2020年10月23日金曜日

【読書感想文】能力は測れないし測りたくもない / 中村 高康『暴走する能力主義』

暴走する能力主義

教育と現代社会の病理

中村 高康

内容(e-honより)
学習指導要領が改訂された。そこでは新しい時代に身につけるべき「能力」が想定され、教育内容が大きく変えられている。この背景には、教育の大衆化という事態がある。大学教育が普及することで、逆に学歴や学力といった従来型の能力指標の正当性が失われはじめたからだ。その結果、これまで抑制されていた「能力」への疑問が噴出し、“能力不安”が煽られるようになった。だが、矢継ぎ早な教育改革が目標とする抽象的な「能力」にどのような意味があるのか。本書では、気鋭の教育社会学者が、「能力」のあり方が揺らぐ現代社会を分析し、私たちが生きる社会とは何なのか、その構造をくっきりと描く。

とにかく読みにくい文章だった。
「社会学者用語」がふんだんに使われているし、いろんな文献を参考にしすぎて何の話をしているのかわからない。

悪い意味で研究者らしい文章。
主題にとって重要でないこともめちゃくちゃ分量を割いて説明するんだよね。
正確ではあるんだろうけど、論文じゃないんだから。重要でないことは巻末の注釈で説明するぐらいでいいのになあ。

最後まで読んだが、最終的な結論が冒頭で説明した内容とほぼ同じ。
おーい! これまでの長い説明はなんだったんだ!
研究者以外は、序章と最終章だけ読めば十分じゃないでしょうか。




意味をつかむのには骨が折れたが、言わんとしている内容は興味深かった。
 現代社会に見られる多くの能力論議は、これからの時代に必要な「新しい能力」を先取りし、それを今後求めていこうとする言説の集まりである。本書では、これらが時代の転換を先取り、ないし適確に指摘した議論であるというよりも、こうした議論のパターンこそが現代社会の一つの特性なのだ、という立場を展開していこうと思っている。実のところ私は、新しい時代にコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力などといった「新しい能力」といわれるものがこれまで以上に必要とされている、とはあまり思っていない。誤解を与えそうなので急いで補足しておくが、現代においてこれらの能力が不必要であるといっているのではない。ただ、それらはこれまでも求められていたし、これからも求められるであろう陳底な能力であって、新しい時代になったからはじめて必要ないし重要になってきた能力などでは決してない、ということなのである。理由は後述するが、ここでは私のスタンスだけあらかじめ明確にしておく。むしろ私の考えはこうだ。

 いま人々が渇望しているのは、「新しい能力を求めなければならない」という議論それ自体である。

たしかにね。
「今の教育ではこれからの時代に通用する人材が育てられない。これからは新しい能力が求められる」
みたいな言説を聞いたことは、一度や二度や十度や百度ではない。
ずっと言ってる。
ぼくが知ってるかぎり二十年前から言われてるし、たぶん百年前から同じことを言われているのだろう。

百年間ずっと「これからは新しい能力が必要だ」と言われているってことは、つまりその「新しい能力」とやらは昔から求められている陳腐な能力であるってことだ。


「教育改革だ! これからは新しい能力が求められるのだ!」
なんて声高く叫ぶ人に「じゃあその新しい能力ってなんですか」と訊いても、
コミュニケーション能力」だの「問題解決力」だの「創意工夫できる能力」だのといった答えしか返ってこない。

逆に聞くけど、「コミュニケーション能力」や「問題解決力」や「創意工夫できる能力」が求められていなかった時代っていつ?




メリトクラシー(能力主義)は耳当たりがいい言葉だが、厳密に能力主義を実施しようとすれば

  • 能力を厳密に定義する
  • 能力を数値化して測定できるようにする
  • 数値化した能力ポイントで厳密に各人の処遇に差をつける

といった作業が必要になる。
あたりまえだが、そんなことは不可能だ。
まともな頭を持った人ならすぐにわかる。

仮に、能力の定義や測定が可能だったとして、果たしてそれを実行したい人がどれだけいるだろうか?

能力が明確になって困るのは「能力がないにもかかわらず高い地位にある人間」だ(そして決定権を持っているのはたいていそういう人間だ)。
自分の(不当に高い)地位を脅かす能力主義を、本気で導入したい権力者がいるはずがない。

ってことで「能力主義を導入しよう」と叫ぶ人は、なんも考えてないバカか、「おまえらはおれの胸三寸で評価するけどおれだけは別枠だぜ」という傲慢なバカかのどっちかだ。



大学入試なんかもバカほどやたらと改革をしたがる。

「おれが変えた」という実績を作りたいのだろう。
「改革すること」が前提にあり、そのために後付けの理由を探すのだが、それが「コミュニケーション能力」だの「協調力」だのなのだからちゃんちゃらおかしい。

近代的な学歴・学校・試験のシステムにとって代わるものが登場しないうちに、それらに依存しないメリトクラシーが完成することはありえない。そして、多くの人たちが「新しい能力」だけでこれからの時代を回していけると本気で思っているとも思えない。パーソナリティだけでAIの開発競争に勝てるとも思えないし、コミュニケーション能力がヒット商品を次々と生み出してくれるような感じもしない。チームワークだけで国際競争に勝てるわけもない。おそらくほとんどの人はそんなことは思っていないはずである。そうであれば、「新しい能力」は次の時代の中核的能力指標なのではない。しかし「新しい能力」に関する多くの議論は、そのあたりの自覚がないことが非常に多い。つまり旧来のシステムの否定に力点があることが多い。このようにみてくれば、一部を除くほとんどの「新しい能力」論が、むしろ、前期近代的な学歴・学校・試験を軸としたメリトクラシーを問い直すこと自体を常態とする、後期近代における再帰性現象そのものなのだと理解できるだろう。むしろ「新しい能力」を唱える人のなかでも現実感覚のある人は、前期近代的メリトクラシーのシステムを否定しないはずである。なぜなら、否定や批判に力点のある再帰的な能力論の本質にも薄々気がついていて、そこにはコアがないということも肌感覚で理解しているからである。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている。それではだめだ」という言葉を、何度も聞いたことがあるだろう。
こういうことを言うのはたぶんまともに入試問題を解いたことがないのだろう。

そこそこのレベルの学校や大学を受験したことがある人なら知っているとおもうが、難関大学ほど思考力が問われる問題が出される。
ちなみにあまりレベルの高くない大学ではもう何十年も前からAO入試が盛んにおこなわれていて、やはり知識詰め込みなど重要視していない。

個人的な印象でいえば、二流半ぐらいの半端な私大は「〇〇が××したのは何年?」といった重箱の隅をつつくような問題を出すけどね。


ぼくがおもう「知識の有無だけを問う単純な問題」がもっともよく出されるのはテレビのクイズ番組だ。
「出題者の理解力が低くても出せる」「採点がしやすい」という理由によるものだろう。

「今の日本の教育は知識の詰め込み偏重になっている」と語る人は、クイズ番組を観て日本の教育を語っているのではないだろうか。
あながち的外れともおもえない。




能力を公平・正確に測ることはできない。
これはまちがいない。どれだけ科学技術が発達しようと無理だ。
仮にできたとしても、誰も導入しようとはしない(だって導入して損をするのは権力を持っている人だもん)。

とはいえ入試や採用試験などではなんらかの指標を用いて各人に差をつける必要がある。

だから「これがベストではないが、ベストな指標など存在しないのでとりあえずこれを使う」という基準を用いることになる。
この認知が重要だ。

ここをちゃんと認識していれば
「これまで使い続けていて集合知によって微修正されてきた今のやりかたがとりあえずはいちばんいい」
という発想に当然至るはずである。

まちがっても「よっしゃ、改革だ! これからの時代に対応できる能力を重視するよう全面的に変えるぞ!」という発想にはならない、はずなのだが……。


【関連記事】

【読書感想文】 前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』

採点バイトをした話



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月22日木曜日

できるようになりたくない

小学一年生数人と公園で遊んでいたときのこと。

子どもたちが“うんてい”をやっている。
猿のようにすいすい渡っていく子もいれば、何度挑戦しても途中で力尽きて落ちてしまう子もいる。

ひとり、まったくやろうとしない子がいた。Kくん。

「Kくんはやらないの?」

 「うん、うんていできひんねん」

「失敗してもいいからやってみたら? 挑戦してみないといつまでたってもできるようにならへんで」

と言っていたら、近くにいたKくんのおかあさんに言われた。

「彼は『できるようになりたい』とおもってないんですよ」


はっとした。

そうか。
ぼくは知らず知らずのうちに、自分の価値観を押しつけていた。
「周囲の子がうんていをできるのに自分だけできない子は、うんていをできるようになりたいとおもっている」
と思いこんでいた。

特に自分の娘が負けず嫌いな性格なので、すべての子どもがそうだと思いこんでいた。

Kくんがうんていに挑戦しないのは、
「失敗するのが怖い」
わけでも
「失敗してみんなに笑われるのが怖い」
わけでもなかった。

Kくんは「うんていをしたくないからうんていをしない」子だったのだ。


もしぼくが、筋トレマニアから

「なんで筋トレしないの? 笑われるのが怖いの? はじめはみんな初心者なんだからぜんぜんベンチプレスできなくても大丈夫だよ。そうやって尻込みしてたらいつまでたってもベンチプレスできるようにならないよ」

と言われたら、

「うるせーえよ。こっちはべつにベンチプレスできるようになりたいとおもってねえんだよ。みんながみんなおまえみたいに筋肉ムキムキにあこがれてるとおもうなよバーカ」

と反発するだろう。


すまない、Kくんよ。
うんていなんてできるようにならなくてもいいんだった。
「できるようになりたい」とおもう必要すらないんだった。


【関連記事】

保育士の薄着至上主義と闘う

塾に行かせない理由

2020年10月21日水曜日

【読書感想文】書かなくてもいいことを書く場がインターネット / 堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

やさしさをまとった殲滅の時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
90年代末、そこにはまだアマゾンもiPodもグーグルもウィキペディアもなかった―00年代、人知れず進んだ大変革の正体!『若者殺しの時代』続編!

2000年代論(2000~2999年じゃなくて2000~2009年。ややこしいね)。
論っていうか、堀井さんが個人的に「00年代にはこんなふうに変わった」とおもうことを書いたエッセイ。

個々の話にはそれなりに共感できるが、最後まで読んでもタイトルである「やさしさをまとった殲滅」が何を指すのかよくわからない。
とりとめなく思い出話をつづっているだけにおもえる。



00年代に大きく変わったのは、なんといっても情報分野だ。

2000年にもインターネットはあったがまだ一部の人のものだった。携帯電話を持っていない大人もたくさんいた。
2009年にはほとんどの人がインターネットにつながるようになった。携帯電話を持っていない人は希少な存在になった。
有史以来、たったの十年でこんなに普及したものは他にない。

 インターネットや、電子メールが画期的だったのは、「お遊び」分野での連絡が飛躍的に簡単に取れるようになった、ということである。情報も同じことである。もちろん「仕事」分野でも同じく飛躍的に便利になったのだけれど、仕事は仕事である。つまらなくても、面倒でも、それなりの手続きを踏んで粛々とこなしていくしかない。それは奈良時代の役人がやっていたことと、べつだん、変わりはないわけである。やらないと、なにかが止まってしまう。みんな、粛々とこなす。
 ところが「遊び」の分野は、かつては、もっとゆるやかにルーズに進んでいた。
 連絡の取れないやつは、どうやったって取れない。集まれるやつだけで、何とかするしかない。それでべつにかまわない。それが、21世紀に入ると、あっという間に変わっていった。みごとな風景の変貌である。

たしかに。
インターネット以前と以後で比べて、仕事の進め方は本質的には変わっていない(ぼくはインターネット以前はまだ学生だったのでよく知らないけど)。
連絡をとるべき人にはとる。
電話やFAXや手紙だったものがメールやチャットになったけど、やるべきことは変わっていない。
もしある日突然インターネットが使えなくなっても、あわてて電話やFAXで連絡をとることでなんとか同じ業務を遂行しようとするだろう(ぼくがやっているインターネット広告業なんかはまったく立ちいかなくなるけど)。

でも遊びの分野はそうじゃない。
メールやLINEができなくなったら「あいつ誘おうかとおもってたけどやっぱいいや」となる可能性が高い。
電話や手紙もくだらない用途で使われていたけど、あくまでメインは「重要なことを伝えるためのもの」だった。
どうでもいい用事で長電話をしていたら「くだらないこと電話を使うな」と言われたものだ。電話は「くだらなくないもの」のための道具だったのだ。

でもインターネットではそこが逆転した。
今でこそビジネスにも使われるが金儲けがメインではなく、ひまつぶしのためのものだ。特に00年代初頭はそうだった。

個人ホームページ、ブログ、mixi、Facebook、Twitter、LINE……。
個人がひまつぶしをする場は変わったが本質は変わっていない。

言わなくてもいいこと、書かなくてもいいことを書く場がインターネットなのだ。
だからこうしてぼくも一円にもならない文章を書いている。




70年代論や80年代論はよく見るが、00年代論はあまり目にしない。
00年代が終わって十年。もう総括できる時期にきているはずなのに。

00年代があまり語られないのは、十把ひとからげにして世代論を語りにくくなったからだとおもう。

「なんだかわからないけれど街で流行っているもの」というものが見えなくなった。もちろんいまでもそういうものはあるが、人の欲望があまりに細分化され、どこにつながればいいのか、わかりにくくなった。
 街がそういう発信をする意欲をなくし、若い男性は意味なく趣味を合わせていくことをやめた。世間が消え、情報誌が休刊となった。
 おそらく「男子も参加したほうがいい大きな世間」が見当たらなくなってしまい、「世間を巻き込む意味のよくわからない流行」というものを必要としなくなったのだ。もちろんそれがなくなるわけではないが、質が違ってきた。可視化されみなで共有できる分野ではなくなった。「その分野のことを知らないとまずいのではないか」という気分が、00年代に入って、きれいになくなっていった。(それとおたくの増加はきれいにリンクしている。おたくには世間はない。)

特に「男子」が参加する大きな世間がなくなったと堀井さんは説く。

そうかもしれない。
同じテレビを観て、同じ音楽を聴いて、同じような価値観を持っていた時代は終わった。

ぼくらが中学生のときは「昨日(『ダウンタウンのごっつええ感じ』)観た?」「(『行け! 稲中卓球部』の)新刊買った?」という会話ができたし、小室ファミリーやハロープロジェクトを嫌いな人でも trf やモーニング娘の代表曲は歌えた。
好き嫌い関係なく、ふつうに生きているだけで叩きこまれるのだ。

今の中高生の生態はぜんぜん知らないが、今でもそういうのあるのだろうか。
うちの七歳の娘の周りでは、少し前は『おしりたんてい』が爆発的に流行っていたし、今は『鬼滅の刃』が共通語のようになっている。
小学校低学年であれば今も「世代の共通語」があるが、もっと選択的に情報を得られるような年代になれば「世代の共通語」はなくなってゆくのだろう。

どんどん趣味嗜好が細分化していってしかもお互いにまったく交わらなくなっているのは、古い人間からするとちょっと寂しい気もするけど、でもまあいいことだ。
ぼくだって trf やモーニング娘を聴きたくて聴いてたわけじゃないし。情報収集のチャンネルは多いほうがいい。
観たいドラマがプロ野球中継延長のせいで中止になっていた時代に比べれば、まちがいなく今のほうがいい。


【関連記事】

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

官僚は選挙で選ばれてないからこそ信用できる/堀井 憲一郎 『ねじれの国、日本』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2020年10月20日火曜日

日本中に元気を与えたいです

ちょっと、困っているんですが。

なにがってあなた、こないだ大会出場の意気込みを聞かれて
「こんなときだから、日本中に元気を与えたいです」
って言ってたじゃないですか。

困るんですけど。
うちの子、元気がありあまってるんです。
夜もぜんぜん寝ないし、学校でもじっとしていられなくて走り回っているんです。
私が何度学校から呼びだされたことか。

これ以上元気を与えられたらもう手に負えません。

お願いですからやめてください。
日本中に元気を与えるのはやめてください。

あなたが元気をまきちらすせいで困っている人もいるんです。
日本中に元気を与えるのはところかまわずタバコを吸うようなものだと心得てください。


それからうちの子、将来は暗殺者になるとかイルカになりたいとかわけのわからないことを言って困ってるんです。

もう三年生なんですからそろそろ現実も見てほしいんです。
願えばなんでもかんでも叶うわけじゃないって気づいてほしいんです。

だからあなたがこないだ「日本中のみなさんに夢と希望を届けたいです」って言ってましたけど、それもやめてください。

届けないでください。夢も希望も。
うちには夢と希望がありすぎて困っているんです。これ以上押しつけられても困るんです。


元気にしても夢にしても希望にしても、うちはまにあってますんで自分の家だけでやってください!


【関連記事】

感動をありがとう

わたしの周囲の3人中3人が待ち望んだ金メダル

2020年10月19日月曜日

【読書感想文】永遠にわからぬ少女の恋心 / 山田 詠美『放課後の音符(キイノート)』

放課後の音符(キイノート)

山田 詠美

内容(e-honより)
大人でも子供でもない、どっちつかずのもどかしい時間。まだ、恋の匂いにも揺れる17歳の日々―。背伸びした恋。心の中で発酵してきた甘い感情。片思いのまま終ってしまった憧れ。好きな人のいない放課後なんてつまらない。授業が終った放課後、17歳の感性がさまざまな音符となり、私たちだけにパステル調の旋律を奏でてくれる…。女子高生の心象を繊細に綴る8編の恋愛小説。


二十代前半で山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだときに
「ああ、これはすごくおもしろい小説だけど十代のときに読みたかったなあ」
とおもったものだ。

それから十数年。
『放課後の音符』を読む。
うん、これは三十代のおっさんが読むもんじゃないわ

三十代のおっさんになって、結婚して子どももいて、もう十年以上も恋愛のドキドキとは無縁の生活を送っている(妻とは八年交際して結婚したので恋愛初期のドキドキは長らく味わってない)身としては、『放課後の音符』で描かれている世界はもはや異次元。

文章の瑞々しさに目がくらんでまともに読めない。

 リエは、純一を見る時、いつも唇をうっすらと開いていた。瞳は濡れているのに、唇はすっかり乾いてしまっているという感じだった。あれじゃあ、きっと喉の奥までからからになって痛むだろうと私は余計な心配をした。彼女は、他の女の子に名前を呼ばれて、我に返るまで、ずっとそうしている。何もかも忘れてしまったかのように、純一だけを見ている。素敵な絵を見た時のように、あるいは美しい音楽を聴いた時のように、感覚の一番敏感な部分をぎゅっとつかまれて、立ちつくしている。純一は彼女にとって、そういう存在なのだ。そう思うと、私は、衝撃を受ける。人間が人間に対して、そんなふうに感じることがあるなんて、私には信じられない。

すごくいい文章だとはおもうけど、これを受け止めるにはぼくの感受性が鈍磨しすぎている。ぼくのツルツルのミットではこの切れ味鋭い変化球をキャッチできない。
読むのが遅すぎた。



もはや恋する少女にまったく共感することのできないおっさんが読んでいておもうのは、ほんと恋愛って人を狂わせるなってこと。

『放課後の音符』には、狂った人たちばかりが出てくる。
人を好きになるあまり、頭のおかしいことばかり言っている。
思春期なら共感して登場人物といっしょになって胸を痛めることができたんだけど、もうぼくにはできない。
昔はぼくも人を好きになってまともじゃない行動ばかりとっていたけどなあ。〇〇をプレゼントしたこととか、□□って言ったこととか。
おもいだしたくもないのでもう忘れかけてるけど。


しかしあれだね。
少女の恋愛感情ってほんと理解不能だわ。
昔からわからなかったけど、いまはもっとわからんわ。

男はわかりやすいじゃない。
「セックスする」という明確なゴールがあって、そこに向かって最短距離(だと自分がおもっている経路)でつっぱしる。単純明快だ。動物そのもの。

でも少女ってそうじゃないでしょ。
つかずはなれずの関係性を楽しむほうが大事で、ゴールがないというか。
BLとか宝塚歌劇に入れ込むのとかまさにそう。
安野モヨコ『ハッピー・マニア』に「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」という台詞が出てくるが、少女の恋愛の本質をよく言い当てている。
少女の恋には「ここに到達したらハッピー」というゴールがない。ともすれば成就しないことを願っているようにも見える。


高校生のとき、仲の良かったMという女の子がいた。
彼女は陸上部の先輩に恋をしていた。
彼女は先輩に告白をし、めでたく二人は付きあうことになった。

少しして、Mと先輩は別れたと聞いた。Mから別れを告げたのだという。
「なんで別れたん?」
と訊くと、
なんか手を握ってきたりして気持ち悪かったから
という答えが返ってきた。

ぼくにはまったく理解不能だった。
だって好きな人なんでしょ? 好きな人に手を握られて気持ち悪いってどういうこと? セックスを強要されたならともかく、手を握られて気持ち悪い人となんで付きあうの? しかもMのほうから告白して付きあうことになったのに、手を握られたからフるってひどすぎない?

Mの心理がまったく理解できなかった。今でもわからない。
Mにフられた先輩も理解できなかったにちがいない(ほんとにかわいそうだ)。


でも、どうやらMのように残酷な心変わりをする女性はめずらしくないらしい。
他にも同じような話を聞いたことがある。
すごく好きだったのに、どうでもいい理由で百年の恋が冷めたとか。それも「虫が肩に止まっていたから」のような、まったく本人に責がないような理由で。

いまだにぼくは女心がわからない。
でも「永遠に理解できない」ということは理解している。その点が、女性の気持ちが理解できる日がくるものとおもっていた思春期の頃とはちがう。ソクラテスみたいなこと言うけど。

だから今、思春期に戻ったらもうちょっとうまくやれるとおもうんだよね。
あー! 戻りてー!!


【関連記事】

【読書感想文】歳とってからのバカは痛々しい / 安野 モヨコ『後ハッピーマニア』

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』



 その他の読書感想文はこちら