2020年7月27日月曜日

【読書感想文】最上級の敬称 / 俵 万智『言葉の虫めがね』

言葉の虫めがね

俵 万智

内容(e-honより)
たとえば万葉集をひもとけば、千年以上前の言葉が、そこにはある。私が口ずさめ、千年の時空を越えて、鮮度を落とすことなく言葉は蘇る。言葉は、永遠なのだ。けれどたとえば、今日私が恋人に言った「好き」という言葉は、今日の二人のあいだで成立している、たった一度きりのもの。言葉は一瞬のものでもあるのだ―。読むこと、詠むこと、口ずさむこと。言葉を観察し、発見するエッセイ集。

読んでいる途中で気が付いたけど、この本は過去にも読んだことがある。
高校生のときに俵万智氏の著作を読みあさっていたので、たぶんそのときに読んだのだろう。

しかし約二十年ぶりに読みかえしてみると、そのときとは違ったおもしろさがある。

後半は短歌評、前半は「最近の言葉の移り変わり」について書いているが、なにしろ二十年前の「最近」なので今読むと逆に新鮮だ。

列挙ではなく断定を避けるための「とか」や、副詞として使う「超」などが「最近の風潮」として取り上げられているが、そのあたりはすっかり定着した。
2020年の今、「超」を若者言葉とおもっている人はいないだろう(逆におじさんおばさんくさい言葉かもしれない)。

ずっと同じ言葉を使っているようで、二十年前に読んだり書いたりしていた言葉とはずいぶん変わっているんだろうな。



パソコン通信(これも時代を感じるが)について書かれた文章。
 いっぽうで、お互いの意見やメッセージを書き込む掲示板のようなスタイルの場では、やわらかめの書き言葉が多い。そこに文章を書いている人は、文筆を仕事にしているわけではなく(なかには文筆業の人もいるが)ごく一般の人たちだ。そういった人たちが、これほどまでに頻繁に、しかもなかば公に向かって、ものを書くということをした時代が、かってあっただろうか? パソコンという道具を手に入れることによって、「ものを書く」という時間が、人々のあいだで急速に増えているように思う。そういう意味では、書き言葉としての日本語が、一部の人のものから多くの人のものへと開放されたとも言えるだろう。
たしかにパソコン通信、インターネットの誕生って、活版印刷の誕生と同じくらい言文界にとってはエポックメイキングな出来事だよね。

「名もない人」の「特に価値があるわけでもない文章」が「校正校閲を受けずに」広く読まれる時代ってこれまでなかったわけだからね。

ぼくは、インターネットが広まったここ二十年を、「ばかが明るみに出た時代」だとおもっている。
いやこれぜんぜん悪い意味じゃなくて。
むしろすばらしいことだとおもう。

いつの時代でもどんな場所でもばかっていたわけじゃない。っていうか大半はばか。もちろんぼくやあなたもね。
歴史の教科書を見るとローマ帝国には賢人とか思想家だらけだったような気がするけど、じっさいにはその何百倍、何千倍ものばかがいたはず。

でもばかの思考はまず記録されなかった。
「おもしろいばか」とか「強烈すぎるばか」とかは何かしらの形で取りあげられることもあったかもしれないけど「笑えないタイプのばか」とか「平均をやや下回るばか」とか「一見まともなこと言っている風のばか」とか「他人の意見をそれっぽく使いまわすだけのばか」とかは履いて捨てるほどいるうえにおもしろくもないから、そいつらの発言は残らなかった。

会って話せば「ばかがばかなこと言ってら」とわかるけど、誰もそれを記録しないからそれっきり。

だけどインターネットの普及によって誰でも情報発信できるようになった。
まだパソコンを使うにはある程度の情報リテラシーが必要だったけど、スマホの登場によってそれすらも必要なくなった。
誰でも、世界に向けて情報発信できるようになった。
世界に向けて情報発信するような価値のない言葉を。


ぼくが子どものころ、大人はみんなちゃんとしているとおもっていた。
みんな思慮深くて感情をコントロールできて自制心があって少なくとも義務教育レベルのことは確実に理解しているものだと。

でも、今の子どもって昔ほどそんな幻想を抱いていないんじゃないだろうか。
インターネットに接続すれば、あほな大人、身勝手きわまりない大人、子どもより子どもっぽい大人の姿をかんたんに見ることができるのだから。

いいことなんだろうか。悪いことなんだろうか。



自作短歌の舞台裏。
 そういえば教師になりたてのころ、こんな短歌を作ったことがあった。

  万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 自分のような未熟者を、「先生」として見てくれる生徒たちへの、責任感や緊張感を詠んだ歌だ。が、現実はというと、

  先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校

 である。下校のときなど、自転車の二人乗りをした生徒らが(二人乗りは禁止されている)校門のところで私を追い越しながら、「万智ちゃーん、バイバーイ」なんて言って手をふって遠ざかっていく。別に私をバカにしているわけではなく、それが彼らの親愛の情の表現なのだ。
『サラダ記念日』だったか『チョコレート革命』だったかに収められていた歌だと記憶しているが、なるほど個人的には「先生を万智ちゃんと呼ぶ子らがいて」のほうがしっくりくる。

ぼくが通っていた高校では、気に入らない教師は呼び捨て(または不名誉なあだ名)だったが、人望のある教師は「〇〇さん」と呼ばれていた。
「〇〇さん」は生徒たちからの最上級の敬称だった。
形式的には「〇〇先生」のほうがより敬意のある言い方ってことになるんだろうが、じっさいはそうではない。

「〇〇先生」はよそよそしさのある呼び方だ。ほとんど話したことのない教師に対する呼び方。
一方「〇〇さん」は人間として信頼できる教師に対する呼び方だった。あの人は機嫌ひとつで態度を変えたりしない、生徒によって接し方を変えたりしない、言動が一貫している、もしも誤ったときは素直に間違いを認められる人だ。そんな評価が下された教師が「〇〇さん」と呼ばれていた。

教え方がうまいとか、怒るとこわいとか、そんなことは関係がない。
授業が退屈でも、怒るとヤクザのような言葉遣いをしても、生徒に対して誠実な対応をする教師は「〇〇さん」だった。

だから俵万智先生に「万智ちゃーん、バイバーイ」と声をかけた生徒の気持ちがよくわかる。
きっと最上級の敬称だったんだろうな。


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2020年7月22日水曜日

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』

国家はなぜ衰退するのか

権力・繁栄・貧困の起源

ダロン・アセモグル (著)  ジェイムズ・A・ロビンソン (著)
鬼澤 忍 (訳)

内容(e-honより)
繁栄を極めたローマ帝国はなぜ滅びたのか?産業革命がイングランドからはじまった理由とは?共産主義が行き詰まりソ連が崩壊したのはなぜか?韓国と北朝鮮の命運はいつから分かれたのか?近年各国で頻発する民衆デモの背景にあるものとは?なぜ世界には豊かな国と貧しい国が生まれるのか―ノーベル経済学賞にもっとも近いと目される経済学者がこの人類史上最大の謎に挑み、大論争を巻き起こした新しい国家論。

世界には豊かな国と貧しい国がある。

人生は努力によって決まる部分もあるが、それ以上に「どの国に生まれるか」によって決まる。
世界的大企業として名高いGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)の創業者である‎ラリー・ペイジやスティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスは類まれなる能力の持ち主で、たいへんな努力をしてきたのだろう。だが彼らがアメリカ人でなかったとしても、世界に通用する大ヒット商品を生みだせていただろうか。まあ無理だろう。
もしも北朝鮮に生まれていたら。ぜったいに無理だっただろう。
成功するかどうかの99%は「どこに生まれるか」で決まってしまう。北朝鮮で上位10%に入るぐらい知力と行動力のある人でも、政府上層部にコネクションがなければアメリカの下位10%よりも貧しい暮らしをすることになる。


なぜ裕福な国と貧しい国があるのか。
ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』はその原因を、主に地理的な要因にあると論じた本だった。
ユーラシア大陸がいち早く経済成長したのは、動植物の分布や地理が集団生活に有利だったからだ、と。

ところが『国家はなぜ衰退するのか』は『銃・病原菌・鉄』の説に異を唱える。
地理的な要因によって決まるのだとしたら、ほぼ同じ地理的条件を持ちながら経済規模がまったく違う国があるのはなぜなのか、と問う。

たとえば、我々日本人になじみの深いところでいうと、韓国と北朝鮮の違い。
 韓国と北朝鮮の経済的運命がくっきりと分かれたことは、驚くに値しない。金日成の計画経済とチュチェ体制はまもなく大失敗に終わった。控えめに言っても秘密主義の国である北朝鮮から、詳細な統計を入手することはできない。にもかかわらず、入手可能な証拠によって、繰り返される飢饉からうかがい知れる状況が立証されている。つまり、工業生産が軌道に乗りそこねただけでなく、実のところ北朝鮮は農業生産性の急落を経験したのである。私有財産を持てないせいで、生産性増進のため、あるいは維持のためにすら、投資や努力をするインセンティヴを持つ人はほとんどいなかった。息の詰まるような抑圧的な政治制度は、イノヴェーションを起こしたり新しいテクノロジーを取り入れたりするには不向きだった。だが、金日成、金正日、さらに彼らの取り巻きは、体制を改革したり、私有財産、市場、私的契約を導入したり、政治・経済制度を変えたりするつもりはなかった。北朝鮮の経済は停滞しつづけた。
 一方韓国では、経済制度によって投資と通商が促進された。韓国の政治家は教育に投資し、高い識字率と通学率を達成した。韓国企業はすぐに、以下のようなものを利用するようになった。まずは比較的教育水準の高い人材。次に、投資を奨励したり、工業化、輸出、技術移転を促進したりする政策。韓国はあっというまに東アジアの「奇跡の経済」に仲間入りし、世界で最も速く成長する国の一つになった。わずか半世紀ほどを経た一九九〇年代末までに、韓国の成長と北朝鮮の停滞は、かつては一つだった国を二分した両国のあいだに一〇倍の格差を生み出した。
 ――二世紀後にはどれほどの違いになるかを想像してほしい。韓国の経済的成功と対置すると、数百万人を飢餓に陥れた北朝鮮の経済的崩壊は際立っている。文化も、地理も、無知も、北朝鮮と韓国の分岐した進路を説明できない。答えを出すには制度に目を向けねばならないのである。
韓国と北朝鮮の民族は同じ。元々ひとつの国だったので使う言葉も同じ。文化もほぼ同じだった。
朝鮮半島の南北なので気候も近い。どっちかといったら、中国やロシアに近い北朝鮮のほうが通商の面では有利かもしれない。実際、南北に分かれた当初は北のほうが裕福だったという話もある。

だがそれから数十年で国の豊かさは天と地ほども開いた。
韓国は先進国の仲間入りをし、北朝鮮は世界の最貧国に転落した。

これは地理的要因では説明できない。
説明できるのは政治制度だけだというのが『国家はなぜ衰退するのか』の主張だ。


うん、おもしろい。
おもしろいし納得もいく。
……だけど、ものすごく冗長。

冒頭の2割ぐらいで言いたいことをほぼ言いつくしちゃって、後は手を変え品を変え、
「ほら、ここもそうでしょ」
「ほら、こんな例もあるよ」
「ほら、このケースも我々の説を裏付けてるよね」
とくりかえしているだけ。

イギリス、フランス、アメリカ、オーストラリア、北朝鮮、中国、日本、メキシコ、シエラレオネ、ジンバブエ、南アフリカ共和国、ソマリア、ソ連、アルゼンチン、コロンビア、ブラジル……。とにかくいろんな国のケースを挙げて「ほら、ぼくたち正しいでしょ」と言っている。
もうわかったから!

中盤はほんと退屈だったな……。



産業革命がイングランドで起こったのは、それが起こるだけの制度を持った国だったから。
たまたまイングランドで起こったわけではない。当時のイングランドの人が他の国よりとりわけ賢かったわけでもない。
 こうした状況が変化したのは、名誉革命後のことだった。政府が採用した一連の経済政策によって、投資、通商、イノヴェーションへのインセンティヴがもたらされたのだ。政府は意を決して財産権を強化した。その一つである特許権によってアイデアへの財産権が認められ、イノヴェーションが大きく刺激されることになった。政府は法と秩序を保護した。歴史上初めて、イングランドの法律がすべての国民に適用された。恋意的な課税は終わりを告げ、独占企業はほぼ完全に廃止された。イングランド国家は商業活動を積極的に後押しし、国内産業を振興するために手を打った。産業活動の拡大に対する障害を排除しただけでなく、イングランド海軍の総力を挙げて商業的利益を守ったのだ。財産権を合理化することによって、政府はインフラ、とりわけ道路、運河、のちには鉄道の建設を促進した。それらは産業の成長にとってきわめて重要なものとなった。
 これらの基盤によって人々のインセンティヴは決定的に変化し、繁栄のエンジンが駆動した。こうして、産業革命への道が開かれたのである。産業革命は何よりもまず大きな技術的進歩に依存しており、この進歩は過去数世紀にわたってヨーロッパに蓄積された知識基盤を活用していた。産業革命は過去との完全な決別であり、それが可能となったのは、科学研究および多くのすぐれた個人の才能のおかげだった。こうした変革のあらゆる力の源は市場だった。市場は、開発され、応用されるテクノロジーから利益を引き出す機会をもたらしたからだ。人々が自分の才能を適切な職業に向けられるようになったのは、市場の包括的な本性のおかげだった。産業革命は教育と技能にも依存していた。ビジョンを携えた起業家が現れ、新たなテクノロジーを活用して事業を興し、そのテクノロジーを使いこなす技能を持つ労働者を見つけられたのは、少なくとも当時の水準からすれば比較的高度な教育のおかげだったからだ。
イノベーションによって当人に利益がもたらされなければ、イノベーションは起こりにくい。
エジソンがいくつもの発明を生みだしたのは、当時のアメリカが、発明と特許によって大儲けできる国だったから。
発明をしても権力者によって搾取される国であれば、発明をしようという意欲は削がれてしまう。

また、治安が悪く、暴力によってかんたんに財産を略奪されるような国でもイノベーションは起こりにくい。
目立つことで身体に危害が及ぶなら、つつましく生きることが最適な生き方となる。

もっとも、収奪的制度の国だからといってまったく経済成長をしないわけではない。
旧ソ連だってはじめはそこそこうまくいっていた。
だが自由な競争が妨げられる社会では、イノベーションが起こらない。やがて経済成長は止まる。
 収奪的な制度がなんらかの成長を生み出せるとしても、持続的な経済成長を生み出すことは通常ないし、創造的破壊を伴うような成長を生み出すことは決してない。政治制度と経済制度がともに収奪的であるなら、そこには創造的破壊や技術的変化へのインセンティヴは存在しない。資源と人材を配分するよう国家が命令することによって、少しのあいだなら急速な経済成長を生み出せるかもしれないが、こうしたプロセスには本質的に限界がある。その限界に達すれば成長が止まってしまうのは、一九七〇年代にソ連で見られたとおりだ。ソ連が急速な経済成長を成し遂げたときでさえ、経済の大半の領域で技術的変化はほとんどなかった。軍事に大量の資源をつぎ込むことによって軍事技術を発達させ、宇宙と原子力の開発競争において一時は合衆国をリードさえできたというのに、である。しかし、創造的破壊も幅広い技術革新も伴わないこうした成長は、持続的なものではなく、突如として終わりを告げたのだった。
今、中国の経済はどんどん成長している。
自由競争が認められるようになり、今や世界一、二を争う大国だ。

だが中国は収奪的な政治制度を有している国だ。
どれだけ経済的に成功を収めても、共産党の胸三寸ひとつでつぶされてしまう可能性がある。
だからリスクをとってイノベーションに挑戦するメリットは薄い。

『国家はなぜ衰退するのか』の説を信じるなら、中国の成長はやがて止まる可能性が高い(ロシアも)。



この本を読むと、収奪的な政治的・経済的制度を持った国がいかに多いかに驚かされる。
我々にとってなじみの深いのは北朝鮮ぐらいだけど、特にアフリカや南米ではそっちのほうが多いぐらい。
限られた権力者グループだけが富を独占し、社会全体は貧困のまま据えおかれる。

こういう国ではイノベーションはめったに生まれない。

多くの船舶を所有して海運業を牛耳っている人物は、飛行機の開発を望まない。それは自身の権力や財産を脅かすことになるからだ。

新聞社のオーナーはインターネットの普及を苦々しく見ていたにちがいない。
もしも新聞社の社主に絶大な政治的権力があったなら、インターネットの使用は厳しく規制されていたはずだ(それどころかラジオやテレビだって普及しなかっただろう)。

北朝鮮でもメキシコでもシエラレオネでもジンバブエでもアルゼンチンでもコロンビアでも権力者たちは
「国全体を豊かにすることよりも、国が成長しなくても自分の権力を強化できる道」
を選んでいる。
北朝鮮のような独裁国家は決して例外的な存在ではなく、むしろそっちが標準なのだ。

北米や西欧のように権力が分散して自由な競争が保たれている国のほうがむしろ例外。


『国家はなぜ衰退するのか』には、
「自由な競争がおこなわれる社会をめざしたけど、結局一部の権力者だけが富を独占する国家になった」例がいくつも挙げられている。
逆に、「権力者が独占していた富を広く国民に分配するようになった」例は数えるほどしか挙げられていない。

産業革命当時のイギリスが当時としては比較的自由な競争を認められる社会だったのは、ペストや黒死病のおかげで労働人口が減ったからでもある。

かつては植民地だったアメリカやオーストラリアは自由競争社会になったが、これもたまたま略奪するような資源が乏しかったから。
もしも当時のアメリカや土地が資源にあふれる魅力的な土地だったなら、軍事力を持った連中が押し寄せてあっという間に富を独占していたことだろう。
だが幸か不幸か大した資源がなかったから、移住してきた人々は少ない資源を効率的に使うために各々の自由を認める必要があった。

今ある自由な競争は、決して理念によって達成されたわけではない。
人間は本性的に奪いたいのだ。

他者から収奪できないような状況のときにだけ、手を取り合ってお互いに発展することをめざすのだ。



二十一世紀の日本に暮らしていると、まるで自由競争社会があたりまえのようにおもってしまう。
だがこれは歴史的にも世界的にも例外的な状況なのだ。

油断していると、すぐに一握りの権力者が富を独占する国家になってしまう。
いや、もう収奪的制度になりつつあるかもしれない。

権力者に近しい企業や個人は優遇され、税金を優先的に流してもらえる状況だもんな。

日本の経済力がはっきりと衰退しつつあるのがなによりの証拠かもしれない。


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2020年7月21日火曜日

錦を着てても


街を歩くときはたいてい「ホームレスになったらどこで暮らそう」と考えながら歩いているんだけど、現代日本の街ってホームレスが暮らす場所がぜんぜんないよね。
しかも年々少なくなっていっている。

昔は、もっとホームレスが暮らせる場所があった。
公園にはベンチがあり、雨をしのげる東屋があった。河原にはホームレスのテントがあり、橋の下にも住処があった。

今はない。
公園のベンチは数十センチ間隔で手すりをつけて寝ころがれないようになり、東屋は撤去され、橋の下は立ち入れなくなった。

今のところぼくはホームレスじゃないから実害はないんだけど、でもやっぱり嫌な感じだ。

何が嫌って、行政の努力の方向が
「支援を充実させて貧困に苦しむ人を減らそう」
ではなく
「ホームレスの居場所を奪おう」
という方向に向かっていることだ。

お金がなくて困っているなら、収入を増やす方法を考えなくちゃいけないのに、「いかに金をかけずに貧しく見えないよう取り繕うか」に腐心している。
ハリボテの家を建てるとか、びんぼっちゃまスタイルの見えるところだけきれいな服を着るとか、「なんとか金をかけずに金を持っているように見せかける」ために努力している。

貧しい。
性根が貧しい。
「襤褸を着てても心は錦」という言葉があるが、その逆で「錦を着てても心は襤褸」だ。

2020年7月20日月曜日

自分を捨てること


結婚するとき、高校時代の恩師から

「結婚生活をうまくやっていく秘訣はただひとつ。自分を捨てること。夫、父親がなにかを要求するなんておこがましいとおもえ」

とアドバイスをもらった。

自虐ジョークだとおもって「あざーっす」とへらへら聞き流していたのだが、最近になってその言葉が身に染みる。
さすがは恩師の言葉だ。
「親の意見と冷や酒は後で効く」という言葉があるが、恩師の言葉も十年してから効いてくる。



ほんと、父親が家庭内でうまくやっていく秘訣は「自分を捨てる」に尽きる。

趣味は捨てる。余暇も捨てる。仕事の付き合いも極力捨てる。欲も捨てる。プライドも捨てる。
仏教でいう「無我」の境地だ。

子どもに誘われたら遊ぶ。
妻に何かを命じられたら何をしててもすぐ行動する。
子どもが食べたいといったら自分の分を分けあたえる。
早めに謝る。
子どもの生活リズムにあわせて生活する。

これがうまくいく秘訣だ。
かんたんだ。自分を捨てるだけ。

いや慣れるまではかんたんじゃなかったけど。



おもえば、ぼくの両親もそうだった。
母は家事育児に明け暮れていた。
父は仕事人間だったけど休日も「自分のしたいこと」などしていなかったようにおもう。
朝は犬の散歩に行き、町内会の草むしりに参加し、車を運転して家族を買い物に連れていき、庭仕事をやり、家の掃除や洗車をし、子どもと遊び、家族を外食に連れていっていた。
父にも母にも「自分の時間」なんてほとんどなかったんじゃないかな。

当時のぼくはそれがあたりまえだとおもっていなかった。
親もつらいななんて考えてなかった。どの親もそんなもんだろうとおもっていた。

なぜなら、父も母も、それなりに楽しそうにしていたからだ。
もちろん不機嫌になったり疲れた様子を見せることはあったけど、総じてごきげんだった。

なかなかやるじゃないか。
数十年前に戻って両親を褒めてやりたくなる(何様だ)。



自分を捨てること。
それなりにごきげんでいること。

ただそれだけ。
かんたんで、むずかしいことだね。


2020年7月15日水曜日

作者の人生を投影するな


純文学は作家そのもの、みたいな扱いされるじゃない。
作品から「作家の人生を乗せたもの」「魂を込めたもの」を読み取ろうとするでしょ。

「漱石が『こころ』を執筆した背景には私生活で〇〇だったことがある」
「幼少期のこの経験が太宰に『斜陽』を書かせることになった」
とか。

そりゃあ作者に起こったどんな出来事だって「作品にまったく影響を与えてはいない」とは言い切れないけど、考えすぎじゃない?
エッセイや自叙伝、私小説ならまだわかる。
でもフィクション作品は作者とはぜんぜん別の存在だろう。


たとえばさ。
メガネを見て、
「このフレームは小学生のときに都会から田舎に引っ越していじめられた職人にしか出せないしなりぐあいだ」
なんて言う?
言わないよね(もしメガネ業界で言ってたらごめんなさい)。

「このときトヨタは労働組合の力が弱まっている時期だった。この時期に発表されたカローラのボディのラインの自身の無さにはデザイナーの[唯ぼんやりとした不安]が投影されている」
なんて品評もしないよね?

「作品は作者の子どものようなものだ」という人もいるが、子どもだって親とは別人格だ。
子どもを見て親の内面を推しはかろうだなんておこがましい。



他のジャンルはどうだろう。

たとえば絵画。
絵画も人生と重ねられやすい。
このときのゴッホの心境が……なんて言われる。

しかしイラストや漫画だと、基本的に「作品=作者の全人生」にはならない。
たとえば『コボちゃん』なんて40年近くも連載していて植田まさし氏のライフワークと言ってもいいぐらいの作品だけど、コボちゃんから植田まさし先生の心情や人生を読み取ろうとする人はまあいない。
作品は作品、作者は作者だ。

書道や生け花、陶芸のような「芸術」作品は、作者と同一視されそうな気がする。

かといってダンスなんかは、そこで語られるのはあくまでパフォーマンスの良し悪しだ。
その裏に演者の人生そのものまでは見いだされないんじゃないかな。

でも落語だと「古今亭志ん生の生きざまが芸に表れている」なんてことを言われる。
ボーダーがよくわからない。


音楽はどうだろう。
シンガーソングライターの場合はわかりやすい。
尾崎豊や中島みゆきやさだまさしの歌には歌い手の全人生が投影されている、ような気がする。
でもまあこのへんは人によるな。

作詞作曲とボーカルが異なる場合は、まず作者の人生を投影しない。
秋元康が手がけたAKB48の曲を聴いて「この曲のBメロには秋元先生の学生時代にモテなかった記憶が濃厚に表れている」なんてことはふつう言われない。
またアイドルの歌にはアイドルたちの心情がある程度は表出しているのだろうが、それはあくまで「表現」だ。「人生そのもの」とまでは言われない。

芸術品であっても、「作品=作者そのもの」となるかのボーダーは微妙だ。


工芸品であっても人生が投影されるものがある。
たとえば仏像。
仏師の生き様みたいなものが仏様に宿りそうな気がする。
仏像にかぎらず、イエス像でも日本人形でも、手作りの人形は作者の全霊がこもっていそうにおもえる。
もしかしたらイスラム教が偶像崇拝を禁止しているのは、それがアッラー以外の存在(作り手)への崇拝につながるからかもしれない。

しかし人形でも作者の人生が投影されては困るものもある。
ラブドール(ダッチワイフ)とか。
人形に制作者のおじさんの人生が感じられてしまったら台無しだ。

料理もいやだな。
料理人がこれまで歩んできた人生や過去のトラウマなんかが料理に投影されているとおもったら食欲がなくなる。



距離の問題かもしれないな。

ちょっと距離を置いて鑑賞するものは、作者が投影されていてもかまわない。
でも近いものはいやだ。
口に入れるものと身につけるものとかは、作者が投影されてほしくない。

「開発職の人たちがこれまでの人生すべてを注ぎこんだ医薬品」とか、めちゃくちゃ効きそうだけど、効きすぎそうで逆にいやだもんね。