2020年5月26日火曜日

ツイートまとめ2009年9月



命あってのものだね

1パック

ステータス

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うこそいら

不要急

この手で

庶民

深い

むちむち

冥途の土産

バグ

不審者

言い伝え

広報


例外ホームラン

ブックオフ

ピラミッド

初手

2020年5月25日月曜日

【読書感想文】現生人類は劣っている / 更科 功『絶滅の人類史』

絶滅の人類史

なぜ「私たち」が生き延びたのか

更科 功

内容(e-honより)
700万年に及ぶ人類史は、ホモ・サピエンス以外のすべての人類にとって絶滅の歴史に他ならない。彼らは決して「優れていなかった」わけではない。むしろ「弱者」たる私たちが、彼らのいいとこ取りをしながら生き延びたのだ。常識を覆す人類史研究の最前線を、エキサイティングに描き出した一冊。
人類700万年(サヘラントロプス・チャデンシス~ホモ・サピエンス)の歴史を駆け足で走り抜ける一冊。
ものすごくわかりやすくまとめられていて、かつ随所に挟まるトピックスもおもしろい。
人類史の入門書としてこれ以上ない(といっても他の本をほとんど知らないけど)本だ。


ぼくも学生時代に歴史の授業の最初のほうで人類の歴史を習ったはずだが、ぜんぜんわかっていなかった。
アウストラロピテクスとかジャワ原人とかクロマニオン人とかネアンデルタール人とかの名前をおぼえていただけ。
恥ずかしい話、ぼくはネアンデルタール人がヒトになったんだとおもっていた。我々の直系の祖先なのだと。
でもそうではなかった。ネアンデルタール人とヒト(ホモ・サピエンス)は別の種だったのだ。同時代に生きていたが、ヒトはその後繁栄し、ネアンデルタール人は滅びた。いってみればライバルのような存在だったのだ。
人類史をやっている人からしたら常識なんだろうけど、そんなことすらわかっていなかった。



「万物の霊長」という言葉が表すように、ぼくらは今のヒトがあらゆる生物の中でいちばん優れている、いちばん賢い存在だと考えてしまう。
賢かったからこうして地球上で繁栄しているのだと。優れているから今こうして快適な暮らしを送っているのだと。

ところが人類の歴史を見てみると、その考えが誤りだということがわかる。
 現在の日本でも、クマが山から人里へ下りてくることがある。でもそれは、クマが希望にあふれて、人里で美味しいものをたくさん食べようと思って、下りてきたわけではない。きっと山の食料が少なくなり、空腹でたまらなくなったのだ。それで仕方なく人里まで下りてきたのだ。ふつう動物は、食べるものがたくさんあって住みやすい場所があれば、その場所を捨てたりしない。いつまでも、そこにいようとするはずだ。今までいた場所を捨てて、他の場所へ移動するときは、そこにいられなくなった理由があるのだ。
 初期の人類が直立二足歩行を始めたときも、同じような状況だったかもしれない。そのころのアフリカは、乾燥化が進んで森林が減少していた時代だった。類人猿の中にも、木登りが上手い個体と下手な個体がいただろう。エサがたくさんあれば、少しぐらい木登りが下手でも困らない。しかし、森林が減ってくると、そうはいかない。木登りが上手い個体がエサを食べてしまうので、木登りが下手な個体は腹が空いて仕方がない。そうなると、木登りが下手な個体は、森林から出ていくしかない。そして、疎林や草原に追い出された個体のほとんどは、死んでしまったことだろう。でも、その中で、なんとか生き残ったものがいた。それが人類だ。
 草原で肉食獣に襲われたら逃げ場がない。でも疎林なら、なんとか木のあるところまで逃げられれば、木に登って助かるかもしれない。森林を追い出された人類は、生き延びるために疎林を中心とした生活を始めたと考えられる。
初期の人類は猿の中で劣った存在だったのだ。
劣っていたから競争に負けて森林から出ていかざるをえなかった。
ところが走るのも遅く、強い武器も持っていなかった人類は、森林を追いだされたらとても生きていけない。

だから群れて暮らす必要があった。
群れれば敵に気づきやすくなるし、襲われたときも食べられる可能性が減る。
そうやって群れて暮らすうちにコミュニケーション能力が発達した。

また外敵や厳しい環境から身を守るために道具をつくる必要も生まれた。
もしも人類が強かったら、今頃まだ森の中で暮らしていたことだろう。



ヒトは人類以外の動物より劣っていただけでなく、他の人類よりも劣っていた。
 ネアンデルタール人は私たちよりも骨格が頑丈で、がっしりした体格だった。その大きな体を維持するには、たくさんのエネルギーが必要だったはずである。ある研究では、ネアンデルタール人の基礎代謝量は、ホモ・サピエンスの1.2倍と見積もられている。基礎代謝量というのは、生きていくために最低限必要なエネルギー量のことで、だいたい寝ているときのエネルギーと考えればよい。つまりネアンデルタール人は、何もしないでゴロゴロしているだけで、ホモ・サピエンスの1.2倍の食料が必要なのだ。もしも狩猟の効率が両者で同じだとしたら、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより、1.2倍も長く狩りをしなくてはならない。

(中略)

 昔は、よかったのかもしれない。狩猟技術が未熟なころは、力の強いネアンデルタール人の方が、獲物を仕留めることが多かったのかもしれない。行動範囲の狭さを、力の強さで補って、ホモ・サピエンスと互角の成績をあげていたかもしれないのだ。
 しかし、槍などの武器が発達して、力の強弱があまり狩猟の成績に影響しなくなってくると、状況は変わった。力は弱くても、長く歩けるホモ・サピエンスの方が、有利になったのだ。その上、もしも狩猟技術自体もホモ・サピエンスの方が優れていたとしたら、両者の差は広がるばかりだ。力は強くても、長く歩けず、狩猟技術の劣るネアンデルタール人は、いつもお腹を空かせていたのではないだろうか。
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより体格が良かったらしい。しかも脳の大きさもネアンデルタール人のほうが大きかった(ただし脳が大きいから賢いとは言い切れないが)。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より劣っていたからこそ、よりよい道具を作ることが求められた。
そうして道具を生みだし、またホモ・サピエンス間のコミュニケーションによって道具の作り方を伝えていった人類は、総合力の差でネアンデルタール人を追いぬいた。

またネアンデルタール人は体格が良かったからこそ、その大きな身体を維持するのにより多くのエネルギーを必要とした。
食糧が豊富にあるときはいいが、飢餓期には身体が小さいほうが有利だった。

 それにしても、昔の人類の脳は大きかった。いや、大き過ぎたのかもしれない。ネアンデルタール人の脳は約1550ccで、1万年ぐらい前までのホモ・サピエンスの脳は約1450ccだ。ちなみに現在のホモ・サピエンスは約1350ccである。時代とともに食料事情はよくなっているだろうから、私たちホモ・サピエンスの脳が小さくなった理由は、脳に与えられるエネルギーが少なくなったからではない。おそらく、こんなに大きな脳は、いらなくなったのだろう。
 文字が発明されたおかげで、脳の外に情報を出すことができるようになり、脳の中に記憶しなければならない量が減ったのだろうか。数学のような論理が発展して、少ないステップで答えに辿り着けるようになり、脳の中の思考が節約できたのだろうか。それとも、昔の人類がしていた別のタイプの思考を、私たちは失ってしまい、そのぶん脳が小さくなったのだろうか。
 ただ想像することしかできないが、今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。それが何なのかはわからない。ネアンデルタール人は何を考えていたのだろう。その瞳に輝いていた知性は、きっと私たちとは違うタイブの知性だったのだろう。もしかしたら、話せば理解し合えたのかもしれない。でも、ネアンデルタール人と話す機会は、もう永遠に失われてしまったのである。
われわれの脳はネアンデルタール人より小さいばかりでなく、昔のホモ・サピエンスと比べても小さくなっているのだそうだ。

ここに紹介されているのはあくまでひとつの説だが、文字という記録装置が生みだされたことで大きな脳を必要としなくなったという説はおもしろい。
だとしたら、この先どんどん脳は小さくなっていくのではないだろうか。
ここ百年間で計算機やコンピュータなど外部のOSやメモリが次々に生まれたのだから。


我々は有史以来もっとも優れた生物だとおもっているが、とんでもない。
もしかしたら史上まれにみるほど、生物として劣った存在なのかもしれない(なにしろ餌をとらなくても敵から逃げなくても生きていける生物なんて他にいないのだから)。

今の人間はたしかに地球上で支配的なポジションにいる。
でもそれは我々が優れているからではなく、たまたま環境に適応できた、運がよかっただけなのだ。

もしも地球上がもっと過ごしやすい環境だったら、覇権を握っていたのはホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だったかもしれない。
いやそれどころか恐竜が跋扈していて哺乳類自体が生態系ピラミッドの下のほうでひっそりと生きていた(あるいは絶滅していた)かもしれないね。


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2020年5月22日金曜日

【小説】肥満禁止社会


いつものように改札に定期を入れるとブザーが鳴った。
そうだった、今日からだった。すっかり忘れていた。カードケースを取りだし、ICカードを押しあてる。
今日から二倍の料金か。ため息をつく。だが仕方がない。

改札を抜け、階段をおりる。膝が痛むので手すりにつかまりながらゆっくりと。他の乗客たちはエスカレーターでホームへとおりてゆく。必死に階段をおりるおれのことを笑っているように見える。ちくしょう、ほんとはおれのようなやつこそエスカレーターを必要としているのに。

地下鉄に乗りこむとちょうど座席が空いていた。一瞬躊躇するが、二倍の運賃を払ったことをおもいだして腰をおろした。二倍の運賃を払っているのだから当然座る権利があるはずだ。
ほっと一息ついて鞄から文庫本を取りだしたのもつかぬま、老婆から声をかけられた。
「ちょっと、座るんだから立ちなさいよ」
さっき扉が閉まる直前に駆けこんできたババアだ。

昨日までならおとなしく立ちあがっていたところだが、今日はちがう。なにしろ運賃二倍なのだ。
「わたしは二倍の運賃を払っているんですよ。当然座る権利もあるはずです」
「はあ? 何言ってるのよ。そんなの関係ないでしょ。デブに座る権利があるわけないじゃない」
周りの乗客がこちらを見る。一人の中年男がこちらに近づいてきた。まるでこうなるのを待っていたと言うような薄笑いを浮かべて。
「まあまあ。こちらの女性に席を譲ってあげましょうよ。こちらは細身の方なんですから」
ババアはほれみなさいよという顔でこちらを睨みつける。だがおれも黙ってはいられない。
「しかしですね。今日から体重100kg以上は運賃が二倍になるんですよ。二倍払っているんだから当然座席を二人分使う権利もあるでしょう」
「運賃が二倍なのは重量が二倍だからです。それで得られるのは乗る権利であって座席を二人分占める権利ではありませんよ。ほら」
男は反論を予想していたかのようにタブレットの画面を見せてきた。新聞社のサイトが表示されており『今日から施行! 肥満乗客対策法に関するQ&A』という記事があった。記事の内容はちらりと見ただけだが、どうやらおれのほうが分が悪いようだ。あきらめて立ちあがる。
ババアはわざとらしく座席に脱臭スプレーを吹きかけてから腰をおろした。その隣にスペースはあるがもちろんおれは座れない。仮に座れたとしてもあのババアの隣に座るのはごめんだが。

事の成り行きを見ていた乗客数人がスマホを取りだして何やら入力しはじめた。きっとSNSで「デブが迷惑行為!」的なことを発信するのだろう。
おまえらも全員デブになれ。心のなかで呪いをかける。

おれはスマホを取りだして、検索窓に「肥満乗客対策法」と打ちこんだ。
すぐにさっきのサイトが見つかった。じっくり読んだが、やはり肥満に座る権利はないらしい。「立つことでカロリー消費を増やし、肥満から解放されることが狙い」なんて書いている。まるでおれたちのために立たせてやっている、とでもいうように。
嘘つけ。「デブはじゃま」が本音のくせに。

ここ数年の肥満バッシングはすさまじい。
ポリティカルコレクトネスだのなんだの言ってるくせに、デブだけは差別してもよいという風潮だ。昨年の流行語大賞には「デブハラ」がトップ10入りした。デブは存在自体がいやがらせなのだそうだ。
おかげですっかり肩身が狭くなってしまった。狭くないけど。

肥満乗客対策法についてもおれは納得していない。
「重量が二倍であれば運賃も二倍にするのは正当な料金体系だ。郵便物だって重さに応じて値段が変わるじゃないか」というのが賛成派の主張だ。
だったら体重六十キロの人間は四十キロの人間の五割増しにしろよ。幼児だって体重に応じて料金負担しろよ。おれはそうおもうが、肥満者の意見は通らない。
結局みんな太ったやつを差別したいだけなのだ。喫煙者と太った人間はどれだけ差別してもいい。それが世の風潮なのだ。

きっかけは数年前だった。
SNSで作家が書いた「デブのせいで六人掛けの座席に五人しか座れない」という投稿が爆発的に拡散された。
それをきっかけに「楽しみにしていたライブなのに隣がデブだったせいで窮屈だった」「デブがいるとエスカレーターがスムーズに流れない」だのといった声が広がりはじめた。あげくには「高速道路が渋滞するのはデブのせいだ」なんて言いがかりとしか思えない投稿もあったが、反論よりも支持のほうがずっと多かった。
ちょうど同じ頃に厚生労働省が「医療費が増えているのは肥満のせい」「介護職の離職率が高いのは肥満老人の介護負担が大きいから」なんてデータを発表して、一気に肥満バッシングムードが高まった。国民からの批判をかわすためにおれたちをスケープゴートにしているだけなのに、人々はかんたんに乗せられた。
今じゃどの鉄道会社も「肥満の方は標準体型の方に席をお譲りください」とアナウンスをしている。肥満禁止車両までつくられた。まるで痴漢のような扱いだ。

医療費も上がった。100kg以上は保険証を持っていても6割負担。それでも「医療費増大は肥満のせい」という声は収まることがない。
肥満のほうが早死にするから生涯医療費は少なくて済む、なんてデータを上げて擁護する声もあったが(もちろん擁護者も肥満なのだろう)、焼け石に水。世間が求めているのはデータではなくサンドバッグなのだ。

言いたいことはたくさんある。
好きで太っているんじゃない。遺伝子のせいなんだ。人よりよく食べるということはたくさんお金を使っているということだ。消費税もいっぱい払ってるんだ。8%の商品ばっかりだけど。経済を回して税金負担しているんだ。蔑むな、むしろ称えよ。
でも言わない。
世間が求めているのはもの言うデブではなくもの食うデブなのだ。


2020年5月21日木曜日

【読書感想文】復興予算を使いこむクズ / 福場 ひとみ『国家のシロアリ』


国家のシロアリ

復興予算流用の真相

福場 ひとみ

内容(e-honより)
なぜ復興予算が霞が関の庁舎や沖縄の道路に使われたのか―流用問題をスクープした記者が国家的犯罪の真相に迫る!小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作。

伊兼 源太郎『巨悪』という小説に復興予算流用の話が出てきて、興味を持ったので買ってみた。

2011年の東日本大震災の復興予算として5年で19兆円の国家予算が組まれ、そのうち10.5兆円が増税によってまかなわれることになった。
昨年の消費税増税は大きな話題になったが、そのときの増税はさほど大きな話題にならなかったはずだ。ぼくもニュースで見たが「まああれだけの震災、復興には途方もない金がかかるだろうから仕方ないな」とおもった記憶がある。

ところが。
復興予算はじっさいにどう使われたのか。
――目を疑った。復興に関する事業だけでまとめた予算書のはずなのに、復興と関係のない事業のオンパレードではないか。これが本当に復興予算なのだろうか。

内閣府
「金融庁職員の基本給」5205万円
「子供のための金銭の給付」(子ども手当)240万円
「共済組合負担金」1006万円うち「長期負担金」(年金)に691万円

文部科学省
「国立大学運営費交付金」(北海道大~琉球大まで)56億5484万円

法務省
「検察運営費」2527万円

外務省
「アジア大洋州地域外交」4382万円

財務省
「荒川税務署他2件の庁舎整備」5億3384万円

厚生労働省
「日本社会事業大学」(東京都清瀬市)の改修費用3億2293万

国土交通省
「小笠原諸島の振興開発事業費」6億8000万円
「北海道開発事業費」118億8150万円

防衛省
「航空機購入費」25億484万円

 ぱらぱらと一覧するだけでも、北海道や沖縄、小笠原諸島と、事業名に記載された地名は、およそ被災地からかけ離れた、無関係な地名ばかりだった。そのほかも、被災地や復興とは、見るからに関係のなさそうな事業ばかりが羅列されている。
ひどい。
めちゃくちゃだ。復興予算がわけのわからないところに使われている。
国民が「被災した人を救うためなら仕方ない」と自らも苦しいのをこらえて受けいれた増税分が、防衛省の航空機の購入費に使われているのだ。大犯罪じゃないか……というのがふつうの感覚だろう。

ところがこれが犯罪じゃないのだ。
「耐震工事」だとか「復興を世界にアピールする」などの名目さえ挙げれば、まったく検証されることもなく復興予算を使えたというのだ。信じられない。
理屈と膏薬はどこにでもつく。そんな理屈は何の意味もない。

百歩譲って、被災地の復興に使って余ったから他の用途に使わせてもらったというならまだ理解はできる。
それでも許せんけど。
だが事実はもっとひどい。
 前述の通り、復興交付金は、もともと被災した地方自治体が「従来の補助金のような細かい制限や縛りのない、自由に使える財源が欲しい」と要望して実現した予算で、初年度は3次補正で1兆5600億円が計上された。
 この復興交付金の1次配分額が公開された2012年3月2日、交付対象となる被災地ではどよめきが走った。市町村が申請した額のわずか6割程度しか、交付が認められなかったからだ。
 石巻市はこの復興交付金に防災無線整備事業を要望したが、「緊急性が乏しい」と配分から外れていた。宮城県の栗原市、大郷町、加美町などは、配分額はゼロだった。
「復興庁ではなく『査定庁』になっているのではないか」
 宮城県庁で開かれた記者会見で、村井嘉浩知事は怒りを露わにした。
 それも無理はない。宮城県では、津波浸水域の県道整備などは交付金が一切認められず、ゼロ回答だったからだ。知事は、「前に進もうとしているのに、国が後ろから袖を引っ張っている」と強い不満を表明した。
被災した自治体にはなんのかんのと理由をつけて金を渡さず、一方で国家事業であればクールジャパンだのスカイツリーだのわけのわからぬ事業にじゃぶじゃぶ復興予算を使う。

東北では仮設住宅に住んでいたり、元の生活がまったく戻らない人も大勢いる中で、復興予算が「国会議事堂の電灯をLEDに変える」なんてことに使われていたのだ。

許せない。
人でなし、という言葉が頭に浮かんだ。

この予算案を認めた人間は、法律的に問題がなければセーフ、という考えで動いたんだろうか。
でも地震で深刻な被害にあった地域の復興を後回しにして復興予算で国会議事堂の電灯をLEDに変える、なんてまともな人間なら誰だってやっちゃいけないことだとわかる。
法律に違反しているかいないかの問題じゃない。人間としてぜったいにやっちゃいけないことだ。
風上にも置けない。

でもそれが堂々とおこなわれていた。
一件二件ではない。いろんな省庁でいろんな名目で使われていた。

利権の奪いあい、省庁間の綱引き、天下り先の法人への便宜。そんなくだらない理由で、復興予算が使われた。



 被災地より国の施設が優先されたのには、霞が関の事情があった。老朽化したり、建て替え計画のあった国の行政施設は、財政難のあおりで歳出削減される傾向にあったため、改修計画があっても後回しにされていた。
 そこに現われたのが、復興特別会計だった。歳出に上限のある一般会計とは異なり、「防災」というキーワードに当てはまれば、打ち出の小槌のように予算が出るという願ってもない新しい財布が登場した。復興予算が被災地外でも使えることに喜んだ各官庁がここぞとばかりに、国の施設を最優先して復興予算に群がったのである。
 もちろん、耐震性の低い施設の改修をすることは、必要なことだ。しかし、被災地にいち早く復興予算が行き渡っているとは言えない状況で、被災地を置き去りにしたままで、被災地とは関係のない場所に多くの復興予算が投じられているのは、優先順位を間違えているとしか言えないだろう。
こんなの、詐欺の中でも相当悪質なものだ。
「投資話を持ちかけて100万円をだましとる」と「孤児のための募金として集めた100万円をふところに入れる」だったら、ほとんどの人は後者のほうがより悪質だと感じるだろう。被害額は同じでも。
人の善意につけこんで金をだましとるなんてクズ中のクズのすることだ。
復興予算の流用はそれと同じだ。いや、税金という形で強制的にとっている分、より悪質かもしれない。

そんなクズ中のクズ行為が各省庁でまかりとおっていて、しかも誰も罪をつぐなっていない。罪を罪ともおもっていない。



復興予算が他の用途に使われていることが明らかになり、大きな問題になった。

(だがはじめはメディアも見て見ぬふりをしていた。復興予算から新聞やテレビへの広告費も出ていたので、彼らも流用の利益を享受していたのだ。だから大きな声では非難できなかったのだろう)

当時下野していた自民党は、政権与党だった民主党の責任だとして強く責め立てた。あたりまえだ。
ところが。
 自民党政権が誕生して以降は、アベノミクスや国土強靭化による景気回復への期待感が注目された。一方で復興予算の流用は、民主党政権時代の負の遺産として過去のものとされ、ほとんど話題に上らなくなった。こうして、新聞・テレビ等メディアからの批判も次第にトーンダウンしていく。
 そして、奇妙なことが起きる。
 凍結されたはずの4号館の改修について、2013年度予算の一般会計「耐震対策など施設整備費」名目として、17.5億円の予算が復活したのだ。同年9月には入札も無事終わり、工事が始まった。何の議論もないままに、である。
 つまり、自民党が「国土強靭化」と題する公共事業復活を宣言するなかで、「復興予算流用」として批判された4号館の改修は、しれっと復活したわけだ。
 4号館だけではない。復興予算からの流用と批判された復興や防災を名目にした公共事業は、政権交代によって大手を振って認められるようになった。
野党のときは民主党を攻撃する材料に使った自民党は、自分たちが政権をとった途端に復興予算を流用させた。

そもそも復興予算を他の用途に使えるようにしていたのは自民・公明のはたらきかけによるものだったのだ。
 実は、政府・民主党が初めに提案していた政府案は、復興の範囲を被災地に限定していた。
 同法案は、おもに民主党政調を中心に作られていたもので、当時の民主党政調は、玄葉光一郎議員など被災地議員が中心にいたこともあってか、この時点では、あくまで被災地を前提として考えていたことが窺える。
 ところが、当時野党であった自民党がこの案の破棄を要求する。自民党が対案として提出していた法案の趣旨は、政府案の復興対策本部の設置では十分に機能しないとして、もっと迅速に強力な権限を持つ「復興再生院」の設立を求めていた。
 この法案破棄の要望を、政府はあっさりと呑んでしまう。こうして、修正案は3党合意(民主党、自民党、公明党)を経て6月20日に成立した。
 しかし、最終的にまとまった修正案を見てみると、自民党が提案していた復興再生院構想が受け入れられたわけではなかった。その代わりに自民党の要望として何が受け入れられたのかというと、それは被災地外への流用であった。
自分たちが「復興予算は他の用途にも使えるようにしろ!」と言っておきながら、他の用途に使われていることが明るみに出て世論の反発を招くと、世間と一緒になって政府・民主党を攻撃する。
そして自分たちが政権を奪還すると、しれっとまた他の用途に流用する。とんでもない悪党だ。

民主党は無能だし自民公明は邪悪。予算の中身を見ずに法案を通した他の国会議員も怠惰。

関わった人間はみんなクズだが、この件でいちばんのクズは予算を他の用途に使えるような文言をねじこんだ官僚だ。
国会議員が無能だったからうまく利用されたのだろう。



胸糞悪くなる記述ばかり。

だが、ちょっとクールダウン。
「復興予算を他の用途に使った政治家、官僚はクズだ」と高みから非難するのはかんたんだ。

けれど、自分が中央省庁にいて同じ立場にあったらどうしただろう。
「これができたら仕事がうまく進むのにな。でも予算がおりないんだよな」と常々おもっていることがある。
「復興予算ならほとんど審査なく予算がおりるよ」という話を耳にする。
さすがにそれはまずいんじゃないの、と一応はおもう。
「他の省庁でもみんなやってることだよ」と言われる。
「『クールジャパンによる日本ブランド復興経費』や『東京スカイツリー開業前プレイベント』や『途上国への援助』にも復興予算は使われたんだよ。あんたんところが申請しなかったらもっとどうでもいい事業に使われるだけだよ」と言われる。

それでも「いや、ダメなものはダメです! 人の道に外れてることですよ!」と上司に対して言えるだろうか。

……たぶん無理だ。
積極的に「申請しよう!」とまでは言わなくても、隣の人が申請しようとするのを止めることまではしない。

結局、ぼくも同類なのだ。
立場が同じなら同じようなクズ行為をはたらいた。


結局、これこそがこの問題の本質なのだ。

誰かひとり巨悪がいて「復興を口実に税金を好き勝手使ってやろうぜ!」と企んだわけではない。
「どうせ被災地にはすぐ渡らないんだし。だったらこっちの必要な事業で使おう」
「あっちの事業で使うんならこっちで使ったっていいよね」
「べつに私腹を肥やすために使うんじゃないんだし。国の事業なんだし。それで国が豊かになれば被災者にとっても利益になるし」

というちっちゃなズルの積み重ねで、何兆円もの税金が消えたのだ。

なんとも日本的な悪事ではないだろうか
官僚主導で罪の意識もないまま堂々と悪事をはたらき、ばれても誰も責任をとらない。方針を改めもしない。そのうちみんな忘れてしまう。
被災地は復興しないまま、復興予算だけがどんどん減っていく。

この件、今なお誰も責任をとっていない。
当時の与党だった民主党は下野したが、裏で糸を引いていた自民公明と官僚は今も国の中心でのさばっている。

さて今。
コロナウイルス騒動でたいへんな状況になっている。
金銭的な被害の大きさで言えば東日本大震災以上だろう。

もうちょっとしたら
「コロナで被害を受けた人たちを救うために財源が足りません!
 増税してみんなで苦しみを分かちあいましょう! 反対するやつは被害を受けた人が苦しんでもいいっていうのか! 絆!」
なんてことを言いだすやつが出てくるんじゃないだろうか。
で、そのお金がクールジャパンやら戦闘機購入やら公務員宿舎やらに使われるんじゃないだろうか。
今度こそ、ちゃんと監視しておかないといけない。

2020年5月20日水曜日

【読書感想文】今こそベーシック・インカム / 原田 泰『ベーシック・インカム』

ベーシック・インカム

国家は貧困問題を解決できるか

原田 泰

内容(e-honより)
格差拡大と貧困の深刻化が大きな問題となっている日本。だが、巨額の財政赤字に加え、増税にも年金・医療・介護費の削減にも反対論は根強く、社会保障の拡充は難しい。そもそもお金がない人を助けるには、お金を配ればよいのではないか―この単純明快な発想から生まれたのが、すべての人に基礎的な所得を給付するベーシック・インカムである。国民の生活の安心を守るために何ができるのか、国家の役割を問い直す。
日本国憲法第二十五条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と記されている。いわゆる生存権だ。

生存権を保障するためにいろんな制度がある。
その代表的なものが生活保護制度だ。生存権を守るための最後の砦といってもいい重要な制度だ。

ところが生活保護はあまり評判がよろしくない。
不正受給は論外にしても、きちんと受給条件を満たしてもらっている人に対しても風当たりは強い。
やれもらいすぎだ、やれ無駄遣いするな、やれ贅沢するな。
まがりなりにも働いて納税をしているぼくとしても、理性では「生活保護も当然の権利」とわかっちゃいるけど、本音を言うと「働かずに我々の払った税金で暮らしてるんだからつつましく生きろよ」という気持ちもある。

だいたいの人の生活保護受給者に対する気持ちは、あわれみとやっかみと恨みと蔑みの入り混じった複雑なものなんじゃないかな。
初対面の人に「お仕事は何されてるんですか」と訊いて「会社員です」と言われたときと「生活保護で暮らしています」と返ってきたときで同じ表情をすることはできない。

「生活保護を完全になくせ。病気やけがで働けなくなっても地震で財産をすべて失っても自己責任だ! 金がなくなったらのたれ死ね!」
という極端な考えの人はほとんどいないだろう。
そこそこ生きてきた人なら、誰しも努力だけではどうにもならない不幸に陥る可能性があることを知っている。

だけど生活保護受給者に向けられる目は厳しい。
それは「働いていないくせに自分とほとんど変わらない(または自分以上の)暮らしをしているのが気に入らない」に尽きるとおもう。

たとえば生活保護受給者がぼろぼろのアパートで一日一食、家財道具は布団一枚きりという暮らしをしていたら誰も目くじらを立てない。
テレビとスマホを持って寿司を食ったりパチンコをしたりしているから白い目で見られるのだ。
 要するに、日本の一人当たり公的扶助給付額は主要先進国のなかで際立って高いが、公的扶助を実際に与えられている人は少ないということになる。これは極めて奇妙な制度である。日本に貧しい人が少ないわけではない。同志社大学の橘木俊詔教授は、生活保護水準以下の所得で暮らしている人は人口の一三%と推計している(『格差社会』一八頁、岩波新書、二〇〇六年)。ところが、実際に生活保護を受けている人は二〇〇六年でわずか一・二%である(国立社会保障・人口問題研究所ウェブサイト「社会保障統計年報データベース」第9節「生活保護」の第二七一表「被保護実世帯・被保護実人員・保護率」。埋橋前掲論文との値の違いは調査年の違いによる)。
 私は、日本も、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカのように給付水準を引き下げて、生活保護を受ける人の比率を高くすべきであると考える。これまで日本で奇妙な制度が続いてきたのは、おそらく、高い給付水準のままで実際の支給要件を厳しくし、保護を受ける人の比率を下げていたほうが、給付総額が減るという財政的要請があるからだ。しかし、今後、六十五歳以上の無年金者が続出するなかで、現在の制度は維持できないだろう。六十五歳以上の人は、支給要件の一つである「働けないこと」を容易に証明できるからだ。日本独自の制度をやめて、グローバルスタンダードに合わせるしかないだろう。
日本の生活保護受給額は諸外国と比べて高いのだそうだ。だけどもらっている人は少ない。
それは制度のことをよく知らなかったり、役所の水際作戦で本来もらえるべき人がもらえなかったり、生活保護をもらうのは恥ずかしいという意識があったりするから。

結果、「一生懸命働いている人よりも生活保護をもらっている人のほうが収入が多い」「同じような条件なのに片方は生活保護で月二十万円もらえて片方は〇円」というアンバランスな状況になっている。
これはどう考えたっておかしい。

この不公平をなくすための制度が、ベーシックインカムだ。



ベーシックインカム(以下BI)とは、所得にかかわらず国民全員に一律で同じ額を国家から支給する制度のことだ。

たとえばBIを月七万円としたら、まったく働かなくても月に七万円もらえる。月に十万円稼げば、給与十万円+BI七万円が所得となる(給与からは税金が引かれるが)。
 基本的にすべての人の年間所得は、「自分の所得×〇・七+BI八四万」となる。所得のない人も八四万円の基礎所得を保障されるが、自分の得た所得の三割を課税される。自分の所得が二八〇万円になると、その三割の税=八四万円を取られて、基礎所得と税が一致する。
 以下に示すBIは、結婚や扶養などの有無によらずすべての成人に年八四万円のBIを、各自の銀行口座に振り込むという制度である。配偶者や子どもの扶養控除、基礎控除などほとんどの控除を廃止する。子どもにも三万円のBIをその母親の口座に振り込む。基礎年金は廃止し、BIで代替する。厚生年金は、完全に独立採算制の年金に置き換える。
で、著者はいろんな数字を挙げながらBIの実現可能性について検証している。
あくまで机上の計算だが、結論としては「BIは実現可能」だそうだ。
額にもよるが、月七万円程度であればすぐにでも実現できるようだ。
月に七万円あれば、地方に行けば十分生活していける。ちょっとアルバイトして数万円稼げばほどほどの娯楽も楽しむ余裕も生まれるだろう。

もちろん国民全員に月七万円配るわけだから、国家の支出は増える。
ところがBIを導入すれば削減できる支出も多い。
たとえば生活保護費用は必要なくなる。子ども手当や老齢基礎年金や雇用保険も「生きていくために払っているお金」なので、BIに置き換えることができる。
「仕事を生みだすためだけ」におこなっている公共事業もなくすことができる。環境にもいい。
農業、林業、中小企業などのうち採算を上げられない事業を保護するための補助金も、「その仕事に従事する人を食わせるため」のものなのだから、BIがあれば必要なくなる。
このへんをカットすれば、中間層の税率は今と同程度にしたままでBIを導入できるのだそうだ。


すばらしい。
BIの導入には様々なメリットがある。
ぼくが思いつくだけでも、

  • 貧困が減る。特に本人の責によらない貧困(たとえば子どもの貧困)が減る
  • (今よりは)公平になる(働いている人は全員、働いていない人以上の所得を得られる)
  • 犯罪が減る(食うに困っての犯罪がなくなる。食うために犯罪組織に入る人もいなくなる)
  • ブラック企業が消える(「いざとなったらいつでも辞められる」となれば劣悪な環境で働く人はほぼいなくなる)
  • 医療費も減る(体調や精神が不調になったときに早めに休める)
  • 貧困世帯の労働意欲が増す(今の生活保護受給世帯だと働いて収入を得たら生活保護受給額が減らされるので働いても働かなくても総収入はほぼ変わらなかったりする。BIだと働けば働かないより確実に収入が増える)
  • 少子化対策(収入がネックで結婚、出産を思いとどまっている人が産めるようになる)
  • 経済成長につながる(低所得者にお金がまわればその大半は消費にまわる。また中間層も収入が永遠に保障されているなら貯蓄ではなく消費にお金をまわすようになる)
  • 技術的イノベーションが起きる(生活が保障されればリスクをとって革新的なことに挑戦しやすくなる)
  • 都市への一極集中が緩和される(労働に縛られなくなれば家賃や生活費の安い地方への移住が進む)
  • 行政コストの削減(さまざまな補助金や支援制度をBIに一本化できる)
  • 富の再分配になる(高所得者から低所得者への移転になる)
  • 本当に困窮している人が支援を受ける際に負い目を感じにくい(だって全国民がもらってるんだもん)

いいことだらけじゃないか。
「バラマキ政策」というと非難されがちだけど、それは変な条件をつけたり特定の業界の人にばらまいたりするから不公平で良くないのだ。全員にばらまくのはいたって公平だ。

デメリットについても考えてみる。
よく挙げられがちな反対意見(「財源が足りない」「人々が働かなくなる」など)はこの本の中で反証されているので省略するとして、それ以外でぼくがおもいついたデメリット。

  • 仕事によってはなり手がいなくなるんじゃないだろうか
きついから誰もやりたがらないけど、誰かがやらなきゃいけない仕事ってあるじゃない。たとえば原発事故の除染作業員とか。そういうのって今は「食うに困ってる人」で成り立ってるとおもうんだよね。いいか悪いかはべつにして。
BIによって「食うに困ってる人」がいなくなれば、そういう仕事に従事する人がいなくなるんじゃないだろうか。
賃金を上げればいいのかもしれないけど、それは国家財政の負担が増えるということになるので、今度は財源の問題になる。そこまではこの本では考慮されてなかった。
外国人移民にやらせるというのも人道的にどうなんだという気がするし。

  • 非生産的な仕事の成り手が増える
さっきの話と一緒のことなんだけど、人気の仕事ってあるじゃない。プロスポーツ選手とか歌手とか俳優とかYouTuberとか。
多くの人が目指すけど、食っていけないから大半はあきらめてべつの仕事に就く。
ところがBIがあればいつまででも食っていけるから五十歳になっても夢を追いかけて売れない役者生活を続けることができる。
それが本人にとって幸福かどうかはわからないけど、少なくとも社会にとっては労働力の損失だよね。才能がなくても続けられるってのは。
将棋の奨励会みたいに年齢制限を設けてある業界ならいいんだけどさ。
「BIがあるからまったく働かない」という人はそんなにいないかもしれないけど、「BIがあるから好きなことだけやっていく」人はすごく増えるとおもうんだよね。
やっぱり納税額は減るんじゃないかなあ。

  • 在日外国人への支給
BIの給付対象をどうするか。まあふつうに考えれば自国民全員だよね。
でも日本人なら働かなくても毎月七万円もらえて、日本で働いている外国人からは徴税だけして支給しないってのは不公平な気がする。でもまあそれは現行制度でも同じか。
それより問題は偽装結婚が増えそうなこと。
日本国籍さえ手に入れれば毎月七万円もらえるんだよ。日本人になりたがる外国人がすごく増えるよね。
そしたら、この先結婚する見込みのない日本人が「自分と書類上で結婚できる権利」を百万円で売りはじめたりするとおもう。
BI目当てで集まる人、集める人が増えるとおもうんだよね。日本でだけやればぜったいに。


  • 政府の権力が強くなりすぎる?

これは人によっていいとおもうか悪いとおもうか分かれそうだけど、個人的にはちょっとこわい。
BI導入によって政府は「全国民にお金を与える存在」になる。
もちろんその財源は税金なんだからもらう側が卑屈になる必要はないんだけど、そうはいっても実際問題として「お金を与える側」と「お金をもらう側」だったらどうしても前者の立場が強くなる。
やっぱり財布を握られてるってこわい。政府が誤ったら国民が正さなきゃいけないのに、批判の声が弱まってしまいそうな気がする。


  • 既得権益が失われる

これも人によってメリット/デメリットの評価は分かれることだけど。
いろんな「〇〇控除」「〇〇手当」「〇〇補助金」が廃止されることになれば、当然ながらそこにかかわっていた人の権力が失われる。
「おれの言うことに従ってたら補助金やるよ」と言ってた人が言えなくなっちゃうわけだからね。
完全な公平って権力の入る余地がなくなるんだよね。それってすばらしいことなんだけど、でも今不公平であることで甘い汁をすすってる人は黙ってないだろうね。
消費税に軽減税率を設けることで「政府の言うことを聞く業界は軽減税率の対象にしてやるよ」ってやった(そして新聞業界はまんまと転んだ)ように、権力者は「公平」を嫌うからね。
BI導入にあたっての最大の障壁となるのはここだろうね(そして今の権力が失われるからたぶん実現しない)。


でもBI自体はすごくおもしろい試みだとおもうんだよね。
どっかの自治体とかで社会実験的にやってほしいなあ。海外はやってるとこあるみたいだけど。


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