2021年4月26日月曜日

休まない人

 世の中には仕事を休まない人がいる。
 とても迷惑な人だ。
 特にそういう人が上の役職に就くと、周囲はとても困る。


 書店で働いていたときのM店長がそういう人だった。
 早番のぼくが「お先に失礼します」と言うと、遅番のM店長は「犬犬くん、もう帰るんか。もうちょっとゆっくりしていけよ」と言ってくる。
 半ば冗談なのはわかるのだが、ぼくが定時ぴったりで帰ろうとしているならともかく、朝6時半に出勤してたっぷり4時間残業した上で「もう帰るんか」と言われると控えめにいっても殺意をおぼえる。

 じっさいM店長自身も残業大好きな人だった。毎日5時間ぐらいは残業していた。
 店舗運営というのは、社員の無給残業がそのまま店の利益に直結する。社員が1時間無給残業すればバイトを1時間早めに上がらせることができるのだから。そんなわけで長時間残業が常態化していた。

 あるとき、M店長が「おれ今日は歯医者に行くから定時ぴったりで帰るから」と言いだした。
 はあそうですかと言ったのだが、その後何度も「今日は歯医者の予約があるから」「どうしてもその時間しか予約がとれなかったから」と言い訳がましく口にする。ぼくだけでなく、他の社員やバイトにまで言っている。
 ははあ。さてはこの人、定時ぴったりで帰ることに罪悪感をおぼえてるな。

 言っておくが、誰も
「店長、ふだんは残れっていうくせに自分は早く帰るんですか」
なんて言ってない。
 みんな「どうぞ」と言っている。
 だがM店長は過去に自分が発した「もう帰るんか」という言葉に囚われ、帰れなくなっているのだ。

 己の言葉に呪われている。
 あほとちゃうか。ぼくはおもった。



 次に入った会社のH部長もそういう人だった。

 あるとき、ぼくがウイルス性の腸炎になって会社を二日休んだ。
 出社すると、H部長からねちねちと文句を言われた。

「会社に来られないほどしんどかったのか?」

「二日目はだいぶ良くなったのですが、まだ咳が出てまして。ウイルス性の病気なので他の人にうつしてはいけないとおもい休みました」

「出てこれるんなら出てこいよ」

 もともと「他の曜日ならともかく月曜日に風邪をひくのはたるんでる証拠だ」とわけのわからないことを言う人だった。
 「感染を防ぐために休んだ方がいい」ということがわからないのだ。


 数週間後、H部長はごほんごほんと咳をしていた。痰が絡んだ嫌な咳だ。ときどき額に手を当てている。明らかに具合が悪そうだ。
「具合悪いんですか」と訊くと、「ああ」と気まずそうに言いながら焦点の定まらない目でパソコンに向かっている。
 相当しんどそうだが、ぼくに「出てこれるんなら出てこいよ」と言った手前、休むことができないのだ。

 その数日後、H部長の近くの席の数人がインフルエンザで休んだ。そりゃああれだけ派手に咳をしてる人が近くにいたんじゃあな。

 無理して出社したH部長、どう考えても迷惑しかかけていない。



「休まない人」は迷惑でしかない。周囲も会社も自分自身も苦しめる。

 困るのは、こういう人は経験から学ばないことだ(経験から学べる人は体調不良のときは休んだほうがいいことを知っている)。
 だからこうして失敗しても、反省するどころか「インフルエンザの苦しさと闘いながらがんばった俺」という都合のいい記憶だけをおぼえていて、別の人が休んだときには「おれは39度の熱でも無理して出社したのにこいつは38度で休みやがる」と考える。

 困ったものだ。
 新型コロナウイルスの流行で感染症に対する知識が広まったおかげで、こういう人たちも減っているだろう。早く絶滅してほしいものだ(考えを改めるか、もしくはご逝去あそばすかのどちらでもいいので)。


2021年4月23日金曜日

「わかりやすい!」はわかるようになってない

 高校時代、勉強ができたのでよく他の生徒から「教えて」と言われた。仲の良い友人だけでなく、あまり話したことのない生徒まで「これどうやって解くん」と訊きにきた。それをきっかけに親しくなった友人もいる。

 教えるのは嫌いではないので、丁寧に教えてあげた。
「この公式を使うねんで」
「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」
「背理法を使うねん。この命題が真でないと仮定すると……」
と。

 すると、教えられた人たちはこう言う。
「なるほど! よくわかった!」
「すげえな。先生の説明よりわかりやすい!」
「そっか。そう考えればそんなに難しいことじゃないな!」

 ぼくは気を良くする。教えてあげた甲斐があった。


 さて。
 ぼくに解き方を教えられた人たちは、その問題を解けるようになったか。
 答えはYes。ただし、その問題だけは

 後日似た問題に出会うと、また解き方がわからない。そしてまたぼくに訊きにくる。ぼくはうんざりする。前に教えたのとほとんど同じ問題なのに……。


 今ならわかる。ぼくの教え方が悪かったのだ。
 ぼくは解法を教えていただけで、考え方を身につけさせようとはしていなかった。
 料理の作り方がわからない人にレシピを渡して「この通りにつくるといいよ」と言っていただけだ。レシピを見て作ればそれなりの料理ができるが、一か月後にレシピを見ずに同じ料理を作ってくださいといってもまず無理だろう。

 教える人が気を付けなくてはならないのは、
「わかりやすい!」という言葉だ。

 逆説的だが、「わかりやすい!」と感じたときはわかるようになってない
 すでにわかっていることを再確認しただけだ。

 ぼくが「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」と説明したときに「わかりやすい」と感じた人は、「等比数列とは何か」「階差数列から元の数列を導くにはどうしたらいいか」はすでに知っていた。だからぼくの説明を「わかりやすい」と感じた。知っているものを組み合わせただけだから。
 だが「どういうときに階差数列を見ればいいか」はわかっていなかった。ぼくが「この問題では階差数列を調べればいい」と解法を教えたから、それ以上考える必要もなかった。


 元々自分が持っている知識だけで解ける問題はわかりやすい。じっくり考える必要がないから。
 だから「わかりやすい」と感じたということは、頭を使っていないということだ。

 ぼくの説明は「AはBだ。BはCだ。CはD以外に考えられない。だからAはD」というものだった。
 いい指導とは、相手が「BはCだ」をわかっていないことを見抜き、
「AはBだ。Dを導くためにはCであることを証明する必要がある」と教えることだ。
 すると相手は考える。AがBになることはわかる。CがDになることもわかる。ではなぜAがDになるのか。
 あれこれ考えた結果「BはCだ」という結論に達する。これではじめて知識が身につく。



 数学にかぎった話ではない。

 人は「わかりやすい!」を求めている。
 小難しいデータやあらゆる可能性を並べたてる専門家よりも、単純明快で結論もはっきりしている素人の話に飛びついてしまう。
 だってわかりやすいから。頭を使わなくても理解できるから。なんら学ぶものがないから。
 新たに学ぶものが何もない、こんなに「わかりやすい」ものはない。


 教えた相手から「わかりやすい!」と言われたときは悦に入るのではなく、自分の説明が未熟だったと反省しなければならない。


2021年4月22日木曜日

姉妹げんか

 長女(七歳)と次女(二歳)。

 五つも離れてたら喧嘩することはないよねとおもっていたらおおまちがい。毎日のように喧嘩をしている。

 喧嘩の原因は
「次女が長女のおもちゃを勝手に使って、長女がとりあげた」とか
「次女がおもちゃで遊んでいたら長女が『貸して』と強引にとりあげた」
とか些細なものだ。

 まともにやりあえば次女に勝ち目はない。力でも口でも二歳児が小学生にかなうはずがない。

 だが要領は次女のほうがずっといい。次女は自分の持っている武器を心得ている。

 姉と喧嘩をすると「おかあさん、ねえねがばかっていったー」とか「おとうさん、ねえねがキックしたー」とか言いつけにくる(キックといっても足が軽くふれた程度だが)。

 ちゃんと「弱い自分」をわきまえていて、その弱さを武器に、もっと強い大人に訴えるのだ。しかも「ねえねがおもちゃをとった」とは言わない。なぜならそのおもちゃは姉のだから。その論点で戦うと分が悪いことをわかっているのか、「ばかっていった」「キックした」などの攻めやすいところを訴えるのだ。したたかだ。


 二歳ともなると、言葉こそまだまだ未熟なものの、いろんなことを理解している。
「これは姉のおもちゃだから勝手に使うと怒られる」ことはちゃんとわかっている。
 その証拠に、姉が近くにいるときはぜったいに手を出そうとせず、姉がトイレに立った隙を狙ってすかさず手を伸ばすのだ。

 ぼくはそれをにやにやしながら見ている。「あーあー。長女が戻ってきたら怒られるぞー」とおもうが、何も言わない。どうなるんだろうと楽しみながら見ている。
 案の定、長女が戻ってきておもちゃをとりあげる。泣く次女。しかしこのときは「ねえねがとったー」とは言いつけにこない。使ったらいけないものを使ったとわかっているのだ。

 そう。「弱い自分」という武器も、使いすぎれば力を失う。いつもいつも被害者面していてはやがて相手にされなくなるとわかっているのだ。だからここぞというときに使う。やるやん。



 次女が「ねえねがばかっていった―」と言いにきても、ぼくは長女をしからない。
 基本的に姉妹げんかはほったらかしだ。
 次女を「ばかちゃうのになー」「そっか。キックされたんかー」と慰めはするが、現場を見ていない人が一方的に裁くことはしないよう心がけている。

 ぼくの姪は、よく四歳下の弟をいじめて怒られている。

 弟と喧嘩をする → まわりの大人が弟にやさしくする → 姉はおもしろくないからますます弟に厳しくあたる → ますます大人は弟にやさしくする

 これを何度も見た。
 弟のほうもかわいそうだが、姉のほうもかわいそうだ。年上というだけで、喧嘩をしたら罪が重くなるのだから。

 だからぼくは、娘たちが喧嘩をしていたらどちらの肩も持たないようにしている。
「ねえねに○○されたー」「(妹)が××してきた!」と言いにきても、「ふーん。おとうさんは見てへんかったわー」と言うだけだ。

 

 それにしても。次女のほうはほんとにうまくやっている。

 きょうだいの下の方は要領がいいというが、それにしたって二歳でここまでうまく立ちまわれるものだろうか。

 ぼくや妻が長女に注意をすると、次女はそれを真似する。

妻「脱いだパジャマかたづけてよ」
次女「ねえね、ぬいだパジャマおいてるー」

ぼく「椅子の下にごはん落ちてるから拾っといて」
次女「ねえね、ごはんおとしてるー。あかんなー」

 そのたびに長女は神経を逆なでされている。二歳児に説教されるほど腹の立つことはない。
 こいつ、ほんとはぜんぶわかっててわざと姉を怒らせるようなこと言ってるんじゃないか。次女を見ているとそんなふうにおもえてそらおそろしくなる。

 でも叱れない。だって二歳児かわいいもん。二歳児最強にして最恐。



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不公平な姉弟


2021年4月21日水曜日

【読書感想文】第二の平家物語の時代が来るのか / 広瀬 浩二郎『目に見えない世界を歩く』

目に見えない世界を歩く

「全盲」のフィールドワーク

広瀬 浩二郎

内容(e-honより)
「全盲」から考える社会、文化、人間。目が見えないからこそ見える世界とは。目が見えない人は、目に見えない世界を知っている―。障害当事者という立場から盲人史研究に取り組み、現在は独自の“触文化論”を展開する文化人類学者がその半生と研究の最前線を綴る。

 全盲でありながら点字受験に合格して京都大学に入学し、研究者になった著者による「目に見えない世界」の紹介。

 うーん。
 障害者の人の書いた本にこういうことを言うのは気が引けるけど……。いや、それはよくないな。等しく扱うべきところは分け隔てすべきでない。だからはっきり言おう。つまんねえ。

 なんか、視覚障害者協会の会報に載せる文章って感じだったな。
「ぼくはこんな活動をしてきました」「これからはこんなことをしていこうと考えています」
という活動報告。
 広瀬さんに興味のある人はいいかもしれないけど、この本で広瀬浩二郎さんを知ったぼくのような人間からすると、ぜんぜん興味が持てない。へー。そんな活動してはるの。がんばってはるねー。ほなおきばりやすー。ぼくの知らんところで。

 ずっと身内向けの話なんだよな。すでに広瀬さんの活動・研究内容に興味を持っている人向けの文章で、新たに興味を持ってもらおうという文章ではない。

 たぶんこの人からすると今までの人生で「目が見えないゆえの苦労」とか「目が見えない人として社会に期待すること」みたいなのを一万回ぐらい訊かれていて飽き飽きしているんだろうけど、でもやっぱりとっかかりになるのはそういう話なんだよな。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のほうがずっとおもしろかったな。




「目の見えない人」というと、ぼくらはつい「能力を欠いた人」とおもってしまう。
 だが、視覚に頼らない生活をしている人は「視覚の代わりにべつの能力を研ぎ澄ました人」でもある。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』には、全盲の人が
「月を思い浮かべるときは円ではなく球でイメージする」
「地図をイメージするときは高低差も含めた三次元的なマッピングを脳内に描いている」
という例を紹介している(全員ではないだろうが)。 ぼくらは物事を正確に見ているようで、じつは脳でずいぶん補正している。

 たとえば月を写真に撮ってみると「えっ、月ってこんなに小さいの?」と驚かされる。ほんとは我々が見ている月は小さいのに、脳が勝手に拡大しているのだ。
 目が見えないからこそ、より正確に対象をとらえられる場合もあるのだ。


 見る時は外にいる、聴く時は内にいる。映画を見る鑑賞と聴く鑑賞の違いを一言で要約すると、このようになるでしょうか。僕が副音声解説を聴きながら映画を楽しむ場合、しばしば出演者とともにドラマの中に入り込む感覚にとらわれます。自分も映画のストーリーに参加しているような錯覚は、視覚では感じにくいものです。画面を見て映画鑑賞する際、大半の晴眼者はドラマの外にいて、出演者の動きや景色を追いかけています。つまり、聴く人は「参加者」、見る人は「観察者」なのです。

 ふうむ。
 ぼくは眠りにつく前に落語を聴くことがあるのだけれど、目をつぶって落語を聴いているとすぐ近くでやりとりがくりひろげられるような気になる。
 マンガを読んでいて世界に入りこむことはないから(入れる人もいるんだろうけど)、やはり聴覚のほうが臨場感を味わいやすいんだろう。

 視覚優位の今日、インターネットやテレビを介して、僕たちは厖大な画像・映像を日々見て(見せられて)います。しかし『平家物語』が大流行する中世には、視覚以外の情報も尊重されていました。「より多く」「より速く」という近代的な価値観は視覚の特性に合致していますが、『平家物語』を支えていたのは、それとは相容れない独自の世界観・人間観だったのです。
 源平の合戦が各地で繰り広げられたのは一一八〇年代でした。それから五〇年ほど経過すれば、リアルタイムで戦を「見た」人はほとんどいなくなります。そんな時、〝音〟と〝声〟で歴史を鮮やかに再現したのが琵琶法師だったのです。彼らは自己の語りにリアリティを付与するために、色彩表現を随所に鏤め、聴衆の想像力を刺激しました。那須与一が扇の的を射る情景描写は、画像・映像に頼らない聴覚芸能の真骨頂でしょう。中・近世の老若男女は、琵琶法師のゆっくりとした語りを聴きながら、長大な歴史絵巻を自由に思い描いていたのです。「より少なく」「より遅く」という所に、じつは『平家物語』が聴衆を引き付けた魅力があったのかもしれません。

 現代は視覚のほうが聴覚よりも圧倒的に優位な時代だが、ここ数年でちょっと流れが変わってきたようにおもう。

 YouTubeをはじめとする動画の氾濫、そしてオーディオブックの隆盛だ。
 ぼくは耳からの情報を処理するのが苦手なのでYouTubeもほとんど見ないしオーディオブックも聴いたことがないのだけれど、今後はさらにその比重が高まるだろう。
 ぼくだって歳をとって老眼が進めば、オーディオブックに切り替えるかもしれない。

 ひょっとするとまた平家物語のように「語り」の物語が主流になるかもしれない。


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【読書感想文】障害は個人ではなく社会の問題 / 伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

授業を聞かないほうが成績がよくなる



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2021年4月20日火曜日

【読書感想文】「顧客の顔が見える仕事」は危険 / 山本 幸久『店長がいっぱい 』

店長がいっぱい 

山本 幸久

内容(e-honより)
ここは友々家。国内外に総数百二十七店舗を展開する他人丼のチェーン店だ。ひと癖ある社長と創業者会長の元、左遷組、転職組、離婚した主婦、家出青年と、いろんな店長たちが奮闘中。不満は山ほど、疲れも溜まりトラブル多発。でも店長たちは今日も明日も、誰かのために店を開けています。さあ、いらっしゃい。超絶技巧のトロトロ卵で、きっと元気になれますから。

 他人丼のチェーン店を舞台にした連作短篇集。
「店長の仕事はたいへんだけどときにはこんないいこともあるよね」みたいな人情話が並ぶのかとおもったら、ほぼ「店長の仕事はたいへんだよね」だけだった。

 まあね……。ぼくも店舗(書店)で働いてたからわかるけど、ほんとにつらいことばっかりだった。そりゃその中に1%ぐらいは楽しいこともあったんだろうけど、もうぜんぜんおぼえてない。
 朝6時から夜20時までの勤務。休憩は30分、しかもトラブルがあれば休憩中でも呼び出される。クレーマー対応。ガラの悪い客の相手。安い給料。長時間のサービス残業があたりまえで、たまに早く帰ると小言を言われる。
 もう愚痴が止まらなくなるからこのへんにしとくけど、まあ書店にかぎらずどの店も同じようなもんだろうな。「社員が長時間働くほどバイトの人件費を削れて利益が出る」という構造があるかぎり変わらないよね。

 ぼくもぐうたらなりに十数年社会人やってておもうのは、「顧客の顔が見える仕事」は危険だなってこと。
 顧客の顔が見える仕事はやりがいを感じやすい。でもやりがいの感じやすさと待遇の良さはたいていの場合反比例する。「きつくてやりがいを感じられない仕事」はみんなやめていくから、「きついけどやりがいのある仕事」だけが残るのかもしれない。



 本の感想は……。
 特に言うことないや。

 というか数日前に読み終わったばかりなのに、もうほとんどおぼえていない。つまりはそういう小説だってこと。
 でも悪い意味ではなく、ひまつぶしに読むにはちょうどいい小説だとおもう。娯楽小説ってそういうもんだから。
 つまんない小説のほうが後々までずっとおぼえてるからね。


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