2020年10月22日木曜日

できるようになりたくない

小学一年生数人と公園で遊んでいたときのこと。

子どもたちが“うんてい”をやっている。
猿のようにすいすい渡っていく子もいれば、何度挑戦しても途中で力尽きて落ちてしまう子もいる。

ひとり、まったくやろうとしない子がいた。Kくん。

「Kくんはやらないの?」

 「うん、うんていできひんねん」

「失敗してもいいからやってみたら? 挑戦してみないといつまでたってもできるようにならへんで」

と言っていたら、近くにいたKくんのおかあさんに言われた。

「彼は『できるようになりたい』とおもってないんですよ」


はっとした。

そうか。
ぼくは知らず知らずのうちに、自分の価値観を押しつけていた。
「周囲の子がうんていをできるのに自分だけできない子は、うんていをできるようになりたいとおもっている」
と思いこんでいた。

特に自分の娘が負けず嫌いな性格なので、すべての子どもがそうだと思いこんでいた。

Kくんがうんていに挑戦しないのは、
「失敗するのが怖い」
わけでも
「失敗してみんなに笑われるのが怖い」
わけでもなかった。

Kくんは「うんていをしたくないからうんていをしない」子だったのだ。


もしぼくが、筋トレマニアから

「なんで筋トレしないの? 笑われるのが怖いの? はじめはみんな初心者なんだからぜんぜんベンチプレスできなくても大丈夫だよ。そうやって尻込みしてたらいつまでたってもベンチプレスできるようにならないよ」

と言われたら、

「うるせーえよ。こっちはべつにベンチプレスできるようになりたいとおもってねえんだよ。みんながみんなおまえみたいに筋肉ムキムキにあこがれてるとおもうなよバーカ」

と反発するだろう。


すまない、Kくんよ。
うんていなんてできるようにならなくてもいいんだった。
「できるようになりたい」とおもう必要すらないんだった。


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2020年10月21日水曜日

【読書感想文】書かなくてもいいことを書く場がインターネット / 堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

やさしさをまとった殲滅の時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
90年代末、そこにはまだアマゾンもiPodもグーグルもウィキペディアもなかった―00年代、人知れず進んだ大変革の正体!『若者殺しの時代』続編!

2000年代論(2000~2999年じゃなくて2000~2009年。ややこしいね)。
論っていうか、堀井さんが個人的に「00年代にはこんなふうに変わった」とおもうことを書いたエッセイ。

個々の話にはそれなりに共感できるが、最後まで読んでもタイトルである「やさしさをまとった殲滅」が何を指すのかよくわからない。
とりとめなく思い出話をつづっているだけにおもえる。



00年代に大きく変わったのは、なんといっても情報分野だ。

2000年にもインターネットはあったがまだ一部の人のものだった。携帯電話を持っていない大人もたくさんいた。
2009年にはほとんどの人がインターネットにつながるようになった。携帯電話を持っていない人は希少な存在になった。
有史以来、たったの十年でこんなに普及したものは他にない。

 インターネットや、電子メールが画期的だったのは、「お遊び」分野での連絡が飛躍的に簡単に取れるようになった、ということである。情報も同じことである。もちろん「仕事」分野でも同じく飛躍的に便利になったのだけれど、仕事は仕事である。つまらなくても、面倒でも、それなりの手続きを踏んで粛々とこなしていくしかない。それは奈良時代の役人がやっていたことと、べつだん、変わりはないわけである。やらないと、なにかが止まってしまう。みんな、粛々とこなす。
 ところが「遊び」の分野は、かつては、もっとゆるやかにルーズに進んでいた。
 連絡の取れないやつは、どうやったって取れない。集まれるやつだけで、何とかするしかない。それでべつにかまわない。それが、21世紀に入ると、あっという間に変わっていった。みごとな風景の変貌である。

たしかに。
インターネット以前と以後で比べて、仕事の進め方は本質的には変わっていない(ぼくはインターネット以前はまだ学生だったのでよく知らないけど)。
連絡をとるべき人にはとる。
電話やFAXや手紙だったものがメールやチャットになったけど、やるべきことは変わっていない。
もしある日突然インターネットが使えなくなっても、あわてて電話やFAXで連絡をとることでなんとか同じ業務を遂行しようとするだろう(ぼくがやっているインターネット広告業なんかはまったく立ちいかなくなるけど)。

でも遊びの分野はそうじゃない。
メールやLINEができなくなったら「あいつ誘おうかとおもってたけどやっぱいいや」となる可能性が高い。
電話や手紙もくだらない用途で使われていたけど、あくまでメインは「重要なことを伝えるためのもの」だった。
どうでもいい用事で長電話をしていたら「くだらないこと電話を使うな」と言われたものだ。電話は「くだらなくないもの」のための道具だったのだ。

でもインターネットではそこが逆転した。
今でこそビジネスにも使われるが金儲けがメインではなく、ひまつぶしのためのものだ。特に00年代初頭はそうだった。

個人ホームページ、ブログ、mixi、Facebook、Twitter、LINE……。
個人がひまつぶしをする場は変わったが本質は変わっていない。

言わなくてもいいこと、書かなくてもいいことを書く場がインターネットなのだ。
だからこうしてぼくも一円にもならない文章を書いている。




70年代論や80年代論はよく見るが、00年代論はあまり目にしない。
00年代が終わって十年。もう総括できる時期にきているはずなのに。

00年代があまり語られないのは、十把ひとからげにして世代論を語りにくくなったからだとおもう。

「なんだかわからないけれど街で流行っているもの」というものが見えなくなった。もちろんいまでもそういうものはあるが、人の欲望があまりに細分化され、どこにつながればいいのか、わかりにくくなった。
 街がそういう発信をする意欲をなくし、若い男性は意味なく趣味を合わせていくことをやめた。世間が消え、情報誌が休刊となった。
 おそらく「男子も参加したほうがいい大きな世間」が見当たらなくなってしまい、「世間を巻き込む意味のよくわからない流行」というものを必要としなくなったのだ。もちろんそれがなくなるわけではないが、質が違ってきた。可視化されみなで共有できる分野ではなくなった。「その分野のことを知らないとまずいのではないか」という気分が、00年代に入って、きれいになくなっていった。(それとおたくの増加はきれいにリンクしている。おたくには世間はない。)

特に「男子」が参加する大きな世間がなくなったと堀井さんは説く。

そうかもしれない。
同じテレビを観て、同じ音楽を聴いて、同じような価値観を持っていた時代は終わった。

ぼくらが中学生のときは「昨日(『ダウンタウンのごっつええ感じ』)観た?」「(『行け! 稲中卓球部』の)新刊買った?」という会話ができたし、小室ファミリーやハロープロジェクトを嫌いな人でも trf やモーニング娘の代表曲は歌えた。
好き嫌い関係なく、ふつうに生きているだけで叩きこまれるのだ。

今の中高生の生態はぜんぜん知らないが、今でもそういうのあるのだろうか。
うちの七歳の娘の周りでは、少し前は『おしりたんてい』が爆発的に流行っていたし、今は『鬼滅の刃』が共通語のようになっている。
小学校低学年であれば今も「世代の共通語」があるが、もっと選択的に情報を得られるような年代になれば「世代の共通語」はなくなってゆくのだろう。

どんどん趣味嗜好が細分化していってしかもお互いにまったく交わらなくなっているのは、古い人間からするとちょっと寂しい気もするけど、でもまあいいことだ。
ぼくだって trf やモーニング娘を聴きたくて聴いてたわけじゃないし。情報収集のチャンネルは多いほうがいい。
観たいドラマがプロ野球中継延長のせいで中止になっていた時代に比べれば、まちがいなく今のほうがいい。


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2020年10月20日火曜日

日本中に元気を与えたいです

ちょっと、困っているんですが。

なにがってあなた、こないだ大会出場の意気込みを聞かれて
「こんなときだから、日本中に元気を与えたいです」
って言ってたじゃないですか。

困るんですけど。
うちの子、元気がありあまってるんです。
夜もぜんぜん寝ないし、学校でもじっとしていられなくて走り回っているんです。
私が何度学校から呼びだされたことか。

これ以上元気を与えられたらもう手に負えません。

お願いですからやめてください。
日本中に元気を与えるのはやめてください。

あなたが元気をまきちらすせいで困っている人もいるんです。
日本中に元気を与えるのはところかまわずタバコを吸うようなものだと心得てください。


それからうちの子、将来は暗殺者になるとかイルカになりたいとかわけのわからないことを言って困ってるんです。

もう三年生なんですからそろそろ現実も見てほしいんです。
願えばなんでもかんでも叶うわけじゃないって気づいてほしいんです。

だからあなたがこないだ「日本中のみなさんに夢と希望を届けたいです」って言ってましたけど、それもやめてください。

届けないでください。夢も希望も。
うちには夢と希望がありすぎて困っているんです。これ以上押しつけられても困るんです。


元気にしても夢にしても希望にしても、うちはまにあってますんで自分の家だけでやってください!


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2020年10月19日月曜日

【読書感想文】永遠にわからぬ少女の恋心 / 山田 詠美『放課後の音符(キイノート)』

放課後の音符(キイノート)

山田 詠美

内容(e-honより)
大人でも子供でもない、どっちつかずのもどかしい時間。まだ、恋の匂いにも揺れる17歳の日々―。背伸びした恋。心の中で発酵してきた甘い感情。片思いのまま終ってしまった憧れ。好きな人のいない放課後なんてつまらない。授業が終った放課後、17歳の感性がさまざまな音符となり、私たちだけにパステル調の旋律を奏でてくれる…。女子高生の心象を繊細に綴る8編の恋愛小説。


二十代前半で山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだときに
「ああ、これはすごくおもしろい小説だけど十代のときに読みたかったなあ」
とおもったものだ。

それから十数年。
『放課後の音符』を読む。
うん、これは三十代のおっさんが読むもんじゃないわ

三十代のおっさんになって、結婚して子どももいて、もう十年以上も恋愛のドキドキとは無縁の生活を送っている(妻とは八年交際して結婚したので恋愛初期のドキドキは長らく味わってない)身としては、『放課後の音符』で描かれている世界はもはや異次元。

文章の瑞々しさに目がくらんでまともに読めない。

 リエは、純一を見る時、いつも唇をうっすらと開いていた。瞳は濡れているのに、唇はすっかり乾いてしまっているという感じだった。あれじゃあ、きっと喉の奥までからからになって痛むだろうと私は余計な心配をした。彼女は、他の女の子に名前を呼ばれて、我に返るまで、ずっとそうしている。何もかも忘れてしまったかのように、純一だけを見ている。素敵な絵を見た時のように、あるいは美しい音楽を聴いた時のように、感覚の一番敏感な部分をぎゅっとつかまれて、立ちつくしている。純一は彼女にとって、そういう存在なのだ。そう思うと、私は、衝撃を受ける。人間が人間に対して、そんなふうに感じることがあるなんて、私には信じられない。

すごくいい文章だとはおもうけど、これを受け止めるにはぼくの感受性が鈍磨しすぎている。ぼくのツルツルのミットではこの切れ味鋭い変化球をキャッチできない。
読むのが遅すぎた。



もはや恋する少女にまったく共感することのできないおっさんが読んでいておもうのは、ほんと恋愛って人を狂わせるなってこと。

『放課後の音符』には、狂った人たちばかりが出てくる。
人を好きになるあまり、頭のおかしいことばかり言っている。
思春期なら共感して登場人物といっしょになって胸を痛めることができたんだけど、もうぼくにはできない。
昔はぼくも人を好きになってまともじゃない行動ばかりとっていたけどなあ。〇〇をプレゼントしたこととか、□□って言ったこととか。
おもいだしたくもないのでもう忘れかけてるけど。


しかしあれだね。
少女の恋愛感情ってほんと理解不能だわ。
昔からわからなかったけど、いまはもっとわからんわ。

男はわかりやすいじゃない。
「セックスする」という明確なゴールがあって、そこに向かって最短距離(だと自分がおもっている経路)でつっぱしる。単純明快だ。動物そのもの。

でも少女ってそうじゃないでしょ。
つかずはなれずの関係性を楽しむほうが大事で、ゴールがないというか。
BLとか宝塚歌劇に入れ込むのとかまさにそう。
安野モヨコ『ハッピー・マニア』に「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」という台詞が出てくるが、少女の恋愛の本質をよく言い当てている。
少女の恋には「ここに到達したらハッピー」というゴールがない。ともすれば成就しないことを願っているようにも見える。


高校生のとき、仲の良かったMという女の子がいた。
彼女は陸上部の先輩に恋をしていた。
彼女は先輩に告白をし、めでたく二人は付きあうことになった。

少しして、Mと先輩は別れたと聞いた。Mさんから別れを告げたのだという。
「なんで別れたん?」
と訊くと、
なんか手を握ってきたりして気持ち悪かったから
という答えが返ってきた。

ぼくにはまったく理解不能だった。
だって好きな人なんでしょ? 好きな人に手を握られて気持ち悪いってどういうこと? セックスを強要されたならともかく、手を握られて気持ち悪い人となんで付きあうの? しかもMのほうから告白して付きあうことになったのに、手を握られたからフるってひどすぎない?

Mの心理がまったく理解できなかった。今でもわからない。
Mにフられた先輩も理解できなかったにちがいない(ほんとにかわいそうだ)。


でも、どうやらMのように残酷な心変わりをする女性はめずらしくないらしい。
他にも同じような話を聞いたことがある。
すごく好きだったのに、どうでもいい理由で百年の恋が冷めたとか。それも「虫が肩に止まっていたから」のような、まったく本人に責がないような理由で。

いまだにぼくは女心がわからない。
でも「永遠に理解できない」ということは理解している。その点が、女性の気持ちが理解できる日がくるものとおもっていた思春期の頃とはちがう。ソクラテスみたいなこと言うけど。

だから今、思春期に戻ったらもうちょっとうまくやれるとおもうんだよね。
あー! 戻りてー!!


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2020年10月16日金曜日

【読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』

カラスの教科書

松原 始

内容(e-honより)
ゴミを漁り、カアカアとうるさがられるカラス。走る車にクルミの殻を割らせ、マヨネーズを好む。賢いと言われながらとかく忌み嫌われがちな真っ黒けの鳥の生態をつぶさに観察すると、驚くことばかり。日々、カラスを追いかける気鋭の動物行動学者がこの愛すべき存在に迫る、目からウロコのカラスの入門書!

カラス研究者によるカラスの本。
おもしろかった。

こういう「自分の生活にはまったく影響ないものに人生を捧げている人の本」にはまずハズレがない。
伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』とか。


都会にも住んでいるし、日本ではハトと並んで人間にいちばん近い鳥だ。
どこにでもいるのかとおもっていたらそうでもないらしい。日本のすぐ近くでも、香港や韓国には街中にカラスがあまりいないのだとか。
日本は世界有数のカラス大国なんだそうだ。だからなんだって感じだけど。

すごく身近な存在なのに、嫌われているカラス。
ま、近いからこそ嫌われているのかもしれないな。
ゴキブリだって山にしか生息していなければあそこまで嫌われることないだろうし……。

ぼくもあまりいい印象は持っていなかったが、この本を読んでカラスのことがちょっと好きになった。
あまりに著者がカラスのことを魅力的に語るんだもの。



読めば読むほど、都市のカラスの生活に人間の存在が深くかかわっていることがわかる。
ある日突然人類が死に絶えたら、都市に棲んでいるカラスもばたばたと死んでしまうかもしれない。

『カラスの教科書』によると、カラスは芋をあまり食べないが肉じゃがやフライドポテトや焼き芋は好きなんだそうだ。また米は好きじゃないけどご飯はよく食べるとか。
もう人間の味覚になっている!

都会はゴミが多いので、野山よりもずっと多くのカラスが棲めるらしい。
「人間が住み着いたので動物が追いやられる」ということが多いが、カラスに関しては逆で、人間がいるからこそ生きやすくなる。
もちろん人間に駆除されたり交通事故に遭ったりもするわけだが、それを差し引いても人間の近くにいることはカラスにとってメリットが大きいのだろう。


人間にとってもメリットがないわけではない。
ゴミを漁るので嫌われるが、カラスは片付けもしてくれているのだそうだ。

「掃除屋」という事でカラスが人知れず活躍している例をご紹介しておこう。週末の早朝、繁華街や駅前に、飲みすぎてリバースしちゃった痕跡を見ることがある。ところが、吐いた跡があるのに吐瀉物がない、という例を見たことはないだろうか?あれは人間が片付けるよりも早く、カラスが食っているのである。カラスにとってはご馳走らしく、何羽も群がっていることもある。カラスが去った後は固形物が全て片付けられ、水をかけて流せばいいばかりになっている。飲みすぎてやっちゃった経験のある方は、カラスに感謝しなくてはいけない。

そもそも、ゴミを漁るなっていうのもずいぶん勝手な話だよなあ。

食べ物をそのへんに放りだしておいて「勝手に持っていくんじゃないぞ」って言ってもなあ。

カラスは文字が読めるとおもっている人からのメッセージ。



カラスをこわがる人も多いが、カラスのほうがずっと人間をこわがっている。
なぜならまともにやりあったらぜったいにカラスが負けるから。

 ハシブトガラスは都市部でよく見かけるカラスだ。東京でカアカア鳴いている、あれがハシブトガラスである。全長(くちばしの先から尻尾の先まで)は56センチほどになり、翼を拡げると1メートルほど。こう書くとものすごく大きい鳥だと感じるだろうが、体重は600~800グラムほどしかない。鳥は見た目より遥かに軽いのである(スズメだと30グラムくらいしかない)。体重600~800グラムといえば、成人男性の1パーセントだ。ハシブトガラスが100羽集まって、やっと一人ぶんの重さということである。

そんなに軽いのか……。
アフリカゾウの体重が約6トン(成人男性の約100倍)だからカラスから見たヒトは、ヒトから見たゾウぐらいの重量だ。めちゃくちゃ怖いだろう。

アニメ版の『ゲゲゲの鬼太郎』で鬼太郎は数十羽のカラスに持ちあげられて空を飛んでいたが、数十羽集まってもせいぜい30kgぐらい。
人間ひとりを持ちあげて空を飛ぶのは相当きつそうだ……。
鬼太郎がめちゃくちゃ軽いという可能性もあるが、原作では鬼太郎が力士になって活躍したりしていたのでその可能性は低そうだし。



『カラスの教科書』によると、カラスが人を襲うことはめったにないらしい。
「巣にヒナがいるときに人間がなわばりに入ってきて、警告音を出しても立ち去らないときにだけ威嚇する」程度なんだそうだ。
まあゾウとヒトぐらいの対格差があったら、一対一で攻撃をしかけようとはおもわんわな。

だが他の鳥を襲うことはあるそうだ。

 さらに、鳥類も食べる。といってもカラスは猛禽と違って大した飛行能力も、一撃で獲物を仕留める爪も持っていないので、狙うのは主に卵と離だ。この辺が鳥好きにも嫌われる理由だが、鳥の巣を見つけるとヒョイと入って卵をくわえて来る。時には力づくで巣箱を破壊して捕食する。雄でも同じだ。巣立ち雛や成鳥を狙うこともあるが、見るからにヨタヨタのスズメの雄にさえ逃げられていたから、カラスの捕食能力は大したことがない。ハトを襲っている場面も何度か見たが、いずれも失敗して逃げられていた。捕食の方法としては、いきなり背中に飛び乗っておさえつけるというものだが、この時に爪を突き刺して息の根を止める猛禽とは違い、ハトが暴れると振り落とされてしまう。ただ、一度だけ目撃した捕食直後のシーンでは、背中に乗ってハトが死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつき、最後は頭をくわえてひきちぎってポイと捨てていた。この辺の「有効な武器を持たないが故の見た目のむごたらしさ」がさらにカラスの評判を落としている気がする。カラスにしてみれば大ご馳走なのだが……(しかしまあ、見た目に凄惨なのも確かではある。私の後率は上から羽がハラハラと落ちてくるので足を止めたところ、次の瞬間にハトの生首が落ちてきて腰を抜かしそうになったと言っていた。ビルの上でカラスがハトを食べていたらしい)。

ひい、たしかにこれはビビるな……。
〝背中に乗ってハトが死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつき、最後は頭をくわえてひきちぎってポイと捨てていた〟だもんな……。
幼少期に目撃したら一生トラウマになりそうな光景だ。

しかしタカが小鳥や小動物を狩ったりする光景にはそこまでの残忍さは感じない。
一撃必殺で仕留めるより、じわじわなぶり殺しにするほうが残虐に見えるのだ。殺されるほうからしたらどっちも同じなんだろうけど。

そういや殺人事件でも〝めった刺し〟というと残虐な印象を受けるが、あれはたいてい「生き返って反撃されるかも」という臆病さによる行動らしい。
ほんとに残忍な殺人犯はもっと手堅く殺す、とどこかで聞いたことがある。

ただ「カラスは弱いから死ぬまで首筋をガッツンガッツンとつつくんだよ」と言われても「じゃあ許せるね」となるかどうかはまた別の話で……。




  カラスの特徴は、特殊化していないことだと思う。絵に描いてみるとわかるが、カラス類のシルエットは、くちばしがやや大きいことを除けば非常に基本的なトリの形をしていて、明快な特徴がない。だから、ものすごく得意という分野はないのだろうが、逆に言えば、何でも一応はできる。シギのような長いくちばしも、猛禽のような鋭い爪も、アホウドリのような長い翼も持ってはいないが、それでもカラスはちゃんと餌を食っているわけだ。包丁で言えば「これ一本でだいたい間に合う」という万能包丁で、刺身や菜切りに特化したつくりではない。
 何でも一応はできるということは、潰しが効くということである。これはどんな場所でも、何を餌とする場合でも、ソコソコの成功を収めることができそうな戦略である。

なるほどー。考えたことがなかったけど、言われてみればたしかにそうだね。

すごく強いとか、めちゃくちゃ速く飛べるとか、樹の中にいる虫をとれるとか、これといった特徴はカラスにはない。

なにかに特化したやつはその状況では強いけど、環境が変われば生きていけない。
だが全部そこそこやれるカラスは、環境の変化にも強い。だからこそ森林が都市化されても適応して生きていくことができた。

真っ黒い色が特徴的なので目がいきがちだが、じつはカラスはごくごく平凡な鳥なのかー。


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