が主流になるとき」には自分も年寄りになって「あいつら古い考えを押し付けんなよ。早く現世から退場しろよ」とおもわれる側になってるわけで。ううむ。やはり未来は明るくないのかも。




 歯に衣着せぬものいいも、講義をそのまま本にした「ライブ盤」ならではの魅力かもしれない。

「人生において読んでおくべき本はないですか?」と学生から訊かれて「そんな本、ない」「そういうバイブルみたいな本、大っ嫌いなんですよ」とかバッサリ切り捨てているのも読んでいておもしろい。

 霞が関の仕事は、国民の代表である選良の人たちからの合意を得るというゲームではなく、向こうは動物園の猿で、こっちは猿の飼育係であると考えるといいんですね。
 猿の飼育係の仕事は、自分は人間だと誤解してる猿に餌をあげて、「明日は休みで家族連れがたくさん来るからよろしくお願いしますね」みたいな感じで機嫌を取ることじゃないですか。
 言うこと聞かない猿に飼育係の人がキレて、「おまえは猿のくせにいいかげんにしろ!」とか言ってバシッとやったら、猿いじけちゃいますよね(笑)。

 政治家って高学歴な人が多いからついつい賢い人にちがいないとおもってしまいがちだけど、ぜんぜんそんなことないよね。ほんとに賢い人は政治家になんかならない。選挙のたびに四方八方にぺこぺこ頭下げて、当選しても党の言うがままになって、何かあれば批判が殺到する政治家になるなんて、賢い人間のすることではない。
 自分に利をもたらすよう政治家をうまく操縦することこそ、ほんとに賢い人がやることだよね。瀧本哲史さんみたいに。




 この講義は基本的に「自分で考えろ」ってことしか言ってない。
 さっきの「読んでおくべき本などない」もそうだけど、具体的に「こうしなさい。これをすればうまくいきますよ」みたいな助言は一切出てこない。これはすごく誠実な態度だ。
「○○すればうまくいく」って言うのは詐欺師だけと相場が決まってるもんね。

 地図ではなく、方位磁針のような本。おおざっぱな方向性だけは教えてくれる。ただしどのルートを通ればいいのか、目的地まではどれぐらいの距離なのか、そもそも目的地が何なのかは一切教えてくれない。

 読むと何かをしたくなる本。特に若い人におすすめしたい本。もちろん「すべての人が読んでおくべき本」ではないけどね。


【関連記事】

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』



 その他の読書感想文はこちら


2021年7月16日金曜日

【読書感想文】平凡な悲劇 / ジャック・ドワイヨン『ポネット』

ポネット

ジャック・ドワイヨン(著)
青林 霞(訳) 寺尾 次郎(訳)

内容(e-honより)
交通事故で母を失った四歳の少女ポネット。突然のことに、ポネットは母の死が理解できない。叔母の家に預けられ、従姉弟たちと一緒に生活するが、ポネットはその遊びの輪にも加わらず、独り草原で母を待ち続ける。そしてベッドの中でお祈りを繰り返す。「神さま、どうかもう一度、ママに会わせて下さい…」四歳の少女が自分の言葉と感覚で死というものをひたむきに理解しようとする姿。静謐で真摯な思索に満ちた、珠玉の物語。

 1996年公開のフランス映画の原作だそうだ。
 交通事故で母親を亡くした四歳の少女ポネットの心の動きを描いた物語。

 ぼくも親として、「自分が死んだらこの子たちはどうなるだろう」「妻が死んだら……」「ぼくと妻がそろって死んだら……」と考える。
 ただ結論としては「どうしようもない」としか言いようがない。生命保険には入ってるし、祖父母は健康だし、ぼくの姉や妻の妹もいるから、まあ最低限の暮らしは送れるだろう。悲しむのは悲しむだろうけど、その心配をしてもどうしようもない。悲しまないようにすることなんてできないし、悲しまなかったらそれはそれでぼくがつらいし(死んでるからつらさも感じないけど)。


 ぼくは幸いにしてまだ親の死を経験していないけど、親の死、とりわけ母親の死というのは身を切られるほどつらいものあることは容易に想像がつく。
 ぼくの父は、父親(ぼくの祖父)が亡くなったときの葬儀では泣いていなかったが、母親(ぼくの祖母)の葬儀では号泣していた。
 この感覚、なんとなくわかる。ぼくの父はべつに父親に対して情がなかったわけではないとおもう。父にも母にも情は感じていたはずだ。だが情の質が根本的にちがうのだとおもう。
 理屈の上では父親も母親も同じく血がつながっている。でも母親は父親よりもずっと特別な存在だ。なにしろかつては自分と文字通り一体化していたのだから。

 だから、祖母が亡くなってもまったく泣かなかったぼくも「母親を亡くした父親の気持ち」を想像して涙が出た。


 穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中で、こんなことを書いていた。

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。

 もういいおじさんになった穂村氏でさえ、母親をなくしたときは他では決して埋められない喪失感を味わったという。それぐらい母親の「愛」はとほうもない。傍から見ているとたまにぞっとするぐらいに。

 おじさんですら号泣する出来事なんだから、四歳である ポネットが母親を亡くす、しかも何の予兆もなく交通事故である日突然に、というのはとうてい受け入れられる出来事ではないだろう。
 我が子(二歳)を見ていてもおもう。幼い子にとって母親は「最愛の人」どころの存在ではない。ほとんど我が身の一部なのだから。




 かわいそうではあるが、『ポネット』は退屈な物語だった。
「こんなに幼くして母親を亡くすなんてかわいそうに」と子を持つ父親として同情はしたけど「とはいえ一定の確率で起こりうることだし、つらいけど時間をかけて乗りこえていくしかないよなあ」とおもう。そしてポネットもしばらくは母の死を受け入れられないがちょっとずつ新しい生活に慣れてゆく。 

 あらすじとしては「母親を亡くした四歳のポネットちゃんはなかなか現実を受け入れられませんでしたが、いとことの会話や寄宿舎での新しい生活を通して徐々に現実を受け入れてゆくのでした」というだけの話で、毎日世界のどこかで起こっている出来事だ。個人としては悲劇だがマクロでみれば「よくある話」だ。申し訳ないけど。

 映画で観ればまたちがった感想があったのかもしれないけど、小説としては平凡すぎてまったくおもしろみに欠けるものだった。あとポネットを放置して現実逃避する父親がひどすぎる。


【関連記事】

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



 その他の読書感想文はこちら