2020年9月16日水曜日

【読書感想文】土はひとつじゃない / 石川 拓治・木村 秋則『土の学校』

土の学校

石川 拓治(文)  木村 秋則(語り)

内容(e-honより)
土は何から作られているか、良い土と悪い土をどう見分けるか、植物の成長に肥料は必要か。…絶対不可能といわれたリンゴの無農薬栽培に成功した著者が10年あまりにわたってリンゴの木を、畑の草を、虫を、空を、土を見つめ続けてわかった自然の摂理を易しく解説。人間には想像もつかないたくさんの不思議なことが起きている土の中の秘密とは。

『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』と内容はあまり変わらないが、こっちのほうがより実践に即したアドバイスが多い。

物語としてのおもしろさなら『奇跡のリンゴ』、実践に役立てるなら『土の学校』かな。

まあ農家でもなければ家庭菜園すらやっていないぼくにはまったく実用的でない内容だけど……。

でもやっぱり木村秋則さんの話はおもしろい。
ぼくは農業の本というより思想の本として読んでいる。



木村秋則さんという人を知らない人のために説明すると……。

無農薬でのリンゴの栽培に成功した農家。

というと「ふーん」ってな感じだとおもうが、これはめちゃくちゃすごいことらしい。
無農薬の野菜は世の中にいろいろあるけど、「リンゴは肥料なしでは育たない」というのは農業界の常識だったそうだ。
というのも今我々が食べているリンゴというのは品種改良によって生みだされたもので、農薬や肥料を使うことを前提につくられたものだからだ。

そんなリンゴを無農薬・無肥料で育てるのは、チワワをジャングルで放し飼いで育てるようなものかもしれない。

木村さんは特に根拠があるわけでもなく全身全霊をかけていリンゴの無農薬栽培に挑戦したがうまくいかず、十年近く収入のない日々を送る。
ついに自殺しようと山に足を踏み入れたとき、そこに生えていたリンゴの樹にヒントを得てとうとう無農薬栽培に成功する……。

というウソみたいな経歴の持ち主(ぼくは自殺未遂エピソードについては眉に唾をつけているが)。

とにかく『奇跡のリンゴ』はめちゃくちゃおもしろい本なので、農業に関係ない人もぜひ読んでほしい。



この木村さん、とんでもない行動力の持ち主で無農薬栽培成功までに数多くの試行錯誤をくりかえしているので、経験、実地重視の人かとおもいきや、それだけではない。

 このときの経験から、私の自然栽培では畑に大豆を植えるようにしています。植物の必要とする窒素分を補給するためです。窒素そのものは空気中に含まれていますが、普通の植物はそのままの形では利用することができません。大豆の根に共生する根粒菌は、その大気中の窒素を植物の利用しやすい化合物に変えることができます。この働きを利用して、土壌に植物の使える窒素分を供給するわけです。
 ただし大豆を植えるのは、慣行農法から自然栽培に移行したばかりの最初の何年間かだけです。
 私の場合は最初の5年間だけ大豆を播きました。5年目に播いた大豆の根っ子を見ると、根粒菌の粒がほとんどついていなかったからです。窒素がもう土中に行き渡ったサインだと解釈して、それ以降は大豆を播くのをやめました。

行動力もすごいが、理論もしっかり持っている。

生物や化学の知識をちゃんと持っていて、確かな知識の裏付けのもとに試行錯誤をしている。

理論だけでもだめ、実践だけでもだめ。
木村さんは両方をとことんやる人だったから、一見無謀な挑戦がうまくいったんだろうな。



ぼくなんか本で読んだだけでわかったような気になってしまう人間だから、木村さんの指摘にはっとさせられる。

 土とひとくちに言っても、その場所によって極端に言えばまったくの別物なわけです。基本的にその違いを考えないのが、現代の科学であり、農業だと思います。
 土と言った瞬間に、それはみんな同じという前提になってしまう。ここの土はどんな性質があって、どんな微生物が多いとか考えずに、種を播くわけです。
 それでもやってこられたのは、化学肥料と農薬があったからです。
 水はけの悪い場所には、湿気を好む雑草が生える。そこに棲んでいる土中細菌は、乾いた場所の土中細菌とはまた違っているはずです。
 そんな場所に、たとえば乾燥を好む野菜を植えたら、生育が悪いのは当たり前だし、病気にもかかりやすくなる。それで農薬や肥料を使わざるを得なくなるのです。
 土の個性をよく見極めて、その土地にあった作物を植えれば、少なくとも農薬や肥料の使用量を今よりも減らせることは間違いない。農薬や肥料の使用量を減らせば、環境への負荷も低くできるし、何よりも支出を減らせます。
 土の性格は、その場所によってみんな違う。
 違いを見極めることが、賢い農業の出発だと思います。
 もっともそんなことは、昔の百姓なら当たり前のことでした。どこにどんな作物を植えるかで、収穫が大きく違ってしまうのですから。
 農薬や化学肥料が広まってからは、そんなことを考える必要がなくなった。百姓と土との長年にわたるつきあいに、ひびを入れたのが農薬や化学肥料ではないのかなと思うのです。

理科の教科書で「植物が育つのに必要なのは水・土・光・肥料(ミネラル)」と習ってそれをそのままおぼえているけど、たしかに「土」といっても千差万別。
とても「土があれば大丈夫」と単純に言えるはずがない。

人間が生きるには炭水化物やたんぱく質やビタミンが必要だけど、それさえ満たしていればどんな食べ物でも生きていけるかと言われると、もちろんそんなことはない。

バランスよくいろいろ食べることが必要だし、体調や気候によっても必要なものは変わる。
「いついかなるときでもこれさえ食べておけば元気でいられる、すべての人にあてはまる万能食品」
は存在しない。

そう考えれば「水・土・光・肥料(ミネラル)があれば植物は育つ」なんて大間違いだとわかるんだけどさ。

水や土は必要条件であって、十分条件ではないんだよな。



木村さんからのクイズ。

 たとえその虫が、成虫も幼虫もリンゴの葉や実を食べる、どこをどう突っついても悪者の、正真正銘の害虫だったとしても、リンゴの木にとってためになることを最低ひとつはやってくれています。
 何だかわかりますか?

答えは本書にて。


【関連記事】

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』



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2020年9月15日火曜日

ころがスイッチ


ころがスイッチ ドラえもん ワープキット


小学一年生の娘が楽しみにしていたイベントが新型コロナウイルスで中止になり、目に見えて気落ちしていた。 

なにか家で遊べるおもちゃでも買ってあげるよとおもちゃ屋に連れていった。

で、娘が選んだのがこれ。

いいチョイス! ぼくもこういうの大好きだ!
子どもの頃、レゴとか積み木でこういうの作ってたし。
子どもの頃っていうか中学生になってもやってたし。

店頭価格で5,000円近く。
誕生日とかクリスマス以外では絶対に買ってあげない金額のおもちゃだけど、ぼくも欲しかったので「えーどうしても欲しいの? じゃあしょうがないなあ」とニヤニヤしながら迷わず購入。




期待を裏切らない出来だった。

ボールを転がして、ピタゴラ装置のようなものを作るおもちゃ。
直線レール、坂道、カーブはもちろん、

 下のドアから入ったボールが上のドアから出てくる(ように見える)「どこでもドア」

 ボールの動きが遅くなる「モグラ手ぶくろ」

 ボールが不規則な動きをする「タイムトンネル」

など、おもしろいギミックがたくさん。

(ただし「タケコプター」はボールが通過するとプロペラが回るだけなのでぜんぜんおもしろくない)

中でもぼくがいちばん気に入ったのは「エスパー帽子」。

ここにボールがやってくると直進するが、二個目のボールがやってくると今度は右に曲がる。

単純な仕組みなので、見ればすぐに「なるほどそういう仕掛けか」と納得できるのだが、これをおもいつくのはむずかしい。

シンプルなのに奥が深い。
大人も夢中で遊べるおもちゃだ。




七歳児ももちろん楽しく遊んでいる。

こうすれば失敗する。
ここをこうしたらうまくいく。

試行錯誤を重ねながらコースを作って遊んでいる。

今流行りの「プログラミング思考」ってやつだね。


うちには一歳十ヶ月児もいるんだけど、こっちも「ころがスイッチ」で楽しく遊んでいる。

レールの上にボールを置いて、それが転がる様子を見てきゃっきゃっと声を上げて喜んでいる。

彼女は凝った仕掛けは必要としておらず、ただボールが転がるだけでおもしろいようだ。


一歳も七歳も中年も楽しく遊べるおもちゃ。いいねえ。

一歳がコースを破壊して七歳がぶち切れるという事件が頻発するけど。


2020年9月14日月曜日

【読書感想文】闘う相手はそっちなのか / 小川 善照『香港デモ戦記』

香港デモ戦記

小川 善照

内容(e-honより)
逃亡犯条例反対に端を発した香港デモは過激さを極め、選挙での民主派勝利、コロナウイルス騒動を経てなお、混迷の度合いを深めている。お気に入りのアイドルソングで気持ちを高める「勇武派」のオタク青年、ノースリーブの腕にサランラップを巻いて催涙ガスから「お肌を守る」少女たち…。リーダーは存在せずネットで繋がり、誰かのアイデアをフラッシュモブ的に実行する香港デモ。ブルース・リーの言葉「水になれ」を合い言葉に形を変え続ける、二一世紀最大の市民運動の現場を活写する。

2014年に香港で大規模なデモがおこなわれた。いわゆる「雨傘運動」だ。

中国共産党により香港での普通選挙が拒否され、中国政府の指名を受けた人物しか立候補できないことに市民が反発しておこなわれたデモだ。

結論から言うと、雨傘運動は失敗に終わった。
香港の民主化は進まず、指導者は逮捕され、デモをおこなっていた団体は分裂した。中国共産党の姿勢はいっそう強硬なものになった。

そして2019年から2020年、香港では再びデモがおこなわれている。
デモの発端は2019年に提出された逃亡犯条例改正案だ。刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡すことができるという法律。中国政府に目をつけられたら、中国に無理やり送られる可能性があるわけだから、香港市民からしたら怖すぎる法律だ。

そもそも香港が中国に返還されたときに「2047年までは一国二制度(中国のやりかたを押しつけない)」と約束していたのに、その約束を反故にしつつあるのが最大の原因だろう。


香港のデモについては日本でも報道されているが、どうしても対岸の火事。

しかし、香港の状況は決して例外的な事例ではない。古今東西、同じようなことはあちこちで起こっている。

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』を読み、政治も経済も一部の権力者が牛耳っている国が多いことに驚かされた。
自由な競争が保たれている国のほうがむしろ例外なんだと気づかされる。

我々があたりまえのように享受している民主主義は決して普遍的なものではなく、ちょっとしたきっかけで奪われてしまうものなのだ(そして権力者は私権を制限したいものなのだ)。

中国共産党がずば抜けて悪なのではなく、権力者はどこも同じような志向性を持っている。
アメリカだって日本だって、中国と同じ道を歩む可能性は十分にある(もう近づいていっている気がする)。

えらそうに語っているぼくだって、自分が国家を動かせる権力を持っていたら、その権力を強化し国民の権利を制限するほうを選ぶだろう、きっと。
「こっちのほうが民衆のためだ」なんて言って。

権力の暴走を防げるのは理性ではなくシステムだけ。

だから権力者を縛るシステムはぜったいに緩めちゃいけない。
権力側が言いだした「憲法改正」なんて話にはぜったいに乗ってはいけないのだ。



現地に何度も足を運んで香港のデモ隊についての生の声を拾ったルポルタージュ。

現地の温度感を知るにはいいが、ほぼ一方の声しか拾っていないので、デモに関しての全体的な状況はわかりづらいかもしれない。

また第五章の『オタクたちの戦い』にいたっては「デモをしているメンバーには日本のアニメや漫画が好きなオタクもいるんですよ」ってことが長々と書いてあるのだが、正直いって「だから何?」という感想しか出てこない。

それを言うなら、香港警察や中国共産党の側にだって日本のアニメが好きなオタクはいっぱいいるだろう。

まあ「デモをしているのも日本にいるのと変わらないような若者なんだよ」って言いたいんだろうけど、「オタク」「パリピ」といった言葉をくりかえしてむやみに分類するやりかたは好きじゃないな。

そういう姿勢がいらぬ分断をあおるんだよ……と言ったら言いすぎだろうか。


とはいえ、現地に足を運んでいるからこそ見えてくるものもある。

 警察はそうした過激な抗議活動に対して、確実に潰しにかかっていた。
「ネット上で一二日の呼びかけを行った人物はデモの前夜に警察に逮捕されたと聞きます。暴動を呼びかけたということで。だから、今現在は、みんなネットの書き込みにさえ『○○で警察を見た』ではなく、『○○に警察がいる夢を見たんだが』というような現実ではない報告の形にしています」

こういう「生の情報」は現地に行かないとなかなか手に入らないだろうし、このエピソードだけでいかに警察によるデモ隊への締め付けが厳しくなっているかが伝わってくる。

「警察を見た」とネットに書き込むだけで逮捕される可能性があるのだから、言論の自由などはもうとっくになくなったに等しい状況にあるのだろう。

ぼくが漠然とおもっていたよりも香港の状況は深刻なようだ。



雨傘運動にしても2019年のデモにしても、デモの直接的なきっかけは政治や法改正なのだが、その背景には経済的な不満も大きいらしい。

香港も、日本と同じく数年前から中国から大量の観光客がやってきて“爆買い”をするようになったらしい。

そのせいで香港の物価は上がり、香港市民の生活は苦しくなった。

新築の標準的な3LDKのマンションの一室を買うのですら、日本円で一億円近くするため、持ち家は諦めざるを得ないという。
「公営企宅には抽選に当たれば入居できますが、その抽選自体が何年待ちという状態で、庶民はほとんど入居を諦めている状態です。それなのに、香港の大陸側の郊外である新界(ニューテリトリー)地区などには、高級マンションだけはどんどん建っています。そこもすごい価格なのにすぐに完売してしまうんです。それで、そのマンションには人がほとんど住んでいない。大陸の中国人の金持ちが投資目的で買うからです」

このへんの状況は日本とよく似ている。

香港市民の反中感情が高まる一方で、中国企業、観光客、中国政府のおかげでお金を儲けている香港人もおり、香港市民間の溝が深まっていたこともデモの背景にあるようだ。

だから香港市民の中にも反中派と親中派がいる。
みんながみんなデモに賛成しているわけではないのだ(大半はどっちつかずなんだろうが)。

 香港市民は無意識に新しく知り合った相手が黄色(イエロー)か藍色(ブルー)か、「どちら側なのか」を考えるようになっている。それはデモをめぐっての立場、黄色(デモ隊支持)か、藍色(警察支持)だ。香港では今、そのことによって、すべての行動を定義してしまうようだ。
 香港の取材相手と食事をするとき、「どちら側の店が近くにあるか」が重要になってくる。香港では、黄色い店、藍い店のリストがあり、まとめられたサイトではマップと連動しており、近くにどんな店があり、その店は黄色か、藍色かが表示されるのだ。
「黄色経済圏として、どうせお金を落とすならば、デモ隊支持の自分たちの仲間のところで、ということなのです。逆に親中派の店には、一銭も落としたくないと。飲食店から金融機関など、あらゆる店舗やサービスが、分類されているのです」

こうやって香港人同士が憎みあって分断していく姿は、悲しい。

香港人同士で対立して互いを敵視して、それこそ中国共産党の思うつぼなんじゃないの、と海の向こうから見ているとおもえてしまう。

中国にしたら香港人が一致団結するより、分断して対立しているほうが統治しやすいんじゃないかな。
強引な締め付けをしたって、市民の怒りは中国政府じゃなくて香港政府や香港警察や親中派香港人に向かうんだもん。こんな楽なことはない。


そしてデモをしている香港人も、一枚岩ではない。
中国本土も含めた民主化を望む比較的穏健な「民主派」、香港のことは香港で決めるという「自決派」、大陸ではなく香港こそが本土なのだという「本土派」、その考えをさらに極端にした「独立派」などいくつもの派閥に分かれている。

それぞれの派閥の中でも、平和・理性・非暴力を掲げる穏健派「和理非派」と、過激派の「勇武派」があり、さらにそれぞれが内ゲバをくりひろげている。


勇武派のデモ参加者のインタビューより。

――こうした破壊をして、今どんな気持ちか?
「こんなことはしたくない。でも、自分たちの未来のためだ」
 そう話しながら、彼は少し間を置いて、こう言い切った。
「こんなことをしても変わらないなどと言う人もいるが、やらずに後悔はしたくない」
――勇武としての活動は、ずっと続けるのか?
「逮捕されるまでは絶対に続ける」
 彼は、そう断言した。彼の決意に衝撃を受けた。「香港独立」でも「五大要求貫徹」でもなく、彼のゴールは、強制終了である「逮捕」なのだ。その結果、暴動罪に問われたら、最高で一〇年間の禁錮刑となってしまうことも理解しての言葉だ。
「逮捕されることは問題ではない」
 わずか一八歳の少年が自分たちの未来を、自らの自由と引き換える固い決意をもって、自らの手で変えようとしている。一瞬、彼が警官に取り押さえられて逮捕される映像が浮かんでしまい、涙が出そうになった。

気持ちはわかる。気持ちはわかるんだけど……。

もはや目的と手段が入れ替わっている。
日本の学生運動の末期を見ているようで悲しくなる(その時代生まれてなかったけど)。

普通選挙もかなわないし平和デモも通用しない。だから実力行使で……という心情はわかるんだけど、武力闘争をして警察や中国軍にかなうわけがないし、むしろ軍の介入を許すきっかけをつくるだけだ。

武力闘争をしかけていけば、「デモには参加しないけど応援してる」という圧倒的多数の市民の支持を失うだけだろう。
警察に武力攻撃をしかけている映像が流れれば世界中からの支持も失う。

ほとんどの人は「自由を求める闘争で命を落とす危険」よりも「多少の自由は制限されても警察権力によって秩序や安寧が保たれる」ほうを選ぶんだから。


人が集まったら派閥に分かれるのは当然だけど、そうはいっても少数派が分裂して大きな敵にかなうはずがない。

思想の違いまで妥協しろとはいわないが、いったん棚上げしてまとまらないと、ぜったいに負ける。

大きな目標を達成する前から内部分裂してどうするんだ、と言いたくなる(日本の野党もだぞ!)。


だいたい香港警察相手に闘いをくりひろげているけど、本当の敵は香港警察じゃないだろ!
そいつらは生活のために大陸の言いなりになっているだけで、本当に戦うべき相手はそっちじゃないだろ!

と外部から見ていると言いたくなる。
まあデモをしている人たちだってそんなこと百も承知で、怒りをぶつける相手が眼の前にいる警察しかいないんだろうけど……。


ま、こんなふうに安全なところで高みの見物を決めこみながら「その戦略はまちがっている!」とえらそうに言ってるぼくのような人間こそ真に打倒すべき相手なのかもしれないけど……。


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2020年9月13日日曜日

ツイートまとめ 2020年2月



100%→99%

犯行



イチャつけ

タトゥー

新聞の価値

祝日

左手

2020年9月11日金曜日

【読書感想文】我々は「死者」になる / 『100分de名著 ナショナリズム』

ナショナリズム

100分de名著

大澤 真幸 島田 雅彦 中島 岳志 ヤマザキ マリ

内容(NHK出版ホームページより)
かつて「21世紀には滅んでいる」といわれたナショナリズム。ところが世界はいまも、自国ファーストや排外主義にまみれている--。今年の元旦に放送され、話題となった特別番組「100分deナショナリズム」。4人の論客がナショナリズムを読み解くための入り口となる名著を持ち寄って議論した。大澤真幸氏が『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)を、中島岳志氏が『昭和維新試論』(橋川文三)を、島田雅彦氏が『君主論』(マキャベリ)を、ヤマザキマリ氏が『方舟さくら丸』(安部公房)を。

啓蒙書や文学作品から「ナショナリズム」について考える、という企画。

中島岳志氏やヤマザキマリ氏の作品は好きなので期待していたのだが、あまりナショナリズムに真正面から向き合ってる論調ではなかったな……とじゃっかん裏切られた気持ち。

おかげで安部公房には詳しくなったが。
『100分de名著 安部公房』ならこれでよかったんだけど。



大澤真幸氏が読み解く『想像の共同体』はおもしろかった。

じつは大澤真幸さん、ぼくの大学時代の学部の先生だったんだよね。
でもぼくは大澤先生の授業をとってなかった。とっときゃよかったなあ。

逆に、ヨーロッパのいずれかの国に植民地化され、まとまった行政単位として扱われたという事実が、結果的に、植民地の人々に「我々○○人」という意識を植え付ける結果となった、と考えるほかありません。
 その極端な典型は、アンダーソンが専門的に研究していたインドネシアです。インドネシアは、三千もの島々から成り、そこにはムスリムもいれば、仏教徒やヒンドゥー教徒等々もいて宗教的にも多様で、さらに百以上もの言語が話されていた地域です。こんなに多様で分散していた人々の間には、もともと「我々インドネシア人」などというアイデンティティはありませんでした。彼らが「インドネシア人」になったのは、オランダに植民地化され、まとまった扱いを受けたから、という以外に原因は考えられません。特に目立った事実は、ニューギニアの西半分だけが、インドネシアに属しているということです。しかも国境線は、南北に直線になっている。どうしてこんな不自然なことになったかというと、それは、かつてオランダ王がニューギニアのこの地域までの「主権」を主張した、ということに由来しています。すると、現地の人々までも、そこまでが「我々」に運命的に所属していた、と思うようになるのです。

国ができるのは外国の存在があったから、外部の存在がなければ国としてまとまることはない。

たしかにインドネシアって、「ぜったい自然にこんな形になるはずがない」って形の国土だもんね。

複数の島にまたがってるくせに、ニューギニア島だけはまっぷたつ。
こんな形で、住民に国家意識が芽生えるはずがない。


インドネシアはわかりやすい例だけど、他の国もいっしょ。

日本だって、欧米の列強の脅威があったからむりやり国としてまとまっただけ。
「数百年前の日本では……」なんて言い方をするけど、人々が「我々は日本人である」という意識を持ちだしたのなんてせいぜい明治以降のはず。

日本の伝統だの日本古来だのいってるけど、日本は百五十年ぐらいの歴史しかないのだ。




大澤氏は、日本のナショナリズムは大きな弱点を抱えていると主張する。

それは戦後の日本人は「我々の死者」を持たないからだという。

 これは、無名の殉死者、つまり匿名のままに葬られた死者に敬意が払われることは近代以前にはまったく考えられなかったことで、ナショナリズムが近代的な現象であることをよく示している、ということを論じた箇所です。アンダーソンがいおうとしていた中心的な論点からは少しずれますが、ここからひとつのことがわかります。ナショナリズムは、国民という共同体が「我々の死者」をもつことを意味している、ということです。
「我々の死者」とは、次のような意味です。ひとつの国民が、「その人たちのおかげで現在の自分たちはあるのだ」と思えるような死者、自分たちは「その人たちの願望を引き継いで実現しようとしているのだ」と思える死者、そして自分たちが「その人たちから委託を受けて今、国の繁栄のために努力しているのだ」と思えるような死者。こういうものが、「我々の死者」です。

(中略)

 ほんとうに「我々の死者」などもたなくても別に困らないのでしょうか。そうではない、と僕は思います。自分たちが生まれる前の他者たちのことを思うことができない人間は、つまり自分たちの生まれる前の人たちからの連続性を思い、そのような死者たちの願望に縛られない人間は、逆のこともできなくなるからです。逆のこととは、自分たちが死んだ後にやってくる将来世代のこと、未だ生まれてはいない他者たちのことを配慮したり、考えたりする、ということです。過去の死者たちのことを思わない人は、将来世代のことを考えなくなります。今生きている、自分たちのことしか考えないわけです。
 現代の日本は、実際、そのような状況にあるのではないでしょうか。しかし、現在、僕らが直面している重要な問題のほとんどが、現在生きている人たち以上に、これから生まれてくる人たちに関わっています。人口問題にせよ、環境問題にせよ、安全保障や憲法の問題にせよ、すべてそうです。これらの問題についての現在の日本人の意志決定の影響を受けるのは、主として、現在の日本人の大半が死んだ後に現れる将来世代です。
 自分たちの後にくる未生の世代への異様な無関心。これが現代の日本人の特徴であるように思えてなりません。その原因はどこにあるのでしょうか。少なくともそのひとつの原因は、戦後の日本人が「我々の他者」を失ったことにあるのではないか。これが僕の仮説です。

日本は戦前戦中の考え方はまちがっていたのだという反省を出発点にして戦後の復興をスタートさせたので、戦前の日本人、特に戦死した人たちの理想や大義を引き継ぐわけにはいかなくなった。

だから日本は独特な方法で「我々の死者」を取り戻す必要がある、死者に対して裏切りながら謝罪をしていくことが必要だ……。


ふうむ。

どの国にも多かれ少なかれナショナリズムはあるが、日本の場合は特にナショナリズムが「戦前の軍国主義への回帰」と結びつきやすいので余計にややこしいんだよね。

愛国心自体は決して悪いものではないのだが、「軍国主義まで含めて過去を肯定」or「過去の全否定」みたいな極端な対立になってしまいがちので、「過去の日本人の営みのおかげで今の我々がある」とは言いづらく「戦後復興期にがんばった日本人のおかげで」というずいぶん半端な「我々の死者」への感謝の形になってしまう。

「軍国主義は誤っていた。あの戦争で死んだ多くの人たちは無駄死にだった。それはそれとして彼らは我々の仲間だし、我々は彼らに敬意を持つべきだ。だが同時に批判も忘れてはいけない」
という微妙なスタンスをとることを、両極端な人たちは許してくれないんだよねえ。


そういえば中島岳志さんがオルテガの『大衆の反逆』について書いた文章の中で、「死者の声」に耳を傾けるべきだと書いていた(100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』より)。

 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。

政治について語るとき、「今生きている人」のことしか念頭にない人が多い。右も左も関係なく。

我々が身のまわりについて考えるときはそれでいいが、国の方針を定める場合は「今生きている人」だけのことではいけない。
なぜならふつう国の寿命はひとりの人間の寿命よりも長いから。

ぼくも若いときは「もう死んだ人間のことなんて知ったことか」とおもっていたが、最近ちょっと考えが変わってきた。

大澤氏の言うように、死者について考えることは、まだ生まれていない我々の子孫について考えることである。
なぜなら、我々の子孫にとっての「死者」こそ私たちなのだから。
我々の考えたことやおこなったことを未来へと引き継いでもらいたいのであれば、我々もまた「死者」の考えや行動を汲みとらなければならない。

こんなふうに考えるようになったのは、ぼくが歳をとって昔よりも「死者」に近づいたからなのだろうか。
だとしたら年寄りがナショナリズムにはまってしまうのも加齢のせいなのかもしれないな。


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