2021年4月8日木曜日

いちぶんがく その5

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



夜中にピルクルを買いにいったっていうだけで、どうしてこんな罰を受けなくちゃいけないの?


(東 直子『とりつくしま』より)




ここから得られる結論は、よい母親は温かくなくてはならないということだ。


(アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』より)




ある意味縄跳びは、標準的なピアノのいちばん低い音の5オクターブほど下の周波数を持つ、ひとつの弦楽器とも言える。


(ランドール・マンロー『ハウ・トゥー ~バカバカしくて役に立たない暮らしの科学~』より)




「同じものだけど……ちがった奴が欲しいんだ!」


(ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則 ~本当に売れる脚本術~』より)




おばあちゃんは、どこからでも自由に出入りする。


(今村 夏子『あひる』より)




『あなたが思ってるほど、大人は馬鹿じゃないのよ』


(根本 総一郎『プロパガンダゲーム』より)




いちばんキモかったのは、彼女を主人公にしたオペラの台本を書いたこと。


(大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』より)




暴力は確かに売れる。


(マルコ・イアコボーニ(著) 塩原 通緒(訳)『ミラーニューロンの発見』より)




「これはゴキブリじゃない、大きめのシロアリなんだ。」


(松浦 健二『シロアリ ~女王様、その手がありましたか!~』より)




さて、出頭予定の日には、裁判所の扉はいっぱいに開けはなたれ、毛虫とネズミの到着が今か今かとまたれた。


(池上 俊一『動物裁判 ~西欧中世・正義のコスモス~』より)




 その他のいちぶんがく


2021年4月7日水曜日

LINEのお礼ラッシュ

 長女が保育園に通っていたときのこと。

 同じクラスのおかあさんたちのLINEグループがあり、なぜかそこにぼくも入っていた。
 おとうさんはぼくと、もうひとりだけ(Sさんとする)。

 ぼくがママLINEグループに入れられていたのは、招待されたからだ。
 うちの家は妻が「公園で子どもと遊んだり他のおかあさんとしゃべるよりも家で家事をするほうが楽」というタイプで、ぼくが「休みの日は朝から夕方まで子どもと遊ぶが、家事は苦手」なタイプなので、必然的にぼくが他のおかあさんとやりとりをすることが多い。
 また、「買い物に行くなら○○ちゃん見ときますよ」「××くんが銭湯行きたいと言ってるのでいっしょにどうですか。終わったら家まで送ります」とよその子を預かることもあるので、よそのおかあさんのLINEも知っていたのだ。
 Sさんもそういうタイプだ。 


 さてさて。
 考えてみれば、ぼくはあまり女の人とLINEのやりとりをしたことがない。ぼくの学生時代にはLINEはまだなかったし、LINEをインストールしたときは結婚直前だったので、LINEを使って女の人とプライベートな会話をするという経験がほぼない。LINEの相手の女性といえば、妻と母親と姉ぐらいだ(あと娘のために友だち登録したプリキュアのアカウント)。

 そんなわけで、女性中心のLINEグループってこんな感じなんだーとおもうことが多々あった。

 まずことわっておくが「ママ友グループによくあるドロドロした感じ」はぜんぜんない。
 幸い大人の付き合いを心得ている人ばかりだった。LINEでやりとりをするのは基本的に事実の連絡のみ。保育園の役員をしているおかあさんが「今度○○があります」「担任の先生は△△先生になりました」とか伝えるぐらい。
 他の人も「△△先生でよかったです」ぐらいしか言わない。「××先生じゃなくてよかったー!」みたいなことを言ったりしない。誰かを悪く言う人はいない。ちゃんと節度ある付き合いをしている。
「××先生はダメですよねー。どうおもいます?」みたいなやりとりがあったらどうしようとちょっと身構えていたのだが、杞憂だった。まあ担任の先生がしっかりしたベテラン保育士だったおかげかもしれないが。

 ま、ぼくが知らないところでは悪口を言い合っているのかもしれないけど。まああずかりしらぬところでやってくれるのはどうでもいい。


 ひとつだけ、ママLINEグループでぼくがうんざりしたものがある。
「ちゃんとお礼を言うこと」だ。

 運動会の写真を撮った人がグループに写真をアップする。するとみんなが「○○さん、写真ありがとうございます」とお礼をコメントする。また別の人が写真を載せる。また「○○さん、写真ありがとうございます」がはじまる。
 グループには二十人ほどのメンバーがいる。その人たちが、誰かが写真を載せるたびに「ありがとうございます」と書きこむので、数時間で百件以上のお礼コメントがつく。
 また保育園の夏祭りや発表会とイベントが終わると、役員をやったおかあさんに対して「○○さん、役員おつかれさまでした」というコメントが書きこまれる。ひとりが書くと、他の人たちもみんな書く。

 めんどくせえ。いいじゃんお礼なんか。
 さすがにスルーはかわいそうだけど、誰かひとりが代表して書いて、それで終わりでいいじゃない。
 だいたい写真を載せるのも役員をするのも、お互い様だ(役員は園児が在籍中に一度はやることになっているので全員やることになる)。いちいちかしこまってお礼を言うようなことじゃない。

「みんながお礼を言ってるのに自分だけ言わないのは悪い」って心境なんだろうな。
 こういうところは女性のコミュニティだな、とおもう。見ると、お礼を言ってないのはぼくと、やはり男性のSさんだけだ。

 Sさんに会ったときに話してみた。

「あのLINEのお礼ラッシュ、めんどくさいですよねー」

「ですよね。ぼくはもうあのグループの通知オフにしました」

「ぼくもです。あれは女の人の特性なんでしょうね。集団から疎外されるのを異常におそれるというか」

「お礼を言うことに敏感なのは、逆に言われなかったことを気にするからでしょうね。『あいつだけ私にお礼を言ってない』とか気にするんでしょうね」

「ということは我々は無礼なやつらとおもわれてるんでしょうね」

「まあじっさい無礼なのでしょうがないですね」

「我々からすると、お礼を言わないことよりもお礼ラッシュで通知が止まらなくなることのほうが迷惑なんですけどね」

「そこは価値観の違いなんでしょうね。自分ひとりのイメージがちょっと悪くなることには耐えられないけど、みんなで大きな迷惑をかけるのは平気というか」

「だから女性は横一列に並んで歩いてるときに隊列をくずすのを異常に嫌がるのかー」


2021年4月2日金曜日

【読書感想文】ニンニクを微分する人 / 橋本 幸士『物理学者のすごい思考法』

物理学者のすごい思考法

橋本 幸士

内容(e-honより)
物理学者は研究だけでなく、日常生活でも独特の視点でものごとを考える。通勤やスーパーマーケットでの最適ルート、ギョーザの適切な作り方、エスカレーターの乗り方、調理可能な料理の数…。著者の「物理学的思考法」の矛先は、日々の身近な問題へと向けられた。超ひも理論、素粒子論という物理学の最先端を研究する学者の日常は、「異次元の視点」に満ちている!ユーモア溢れる筆致で物理学の本質に迫る科学エッセイ。

 理論物理学者によるエッセイ。

 ぼくの通っていた大学は変人が多いという世間の評判だったが、その中でもいちばん変人が多かったのが理学部だった。変人扱いというか、じっさいに変な人がいっぱいいた。
 食堂でずっと数学だか物理学だかの話をして楽しそうに笑っている集団とか、構内に立ち止まって中空を見上げているような人とか。サークルに理学部に首席合格したという男がいたが、彼は「脳内でぷよぷよができる。慣れると完全ランダムにぷよが降ってくる。速度もだんだん上がる」と言っていた。
 ある理学部生が「9次元までは脳内でイメージできる」と言ってたので、他の理学部生に「おまえもできる?」と訊くと、「できない人いるの?」という答えが返ってきた。3次元世界だけで生きててすみません。


 とまあ、奇人変人が多いことで知られる物理学部。そこの教授が書くエッセイなのだから、クレイジーな人に決まってる。
 読んでみるとはたしてそのとおり。



 ギョーザをつくっているときに、皮に対してタネが余りそうだったので、皮二枚でタネをつつむ「UFOギョーザ」を考案したときの話。

 僕は子供たちに、くれぐれも急がずにギョーザを作るようにと言い残して、手を洗い、ペンを握った。ギョーザの定理を書き下ろすために。僕の頭はフル稼働した。2枚の皮でタネを包むと、普通のギョーザに比べて、どの程度、容量が増えるのか。様々な妥当な仮定の下、しばらく計算を進めてみると、UFOギョーザは普通のギョーザの3倍の量のタネを包み得ることが判明した。しかし、UFOギョーザを作るには、2枚の皮が必要である。皮とタネを余らせないためには、UFOギョーザと普通のギョーザをそれぞれ何個ずつ、作らねばならないだろうか?
 つるかめ算や! と僕は、ほくそ笑んだ。小学校で教えられる悪名高きつるかめ算、あれがついに人生で役に立つ時が来たのだ。かくして、「手作りギョーザの定理」が完成した。
「定理:具の量と比較してギョーザの皮がn枚足りない時、作るべきUFOギョーザの数はおよそnである」

「たかが家庭でつくるギョーザ、そんな計算する暇があったらつくってみたほうが早いのでは」とおもうのだが、一度疑問を持つと解を求めずにはいられないらしい。



「エレベーターに何人まで乗れるだろう?」という問いに対する解法。

 加えて、物理学は様々な極限状況から新しい考え方や見方を発見していく学問である。エレベーターに本当は何人まで乗れるのだろう、という質問は、極限状況を探査する心を極限まで刺激するのである。近似病の人は、まず人間を立方体で近似するだろう。人間の体重を65キロぐらいとして、人間がほとんど水からできているとすると、体積は1リットル牛乳パックの65本分、つまり40センチ四方の立方体で近似できる。この立方体がエレベーターの内側に何個入るか? エレベーターの中をぐるりと見渡して虚空を眺めている人の頭の中では、そういう計算が繰り広げられている。そして、「うーん、無理したら40人は乗れるんじゃないかな」とか冗談っぽく答えるその人の目の奥は、実は真剣そのものなのである。

 なるほどねえ。これは感心した。

 どっかの入学試験だか入社試験で「ニューヨークにあるマンホールの数を求めよ」的な問題が出されると聞いたことがある。物理学者はこういう問題が得意なんだろうな。
 問いを立て、答えを導きだすための解法を考え、解を求めるために必要な材料を明らかにし、材料がないときは手持ちの材料で近似する。
 こういう思考法ができるようになりたいなあ。




 いちばんおもしろかったのは、ニンニクの皮をむいているときにむきおわったニンニクよりも皮の体積のほうが大きいことに気づいたときのエピソード。
 単純化のため、ニンニクを球だと仮定しよう(中略)。球の体積の公式は、中学校でも学ぶ。一方、ニンニクの皮の面積は、球の表面積の公式だ。実は、球の体積の公式を、球の半径rで微分すると、球の表面積の公式が出てくるのだ。「微分」の定義は、ちょっとだけrを変更した時に出てくる変化分、ということである。つまり、ニンニクの半径rを、皮を剥くことでちょっとだけ小さくすると、体積がちょっとだけ小さくなり、その表面積の分の皮が出てくる、という仕組みなのである。僕は1時間、ニンニクを微分し続けていたのだ。
(中略)
 僕は、左側の、ニンニクの皮の山を注意深く観察した。皮は曲がっているので、自然に、積み重なった皮と皮の間には空間ができている。皮と皮の間の距離はおよそ1センチメートル、と見積もれた。一方、ニンニクの半径はおよそ1センチメートルである。右側はニンニク球の体積、左側はニンニク球の表面積に皮間距離をかけたもの、とすると、数字上、左側の体積は右側の体積のほぼ3倍であるという結論に達した。これは、先ほどの観察結果を再現している。僕は再びニヤリとした。

 ニンニクを微分!
 すごいパワーフレーズだ。

 たしかに皮を剥くという行為は三次元を二次元にすることだから、微分だよね。
 日常生活において微分を使うのなんて速度や加速度を求めるときぐらいかとおもってたけど、こんなふうにも応用が利くのか……。
 言われてみれば「たしかに微分に似た行為だね」とおもうけど、ゼロからこの発想には至れない。

 すげえなあ。何の役にも立たないかもしれないけどすげえなあ。


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【読書感想文】原爆開発は理系の合宿/R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』



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2021年4月1日木曜日

【読書感想文】墓地の近くのすり身工場 / 鳥居『キリンの子 鳥居歌集』

キリンの子

鳥居歌集

鳥居

内容(e-honより)
美しい花は、泥の中に咲く。目の前での母の自殺、児童養護施設での虐待、小学校中退、ホームレス生活―拾った新聞で字を覚え、短歌に出会って人生に居場所を見いだせた天涯孤独のセーラー服歌人・鳥居の初歌集。


 作者のプロフィールが書いてあるのだが……。

2歳の時に両親が離婚、小学5年の時には目の前で母に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験した女性歌人。義務教育もまともに受けられず、拾った新聞などで文字を覚え、短歌についてもほぼ独学で学んだ。

 おおお……。もうこれだけで圧倒されてしまう。

「壮絶」の一語に尽きる。

 収められている短歌も、やはり自殺未遂や母の自殺、養護施設での虐待について歌ったものが多い。

亡き母の日記を読めば「どうしてもあの子を私の子とは思えない」
母の死で薬を知ったしかし今生き抜くために同じ薬のむ

 ろくでなし息子ではあるが母に愛されて育ってきた(とおもってる)ぼくにとって、「母に愛されない」「母に自殺される」というのはもはや想像を超える出来事だ。地球滅亡と同じくらい。


 穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中でこんなことを書いていた。

自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(中略)でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。

 この感覚、よくわかる。

 ぼくは幸いにして自死を考えたことがない。だから自殺する人の気持ちもわからない。

 自殺を考えることすらないのは、「母に愛されてる」と信じているからだとおもう。
 今だと「娘に愛されてる」という自負もある。
 娘のほうはこの先はどうなるかわからないけど、母のほうはきっと死ぬまでぼくを愛してくれるとおもう。根拠はない。でも母の愛ってそういうものだから。

 だから「母が子どもを置いて自殺してしまう」ってのは、自分の存在を全否定されたような気持ちになるんじゃないかとおもう。もちろん原因は心の病気だから「愛されてなかった」というわけではないんだろうけど、それは理屈だ。感情としては、一生ぬぐえない傷を受けるんじゃなかろうか。

 おかあさんがダイナマイト自殺した末井昭さんとか、幼いころに母親が出ていった爪切男さんとかの文章を読むと、「母親の喪失」という体験は一生消えないもんなんだろうなとお感じる。


 しかし「母が自殺」「目の前で友が自殺」「孤児院で壮絶ないじめ」「元ホームレス」というのは人生においてはとんでもない試練だけど、表現者としてはものすごく強い武器だよね。こんなこと言っちゃわるいけど、文学をやる人間としてはハイスペック。RPGで最強の武器を持ってスタートするぐらいの。

 もちろんそれだけでこの人の短歌が評価されているのではなくて才能や努力も大きいけど、そうはいっても「サラリーマンと専業主婦の家庭で育ちました」だったらぼくもこの本を手に取ってなかったわけで、こうやってデメリットをメリットに変えられる道を選んでよかったなとおもう。



 短歌という媒体は、個人的な感情を表現するのに向いている。つくづくおもう。

振り向かず前だけを見る参観日一人で生きていくということ

 たくさんの文字を費やしてあれこれ語るより、この十七文字のほうがよっぽど雄弁に孤独感を伝える。

 参観日なんて「学校での自分(家での自分とはちがう姿)」を母親に見られるイヤなイベントでしかなかったけど、今おもうと贅沢な悩みでしかなかったんだなとおもう。

 参観日はオンライン中継して自宅で見られるようにするといいね! 子どももプレッシャーを感じにくいし、親のいない子も引け目を感じなくて済むし。



 いちばん好きだった歌がこれ。

孤児たちの墓場近くに建っていた魚のすり身加工工場

 いいんだけどさ。墓場の近くにすり身加工工場があったって。関係ないんだけどさ。
 でも道理として問題なくても、やっぱり嫌だよねえ。墓地の近くにすり身加工工場があったら。
 想像しちゃうもんね。まさかすり身の原料は……って。

 想像力を刺激される、いい歌だ。


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2021年3月31日水曜日

【読書感想文】ノンタンシリーズ最大の異色作 / キヨノサチコ『ノンタン テッテケむしむし』

ノンタン テッテケむしむし

キヨノサチコ

内容(e-honより)
ノンタン、たからもののあかいギターをテッテケジャンジャンひきまくる。「うーん、なんともいいかんじ。」ところがとつぜん、あらわれたのは、なんでもたべちゃうテッテケむしむし!ノンタンたべようとおいかけてきて、ノンタン、ピンチ。

 ノンタンシリーズを知っているだろうか。子育てをしていたら一度は目にしたことがあるはず。

 今調べたら、『ノンタンぶらんこのせて』は267万部、『ノンタンおやすみなさい』は249万部を発行しているらしい。ノンタンシリーズは40冊ぐらいあるから、全部あわせたら数千万は売っているだろう。

 ちなみにぼくが子どものときにもノンタン絵本を読んでいた。第1作『ノンタン ぶらんこのせて』は1976年に刊行。40年以上たってもまだトップクラスを走っている超ロングセラー絵本だ。

 うちの二歳の娘もノンタンシリーズが大好きだ。毎晩読まされる。それも何度も。
『ノンタンおやすみなさい』はすっかりおぼえてしまって、まだ字も読めないのに「うさぎさん、あーそーぼー」と声に出して読んでいる。



 ノンタンシリーズが人気なのは、子どもだけでなく、親からの支持も得ているからだろう。

 ノンタンシリーズはすべて教訓を含んでいる。『ノンタンぶらんこのせて』は順番交代で使うことの大事さを、『ノンタンおやすみなさい』は夜は遊ばずに寝ることを、『ノンタン おしっこ しーしー』はトイレのトレーニングをすることを教えてくれる。
 だが決して説教くさくはない。子どもたちはノンタンと同じ気持ちになって、自然に生活に必要なことを学べる。

 絵本の最後に著者のコメントが書いてあるが、それを読むと著者のキヨノサチコさんが子育てで直面した問題を『ノンタン』で表現していることがよくわかる。
 だからこそ、多くの親が『ノンタン』シリーズに助けられている。



 そんなノンタンシリーズ最大の異色作が『ノンタン テッテケむしむし』だ。

 まず表紙をめくると、真っ赤なエレキギターの写真が目にとびこんでくる。

 他の作品だと、ここはノンタンやうさぎさんのイラストのみ。写真があるのは、ぼくが知るかぎりでは『テッテケむしむし』だけだ。

 内容も、他のノンタンシリーズとは毛色がちがう。


 ノンタンがくまさんやたぬきさんといっしょにギターを弾いている。ぶたさんはドラム、うさぎさんはボーカル。なんとロックバンドを組んでいるのだ。

バンド「のんちゃ~ず」


 みんなは他のメンバーにあわせて弾くが、ノンタンだけ自分の弾きたいように弾く。
 他のメンバーから文句を言われ、ノンタンはほらあなの中に入ってひとりで好きなように演奏をする。すると「テッテケむしむし」という不気味な虫がノンタンのまわりに集まってくる。ノンタンはぶたさんやうさぎさんに助けを求め、みんなで音をそろえて演奏することでテッテケむしむしをやっつけることができた……。 


 テーマは「他の人にあわせてギターを弾くことの重要性」だろう。あまり絵本では見ないテーマだ。しかもたいこやタンバリンではなくギター。小さい子が弾く楽器としてはまったくポピュラーでない。

「おしっこ しーしー」とか「おねしょでしょん」とか「あわ ぷくぷく ぷぷぷう」とか言ってたノンタンが、真っ赤なギターをかき鳴らしているのだ。
 はじめて見たときは驚いた。これはノンタンのパロディ作品なのか? とおもったぐらいだ。

 さらにテッテケむしむしの描写。みんなで音をあわせて演奏することでテッテケむしむしを撃退するのだが、テッテケむしむしはなんと「はれつ」してしまうのだ。
「パチン!パチン!」と音を立てて破裂する虫。なんともグロテスクな表現だ。
 テッテケむしむしは、ノンタンのでたらめな演奏に引き寄せられていただけで何も悪いことをしていないのに……。

はれつしてピンクや緑の汁をまきちらすテッテケむしむしたち

 正直、子ども向けとはおもえない。

 出版社のサイトによると「対象年齢:3・4歳から」とのことだが、「周りの音にあわせてギターを弾く」なんてほとんどの4歳児には不可能だろう。




 想像するに、『ノンタン テッテケむしむし』は高校生ぐらいの子どもに向けて描かれた絵本なんじゃないだろうか。

 シリーズ第一作の刊行が1976年。『ノンタン テッテケむしむし』の刊行は1997年。
 一作目が描かれたときに赤ちゃんだった子がもう立派な大人になっている年月が経っている(弟か妹がいたとしても高校生にはなっているだろう)。

 ロックミュージシャンになるといってバンドをはじめた息子。しかしどのバンドも長続きしない。音楽性がちがうといって衝突・解散をくりかえしてばかり。もう二十歳だというのに、デビューどころか半年以上ひとつのバンドが続いたこともない。
 心配したおかあさんは、息子のために得意の絵本を描く。

「いい? このノンタンがあなた。バンドのメンバーがくまさんやぶたさんやうさぎさん。あなたは自分の好きな音楽ばかりやりたがって、くまさんやぶたさんの言うことに耳を貸さない。そんなこと言ってると、テッテケむしむしがやってきて……」

 「うるせえババア。おれはもう二十歳なんだよ! ノンタンといっしょにすんじゃねえよ」

「どうしてそんなこと言うの。あなたちっちゃいときは『ノンタン あわ ぷくぷく ぷぷぷう』を読んで喜んでお風呂に入ってくれたじゃない」

 「ノンタンなんてロックじゃねえんだよ!」

「そんなことないわよ。ほら、表紙の裏にあなたのギターの写真も載せてもらったし……」

 「勝手なことすんじゃねえよ!」

 たぶん、著者と息子の間にそんなやりとりがあったんだろうな。想像だけど。


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