2021年7月15日木曜日

【読書感想文】SF入門に最適な短篇集 / 柞刈 湯葉『人間たちの話』

人間たちの話

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
どんな時代でも、惑星でも、世界線でも、最もSF的な動物は人間であるのかもしれない…。火星の新生命を調査する人間の科学者が出会った、もうひとつの新しい命との交流を描く表題作。太陽系外縁部で人間の店主が営業する“消化管があるやつは全員客”の繁盛記「宇宙ラーメン重油味」。人間が人間をハッピーに管理する進化型ディストピアの悲喜劇「たのしい超監視社会」、ほか全6篇収録。稀才・柞刈湯葉の初SF短篇集。


 SF短篇集。




『冬の時代』

 ザ・SFという感じの作品。氷河期が訪れて日本中が凍りついた世界。そこを旅するふたりの少年。
 ディティールの緻密さとかは感心するけど、正直この手のSFは食傷。「○○が起こった後の世界」って定番中の定番だからな。よほど新しい仕掛けがないときつい。

 椎名誠SFの『水域』や『アド・バード』に似てるなーとおもってたら、作者本人の解説によると『水域』を意識して書いたものらしい。なるほどね。




『たのしい超監視社会』

 おもしろかった。
 オーウェル『一九八四年』のオマージュ。
『一九八四年』で書かれるのはオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの国に分割された世界で、作品の舞台はオセアニア。『たのしい超監視社会』は(おそらく)同じ世界のイースタシアを舞台にした小説。

 イースタシアもオセアニアと同じように独裁者が統治する監視社会なのだが、ここに暮らす若者には悲壮感はない。なぜなら彼らは物心ついたときから監視社会で暮らしていて、他の世界を知らないから。さらに日々の暮らしは少しずつ良くなっているので、社会に対する不満はさほど持っていない。

 今の中国の若者がこんな感じに見えるよね。そもそも民主主義を知らないから民主主義がないことを不自由とすらおもわない。政治的な自由はないが経済成長しているから特に不満はない。そんなふうに見える。もちろん内心はわからないけど……。

 区役所の正面壁には歴代総統の肖像画が並んでいる。オールバックで白髪交じりの初代、その息子で癖っ毛の二代目、その息子で在任中の三代目。総統が逝去すると最も優れた党員を後継に選ぶ党則になっているが、今のところ公正な選考の末に、前総統の息子が選出されている。
 儒教文化の根強いイースタシアでは祖先を敬うことが通例で、肖像画においても父を上回ることは許されない。このため二代目の肖像画は初代の半分、三代目はそのまた半分となっている。等比級数の総和は有限であるため、たとえ千代続いても肖像画を飾るスペースは足りる。この方式が国家体制の永続性を体現していると言える。

 ディストピア小説でありながら、タイトルの通り主人公たちは楽しそう。
 まあ今の我々だって、別の時代・社会の人間からしたら「この時代の日本人はぜんぜん自由じゃないのにそのわりには何も考えずに楽しくやっていたんだなあ」と見えるかもしれないね。




『人間の話』

 これはいちばん好きだった。

 地球上の生物は元をたどればみんな同じ系譜の上にいる。もともとは共通の祖先から枝分かれしたのだから。
 だからこそ孤独を感じる。他の星にまったく別の経路で発生した種を追い求める。

 ……という一風変わった主人公が、親に捨てられた子ども(甥)を引き取り育てることになる。
「地球外生命体」と「親に捨てられた子」がどうつながるのかとおもったら……。なるほど、こうリンクするのかー。感心した。
 ひとりの人間の境遇を「地球上の生物すべて」に重ねあわせる。なんて壮大な発想なんだ。

 小説を読む楽しさのひとつって「自分とはまったく価値観のちがう人の思考に触れる」ところだとおもう。もちろん小説だから実在の人物の思考ではないわけだけど、よくできた小説は「すげえ変わってるけどこんなふうに考える人もこの世のどっかにひとりぐらいはいるんだろうな」とおもわせてくれる。
 この小説はまさにそんな物語だった。




『宇宙ラーメン重油味』

 タイトル通り、SFコント風の作品。
 〝消化管があるやつは全員客〟を合言葉に、宇宙のありとあらゆる生物(地球人の感覚でいえばとても生物とはおもえないようなのも含む)にラーメンを提供する店の奮闘を描く。
 はたして重油にシリコンや重金属をつけたものをラーメンと呼べるのかという疑問はさておき。

 ばかばかしい描写はおもしろいのだが、説明に終始しているのが残念。これに起伏の富んだストーリーがあればなあ。




『記念日』

 ある日突然ワンルームの室内に巨大な岩が出現する……というストーリー。
 マグリットの『記念日』という絵に触発されて書かれたものらしい。

 これも出オチ感がある。室内に岩が出現したところがピークで、これといった展開はない。「習作」って感じの短篇だった。




『No reaction』

 生まれたときから透明人間である主人公の日々をつづった小説。

 反作用は受けるが作用は与えることができない、という設定は新しい。しかし野暮なことをいうけど、生まれたときから透明人間だったら交通事故とかですぐ死んじゃうだろうな。

 透明人間に性欲というのは無用だ。少なくとも透明人間の男が不透明な女の子と交わって子孫を残すことはできない。無用なはずだが、きっちり存在する。まったく厄介なことだ。
 不要な機能がある理由というのはだいたい、他の目的で作られたものを急ごしらえに転用したせいだ。もともと生物種というのは女がメインで、男というのは女と女の遺伝子の交換を媒介するための運び屋にすぎない。だから男の体は女をベースにちょっと下半身をいじっただけの手抜き製品で、使いもしない乳首が残ってるのはそのためだ。
 このことから類推するに、おそらく透明人間というのは不透明と独立に生まれたものではなく、不透明がなんらかの原因で透明化して生じたものだと思われる。そうでなければこんなにも形が似ているはずがないし、透明人間に不要な性欲が備わっているはずもなく、布団もかけずに眠っているマキノにベタベタ触れている理由もない。

 こういう細かい設定を丁寧に書いているので無茶な設定でありながら妙な説得力がある。ほらをまき散らして煙に巻くのがうまいのは作家としてすぐれた資質だ。

 しかし「食事をどうしているか」が一切書かれていないのが気になる。作用を与えることができないのなら咀嚼も消化もできないわけだが……。
 触れていないということは、作者もうまい言い逃れをおもいつかなかったのかな。「食事をしなくても生きられる」だったら透明人間じゃなく幽霊になってしまうしなあ。
 移動方法や性欲や学習については細かく説明しているのだから、食事についてもうまい説明を与えてほしかったな。惜しい。




 豊富な科学知識に裏づけられた本格的なSFでありながら、どの作品も重たすぎず、肩の力を抜いて読める。
 とっつきやすくて、けれども奥が深い。SF入門に最適な短篇集じゃないでしょうか。


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2021年7月13日火曜日

ツイートまとめ 2021年2月



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2021年7月12日月曜日

【読書感想文】サイコパスは医師に向いているのか / 遠藤 周作『真昼の悪魔』

真昼の悪魔

遠藤 周作

内容(e-honより)
患者の謎の失踪、寝たきり老人への劇薬入り点滴…大学生・難波が入院した関東女子医大附属病院では、奇怪な事件が続発した。背後には、無邪気な微笑の裏で陰湿な悪を求める女医の黒い影があった。めだたぬ埃のように忍び込んだ“悪魔”に憑かれ、どんな罪を犯しても痛みを覚えぬ虚ろな心を持ち、背徳的な恋愛に身を委ねる美貌の女―現代人の内面の深い闇を描く医療ミステリー。

「サイコパス」という言葉が人口に膾炙するようになったのはせいぜいここ十年ぐらいの話だが、「良心を持たない人」を題材にした小説は古くからある。
 有名なところではトマス・ハリス『羊たちの沈黙』。貴志 祐介『悪の教典』や手塚 治虫『MW』もそうだ。宮部 みゆき『模倣犯』の真犯人もそんな人物だった。
 人は、悪を悪ともおもわない人物を題材にしたピカレスク小説に惹きつけられるらしい。




『真昼の悪魔』もそんな小説のひとつだ。
 主人公である女医は、他人に対する共感を決定的に欠いている。「何が悪いことなのか」は知識としては持っているが、心では善悪の区別を持っていない。だから「悪いこと」「かわいそう」「気の毒」といったことは彼女の行動を抑制する材料にはならない。

 高い知能と生まれもった美貌でカモフラージュしながら、知恵遅れの少年に少女を殺させようとしたり、入院患者で人体実験をおこなったりする女医。
 彼女の目的はもちろん金や復讐ではなく、といって快楽でもない。人を傷つけても快楽を感じないことを知っていて、それでも傷つける。たいした理由もなく。
 彼女がおこなうのは悪のための悪。殺人に快楽をおぼえるシリアルキラーのほうがまだ理解可能かもしれない(どっちもイヤだけど)。

 主人公はかなりいかれた人物だが、読んでいてあまりうすら寒さは感じない。というのも、彼女の攻撃の矛先は中盤以降、難波という入院患者に向かうから。
 女医は、難波が彼女の正体を暴こうとしていることに気づき、それを阻止するためあの手この手で難波を精神病患者扱いする。この対決が『真昼の悪魔』のハイライトなのだが、正直いってこのあたりの女医の行動はおそろしくない。なぜなら〝保身〟という明確な目的があるから。
 少女を殺そうとしていたときは目的もなくほとんど興味本位で(その興味すら薄い)行動していたのに、難波に対する攻撃は「自分の立場を守るため」という明確な目的がある。目的があるから理解できる。「自分も同じ立場に置かれたら似た行動をとるかもしれない」とおもわされる。理解できるものはこわくない。

 サスペンス感を出すのであれば、徹頭徹尾理解不能な人間として描いてほしかった。




 ところでこの小説には、
「女医が入院中の老婆に無断で人体実験を施し、その結果実験が成功して多くの人命を救える治療法を発見する」
というエピソードが出てくる。

 これは医学の抱える矛盾を端的に表している。
 有名なトロッコ問題(暴走したトロッコを放置すれば三人が死ぬ。切り替えスイッチを入れれば別の一人が死ぬ。切り替えるのは正しい行いか? という問題)にも似ている。
 百人を救うために一人の命を危険にさらすことは悪なのか。これは決して万人が納得のいく答えを出せない問題だ。

 自身もクリスチャンである遠藤周作氏は、作中に出てくる神父に「神さまも百人のために一人を見捨てになさらないのです」と言わせている。
 宗教家としてはそう答えるしかないだろうな、という回答だ。なぜなら明確な基準で善悪を決められるようになったら宗教がいらなくなるから。

 とはいえ現実には「数で命の価値を量る」方向に世の中は動いている。一人の犠牲で一万人を救う方法があるのなら、現代医学はそれを放ってはおかないだろう。
 善悪の判断はいったん棚上げして、結果的に多くの人命を救うために多少の犠牲はやむをえないという方針で医学は進歩してきた。

 医学に犠牲がつきものである以上、『真昼の悪魔』に出てくるタイプの共感性を欠いた人物というのは医師としては有能なんじゃないかとおもう。医師がありとあらゆる患者に心からの同情をおぼえていたら仕事にならないだろうし。
 ちょっとぐらいは「人の気持ちがわからない」人物のほうが医師には向いているのかもしれない。政治家も。




 ところでこの小説、ミステリ要素もある。四人の女医が出てくるけどそのうちの誰が「良心を持たない女性」なのかが終盤まではわからない。
 ただ、ミステリとしてはぜんぜんおもしろくない。四人の女医がみんな没個性なので「四人のうち誰でもいいわ」って感じなんだよね。謎解きがどうとかいう以前に、そもそも謎に興味が持てない。

「四人の女医」という設定がまったく生きていない。テーマはおもしろかったのだからむりにミステリ風味にせずに女医は一人でよかったんじゃないかなあ。


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2021年7月9日金曜日

頭の大きなロボット

 星新一氏の『頭の大きなロボット』というショートショート作品がある。
 文庫『未来いそっぷ』に収録されている。

 あらすじはこうだ(以下ネタバレ)。


2021年7月8日木曜日

【読書感想文】赤ちゃんだったときの喜び / 古泉 智浩『うちの子になりなよ ある漫画家の里親入門』

うちの子になりなよ

ある漫画家の里親入門

古泉 智浩

内容(e-honより)
子どもがほしい…。6年間で600万円、不妊治療のどん底で見つけた希望の光。里親研修を受け、待望の赤ちゃんを預かった著者(40代・男)が瑞々しくも正直に綴る、新しいタイプの子育てエッセイ。

 里親になった漫画家によるエッセイ。

 里親といっても引き取ったのは0歳児なので、当然ながら引き取られた当人は何もわかっていない(たぶん)。
 だから書いてあることもふつうの子育てエッセイとあまり変わらない。
 同じ親として、「なつかしいなあ」とおもうだけだ。

 仕方がないので、赤ちゃんを抱っこひもで抱いて外を歩いた。(中略)歩いている途中、線路を渡ったあたりで足首を蚊に刺された。リズムを崩すと赤ちゃんを寝かせられないのでそのまま歩いた。赤ちゃんの手がだらんとした。線路の横を歩いていると、遮断機が降りて警報がカンカンなり出した。その造断機に近づくと警報の音が大きくなってしまうので、その場で赤ちゃんのお尻を手で歩くリズムで叩いた。電車が迫り来てゴーッと通り過ぎる音と窓から漏れる光で赤ちゃんが目を覚ました。頭を激しく左右に振って電車の行方を追った。せっかく眠ったのに残念に思っていたのだが、またすぐだらんと寝た。赤ちゃんが寝やすいようにゆっくりしたペースで歩いているのにも疲れて昔通の速さで歩いた。そのまま帰宅して妻のベッドに寝かせた。珍しい仰向けでの寝姿はすっかり大きくなっているように見えた。
 このようにミルクで寝ない場合は体を起こした状態で抱っこして寝かせなければならず、やはり寝そべった状態ではまったく寝ない。赤ちゃんの眠りについて考えていると不思議な気持ちになる。

 ぼくの子は小学生と二歳なので、もう赤ちゃんではなくなった。ついこの前のことのはずなのにこうして育児エッセイを読むと子どもが赤ちゃんだった時代のことをすっかり忘れていることに気づく。

 ぼくもやったなあ。赤ちゃんを寝かせるための夜の散歩。布団に置くと泣くので、抱っこする。止まっているとやはり泣くので、うろうろ歩く。家の中を歩きまわるのもつまらないので、外に出て家のまわりを歩く。
 夜中に赤ちゃんが寝るまで歩きつづけるのは当時はしんどかったけど、今おもうといい思い出になるのだからふしぎだ。こんなに苦労しているのに、当の子どもはまったくおぼえていないのだから嫌になるぜ。

 読んでいるとその頃のことをいろいろとおもいだした。
 抱っこしても動いていないと赤ちゃんに怒られるので、立ってだっこをしながら左右にゆらゆら揺れていた。本を読みながら。
 それが日常化していたので、本屋で立ち読みをするときとか、駅のホームで本を読みながら電車を待っているときとかに、気づくと左右にゆらゆら揺れていた。知らず知らずのうちに、存在しない赤ちゃんをあやしていたのだ。

 なつかしいなあ。
 ぼくも育児日記を書いてたらよかったなあ。でも当時はたいへんだったからそれどころじゃなかったんだよなあ。




 前半部分はただの子育てエッセイだったが、後半の「著者が里親になった経緯」はおもしろかった。

 正直に言ってこの人、まったく褒められた経歴じゃないんだよね。
 交際していた人が妊娠したけど婚約を破棄して結婚しなかった。元婚約者とは婚約不履行裁判になり、著者は相手に対して中絶を望んだ。だが元婚約者はひとりで出産し、著者は実子とは数回しか会っていない。
 他人がとやかく言うことではないけれど、まあそれにしても「自分勝手な男だな」とおもう。ここには書かれていないいろんな事情があったのだろうけれど。
 まあ自分にとって不利なことをあけすけに書いているところはえらいとおもうが……。

 一度は子どもを捨てた男が、別の人と結婚して子どもに恵まれなかったから里子を引き取る……。
 なんちゅうか「身勝手で無責任な話だな」とおもってしまう。かつて子どもを捨てたからって一生子どもを持ってはいけないということはないけど。人間なんてみんな身勝手なんだけど……。

 でもまあ、里親になることを考えてる人からすると「こんな身勝手な人でも里親になれるんだから自分もなっていいんだ」と自信がつくよね。知らんけど。




 子育てって、合理的に考えたらまったく「割に合わない」仕事だ。
 肉体的にも精神的にも経済的にもコストはかかるし、当然ながら報酬なんてないし、行政からの支援なんてあってないようなものだし、子どもからはちっとも感謝されないし、おまけに労力をかけたからって望む通りに育つ保証はまったくない。

 どう考えたって「やらないほうが得」だ。損得でいえば。
 それでもたくさんの人が子育てをしている。ぼくも。
 まあこれは本能に動かされてのものだし、人間が遺伝子の乗り物である証左なんだけど、やっぱり子どもを育てているとえも言われぬ全能感を感じられるんだよね。他ではぜったいに味わえない感覚。

「これまでずっと何年も真っ暗な夜道を裸足で歩いているような感覚だったのが、赤ちゃんが来てくれてから光を浴びているような感じがする。まわりが真っ暗でも自分にだけスポットライトが当たっているような感じで、そんな感覚ははじめだけだと思っていたのだが、1か月 以上経過してもなお弱まらず続いている。光の源は赤ちゃんで、今も僕をまばゆく照らしてくれている。3回しか会ったことのない娘は遠くに見える星のような存在だったのだが、うちにいる赤ちゃんは常にビカビカに、全身くまなく照らしてくれる。本当にアホみたいなんだけど、『つつみ込むように』というミーシャの歌が高らかにずっと鳴り響いているような気分です。
いい年の大人の男が自分のやりたいことだけを精いっぱいしているというのもみっともないことだ、自分以外の他者に尽くしてこそ人生ではないかとすら思うようになりました。また、厄年を過ぎるとぐっと体力や気力が激減し、自分本位の生き方すらしんどくなっています。それまでは自分さえよければいいと思っていた、その自分が満足いかなくなっています。自分の満足では自分が満足しきれない。自分のキャパシティがビールジョッキだったとすると、湯呑くらいになっているような、そのこぼれた分を他者に注ぎたいというような気持ちです。それを子どもに期待していました。自分の代わりに自分の分も頑張ってほしいし、幸福になって欲しい、いろいろなことに感動して欲しい。そんな気持ちです。人生の前半は自分のためにやり尽しました。しょぼくなった後半を他者に期待するというのも都合がいい話ですが、後半は自分以外の誰かのために生きたいと思っています。どっちにしても自分本位の利己的な「誰かのため」なので、決してほめられた話ではありません。

 子どもの頃は、存在しているだけでかわいいかわいいと言ってもらえる。ところが成長するにつれて「成果を出す」ことが求められるようになる。お利口にしていることや、がんばって勉強することや、仕事をすることや、社会貢献をすること。求められることはどんどん難しくなる。
 特におっさんなんて、何もしなければ社会の敵みたいな扱いだ。
「自分は社会から求められている、かけがえのない存在だ」と自信を持って言える中年は少ないだろう。

 ところが子どもを持つと、誰でも「誰かに必要とされる存在」になれる。小さい子どもはほとんど無条件に親を必要としてくれる。親が親であるという理由で。
 血がつながっていなくても、仕事をしていなくても、育児放棄していたとしても、ただそこにいるという理由で子どもは親を求める。

 親にしたら、こんな快楽はない。どんなだめな自分も存在を肯定してくれる人がいるんだもの。こんなことは赤ちゃんだったとき以来だ。

 人は、赤ちゃんを育てているとき、赤ちゃんだったときの喜びをもう一度味わうものなのかもしれない。


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